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2009年8月30日 (日)

キリストを知る      エペソ3:17-21

 本日は衆議院議員選挙です。イエス様はすべての国民を弟子としなさいと言われました。神様は国に対して関心をもっておられます。神を恐れ、正義を行なう為政者が選ばれますように。また、一人でも多くのクリスチャンが政治の世界にも乗り込んで、聖書を土台とした政治や教育が行なわれますようにお祈りしたいと思います。ところで、エペソ3章14節以降には、パウロの私たちに対する祈りが記されています。第一は私たちの内なる人が強められるようにということです。このことは先週、学びました。本日は、その後の2つのことを学びたいと思います。新約聖書はギリシャ語で書かれていますが、日本語のような句読点がありません。特に、パウロの書き方というのは、どの言葉とどの言葉が繋がっているのかよくわかりません。まるで、串団子のようにつながっています。3個ぐらいだったら良いのですが、7個とか8個も繋がっていたらどうなるのでしょうか?私たちは日本語の聖書を読んでいますが、句読点の付け方次第で、随分と違ってきます。そのために、いくつかの英語版の聖書を読むと、「ああー、これとこれをくっつけた方がより原文に近いんじゃないだろうか」ということがよくあります。

1.キリストが住まうように

聖書を理解する上で一番大切なのは、主動詞がどれかということです。主動詞のもとに、いろんなことばがくっついて、それを修飾しているわけです。ですから、ほかのものを全部どけて、みると、「キリストがあなたがたの心のうちに住まうように」というのが、パウロの願いです。住むとは、滞在するとか、何日かお泊りするという意味ではありません。定住するとか、居住するという意味です。先週の日曜日、午後4時半からと7時から、新松戸教会で聖会がありました。久しぶりに津村先生とお会いしましたが、有賀先生がメッセンジャーでした。先週は、午後1時半から改革長老派の組織とか神学の固いお話を聞きました。その後、全く系統の違う聖霊と奇蹟の世界です。有賀先生は「アジアや南米、アフリカにバイバルが起こっているのに、なぜ、日本にリバイバルが起こっていなのでしょう。それは聖霊様に観光ビザしか与えていないからです。聖霊様に就業ビザを与えるべきです」とおっしゃっていました。観光ビザだったら、長くても6ヶ月でしょうか?でも、就業ビザだったら聖霊様にずっと働いてもらえます。同じように、私たちがイエス様を受け入れるとき、どのように受け入れるかであります。お客さんでしょうか?お客さんだったら、よくてもリビングルームまででしょう。しかし、イエス様と一緒に住まうとなると、様子が違ってきます。私生活のすべてが見られてしまいます。男性だったらポルノ雑誌やインターネットはどうでしょうか?女性だったら甘い物とかへそくりをどこかに隠しているかもしれません。「この部屋は良いけど、この部屋はダメです。これは私の宝箱です。鍵をかけていますので、私以外にはだれにも空けさせません。イエス様も見せませんよ」。

日本語の聖書は「また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが」と、別のことのように書いています。しかし、「愛において根を張り、堅い土台となって、心に住まうように」という訳し方も、有りであります。つまり、私たちの心の中に、キリスト様が植わって根を張っている。そして、キリスト様が私たちの心の中を支配している状態であります。もう、キリストによって心が占領され、キリストオンリーという感じです。しかし、世の中の人はどう言うでしょうか?「宗教は凝ったらあかん」「宗教にかぶれちゃいかんよ」と水を差します。何故、世の中の人はそういうのでしょうか?それは、自分の好み、自分がしたいこと、自分の楽しみが奪われてしまうのを恐れるからです。だから、人によっては礼拝でお話は聞くけど、決して洗礼は受けないという人がいます。また、ある人はクリスチャンになっても、キリストにはほどほどに従って、弟子にはならないという人です。そういう人は、自分の世界というものをしっかり持っています。だが、それは自我であります。キリストはその人にとって、主とか王様にはなっていないということです。でも、みなさんそういう人の心の状態はどうなのでしょうか?みなさん、この世においては中道とか、中立というものがありません。むしろ、この世の罪、肉的な楽しみ、中毒がその人を誘惑するでしょう。その人がキリストに従わないことによって、気ままで自由な生き方ができると思っていました。しかし、決してそうではありません。あなたは神の奴隷(義のしもべ)として生きるか、この世の奴隷(罪のしもべ)として生きるか2つに1つかありません。キリストを主として、神のご支配のもとで生きるなら、この世の誘惑、罪、中毒を排除して生きることができるのです。誰が排除してくれるのですか?王なるキリストがあなたの家を守って、キリストが悪魔を排除してくれるのです。

