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2009年10月18日 (日)

愛のうちを歩む     エペソ5:1-7

 エペソ5章には、「…らしく」「・・・にふわさしく」「…のように」という言葉がたくさん使われています。英語の聖書は、すべてasになっていますが、エペソ5章には12回出てきます。asとは、「・・・と同じく」「・・・と同様に」「・・・のように」であります。だいたい、このような書き方がなされています。「あなたがたは神様のこどもなのだから、神様のこどもらしく歩みなさい。」「あなたがたは聖徒なのだから、聖徒にふさわしく○○はしてはいけません。」「あなたがたは光のこどもなのだから、光のこどもらしく歩みなさい。」ここには共通した要素があります。私たちはキリストにあってすでに、神の子ども、聖徒、光のこどもなのであります。質的にも、身分においても変わったのです。「だったら、それにあったように生活しなさいよ」ということなのです。この世の宗教や教育の場合は、低いところからスタートします。一生懸命に修養し、道徳的な生活を積んで、高いところへ登ろうとしています。でも、私たちの場合は、キリストの贖いによって、すでに高いところにあるんです。「だったら、それにふさわしく生きるべきでしょう」というのが聖書の教えです。どうぞ、私たちはスタートするところが下ではなく、上であるということを覚えていただきたいと思います。どうでしょうか?あなたは今、どこにいるでしょう?下の方におられますか?それは、倫理道徳の世界です。あるいは、イエス・キリストによって上におられますか?それは、恵みの世界です。

1.小さくても大事なこと

 エペソ5:1「ですから、愛されている子どもらしく、神にならう者となりなさい。」これは、「神様の子どもなんだから、神様にならう者となりなさい」という意味です。5:2「また、愛のうちに歩みなさい。キリストもあなたがたを愛して、私たちのために、ご自身を神へのささげ物、また供え物とし、香ばしいかおりをおささげになりました。」これは、「キリストがあなたがたを愛されたように、あなたがたも愛のうちを歩みなさい」という意味です。5:3「あなたがたは聖徒なんだから、聖徒にふさわしく、以下のことをしてはいけませんよ」と教えています。では、私たちが聖徒として避けるべきことは何でしょうか?「不品行も、どんな汚れも、またむさぼりも、口にすることさえいけません」と命じられています。4節には「みだらなことや、愚かな話や、下品な冗談を避けなさい。そのようなことは良くないことです。むしろ、感謝しなさい。」と言われています。ここをざっと読んで、どのように思われたでしょうか?私は「けっこうしているなー」と思いました。特に愚かな話や、下品な冗談です。私は「これは自分の性格であり、罪じゃないよ。むしろ、場を明るくするために良いことじゃないか」と思ったくらいです。でも、この箇所を良く見ると「そのようなことは良くないことです」と書かれています。「いやー、そんなに悪いことなのかなー、それは罪なの?」と思いたくなります。もし、そんなに固かったら、「聖人君主みたい」と言われるんじゃないでしょうか?まず、第一番目は、そういう一見、小さな問題を一緒に見ていきたいと思います。

 この世では、不品行も、汚れも、またむさぼり、みだらなことや、愚かな話、下品な冗談は、日常茶飯事であります。私たちはかつてそういう世界で生きたし、今も生きているんじゃないでしょうか?でも、よく考えますと、私たちはこの世から贖い出されたものです。この世のものであって、この世のものではありません。この世に生きていますが、この世に属してはいません。私たちは神の子どもであり、聖徒であり、光の子どもです。質も立場も、かつてのものとまるっきり違ったわけです。でも、どうでしょうか?この世から救い出されたとは言え、まだ、この世の垢、この世の価値観、この世の性質がくっついている状態ではないでしょうか?私たちは罪の世界から、救い出されました。そして、キリストの血潮によって、罪がきよめられました。これは間違いありません。でも、わずかではありますが、いくつかの罪や悪い性質がくっついていると考えるのが妥当ではないでしょうか?「私はクリスチャンになってから、不品行も、どんな汚れも、またむさぼり、みだらなことや、愚かな話、下品な冗談も口に出しません。牧師先生と一緒にしないでください」と反論する方はおられるでしょうか?程度の差はあれ、ある程度、この世のものをくっつけているんじゃないでしょうか?でも、「それはしょうがない」とそのままにしておくか、それとも1つずつ取り除いていくか?決断しなければなりません。

