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2009年9月 6日 (日)

一致を保つ      エペソ4:1-6

 9月に入ったら急に涼しくなりました。収穫の秋と言いますが、キリスト教会でもいろんな集会が目白押しにあります。私は恵まれた集会やセミナーはできるだけ参加しているようにしています。いろんな良い刺激を受けるからです。昨日までは、ハワイから来られたウェイン・コディーロ牧師のカンファレンスに行ってきました。先生は昨年の10月、心筋梗塞に倒れ、日本に来ることができませんでした。しかし、見事に復活して、元気なお姿を見ることができ感謝でした。大和カルバリーからも大勢、見えておられました。大川牧師とウェイン師はとても仲良しです。大川牧師も今年の11月、心筋梗塞の手術をされました。メッセンジャーというものは、心臓に負担がかかるようであります。大教会で、大会衆に語るからそうなのかもしれません。私の場合は、このくらいの人数なので、心臓にはあまり負担がかかりません。逆に、聞く、みなさんに負担がかかるかもしれません。きょうも、共にみことばから学びたいと思います。

1.召しにふさわしく

エペソ4:1「さて、主の囚人である私はあなたがたに勧めます。召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい。」召しにふさわしく歩みなさいとはどういう意味でしょうか?これは私たちに対する1つの命令になっています。「召し」とは、ギリシャ語では、「呼ぶ、呼び出す、招く」と言う意味です。英語で、callingですが、「召命」とも訳されます。神様は私たちをこの世から呼び出し、救いにあずからせてくださいました。「召しにふさわしく歩むってなんだろう?」「何のために神様は私を救ってくださったんだろう?」このとき、私たちはどんなことを考えるでしょうか?一生懸命、神様から与えられた使命を成し遂げることじゃないだろうか?たとえば、私が医者だったら、立派なお医者さんになることだ。私がビジネスマンだったら、神様からの知恵や才能を生かして、ビジネスを拡大して利益をあげることじゃないだろうか?また、私が学生だったら、良い成績を修めることだろうか?牧師として召されたら、大勢の人たちを救いに導き、立派な教会を建てることだろうか?「ああ、神様から与えられた能力や賜物、すべての資源を用いて、神様の栄光を現わす、それが召しにふさわしく歩むことなんだ」と考えるのではないでしょうか?そう考えたのは、実は私なのであります。私の頭の中がいかに業績指向に毒されているか、自分でも驚きました。「神様の召しとは、神様から与えられた使命を成し遂げることだ」と考えていました。つまり、自分の行ない、doingと結びつけていたのです。もし、そのように考えるなら、毎日、有意義なことをしていなければ、気がすまなくなります。何かをしていなければ、落ち着かない。こういう人はいないでしょうか?

しかし、聖書は文脈から理解することはとても重要です。4章2節に何と書いてあるでしょうか?「謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い」となっています。この聖書は、2節と3節が1つの文章になっています。しかし、先週も話しましたが、ギリシャ語には日本語のような句読点がありません。だから、他の日本語の聖書や英語の聖書も参考にする必要があります。新共同訳は「その召しにふさわしく歩み、一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。」となっています。英語の聖書も、「謙遜で、柔和で、忍耐を持って、互いに忍び合うように、歩むように召されたのです」と訳すことができます。つまり、召命は、行ないではなく、品性と結びついているということです。このことはとても重要ではないかと思います。私たちは「何かができなければ話にならない、人から相手にされない」と自分を駆り立てています。しかし、聖書は、その前に「こういうふうな生き方をすべきなんですよ」と、心の面を教えています。使徒パウロはどうだったんでしょうか?もう一度、エペソ4:1「さて、主の囚人である私はあなたがたに勧めます。召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい。」となっています。パウロは福音宣教のために、だれよりも多く働いた使徒でした。でも、今はどうなっているんでしょうか?「主の囚人」となっています。これには2つの意味があります。第一は、まさしくパウロは福音のためにローマで捕らえられ、自由を奪われたということです。あのような有能なパウロが、捕らえられて動けないならば、神様にとっても損失であろうと思います。パウロは自分が動けないので、牢獄で諸教会に手紙を書き送りました。それが、今、私たちの手元で、聖書になって残っています。それも神様の知恵かもしれません。もう1つは、パウロは主の奴隷だということです。パウロの場合は、主を愛するがゆえに、自ら進んで愛の奴隷になったのです。だから、パウロはキリスト様のためだったら、何でも従いますと決意したのです。そういうふうに考えますと、クリスチャンとは、キリストに属するように歩むことが召しにふさわしく歩むことなんだと言うことが分かります。

