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2009年10月25日 (日)

光の子どもらしく    エペソ5:8-14

 光の子どもらしくは、神の子どもらしくと置き換えてもほとんど意味が同じであります。もちろん、光と神様は同じではありません。しかし、あえて「光」と言うことによって、私たちのイメージがもっと膨らんできます。みなさんは光と暗やみを比較して、どんなイメージを持たれるでしょうか?光は公明正大という感じがします。一方、暗闇は悪とか不正という感じがします。ところで、みなさんは光の中にいるでしょうか?それとも暗やみの中にいるでしょうか?あるときは光の中、またあるときは暗やみの中という場合もあるかもしれません。第一のポイントは「光の子どもらしく」です。

1.光の子どもらしく

 エペソ5:8-10「あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。──光の結ぶ実は、あらゆる善意と正義と真実なのです──そのためには、主に喜ばれることが何であるかを見分けなさい。」この箇所をよく見ると何と書いてあるでしょうか?パウロは私たちが暗やみの中にいたとは書いていません。なんと、私たち自身が暗やみであったと言っています。何ということでしょう!私たちが暗やみの中にいただけではなく、私たちそのものが暗やみであったということです。それで、今は主にあってどうなったのでしょうか?光となりました。つまり、私たちは、暗やみから光へと質的に変わったということです。だからどうしなさいと言っているのでしょうか?だから、「光の子どもらしく歩みなさい」ということなのです。ここでは、あなたがたは一生懸命がんばって、光になりなさいとは書いていません。主にあって、光になったということです。私たちがイエス様を信じたことによって、化学変化が起きたのです。暗やみから光に変化したんです。これは化学変化というより、奇跡の世界であります。イエス様は弟子たちに対して、何とおっしゃっているでしょうか?マタイ5:14「あなたがたは、世界の光です」と言われました。イエス様も同じように、「あなたがたは光になれ!」とはおっしゃっていません。「光です」とおっしゃいました。私たちがイエス様を信じたことによって、暗やみから光に質的に変えられた。これって、すごいことじゃないでしょうか!「私は一生懸命、光るぞ!」と言わなくても、既に光になっているんです。あとは、だまって輝けば良いのです。

 では、光の結ぶ実は何でしょうか?9節「あらゆる善意と正義と真実です」。よく考えてみますと、善意と正義と真実は、神様が持っておられる性質ではないでしょうか?第一番目、神様は、善意、goodnessそのものです。私たちに最善をなしてくださる恵み深い神様です。善意の反対は悪意ですが、神様は悪意をもって私たちに接してはおられません。でも、私たちはこの地上で「最悪だ!どうしてこんなひどいことが起こるんだ!神様がいるんだったらこんなことは起こらないはずだ!」と思ったことはないでしょうか?この地上、この世は神様から離れています。神様なしで生きようとする人たちで満ちています。もし、本当に神様がおられなかったならば、この地上はとっくの昔に滅びていたのではないでしょうか?神様の善意があるので、保たれていると考えるのが妥当ではないでしょうか?また「最悪だ」と思っていた出来事でさえも、あとから「あれは最善だったんだ」と思えるときがくるのも不思議であります。第二番目は正義であります。義と正義、どこが違うのでしょうか?神の義がこの世おいてなされる、それが正義ではないでしょうか?残念ながら、この世においては、正義よりも不正や不義がまかり通っています。しかし、それは暗やみの出来事です。神様は正義がこの世においてなされることを望んでおられます。第三は真実であります。私たちの心の中には、「多少の嘘があっても仕方がない。嘘も方便」という先入観があるのではないでしょうか?アメリカの文化の中にも、日本の文化の中にもたくさんの嘘があります。私たちは嘘を真実に置き換えていく必要があります。ベン・ウォン師がこのようにおっしゃっています。「私たちは実をならせることばかりに集中します。しかし、実よりも大切なのは根っこです。良い根が、良い実を結ぶのです。そのために土壌を変える必要があります。土壌の中に嘘が80%もあるならば、木も余り育たないし実もほとんど見ることができないでしょう。でも、嘘を真実に置き換えるならばどうでしょう。土壌の中の真実が80%になるならば、木も良く育ち、実もたくさん見ることができるでしょう。私たちの生活の中の嘘を真実に置き換える必要があります。そうするならば、おのずと良い実が結ぶのです。」私たちは神の子どもであり、光の子どもです。私たちは光の子どもとして生きるとき、善意と正義と真実の実が結ばれていくのです。

 私たちは光の子どもとして、暗やみが支配しているこの世において、善意と正義と真実をもって生きるということです。悪意あるところに善意を、不正があるところに正義を、偽りのあるところに真実を持ち込むのであります。このことを準備しながら、「聖フランチェスコも同じような祈りをしているなー」と思い出しました。これは彼の「平和の祈り」の前半の部分です。「神よ、わたしをあなたの平和の使いにしてください。憎しみのあるところに、愛をもたらすことができますように。いさかいのあるところに、赦しを。分裂のあるところに、一致を。迷いのあるところに、信仰を。誤りのあるところに、真理を。絶望のあるところに、希望を。悲しみのあるところに、よろこびを。闇のあるところに、光をもたらすことができますように、助け、導いてください。」まさしく、フランチェスコは、暗くて希望のない世界に、光をもたらすことができるようにと祈っています。と言うことは、私たちは平和の使者なのであります。このように、考えますと、「私たちクリスチャンて、すごい存在なんだなー」と思います。でも、どうして神様ご自身が、光なんですから、ご自分でそうしないんでしょうか?私たちよりも、よっぽど力があって、効果的にできるのではないでしょうか?恐らくこういうことでしょう。神様ご自身は確かに光ではありますが、あまりにも明るい光、善意と正義と真実の極限であります。もし、その強烈な光で私たちが照らされたら、滅びてしまうんじゃないかと思います。不正が根こそぎあばかれ、罪が完全に裁かれたならば、クリスチャンである私たちも生きてゆけません。でも、世の終わり、完全な裁きがなされます。黙示録20章には「大きな白い御座」と書いてあります。白いとは、まばゆい光、神の栄光をあらわしているのだと思います。もし、大きな白い御座に立たされたならば、誰ひとりとして、生きてゆけないでしょう。でも、私たちは贖い主、イエス・キリストが間におられるので、そこは「恵みの御座」なのであります。神様は私たちクリスチャンを用いて、この世のさばきが来るまで、なんとか少しでも明るくしてもらいたい。そのために、あなたがたを世の光として使わす。暗い世界に、善意と正義と真実の光をもたらすようにというのが神様のみこころなのであります。

 先週一週間、振り返ってみて、「自分はこの世に対して、光としての役割を果たしただろうか?」自問自答してみました。月曜日のゴスペルでは、くだらないジョークを少し飛ばしてしまいました。水曜日は日本聖書神学校の朝の礼拝に招かれました。少しは福音の光をもたらすことができたかもしせん?しかし、午後、税金の滞納金を受け取りに来たおばさんに対しては、冷たい扱いをしたかもしれません。エアコンのセールスマンに対してはどうだっただろうか?先週は韓国の衛星放送を録画しました。オンヌリ教会主催の聖会が生放送されていて、1つ1つの集会を録画していました。ところが、木曜日の朝、岩本姉が掃除しながら、リモコンのスイッチを押してしまいました。なんと、途中から映っていません。姉妹が帰ったあとに、「ああー、何でだよー」と叫びました。人には当たらなかったかもしれませんが、あの嘆きと叫びは神様を悲しませたかもしれません。昨日のバーベキューではどうだろうか?私が日曜日、アナウンスすべきだったのにそれを忘れて、林兄に悪いことをしました。他にもありますが、たった1週間の中でも、暗やみとはいえなくても、「良い光り方じゃないなー」というところがいくつもありました。日曜日の礼拝メッセージでは光っていても、普段の時が問題であります。地金が出てくるかもしれません。しかし、私たちは暗やみから光に質的に変化したのですから、地金とは光そのもです。問題が起きた時、一瞬、表面のさびで反応するかもしれません。でも、神様のところに持っていくと、さびが取り除かれて、光りがその下から出てくるのです。これが本当ではないでしょうか?なぜなら、私たちは暗やみではなく、既に光に変えられているからです。私たち光の子どもなんです。本質的に変えられているのです。大切なのは、ふだんの生活の中で、主に喜ばれることが何であるかを見分けることであります。そうすれば、だんだん光の結ぶ実が多くなるでしょう。9,10節をもう一度お読みいたします。「光の結ぶ実は、あらゆる善意と正義と真実なのです──そのためには、主に喜ばれることが何であるかを見分けなさい。」

