« 愛のうちを歩む     エペソ5:1-7 | トップページ | 御霊に満たされなさい   エペソ5:15-21 »

2009年10月25日 (日)

光の子どもらしく    エペソ5:8-14

 光の子どもらしくは、神の子どもらしくと置き換えてもほとんど意味が同じであります。もちろん、光と神様は同じではありません。しかし、あえて「光」と言うことによって、私たちのイメージがもっと膨らんできます。みなさんは光と暗やみを比較して、どんなイメージを持たれるでしょうか?光は公明正大という感じがします。一方、暗闇は悪とか不正という感じがします。ところで、みなさんは光の中にいるでしょうか?それとも暗やみの中にいるでしょうか?あるときは光の中、またあるときは暗やみの中という場合もあるかもしれません。第一のポイントは「光の子どもらしく」です。

1.光の子どもらしく

 エペソ5:8-10「あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。──光の結ぶ実は、あらゆる善意と正義と真実なのです──そのためには、主に喜ばれることが何であるかを見分けなさい。」この箇所をよく見ると何と書いてあるでしょうか?パウロは私たちが暗やみの中にいたとは書いていません。なんと、私たち自身が暗やみであったと言っています。何ということでしょう!私たちが暗やみの中にいただけではなく、私たちそのものが暗やみであったということです。それで、今は主にあってどうなったのでしょうか?光となりました。つまり、私たちは、暗やみから光へと質的に変わったということです。だからどうしなさいと言っているのでしょうか?だから、「光の子どもらしく歩みなさい」ということなのです。ここでは、あなたがたは一生懸命がんばって、光になりなさいとは書いていません。主にあって、光になったということです。私たちがイエス様を信じたことによって、化学変化が起きたのです。暗やみから光に変化したんです。これは化学変化というより、奇跡の世界であります。イエス様は弟子たちに対して、何とおっしゃっているでしょうか?マタイ5:14「あなたがたは、世界の光です」と言われました。イエス様も同じように、「あなたがたは光になれ!」とはおっしゃっていません。「光です」とおっしゃいました。私たちがイエス様を信じたことによって、暗やみから光に質的に変えられた。これって、すごいことじゃないでしょうか!「私は一生懸命、光るぞ!」と言わなくても、既に光になっているんです。あとは、だまって輝けば良いのです。

 では、光の結ぶ実は何でしょうか?9節「あらゆる善意と正義と真実です」。よく考えてみますと、善意と正義と真実は、神様が持っておられる性質ではないでしょうか?第一番目、神様は、善意、goodnessそのものです。私たちに最善をなしてくださる恵み深い神様です。善意の反対は悪意ですが、神様は悪意をもって私たちに接してはおられません。でも、私たちはこの地上で「最悪だ!どうしてこんなひどいことが起こるんだ!神様がいるんだったらこんなことは起こらないはずだ!」と思ったことはないでしょうか?この地上、この世は神様から離れています。神様なしで生きようとする人たちで満ちています。もし、本当に神様がおられなかったならば、この地上はとっくの昔に滅びていたのではないでしょうか?神様の善意があるので、保たれていると考えるのが妥当ではないでしょうか?また「最悪だ」と思っていた出来事でさえも、あとから「あれは最善だったんだ」と思えるときがくるのも不思議であります。第二番目は正義であります。義と正義、どこが違うのでしょうか?神の義がこの世おいてなされる、それが正義ではないでしょうか?残念ながら、この世においては、正義よりも不正や不義がまかり通っています。しかし、それは暗やみの出来事です。神様は正義がこの世においてなされることを望んでおられます。第三は真実であります。私たちの心の中には、「多少の嘘があっても仕方がない。嘘も方便」という先入観があるのではないでしょうか?アメリカの文化の中にも、日本の文化の中にもたくさんの嘘があります。私たちは嘘を真実に置き換えていく必要があります。ベン・ウォン師がこのようにおっしゃっています。「私たちは実をならせることばかりに集中します。しかし、実よりも大切なのは根っこです。良い根が、良い実を結ぶのです。そのために土壌を変える必要があります。土壌の中に嘘が80%もあるならば、木も余り育たないし実もほとんど見ることができないでしょう。でも、嘘を真実に置き換えるならばどうでしょう。土壌の中の真実が80%になるならば、木も良く育ち、実もたくさん見ることができるでしょう。私たちの生活の中の嘘を真実に置き換える必要があります。そうするならば、おのずと良い実が結ぶのです。」私たちは神の子どもであり、光の子どもです。私たちは光の子どもとして生きるとき、善意と正義と真実の実が結ばれていくのです。

