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2009年10月11日 (日)

メタノイヤー     エペソ4:25-32

 先週は、私たちクリスチャンは、信じたとき3つのことがなされたということを学びました。第一は古い人に死んだということです。第二番目は霊的に新しく生まれたということです。第三番目は新しい人を着るということでした。しかし、それだけではまだ不十分だったのです。これから実際の生活で、そのことを実践していくことが必要です。自分の生活が変えられるところまで行く必要があります。つまり、それはライフスタイル・チェンジであります。これまでの生活が私たちの体に染み込んでいました。ぼーっとしていれば、また古い生活パターンを繰り返してしまいます。そうすると、「ああ、私は救われていないのかなー。キリストを信じても何も変わらないんだ。信仰なんか捨てよう」というところまで行く恐れがあります。ですから、霊的に生まれたなら、今度は新しい生活習慣を身につけるということが待っています。では、古い生活習慣を捨てて、新しい生活習慣を身につけるにはどうしたら良いのでしょうか?

1.メタノイヤー

 キリスト教会ではよく「悔い改め」ということばがよく聞かれます。「悔い改めなさい」「悔い改めましょう!」。そう言われると、みなさんはどのように感じるでしょうか?何か、重たい感じがしないでしょうか?私は最初、ホーリネスの神学校に行ったとき、この「悔い改め」というのが、とてもイヤでした。「まだ、罪はないか?罪を悔い改めなさい!まだ、罪はないか?」。なんだか、暗い部屋に閉じ込められて、刑事から「吐け!吐け!」と尋問されているような気がしました。大体、「悔い改め」という日本語が重たい感じがします。「悔いて」「改める」という、2つのことばが合わさっているからです。英語のrepent も同じような意味があります。repentは辞書を見ると、「○○したことを後悔する、残念に思う、懺悔する」であります。非常に後ろ向きであります。でも、聖書にはそのような意味は全くありません。ギリシャ語で「悔い改め」は、メタノイヤーと言います。これは「考えを変える、思いを変える」つまり、方向転換を意味する言葉です。ローマの軍隊が行進をしています。隊長が「メタノイヤー」と言います。すると、兵隊たちはただちに止まり、それから向きを変えてまた行進するのであります。元来、「メタノイヤー」とは、向きを変えるという意味なんです。ですから、いくら罪を悔いたとしても、新たに方向転換しなければ、本当の悔い改めにはならないということです。キリストの弟子であるユダは自分が犯した罪を確かに悔いました。しかし、イエス様のところに戻っていかないで、自分でその罪を始末しました。一方、ペテロは3度も知らないと言ったことで泣きました。その後、イエス様のところに戻ったのです。これが本当の悔い改め、メタノイヤーです。

 では、クリスチャンになったならばどのような悔い改め、メタノイヤーが必要なのでしょうか?また具体的にどのようにメタノイヤーするのでしょうか?エペソ4:25「ですから、あなたがたは偽りを捨て、おのおの隣人に対して真実を語りなさい。私たちはからだの一部分として互いにそれぞれのものだからです。」このところでは、偽りの罪について言われています。では、偽りをどうするのでしょうか?まず、第一に偽りを捨てるということです。罪を捨てるこれが第一段階です。その次はどうするのでしょうか?「おのおの隣人に対して真実を語る」です。偽りの反対は、真実を語るということです。つまり、こういうことです。これまでは偽りを語っていました。はい「メタノイヤー」。偽りを捨てます。それから向きを変えて、「真実を語る」ということです。もう一度やります。「偽り」「偽り」「偽り」。これに対して「メタノイヤー」。「はい、偽りを捨てます」、そして新たに向きを変えます。「真実を語る」「真実を語る」「真実を語る」であります。28節には盗みの罪が述べられています。4:28「盗みをしている者は、もう盗んではいけません。かえって、困っている人に施しをするため、自分の手をもって正しい仕事をし、ほねおって働きなさい。」これも同じようにします。「盗み」の反対は何でしょうか?「施しをするため働く」ということです。これまでは盗みをしていました。「盗み」「盗み」「盗み」。これに対して「メタノイヤー」。「はい、盗みを捨てます」。そして新たに向きを変えます。「施しをするため働く」「施しをするため働く」「施しをするため働く」です。ハレルヤ!29節には「悪いことば」について書かれています。4:29「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。」これも同じようにします。「悪い」ことばの反対は何でしょうか?「人の徳を養うのに役立つことばを話す」ということです。これまで悪いことばを口から出していました。「悪いことば」「悪いことば」「悪いことば」。これに対して「メタノイヤー」。悪いことばを捨てます。それから向きを変えて、「徳を養うのに役立つことば」「徳を養うのに役立つことば」「徳を養うのに役立つことばを語る」です。