私は心の傷の癒しとか、カウンセリング、あるいは解放ということを学んでいます。しかし、この世では完全に癒されるということは決してありません。もし、自分の不完全なところ、傷や弱さに、目をとめていくならば、あなたはそれによって支配されてしまうでしょう。私たちの過去のトラウマ、嫌な思い出、苦々しさ、不当な扱い、失敗…ある程度は消えますが、全部はなくなりません。では、ずっと自分を癒してくれるところに通うのでしょうか?私たちは人に依存してはいけません。究極的な答えは主イエス・キリストにあります。つまりこうです。私たちの心の中に、王であるキリストを住まわせるのです。キリストにあなたの心を支配してもらうのです。では、あなたのなすべきことは何でしょう?キリストの教え、キリストの命令にしもべとして、従うということです。どんな教えや命令でしょうか?それは、マタイ5章から7章に記されている山上の説教です。「あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。あなたを告訴して、下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。あなたに1ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょに2ミリオン行きなさい。…自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」。ガビーンであります。これはショック療法であります。私たちはアイスクリームなど冷たいものを食べて、しみたときにどうするでしょうか?「ああー」と言って、額をたたくんじゃないでしょうか?すると神経が他の場所に行って、感じなくなります。山上の説教はとてつもなく高い基準です。しかし、これを私たちの心に満たすとき、自分の痛みやトラウマ、悲しみ、悔しさ、怒り、どうでもよくなります。

私は20歳のとき盲腸炎になりました。入院は、黒磯と白川の病院どちらが良いかということになりました。その半年前、白川の病院で健康診断があり、若い看護婦さんたちがいっぱいいました。そこで、私は「白川の病院が良い」と言いました。しかし、どうでしょう。手術台に上ると、7,8人の看護婦さんが私を取り囲んで、何やらメモを取っているんです。手術は2時間くらいかかって、会社の運転手さんは「鈴木君長かったなー」と言うんですね。どうも、実験台になったようです。それからガスが出なくて苦しく、また微熱もあり、ベッドの上で不平不満を言っていました。突然、兄が仙台からお見舞いに来ました。一番上の兄で、世話になったので頭の上がらない兄です。兄が「文句たれるな!」と言って、氷のいっぱい入った袋を額の上にどかんと置きました。私はしゃきーんとなって、言うこときくしかありませんでした。なんだか、モヤモヤも痛みも消え去った感じでした。みなさん、イエス様が慰め主であったなら「大丈夫かい、辛いだろう」と言うでしょう。でも、イエス様が王の王、主の主としてあなたに臨んだならどうするでしょうか?「主よ、あなたの十字架の痛みとくらべたら軽いもんです。主よ、あなたは全く罪がないのに、悪者呼ばわりされ、不当な扱いを受けました。神と人々からも捨てられました。それと比べたらたいしたことありません」。主であるイエス・キリストと出会うなら、私たちは圧倒されて、自分がどこかへ行ってしまうのです。重要な体験とは、活けるキリストと出会って、圧倒されるということです。ヨブもそれまでいろいろ文句を言っていました。しかし、主は嵐の中からヨブに答えました。神様はヨブの質問に1つも答えていません。宇宙論とか生物学の話をしました。そして、ヨブは「私はあなたの噂を耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔いています」(ヨブ42:5)

私は宗教という言葉はあまり好きではありませんが、こういう宗教的な体験が必要です。ヌミノーゼ、神を恐れることの体験です。モーセ、アブラハム、イザヤもそのような経験をしました。使徒ヨハネもそうです。黙示録において、ヨハネが再臨の主とお会いしたとき、どうなったでしょうか?「私は、この方を見たとき、その足もとに倒れて死者のようになった」(黙示録1:17)と書いてあります。これです。こういう体験こそが、私たちを罪の世から解放し、また自分の傷や弱さをも解放してくれるのです。私たちの心にキリストが愛において根を張り、堅い土台となって、心に住まうように願いましょう。

2.キリストを知るように

エペソ3:18,19節はどこと、どこがくっつくのでしょうか?「その広さ、長さ、高さ、深さ」とは何を指しているのでしょうか?英国の聖書は、「私たちの知性をはるかに超えた、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さを知るように」となっています。全部、キリストの愛に、かかっています。「キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さ」ってどのようなものなのでしょうか?まず、愛における「広さ」とはどういうものでしょうか?広さは、英語でもギリシャ語でも、「幅、横幅」という意味もあります。日曜学校の賛美にありますが、ある日、少年が「どれくらい僕を愛しているの?」と聞いてみました。「これくらいかな?」「これくらいかな?」と尋ねます。でも、イエス様はだまってほほえんでいるだけです。もう一度、イエス様に聴いて見ました。「どれくらい僕を愛しているの?」「これくらい?」「これくらい?」。ある日、イエス様が答えてくれました。静かに両手を広げて示してくださいました。その手の平には釘が打たれていました。十字架で命を与えるほど、愛しておられるということです。イエス様はご自分を信じる人たちのためだけに死なれたのではありません。ご自分に敵対し、信じない人のためにも贖いの代価を支払われたのです。Ⅱコリント5:16,17「ですから、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。…」とあります。つまり、私たちは、贖い主であるキリストを通して人々を見るべきです。「ああ、この人に対しても、イエス様は十字架で血を流されたんだ。だから、この人も救われるための候補者なんだ」と見るべきなのです。きょうは選挙がありますが、私たちの周りの人たち全てが、救いの候補者であり、神様は選ぼうとしているということです。

