« キリストに達する      エペソ4:13-16 | トップページ | メタノイヤー     エペソ4:25-32 »

2009年10月 4日 (日)

新しい人を着る     エペソ4:17-24

 エペソ4章1節には「歩みなさい」と書いてありました。また、この17節では「歩んではなりません」と書いてあります。歩むとは何でしょうか?それは生活するということです。パウロはエペソ1章から3章までは、教理的なことを教えています。そして、エペソ4章からは倫理的なことを教えています。キリスト教は単なる道徳ではありません。まず、神様の約束や保証があります。イエス・キリストが私たちにどのようなことをなしてくださったか?そのことを信じて受け入れると私たち自身が変わります。その上で、信じた私たちはどのように生活して行ったら良いのかということです。霊的な生まれ変わりが先で、そのあとに良い生活が来るのです。

1.異邦人の生活

パウロは、まず「このように歩んではいけませんよ」と教えています。エペソ4:17-19「そこで私は、主にあって言明し、おごそかに勧めます。もはや、異邦人がむなしい心で歩んでいるように歩んではなりません。彼らは、その知性において暗くなり、彼らのうちにある無知と、かたくなな心とのゆえに、神のいのちから遠く離れています。道徳的に無感覚となった彼らは、好色に身をゆだねて、あらゆる不潔な行いをむさぼるようになっています。」異邦人とは、まことの神を知らない人たちです。この手紙は異邦人であるエペソに対して書かれていますが、日本も全く同じであります。神から離れている人たちは3つの分野で麻痺していることがわかります。まず、第一の特徴は、「むなしい心」であります。空しいとは、「空っぽな、空虚な」という意味です。伝道者の書はソロモン王が書いたと言われています。彼は、事業を拡張し、邸宅を建て、庭と園を作り、諸州の宝を集め、多くのそばめを手に入れました。「私は、目の欲の欲するものは何でも拒まず、心のおもむくままに、あらゆる楽しみをした。・・・しかし、なんと空しいことよ。風を追うようなものだ」と言いました。伝道者の書には空しいということばが、約20回記されています。中途半端にやった人は、「そんなことはない好きなことをやっている人生は楽しい」と言うかもしれません。しかし、ソロモンのようにとことん、突き詰めた人は「すべてが空しい」と分かるのです。パスカルは真空を発見した科学者です。彼は「だれの心の中にも真空がある。その真空は神でしか満たすことができない」と言いました。現代はものが豊かな時代です。食べ物も飲み物も、着る物も、楽しみも溢れています。しかし、何かが物足りない。空虚である。それは、天地を創られたまことの神様が心の中にいないからであります。

神を知らない人の第二の特徴は「知性において暗い、無知である」ということです。いやいや、日本人ほど、教育熱心な国もないでしょう。諸外国と比べて、読み書きのできない人はほとんどいないでしょう。大学の数も世界一、子どもにかける教育費もおそらく世界一なのではないでしょうか?私は郵便局で働いていたことがありますが、「進研ゼミ」の数は半ぱではありません。通信講座「進研ゼミ」は、 2008年4月現在396万人の会員が受講しているそうです。うちの子供たちも取っていたことがあります。付録ばかりに興味があり、科目の方はシンケンに学んでいませんでした。だから、途中でやめました。「知性において暗い」とはどういう意味でしょうか?英国の聖書には、「知力に雲がかかっている」と書いてあります。つまり、知性というのは学問だけではなく、ものごとを判断したり、アイディアを思い浮かべたり、適用する力、そういうものも含まれています。でも、どうでしょうか?18節後半には「かたくなな心のゆえに、神のいのちから遠く離れている」と書かれています。箴言には「主を恐れることは知識の初めである、知恵はへりくだる者とともにある」と書かれています。つまり、知恵や知識は神様から来るものなのであります。しかし、神様ぬきで、知恵や知識を得ようとしたならば、果たしてどうなるでしょうか?ルーズベルト大統領は「聖書を教えない単なる教育は、無責任な人に鉄砲を渡すようなものである」と言いました。神から離れた人間は、知恵や知識を、人を騙すために用いるのであります。いろんな犯罪に対する裁判がありますが、本当に複雑になっています。彼らは法の網の目をくぐって、悪いことをしています。本来はそういうことに知恵や知識を使ってはいけないのです。私たちの場合はどうでしょうか?ヤコブ1:5「あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。」アーメン。知恵は神様からやってくるものです。私は学校の成績はあまり良い方ではありませんでした。8人兄弟の7番目で放置されて育ちました。「あの親父とあの母から生まれたんだから、たいしたことないなー」と諦めていました。でも、どうでしょうか?イエス様を信じて、父なる神様とつながったならば、知恵が上から降りてきます。また、今まで、何のために勉強するかということをだれも教えてくれませんでした。しかし、神様を知ってから勉強が好きになりました。なぜなら、真理は神様が作ったものだからです。ハレルヤ。

