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2009年9月27日 (日)

キリストに達する      エペソ4:13-16

 先週のメッセージの聖書箇所は途中で終っていました。エペソ4:12「それは聖徒たちを整え奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建てあげるためであり、」で終っていました。つまり、続きがあったということです。大体、日曜日の説教は30分、長くても35分で終らせるようにしています。そうでないと、お互いに集中力を欠いて、帰るとき「きょうは何を語ったんだろう?」と1つも持って行けなくなるからです。ですから、きょうは先週の続きものになっています。先週は何を話したかと申しますと、イエス様は教会に5つの職務の賜物をお与えになりました。5職とも言いますが、使徒、預言者、伝道者、牧師、教師であります。イエス様が彼らを教会に置いた目的は何でしょうか?それが、エペソ4:12「それは聖徒たちを整え奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建てあげるためであり」ということです。その後、どうするのでしょうか?それぞれ賜物にあった奉仕して、教会を建てあげて行けば良いのでしょうか?それだけではありません。最終的なゴールがあります。それが、本日の箇所であります。大きくわけて2つあります。

1.キリストに達する

エペソ4:13「ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです」。このところに、「完全におとなになって、キリストの身たけにまで達するため」とあります。そのあとの、15節にも同じような表現があります。「あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです」とあります。完全におとなになるというのと、あらゆる点において成長するということは同じ意味であります。聖徒、つまりクリスチャンのゴールは、あらゆる点において成長してキリストに達することだということです。私たちはこういうことを聞くと「とんでもない、無理だよ、そんなこと」と言いたくなります。でも、その前にちょっと考えましょう。イエス様がこの地上に、人間としてお生まれになりました。そして、イエス様は、どのように育ったのでしょうか?ルカ2:52「イエスはますます知恵が進み、背たけも大きくなり、神と人とに愛された」とあります。このところからイエス様は、4つの分野で成長したことがわかります。これはまた、私たちの模範でもあります。第一は知性の面において成長しました。神から知恵を得たり、勉強することが重要です。第二は身体的な面において成長しました。体には運動、食べ物、衣服が必要です。第三は神様との関係、つまり霊的な成長です。第四は人との関係、つまり精神面、社会面の成長です。私たちはクリスチャンになりますと、霊的な面だけを強調しがちですが、知恵を得ることや良い人間関係を作るということも忘れてはいけません。

でも、それに比べて、バランスの取れていない、幼いクリスチャンはどうなんでしょうか?エペソ4:14を見ると、霊的な子どもとは「人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりする人」であります。また、4:15を裏返しに言いますと、霊的な子どもとは「愛なしで、真理を語ることであります。」さらに、4:16を裏返しに言いますと、「組み合わされない、結び合わされない、成長しないで、愛のうちに建てられることを拒む人」、つまり孤立しているクリスチャンであります。身体は一人前であっても、神様との関係、人との関係、そして信仰的な知恵や知識がないという場合があるということです。イエス様は十字架にかかり、復活しました。この方を信じるならば、私たちは救われます。そういう意味で、イエス様は贖い主、救い主であります。でも、忘れてはならない面は、イエス様は私たちの模範にもなったということです。イエス様は人間となって、「あなたがたもこのように生きることができるのですよ。私に倣いなさい」とお手本になられたのです。つまり、イエス・キリストに似た者になる、これこそが私たちの信仰のゴールであります。神様が人間を造るときにどのように、言われたのでしょうか?「われわれに似るように、われわれのかたちに人を造ろう」。そして、「人をご自身のかたちに創造された」とあります。ところが、アダムが罪を犯したために、全人類が堕落し、神のかたちがなくなってしまいました。しかし、イエス・キリストが来られ私たちを罪から救っただけではなく、神のかたちを回復させようとして下さっています。そのために、イエス様は私たちの模範となり、そして私たちの命となったのです。だれでも、イエス様を信じると、神の種が与えられ、それが育つとキリストの似姿へと成長していくのです。キリストの似姿とは、キリストの品性が身につくということです。

先週は、エディ・レオ師が導いておられるメンズセミナーに出席しました。その中で、イエス様は「厳しさも優しさもたっぷりあるバランスのとれた人」であったということを学びました。ルカ13章には、三年たっても実を結ばないいちじくの木のたとえ話があります。主人は「何のために土地をふさいでいるのか、切り倒してしまいなさい」と言いました。番人は「今年一年、待ってください。木の周りに肥やしをやってみますから」と言いました。これはイエス様の優しい面を表しています。しかし、「それでもだめなら、切り倒してください」と言いました。これがイエス様の厳しさです。他にも福音書には、イエス様の厳しい面がいくつも書いてあります。「手を鋤につけてから、後ろを見る者は、神の国にふさわしくない」、「私よりも父や母を愛する者は私にふさわしくない」という箇所もあります。イエス様は厳しさも優しさもたっぷりあるバランスのとれた人でした。イエス様の姿と自分を比べてどうでしょうか?「最近の私は父として、牧師としてかなり優しくなったんじゃないだろうか?愛もだんだん出てきて、比較的、良くなったんじゃないだろうか?」と思いました。しかし、イエス様のような厳しさはどうだろうか?「ああ、ないなー」と思いました。「まあ、いいか?」でやってきたところが多分にあります。エペソ4:15に何と書いてあるでしょうか?「愛をもって真理を語り」と書いてあります。愛は優しさであります。一方、真理は厳しさと言って良いでしょう。愛なしで、真理を語ってはいけません。その場合は、鋭い刃によって人を傷つけてしまいます。だから、愛をもって真理を語る必要があります。愛はすばらしいものです。でも、真理も重要です。なぜなら、真理は人を自由にするからです。多くの人は、この世において、間違った教えや習慣のもとで生きています。クリスチャンでさえも、サタンに欺かれている場合があります。そのとき、成長したクリスチャンは「愛をもって真理を語る」のです。そのことによって、束縛の縄目を切られ、その人は自由になるのです。