2.明るみに出す

 エペソ5:11-14「実を結ばない暗やみのわざに仲間入りしないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。なぜなら、彼らがひそかに行っていることは、口にするのも恥ずかしいことだからです。けれども、明るみに引き出されるものは、みな、光によって明らかにされます。明らかにされたものはみな、光だからです。」ここでは、何かを明るみに出しなさいと命じられています。明るみに出すとは、「隠されていたものを明らかにする、表面に出す」ということです。このところでは、何を明らかにしなさいと言われているのでしょうか?「実を結ばない暗やみのわざ」であります。具体的に言うならば、善意と正義と真実と反対のものであります。悪や不正、偽り、悔い改めていない罪ということになります。テレビにいろんな刑事ものの番組があります。刑事は真実をあばくことに命をかけています。本来なら、うやむやですまされるところを、主人公はどこまでも追及していきます。二転三転はありますが、最後には全部解明されます。悪がはっきりとさばかれることによって、被害者の気持ちがやっと収まるというストーリになっています。それを見ている私たちもすっきりします。先日、「足利事件再審開始」という記事を見ました。菅家さんは当時の検察官を訴えています。これまでの裁判では検察官が訴えられたということはないそうです。彼としてはどういう経緯で、自分が有罪になったのか、知りたいのです。そして、心から誤って欲しいのでしょう。検察や警察は、あまり謝ることがありません。冤罪の場合は、名誉も人生も失われ、深い心の傷を負います。ですから、すべてを明らかにしてから謝罪をして欲しいのでしょう。また、南アフリカにこのようなことがあったそうです。ある警察官が18歳の黒人青年を捕らえました。そして、両親の目の前で、銃で頭を打ち抜きました。さらに、彼らの家に火をつけ、青年の死体をそこに投げ込みました。ご両親は気が狂わんばかりの、悲痛な叫びを上げました。数年後、その警察官は彼の父を捕らえ、同じように殺して火で焼きました。その後、マンデラが首相になり国が変わりました。そのとき、自分が行なった罪をはっきり告白するならば無罪にするという法律ができたそうです。そのとき、青年と父を殺した警察官が、みんなの前に出て自分の罪を告白しました。彼の前に、青年の母であり、妻である年老いた女性が進み出たそうです。彼女はその警察官に言いました。「3つの条件をかなえてくれたらあなたを赦します。1つは私の息子と夫の骨をどこに捨てたのか教えてください。第二は私にあなたをハグさせてください。第三は私の家に一度、夕食を食べに来てください。あなたのためにごちそうを作ります」。そのように言ったそうです。なんという赦しの力でしょう。これは、罪を明るみに出したならば、光になるということです。

 もう1つ「明るみに出す」とは、個人の中に隠されている罪であります。特に、中毒を引き起こしている罪は明るみに出さないと決して解放されることはありません。アルコール、性、薬物、ギャンブル、ゲーム、ショッピングなど、たくさんの依存症があります。多くの場合、そういう人たちは、そのことを認めようとしません。「たいしたことない。たまたまだよ。数回しただけだよ」と否認します。身も心もボロボロで、家庭も機能不全なのに、認めようとしないのです。最後は第三者が入って、強制的に隔離しないと手遅れになる場合があります。「私はそこまでひどくない!」という人がいるかもしれません。アメリカで最も大きな教会の、ある牧師は長い間、同性愛をしていました。彼は世界中ですばらしい働きをしていました。私もインドネシアに行ったとき、彼がメインの講師でした。握手もしました。ところが数ヶ月後、彼の罪が暴露されました。世界中にそのニュースが伝わりました。あとで、エディ・レオ先生に「あのような先生を招いたために、教会内で問題になったのではないでしょうか?」と聞きました。先生は「私たちは罪を告白するのに慣れていますので、大丈夫です」と言いました。ある集会で、エディ・レオ先生がマタイによる福音書を引用して教えてくださいました。マタイ10:26,27「おおわれているもので、現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはありません。わたしが暗やみであなたがたに話すことを明るみで言いなさい。また、あなたがたが耳もとで聞くことを屋上で言い広めなさい。」隠された罪を明らかするには2つの方法があります。1つは自分の罪を自分で明るみに出す方法です。自分で罪を言い表すなら、被害は最小限に留められます。もう1つは神様から手伝ってもらう方法です。神様は私たちをとっても愛しておられますから、そのままにしておきたくないのです。でも、神様からやってもらうと屋上でみんなに言い広められるということになります。自分で明るみに出すか、それとも神様に手伝ってもらう方かどちらが良いでしょうか?隠している罪を明るみに出すことによって、罪の鎖が砕かれ、私たちは自由になることができます。でも、隠しておくならば、じわりじわりと死んでいくでしょう。ダビデ王は姦淫と殺人の罪を一度に犯しました。隠している時、彼の心はどうだったでしょう?詩篇32:3,4「私は黙っていたときには、一日中、うめいて、私の骨々は疲れ果てました。それは、御手が昼も夜も私の上に重くのしかかり、私の骨髄は、夏のひでりでかわききったからです。」でも、主の前に告白したらどうなったでしょう?32:5私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした。私は申しました。「私のそむきの罪を主に告白しよう。」すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました。ダビデは「幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は」と主を賛美しました。

 私たちは天気の良い日には、ふとんをベランダに干します。干した後のふとんで寝ると気持ち良いですね。また、6月とか梅雨のシーズンには衣類にカビが生えたりします。私たちはそれをお日様のもとに、吊るして干します。天日干しというのでしょうか?すると、日光の力でカビが死ぬんです。他のバイ菌も死ぬかもしれません。そのように、日の光には力があります。私たちも同じように、罪を明るみに出すならば、光なる神様がそれをきよめてくださいます。私たちはすべての罪を人に言う必要はありません。その人に直接、被害を与えていた場合は、口に出して謝るべきでしょう。でも、こっちが勝手に思っていたことを、相手に「あなたのことを実は、このように思っていました。お赦しください」。すると相手は「え?私のことをそんな風に思っていたの」と逆に傷つくでしょう。大川牧師は、「ゴミ出しでない日に、ゴミを出さないように」といおっしゃいました。みなさん、ゴミを出すべき日にゴミを出しましょう。クリスチャンになるとき、信仰を持つときは、全部の罪を告白する必要はありません。「私は罪人でした。これからはあなたを信じていきます」。これで良いのです。これは信じるための悔い改めであって、一生で一回で良いのです。でも、私たちがクリスチャンになってから個々の罪を悔い改める必要があります。黙示録3:19「わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。」これはクリスチャンに対するイエス様のことばです。イエス様は私たちがきよめられるように願っておられるのです。もし、私たちが本来、告白すべき罪を、神様にもだまっているならばどうなるでしょうか?サタンがあなたを告発します。サタンはあなたの良心を縛り、「これは神様でも赦してくれないよ」と言うでしょう。「お前はクリスチャンになって、罪を赦されたはずなのに、こんなことをしてしまって、ああ、お前はもう赦されないよ」。このようにサタンは言うのです。しかし、それは嘘です。こういうお話があります。あるところに、姉と妹がいました。ある朝、妹がおねしょをしてしまいました。それをお姉さんに見つかりました。お姉さんは「お母さんにないしょにするから、私の言うことを聞いて」と言いました。学校から帰ってきたとき、おやつが出てきました。妹が食べようとしたら、お姉さんが「私にちょうだい」と言いました。妹は「私のおやつでしょう?」と言うと、お姉さんは「いいの、あのことお母さんに言っても」と言いました。妹はしかたなく、おやつを上げました。夕方になって、お母さんがお姉さんにお使いを頼みました。お姉さんは、妹のところにやって来て、「あなたが代わりに行ってちょうだい」と言いました。妹は、しぶしぶ言うことを聞きました。夕ご飯をすませたあと、お母さんが「きょうのお皿洗いの当番はだれ?」と聞きました。お姉さんは、妹の○○ちゃんよと言いました。妹は、「いいえ、今晩はお姉さんの当番よ!」と言いました。お姉さんはきびしい顔をして言いました。「あのことを言ってもいいの!」。妹は「ええ、言っても構わないわ」。お姉さんは「本当にばらすわよ!」。妹は「いいもん。さっきお母さんに謝って、赦してもらったから!」と言いました。

 私たちは「こんなひどい罪を犯したんだから、神様でさえ赦してくれないだろう。神様も愛想を尽かしているんじゃないだろうか!」と思っているかもしれません。しかし、神様は7の70倍赦すお方です。ただ、悪魔が嘘をついているだけなのです。まず、神様の前に告白しましょう。もし、その次に、当事者に告白する必要が出てきたら、神様ご自身がその力をあなたに与えてくださいます。まずは、光なる神様のもとに差し出しましょう。神様はそれを光そのものに変えてくださいます。あなたの魂が霊の部分がそのことで死んでいたかもしれません。でも、神様はイエス様をよみがえらせたように、あなたをよみがえらせてくださいます。「眠っている人よ。目をさませ。死者の中から起き上がれ。そうすれば、キリストが、あなたを照らされる。」

