« キリストの賜物       エペソ4:7-12 | トップページ | 新しい人を着る     エペソ4:17-24 »

2009年9月27日 (日)

キリストに達する      エペソ4:13-16

 先週のメッセージの聖書箇所は途中で終っていました。エペソ4:12「それは聖徒たちを整え奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建てあげるためであり、」で終っていました。つまり、続きがあったということです。大体、日曜日の説教は30分、長くても35分で終らせるようにしています。そうでないと、お互いに集中力を欠いて、帰るとき「きょうは何を語ったんだろう?」と1つも持って行けなくなるからです。ですから、きょうは先週の続きものになっています。先週は何を話したかと申しますと、イエス様は教会に5つの職務の賜物をお与えになりました。5職とも言いますが、使徒、預言者、伝道者、牧師、教師であります。イエス様が彼らを教会に置いた目的は何でしょうか?それが、エペソ4:12「それは聖徒たちを整え奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建てあげるためであり」ということです。その後、どうするのでしょうか?それぞれ賜物にあった奉仕して、教会を建てあげて行けば良いのでしょうか?それだけではありません。最終的なゴールがあります。それが、本日の箇所であります。大きくわけて2つあります。

1.キリストに達する

エペソ4:13「ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです」。このところに、「完全におとなになって、キリストの身たけにまで達するため」とあります。そのあとの、15節にも同じような表現があります。「あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです」とあります。完全におとなになるというのと、あらゆる点において成長するということは同じ意味であります。聖徒、つまりクリスチャンのゴールは、あらゆる点において成長してキリストに達することだということです。私たちはこういうことを聞くと「とんでもない、無理だよ、そんなこと」と言いたくなります。でも、その前にちょっと考えましょう。イエス様がこの地上に、人間としてお生まれになりました。そして、イエス様は、どのように育ったのでしょうか?ルカ2:52「イエスはますます知恵が進み、背たけも大きくなり、神と人とに愛された」とあります。このところからイエス様は、4つの分野で成長したことがわかります。これはまた、私たちの模範でもあります。第一は知性の面において成長しました。神から知恵を得たり、勉強することが重要です。第二は身体的な面において成長しました。体には運動、食べ物、衣服が必要です。第三は神様との関係、つまり霊的な成長です。第四は人との関係、つまり精神面、社会面の成長です。私たちはクリスチャンになりますと、霊的な面だけを強調しがちですが、知恵を得ることや良い人間関係を作るということも忘れてはいけません。

でも、それに比べて、バランスの取れていない、幼いクリスチャンはどうなんでしょうか?エペソ4:14を見ると、霊的な子どもとは「人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりする人」であります。また、4:15を裏返しに言いますと、霊的な子どもとは「愛なしで、真理を語ることであります。」さらに、4:16を裏返しに言いますと、「組み合わされない、結び合わされない、成長しないで、愛のうちに建てられることを拒む人」、つまり孤立しているクリスチャンであります。身体は一人前であっても、神様との関係、人との関係、そして信仰的な知恵や知識がないという場合があるということです。イエス様は十字架にかかり、復活しました。この方を信じるならば、私たちは救われます。そういう意味で、イエス様は贖い主、救い主であります。でも、忘れてはならない面は、イエス様は私たちの模範にもなったということです。イエス様は人間となって、「あなたがたもこのように生きることができるのですよ。私に倣いなさい」とお手本になられたのです。つまり、イエス・キリストに似た者になる、これこそが私たちの信仰のゴールであります。神様が人間を造るときにどのように、言われたのでしょうか?「われわれに似るように、われわれのかたちに人を造ろう」。そして、「人をご自身のかたちに創造された」とあります。ところが、アダムが罪を犯したために、全人類が堕落し、神のかたちがなくなってしまいました。しかし、イエス・キリストが来られ私たちを罪から救っただけではなく、神のかたちを回復させようとして下さっています。そのために、イエス様は私たちの模範となり、そして私たちの命となったのです。だれでも、イエス様を信じると、神の種が与えられ、それが育つとキリストの似姿へと成長していくのです。キリストの似姿とは、キリストの品性が身につくということです。