 キリスト教の弱さとは何でしょうか?頭では理解していても、生活が変わらないということです。私たちは何べんもメッセージを聞き、聖書も読みました。いろんな集会やセミナーにも参加するかもしれません。でも、知識ばっかりで生活が変わらない。これが問題なんです。ですから、私たちはもう一度、スタート地点から始めるべきです。私たちはクリスチャンになったとき、信じるだけで救われました。「私には罪があります。私はキリストが必要です。イエス様私の罪のために十字架で死んでくださり感謝します。アーメン。」これで、すべての罪が赦されました。確かにあなたの罪は赦されたのです。でも、あなたが実際の生活で歩み出したら、うまくいきません。なぜでしょう?キリストにある新しい生き方が身についていないからです。では、古い罪の生活と別れ、どうしたら新しい生活ができるのでしょうか?それが、この「メタノイヤー」なのであります。私たちはイエス様を信じたとき、「メタノイヤー」したのです。神様に背を向ける生活がら、こんどは神様の方に向きを変えて、光の中を歩むものとなったのです。これは、救いのための「メタノイヤー」であり、一生に一回限りのものです。でも、それでおしまいではありません。自分の中にある古い罪の生活習慣を直していかなければなりません。そのためには自分の罪を認め、「メタノイヤー」していかなければなりません。そして、新しい生活をしていくと、それが次第に身についてきます。これをライフスタイル・チェンジと言います。つまり、私たちは生活が変わるところまで行く必要があります。信仰のゴールは、ライフスタイル・チェンジであります。 

 先月の半ば、エディ・レオ師によるメンズ・セミナーがありました。男が変わるための集会であります。そこで先生は、私たちは永続的に変わるために2つのことが必要ですと教えてくださいました。1つ目は、新しいことを49日間続けるということです。49日?どこかで聞いたことがある数字です。調べてみたら、「49日目のこの日を境に、現世にさまよっていた故人の魂が成仏するといわれている」そうです。インドネシヤに49日はないと思いますが。とにかく、聖書を読むディボーションでも、49日間続ける。そうすると、それが習慣となり、聖書を読まないでは過ごせなくなるということです。さきほどの、「徳を養うのに役立つことば」も、49日間続けると身につくということです。おそらく、49日目で古い習慣が成仏して、新しい習慣に生まれ変わるということでしょうか?また、もう1つは、行動をチェックしてくれる仲間が必要だということです。仲間とは信仰の友であります。LTGとか、セルとか、コーチング、何でも構いません。「先週どうだった?ポルノから守られた?ディボーションした?」そういうことをお互いにチェックし合う。世の中にはアカウンタビリティという言葉があります。強いて訳すならば、説明責任と言うのかもしれません。何か堅苦しい感じがしますが、自分をコーチしてくれる人を見つける。それが、弱さから脱却するすばらしい道であります。Ⅰヨハネ2章には、教会には子どもと若者と父という3種類の人がいると書いてあります。若者とはどういう人でしょうか?「あなたがたが強い者であり、神のみことばが、あなたがたのうちにとどまり、そして、あなたがたが悪い者に打ち勝ったからです。」私たちは、霊的子どもから、若者のところまで進む必要があります。恵みによって、それは可能です。大切なのは、「メタノイヤー」であります。隣の人とお互いに「メタノイヤー」と言いましょう。「メタノイヤー」。「メタノイヤー」。

 最後にもう1つメタノイヤーがありした。それは、エペソ4:31と32節です。4:31「無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなどを、いっさいの悪意とともに、みな捨て去りなさい。」それからどういう新しい道を歩むのでしょうか?「メタノイヤー」の生活とはは何でしょうか?4:32「お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」