愛における「長さ」とはどういう意味でしょう?ヨハネ8章には、姦淫の場で捕らえられた女性の物語が記されています。律法学者とパリサイ人は、「モーセは律法の中で、こういう女性を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか?」と聞きました。「赦す」といえば、モーセの律法に反することになります。「赦さない、死刑だ」と言えば、愛のない人だと言われるでしょう。しかし、イエス様は身をかがめて、指で地面に何かを書いておられました。彼ら一人ひとりの罪なのか、それとも十戒なのか分かりません。「どうするんだ、どうするんだ」と人々は詰め寄ります。そのとき、イエス様は身を起し、「あなたがたのうちで、罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい」と言われました。もう一度、イエス様は身をかがめて、地面に書かれました。彼らはそれを聞くと、年長者たちから、ひとり、またひとりと去って行きました。最後にイエス様だけが残りました。イエス様は彼女に「あなたを罪に定める者はなかったのですか?」と言いました。「はい、だれもいません」。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今から決して罪を犯してはなりません」。律法は一つの尺度です。律法学者やパリサイ人たちはこの律法という尺度をもって「短い、達していない!」と、人々をさばいていたのです。でも、この尺度を人にあてるならば、同時に自分にもあてられることにもなります。さばくと、さばかれるのです。皆さん、この律法に叶う人は、地上にひとりもいません。しかし、イエス様は律法よりも、長い尺度、愛を示されました。ローマ13:10「愛は律法を全うする」とあります。律法よりも長い尺度、愛をお互いに持ちましょう。

愛における「高さ」とはどういう意味でしょう。ギリシャ語の「高さ」には、「地位、高ぶった、高慢な」という意味もあります。イエス様の愛は、高慢な人にも向けられました。エリコの町に、ザーカイという取税人がいました。彼は背が低くいために、群集にさえぎられ、イエス様を見ることができませんでした。そこで、ザーカイは先回りして、いちじく桑の木に登りました。よく考えると、ザアカイは、イエス様を高いところから見下ろした高慢な人かもしれません。でも、イエス様は彼の名前を呼んで、「急いで降りてきなさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから」と言いました。イエス様とザアカイどっちが、高い存在なのでしょう。イエス様は本来、高いところに住まわれていたのに、低いところに降りて来てくださいました。イザヤ書には、「神様は高慢な人とは一緒にいない」と書いてあります。でも、イエス様はザアカイのような人をも愛されました。私の家内は、このザアカイの物語で、イエス様を信じたそうです。彼女自身に聞けばわかりますが、ザアカイのように木の上から、イエス様を見下ろしていた存在だったということです。んーやっぱり、高慢な人だったんでしょうか?でも、救われて良かったですね。そして、とってもへりくだっている私と結婚したのであります。アーメン、ハレルヤ。

愛における「深さ」とはどういう意味でしょう。ギリシャ語の「深さ」には、「どん底の、貧乏の」という意味もあります。ヨハネ5章に、ベテスダの池の傍で横たわっている人がいました。そこには、天使が水をかき回したときに、入った者が癒されるという伝説がありました。人々は、天使が水をかき回すときを、今か、今かと待っていました。イエス様は彼に「よくなりたいか」と聞かれました。彼は「主よ、私は水がかき回されたとき、池にだれもいれてくる人がいません。行きかけると、もう他の人が先に降りていくのです」と答えました。こういう人っているんじゃないでしょうか?彼は、38年間も病んでいたので、「なおりたい」と素直に言えなかったのです。「水が…池に、だれも、入れてくれないんです…他の人が、むにゃむにゃ」。でも、イエス様は「起きて、床を取り上げて歩きなさい」と命じました。すると、彼はすぐに直って、床を取り上げて歩き出しました。主の愛は、孤独で、全く希望もないような人にも届くということです。他にもたくさんの病人がいたのに、座り込んで、全く希望のない人に、イエス様は目をとめられました。イエス様の愛って深いんじゃないでしょうか?聖歌429『99匹の羊』という賛美があります。4節は「谷底より空まで御声ぞ響く、失われた羊は見出されたり!」とあります。イエス様の声は、谷底より空まで響いているのです。