 先ほど、申し上げましたが、私が「これは自分の性格であり、罪じゃないよ。むしろ、場を明るくするために良いことじゃないか」と思い続けたとします。これは私が吟味したことであります。「もし、これがあるために、神のしもべとして相応しくないならどうだろうか?」「もし、これがあるために、力をなくしていたらどうだろうか?」「もし、これがあるために信用をなくしていたらどうだろうか?」少し立ち止まって、考える必要があります。私はキリスト教の教理をお話するのは大好きですが、こういう倫理的なことを話すのは好きではありません。できれば、自分の生活と直結しているようなメッセージは避けたいです。もし、私がみなさんに「○○してはいけません」と指さすなら、三本の指は自分に向けられるからです。こういう問題を、救いから考えるならば、枝葉の問題かもしれません。でも、ルカ16:10「小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です」と書いてあります。また、雅歌に「ぶどう園を荒らす小狐」のことが書いてあります。雅歌2:15「『私たちのために、ぶどう畑を荒らす狐や小狐を捕らえておくれ。』私たちのぶどう畑は花盛りだから。」とあります。確かに、小さいことかもしれません。でも、それが大切なものを台無しにしてしまうなら非常に残念です。私が皮肉やブラックユーモアを言うのは、生まれ育った環境がひどかったからです。腕力では負けるので、ことばで言い返しました。暗くてひどい状況を皮肉や冗談で、笑い飛ばす。しかし、それらは表現こそ違いますが、つぶやきとか、反発の現われかもしれません。もし、これが神様に向かって発しているとするならば、立派な罪であります。人から指摘されると腹が立ちますが、みことばから教えられると素直に認めざるをえません。そういう体質が、染み込んでいるというか、私の性格の一部になっています。アーメン、告白します。

 では、その代わりに何をしたら良いのでしょうか?「むしろ、感謝しなさい。」アーメン。エディ・レオ師が、メッセージで語っておられました。「つぶやきや不平不満は神様を天から引き降ろすことである。逆に、感謝や賛美は神様を高めることである」ということです。では、代わりに感謝や賛美をこの口から出せば良いということなのであります。アーメン。それにしても、クリスチャンになる前は、感謝することはほとんどありませんでした。いつも、不平不満、辛口のジョークを飛ばしていました。聖徒にふさわしく生活するということは、それらを感謝に換えるということです。この世において生活するときいろんなことがあります。不品行、汚れも、むさぼり、みだらなこと、愚かな話、下品な冗談・・・という誘惑がやってきます。「ダメだ、ダメだ、そうしちゃいけない」。それではうまくいきません。その代わりに、感謝や賛美を出す。つまり、イエス様を礼拝する機会とすれば良いのです。誘惑が来たら、「ハレルヤ!主を賛美します。あなたを礼拝します。」良い行ないと置き換える。これを繰り返していくならば、勝利ある信仰生活を送ることができます。アーメン。どうでしょうか?みなさんは、「これは自分の性格であり、罪じゃないよ」という小狐はいないでしょうか?聖徒にふさわしくないもの、神のこどもにふさわしくないものはないでしょうか?それを認めることはイヤなことです。でも、そのことがあるために力をなくしている。そのことがあるために信用をなくしているというものはないでしょうか?もし、あるならば告白することです。これは、かなりの部分、私自身に言われていることです。でも、みなさんもいかがでしょうか?もしあるならば「これは罪である」と告白することです。その次何をするのでしょうか?メタノイヤー、方向転換です。その罪を捨てて、代わりに新しいこと、正反対のことをするということです。聖霊様の声に耳を傾けましょう。それは大きな罪ではないかもしれない。でも、それは聖徒にふさわしくない、神のこどもにふさわしくない。どうぞ、それらを告白して、メタノイヤーしましょう。「小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です」アーメン。