では、どうすれば、私たちは身体の面だけではなく、神様との関係、人との関係、そして信仰的な知恵や知識において成長することができるのでしょうか?私たちクリスチャンはすでに、イエス様を信じたときに、神の命、神の種が与えられているのです。だから、イエス様に似る要素がすでにあるのです。イエス様に似た者として成長するためには何が足りないのでしょうか?そうです。目の前に、「このようにすれば良いのですよ」と、具体的に教えてくれる先輩クリスチャンがいなければならないということです。エディ・レオが「ライオンの話をしてくれました」。あるとき、ハンターが母親のライオンを銃で殺しました。そして、子どものライオンを動物園で育てました。子どものライオンは10m×10mの檻の中に入れられました。ライオンは檻の中で成長し、大人のライオンになりました。人々は、このライオンを可愛そうだと思って、野生に返えすことにしました。ライオンはジャングルに放たれました。ところが、このライオンはまもなく死んでしまったということです。なぜでしょう?だれからも、自分で猟をして餌を取ることを学ばなかったからです。たしかに体つきは、成人したライオンでしたが、倣って学ぶことをしなかったのです。クリスチャンも同じです。私たちが霊的に生まれても、倣って学ぶ必要があります。そうしなければエペソ4章で言われている、イエス様に似た成熟したクリスチャンにはなれません。倣って学ぶとはどういう意味でしょう?それは弟子訓練、コーチング、あるいはメンタリングという意味です。自分の傍らで、一緒に歩きながら、手本を見せて、教えてくれる人が必要だということです。若い女性はだれが訓練するのでしょうか?テモテの手紙では、年取った女性が、若い女性を訓練しなさいとあります。若い男性は、年取った先輩クリスチャンが訓練すべきです。牧師はその先輩クリスチャンとなる人をコーチングするのです。牧師もだれか先輩牧師からコーチングを受ける必要があります。人にはいろんな賜物があり、いろんな召命やいろんな働きがあるでしょう。でも、だれもが共通して持っている目標とは何でしょうか?それはキリストに似た者として成長するということです。人格的な面において、キリストに達するということです。そのことを可能にするために、神様は神の命と指導する人とを教会に与えておられるのです。

2.キリストによって建てる

 エペソ4:16「キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。」前半は、キリストに似るために個人的に成長するということをお話しました。そして、後半は、キリストによって建てられるということです。これはキリストのからだなる教会を建てるということであります。でも、教会はだれが建てるのでしょうか?16節の前半は、「キリストによって」となっています。そして、一番最後は、「愛のうちに建てられるのです」となっています。教会はだれが建てるのでしょうか?そうです。キリストが建てるのです。少し前の、エペソ4:11,12も同じことです。11節の前半は「こうして、キリストご自身が」となっています。キリストご自身が5種類の指導者を立てて、どうするのでしょうか?12節の後半は「キリストのからだを建て上げるためであり」となっています。これと関連したみことばは、マタイ16:18です。そのところでイエス様は、「私はこの岩の上に私の教会を建てます」と言われました。そうです。教会のかしらはイエス・キリストです。イエス様がかしらなのですから、私たちはたえずかしらに聞く必要があるのです。ところが、実際の教会はどうなっているでしょうか?教会によっていろんな政治形体があります。牧師がワンマン的にコントロールしている教会、長老や役員が強い教会、会衆が強い教会があります。また、各教団教派のトップが支配しているところもあります。教会ですから、いろいろあっても良いのですが、決して忘れてはならないことは、教会のかしらはイエス・キリストであり、このお方に聞くということです。私たちはセルチャーチを目指していますが、各セルもどうか、かしらなるキリストに聞いて、そして従ってください。必ず、どうすれば良いか教えてくださいます。

 また、次に分かることは、キリストのからだは、いろんな器官、部分で構成されているということです。しかも、力量や働きが違います。私たち一人ひとりも、いろんな賜物を持っています。働きも違いますし、性格や好みも違うでしょう。誰ひとり、全く同じだということはありません。それぞれが、神様から召された賜物と働きがあります。でも、それだけだとバラバラになってからだとして成り立たなくなります。6節には「結び目によって、組み合わされ、結び合わされ」とあります。つまり、各セルやミニストリーがばらばらに動くのではなくて、組み合わせられ、結び合わせられる必要があるということです。英語の聖書は、ジョイントという言葉と、ニット(編む)という言葉が用いられています。ジョイントは骨と骨の関節を想像できます。成人の体には200本くらいの骨があるそうですが、それらが関節や筋によってつながれています。しかし、それだけではありません。人間のからだは神経や血管、リンパ腺が網の目のように張っています。これが、ニット(編む)ということです。ニットからは、コミュニケーションとか、ネットワークということを想像できます。お互いに情報交換したり、助け合うということです。最近のアメリカでは、メガチャーチ(大きな教会)から人々が去っているということです。どこへ行くか、ハウスチャーチに移っているということです。ハウスチャーチにはメガチャーチにない、親しい交わりがあるからです。でも、ハウスチャーチが孤立してはいけません。お互いに情報交換したり、助け合うことが必要です。現代の教会の成長を阻んでいるのが何かご存知でしょうか?それは教団教派同士の壁であります。各教団教派がそれぞれの神学や組織を主張し、他と交わったり、他から学ぼうとしません。伝統に縛られ、自分たちの教団教派が伸びれば良いと思っています。でも、今はインターネットや衛星放送が普及していますので、信徒たちが教団教派の壁を越えて交わっています。教会や牧師が「そんなところへ行ってはだめだ!」と言っても信徒たちの方が情報を得ています。今は、トップダウンではなく、ネットワークの時代です。

 最後に、みなさん、からだなる教会が忘れてはならないことがあります。16節最後、「成長して、愛のうちに建てたれるのです」とあります。私たちはキリストを目指して成長します。しかし、そのためには「愛のうちに建てられる」ということです。「建てられる」という言葉は、もともと「家を建てる」という意味ですが、徳を建てるという意味もあります。英語の聖書は、edifyとなっています。edify、edificationと言うのは、「人を教化する、啓発する」という意味です。「啓発」というと、「啓発セミナー」を思い出すので、あまりよくはないかもしれません。でも、クリスチャンは「お互いに建て上げる」ということがとても重要です。では、「お互いに建て上げる」の反対は何でしょうか?その人の人格や働きを壊す言葉や行為でしょう。欠点や失敗をあげ連ねたり、非難、ゴシップ、冷やかしもそうです。「あんたには無理だよ、器じゃないよ」と言われたら、おじけづいてしまいます。では、「お互いに建て上げる」とは具体的には、どういうことでしょうか?慰めや励まし、良いところを引き出す、失敗してもOK!という雰囲気、そしてフォローするということでしょうか。ちょっと手伝う、ちょっと手を差し伸べるだけでも、大分違います。また、建て上げるとは、みことばによって建て上げるということもとても重要です。お互いに、みことばを分かち合う、これほどすばらしい建て上げはありません。私は常磐牧師セルと、関東コーチングに所属していますが、牧師同士が建て上げています。この間は、ある先生が、隣りに駐車していた車をこすって、そのまま去ってしまった。後から、警察がやってきて、「あなたでしょう、カメラに映っていましたよ」と言われたというんですね。聞いている私たちも、身につまされました。また、コーチングでは牧会で、傷つけられた証も分かち合います。そこで、癒され、希望が出てくるんですね。どうぞ、みなさんお互いに、建て上げ合うグループを持ちましょう。セルでも良いし、サポートグループでも良いです。お互いに秘密を守り、また説明責任を負うグループです。