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2009年10月18日 (日)

愛のうちを歩む     エペソ5:1-7

 エペソ5章には、「…らしく」「・・・にふわさしく」「…のように」という言葉がたくさん使われています。英語の聖書は、すべてasになっていますが、エペソ5章には12回出てきます。asとは、「・・・と同じく」「・・・と同様に」「・・・のように」であります。だいたい、このような書き方がなされています。「あなたがたは神様のこどもなのだから、神様のこどもらしく歩みなさい。」「あなたがたは聖徒なのだから、聖徒にふさわしく○○はしてはいけません。」「あなたがたは光のこどもなのだから、光のこどもらしく歩みなさい。」ここには共通した要素があります。私たちはキリストにあってすでに、神の子ども、聖徒、光のこどもなのであります。質的にも、身分においても変わったのです。「だったら、それにあったように生活しなさいよ」ということなのです。この世の宗教や教育の場合は、低いところからスタートします。一生懸命に修養し、道徳的な生活を積んで、高いところへ登ろうとしています。でも、私たちの場合は、キリストの贖いによって、すでに高いところにあるんです。「だったら、それにふさわしく生きるべきでしょう」というのが聖書の教えです。どうぞ、私たちはスタートするところが下ではなく、上であるということを覚えていただきたいと思います。どうでしょうか?あなたは今、どこにいるでしょう?下の方におられますか?それは、倫理道徳の世界です。あるいは、イエス・キリストによって上におられますか?それは、恵みの世界です。

1.小さくても大事なこと

 エペソ5:1「ですから、愛されている子どもらしく、神にならう者となりなさい。」これは、「神様の子どもなんだから、神様にならう者となりなさい」という意味です。5:2「また、愛のうちに歩みなさい。キリストもあなたがたを愛して、私たちのために、ご自身を神へのささげ物、また供え物とし、香ばしいかおりをおささげになりました。」これは、「キリストがあなたがたを愛されたように、あなたがたも愛のうちを歩みなさい」という意味です。5:3「あなたがたは聖徒なんだから、聖徒にふさわしく、以下のことをしてはいけませんよ」と教えています。では、私たちが聖徒として避けるべきことは何でしょうか?「不品行も、どんな汚れも、またむさぼりも、口にすることさえいけません」と命じられています。4節には「みだらなことや、愚かな話や、下品な冗談を避けなさい。そのようなことは良くないことです。むしろ、感謝しなさい。」と言われています。ここをざっと読んで、どのように思われたでしょうか?私は「けっこうしているなー」と思いました。特に愚かな話や、下品な冗談です。私は「これは自分の性格であり、罪じゃないよ。むしろ、場を明るくするために良いことじゃないか」と思ったくらいです。でも、この箇所を良く見ると「そのようなことは良くないことです」と書かれています。「いやー、そんなに悪いことなのかなー、それは罪なの?」と思いたくなります。もし、そんなに固かったら、「聖人君主みたい」と言われるんじゃないでしょうか?まず、第一番目は、そういう一見、小さな問題を一緒に見ていきたいと思います。

 この世では、不品行も、汚れも、またむさぼり、みだらなことや、愚かな話、下品な冗談は、日常茶飯事であります。私たちはかつてそういう世界で生きたし、今も生きているんじゃないでしょうか?でも、よく考えますと、私たちはこの世から贖い出されたものです。この世のものであって、この世のものではありません。この世に生きていますが、この世に属してはいません。私たちは神の子どもであり、聖徒であり、光の子どもです。質も立場も、かつてのものとまるっきり違ったわけです。でも、どうでしょうか?この世から救い出されたとは言え、まだ、この世の垢、この世の価値観、この世の性質がくっついている状態ではないでしょうか?私たちは罪の世界から、救い出されました。そして、キリストの血潮によって、罪がきよめられました。これは間違いありません。でも、わずかではありますが、いくつかの罪や悪い性質がくっついていると考えるのが妥当ではないでしょうか?「私はクリスチャンになってから、不品行も、どんな汚れも、またむさぼり、みだらなことや、愚かな話、下品な冗談も口に出しません。牧師先生と一緒にしないでください」と反論する方はおられるでしょうか?程度の差はあれ、ある程度、この世のものをくっつけているんじゃないでしょうか?でも、「それはしょうがない」とそのままにしておくか、それとも1つずつ取り除いていくか?決断しなければなりません。

 先ほど、申し上げましたが、私が「これは自分の性格であり、罪じゃないよ。むしろ、場を明るくするために良いことじゃないか」と思い続けたとします。これは私が吟味したことであります。「もし、これがあるために、神のしもべとして相応しくないならどうだろうか?」「もし、これがあるために、力をなくしていたらどうだろうか?」「もし、これがあるために信用をなくしていたらどうだろうか?」少し立ち止まって、考える必要があります。私はキリスト教の教理をお話するのは大好きですが、こういう倫理的なことを話すのは好きではありません。できれば、自分の生活と直結しているようなメッセージは避けたいです。もし、私がみなさんに「○○してはいけません」と指さすなら、三本の指は自分に向けられるからです。こういう問題を、救いから考えるならば、枝葉の問題かもしれません。でも、ルカ16:10「小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です」と書いてあります。また、雅歌に「ぶどう園を荒らす小狐」のことが書いてあります。雅歌2:15「『私たちのために、ぶどう畑を荒らす狐や小狐を捕らえておくれ。』私たちのぶどう畑は花盛りだから。」とあります。確かに、小さいことかもしれません。でも、それが大切なものを台無しにしてしまうなら非常に残念です。私が皮肉やブラックユーモアを言うのは、生まれ育った環境がひどかったからです。腕力では負けるので、ことばで言い返しました。暗くてひどい状況を皮肉や冗談で、笑い飛ばす。しかし、それらは表現こそ違いますが、つぶやきとか、反発の現われかもしれません。もし、これが神様に向かって発しているとするならば、立派な罪であります。人から指摘されると腹が立ちますが、みことばから教えられると素直に認めざるをえません。そういう体質が、染み込んでいるというか、私の性格の一部になっています。アーメン、告白します。

 では、その代わりに何をしたら良いのでしょうか?「むしろ、感謝しなさい。」アーメン。エディ・レオ師が、メッセージで語っておられました。「つぶやきや不平不満は神様を天から引き降ろすことである。逆に、感謝や賛美は神様を高めることである」ということです。では、代わりに感謝や賛美をこの口から出せば良いということなのであります。アーメン。それにしても、クリスチャンになる前は、感謝することはほとんどありませんでした。いつも、不平不満、辛口のジョークを飛ばしていました。聖徒にふさわしく生活するということは、それらを感謝に換えるということです。この世において生活するときいろんなことがあります。不品行、汚れも、むさぼり、みだらなこと、愚かな話、下品な冗談・・・という誘惑がやってきます。「ダメだ、ダメだ、そうしちゃいけない」。それではうまくいきません。その代わりに、感謝や賛美を出す。つまり、イエス様を礼拝する機会とすれば良いのです。誘惑が来たら、「ハレルヤ!主を賛美します。あなたを礼拝します。」良い行ないと置き換える。これを繰り返していくならば、勝利ある信仰生活を送ることができます。アーメン。どうでしょうか?みなさんは、「これは自分の性格であり、罪じゃないよ」という小狐はいないでしょうか?聖徒にふさわしくないもの、神のこどもにふさわしくないものはないでしょうか?それを認めることはイヤなことです。でも、そのことがあるために力をなくしている。そのことがあるために信用をなくしているというものはないでしょうか?もし、あるならば告白することです。これは、かなりの部分、私自身に言われていることです。でも、みなさんもいかがでしょうか?もしあるならば「これは罪である」と告白することです。その次何をするのでしょうか?メタノイヤー、方向転換です。その罪を捨てて、代わりに新しいこと、正反対のことをするということです。聖霊様の声に耳を傾けましょう。それは大きな罪ではないかもしれない。でも、それは聖徒にふさわしくない、神のこどもにふさわしくない。どうぞ、それらを告白して、メタノイヤーしましょう。「小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です」アーメン。