先週は、エディ・レオ師が導いておられるメンズセミナーに出席しました。その中で、イエス様は「厳しさも優しさもたっぷりあるバランスのとれた人」であったということを学びました。ルカ13章には、三年たっても実を結ばないいちじくの木のたとえ話があります。主人は「何のために土地をふさいでいるのか、切り倒してしまいなさい」と言いました。番人は「今年一年、待ってください。木の周りに肥やしをやってみますから」と言いました。これはイエス様の優しい面を表しています。しかし、「それでもだめなら、切り倒してください」と言いました。これがイエス様の厳しさです。他にも福音書には、イエス様の厳しい面がいくつも書いてあります。「手を鋤につけてから、後ろを見る者は、神の国にふさわしくない」、「私よりも父や母を愛する者は私にふさわしくない」という箇所もあります。イエス様は厳しさも優しさもたっぷりあるバランスのとれた人でした。イエス様の姿と自分を比べてどうでしょうか?「最近の私は父として、牧師としてかなり優しくなったんじゃないだろうか?愛もだんだん出てきて、比較的、良くなったんじゃないだろうか?」と思いました。しかし、イエス様のような厳しさはどうだろうか?「ああ、ないなー」と思いました。「まあ、いいか?」でやってきたところが多分にあります。エペソ4:15に何と書いてあるでしょうか?「愛をもって真理を語り」と書いてあります。愛は優しさであります。一方、真理は厳しさと言って良いでしょう。愛なしで、真理を語ってはいけません。その場合は、鋭い刃によって人を傷つけてしまいます。だから、愛をもって真理を語る必要があります。愛はすばらしいものです。でも、真理も重要です。なぜなら、真理は人を自由にするからです。多くの人は、この世において、間違った教えや習慣のもとで生きています。クリスチャンでさえも、サタンに欺かれている場合があります。そのとき、成長したクリスチャンは「愛をもって真理を語る」のです。そのことによって、束縛の縄目を切られ、その人は自由になるのです。

では、どうすれば、私たちは身体の面だけではなく、神様との関係、人との関係、そして信仰的な知恵や知識において成長することができるのでしょうか?私たちクリスチャンはすでに、イエス様を信じたときに、神の命、神の種が与えられているのです。だから、イエス様に似る要素がすでにあるのです。イエス様に似た者として成長するためには何が足りないのでしょうか?そうです。目の前に、「このようにすれば良いのですよ」と、具体的に教えてくれる先輩クリスチャンがいなければならないということです。エディ・レオが「ライオンの話をしてくれました」。あるとき、ハンターが母親のライオンを銃で殺しました。そして、子どものライオンを動物園で育てました。子どものライオンは10m×10mの檻の中に入れられました。ライオンは檻の中で成長し、大人のライオンになりました。人々は、このライオンを可愛そうだと思って、野生に返えすことにしました。ライオンはジャングルに放たれました。ところが、このライオンはまもなく死んでしまったということです。なぜでしょう?だれからも、自分で猟をして餌を取ることを学ばなかったからです。たしかに体つきは、成人したライオンでしたが、倣って学ぶことをしなかったのです。クリスチャンも同じです。私たちが霊的に生まれても、倣って学ぶ必要があります。そうしなければエペソ4章で言われている、イエス様に似た成熟したクリスチャンにはなれません。倣って学ぶとはどういう意味でしょう?それは弟子訓練、コーチング、あるいはメンタリングという意味です。自分の傍らで、一緒に歩きながら、手本を見せて、教えてくれる人が必要だということです。若い女性はだれが訓練するのでしょうか?テモテの手紙では、年取った女性が、若い女性を訓練しなさいとあります。若い男性は、年取った先輩クリスチャンが訓練すべきです。牧師はその先輩クリスチャンとなる人をコーチングするのです。牧師もだれか先輩牧師からコーチングを受ける必要があります。人にはいろんな賜物があり、いろんな召命やいろんな働きがあるでしょう。でも、だれもが共通して持っている目標とは何でしょうか?それはキリストに似た者として成長するということです。人格的な面において、キリストに達するということです。そのことを可能にするために、神様は神の命と指導する人とを教会に与えておられるのです。