 私は丸屋真也先生から時々、学んでいます。先生は共依存ではなく、相互依存の関係が大事ですと言います。共依存者とは、力ある人のもとで、いやいやながら仕える人です。力ある人というとプロレスラーとかお相撲さんを想像しますがそうではありません。子どもが家を支配している場合があります。子どもの言いなりです。ヒステリーの妻の言いなりになる場合もあります。また、酒を飲んで暴力を振るう夫の言いなりになる場合もあります。教会では霊的権威を振る牧師の言いなり、意見の強い長老の言いなり、あるいは問題を抱えた人の言いなりになる。それが共依存の関係です。その人を怒らせないように、仕えていても、それは解決にはなりません。解決を先延ばしにしているだけです。どっちかが倒れるまで続くでしょう。そうではありません。だれが家庭の支配者でしょうか?だれが教会の支配者でしょうか?かしらなるイエス・キリストです。かしらなるお方のもとに、それぞれ働きの違う者同士が集まっているのです。それぞれ違う機能が協力し合う。これが相互依存であります。夫には夫の機能があります。妻にも、子どもにもそれぞれ別な機能があります。教会も同じであります。牧師の機能があります。それぞれのミニストリーやセルの機能があります。そしてキリストによって結び合わされ、愛のうちに建てられるのです。それが相互依存であります。丸屋真也先生が良く言いますが、教会にサポートグループがあるとないとでは、ぜんぜん違うということです。サポートグループという名前でなくても、共同体、小グループ、セルグループなんでも良いです。弱い人、問題のある人を受け入れ、お互いに支え合う。一人がみんなのお世話になるのではなく、その人もだれかを支えるのです。その人にも、何かすべきことを与えるのです。みんなそれぞれの機能や働きを差し出して参加する。お客さんのときよりも、自分が主体的に参加する、自分は必要とされている、そっちの方が何倍も喜びがあります。キリストのからだなる教会で癒され、元気が与えられる。そして、そのことが職場や学校、地域社会にも活かされる。教会がリトリート・センター、訓練センターになっても良いと思います。神様はどういう訳か、一人でなんでもできるスーパーマンを教会に与えていません。いろんな賜物が、力量が違っても、一緒に結び合って働くように、願っておられるようです。実は、その方が偉大で、しかも、永続的な働きができるのです。きょうは、個人の成長と教会形成について学びました。みな、イエス様に似た者となるように成長しましょう。同時に、キリストのからだとして連なって成長していきましょう。

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2009年9月20日 (日)

キリストの賜物       エペソ4:7-12

 エペソ4章の後半は、エペソ人への手紙の山場でもあります。 こういう箇所を読むと私は非常に、興奮します。 教会形成において、あまりにも有名な箇所だからです。 みなさんも、一緒に興奮してもらいたいと思います。

1.キリストの賜物

エペソ4:7「しかし、私たちはひとりひとり、 キリストの賜物の量りに従って恵みを与えられました。」このとこ ろに、「恵み」ということばがありますが、これはギリシャ語で「 カリス」と言います。本来、カリスとは愛らしさ、好意、 恵みという意味です。しかし、これが「カリスマ」になると、 霊的な賜物という意味になります。つまり、 神様は私たちが霊的に生まれ、クリスチャンになると、 ご自身が持っておられる様々な能力を与えてくださるということで す。何のためですか?奉仕の働きをし、 キリストの体なる教会を建て上げるためであります。 神様は私たちに賜物として、 永遠のいのちを与えてくださいました。しかし、 それだけではありません。この世において、 神様や人々に仕えることができるように、 霊的な賜物も与えてくださったということです。ハレルヤ! しかし、霊的な賜物と生来の賜物とは違います。生来の賜物とは、 生まれつき与えられた才能、 あるいはその人が努力して勝ち取った能力であります。 ピアノが弾ける、計算ができる、暗記ができる、運動神経が良い、 リーダーシップがある、細かい手作業が得意… これらはみな生来の賜物であります。でも、 クリスチャンになりますともう1つ別な、 能力が与えられるということです。それを霊的賜物、 あるいはカリスマと言います。カリスマというと世の中では、 人を魅了する超人的な能力、 またその能力を持つ人間を言うようでありますが、 本来はそうではありません。 神様が下さる霊的能力のことであります。

しかし、ここに「キリストの賜物の量りに従って」とあります。 これはどういう意味でしょうか?これはかしらなるキリストが、「 この人にはこの賜物を、あの人には別の賜物を」と、 分け与えるということです。つまり、キリストの主権によって、 クリスチャン一人一人に分け与えるということです。そうなると、 「私は、預言は良いけど、異言はけっこうです」とか「 教えは良いけど、奉仕はきらいです」とは言えなくなります。 また、人々にその量と言いましょうか、 大きさも違うということです。この世では器と言いますが、 賜物を用いることのできる大きさが異なるということではないかと 思います。ある牧師は1万人を牧会できるが、 ある牧師は100人を牧会できる。また、同じ癒しの賜物でも、 ある人が祈ると難病や重病人が癒されます。これは、 自分が決めるというよりも、 キリスト様の量りに従ってですから仕方がありません。でも、 タラントのたとえで教えられているように、 わずかなものに忠実な人には、 たくさんの物を任せるというのも真実であります。 多くのクリスチャンは、霊的賜物が与えられているにも関わらず、 それを地面に埋めているというのが実情ではないでしょうか? 恵み深い神様は、私たちが奉仕できるように、 その能力も与えておってくださるということです。ハレルヤ! しかし、エペソ4章は種々の賜物のことは教えていません。 クリスチャンを指導する5つの賜物しか書いていません。もし、 他の賜物について調べたければ、ローマ12章、Ⅰ コリント12章、Ⅰペテロ4章等にあります。先週は、 常磐牧師セルがあって、当教会に12人集まりました。 セブンスディの宮本先生が、 私たちに霊的賜物のチェックをしてくださいました。 半分近くの先生が信仰の賜物がありました。他に、 見分けの賜物や伝道がありました。 私はどういう訳か教える賜物が目立ちました。 人に何でも教えたがるということでしょうか。テレビを見ながら、 「家内に○○は知っているか?」と聞きます。私は「 こういう意味だよ」と言います。 すると家内はけげんそうな顔をして、「 別にあなたから教えてもらいたくないわ」と言うんですね。 賜物があっても、押し付けは良くないということです。とにかく、 クリスチャン一人ひとりに、神様の働きができるように、 霊的賜物が与えられているということです。 これをみなさんが発見し、用いる責任があるということです。