では、もう一度、「召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい」とは、どういう意味でしょうか?まず、それは、謙遜と柔和を身につけるということです。謙遜と柔和、あまり派手ではありません。そうしたら、この世の中では、うとんじられるかもしれません。むしろこの世では、「プライドと力」の方が幅を利かせているようです。先週は衆議院議員選挙がありました。結果は、4年前と全く逆転しました。4年前は「プライドと力」が国民を動かしました。今回はどうでしょうか?「もっと、国民のことを考えてほしい。弱者や高齢者、若者たちの就業のことを考えてほしい」、そのように求めたのではないでしょうか?聖書で、鳩は純粋とか平和を意味しますので、実際にそのようになって欲しいと願います。「プライドと力」は短期決戦には向いているかもしれませんが、長い目で見たならば、「謙遜と柔和」の方が長続きするように思えます。なぜなら、人の心は謙遜で柔和な人に、喜んで従うからです。もう1つの品性は、「寛容と愛」であります。Ⅰコリント13章で「愛は寛容である」と書かれていますので、両者はとても似ているということです。では、寛容の反対は何でしょうか?怒り、いらだち、性急でしょうか?宿題をしない子どもたちに、お母さんが怒鳴っている、そういう姿が目に浮かびます。私は買い物に行ったり、散歩に行ったりします。スーパーなどで、子どもに「馬鹿!何やってんのよ!」と怒鳴っているお母さんをたまに見ます。また、散歩をしていると2階の方から、子どもを怒鳴っている声をたまに聞きます。「ああ、ここは葛飾区なんだなー」と思います。テレビで「こちら葛飾区亀有公園前派出所」という番組がありますが、まさしく、下町なのかもしれません。でも、みなさん、「寛容と愛」のもとで育てられるなら、もっと奥の深く、味のある人になれます。

ウガンダで伝道しておられる、ゲアリースキナーがこのようなことをおっしゃっています。「国家において神とされているものの性格が、国家の人々の性格につながっている。もし、アニミズムを信じている国であるなら、先祖が大事である。先祖を恐れるので、いろんな迷信に惑わされる。自分の将来を決める権利はない。すでにそれは決まっているものである。また、イスラムを信じている国の場合は、神は怒りの神であり、ジハードの神である。すべての人々を剣によって支配する。女性たちの社会的地位は低く、非イスラム教徒たちはみな敵であり、二流、三流の市民として扱われる。もし、世俗主義が神となっている場合は、神は存在しない。そこに何の特徴もない。何の真理もない。みなだれもが神になれる。だから、世俗主義においては物質主義がはびこっている。貪欲や腐敗、不正がはびこる。もし、聖書の神が国家の神となった場合はどうなるだろうか?聖書の神の第一の性格は何か?神は愛に基づいた関係を大事にする宗教を求めている。そうなると人々はどうなるだろうか?愛にあふれる人々となる。愛がすべてのものを覆うのである。聖書に書かれている最も大切な戒めは何だろうか?『あなたは心を尽し、思いを尽し、力を尽して、主である神を愛せよ』。すべての律法が、この1つの戒めにまとめられている。愛はすべての問題を解決する。十戒があるが、それはすべて愛を表現した戒めである。愛は国家建設をもたらす。神を愛し、国家を愛する政治家は、神に仕え、国家に仕えるのである。神様を愛し、また経済活動の好きなビジネスマンは、また人々を愛し仕えている。教育の場においても、家庭においても愛がある。学校の先生も、自分の子どもたちを愛する人たちになる。」