2.予防策

 今、インフルエンザが猛威をふるっていますが、インフルエンザは予防が大切だと言われています。たとえば、外出後に手を洗うとかマスクを着用するということです。それから、ワクチンによる予防があります。今は、従来ものと新型ウイルスの2種類が必要だということを聞いたことがあります。つまり、インフルエンザの予防のためには、日常できることと、そしてワクチンを接種するということです。エペソ人への手紙にも、2つの予防策が記されています。まず、第一は怒りについてです。怒りが罪とならないために、どのような措置を取るべきなのでしょうか?4:26,27「怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。悪魔に機会を与えないようにしなさい。」ここには、ものすごく重要なことが記されています。多くの人たちは、怒りをコントロールできないために、人生を破壊しています。箴言には怒りについて多くのことが記されています。箴言16:32「怒りをおそくする者は勇士にまさる」、箴言29:11「愚かな者は怒りをぶちまける」とあります。怒りにコントロールされるのではなく、怒りをコントロールできたなら何と幸いでしょうか?では、どのようにしたら怒りをコントロールできるのでしょうか?まず、4:26「怒っても、罪を犯してはなりません」とあります。ここには、怒り自体は罪ではないとかかれています。また、同時に、怒りが罪を犯すことにもなるということです。怒りと怒りの罪との境目が果たしてあるのでしょうか?怒りは感情的なものであります。感情と言うのは中立的なものです。自動車のメーターみたいなものです。たとえば、水温のメーターが上がっているとします。なんで、このメーターが上がっているんだ、何かの間違いだ。メーターを下げようとしたらそれは愚かなことです。ラジエターの水が足りないので温度が上がっているのです。メーターは正直です。同じように感情を抑えても仕方がありません。もとの原因は何か調べて、考えを変えるならば、感情が修正されていきます。また、怒りには良い面もあります。世の中の不正や犯罪に対して、怒りを感じるのは正常であります。イエス様も神殿で売り買いがなされているのを怒りました。そして、羊や牛を追い出し、両替の台を倒しました。このように、怒りは正しい目的を果たすために重要な感情です。でも、一番問題なのは、怒りを正しく処理しないまま、我慢してそれを蓄積するという行為です。多くの人は怒りをがまんします。気付かないまま怒りがたまっています。そのため心身に支障をきたします。あるいは、ドカンと怒りを爆発させて周りの人たちを傷つけてしまうことがあります。

 エペソ人への手紙は何と教えているのでしょうか?「日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。悪魔に機会を与えないようにしなさい」とあります。ユダヤの地方は、日没から新しい日が始まりました。つまり、怒りを正しく処理しないまま次の日に持ち越してはならないということです。怒りが心の中にとどまると、その怒りが大きな塊になっていきます。そうするとどうなるのでしょうか?悪魔に機会を与えないようにという、機会はギリシャ語ではトポスということばです。トポスとは元来、場所という意味です。怒りを蓄積していると、そこが、悪魔が働く場所になるんだということです。怒りを持っているということは、爆弾を持っているのと同じです。あなたにとってちょうど怒るようなことが起きたとき、悪魔が爆弾のスイッチを押します。ドカン!あなたは怒ってから、「どうしてこんなに怒ったんだろう?怒ってはダメなのに」。でも、時すでに遅し、であります。そこいらじゅう、破片が飛び散っています。で、しばらくは自制して、怒りを我慢します。ところが、だんだん、だんだん怒りが蓄積していきます。また、次の機会が来ると、ドカン!と爆発します。みなさんの中には、そういう悪循環を経験している方はおられないでしょうか?「いやー、私は怒って人を傷つけたりしません」という人がいます。その人は他人を傷つけない優しい人かもしれません。でも、どうでしょうか?他人を傷つけない代わりに、自分を傷つけます。怒りのもって行き場所がないため、うつ病になる場合があります。ある人は、うつも、怒りの表れであると言います。ですから、怒りをためてはいけません。では、どうしたら良いのでしょうか?第一はダビデのように神様のところに持っていくことです。詩篇を見ると、ダビデは「敵を殺してください」と呪っています。でも、最後には神様にゆだねています。第二は、相手の人に「私はこういう点で怒りを覚えています」と伝えるということです。そのとき、「あなたはこういうことをして、私を怒らせました」と言ってはいけません。怒ったのは、自分なんです。だから、「あなたが」ではなく、「私が怒りを感じました」と、私メッセージで伝えるということです。それでも相手が聞いてくれなければ、適当な距離を置くしかありません。ある時は、私たちの受け取り方、思いが歪んでいるために怒りを覚えるときもあります。とにかく、怒りというのは、何か原因があるということです。そういう時こそ、イエス様に打ち明けるべきであります。イエス様のところへ持っていく、これはすばらしい怒りの対処法です。