2.職務(五職)の賜物

 エペソ4:11「こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、 ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、 お立てになったのです。」これら5つの賜物を、職務の賜物、 あるいは五職の賜物と呼んでいます。この賜物は、 聖徒たちを整えるために、キリスト様が与えたものであります。 偉いとか偉くないではなく、機能としての賜物であります。 たとえば、心臓や脳が体にとっては大事な器官であります。でも、 この2つがあれば人が生きられるというわけではありません。 他の内臓や神経、血管、手足も必要であります。しかし、 職務の賜物とは、他の器官に対して指導的な働きをしています。 それでは、職務の賜物を1つ1つ簡単に説明したいと思います。

①使徒 

本来、イエス様のもとにいた12弟子が使徒です。でも、 バルナバとか直接イエス様と会っていない人たちも、 聖書では使徒と呼ばれています。現代は「使徒職が復活した」 と言われています。そして、「私は使徒です」とか「使徒○○」 と名前の上に称号のように付けたりします。 私はそれには反対です。それよりも「使徒的な働きをしています」 ぐらいが謙遜で良いと思います。使徒の賜物は何でしょうか? 使徒は福音が宣べ伝えられていない新しい地にでかけ、 福音を宣べ伝え、教会を設立します。そして、 キリスト教の教理を分かり易く教え、 教会の基礎を作ることができます。使徒は、 5本の指の親指のような存在です。親指は人指し指、中指、薬指、 小指、どれにも接することができます。他の指どうしならば、 できても2つか3つくらいです。ちょっと顔がゆがみます。でも、 親指は自在です。これはどういう意味かと言うと、使徒は預言者、 伝道者、牧師、教師、何でもできるということです。 使徒パウロがそうでした。パウロは牧師であり教師であり、 伝道者でした。でも、使徒には1つだけ欠点があります。 同じところにずっと留まっていることができません。 1つの教会ができたら、新しいところに出かけて、 また新しい教会を設立したくなります。使徒的な人は、 1つの教会だけではなく、日本の教会、 世界の教会を視野に入れています。「すべての国民を弟子とする」 これが彼のキーワードです。

②預言者

 旧訳聖書にはたくさんの預言者が登場します。では、 新約でいないかというとそうではありません。 使徒の働きにはアガボという預言者が載っています。 預言者はどういう働きをするかと言うと、 教会に神の御心を示したり将来の導きを与えてくれます。 彼は神のみことば、幻、あるいは絵によって示します。 その預言を受けた人は、「ぱぁーっ」と信仰と希望が出てきます。 また、預言者は人々に霊的な賜物を注ぐ器としても用いられます。 彼が按手すると、御霊に満たされたり、 御霊の賜物を直接授けることができます。 リバイバルになるとこういう器が用いられます。でも、 欠点もあります。罪を示したり、悪霊を追い出したりしますので、 信徒がびくびくして近寄ることができないときがあります。 彼は大勢ではなく、少人数を霊的に指導する傾向があります。 新松戸教会の津村先生がそのような人ではないかと思います。 しょっちゅうイスラエルに行って、不思議な体験をしています。 悪霊を追い出し、霊的刷新を与え、 賜物を付与することに専念しています。だから、 あまり人が増えないというところがあります。でも、 たまに預言者を呼んで、 そのようなミニストリーをしてもらったなら教会は健康になります 。

③伝道者

 この人はどんなところへ行っても福音を語ることができます。「 滅び行く魂の救い」こそが、彼のキーワードです。大勢の前でも、 また個人でも、いつどんな時でも、 福音を語って人々を救いに導こうとします。 彼のメッセージはとても単純です。でも、 彼が語ると人々が霊的に感動し、「信じます」と、 前に出てきます。多くのリバイバリストは、 この伝道者が多いです。DL.ムーディ、チャールズ・フィニー、 ビリー・グラハムがそうです。 天に召されましたが本田弘慈先生がそうです。 本田先生は常にトラクトを持っていて、 電車に乗っても伝道します。また、温泉に入ると、 隣の人につかつかと寄って、「気持ち良いですね、 天国みたいですねー。ところで、あなたは天国を知っていますか? 」と伝道します。伝道者が教会に来ると、「 あなたは伝道していますか?あなたも伝道しなさい」 と突っついてくれます。教会が内向きになっているとき、 伝道者を呼ぶと失われた魂に関心を持つように勧められます。 伝道者の人が牧師になるとどうでしょうか? 外にばかり出て行って、牧会が留守になります。 いつもメッセージが単純なので教会員が養われません。 栄養失調がちになります。でも、 教会が外向きになって魂を捕らえることのため、 とても重要な賜物です。

④牧師

 牧師は人々の霊的な状態に気を配ります。そして、 みことばを与え、彼らを養います。ちょうど、 羊飼いのようであります。牧師は同じ場所で、同じ会衆でも、 ずっとやっていくことができます。人々を養い、養い、 さらに養います。欠点は何でしょうか?信徒が栄養過多、 太りすぎて活動が鈍くなるということです。だから、 使徒や伝道者が来て、お尻をひっぱたくことが必要です。以前は、 人々のお世話をすることが牧師だと思われてきました。 神学校でも、みことばによって、人々を慰め、 人々に仕えることが牧会だと教えています。しかし、最近は、「 真の牧師とは、人々を整え、 彼らが奉仕できるようにすることなんだ」 と弟子訓練を強調するようになりました。つまり、 お世話型の牧師から、訓練型の牧師になるとことです。もし、 牧師が問題の火を消す消防士だったらどうでしょうか?四六時中、 電話から離れらず、しょっちゅう出かけて、 火を消すというのはどうでしょうか。もちろん、ある時は、 そういうことも必要でしょう。でも、信徒が訓練され成長し、 自分たちで問題を処理できたら何と幸いでしょうか?ですから、 問題が起こる前に、教えと訓練を与えておく必要があります。