ハレルヤ、愛なる神様、イエス様が私たちを召してくださったのです。ですから、召しにふさわしく歩むとは、神様の愛をもって生活するということです。このことは何かできるということよりも、もっと永続的な影響を人々に与えることができるということです。愛なる神様によって召された私たちは、その愛にふさわしい歩み方が可能なのです。アーメン。

2.一致を保ちなさい

エペソ4章3節以降に、「一致とか一つ」という言葉が何度、使われているでしょうか?なんと8回も使われています。私たちが一致することがいかに重要かということが述べられています。最初に、最も重要なことが言われています。4:3「平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。」このところでは気付くことは、「一致を作りなさい」と言われてないことです。「御霊の一致を保ちなさい」と言われています。つまり、一致というものは神様からすでに与えられており、人間が新たに作る必要はないということです。でも、私たちには罪があるので、一致よりも突出したことを求めます。たとえば、プロテスタント教会には様々な教団教派があります。それぞれ強調している神学や教義があります。組織や運営の仕方も違います。洗礼や聖餐式のやり方も違います。礼拝のスタイルも違いますし、祈り方も違ったりします。そのために、お互いに立場が違うとか、「あんたのはおかしい」と主張しがちです。でも、パウロは「神様によってあたえられているこれらのことで、あなたがたは一致することができるのですよ」と教えています。では、どんな理由で、私たちは一致できるのでしょうか?私たちが一致できる要素、土台、理由というものはどのようなものなのでしょうか?

第一番目は4節ですが、「からだは1つ」とあります。からだとは、キリストのからだなる教会です。そういう意味で教会は1つなのです。私たちはキリストというからだを構成している、部分、部分なのです。Ⅰコリント12章で、「器官は多くありますが、からだは一つなのです」と書いてあります。これを地方教会だけではなく、全世界の教会にも言えることなのであります。そう考えますと、教団教派の違いは、からだの各器官の働きの違いと同じだと理解できます。それぞれの、教団教派が足りないところを補い合う関係だということです。

第二番目に「御霊は1つ」とあります。私たちクリスチャンはどこの国の人であれ、御霊によって新たに生まれた存在です。また、御霊によって生かされ、御霊によって奉仕しています。聖霊のいないクリスチャン、聖霊のいない教会は1つもありません。ただし、聖霊の働きをどのように認めるか、これは教団教派でものすごく違います。本来、聖霊は一致を与える源であるにも関わらず、聖霊の働きをどのように考えるかで、バラバラになります。むしろ、聖霊は万能であり、ありとあらゆることがおできになります。だから、これしかないと切り捨てるのではなく、「これもあるし、これもできる」と、全部認めることが重要です。

第三番目に「召しのもたらした望みが1つ」とあります。召しとはキリスト様によって救われたということです。キリスト様によって救われた私たちの究極的な望みとは何でしょうか?それは、神の国に共に住まうことです。天国に行ったら、バプテストも聖公会もペンテコステもありません。みんな1つです。私たちは「御名があがめられ、御国が来るように」と祈っています。永遠の御国、天国こそが私たちの望みです。

第四番目は5節に「主は1つ」とあります。新約聖書において主とは、イエス・キリスト様であります。新約聖書の頃、主(キュリオス)とは、ローマ皇帝のことを指していました。つまり、主というのは、神であり支配者であるという意味です。当時の人は、イエスは主と言うとき、命がけだったのです。私が礼拝する神は、イエス・キリスト以外にいないということです。私たち教会は、そういう意味で、「主は1つである」と信じて告白するのです。

第五番目は「信仰は1つ」とあります。信仰という言葉ほど、食い違うものはないのではないでしょうか?これはこの世のことではなく、キリスト教会においてもそうだということです。信仰ということを言うと、いろんな立場やいろんな強調の違いがあります。カトリック教会とプロテスタント教会の戦い、またプロテスタント同士でも長い間、戦ってきました。この場合、何をさして「信仰は1つだ」と言うのでしょうか?私は信仰の内容ではなく、信仰の対象であるなら、一致できるのではないかと思います。私たちの信仰の対象とはだれでしょう?それは、父なる神、子なるキリスト、聖霊なる神であります。つまり三位一体の神です。もしも、キリストや聖霊が神ではないと言うとしたら、それはキリスト教の異端になります。正統のキリスト教は、三位一体の神様を信じているからです。