神を知らない人の第三の特徴は「道徳的に無感覚になる」ということです。そのために、好色やあらゆる不潔な行ないが生まれてくるということです。神様は聖なるお方です。でも、アダム以来、人間はその神様から離れて生きるようになりました。聖い水の源にとどまっている内は、流れもきよいでしょう。でも、水源から離れたために、よどんだ川になりました。水が腐ってしまったのです。これが神から離れた人間の姿です。ローマ人への手紙1章には「神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡された」あるいは、「神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡された」と書いてあります。神様は「それだったら、どうぞご勝手に」ということであります。どこまで、神様は放っておかれるのでしょうか?それは罪の目盛りが満たされるまでであります。限界にまで達すると神様は一挙に滅ぼされます。創世記6章には、「地は神の前に堕落し、暴虐に満ちた」と書いてあります。だから、神様はノアの家族を除く、すべての肉なるものを洪水で滅ぼしました。また、創世記19章にはソドムとゴモラの滅びのことが書いてあります。ローマ時代も道徳的に非常に乱れていました。滝元明先生がこのようなメッセージをしています。「イタリアに行くと、ポンペイという町があったことを知ることができます。しかし、その町は瞬間的に滅びました。紀元前から続いてきた町で、道も舗装されて、町には下水道も完備していた都市でした。しかし、BC79年8月24日、ベスビオス火山が噴火して、一瞬にして滅びてしまいました。近年になって町が掘り起こされました。するとそれは素晴らしい近代都市でした。しかしそこには、見ることができないような驚くべき汚れた光景がありました。町の人々が昼間から何をしていたのか全部残っていました。彼らは昼間から野獣のような汚れた不品行にふけっていました。私はその町に行きました。だが、ある所は木の塀で囲まれていて見ることができませんでした。なぜでしょうか。その奥にあるものは、姦淫と肉欲が満ちているところに死の灰が降って、そのまま生き埋めになった現場が掘り起こされていたからです。壁画には汚れた不品行の場面ばかりが描かれていました。だから、見せることができないので囲いがされています。」だから、私たちは神様を恐れなければなりません。まだ、「だめだよ!やめなさい」と、注意されているうちが花なのです。その後は、「恥ずべき情欲に引き渡され」、一挙に、滅びがやってくるからです。このように神を知らない異邦人は、罪で心が麻痺し、汚れたことを行ない、その行き着くところは滅びなのです。私たちもそういう運命だったのです。

2.キリストの教え

エペソ4:20-24「しかし、あなたがたはキリストを、このようには学びませんでした。ただし、ほんとうにあなたがたがキリストに聞き、キリストにあって教えられているのならばです。まさしく真理はイエスにあるのですから。その教えとは、あなたがたの以前の生活について言うならば、人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと、またあなたがたが心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。」このところに、「キリストに学び」「キリストに聞き」「キリストにあって教えられ」と書いてあります。世の中では、「キリスト教」とは1つの宗教であり、「キリスト教え」であると思われています。しかし、それだけではありません。キリスト教とは単なる教えではありません、キリストによる奇跡であります。人が生まれ変わり、人生が変えられるという奇跡であります。使徒パウロはどのように語っているでしょうか?私たちはかつて異邦人として、罪と汚れの中にいたものです。神のさばきを受けるべき対象でした。ところがキリスト様の生きた教えを受けたことによって、3つのことが起きたのです。