⑤教師

 教師は聖書を学問的に良く学び、 それを体系的教えることができます。 教師は書斎にこもり本を読むのが大好きです。 ギリシャ語やヘブル語、いろんな人の学説、いろんな資料から、 みことばを解き明かします。「そんな問題は、 重箱の隅をつっつくようなものでしょう」と言われても、 意に介せず、とことん研究します。こういう人は、 神学校の教授に向いています。欠点は何でしょうか?それは、 教え過ぎるということです。 そのかわり実践や適用がほとんどありません。そのため、 教会の信徒は頭でっかちになります。教師の賜物の先生は、 元雪ノ下教会の加藤常昭先生、ホーリネスの小林和夫先生、 教団教派の中にたくさんいらっしゃいます。教師の賜物は、 勧めの賜物とか牧師や伝道者と連携するならば、 豊かに用いられます。一人だけだと、象牙の塔にこもって、 ひたすら研究に没頭することになります。教師の賜物は、 自分が発見した真理を実践し、 適用するように教会に働きかけていけば良いのです。

 このように神様は教会に五職の賜物を与えられました。 それは教会を健全に建て上げるためであります。 牧師は教会の指導的な立場におりますが、 牧師の中に5種類の人がいます。使徒的な牧師、預言者的な牧師、 伝道者的な牧師、いわゆる牧師、教師的な牧師です。 さきほど申しましたが、自分の賜物だけを強調したならば、 かならず偏りが出てしまいます。 私はいわゆる牧師でありますから、 他の4つの職務の賜物から定期的に学ぶ必要があります。 最近のスケジュール表を少しご紹介します。 私たちは7月5日に中野雄一郎牧師を迎えました。 先生は伝道者の賜物です。 8月23日午後は教団から倉橋先生をお招きし、 教会の組織について学びました。先生は教師の賜物です。 私はその後、新松戸教会に行きました。 津村先生は預言者の賜物です。9月3日からは、浦安でD- CATがありました。ウェインコディロは伝道者の賜物です。 私は9月12日は丸屋先生の学びに行きました。 丸屋先生は教師の賜物です。9月15、 16日は関東コーチングがありました。 練馬の小笠原先生は教師の賜物です。9月19― 22日はメンズセミナーが開かれています。講師のエディ・ レオ先生は使徒の賜物を持っておられます。 自分と違った賜物の先生と会いますと、刺激を受け、 視野が広くなります。 当教会にも様々な立場の先生をお呼びしますが、 そういうチャレンジを受けるためであります。ですから、 神様は教会やセルが、バランスを取りながら成長できるように、 5つの職務の賜物を与えておられるということです。

3.聖徒を整える

 エペソ4:12「それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、 キリストのからだを建て上げるためであり」。教会にどうして、 職務の賜物が与えられているのでしょう? それは自分たちだけでやるためではありません。「 聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、 キリストのからだを建て上げるためです」。聖徒たちとはだれでし ょう?それはみなさん一人ひとりです。イエス様のときは、 弟子と言いましたが、 パウロはヨーロッパに渡るとあえて弟子とは言いませんでした。 なぜでしょう?当時、 弟子とはソクラテスなど哲学者の弟子を想像させました。それで、 パウロは聖徒(セイント)と呼んだのであります。ですから、 私たちクリスチャンが聖徒なのであります。 私たちは行ないによらず、 キリストを信じるだけで聖徒になれるのです。ハレルヤ!でも、 喜んでばかりはいられません。 私たちは整えられる必要があります。整えられなければ、 奉仕の働きや教会形成のために用いられることはないからでありま す。整えるとは、幾つかの意味があります。まず1つは「 網を繕う」という意味があります。心が癒され、 人格的に成長するということです。ペテロは、 リーダーシップはありましたが、非常に不安定な人でした。 サタンに振るわれてイエス様を3度も知らないと言いましたが、 後に大使徒となりました。また、「整える」は、equip、「 装備する」という意味もあります。 これは軍隊用語から来たもので、「必要な道具、 装置を装備させる」ということです。もし、 兵士が訓練も受けていない、武器も持っていないならば、 どのようにして戦いに出て行くことができるでしょうか? 敵の餌食になるでしょう。そういう意味で、 私たちは恵みによって聖徒にはなりましたが、 さらに恵みによって整えられ、 訓練される必要があるということです。

 ここで気付くことは、聖徒が奉仕の働きをし、 教会を建て上げてゆくということです。「昔、あんたが主役」 と言うことばがありました。 牧師や一部の献身者が奉仕の主役ではありません。 奉仕の働きをするのは、聖徒たち一人ひとりだということです。 また、 奉仕というのは教会の建物でなされることばかりが奉仕ではないと いうことです。働きは、英語では、ミニストリーであります。 どこにミニストリーがあるのでしょうか?みなさんが、 遣わされているところで奉仕のミニストリーがあるということです 。Ⅰペテロ1:9「あなたがたは王である祭司」とあります。 私たちは王である祭司として、遣わされる場所、 場所において奉仕のミニストリーがあるということです。 どんなミニストリーがあるのでしょう? 家庭では子どもたちのために祈ることができます。 職場では社員や同僚のために祈ることができます。 私たちはただお金を得るために会社で仕事をしているのではありま せん。そこの場所において、 あなたは王である祭司として奉仕の働きをするのです。そして、 チャンスがあれば福音を伝え、 御国の民になるように勧めるのです。 牧師はあなたの家庭や職場や学校に出向くことは不可能です。 みなさん一人ひとりが、その場所で、 いろんな人と出会っています。つまり、 最先端で奉仕の働きをしているのは、 みなさん一人ひとりだということです。ハレルヤ!では、 教会は何のためにあるのでしょうか? それは聖徒を整えるためにあるのです。つまり、 クリスチャンのトレーニングセンターです。これまで教会は、「 神様、私を祝福してください。私のビジネスを祝福してください。 私の病気が癒され健康になりますように」と求めてきました。 牧師も日曜日の度ごとに、みなさんを祝福します。でも、 それだけだと本当の教会ではありません。 整えられて派遣されるのです。1週間、戦場に出かけ、 人々を祝福する奉仕の働きをするのです。戻ってきたら、 教会で癒され整えられ、また派遣されます。