先週から、『天国と地獄』という本を読み始めました。メアリー・バクスターという人が書いたんですが、「ちょっと怪しい」という感じがして、ずっと買わないでいました。しかし、今がセールで安いというので、買いました。私は「お一人様1品だけ」というのに弱いんです。メアリー・バクスターがイエス様に連れられて、地獄を訪れます。骸骨の中に灰色の霧のような魂がいます。しかも、腐った肉片が骨に垂れ下がっていて、ものすごい嫌なにおいがします。地獄には福音の説教者もいました。教会に行っていた男性や女性もいました。ある人は「主イエス様、私の罪のためには十分苦しんだんじゃないですか?死んでもう40年たちましたよ」と言いました。イエス様はこのように語りました。「すべて、あざける者たちと信じない者たちの受ける分は、火の池の中にあります。あなたは真理を信じようとしませんでした。幾度も私の民があなたのところに送られ、あなたにその道を示しました。しかしあなたは彼らの言うことを聞こうとしませんでした。あなたは彼らをあざ笑い、福音を拒みました。私はあなたのために十字架の上で死んだのに、あなたは私をあざけり、あなたの罪を悔い改めようとしまでんでした。私の父はあなたに救われる機会を幾度も与えました。もし、あなたが耳を傾けてさえいたのなら!」イエス様は泣かれました。その男の人は叫びました。「知っています。主よ、知っていますよ!だけど今は悔い改めています」イエス様は言われました。「遅すぎます、裁きは決定しています」。こういう、ことがずっと書いてあります。果たして、事実なのか分かりません。でも、ありえることであるとは思います。まだ、3分の1ぐらいしか読んでいませんが、イエス様はその人を何度も訪問した、あるいは人々を遣わしたということです。そして、イエス様は一人ひとりに涙を流しておられるということです。可愛そうだと思ったなら、地獄から救ってやれば良いのにと思いました。しかし、そこには1つのルールがあるようです。大切なのは、生きているうちに決断をするということです。地獄にいた一人の女性に対して、イエス様はこのように言われました。「あなたが地上にいたとき、私は私のもとに来るようにあなたを呼びました。手をくれになる前にあなたの心を私に対して正すよう、私はあなたに嘆願しました。私は私の愛をあなたに語るため、真夜中に何度もあなたを訪れました。」このように、イエス様は生前、一人ひとりを訪ね、愛をもって招いています。幻の書物なので、全部が全部、正しいのかわかりません。でも、その本に書かれているイエス様の愛は本当ではないかと思います。

救いとは地獄を避けて、天国に入ることです。それも、当たっていないわけではありません。でも、救いはその一点だけではありません。イエス様を心の真中に受け入れ、イエス様と共に生活することです。私たちはイエス様を知れば知るほど、私たちの信仰生活は豊かなものとなるでしょう。世の中には幸福や祝福を求める宗教や教えがたくさんあります。人間は幸福を求めることが権利であるという考えもあります。でも、みなさん幸福は人生の目的ではありません。結婚もそうです。幸せになるために結婚するならとんでもないことになります。幸福や祝福は、神様からのボーナスです。私たちが神様に従っていくならば、付録として幸福や祝福があとからついてくるのです。そのためには、私たちの信仰の対象であり、信仰の完成者であるイエス・キリストを知り、イエス・キリストの愛を受けることが大切であります。

祝祷:エペソ3:20-21「どうか、私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方に、教会により、またキリスト・イエスにより、栄光が、世々にわたって、とこしえまでありますように。アーメン。」

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2009年8月23日 (日)

パウロの確信      エペソ3:12-16

 この世のテレビ番組やニュースは、本当に目に見える世界のことしか報道しません。そして、多くは否定的なものばかりです。あとは、お笑い系であります。たまに見ても良いとは思いますが、知らず知らずに、この世の価値観で私たちの魂が毒されてしまいます。私たちは聖書を読み、聖書のメッセージを聞き、神様と交わるときに、私たちの魂が健康になり、またそこから正しい信仰が生まれてくるのであります。私たちは食べ物に添加物が入っているかどうか、とても気にします。でも、クリスチャンであっても、心に何を入れるかあまり気にしていない人が意外と多いのではないでしょうか。テレビに「人生が変わる1分間の深イイ話」を見たことがあります。伸助の話術はとても面白いです。確かに、深い話がありました。でも、処世術の方が多くて、聖書的でありませんでした。と、言いながらテレビから話している自分に矛盾します。しかし、これからは神のことば、聖書からの深イイお話です。

1.パウロの確信

エペソ3:12「私たちはこのキリストにあり、キリストを信じる信仰によって大胆に確信をもって神に近づくことができるのです。」パウロは「キリストにあって」という表現を自分の書簡に数え切れないほど使っています。「キリストにあって」とはギリシャ語で、エン・クリストウと言いますが、エペソ人への手紙には何回記されているでしょう?「彼にあって」という言い方も、含めますと、エペソ1章では11回、2章では8回、3章では4回使われています。パウロにとっての、信仰のキーワードは「キリストにある」ということです。では、「私たちはこのキリストにあり、キリストを信じる信仰によって大胆に確信をもって神に近づくことができるのです」とは、どういう意味でしょうか?そうです。キリストは仲介者であって、キリストを通して私たちは神様に近づくことが可能だということです。なぜ、直接、私たちは神様のところへ行けないのでしょうか?それは、私たちには罪があるからです。神様は義なる方、100%正しいお方なので、1つの罪をも裁かれずにはおられません。もし、私たちが罪を持っているまま、神様に近づくならば、いっぺんに滅ぼされてしまうでしょう。少し前に皆既日食がありました。あいにく、関東はその日、曇りで太陽は見えませんでした。しかし、ニュースなどでは「直接、日食を見ないようにしてください。網膜が傷つきますから」と警告がなされていました。もし、私たちの肉眼で太陽を凝視したらどうなるでしょう。本当に目が見えなくなってしまいます。同じように、罪ある私たちが義なる神様のところには近づくことは不可能なのです。