 もう1つの予防策は聖霊に関して、であります。エペソ4:30「神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。」この戒めは、文脈からすると、悪いことばと関係があるのかもしれません。なぜなら、悪いことばこそ、共同体を破壊する罪の筆頭だからです。他の罪もそうですが、私たちが罪を犯すときに、聖霊様が悲しまれるということです。ある人たちは、聖霊様を神の力とかエネルギーであるとし、まるで人格がないように思っています。しかし、聖霊は第三位格の神様です。私たちは、父なる神様、あるいはイエス様と「様」をつけます。でも、聖霊に「様」をつけると、何か怪しいと思われてしまいます。日本でも様を着けるようになったのは、恐らく、ベニー・ヒンが来られてからかもしれません。ベニー・ヒンの活動には賛否両論があるので、何ともいえませんが、聖霊の人格を強調したということはすばらしいことです。もちろん、神学的に聖霊には人格があるということは教えられていました。しかし、それまではあまり、そのように取り扱われていなかったということです。大川牧師は1979年2月に聖霊の特別な体験をされたそうです。そのとき、ヨハネ3章のみことば「風はおのが好むところを吹く」というところに心がとまったそうです。「風は聖霊ですが、聖霊が好む教会と好まない教会があるようだ。では、どういう教会を聖霊は好んで吹かれるのだろうか?それは裁き合わない教会ではないだろうか?」そのことを発見してから、教会がぐーんと、成長したのであります。私もその中にいましたが、「さばかれていない」ということは、とても居心地が良かったです。神様の愛によって、ぽかぽか暖められると、罪のマントを自ら脱ぎ捨てるのであります。自分はさばかれていない、愛され、受け入れられている。こういう教会を、聖霊様が祝福してくださるのであります。

 ここに、「あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。」とあります。証印ということばは、エペソ1:13にもありました。私たちはイエス様によって買い取られました。そのとき、「この人は神様のものですよ」という聖霊の証印を押されたのです。では、「贖いの日のために、聖霊によって証印を押された」とはどういう意味でしょうか?昔、王様がだれかに大事な手紙を書いたとします。手紙を封筒に入れたあと封印をします。昔は、閉じたところにロウをたらし、そこに指輪にきざまれた紋章を、ぐっと押し付けます。すると、それは王様の証印を押したということです。もし、途中でだれかが、その手紙を開封するならば、その人は打ち首になるでしょう。ちゃんと宛て先の人のところに届けられるまで、そこには王様の権威が働いているということです。宛て先の人だけが、その封書を開けることができるのです。それでは、私たちが聖霊によって贖いの日のために証印を押されたというのは、どういう意味でしょうか?そうです。私たちは神様のものなので、天国に着くまで、だれも損なってはならないということです。「だれも」という中には、人ばかりではなく、悪魔もその中に含まれています。ヨハネ10:28「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。」アーメン。そのように、私たちは聖霊によって封印されていて、天国に行くまで守られているということです。だったら、そういう私たちはどのような生活をこの地上で送るべきなのでしょうか?2つの道があります。1つは、「ああ、私はどうせ天国に行けるんだから、多少の罪は犯しても仕方が無い。偽り、怒り、盗み、悪いことばも仕方がない。でも、やがて恵みによって、すべての罪がきよめられ天国に行けるんだ。アーメン」でしょうか?それとも、「神様がこのように私をかけがえのない存在として認めておられる。聖霊様がこの地上でも、私を慰め、励まし、導いてくださっている。なんとありがたいことか。それでは、聖霊様を悲しませないように、恵みによって生活させていただこう。アーメン」。同じ恵みでも、随分と違います。前者は甘えの恵み、後者は敬虔のための恵みです。聖霊様は人格を持っていらっしゃいます。聖霊様は私たちが贖われたことを喜んでいらっしゃいます。私たちが神様の所有とされていることをとても喜んでいらっしゃいます。でしたら、恵みによってそのように歩ませていただきたいと思います。聖霊様を認め、聖霊様を歓迎し、聖霊様に従いましょう。聖霊様は、私たちが義の道を歩めるように、私たちを助け、励まし、弁護し、そして導いてくださいます。

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