2.愛のうちを歩む

 エペソ5:5-7「あなたがたがよく見て知っているとおり、不品行な者や、汚れた者や、むさぼる者──これが偶像礼拝者です、──こういう人はだれも、キリストと神との御国を相続することができません。むなしいことばに、だまされてはいけません。こういう行いのゆえに、神の怒りは不従順な子らに下るのです。ですから、彼らの仲間になってはいけません。」前の節と少し比べたいと思います。エペソ5:3にも、不品行、汚れ、むさぼりについて書かれていました。でも、5:5の場合は、「不品行な者や、汚れた者や、むさぼる者」となっています。この両者の違いは何なのでしょうか?私たちはクリスチャンになっても、不品行、汚れ、むさぼりをすることがあるかもしれません。でも、それは「いつも」という訳ではありません。「ときどき、たまたま、あるときは」ということであります。でも、だんだんしないようになっていきます。一方、「不品行な者や、汚れた者や、むさぼる者」というのは、常にしている、それらの罪が常習的になっている人のことであります。では、そういう人は救われているのでしょうか?救われていないんです。だから、5:5「そういう人はだれも、キリストと神との御国を相続することができません」と書いてあります。また、5:7「ですから、彼らの仲間になってはいけません」とあります。彼らとは、救われていない人たちであります。ある人が牧師のところに相談に来ました。「先生、私は罪とわかっていながら、またやってしまうのです。私は救われているんでしょうか?」と聞きました。牧師はその人に聞き返しました。「あなたはイエス・キリストが必要ですか?それとも、必要じゃありませんか?」。その人は「もちろん、私はイエス様が必要です。イエス様がいなくては生きてゆけません」。牧師は、「あー、そうですか?では、あなたは救われていますよ」と答えたそうです。クリスチャンでも罪を犯すことはあります。でも、したいと心から思ってやっているのではなく、誘惑に負けてそうしているのです。Ⅰヨハネ3:9「だれでも神から生まれた者は、罪を犯しません。なぜなら、神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪を犯すことができないのです。」ここで言われている「罪を犯さない」という、本当の意味は、「罪を犯し続けない」という意味です。なぜでしょう?なぜそうなのでしょう?「なぜなら、神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪を犯すことができないのです。」そうです。聖霊によって新しく生まれ変わっているので、好んで罪を犯し続けることができないとうことです。それまでは、罪を犯しても別段、何とも思っていませんでした。でも、クリスチャンになってからは罪を犯すと気持ち悪くなるのです。それは、自分にとって普通じゃないからです。ハレルヤ!

 でも、このところには私たちが学ぶべき教訓が記されています。エペソ5:5が少し問題です。「不品行な者や、汚れた者や、むさぼる者──これが偶像礼拝者です」とあります。なぜ、これらの罪が偶像礼拝なのでしょうか?では、偶像礼拝というのはどういう意味でしょうか?出エジプト記20章には「あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない」と書いてあります。私たちは偶像を造るとき、初めに何をするでしょうか?まず、頭の中でイメージ、想像します。それから造るのです。同じように、偶像礼拝は頭の中で想像から始まるということです。ここには不品行、汚れ、むさぼりという罪がありますが、それらが偶像礼拝になりうるということです。どうして?でしょうk?不品行はまず、頭の中から始まるということです。ポルノの本とか映像を頭の中にインプット(保存)します。それからいろいろ想像します。すると、それが偶像になっていくということです。汚れやむさぼりも同じです。むさぼりというのは、どういう意味でしょう?出エジプト記20章には「あなたの隣人の家を欲しがってはならない。すなわち隣人の妻、あるいは、その男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを、欲しがってはならない。」とあります。むさぼりとは、本来、自分が手にしてはいけないものを、欲しがるということです。隣人の家、隣人の妻、隣人の男奴隷、女奴隷、牛、ろばです。今は時代が進んでいますので、奴隷や牛、ろばはいません。その代わり、隣人の持ち物、隣人の車、隣人の地位でしょうか?そういうむさぼりも、頭から始まるということです。「これを持ったら幸せになるんじゃないだろうか?」と想像します。なぜ、ヨンさまが流行っているのでしょうか?それは、おばさんたちが「ヨンさま」と結ばれたならどんなに幸せだろうか?と想像するからです。でも、それは偶像になります。歌手や映画スターのことをアイドルと言いますが、まさしく偶像であります。本来、自分に属するものでないものを欲しがる、これが偶像礼拝の始まりです。

 ということはどうでしょうか?どのようにしたら偶像礼拝から守られるのでしょうか?そうです、それは目で見るもの、つまり映像を制限するということです。テレビではジャパネットとか、テレビショッピングの番組が24時間放映されています。モデルさんが宝石や衣類をまとっています。「あれを身につけたら、自分もあのようになれるかしら?」と想像します。嘘です。あれは、モデルさんが初めから綺麗だからです。うちも、ケーブルテレビですから、アメリカのテレビ番組がいっぱい入ってきます。残酷な殺人シーンがいっぱい出てきます。ずっと、見ていると感覚が麻痺します。それから、インターネットであります。アメリカでは90%の男性が、インターネットのポルノにはまっていると聞いたことがあります。牧師やクリスチャンも例外ではないとのことです。私のインターネットで調べものをしていると、「ひゅっ」と入ってきます。ラッキーと思って見たりするときもありますが、神様を恐れます。もし、それを常習化していくなら中毒になるでしょう。皆さん、何でもそうですが一旦、中毒になるとなかなかやめられません。私たちは、まずその前の段階で自分をコントロールすべきです。私がよく交わる教会の方は、意外にもテレビをあまり見ていない人が多いんです。むしろ、私の方が見ているかもしれません。先週もお話しましたが、「やめろ!」ではうまくいきません。私たちは代わりのものを見つける必要があります。良いものを見る、良いものを学ぶ、良いことに時間をかける必要があります。

 昨年、サンデー・アデラジャ師が日本に来られ、このようなメッセージをしました。人生には3つのレベルがあるということです。第一のレベルは、動物的な生き方です。今の若者たちはこのレベルの人が非常に多い。マタイ6章には、何を食べるか、何を飲むか、何を着るかと心配している人たちのことが記されています。テレビでは、「どういう洋服が流行っているのか、グルメな食べ物は何か?」そういうことばかり報道しています。でも、それらは自分の肉、自分の欲するものを満たす動物的な生き方です。そういう人は、神様から与えられた人生を無駄にしています。ただ、生存するためにだけ、私たちの人生があるのでしょうか?男性は会社で一生懸命、働いています。給料をもらい、昇進し、出世を目指して働いています。でも、それらは生存するため、肉の法則に従って生きる人です。第二番目は時の流れに身を任せている生き方です。この人たちは、もっと知的な生き方です。肉欲ではなく、知性、自分の考えに従って生きています。人生の価値あるものに焦点を合わせて生きる人です。でも、結局のところ、彼らは自分の成功、自分自身のために生きる人生です。良い教育を求め、知性を求めるインテリな人たち。自分のキャリヤ、職業には熱心です。自分の業績、成功を人生の焦点にしています。そういう人たちは、中産階級の人たちと呼べるかもしれません。でも、聖書から言うと、彼らの人生はエゴを満たすための、自己満足的な生き方です。肉ではないかもしれませんが、魂のレベルでしか生きていません。第三番目の人生とは何でしょうか?第一は生存するために生きている人、第二は時の流れに任せ、中途半端に生きている人です。第三は人生に秘められた、偉大なものを発見して生きる人です。つまり、人生最高の生き方を見出して生きている人です。人生最高の生き方とは何でしょうか?それは神様から与えられた人生を、神様のため、あるいは人類のために投資する人であります。彼らは現時点において自分の命を失っているかもしれません。でも、将来、自分の命を見出すのです。イエス様は「自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです(ルカ9:24)。」と言われました。神様に捧げると自分の命を失うのではなく、それは自分の命を得るのです。私たちの人生は神様から与えられたものです。この人生を神様にお返しするために生きる。この命を自分のためだけに使うならば、人生を失うことになります。食べて飲んで着る生活は動物的な生き方です。自分のために生きるのは中途半端な生き方です。そして、最高の生き方は神様と人々に、自分の人生を投資する生き方です。現時点において、人生を犠牲にしているかもしれません。でも、未来において、その時が来るなら、自分のものとすることができるのです。多くの人たちは自分のために生きています。自分のために時間とエネルギーを費やしています。しかし、私たちは神様から与えられた人生を、神様に栄光を帰するために生きるべきであります。自己犠牲の生き方こそが、一番、神様に喜ばれる生き方です。

 この世の中は、まさしく、不品行、汚れ、またむさぼりが満ちています。不品行な者、汚れた者、むさぼる者がいます。私たちはこの世に生きていますので、様々な誘惑に遭い、あるときは罪に捕らわれるかもしれません。では、どうしたらそういう罪や誘惑に勝利して歩むことができるのでしょうか?それは第三番目の生き方、神様と人類に、自分の人生を投資する生き方です。神の国のために自分の人生を投資する生き方こそ、最も賢い生き方なのです。

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2009年10月11日 (日)

メタノイヤー     エペソ4:25-32

 先週は、私たちクリスチャンは、信じたとき3つのことがなされたということを学びました。第一は古い人に死んだということです。第二番目は霊的に新しく生まれたということです。第三番目は新しい人を着るということでした。しかし、それだけではまだ不十分だったのです。これから実際の生活で、そのことを実践していくことが必要です。自分の生活が変えられるところまで行く必要があります。つまり、それはライフスタイル・チェンジであります。これまでの生活が私たちの体に染み込んでいました。ぼーっとしていれば、また古い生活パターンを繰り返してしまいます。そうすると、「ああ、私は救われていないのかなー。キリストを信じても何も変わらないんだ。信仰なんか捨てよう」というところまで行く恐れがあります。ですから、霊的に生まれたなら、今度は新しい生活習慣を身につけるということが待っています。では、古い生活習慣を捨てて、新しい生活習慣を身につけるにはどうしたら良いのでしょうか?