しかし、幸いなことに、イエス・キリストが私たちのために来られました。この方は、神様と私たちの唯一の仲介者です。なぜ、唯一なんでしょう?それは、神のひとり子なる方が人としてこの世に来られ、私たちの罪を十字架で贖ってくださったからです。私たちはキリストの贖いによって、罪や汚れがきよめられ、神様に近づくことができるのです。世の中にはたくさんの宗教があります。彼らは良い教えを説いています。ご利益も確かにあるでしょう。でも、ないものがあります。それは贖罪論がありません。明治から戦後にかけて、日本にはたくさんの新興宗教が生まれました。どれもこれもキリスト教もしくは聖書の良いところを参考にして作られました。天理教も父なる神様のことを言います。でも、罪の贖いがありません。立正佼成会も創価学会も霊派の光も良いことを言います。でも、罪の贖いがありません。エホバの証人、統一協会も聖書を用います。そして、キリストの贖いのことも言います。しかし、彼らは「キリストのあがないは不完全だった。まだ、私たちのやるべきことが残されている」と言います。そのため、奉仕や償い、良い行ないを強いられます。しかし、どれもこれも、まことの神様には到達することができません。それらは人造宗教であり、ニセモノであります。Ⅰテモテ2:5-6「神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。これが時至ってなされたあかしなのです。」確かに、様々な宗教においても、神様がどういうお方なのか部分的ではありますが、啓示されています。幸福の科学が言うことも、一部は当たっています。みなさん、ニセモノというのは、本物を真似ます。でも、ないものがあります。それは、罪の贖いがないのです。私たちは教えだけでは救われません。教えも必要ですが、キリストの贖いこそが、神様に到達する道なのであります。

では、キリストを通して、神様に近づくならどうなるのでしょうか?みなさん、神様は創造者です。すべてのものを造られたお方です。つまり、神様はすべての源であり、神様のところには全てが備えられているということです。神様は金も銀も持っていらっしゃいます。神様は愛と真理と喜びを持っていらっしゃいます。神様は永遠のいのち、豊かな命、そして健康を持っていらっしゃいます。神様はすべてをご存知であり、豊かな知恵があり、神様にはすべての解決があります。そのようなすべての源なる神様と交わることによって、神様からの必要が与えられるということです。だから、イエス様は「私の名前によって、なんでも求めなさい」と言われたのです。でも、みなさん私たちが、神様から何かを求めるために神様に近づくというのは、本筋ではありません。キリストを通して、神様に近づくとは、神との交わり、すなわち礼拝であります。私たちが一方的に「神様、あれください、これください」とやっているうちはまだ子どもクリスチャンです。お父さんが出張から帰ってきました。子どもたちが「パパ、お帰り」と玄関まで迎えます。その次に「パパ、おみやげは?」とせがみます。パパは「ごめん、ごめん、今回は買う時間がなかったんだ」と言います。子どもたちは「なーんだ」と部屋に戻って行きました。子どもたちは、パパよりも、おみやげがほしかったのです。そうではないはずです。おみやげよりも、パパが無事に帰ってきたこと、パパと一緒にいられることが嬉しいんじゃないでしょうか。父なる神様も同じです。私たちが神の息子、娘として御自身と交わってもらいたいのです。こちらからの要求だけではなく、父なる神様からの願いや求めがあるはずです。礼拝とは日曜日の1時間半だけではありません。これは公の礼拝ですが、日々、父なる神様と交わりながら生活する。むしろ、そちらの方が大事なのです。

では、「キリストにある」と逆の表現は何でしょうか?それは、「肉にある」ということです。神様を離れ、自分の力で生きるということです。もし、私たちがキリストにあることを拒否し、肉で生きるならばどうでしょうか?そうするならば、ただちに、この世のものがあなたを支配するでしょう。この世の誘惑、この世の喜び、この世の力があなたを捕まえるでしょう。教会や聖書も全く興味がなくなり、祈ることや賛美もつまらなくなるでしょう。元、キリストにあったものが、キリストから離れたら、ニュートラル(中立)になるのではありません。前よりももっと悪くなるのです。破壊的で、悪魔的で、ひどいものとなるでしょう。なぜなら、その人は、もはや神を恐れていないからです。未信者は神を呪いながらも、どこかで神を恐れています。しかし、堕落したクリスチャンは、神様を恐れず、なめてかかります。私たちは生きている限り、キリストにあることを継続していかなければなりません。キリストにあるなら、神様の守り、神様の助け、神様の力があなたに及ぶからです。ヨハネ15章のぶどうとぶどうの木のたとえは、そのことを分かりやすく教えています。ヨハネ15:5「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」イエス様は、はっきりと「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができない」と言われました。そうすると、私たちは「いや、いや、あなたなしでもできますよ。このとおり」と言うかもしれません。少しあとの、16節には「あなたがたの実が残るためである」と書かれています。そうです。肉でもある程度のことはできます。肉によって人が救われたり、教会堂も立つかもしれません。いろんな奉仕やミニストリーもできるかもしれません。でも、その人が死んだらどうなるでしょう?「ぱーっ」と消えてなくなります。肉で行なうなら、たとえ実を結ぶことがあっても、一時的であり、それが永続しないということです。