 キリストのからだなる教会を建てるのは、 みなさん一人ひとりです。教会にいらしてから、しばらくは、 お客さんかもしれません。しかし、 いつまでもお客さんでは困ります。先輩のクリスチャンは、 今度は新しく来た人の面倒を見るのです。いつまでも、 牧師から養われていたならばどうなるでしょうか? いい年をした人が、スプーンで口元まで離乳食を運んでもらう。「 紅茶が良いですか?コーヒーが良いですか?」と世話してもらう。 それは真の教会ではありません。なぜなら、 みなさんの教会だからです。そういう意味で、 私たちは成熟した大人のクリスチャンを目指すべきであります。 皆さんは、天国に行くだけのクリスチャンでありたいでしょうか? それとも、神の国の建設のために用いられたいでしょうか? この世に出て行って、 失われた人たちをキリストのもとに勝ち取る。彼らを養育し、 訓練してから、兵士として遣わす。そして、 奉仕の働きを拡大していくのです。 これを牧師一人でやっていては、足し算的な増え方です。でも、 救われた人が整えられて、派遣されていくならば、倍、 倍となって増えていくでしょう。これまで、 教会はクリスチャンをベンチに座らせておく観客にしていました。 牧師や一部の献身者がプレーをしています。 観客であるクリスチャンはポップコーンを食べながら「 がんばれよー、献金するからなー」と応援しています。しかし、 それはおかしいですね。競技場で実際にプレーをするのは、 皆さん方一人ひとりです。牧師はいわばコーチのような存在です。 敵を打ち破り、 点数をあげるのはプレイヤーである皆さん方一人ひとりです。 あなたが主役、あなたが選手なのです。みなさん、 観客席でただ見ているのと、グラウンドで汗を流して競技する方、 どっちが面白いでしょうか?確かに、 ねそべって見ている方が楽です。でも、 勝利の喜びを味わえるのは、見ている人ではなく、 プレイヤーであります。そして、 賞をもらうのもプレイヤーであります。どうぞ、 単なる聖徒ではなく、イエス様の同労者になりましょう。 群集の一人ではなく、イエス様の弟子になりましょう。

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2009年9月13日 (日)

【特別礼拝】 「御国が来ますように」  マタイ6:9~13 

本日は、陣内 俊 兄を迎えての特別礼拝になりますので、
原稿が用意できませんでした。

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2009年9月 6日 (日)

一致を保つ      エペソ4:1-6

 9月に入ったら急に涼しくなりました。収穫の秋と言いますが、キリスト教会でもいろんな集会が目白押しにあります。私は恵まれた集会やセミナーはできるだけ参加しているようにしています。いろんな良い刺激を受けるからです。昨日までは、ハワイから来られたウェイン・コディーロ牧師のカンファレンスに行ってきました。先生は昨年の10月、心筋梗塞に倒れ、日本に来ることができませんでした。しかし、見事に復活して、元気なお姿を見ることができ感謝でした。大和カルバリーからも大勢、見えておられました。大川牧師とウェイン師はとても仲良しです。大川牧師も今年の11月、心筋梗塞の手術をされました。メッセンジャーというものは、心臓に負担がかかるようであります。大教会で、大会衆に語るからそうなのかもしれません。私の場合は、このくらいの人数なので、心臓にはあまり負担がかかりません。逆に、聞く、みなさんに負担がかかるかもしれません。きょうも、共にみことばから学びたいと思います。

1.召しにふさわしく

エペソ4:1「さて、主の囚人である私はあなたがたに勧めます。召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい。」召しにふさわしく歩みなさいとはどういう意味でしょうか?これは私たちに対する1つの命令になっています。「召し」とは、ギリシャ語では、「呼ぶ、呼び出す、招く」と言う意味です。英語で、callingですが、「召命」とも訳されます。神様は私たちをこの世から呼び出し、救いにあずからせてくださいました。「召しにふさわしく歩むってなんだろう?」「何のために神様は私を救ってくださったんだろう?」このとき、私たちはどんなことを考えるでしょうか?一生懸命、神様から与えられた使命を成し遂げることじゃないだろうか?たとえば、私が医者だったら、立派なお医者さんになることだ。私がビジネスマンだったら、神様からの知恵や才能を生かして、ビジネスを拡大して利益をあげることじゃないだろうか?また、私が学生だったら、良い成績を修めることだろうか?牧師として召されたら、大勢の人たちを救いに導き、立派な教会を建てることだろうか?「ああ、神様から与えられた能力や賜物、すべての資源を用いて、神様の栄光を現わす、それが召しにふさわしく歩むことなんだ」と考えるのではないでしょうか?そう考えたのは、実は私なのであります。私の頭の中がいかに業績指向に毒されているか、自分でも驚きました。「神様の召しとは、神様から与えられた使命を成し遂げることだ」と考えていました。つまり、自分の行ない、doingと結びつけていたのです。もし、そのように考えるなら、毎日、有意義なことをしていなければ、気がすまなくなります。何かをしていなければ、落ち着かない。こういう人はいないでしょうか?