 私たちは光の子どもとして、暗やみが支配しているこの世において、善意と正義と真実をもって生きるということです。悪意あるところに善意を、不正があるところに正義を、偽りのあるところに真実を持ち込むのであります。このことを準備しながら、「聖フランチェスコも同じような祈りをしているなー」と思い出しました。これは彼の「平和の祈り」の前半の部分です。「神よ、わたしをあなたの平和の使いにしてください。憎しみのあるところに、愛をもたらすことができますように。いさかいのあるところに、赦しを。分裂のあるところに、一致を。迷いのあるところに、信仰を。誤りのあるところに、真理を。絶望のあるところに、希望を。悲しみのあるところに、よろこびを。闇のあるところに、光をもたらすことができますように、助け、導いてください。」まさしく、フランチェスコは、暗くて希望のない世界に、光をもたらすことができるようにと祈っています。と言うことは、私たちは平和の使者なのであります。このように、考えますと、「私たちクリスチャンて、すごい存在なんだなー」と思います。でも、どうして神様ご自身が、光なんですから、ご自分でそうしないんでしょうか?私たちよりも、よっぽど力があって、効果的にできるのではないでしょうか?恐らくこういうことでしょう。神様ご自身は確かに光ではありますが、あまりにも明るい光、善意と正義と真実の極限であります。もし、その強烈な光で私たちが照らされたら、滅びてしまうんじゃないかと思います。不正が根こそぎあばかれ、罪が完全に裁かれたならば、クリスチャンである私たちも生きてゆけません。でも、世の終わり、完全な裁きがなされます。黙示録20章には「大きな白い御座」と書いてあります。白いとは、まばゆい光、神の栄光をあらわしているのだと思います。もし、大きな白い御座に立たされたならば、誰ひとりとして、生きてゆけないでしょう。でも、私たちは贖い主、イエス・キリストが間におられるので、そこは「恵みの御座」なのであります。神様は私たちクリスチャンを用いて、この世のさばきが来るまで、なんとか少しでも明るくしてもらいたい。そのために、あなたがたを世の光として使わす。暗い世界に、善意と正義と真実の光をもたらすようにというのが神様のみこころなのであります。

 先週一週間、振り返ってみて、「自分はこの世に対して、光としての役割を果たしただろうか?」自問自答してみました。月曜日のゴスペルでは、くだらないジョークを少し飛ばしてしまいました。水曜日は日本聖書神学校の朝の礼拝に招かれました。少しは福音の光をもたらすことができたかもしせん?しかし、午後、税金の滞納金を受け取りに来たおばさんに対しては、冷たい扱いをしたかもしれません。エアコンのセールスマンに対してはどうだっただろうか?先週は韓国の衛星放送を録画しました。オンヌリ教会主催の聖会が生放送されていて、1つ1つの集会を録画していました。ところが、木曜日の朝、岩本姉が掃除しながら、リモコンのスイッチを押してしまいました。なんと、途中から映っていません。姉妹が帰ったあとに、「ああー、何でだよー」と叫びました。人には当たらなかったかもしれませんが、あの嘆きと叫びは神様を悲しませたかもしれません。昨日のバーベキューではどうだろうか?私が日曜日、アナウンスすべきだったのにそれを忘れて、林兄に悪いことをしました。他にもありますが、たった1週間の中でも、暗やみとはいえなくても、「良い光り方じゃないなー」というところがいくつもありました。日曜日の礼拝メッセージでは光っていても、普段の時が問題であります。地金が出てくるかもしれません。しかし、私たちは暗やみから光に質的に変化したのですから、地金とは光そのもです。問題が起きた時、一瞬、表面のさびで反応するかもしれません。でも、神様のところに持っていくと、さびが取り除かれて、光りがその下から出てくるのです。これが本当ではないでしょうか?なぜなら、私たちは暗やみではなく、既に光に変えられているからです。私たち光の子どもなんです。本質的に変えられているのです。大切なのは、ふだんの生活の中で、主に喜ばれることが何であるかを見分けることであります。そうすれば、だんだん光の結ぶ実が多くなるでしょう。9,10節をもう一度お読みいたします。「光の結ぶ実は、あらゆる善意と正義と真実なのです──そのためには、主に喜ばれることが何であるかを見分けなさい。」