私たちはすべての源なる神様、そして唯一の仲介者、イエス・キリストを重んじるべきであります。「キリストにある」とはそんなに派手なことではありません。派手ではないけれど、着実に神様から恵みがやってきます。菜園をやっている人ならばよく分かるでしょう。なす、きゅうり、トマト、かぼちゃ、さやえんどう、えだまめ…いろいろあります。そんな派手ではありません。でも、その実がだんだんと大きくなるのがわかります。キリストによって、神様とつながっていることが大事です。派手ではないかもしれませんが、これが信仰の基本です。アーメン。

2.パウロの祈り

エペソ3:14-16「こういうわけで、私はひざをかがめて、天上と地上で家族と呼ばれるすべてのものの名の元である父の前に祈ります。どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。」パウロは、エペソの人たちのために、何を第一に祈っているのでしょうか?だれかの病気が癒されることでしょうか?金銭的な必要が満たされるためでしょうか?また、何かの問題が解決されるためでしょうか?そうではありません。「あなたがたの内なる人が強くされるように」と願っています。つまり、こういうことになります。あなたがたの内なる人が強くされるならば、病気が癒され、金銭的に満たされ、問題が解決されるということではないでしょうか?箴言にこのようなみことばがあります。箴言4:23「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。」箴言17:22「陽気な心は健康を良くし、陰気な心は骨を枯らす」。旧約の人たちは、心こそが命の源であり、そこから生きる力や知恵が湧いてくると考えたのであります。しかし、新約聖書において、パウロは霊と魂と肉体と3つに分けていますが、この箇所のように2つに分けることもありました。2つに分ける場合は、「内なる人」と「外なる人です」。「内なる人」と言うのは、霊と魂であります。旧訳聖書ではこれらをまとめて、「心」と言ったのではないかと思います。しかし、新約では生まれ変わった霊と魂ですから、全く同じということではないでしょう。また、「外なる人」とは肉体をさしています。みなさんは内なる人と外なる人の2重構造なのであります。

Ⅱコリント4章と5章には、このことがもっと詳しく書かれています。Ⅱコリント4:16「たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。」私たちの肉体、つまり外なる人は、年老いてやがては滅びてしまいます。しかし、クリスチャンの場合は内なる人に聖霊が宿っていますので、日々新たにされていくのです。やがて、内なる人と外なる人が分離するときがきます。おそらくそのときは、私たちは2つの自分を見ることになると思います。1つは病室に死んで横たわっている自分(外なる人)です。いろんな管がまかれているかもしれせん。もう1つは、そこから離れて、部屋の片隅に浮いている自分(内なる人)です。「お医者さんは、時計を見て、何が言っている。ああ、周りの人たちが私を囲んで泣いている!牧師が祈っている。おや、あの人、舌を出して笑っている」。とにかく、内なる人は、ある一定の時間、そこに留まっていると思います。それから、まもなく御使いがやって来て、パラダイスに連れて行ってくれるでしょう。そして、外なる人、肉体は葬られます。でも、イエス様が再び、来られたとき肉体がよみがえり、パラライスにのぼっていた魂と合体するのです。これが、私たちの将来であります。とにかく、現在は、みなさんは、外なる人に、内なる人がまだ留まっている、つまり生きている状態です。世の中の人は、外なる人にだけ関心を払っています。肌の老化を防ぐクリーム、サプリメント、自然食品…スタイルアップのためいろんな運動をします。でも、いくらがんばっても、外なる人は衰えるのです。パウロは、それも大事だけど、「内なる人が強くなるように」と願っています。

では、どのようにしたら内なる人が強くさせられるのでしょうか?内なる人の食べ物、内なる人の運動、内なる人の健康管理というのがあるのでしょうか?内なる人とは、霊と魂の2つであると、さきほど申し上げました。これを解剖学的に2つに分けることは不可能ですが、便宜上、分けたいと思います。まず、霊ですが、これは神様と交わるところであります。霊が目覚めていないと、神様が分からない。賛美をしていても、聖書を読んでいても、またこのような礼拝の時間は退屈になるでしょう。また、霊が聖霊によって生かされているならば、神からの知恵、信仰、愛情、道徳心、そして力がわきあがってくるでしょう。でも、霊だけでは私たちは生きることはできません。霊は魂つまり心に作用し、そして外なる人である肉体にも作用する必要があります。つまり、私たちの霊が健全で神の恵みと力で満たされているならば、魂が健康になり、肉体も健康になるということです。心理学の世界は、感情とか意思の面しか取り扱いません。霊の代わりに潜在意識とか、人格という用語を用いるかもしれません。また、学校教育では知性の発達、そして保健体育でも肉体と精神の発達しか扱いません。つまり、人間が霊的な存在であるということが、オミットされているということです。神様も霊ですが、人間も霊であります。私たちの霊の部分で、神様と交わることができます。また、この霊が目覚めているならば、健全であるならば魂にそして肉体にも良い影響を与えるということです。ときどき、霊の弱い人がいますが、よく病気になったり、怪我や事故を拾います。霊が強いならば、病気や災いを跳ね返して生きることができるということです。