しかし、聖書は文脈から理解することはとても重要です。4章2節に何と書いてあるでしょうか?「謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い」となっています。この聖書は、2節と3節が1つの文章になっています。しかし、先週も話しましたが、ギリシャ語には日本語のような句読点がありません。だから、他の日本語の聖書や英語の聖書も参考にする必要があります。新共同訳は「その召しにふさわしく歩み、一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。」となっています。英語の聖書も、「謙遜で、柔和で、忍耐を持って、互いに忍び合うように、歩むように召されたのです」と訳すことができます。つまり、召命は、行ないではなく、品性と結びついているということです。このことはとても重要ではないかと思います。私たちは「何かができなければ話にならない、人から相手にされない」と自分を駆り立てています。しかし、聖書は、その前に「こういうふうな生き方をすべきなんですよ」と、心の面を教えています。使徒パウロはどうだったんでしょうか?もう一度、エペソ4:1「さて、主の囚人である私はあなたがたに勧めます。召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい。」となっています。パウロは福音宣教のために、だれよりも多く働いた使徒でした。でも、今はどうなっているんでしょうか?「主の囚人」となっています。これには2つの意味があります。第一は、まさしくパウロは福音のためにローマで捕らえられ、自由を奪われたということです。あのような有能なパウロが、捕らえられて動けないならば、神様にとっても損失であろうと思います。パウロは自分が動けないので、牢獄で諸教会に手紙を書き送りました。それが、今、私たちの手元で、聖書になって残っています。それも神様の知恵かもしれません。もう1つは、パウロは主の奴隷だということです。パウロの場合は、主を愛するがゆえに、自ら進んで愛の奴隷になったのです。だから、パウロはキリスト様のためだったら、何でも従いますと決意したのです。そういうふうに考えますと、クリスチャンとは、キリストに属するように歩むことが召しにふさわしく歩むことなんだと言うことが分かります。

では、もう一度、「召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい」とは、どういう意味でしょうか?まず、それは、謙遜と柔和を身につけるということです。謙遜と柔和、あまり派手ではありません。そうしたら、この世の中では、うとんじられるかもしれません。むしろこの世では、「プライドと力」の方が幅を利かせているようです。先週は衆議院議員選挙がありました。結果は、4年前と全く逆転しました。4年前は「プライドと力」が国民を動かしました。今回はどうでしょうか?「もっと、国民のことを考えてほしい。弱者や高齢者、若者たちの就業のことを考えてほしい」、そのように求めたのではないでしょうか?聖書で、鳩は純粋とか平和を意味しますので、実際にそのようになって欲しいと願います。「プライドと力」は短期決戦には向いているかもしれませんが、長い目で見たならば、「謙遜と柔和」の方が長続きするように思えます。なぜなら、人の心は謙遜で柔和な人に、喜んで従うからです。もう1つの品性は、「寛容と愛」であります。Ⅰコリント13章で「愛は寛容である」と書かれていますので、両者はとても似ているということです。では、寛容の反対は何でしょうか?怒り、いらだち、性急でしょうか?宿題をしない子どもたちに、お母さんが怒鳴っている、そういう姿が目に浮かびます。私は買い物に行ったり、散歩に行ったりします。スーパーなどで、子どもに「馬鹿!何やってんのよ!」と怒鳴っているお母さんをたまに見ます。また、散歩をしていると2階の方から、子どもを怒鳴っている声をたまに聞きます。「ああ、ここは葛飾区なんだなー」と思います。テレビで「こちら葛飾区亀有公園前派出所」という番組がありますが、まさしく、下町なのかもしれません。でも、みなさん、「寛容と愛」のもとで育てられるなら、もっと奥の深く、味のある人になれます。

ウガンダで伝道しておられる、ゲアリースキナーがこのようなことをおっしゃっています。「国家において神とされているものの性格が、国家の人々の性格につながっている。もし、アニミズムを信じている国であるなら、先祖が大事である。先祖を恐れるので、いろんな迷信に惑わされる。自分の将来を決める権利はない。すでにそれは決まっているものである。また、イスラムを信じている国の場合は、神は怒りの神であり、ジハードの神である。すべての人々を剣によって支配する。女性たちの社会的地位は低く、非イスラム教徒たちはみな敵であり、二流、三流の市民として扱われる。もし、世俗主義が神となっている場合は、神は存在しない。そこに何の特徴もない。何の真理もない。みなだれもが神になれる。だから、世俗主義においては物質主義がはびこっている。貪欲や腐敗、不正がはびこる。もし、聖書の神が国家の神となった場合はどうなるだろうか?聖書の神の第一の性格は何か?神は愛に基づいた関係を大事にする宗教を求めている。そうなると人々はどうなるだろうか?愛にあふれる人々となる。愛がすべてのものを覆うのである。聖書に書かれている最も大切な戒めは何だろうか?『あなたは心を尽し、思いを尽し、力を尽して、主である神を愛せよ』。すべての律法が、この1つの戒めにまとめられている。愛はすべての問題を解決する。十戒があるが、それはすべて愛を表現した戒めである。愛は国家建設をもたらす。神を愛し、国家を愛する政治家は、神に仕え、国家に仕えるのである。神様を愛し、また経済活動の好きなビジネスマンは、また人々を愛し仕えている。教育の場においても、家庭においても愛がある。学校の先生も、自分の子どもたちを愛する人たちになる。」

ハレルヤ、愛なる神様、イエス様が私たちを召してくださったのです。ですから、召しにふさわしく歩むとは、神様の愛をもって生活するということです。このことは何かできるということよりも、もっと永続的な影響を人々に与えることができるということです。愛なる神様によって召された私たちは、その愛にふさわしい歩み方が可能なのです。アーメン。

2.一致を保ちなさい

エペソ4章3節以降に、「一致とか一つ」という言葉が何度、使われているでしょうか?なんと8回も使われています。私たちが一致することがいかに重要かということが述べられています。最初に、最も重要なことが言われています。4:3「平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。」このところでは気付くことは、「一致を作りなさい」と言われてないことです。「御霊の一致を保ちなさい」と言われています。つまり、一致というものは神様からすでに与えられており、人間が新たに作る必要はないということです。でも、私たちには罪があるので、一致よりも突出したことを求めます。たとえば、プロテスタント教会には様々な教団教派があります。それぞれ強調している神学や教義があります。組織や運営の仕方も違います。洗礼や聖餐式のやり方も違います。礼拝のスタイルも違いますし、祈り方も違ったりします。そのために、お互いに立場が違うとか、「あんたのはおかしい」と主張しがちです。でも、パウロは「神様によってあたえられているこれらのことで、あなたがたは一致することができるのですよ」と教えています。では、どんな理由で、私たちは一致できるのでしょうか?私たちが一致できる要素、土台、理由というものはどのようなものなのでしょうか?