まず、第一は、古い人を脱ぎ捨てるということです。心理学ではペルソナというかもしれませんが、「あなた」という人格があります。あなたはあなたの上に「古い人」を着ていたのです。英国の聖書は、old human nature、古い人の性質と訳しています。でも、その性質とはどういうものなのでしょうか?22節には、「人を欺く情欲によって滅びて行く」と書いてあります。古い人とは、「情欲によってあなた自身を惑わし、死へと向かわせる性質」であります。あなた自身が全部良いとは申しませんが、あなたという人格の周りに古い人が色んな悪さをしていたということです。私たちはお風呂に入るとき、どうするでしょうか?今まで来ていた古い着物を脱ぎます。実際は、古くはないかもしれませんが汗やほこりがついています。でも、私たちの人格のまわりに着ている古い人は、脱ぎ捨てるべきであります。きょうは奇しくも洗礼式があります。洗礼とはどういう意味でしょうか?日本語では洗うという文字が含まれていますから、何かを洗うのかなー」と連想させます。でも、本当はちょっと違います。ローマ6章には洗礼の本当の意味が書かれています。洗礼はギリシャ語ではバプティゾー、どっぷり浸かるという意味です。ですから、バプテスト教会は、洗礼は浸礼でなければならないと強く主張します。私はそれには反対しません。でも、ローマ6章に書いてある洗礼の意味は何でしょうか?それはキリストの死と一体になるということです。言い方を変えると、キリストの中にどっぷり浸かるということです。そうするとどうなるのでしょうか?あなたはキリストと共に死んで、キリストと共に葬られます。そのとき、あなたの古い人は葬られる、つまり死んだのです。それからどうなるでしょうか?キリストがよみがえられたように、あなたも新しい人としてよみがえるのです。もう、あなたは罪の奴隷ではありません。キリストと共に新しい歩みが始まったのです。だから、だれでも一度は死ななければならないということです。クリスチャンとは一度、古い自分に死んだ存在だということです。罪から解放されて、今度は神の奴隷、義の奴隷として歩むべきなのです。ある人は、「いやいや、古い人に死んだというけれど、過去の記憶はありますよ」と言います。神様は、あなたという人格を全部作り変えようとは考えておられません。あなたの記憶、あなたの性格、あなたの魂はあって良いのです。大事なのは、罪を生産する工場を壊さなければならないのです。クリスチャンになっても肉の中に罪の性質が宿っています。でも、罪を生産する工場が破壊されたのです。このことをどうぞ覚えておいて下さい。

第二は「あなたがたが心の霊において新しくされ」とあります。実は私たちの心の内側には、霊というものがあります。この世の心理学者の限界は、この霊ということを知らないということです。人格とか良心というところでおしまいです。彼らは心、心理という面ではプロかもしれませんが、人間には霊があるのです。あなたにも霊があります。問題は、クリスチャンになる前と、クリスチャンになってからどう変わったか?ということです。ある人は「クリスチャンになる前は、霊は全く死んでいた」と言います。またある人は「死んでいたのではなく、眠っていたんだ」と言います。またある人は「霊はあったけれど、ほとんど機能していなかった」と言います。私は全部、当たっていると思います。罪を犯す前のアダムは霊によって神様と親しく交わって生きていました。霊がちゃんと機能していたのです。ところが、アダムが罪を犯して堕落したために、人間は霊的に死んだ状態として生まれるようになりました。霊が全く機能していないかというと、ある程度は機能していたと思います。神様は私たちに永遠を思う想いを与えられました。「真理を見出し、善を行ないたい」という願いが、心の奥底にあります。でも、霞がかかった状態であり、自分の力では神を見出すことができません。無条件の愛を求めますけれど、友愛どまりなのです。神様はどのようなことをしてくださったのでしょうか?それはヨハネ3章に書いてありますが、御霊によって新たに生まれるということです。聖霊が私たちの内に入って来られ、私たちの霊を新たに生かすのであります。電化製品で言いますと、スイッチオンであります。昔、私の家には大きなステレオがありました。私自身も働いて、ステレオを買ったことがあります。ボタンを押すと、アンプやテープデッキ、いろんな機器に、赤や青のランプがともります。レコードをかけると、メーターが左右に動きます。そして、スピーカーからものすごい良い音が出てきます。なんか、ステレオが生きて働いている感じがします。スイッチを押したからであります。私たちもイエス・キリストを信じたとたん、スイッチがオンになったのではないでしょうか?それは霊的に生まれたと言うことです。私たちの心の奥底にある、霊が芽生えたのです。するとどうなるでしょうか?神様は確かにいらっしゃると言うことがわかります。聖書もだんだん面白くなります。祈りは聞かれる、信仰によって歩むということが分かってきます。これを新生と言います。これがなければ、キリスト教は単なる道徳になってしまいます。キリスト教は良い教えを受けるという道徳ではありません。強いて言うならば、キリスト教は生まれ変わりの宗教であります。