そして、内なる人の魂、つまり心の部分はどうでしょうか?私たちには外なる人、つまり肉体があります。魂は外なる人(肉体)の五感の影響を受けます。それと同時に、霊からの影響を受けます。私たちが救われる前は、すべて外なる人(肉体)の五感を頼りに生きてきました。目に見えること、聞こえるもの、触れるもの、物理的な感覚がすべてでした。しかし、新生すると今度は、五感よりも、霊が何と言っているか霊に聞く必要があります。霊は神様と直結していますから、神様(聖霊)の指示や導き、知恵がやってきます。すると、魂は板ばさみ状態になり、どっちの方に従ったら良いのか混乱してしまいます。では、内なる人が強くなるようにとはどういうことなのでしょうか?内なる人が強くなるとは、肉が弱くなり、霊において強くなるということです。簡単に言うならば、自分の五感や考えも駆使しますが、それ以上に、霊(聖霊)に聞くということです。自分の五感や考えを無視しろというわけではありません。たとえば、車を運転するときは、かなりの面で、自分の五感や考えで運転しています。最近はナビゲーターが車についています。あれは、衛星から自分の位置を知り、さらに地図のデーターをもとに、どこへ進めば良いか教えてくれる装置です。以前の車はそれがなくて、私は地図と感で運転していました。いわゆるカンナビです。でも、今回、カーナビを運転して、「いやー、とても便利だなー。心強いなー」と思いました。渋滞情報をキャッチし新しいルートまで検索してくれます。皆さん、私たちの人生にも、聖霊によるカーナビがあったらどんなに便利でしょうか?神様は未来のことを知っておられます。人間に隠された知恵や知識を与えてくれます。また、霊は私たちの感情に作用し、恐れや怒りを静めてくれます。その代わりに、平安とか愛、希望を注いでくれます。それが、神がともにいる人生であります。私たちは内なる人が強められるように、神のみことばを瞑想しながら、たえず、聖霊なる神様に聞き、そして従う必要があります。すると、だんだん内なる人が強められ、目で見えなくても、耳で聞こえなくても、手で触れなくても、信仰によって歩むことが可能になってきます。

父なる神様は豊かなるお方で、私たちが必要な経済、知恵、力、健康、すべてのものを持っていらっしゃいます。贖い主イエス様は、父なる神様と私たちの間の仲介者であられます。私たちがイエス様の御名によって求めるなら、父なる神様は必要を与えてくださいます。私たちの内なる人が強められ、信仰によって歩む者となりたいと思います。このように私は語ることができますが、この10年間、私は特に3つのことを祈り求めてきました。第一には教会成長です。大勢の人が救われ、日本に御国が来るようにと願っています。第二は経済的な必要です。長男の留学の必要のため、ものすごく祈ってきました。第三は私の皮膚病の癒しのためです。皆さんには、「父なる神様は豊かなる方ですから、イエス様のお名前によって求めるなら、何でも与えられます」と講壇から力強く語ることができます。でも、いざ、自分の問題となったらどうでしょうか?「なぜ、亀有教会はセルチャーチとなることが難しいんだろう。100名礼拝になると宣言したけど、いまだ70-80名じゃないか」。「ああ、アルバイトをやめたけど、なんとかなるのだろうか?本当、もう、頭も下げ、何度、涙したことだろう?お金はどこからやってくるのか?宝くじを買っても当たらないし」。「人には病の癒しをするけど、自分の皮膚病がなおらない。医学的に難しいのは分かるが、神様は、なぜ癒してくださらないのだろうか。いろいろ試したけど効果が現れない」。このように、悶々としたことが何度もあります。今、1つだけ言えることがあります。私たちは祈りが叶うことという結果にポイントを当てる傾向があります。でも、父なる神様はそういう問題を通して、御自身に近づくこと。そして、いろんなことを挑戦しながら答えを見出していくこと。そして、私自身の内なる人がそのようにして強められること。つまり、結果ではなくプロセス(過程)が大事だということです。私たちはすぐ目的地に行きたがります。現代は特にそうです。「問題に対する解決を今すぐ与えてください!」と求めます。でも、父なる神様は、問題を通して、私たちが神様に近づき、いろいろ悩んだり、「ああ、何故なんだ!」と叫んだりする私たちをご覧になっています。ただ、ご覧になっているだけではなく、そういう私たちを受け入れ、もっとすばらしい何かを学ばせようとしておられるのかもしれません。私たちを精錬し、金よりも尊いものにしようしているのかもしれません。