2.愛のうちを歩む

 エペソ5:5-7「あなたがたがよく見て知っているとおり、不品行な者や、汚れた者や、むさぼる者──これが偶像礼拝者です、──こういう人はだれも、キリストと神との御国を相続することができません。むなしいことばに、だまされてはいけません。こういう行いのゆえに、神の怒りは不従順な子らに下るのです。ですから、彼らの仲間になってはいけません。」前の節と少し比べたいと思います。エペソ5:3にも、不品行、汚れ、むさぼりについて書かれていました。でも、5:5の場合は、「不品行な者や、汚れた者や、むさぼる者」となっています。この両者の違いは何なのでしょうか?私たちはクリスチャンになっても、不品行、汚れ、むさぼりをすることがあるかもしれません。でも、それは「いつも」という訳ではありません。「ときどき、たまたま、あるときは」ということであります。でも、だんだんしないようになっていきます。一方、「不品行な者や、汚れた者や、むさぼる者」というのは、常にしている、それらの罪が常習的になっている人のことであります。では、そういう人は救われているのでしょうか?救われていないんです。だから、5:5「そういう人はだれも、キリストと神との御国を相続することができません」と書いてあります。また、5:7「ですから、彼らの仲間になってはいけません」とあります。彼らとは、救われていない人たちであります。ある人が牧師のところに相談に来ました。「先生、私は罪とわかっていながら、またやってしまうのです。私は救われているんでしょうか?」と聞きました。牧師はその人に聞き返しました。「あなたはイエス・キリストが必要ですか?それとも、必要じゃありませんか?」。その人は「もちろん、私はイエス様が必要です。イエス様がいなくては生きてゆけません」。牧師は、「あー、そうですか?では、あなたは救われていますよ」と答えたそうです。クリスチャンでも罪を犯すことはあります。でも、したいと心から思ってやっているのではなく、誘惑に負けてそうしているのです。Ⅰヨハネ3:9「だれでも神から生まれた者は、罪を犯しません。なぜなら、神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪を犯すことができないのです。」ここで言われている「罪を犯さない」という、本当の意味は、「罪を犯し続けない」という意味です。なぜでしょう?なぜそうなのでしょう?「なぜなら、神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪を犯すことができないのです。」そうです。聖霊によって新しく生まれ変わっているので、好んで罪を犯し続けることができないとうことです。それまでは、罪を犯しても別段、何とも思っていませんでした。でも、クリスチャンになってからは罪を犯すと気持ち悪くなるのです。それは、自分にとって普通じゃないからです。ハレルヤ!

 でも、このところには私たちが学ぶべき教訓が記されています。エペソ5:5が少し問題です。「不品行な者や、汚れた者や、むさぼる者──これが偶像礼拝者です」とあります。なぜ、これらの罪が偶像礼拝なのでしょうか?では、偶像礼拝というのはどういう意味でしょうか?出エジプト記20章には「あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない」と書いてあります。私たちは偶像を造るとき、初めに何をするでしょうか?まず、頭の中でイメージ、想像します。それから造るのです。同じように、偶像礼拝は頭の中で想像から始まるということです。ここには不品行、汚れ、むさぼりという罪がありますが、それらが偶像礼拝になりうるということです。どうして?でしょうk?不品行はまず、頭の中から始まるということです。ポルノの本とか映像を頭の中にインプット(保存)します。それからいろいろ想像します。すると、それが偶像になっていくということです。汚れやむさぼりも同じです。むさぼりというのは、どういう意味でしょう?出エジプト記20章には「あなたの隣人の家を欲しがってはならない。すなわち隣人の妻、あるいは、その男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを、欲しがってはならない。」とあります。むさぼりとは、本来、自分が手にしてはいけないものを、欲しがるということです。隣人の家、隣人の妻、隣人の男奴隷、女奴隷、牛、ろばです。今は時代が進んでいますので、奴隷や牛、ろばはいません。その代わり、隣人の持ち物、隣人の車、隣人の地位でしょうか?そういうむさぼりも、頭から始まるということです。「これを持ったら幸せになるんじゃないだろうか?」と想像します。なぜ、ヨンさまが流行っているのでしょうか?それは、おばさんたちが「ヨンさま」と結ばれたならどんなに幸せだろうか?と想像するからです。でも、それは偶像になります。歌手や映画スターのことをアイドルと言いますが、まさしく偶像であります。本来、自分に属するものでないものを欲しがる、これが偶像礼拝の始まりです。