第六番目は、バプテスマは1つとあります。このバプテスマも歴史的に物議をかもしました。浸礼であるべきだとか、滴礼でも可能だとかいろいろありました。ある教派では、幼児洗礼を認めますが、ある教派では認めません。だれが洗礼を授けられるのか?「教職者だけなのか?信徒リーダーはだめなのか」ということも問われています。私はバプテスマのやり方ではなく、ローマ6章にあるように、「キリストと共に葬られ、キリストと共によみがえる」、そのことを信じるなら、水の量はどうでも良いと思います。

第七番目の1つは、父なる神は1つだということです。4章6節「すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父なる神は一つです」とあります。英語の聖書は、of all, over all, through all, in allととても格好良いというか、すっきりしています。All、すべてのものとは何でしょう?おそらく被造物全体だと思います。被造物とは、動植物、そして人間です。そして、父なる神様が一番関心を持っておられるのは、キリストによって贖われた神の民であります。黙示録7:9「あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、だれにも数え切れぬほどの大勢の群集が白い衣を着、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立っていた」とあります。残念ながら、この地上では、肌の色の違い、言葉の違い、民族の違いがあります。しかし、やがて完成される御国では、ひとり人の神をあがめるのです。

私は御国に属するクリスチャンになってから、考え方が大きくなりました。よく、関西はこうだとか、北海道は、沖縄はこうだ、とか言います。しかし、日本は本当に小さな国です。世界もどうでしょうか?私はキリスト教の国際会議には出たことがありませんが、本当に色とりどりだということを聞きます。インドネシアで、世界セルチャーチサミットに出たことがあります。規模こそ違いますが、世界各国から来られています。大会中、「地上の父を赦しましょう。そして、近くの人から父親代わりにハグしてもらいましょう」という勧めがありました。そのとき私をハグしてくれたのは、マレーシアの聖公会の司祭でした。癒しと祝福の祈りをしていただき、本当に感動しました。日本は世界でもまれにみる、教会が1つになれない国であります。なぜでしょう?1つは、世界各国から日本の伝道のために、あるいは教会形成のために宣教師や宣教団体が訪れました。それは大変ありがたいことです。でも、だんだん、自分を送ってくれた団体の名前を付けるようになりました。おまけに、日本人というのは大変りちぎなところがあり、最初に教えられたことを、忠実に守り通すということです。アメリカでは当の昔に変えているのに、50年たってもそれを守っている。それが日本の教会です。シンガポールへ行くと、聖公会もバプテストも、ペンテコステもみんな仲良しで、しかも、聖霊の働きを認めています。しかし、日本では教団教派の壁が厚くて高いのです。インドネシアでもかつてそうでした。しかし、1990年代に、イスラム教徒から大迫害を受け、教会という教会が焼かれてしまいました。人々はどうしたでしょう?会堂がなくなったので、焼け跡の広場にみんな集まりました。そのとき、どの教団教派も関係なくなったそうです。リバイバルが来ると、教団教派も関係なくなるそうです。奥山先生がこのようなことをおっしゃっていました。インドネシアではあひるを飼っていますが、自分のあひると他の人のあひるを区別するために、池に柵を張り巡らしてあるそうです。でも、雨が降って洪水になると、柵よりも上に水かさが増します。あひるたちは、ガアガアと泳いで、1つの群になるそうです。世の終わり、聖霊様の働きが洪水のように訪れることを期待します。

イエス様はヨハネ17章には、「私たちが1つになるならば、イエス様が私たちを愛していることを世が知るであろう」と書かれています。いろんな証や伝道がありますが、私たちが仲良く1つになっている、これが一番の証だということです。逆に仲たがいしているならば、「あれでもキリストの弟子か?」と言われるということです。そうではなく、「私もあの麗しい交わりの中に入りたい」、そういう主の愛に溢れた群れになりたいと思います。

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