2.キリストによって建てる

 エペソ4:16「キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。」前半は、キリストに似るために個人的に成長するということをお話しました。そして、後半は、キリストによって建てられるということです。これはキリストのからだなる教会を建てるということであります。でも、教会はだれが建てるのでしょうか?16節の前半は、「キリストによって」となっています。そして、一番最後は、「愛のうちに建てられるのです」となっています。教会はだれが建てるのでしょうか?そうです。キリストが建てるのです。少し前の、エペソ4:11,12も同じことです。11節の前半は「こうして、キリストご自身が」となっています。キリストご自身が5種類の指導者を立てて、どうするのでしょうか?12節の後半は「キリストのからだを建て上げるためであり」となっています。これと関連したみことばは、マタイ16:18です。そのところでイエス様は、「私はこの岩の上に私の教会を建てます」と言われました。そうです。教会のかしらはイエス・キリストです。イエス様がかしらなのですから、私たちはたえずかしらに聞く必要があるのです。ところが、実際の教会はどうなっているでしょうか?教会によっていろんな政治形体があります。牧師がワンマン的にコントロールしている教会、長老や役員が強い教会、会衆が強い教会があります。また、各教団教派のトップが支配しているところもあります。教会ですから、いろいろあっても良いのですが、決して忘れてはならないことは、教会のかしらはイエス・キリストであり、このお方に聞くということです。私たちはセルチャーチを目指していますが、各セルもどうか、かしらなるキリストに聞いて、そして従ってください。必ず、どうすれば良いか教えてくださいます。

 また、次に分かることは、キリストのからだは、いろんな器官、部分で構成されているということです。しかも、力量や働きが違います。私たち一人ひとりも、いろんな賜物を持っています。働きも違いますし、性格や好みも違うでしょう。誰ひとり、全く同じだということはありません。それぞれが、神様から召された賜物と働きがあります。でも、それだけだとバラバラになってからだとして成り立たなくなります。6節には「結び目によって、組み合わされ、結び合わされ」とあります。つまり、各セルやミニストリーがばらばらに動くのではなくて、組み合わせられ、結び合わせられる必要があるということです。英語の聖書は、ジョイントという言葉と、ニット(編む)という言葉が用いられています。ジョイントは骨と骨の関節を想像できます。成人の体には200本くらいの骨があるそうですが、それらが関節や筋によってつながれています。しかし、それだけではありません。人間のからだは神経や血管、リンパ腺が網の目のように張っています。これが、ニット(編む)ということです。ニットからは、コミュニケーションとか、ネットワークということを想像できます。お互いに情報交換したり、助け合うということです。最近のアメリカでは、メガチャーチ(大きな教会)から人々が去っているということです。どこへ行くか、ハウスチャーチに移っているということです。ハウスチャーチにはメガチャーチにない、親しい交わりがあるからです。でも、ハウスチャーチが孤立してはいけません。お互いに情報交換したり、助け合うことが必要です。現代の教会の成長を阻んでいるのが何かご存知でしょうか?それは教団教派同士の壁であります。各教団教派がそれぞれの神学や組織を主張し、他と交わったり、他から学ぼうとしません。伝統に縛られ、自分たちの教団教派が伸びれば良いと思っています。でも、今はインターネットや衛星放送が普及していますので、信徒たちが教団教派の壁を越えて交わっています。教会や牧師が「そんなところへ行ってはだめだ!」と言っても信徒たちの方が情報を得ています。今は、トップダウンではなく、ネットワークの時代です。