2.明るみに出す

 エペソ5:11-14「実を結ばない暗やみのわざに仲間入りしないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。なぜなら、彼らがひそかに行っていることは、口にするのも恥ずかしいことだからです。けれども、明るみに引き出されるものは、みな、光によって明らかにされます。明らかにされたものはみな、光だからです。」ここでは、何かを明るみに出しなさいと命じられています。明るみに出すとは、「隠されていたものを明らかにする、表面に出す」ということです。このところでは、何を明らかにしなさいと言われているのでしょうか?「実を結ばない暗やみのわざ」であります。具体的に言うならば、善意と正義と真実と反対のものであります。悪や不正、偽り、悔い改めていない罪ということになります。テレビにいろんな刑事ものの番組があります。刑事は真実をあばくことに命をかけています。本来なら、うやむやですまされるところを、主人公はどこまでも追及していきます。二転三転はありますが、最後には全部解明されます。悪がはっきりとさばかれることによって、被害者の気持ちがやっと収まるというストーリになっています。それを見ている私たちもすっきりします。先日、「足利事件再審開始」という記事を見ました。菅家さんは当時の検察官を訴えています。これまでの裁判では検察官が訴えられたということはないそうです。彼としてはどういう経緯で、自分が有罪になったのか、知りたいのです。そして、心から誤って欲しいのでしょう。検察や警察は、あまり謝ることがありません。冤罪の場合は、名誉も人生も失われ、深い心の傷を負います。ですから、すべてを明らかにしてから謝罪をして欲しいのでしょう。また、南アフリカにこのようなことがあったそうです。ある警察官が18歳の黒人青年を捕らえました。そして、両親の目の前で、銃で頭を打ち抜きました。さらに、彼らの家に火をつけ、青年の死体をそこに投げ込みました。ご両親は気が狂わんばかりの、悲痛な叫びを上げました。数年後、その警察官は彼の父を捕らえ、同じように殺して火で焼きました。その後、マンデラが首相になり国が変わりました。そのとき、自分が行なった罪をはっきり告白するならば無罪にするという法律ができたそうです。そのとき、青年と父を殺した警察官が、みんなの前に出て自分の罪を告白しました。彼の前に、青年の母であり、妻である年老いた女性が進み出たそうです。彼女はその警察官に言いました。「3つの条件をかなえてくれたらあなたを赦します。1つは私の息子と夫の骨をどこに捨てたのか教えてください。第二は私にあなたをハグさせてください。第三は私の家に一度、夕食を食べに来てください。あなたのためにごちそうを作ります」。そのように言ったそうです。なんという赦しの力でしょう。これは、罪を明るみに出したならば、光になるということです。

 もう1つ「明るみに出す」とは、個人の中に隠されている罪であります。特に、中毒を引き起こしている罪は明るみに出さないと決して解放されることはありません。アルコール、性、薬物、ギャンブル、ゲーム、ショッピングなど、たくさんの依存症があります。多くの場合、そういう人たちは、そのことを認めようとしません。「たいしたことない。たまたまだよ。数回しただけだよ」と否認します。身も心もボロボロで、家庭も機能不全なのに、認めようとしないのです。最後は第三者が入って、強制的に隔離しないと手遅れになる場合があります。「私はそこまでひどくない!」という人がいるかもしれません。アメリカで最も大きな教会の、ある牧師は長い間、同性愛をしていました。彼は世界中ですばらしい働きをしていました。私もインドネシアに行ったとき、彼がメインの講師でした。握手もしました。ところが数ヶ月後、彼の罪が暴露されました。世界中にそのニュースが伝わりました。あとで、エディ・レオ先生に「あのような先生を招いたために、教会内で問題になったのではないでしょうか?」と聞きました。先生は「私たちは罪を告白するのに慣れていますので、大丈夫です」と言いました。ある集会で、エディ・レオ先生がマタイによる福音書を引用して教えてくださいました。マタイ10:26,27「おおわれているもので、現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはありません。わたしが暗やみであなたがたに話すことを明るみで言いなさい。また、あなたがたが耳もとで聞くことを屋上で言い広めなさい。」隠された罪を明らかするには2つの方法があります。1つは自分の罪を自分で明るみに出す方法です。自分で罪を言い表すなら、被害は最小限に留められます。もう1つは神様から手伝ってもらう方法です。神様は私たちをとっても愛しておられますから、そのままにしておきたくないのです。でも、神様からやってもらうと屋上でみんなに言い広められるということになります。自分で明るみに出すか、それとも神様に手伝ってもらう方かどちらが良いでしょうか?隠している罪を明るみに出すことによって、罪の鎖が砕かれ、私たちは自由になることができます。でも、隠しておくならば、じわりじわりと死んでいくでしょう。ダビデ王は姦淫と殺人の罪を一度に犯しました。隠している時、彼の心はどうだったでしょう?詩篇32:3,4「私は黙っていたときには、一日中、うめいて、私の骨々は疲れ果てました。それは、御手が昼も夜も私の上に重くのしかかり、私の骨髄は、夏のひでりでかわききったからです。」でも、主の前に告白したらどうなったでしょう?32:5私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした。私は申しました。「私のそむきの罪を主に告白しよう。」すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました。ダビデは「幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は」と主を賛美しました。