第三は「新しい人を身に着る」ということです。クリスチャンが新生しただけで終ってしまうと、信仰生活が難しくなります。最初はものすごい喜びでいっぱいですが、まもなく困難がやってくるでしょう。どうでしょうか?あなたは古い人を脱ぎ捨てました。それから、あなたの霊的な部分が生まれ変わりました。そのままでは、あなたは裸の状態です。さっきのお風呂のたとえをしますと、汚れた衣類を脱ぎました。そして、お風呂に入って綺麗になりました。「ハレルヤ!罪が洗い流された、オー、ハッピーディー」。あなたは霊的に生まれましたが、まだあなたは裸です。あなたの記憶、あなたの性格、あなたの魂があります。ある人たちは、「クリスチャンになってからは、ありのままで生きるんだ」とか「裸で生きる」と言います。しかし、それは、不可能です。私たちが心の中で思ったことを口からぱっと出したらどうなるでしょうか?「あなたのことを神の愛で愛しています」。それはすばらしいと思います。でも、「あなたのこういうところが間違っています。受け入れられません」とストレートに言ったらどうなるでしょうか?私たちは、裸で、ありのままでは生きられないのです。天国に行ったならば、それは可能かもしれません。でも、地上にいる限りは、衣が必要なのです。では、救われた人格に何を着るのでしょうか?新しい人を身に着るのです。ある人たちは、クリスチャンになって、ありのままで生きようとしました。ところが、傷ついたので、もう一度、古い衣類を着たりしています。古い衣服、古い人はもう着る必要はありません。生まれ変わった人は、新しい人を着るのです。新しい人とはどういう衣類なのでしょうか?24節には「真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人」となっています。新しい人とは、まず神様が創造してくださったものです。そして、それは真理に基づいた義と聖なる衣類であります。アダムとエバが罪を犯したために、彼らはエデンの園から追い出されました。その時、神様は皮の衣を作って、彼らに着せたと書いてあります。新約聖書ではそれはイエス・キリストのくださる義と聖と贖いの衣であります。

以前、コロサイ人への手紙から「新しい人を着る」と題して同じメッセージをしたことがあります。コロサイ3:12「それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。」5つの衣が書いてあります。昔は十二単というのを着ていましたが、一番、肌に近いところから着ていくとどうなるでしょうか?肌襦袢というのがあるのでしょうか?いわゆる下着です。それは深い同情心です。深い同情心を最も下に着ています。そのあと、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身につけます。ですから、クリスチャンの一番、外側に見える性質は何なのでしょうか?寛容さこそが、一番外側に見えなければなりません。あなたは寛容でしょうか?それとも、すぐカッと来て、お膳をひっくり返すでしょうか?今はお膳はないかもしれませんが、すぐカッとなったり、腹を立てる人は、寛容という衣を着ないといかんよう。でも、それだけではないとコロサイに書いてあります。5枚の衣をしっかり止める帯が必要です。コロサイ3:14「そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全なものです。」やっぱり、愛が最終的に必要なんです。この愛という帯がないと、着ているものがばらばらにはだけてしまいます。では、最後に質問させていただきます。深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容、そして愛、これらの性質を全部バランスよく備えておられる方はだれでしょうか?はい、イエス・キリストです。アーメン。「新しい人を着なさい」とは、イコール、「キリストのご性質を着なさい」ということと同じ意味なのです。「キリストを着る」でも良いかもしれません。実際、ローマ13:14には、「主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません」と書いてあります。

みなさん、キリストのご性質を人格の上に身につけましょう。キリストを着ましょう。女性の方々は外出するとき、顔や髪型を整えます。それから、衣類を身につけ、靴を履き、そしてかばんを持ちます。大変です。きょうも、そのようにして来られたと思います。一方、男性は歯をみがいて髭をそり、ぱぱととかして。服を着ます。5分とかかりません。しかし、女性は5分ではできません。ある人は30分以上もかけて、化けるのかもしれません。しかし、きょう学びました。それだけではまだ不足です。隣の人に言いましょう。「それだけではまだ不足です」。キリストを着るのを忘れてはいけません。隣の人に言いましょう。「キリストを着ましょう」。主イエス・キリストを着ることこそ、最高のおしゃれ、最高の生き方なのです。私たちは、既に古い人を脱ぎ捨てました。私たちはキリストにあって新たに生まれ変わり、新しい人を着ているのです。アーメン。

|

« キリストに達する      エペソ4:13-16 | トップページ | メタノイヤー     エペソ4:25-32 »