1.メタノイヤー

 キリスト教会ではよく「悔い改め」ということばがよく聞かれます。「悔い改めなさい」「悔い改めましょう!」。そう言われると、みなさんはどのように感じるでしょうか?何か、重たい感じがしないでしょうか?私は最初、ホーリネスの神学校に行ったとき、この「悔い改め」というのが、とてもイヤでした。「まだ、罪はないか?罪を悔い改めなさい!まだ、罪はないか?」。なんだか、暗い部屋に閉じ込められて、刑事から「吐け!吐け!」と尋問されているような気がしました。大体、「悔い改め」という日本語が重たい感じがします。「悔いて」「改める」という、2つのことばが合わさっているからです。英語のrepent も同じような意味があります。repentは辞書を見ると、「○○したことを後悔する、残念に思う、懺悔する」であります。非常に後ろ向きであります。でも、聖書にはそのような意味は全くありません。ギリシャ語で「悔い改め」は、メタノイヤーと言います。これは「考えを変える、思いを変える」つまり、方向転換を意味する言葉です。ローマの軍隊が行進をしています。隊長が「メタノイヤー」と言います。すると、兵隊たちはただちに止まり、それから向きを変えてまた行進するのであります。元来、「メタノイヤー」とは、向きを変えるという意味なんです。ですから、いくら罪を悔いたとしても、新たに方向転換しなければ、本当の悔い改めにはならないということです。キリストの弟子であるユダは自分が犯した罪を確かに悔いました。しかし、イエス様のところに戻っていかないで、自分でその罪を始末しました。一方、ペテロは3度も知らないと言ったことで泣きました。その後、イエス様のところに戻ったのです。これが本当の悔い改め、メタノイヤーです。

 では、クリスチャンになったならばどのような悔い改め、メタノイヤーが必要なのでしょうか?また具体的にどのようにメタノイヤーするのでしょうか?エペソ4:25「ですから、あなたがたは偽りを捨て、おのおの隣人に対して真実を語りなさい。私たちはからだの一部分として互いにそれぞれのものだからです。」このところでは、偽りの罪について言われています。では、偽りをどうするのでしょうか?まず、第一に偽りを捨てるということです。罪を捨てるこれが第一段階です。その次はどうするのでしょうか?「おのおの隣人に対して真実を語る」です。偽りの反対は、真実を語るということです。つまり、こういうことです。これまでは偽りを語っていました。はい「メタノイヤー」。偽りを捨てます。それから向きを変えて、「真実を語る」ということです。もう一度やります。「偽り」「偽り」「偽り」。これに対して「メタノイヤー」。「はい、偽りを捨てます」、そして新たに向きを変えます。「真実を語る」「真実を語る」「真実を語る」であります。28節には盗みの罪が述べられています。4:28「盗みをしている者は、もう盗んではいけません。かえって、困っている人に施しをするため、自分の手をもって正しい仕事をし、ほねおって働きなさい。」これも同じようにします。「盗み」の反対は何でしょうか?「施しをするため働く」ということです。これまでは盗みをしていました。「盗み」「盗み」「盗み」。これに対して「メタノイヤー」。「はい、盗みを捨てます」。そして新たに向きを変えます。「施しをするため働く」「施しをするため働く」「施しをするため働く」です。ハレルヤ!29節には「悪いことば」について書かれています。4:29「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。」これも同じようにします。「悪い」ことばの反対は何でしょうか?「人の徳を養うのに役立つことばを話す」ということです。これまで悪いことばを口から出していました。「悪いことば」「悪いことば」「悪いことば」。これに対して「メタノイヤー」。悪いことばを捨てます。それから向きを変えて、「徳を養うのに役立つことば」「徳を養うのに役立つことば」「徳を養うのに役立つことばを語る」です。

 キリスト教の弱さとは何でしょうか?頭では理解していても、生活が変わらないということです。私たちは何べんもメッセージを聞き、聖書も読みました。いろんな集会やセミナーにも参加するかもしれません。でも、知識ばっかりで生活が変わらない。これが問題なんです。ですから、私たちはもう一度、スタート地点から始めるべきです。私たちはクリスチャンになったとき、信じるだけで救われました。「私には罪があります。私はキリストが必要です。イエス様私の罪のために十字架で死んでくださり感謝します。アーメン。」これで、すべての罪が赦されました。確かにあなたの罪は赦されたのです。でも、あなたが実際の生活で歩み出したら、うまくいきません。なぜでしょう?キリストにある新しい生き方が身についていないからです。では、古い罪の生活と別れ、どうしたら新しい生活ができるのでしょうか?それが、この「メタノイヤー」なのであります。私たちはイエス様を信じたとき、「メタノイヤー」したのです。神様に背を向ける生活がら、こんどは神様の方に向きを変えて、光の中を歩むものとなったのです。これは、救いのための「メタノイヤー」であり、一生に一回限りのものです。でも、それでおしまいではありません。自分の中にある古い罪の生活習慣を直していかなければなりません。そのためには自分の罪を認め、「メタノイヤー」していかなければなりません。そして、新しい生活をしていくと、それが次第に身についてきます。これをライフスタイル・チェンジと言います。つまり、私たちは生活が変わるところまで行く必要があります。信仰のゴールは、ライフスタイル・チェンジであります。 

 先月の半ば、エディ・レオ師によるメンズ・セミナーがありました。男が変わるための集会であります。そこで先生は、私たちは永続的に変わるために2つのことが必要ですと教えてくださいました。1つ目は、新しいことを49日間続けるということです。49日?どこかで聞いたことがある数字です。調べてみたら、「49日目のこの日を境に、現世にさまよっていた故人の魂が成仏するといわれている」そうです。インドネシヤに49日はないと思いますが。とにかく、聖書を読むディボーションでも、49日間続ける。そうすると、それが習慣となり、聖書を読まないでは過ごせなくなるということです。さきほどの、「徳を養うのに役立つことば」も、49日間続けると身につくということです。おそらく、49日目で古い習慣が成仏して、新しい習慣に生まれ変わるということでしょうか?また、もう1つは、行動をチェックしてくれる仲間が必要だということです。仲間とは信仰の友であります。LTGとか、セルとか、コーチング、何でも構いません。「先週どうだった?ポルノから守られた?ディボーションした?」そういうことをお互いにチェックし合う。世の中にはアカウンタビリティという言葉があります。強いて訳すならば、説明責任と言うのかもしれません。何か堅苦しい感じがしますが、自分をコーチしてくれる人を見つける。それが、弱さから脱却するすばらしい道であります。Ⅰヨハネ2章には、教会には子どもと若者と父という3種類の人がいると書いてあります。若者とはどういう人でしょうか?「あなたがたが強い者であり、神のみことばが、あなたがたのうちにとどまり、そして、あなたがたが悪い者に打ち勝ったからです。」私たちは、霊的子どもから、若者のところまで進む必要があります。恵みによって、それは可能です。大切なのは、「メタノイヤー」であります。隣の人とお互いに「メタノイヤー」と言いましょう。「メタノイヤー」。「メタノイヤー」。

 最後にもう1つメタノイヤーがありした。それは、エペソ4:31と32節です。4:31「無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなどを、いっさいの悪意とともに、みな捨て去りなさい。」それからどういう新しい道を歩むのでしょうか?「メタノイヤー」の生活とはは何でしょうか?4:32「お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」