 最後に、みなさん、からだなる教会が忘れてはならないことがあります。16節最後、「成長して、愛のうちに建てたれるのです」とあります。私たちはキリストを目指して成長します。しかし、そのためには「愛のうちに建てられる」ということです。「建てられる」という言葉は、もともと「家を建てる」という意味ですが、徳を建てるという意味もあります。英語の聖書は、edifyとなっています。edify、edificationと言うのは、「人を教化する、啓発する」という意味です。「啓発」というと、「啓発セミナー」を思い出すので、あまりよくはないかもしれません。でも、クリスチャンは「お互いに建て上げる」ということがとても重要です。では、「お互いに建て上げる」の反対は何でしょうか?その人の人格や働きを壊す言葉や行為でしょう。欠点や失敗をあげ連ねたり、非難、ゴシップ、冷やかしもそうです。「あんたには無理だよ、器じゃないよ」と言われたら、おじけづいてしまいます。では、「お互いに建て上げる」とは具体的には、どういうことでしょうか?慰めや励まし、良いところを引き出す、失敗してもOK!という雰囲気、そしてフォローするということでしょうか。ちょっと手伝う、ちょっと手を差し伸べるだけでも、大分違います。また、建て上げるとは、みことばによって建て上げるということもとても重要です。お互いに、みことばを分かち合う、これほどすばらしい建て上げはありません。私は常磐牧師セルと、関東コーチングに所属していますが、牧師同士が建て上げています。この間は、ある先生が、隣りに駐車していた車をこすって、そのまま去ってしまった。後から、警察がやってきて、「あなたでしょう、カメラに映っていましたよ」と言われたというんですね。聞いている私たちも、身につまされました。また、コーチングでは牧会で、傷つけられた証も分かち合います。そこで、癒され、希望が出てくるんですね。どうぞ、みなさんお互いに、建て上げ合うグループを持ちましょう。セルでも良いし、サポートグループでも良いです。お互いに秘密を守り、また説明責任を負うグループです。

 私は丸屋真也先生から時々、学んでいます。先生は共依存ではなく、相互依存の関係が大事ですと言います。共依存者とは、力ある人のもとで、いやいやながら仕える人です。力ある人というとプロレスラーとかお相撲さんを想像しますがそうではありません。子どもが家を支配している場合があります。子どもの言いなりです。ヒステリーの妻の言いなりになる場合もあります。また、酒を飲んで暴力を振るう夫の言いなりになる場合もあります。教会では霊的権威を振る牧師の言いなり、意見の強い長老の言いなり、あるいは問題を抱えた人の言いなりになる。それが共依存の関係です。その人を怒らせないように、仕えていても、それは解決にはなりません。解決を先延ばしにしているだけです。どっちかが倒れるまで続くでしょう。そうではありません。だれが家庭の支配者でしょうか?だれが教会の支配者でしょうか?かしらなるイエス・キリストです。かしらなるお方のもとに、それぞれ働きの違う者同士が集まっているのです。それぞれ違う機能が協力し合う。これが相互依存であります。夫には夫の機能があります。妻にも、子どもにもそれぞれ別な機能があります。教会も同じであります。牧師の機能があります。それぞれのミニストリーやセルの機能があります。そしてキリストによって結び合わされ、愛のうちに建てられるのです。それが相互依存であります。丸屋真也先生が良く言いますが、教会にサポートグループがあるとないとでは、ぜんぜん違うということです。サポートグループという名前でなくても、共同体、小グループ、セルグループなんでも良いです。弱い人、問題のある人を受け入れ、お互いに支え合う。一人がみんなのお世話になるのではなく、その人もだれかを支えるのです。その人にも、何かすべきことを与えるのです。みんなそれぞれの機能や働きを差し出して参加する。お客さんのときよりも、自分が主体的に参加する、自分は必要とされている、そっちの方が何倍も喜びがあります。キリストのからだなる教会で癒され、元気が与えられる。そして、そのことが職場や学校、地域社会にも活かされる。教会がリトリート・センター、訓練センターになっても良いと思います。神様はどういう訳か、一人でなんでもできるスーパーマンを教会に与えていません。いろんな賜物が、力量が違っても、一緒に結び合って働くように、願っておられるようです。実は、その方が偉大で、しかも、永続的な働きができるのです。きょうは、個人の成長と教会形成について学びました。みな、イエス様に似た者となるように成長しましょう。同時に、キリストのからだとして連なって成長していきましょう。

|

« キリストの賜物       エペソ4:7-12 | トップページ | 新しい人を着る     エペソ4:17-24 »