 ということはどうでしょうか?どのようにしたら偶像礼拝から守られるのでしょうか?そうです、それは目で見るもの、つまり映像を制限するということです。テレビではジャパネットとか、テレビショッピングの番組が24時間放映されています。モデルさんが宝石や衣類をまとっています。「あれを身につけたら、自分もあのようになれるかしら?」と想像します。嘘です。あれは、モデルさんが初めから綺麗だからです。うちも、ケーブルテレビですから、アメリカのテレビ番組がいっぱい入ってきます。残酷な殺人シーンがいっぱい出てきます。ずっと、見ていると感覚が麻痺します。それから、インターネットであります。アメリカでは90%の男性が、インターネットのポルノにはまっていると聞いたことがあります。牧師やクリスチャンも例外ではないとのことです。私のインターネットで調べものをしていると、「ひゅっ」と入ってきます。ラッキーと思って見たりするときもありますが、神様を恐れます。もし、それを常習化していくなら中毒になるでしょう。皆さん、何でもそうですが一旦、中毒になるとなかなかやめられません。私たちは、まずその前の段階で自分をコントロールすべきです。私がよく交わる教会の方は、意外にもテレビをあまり見ていない人が多いんです。むしろ、私の方が見ているかもしれません。先週もお話しましたが、「やめろ!」ではうまくいきません。私たちは代わりのものを見つける必要があります。良いものを見る、良いものを学ぶ、良いことに時間をかける必要があります。

 昨年、サンデー・アデラジャ師が日本に来られ、このようなメッセージをしました。人生には3つのレベルがあるということです。第一のレベルは、動物的な生き方です。今の若者たちはこのレベルの人が非常に多い。マタイ6章には、何を食べるか、何を飲むか、何を着るかと心配している人たちのことが記されています。テレビでは、「どういう洋服が流行っているのか、グルメな食べ物は何か?」そういうことばかり報道しています。でも、それらは自分の肉、自分の欲するものを満たす動物的な生き方です。そういう人は、神様から与えられた人生を無駄にしています。ただ、生存するためにだけ、私たちの人生があるのでしょうか?男性は会社で一生懸命、働いています。給料をもらい、昇進し、出世を目指して働いています。でも、それらは生存するため、肉の法則に従って生きる人です。第二番目は時の流れに身を任せている生き方です。この人たちは、もっと知的な生き方です。肉欲ではなく、知性、自分の考えに従って生きています。人生の価値あるものに焦点を合わせて生きる人です。でも、結局のところ、彼らは自分の成功、自分自身のために生きる人生です。良い教育を求め、知性を求めるインテリな人たち。自分のキャリヤ、職業には熱心です。自分の業績、成功を人生の焦点にしています。そういう人たちは、中産階級の人たちと呼べるかもしれません。でも、聖書から言うと、彼らの人生はエゴを満たすための、自己満足的な生き方です。肉ではないかもしれませんが、魂のレベルでしか生きていません。第三番目の人生とは何でしょうか?第一は生存するために生きている人、第二は時の流れに任せ、中途半端に生きている人です。第三は人生に秘められた、偉大なものを発見して生きる人です。つまり、人生最高の生き方を見出して生きている人です。人生最高の生き方とは何でしょうか?それは神様から与えられた人生を、神様のため、あるいは人類のために投資する人であります。彼らは現時点において自分の命を失っているかもしれません。でも、将来、自分の命を見出すのです。イエス様は「自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです(ルカ9:24)。」と言われました。神様に捧げると自分の命を失うのではなく、それは自分の命を得るのです。私たちの人生は神様から与えられたものです。この人生を神様にお返しするために生きる。この命を自分のためだけに使うならば、人生を失うことになります。食べて飲んで着る生活は動物的な生き方です。自分のために生きるのは中途半端な生き方です。そして、最高の生き方は神様と人々に、自分の人生を投資する生き方です。現時点において、人生を犠牲にしているかもしれません。でも、未来において、その時が来るなら、自分のものとすることができるのです。多くの人たちは自分のために生きています。自分のために時間とエネルギーを費やしています。しかし、私たちは神様から与えられた人生を、神様に栄光を帰するために生きるべきであります。自己犠牲の生き方こそが、一番、神様に喜ばれる生き方です。

 この世の中は、まさしく、不品行、汚れ、またむさぼりが満ちています。不品行な者、汚れた者、むさぼる者がいます。私たちはこの世に生きていますので、様々な誘惑に遭い、あるときは罪に捕らわれるかもしれません。では、どうしたらそういう罪や誘惑に勝利して歩むことができるのでしょうか?それは第三番目の生き方、神様と人類に、自分の人生を投資する生き方です。神の国のために自分の人生を投資する生き方こそ、最も賢い生き方なのです。

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