2.予防策

 今、インフルエンザが猛威をふるっていますが、インフルエンザは予防が大切だと言われています。たとえば、外出後に手を洗うとかマスクを着用するということです。それから、ワクチンによる予防があります。今は、従来ものと新型ウイルスの2種類が必要だということを聞いたことがあります。つまり、インフルエンザの予防のためには、日常できることと、そしてワクチンを接種するということです。エペソ人への手紙にも、2つの予防策が記されています。まず、第一は怒りについてです。怒りが罪とならないために、どのような措置を取るべきなのでしょうか?4:26,27「怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。悪魔に機会を与えないようにしなさい。」ここには、ものすごく重要なことが記されています。多くの人たちは、怒りをコントロールできないために、人生を破壊しています。箴言には怒りについて多くのことが記されています。箴言16:32「怒りをおそくする者は勇士にまさる」、箴言29:11「愚かな者は怒りをぶちまける」とあります。怒りにコントロールされるのではなく、怒りをコントロールできたなら何と幸いでしょうか?では、どのようにしたら怒りをコントロールできるのでしょうか?まず、4:26「怒っても、罪を犯してはなりません」とあります。ここには、怒り自体は罪ではないとかかれています。また、同時に、怒りが罪を犯すことにもなるということです。怒りと怒りの罪との境目が果たしてあるのでしょうか?怒りは感情的なものであります。感情と言うのは中立的なものです。自動車のメーターみたいなものです。たとえば、水温のメーターが上がっているとします。なんで、このメーターが上がっているんだ、何かの間違いだ。メーターを下げようとしたらそれは愚かなことです。ラジエターの水が足りないので温度が上がっているのです。メーターは正直です。同じように感情を抑えても仕方がありません。もとの原因は何か調べて、考えを変えるならば、感情が修正されていきます。また、怒りには良い面もあります。世の中の不正や犯罪に対して、怒りを感じるのは正常であります。イエス様も神殿で売り買いがなされているのを怒りました。そして、羊や牛を追い出し、両替の台を倒しました。このように、怒りは正しい目的を果たすために重要な感情です。でも、一番問題なのは、怒りを正しく処理しないまま、我慢してそれを蓄積するという行為です。多くの人は怒りをがまんします。気付かないまま怒りがたまっています。そのため心身に支障をきたします。あるいは、ドカンと怒りを爆発させて周りの人たちを傷つけてしまうことがあります。

 エペソ人への手紙は何と教えているのでしょうか?「日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。悪魔に機会を与えないようにしなさい」とあります。ユダヤの地方は、日没から新しい日が始まりました。つまり、怒りを正しく処理しないまま次の日に持ち越してはならないということです。怒りが心の中にとどまると、その怒りが大きな塊になっていきます。そうするとどうなるのでしょうか?悪魔に機会を与えないようにという、機会はギリシャ語ではトポスということばです。トポスとは元来、場所という意味です。怒りを蓄積していると、そこが、悪魔が働く場所になるんだということです。怒りを持っているということは、爆弾を持っているのと同じです。あなたにとってちょうど怒るようなことが起きたとき、悪魔が爆弾のスイッチを押します。ドカン!あなたは怒ってから、「どうしてこんなに怒ったんだろう?怒ってはダメなのに」。でも、時すでに遅し、であります。そこいらじゅう、破片が飛び散っています。で、しばらくは自制して、怒りを我慢します。ところが、だんだん、だんだん怒りが蓄積していきます。また、次の機会が来ると、ドカン!と爆発します。みなさんの中には、そういう悪循環を経験している方はおられないでしょうか?「いやー、私は怒って人を傷つけたりしません」という人がいます。その人は他人を傷つけない優しい人かもしれません。でも、どうでしょうか?他人を傷つけない代わりに、自分を傷つけます。怒りのもって行き場所がないため、うつ病になる場合があります。ある人は、うつも、怒りの表れであると言います。ですから、怒りをためてはいけません。では、どうしたら良いのでしょうか?第一はダビデのように神様のところに持っていくことです。詩篇を見ると、ダビデは「敵を殺してください」と呪っています。でも、最後には神様にゆだねています。第二は、相手の人に「私はこういう点で怒りを覚えています」と伝えるということです。そのとき、「あなたはこういうことをして、私を怒らせました」と言ってはいけません。怒ったのは、自分なんです。だから、「あなたが」ではなく、「私が怒りを感じました」と、私メッセージで伝えるということです。それでも相手が聞いてくれなければ、適当な距離を置くしかありません。ある時は、私たちの受け取り方、思いが歪んでいるために怒りを覚えるときもあります。とにかく、怒りというのは、何か原因があるということです。そういう時こそ、イエス様に打ち明けるべきであります。イエス様のところへ持っていく、これはすばらしい怒りの対処法です。

 もう1つの予防策は聖霊に関して、であります。エペソ4:30「神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。」この戒めは、文脈からすると、悪いことばと関係があるのかもしれません。なぜなら、悪いことばこそ、共同体を破壊する罪の筆頭だからです。他の罪もそうですが、私たちが罪を犯すときに、聖霊様が悲しまれるということです。ある人たちは、聖霊様を神の力とかエネルギーであるとし、まるで人格がないように思っています。しかし、聖霊は第三位格の神様です。私たちは、父なる神様、あるいはイエス様と「様」をつけます。でも、聖霊に「様」をつけると、何か怪しいと思われてしまいます。日本でも様を着けるようになったのは、恐らく、ベニー・ヒンが来られてからかもしれません。ベニー・ヒンの活動には賛否両論があるので、何ともいえませんが、聖霊の人格を強調したということはすばらしいことです。もちろん、神学的に聖霊には人格があるということは教えられていました。しかし、それまではあまり、そのように取り扱われていなかったということです。大川牧師は1979年2月に聖霊の特別な体験をされたそうです。そのとき、ヨハネ3章のみことば「風はおのが好むところを吹く」というところに心がとまったそうです。「風は聖霊ですが、聖霊が好む教会と好まない教会があるようだ。では、どういう教会を聖霊は好んで吹かれるのだろうか?それは裁き合わない教会ではないだろうか?」そのことを発見してから、教会がぐーんと、成長したのであります。私もその中にいましたが、「さばかれていない」ということは、とても居心地が良かったです。神様の愛によって、ぽかぽか暖められると、罪のマントを自ら脱ぎ捨てるのであります。自分はさばかれていない、愛され、受け入れられている。こういう教会を、聖霊様が祝福してくださるのであります。

 ここに、「あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。」とあります。証印ということばは、エペソ1:13にもありました。私たちはイエス様によって買い取られました。そのとき、「この人は神様のものですよ」という聖霊の証印を押されたのです。では、「贖いの日のために、聖霊によって証印を押された」とはどういう意味でしょうか?昔、王様がだれかに大事な手紙を書いたとします。手紙を封筒に入れたあと封印をします。昔は、閉じたところにロウをたらし、そこに指輪にきざまれた紋章を、ぐっと押し付けます。すると、それは王様の証印を押したということです。もし、途中でだれかが、その手紙を開封するならば、その人は打ち首になるでしょう。ちゃんと宛て先の人のところに届けられるまで、そこには王様の権威が働いているということです。宛て先の人だけが、その封書を開けることができるのです。それでは、私たちが聖霊によって贖いの日のために証印を押されたというのは、どういう意味でしょうか?そうです。私たちは神様のものなので、天国に着くまで、だれも損なってはならないということです。「だれも」という中には、人ばかりではなく、悪魔もその中に含まれています。ヨハネ10:28「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。」アーメン。そのように、私たちは聖霊によって封印されていて、天国に行くまで守られているということです。だったら、そういう私たちはどのような生活をこの地上で送るべきなのでしょうか?2つの道があります。1つは、「ああ、私はどうせ天国に行けるんだから、多少の罪は犯しても仕方が無い。偽り、怒り、盗み、悪いことばも仕方がない。でも、やがて恵みによって、すべての罪がきよめられ天国に行けるんだ。アーメン」でしょうか?それとも、「神様がこのように私をかけがえのない存在として認めておられる。聖霊様がこの地上でも、私を慰め、励まし、導いてくださっている。なんとありがたいことか。それでは、聖霊様を悲しませないように、恵みによって生活させていただこう。アーメン」。同じ恵みでも、随分と違います。前者は甘えの恵み、後者は敬虔のための恵みです。聖霊様は人格を持っていらっしゃいます。聖霊様は私たちが贖われたことを喜んでいらっしゃいます。私たちが神様の所有とされていることをとても喜んでいらっしゃいます。でしたら、恵みによってそのように歩ませていただきたいと思います。聖霊様を認め、聖霊様を歓迎し、聖霊様に従いましょう。聖霊様は、私たちが義の道を歩めるように、私たちを助け、励まし、弁護し、そして導いてくださいます。