第一番目は4節ですが、「からだは1つ」とあります。からだとは、キリストのからだなる教会です。そういう意味で教会は1つなのです。私たちはキリストというからだを構成している、部分、部分なのです。Ⅰコリント12章で、「器官は多くありますが、からだは一つなのです」と書いてあります。これを地方教会だけではなく、全世界の教会にも言えることなのであります。そう考えますと、教団教派の違いは、からだの各器官の働きの違いと同じだと理解できます。それぞれの、教団教派が足りないところを補い合う関係だということです。

第二番目に「御霊は1つ」とあります。私たちクリスチャンはどこの国の人であれ、御霊によって新たに生まれた存在です。また、御霊によって生かされ、御霊によって奉仕しています。聖霊のいないクリスチャン、聖霊のいない教会は1つもありません。ただし、聖霊の働きをどのように認めるか、これは教団教派でものすごく違います。本来、聖霊は一致を与える源であるにも関わらず、聖霊の働きをどのように考えるかで、バラバラになります。むしろ、聖霊は万能であり、ありとあらゆることがおできになります。だから、これしかないと切り捨てるのではなく、「これもあるし、これもできる」と、全部認めることが重要です。

第三番目に「召しのもたらした望みが1つ」とあります。召しとはキリスト様によって救われたということです。キリスト様によって救われた私たちの究極的な望みとは何でしょうか?それは、神の国に共に住まうことです。天国に行ったら、バプテストも聖公会もペンテコステもありません。みんな1つです。私たちは「御名があがめられ、御国が来るように」と祈っています。永遠の御国、天国こそが私たちの望みです。

第四番目は5節に「主は1つ」とあります。新約聖書において主とは、イエス・キリスト様であります。新約聖書の頃、主(キュリオス)とは、ローマ皇帝のことを指していました。つまり、主というのは、神であり支配者であるという意味です。当時の人は、イエスは主と言うとき、命がけだったのです。私が礼拝する神は、イエス・キリスト以外にいないということです。私たち教会は、そういう意味で、「主は1つである」と信じて告白するのです。

第五番目は「信仰は1つ」とあります。信仰という言葉ほど、食い違うものはないのではないでしょうか?これはこの世のことではなく、キリスト教会においてもそうだということです。信仰ということを言うと、いろんな立場やいろんな強調の違いがあります。カトリック教会とプロテスタント教会の戦い、またプロテスタント同士でも長い間、戦ってきました。この場合、何をさして「信仰は1つだ」と言うのでしょうか?私は信仰の内容ではなく、信仰の対象であるなら、一致できるのではないかと思います。私たちの信仰の対象とはだれでしょう?それは、父なる神、子なるキリスト、聖霊なる神であります。つまり三位一体の神です。もしも、キリストや聖霊が神ではないと言うとしたら、それはキリスト教の異端になります。正統のキリスト教は、三位一体の神様を信じているからです。

第六番目は、バプテスマは1つとあります。このバプテスマも歴史的に物議をかもしました。浸礼であるべきだとか、滴礼でも可能だとかいろいろありました。ある教派では、幼児洗礼を認めますが、ある教派では認めません。だれが洗礼を授けられるのか?「教職者だけなのか?信徒リーダーはだめなのか」ということも問われています。私はバプテスマのやり方ではなく、ローマ6章にあるように、「キリストと共に葬られ、キリストと共によみがえる」、そのことを信じるなら、水の量はどうでも良いと思います。

第七番目の1つは、父なる神は1つだということです。4章6節「すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父なる神は一つです」とあります。英語の聖書は、of all, over all, through all, in allととても格好良いというか、すっきりしています。All、すべてのものとは何でしょう?おそらく被造物全体だと思います。被造物とは、動植物、そして人間です。そして、父なる神様が一番関心を持っておられるのは、キリストによって贖われた神の民であります。黙示録7:9「あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、だれにも数え切れぬほどの大勢の群集が白い衣を着、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立っていた」とあります。残念ながら、この地上では、肌の色の違い、言葉の違い、民族の違いがあります。しかし、やがて完成される御国では、ひとり人の神をあがめるのです。

私は御国に属するクリスチャンになってから、考え方が大きくなりました。よく、関西はこうだとか、北海道は、沖縄はこうだ、とか言います。しかし、日本は本当に小さな国です。世界もどうでしょうか?私はキリスト教の国際会議には出たことがありませんが、本当に色とりどりだということを聞きます。インドネシアで、世界セルチャーチサミットに出たことがあります。規模こそ違いますが、世界各国から来られています。大会中、「地上の父を赦しましょう。そして、近くの人から父親代わりにハグしてもらいましょう」という勧めがありました。そのとき私をハグしてくれたのは、マレーシアの聖公会の司祭でした。癒しと祝福の祈りをしていただき、本当に感動しました。日本は世界でもまれにみる、教会が1つになれない国であります。なぜでしょう?1つは、世界各国から日本の伝道のために、あるいは教会形成のために宣教師や宣教団体が訪れました。それは大変ありがたいことです。でも、だんだん、自分を送ってくれた団体の名前を付けるようになりました。おまけに、日本人というのは大変りちぎなところがあり、最初に教えられたことを、忠実に守り通すということです。アメリカでは当の昔に変えているのに、50年たってもそれを守っている。それが日本の教会です。シンガポールへ行くと、聖公会もバプテストも、ペンテコステもみんな仲良しで、しかも、聖霊の働きを認めています。しかし、日本では教団教派の壁が厚くて高いのです。インドネシアでもかつてそうでした。しかし、1990年代に、イスラム教徒から大迫害を受け、教会という教会が焼かれてしまいました。人々はどうしたでしょう?会堂がなくなったので、焼け跡の広場にみんな集まりました。そのとき、どの教団教派も関係なくなったそうです。リバイバルが来ると、教団教派も関係なくなるそうです。奥山先生がこのようなことをおっしゃっていました。インドネシアではあひるを飼っていますが、自分のあひると他の人のあひるを区別するために、池に柵を張り巡らしてあるそうです。でも、雨が降って洪水になると、柵よりも上に水かさが増します。あひるたちは、ガアガアと泳いで、1つの群になるそうです。世の終わり、聖霊様の働きが洪水のように訪れることを期待します。

イエス様はヨハネ17章には、「私たちが1つになるならば、イエス様が私たちを愛していることを世が知るであろう」と書かれています。いろんな証や伝道がありますが、私たちが仲良く1つになっている、これが一番の証だということです。逆に仲たがいしているならば、「あれでもキリストの弟子か?」と言われるということです。そうではなく、「私もあの麗しい交わりの中に入りたい」、そういう主の愛に溢れた群れになりたいと思います。

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