 私たちは天気の良い日には、ふとんをベランダに干します。干した後のふとんで寝ると気持ち良いですね。また、6月とか梅雨のシーズンには衣類にカビが生えたりします。私たちはそれをお日様のもとに、吊るして干します。天日干しというのでしょうか?すると、日光の力でカビが死ぬんです。他のバイ菌も死ぬかもしれません。そのように、日の光には力があります。私たちも同じように、罪を明るみに出すならば、光なる神様がそれをきよめてくださいます。私たちはすべての罪を人に言う必要はありません。その人に直接、被害を与えていた場合は、口に出して謝るべきでしょう。でも、こっちが勝手に思っていたことを、相手に「あなたのことを実は、このように思っていました。お赦しください」。すると相手は「え?私のことをそんな風に思っていたの」と逆に傷つくでしょう。大川牧師は、「ゴミ出しでない日に、ゴミを出さないように」といおっしゃいました。みなさん、ゴミを出すべき日にゴミを出しましょう。クリスチャンになるとき、信仰を持つときは、全部の罪を告白する必要はありません。「私は罪人でした。これからはあなたを信じていきます」。これで良いのです。これは信じるための悔い改めであって、一生で一回で良いのです。でも、私たちがクリスチャンになってから個々の罪を悔い改める必要があります。黙示録3:19「わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。」これはクリスチャンに対するイエス様のことばです。イエス様は私たちがきよめられるように願っておられるのです。もし、私たちが本来、告白すべき罪を、神様にもだまっているならばどうなるでしょうか?サタンがあなたを告発します。サタンはあなたの良心を縛り、「これは神様でも赦してくれないよ」と言うでしょう。「お前はクリスチャンになって、罪を赦されたはずなのに、こんなことをしてしまって、ああ、お前はもう赦されないよ」。このようにサタンは言うのです。しかし、それは嘘です。こういうお話があります。あるところに、姉と妹がいました。ある朝、妹がおねしょをしてしまいました。それをお姉さんに見つかりました。お姉さんは「お母さんにないしょにするから、私の言うことを聞いて」と言いました。学校から帰ってきたとき、おやつが出てきました。妹が食べようとしたら、お姉さんが「私にちょうだい」と言いました。妹は「私のおやつでしょう?」と言うと、お姉さんは「いいの、あのことお母さんに言っても」と言いました。妹はしかたなく、おやつを上げました。夕方になって、お母さんがお姉さんにお使いを頼みました。お姉さんは、妹のところにやって来て、「あなたが代わりに行ってちょうだい」と言いました。妹は、しぶしぶ言うことを聞きました。夕ご飯をすませたあと、お母さんが「きょうのお皿洗いの当番はだれ?」と聞きました。お姉さんは、妹の○○ちゃんよと言いました。妹は、「いいえ、今晩はお姉さんの当番よ!」と言いました。お姉さんはきびしい顔をして言いました。「あのことを言ってもいいの!」。妹は「ええ、言っても構わないわ」。お姉さんは「本当にばらすわよ!」。妹は「いいもん。さっきお母さんに謝って、赦してもらったから!」と言いました。

 私たちは「こんなひどい罪を犯したんだから、神様でさえ赦してくれないだろう。神様も愛想を尽かしているんじゃないだろうか!」と思っているかもしれません。しかし、神様は7の70倍赦すお方です。ただ、悪魔が嘘をついているだけなのです。まず、神様の前に告白しましょう。もし、その次に、当事者に告白する必要が出てきたら、神様ご自身がその力をあなたに与えてくださいます。まずは、光なる神様のもとに差し出しましょう。神様はそれを光そのものに変えてくださいます。あなたの魂が霊の部分がそのことで死んでいたかもしれません。でも、神様はイエス様をよみがえらせたように、あなたをよみがえらせてくださいます。「眠っている人よ。目をさませ。死者の中から起き上がれ。そうすれば、キリストが、あなたを照らされる。」

|

« 愛のうちを歩む     エペソ5:1-7 | トップページ | 御霊に満たされなさい   エペソ5:15-21 »