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2009年10月 4日 (日)

新しい人を着る     エペソ4:17-24

 エペソ4章1節には「歩みなさい」と書いてありました。また、この17節では「歩んではなりません」と書いてあります。歩むとは何でしょうか?それは生活するということです。パウロはエペソ1章から3章までは、教理的なことを教えています。そして、エペソ4章からは倫理的なことを教えています。キリスト教は単なる道徳ではありません。まず、神様の約束や保証があります。イエス・キリストが私たちにどのようなことをなしてくださったか?そのことを信じて受け入れると私たち自身が変わります。その上で、信じた私たちはどのように生活して行ったら良いのかということです。霊的な生まれ変わりが先で、そのあとに良い生活が来るのです。

1.異邦人の生活

パウロは、まず「このように歩んではいけませんよ」と教えています。エペソ4:17-19「そこで私は、主にあって言明し、おごそかに勧めます。もはや、異邦人がむなしい心で歩んでいるように歩んではなりません。彼らは、その知性において暗くなり、彼らのうちにある無知と、かたくなな心とのゆえに、神のいのちから遠く離れています。道徳的に無感覚となった彼らは、好色に身をゆだねて、あらゆる不潔な行いをむさぼるようになっています。」異邦人とは、まことの神を知らない人たちです。この手紙は異邦人であるエペソに対して書かれていますが、日本も全く同じであります。神から離れている人たちは3つの分野で麻痺していることがわかります。まず、第一の特徴は、「むなしい心」であります。空しいとは、「空っぽな、空虚な」という意味です。伝道者の書はソロモン王が書いたと言われています。彼は、事業を拡張し、邸宅を建て、庭と園を作り、諸州の宝を集め、多くのそばめを手に入れました。「私は、目の欲の欲するものは何でも拒まず、心のおもむくままに、あらゆる楽しみをした。・・・しかし、なんと空しいことよ。風を追うようなものだ」と言いました。伝道者の書には空しいということばが、約20回記されています。中途半端にやった人は、「そんなことはない好きなことをやっている人生は楽しい」と言うかもしれません。しかし、ソロモンのようにとことん、突き詰めた人は「すべてが空しい」と分かるのです。パスカルは真空を発見した科学者です。彼は「だれの心の中にも真空がある。その真空は神でしか満たすことができない」と言いました。現代はものが豊かな時代です。食べ物も飲み物も、着る物も、楽しみも溢れています。しかし、何かが物足りない。空虚である。それは、天地を創られたまことの神様が心の中にいないからであります。

神を知らない人の第二の特徴は「知性において暗い、無知である」ということです。いやいや、日本人ほど、教育熱心な国もないでしょう。諸外国と比べて、読み書きのできない人はほとんどいないでしょう。大学の数も世界一、子どもにかける教育費もおそらく世界一なのではないでしょうか?私は郵便局で働いていたことがありますが、「進研ゼミ」の数は半ぱではありません。通信講座「進研ゼミ」は、 2008年4月現在396万人の会員が受講しているそうです。うちの子供たちも取っていたことがあります。付録ばかりに興味があり、科目の方はシンケンに学んでいませんでした。だから、途中でやめました。「知性において暗い」とはどういう意味でしょうか?英国の聖書には、「知力に雲がかかっている」と書いてあります。つまり、知性というのは学問だけではなく、ものごとを判断したり、アイディアを思い浮かべたり、適用する力、そういうものも含まれています。でも、どうでしょうか?18節後半には「かたくなな心のゆえに、神のいのちから遠く離れている」と書かれています。箴言には「主を恐れることは知識の初めである、知恵はへりくだる者とともにある」と書かれています。つまり、知恵や知識は神様から来るものなのであります。しかし、神様ぬきで、知恵や知識を得ようとしたならば、果たしてどうなるでしょうか?ルーズベルト大統領は「聖書を教えない単なる教育は、無責任な人に鉄砲を渡すようなものである」と言いました。神から離れた人間は、知恵や知識を、人を騙すために用いるのであります。いろんな犯罪に対する裁判がありますが、本当に複雑になっています。彼らは法の網の目をくぐって、悪いことをしています。本来はそういうことに知恵や知識を使ってはいけないのです。私たちの場合はどうでしょうか?ヤコブ1:5「あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。」アーメン。知恵は神様からやってくるものです。私は学校の成績はあまり良い方ではありませんでした。8人兄弟の7番目で放置されて育ちました。「あの親父とあの母から生まれたんだから、たいしたことないなー」と諦めていました。でも、どうでしょうか?イエス様を信じて、父なる神様とつながったならば、知恵が上から降りてきます。また、今まで、何のために勉強するかということをだれも教えてくれませんでした。しかし、神様を知ってから勉強が好きになりました。なぜなら、真理は神様が作ったものだからです。ハレルヤ。

神を知らない人の第三の特徴は「道徳的に無感覚になる」ということです。そのために、好色やあらゆる不潔な行ないが生まれてくるということです。神様は聖なるお方です。でも、アダム以来、人間はその神様から離れて生きるようになりました。聖い水の源にとどまっている内は、流れもきよいでしょう。でも、水源から離れたために、よどんだ川になりました。水が腐ってしまったのです。これが神から離れた人間の姿です。ローマ人への手紙1章には「神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡された」あるいは、「神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡された」と書いてあります。神様は「それだったら、どうぞご勝手に」ということであります。どこまで、神様は放っておかれるのでしょうか?それは罪の目盛りが満たされるまでであります。限界にまで達すると神様は一挙に滅ぼされます。創世記6章には、「地は神の前に堕落し、暴虐に満ちた」と書いてあります。だから、神様はノアの家族を除く、すべての肉なるものを洪水で滅ぼしました。また、創世記19章にはソドムとゴモラの滅びのことが書いてあります。ローマ時代も道徳的に非常に乱れていました。滝元明先生がこのようなメッセージをしています。「イタリアに行くと、ポンペイという町があったことを知ることができます。しかし、その町は瞬間的に滅びました。紀元前から続いてきた町で、道も舗装されて、町には下水道も完備していた都市でした。しかし、BC79年8月24日、ベスビオス火山が噴火して、一瞬にして滅びてしまいました。近年になって町が掘り起こされました。するとそれは素晴らしい近代都市でした。しかしそこには、見ることができないような驚くべき汚れた光景がありました。町の人々が昼間から何をしていたのか全部残っていました。彼らは昼間から野獣のような汚れた不品行にふけっていました。私はその町に行きました。だが、ある所は木の塀で囲まれていて見ることができませんでした。なぜでしょうか。その奥にあるものは、姦淫と肉欲が満ちているところに死の灰が降って、そのまま生き埋めになった現場が掘り起こされていたからです。壁画には汚れた不品行の場面ばかりが描かれていました。だから、見せることができないので囲いがされています。」だから、私たちは神様を恐れなければなりません。まだ、「だめだよ!やめなさい」と、注意されているうちが花なのです。その後は、「恥ずべき情欲に引き渡され」、一挙に、滅びがやってくるからです。このように神を知らない異邦人は、罪で心が麻痺し、汚れたことを行ない、その行き着くところは滅びなのです。私たちもそういう運命だったのです。

2.キリストの教え

エペソ4:20-24「しかし、あなたがたはキリストを、このようには学びませんでした。ただし、ほんとうにあなたがたがキリストに聞き、キリストにあって教えられているのならばです。まさしく真理はイエスにあるのですから。その教えとは、あなたがたの以前の生活について言うならば、人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと、またあなたがたが心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。」このところに、「キリストに学び」「キリストに聞き」「キリストにあって教えられ」と書いてあります。世の中では、「キリスト教」とは1つの宗教であり、「キリスト教え」であると思われています。しかし、それだけではありません。キリスト教とは単なる教えではありません、キリストによる奇跡であります。人が生まれ変わり、人生が変えられるという奇跡であります。使徒パウロはどのように語っているでしょうか?私たちはかつて異邦人として、罪と汚れの中にいたものです。神のさばきを受けるべき対象でした。ところがキリスト様の生きた教えを受けたことによって、3つのことが起きたのです。

まず、第一は、古い人を脱ぎ捨てるということです。心理学ではペルソナというかもしれませんが、「あなた」という人格があります。あなたはあなたの上に「古い人」を着ていたのです。英国の聖書は、old human nature、古い人の性質と訳しています。でも、その性質とはどういうものなのでしょうか?22節には、「人を欺く情欲によって滅びて行く」と書いてあります。古い人とは、「情欲によってあなた自身を惑わし、死へと向かわせる性質」であります。あなた自身が全部良いとは申しませんが、あなたという人格の周りに古い人が色んな悪さをしていたということです。私たちはお風呂に入るとき、どうするでしょうか?今まで来ていた古い着物を脱ぎます。実際は、古くはないかもしれませんが汗やほこりがついています。でも、私たちの人格のまわりに着ている古い人は、脱ぎ捨てるべきであります。きょうは奇しくも洗礼式があります。洗礼とはどういう意味でしょうか?日本語では洗うという文字が含まれていますから、何かを洗うのかなー」と連想させます。でも、本当はちょっと違います。ローマ6章には洗礼の本当の意味が書かれています。洗礼はギリシャ語ではバプティゾー、どっぷり浸かるという意味です。ですから、バプテスト教会は、洗礼は浸礼でなければならないと強く主張します。私はそれには反対しません。でも、ローマ6章に書いてある洗礼の意味は何でしょうか?それはキリストの死と一体になるということです。言い方を変えると、キリストの中にどっぷり浸かるということです。そうするとどうなるのでしょうか?あなたはキリストと共に死んで、キリストと共に葬られます。そのとき、あなたの古い人は葬られる、つまり死んだのです。それからどうなるでしょうか?キリストがよみがえられたように、あなたも新しい人としてよみがえるのです。もう、あなたは罪の奴隷ではありません。キリストと共に新しい歩みが始まったのです。だから、だれでも一度は死ななければならないということです。クリスチャンとは一度、古い自分に死んだ存在だということです。罪から解放されて、今度は神の奴隷、義の奴隷として歩むべきなのです。ある人は、「いやいや、古い人に死んだというけれど、過去の記憶はありますよ」と言います。神様は、あなたという人格を全部作り変えようとは考えておられません。あなたの記憶、あなたの性格、あなたの魂はあって良いのです。大事なのは、罪を生産する工場を壊さなければならないのです。クリスチャンになっても肉の中に罪の性質が宿っています。でも、罪を生産する工場が破壊されたのです。このことをどうぞ覚えておいて下さい。

第二は「あなたがたが心の霊において新しくされ」とあります。実は私たちの心の内側には、霊というものがあります。この世の心理学者の限界は、この霊ということを知らないということです。人格とか良心というところでおしまいです。彼らは心、心理という面ではプロかもしれませんが、人間には霊があるのです。あなたにも霊があります。問題は、クリスチャンになる前と、クリスチャンになってからどう変わったか?ということです。ある人は「クリスチャンになる前は、霊は全く死んでいた」と言います。またある人は「死んでいたのではなく、眠っていたんだ」と言います。またある人は「霊はあったけれど、ほとんど機能していなかった」と言います。私は全部、当たっていると思います。罪を犯す前のアダムは霊によって神様と親しく交わって生きていました。霊がちゃんと機能していたのです。ところが、アダムが罪を犯して堕落したために、人間は霊的に死んだ状態として生まれるようになりました。霊が全く機能していないかというと、ある程度は機能していたと思います。神様は私たちに永遠を思う想いを与えられました。「真理を見出し、善を行ないたい」という願いが、心の奥底にあります。でも、霞がかかった状態であり、自分の力では神を見出すことができません。無条件の愛を求めますけれど、友愛どまりなのです。神様はどのようなことをしてくださったのでしょうか?それはヨハネ3章に書いてありますが、御霊によって新たに生まれるということです。聖霊が私たちの内に入って来られ、私たちの霊を新たに生かすのであります。電化製品で言いますと、スイッチオンであります。昔、私の家には大きなステレオがありました。私自身も働いて、ステレオを買ったことがあります。ボタンを押すと、アンプやテープデッキ、いろんな機器に、赤や青のランプがともります。レコードをかけると、メーターが左右に動きます。そして、スピーカーからものすごい良い音が出てきます。なんか、ステレオが生きて働いている感じがします。スイッチを押したからであります。私たちもイエス・キリストを信じたとたん、スイッチがオンになったのではないでしょうか?それは霊的に生まれたと言うことです。私たちの心の奥底にある、霊が芽生えたのです。するとどうなるでしょうか?神様は確かにいらっしゃると言うことがわかります。聖書もだんだん面白くなります。祈りは聞かれる、信仰によって歩むということが分かってきます。これを新生と言います。これがなければ、キリスト教は単なる道徳になってしまいます。キリスト教は良い教えを受けるという道徳ではありません。強いて言うならば、キリスト教は生まれ変わりの宗教であります。

第三は「新しい人を身に着る」ということです。クリスチャンが新生しただけで終ってしまうと、信仰生活が難しくなります。最初はものすごい喜びでいっぱいですが、まもなく困難がやってくるでしょう。どうでしょうか?あなたは古い人を脱ぎ捨てました。それから、あなたの霊的な部分が生まれ変わりました。そのままでは、あなたは裸の状態です。さっきのお風呂のたとえをしますと、汚れた衣類を脱ぎました。そして、お風呂に入って綺麗になりました。「ハレルヤ!罪が洗い流された、オー、ハッピーディー」。あなたは霊的に生まれましたが、まだあなたは裸です。あなたの記憶、あなたの性格、あなたの魂があります。ある人たちは、「クリスチャンになってからは、ありのままで生きるんだ」とか「裸で生きる」と言います。しかし、それは、不可能です。私たちが心の中で思ったことを口からぱっと出したらどうなるでしょうか?「あなたのことを神の愛で愛しています」。それはすばらしいと思います。でも、「あなたのこういうところが間違っています。受け入れられません」とストレートに言ったらどうなるでしょうか?私たちは、裸で、ありのままでは生きられないのです。天国に行ったならば、それは可能かもしれません。でも、地上にいる限りは、衣が必要なのです。では、救われた人格に何を着るのでしょうか?新しい人を身に着るのです。ある人たちは、クリスチャンになって、ありのままで生きようとしました。ところが、傷ついたので、もう一度、古い衣類を着たりしています。古い衣服、古い人はもう着る必要はありません。生まれ変わった人は、新しい人を着るのです。新しい人とはどういう衣類なのでしょうか?24節には「真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人」となっています。新しい人とは、まず神様が創造してくださったものです。そして、それは真理に基づいた義と聖なる衣類であります。アダムとエバが罪を犯したために、彼らはエデンの園から追い出されました。その時、神様は皮の衣を作って、彼らに着せたと書いてあります。新約聖書ではそれはイエス・キリストのくださる義と聖と贖いの衣であります。

以前、コロサイ人への手紙から「新しい人を着る」と題して同じメッセージをしたことがあります。コロサイ3:12「それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。」5つの衣が書いてあります。昔は十二単というのを着ていましたが、一番、肌に近いところから着ていくとどうなるでしょうか?肌襦袢というのがあるのでしょうか?いわゆる下着です。それは深い同情心です。深い同情心を最も下に着ています。そのあと、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身につけます。ですから、クリスチャンの一番、外側に見える性質は何なのでしょうか?寛容さこそが、一番外側に見えなければなりません。あなたは寛容でしょうか?それとも、すぐカッと来て、お膳をひっくり返すでしょうか?今はお膳はないかもしれませんが、すぐカッとなったり、腹を立てる人は、寛容という衣を着ないといかんよう。でも、それだけではないとコロサイに書いてあります。5枚の衣をしっかり止める帯が必要です。コロサイ3:14「そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全なものです。」やっぱり、愛が最終的に必要なんです。この愛という帯がないと、着ているものがばらばらにはだけてしまいます。では、最後に質問させていただきます。深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容、そして愛、これらの性質を全部バランスよく備えておられる方はだれでしょうか?はい、イエス・キリストです。アーメン。「新しい人を着なさい」とは、イコール、「キリストのご性質を着なさい」ということと同じ意味なのです。「キリストを着る」でも良いかもしれません。実際、ローマ13:14には、「主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません」と書いてあります。

みなさん、キリストのご性質を人格の上に身につけましょう。キリストを着ましょう。女性の方々は外出するとき、顔や髪型を整えます。それから、衣類を身につけ、靴を履き、そしてかばんを持ちます。大変です。きょうも、そのようにして来られたと思います。一方、男性は歯をみがいて髭をそり、ぱぱととかして。服を着ます。5分とかかりません。しかし、女性は5分ではできません。ある人は30分以上もかけて、化けるのかもしれません。しかし、きょう学びました。それだけではまだ不足です。隣の人に言いましょう。「それだけではまだ不足です」。キリストを着るのを忘れてはいけません。隣の人に言いましょう。「キリストを着ましょう」。主イエス・キリストを着ることこそ、最高のおしゃれ、最高の生き方なのです。私たちは、既に古い人を脱ぎ捨てました。私たちはキリストにあって新たに生まれ変わり、新しい人を着ているのです。アーメン。

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