でも、はっきり言えることは、神様は真実だということです。そして、神様は私たちを愛しておられるということです。「キリストにあって、真実であり、愛である神様を仰いで、従っていく」これが信仰ではないかと思います。

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2009年8月16日 (日)

その奥義とは       エペソ3:1-11

 夏休みいかが過ごされたでしょうか?私は秋田と岩手に行ってまいりました。秋田は私の生まれ故郷で、岩手は私の家内の実家があります。私の場合は、父も母もすでに亡くなりました。友人もわずかです。私は秋田平野を見ながら育ちましたが、そのはるか向こうに鳥海山を望むことができました。このたび、私だけですが、鳥海山のふもとまで行って、五合目まで登ることができました。家内と子どもたちは岩手に留まり、私は初めと終わり、2日間だけ泊まりました。家内のお母さんは、78歳で、足が随分と弱ってきているようです。お父さんは耳が遠いせいもあり、あまり会話はできませんでした。私の方は秋田平野、家内の方は岩手と宮城の県境の平野です。両者とも広々としています。車で帰るとき、山々や田んぼを見ながら、「緑色がなんとあざやかなんだろう!」と思ってきました。渋滞にもほとんど会わず、帰ってくることができましたことを感謝します。ところで、本日は、エペソ人への手紙3章の初めからであります。

1.その奥義とは

エペソ3章の前半には、「奥義」ということばが5回出てきます。奥義はギリシャ語では、ミュスティリオンと言いますが、「秘密の教え、秘密の計画」という意味です。英語のミステリーの語源です。奥義とは一般には表わされていない、隠されているヒ・ミ・ツなのであります。巻物に書いて、どこか密かに隠しておいて、これぞと思う人にだけに、奥義を明かすのであります。また、その道を究めたいならば、必ずその道の奥義を見出す必要があるでしょう。キリスト教にもいくつかの奥義があります。パウロは惜しげもなく「これが奥義である」と披露しているのが、このエペソ3章であります。では、パウロが言う奥義とは何なのでしょうか? 3:6「その奥義とは、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人もまた共同の相続者となり、ともに一つのからだに連なり、ともに約束にあずかる者となるということです。」どうでしょうか?みなさんは、「わあー、スゲェー」と感動したでしょうか?このことを知って、本当に感動した方はおられるでしょうか?このことが分からないと、救いのありがたみも分かりません。

みなさん、異邦人というのは、外国人とか他国人とも訳されることばです。日本人はキリスト教を「ああ、外国の宗教だろう。日本には日本の神様があるから、間に合っています」みたいに言うかもしれません。でも、それは逆であり、日本人の方が外国人なんです。神様は初め、エデンの園に人を造り、そこから人類が増え広がりました。世界には、たくさんの民族と種族がいますが、もとはと言えば、アダムとエバから生まれたのです。最近の科学でも、細胞のミトコンドリアをたどっていくと、一人の女性にたどりつくと言われています。神様はアブラハムを選び、そこから大いなる国民、イスラエルをおこしました。そして、神様の願いはイスラエルを通して、諸国の民、つまり異邦人を祝福しようと考えたのです。しかし、イスラエルは神様に逆らい、祭司の国の役目を果たせなくなりました。イスラエルの民の中にレビ人がいますが、彼らは祭司でありますが、イスラエルという国だけの祭司です。その歴史が長く続いたために、イスラエルは、自分たちは神から選ばれたんだと、自己満足に陥り、諸国の民に対する目的を忘れてしまったのです。だから、諸国の民も救われるという神様のご計画が、うずもれて、隠されたものとなっていたのです。そこで、使徒パウロが、神様からの啓示を受け、「そうじゃない、異邦人も救われるんだ、異邦人も神の民の中に加わることができるんだ」ということを発見したのです。日本から見たら、キリスト教は外国の宗教だと思うかもしれません。しかし、最初に選ばれた神の民であるイスラエルから見たなら、日本こそ、極東の国、外国だったのです。日本はイスラエルから見たら、ほんとうに東の果てです。旧訳聖書には「日の昇る国とか」「島々」という表現が出てきますが、そこに日本も含まれていると信じます。イザヤ41:1 「島々よ。わたしの前で静まれ。諸国の民よ。新しい力を得よ。近寄って、今、語れ。われわれは、こぞって、さばきの座に近づこう。」旧訳聖書に書かれていることを、パウロは再発見したのであります。

確かに、日本はクリスチャン人口が1%にも満ちません。ある人は「日本は宣教師の墓場である」と言っています。日本ほど、多くの宣教師が来た国もないかもしれません。アメリカ、ヨーロッパ、最近はアジアからも来ています。菅谷先生が牧会している清瀬の教会は台湾からの宣教師がいます。富山の教会は、フィリピン系の牧師です。毛利佐保姉が8月5日から28日まで、豊川というところに神学校から派遣されています。その教会の牧師は、ボリビアから来られている婦人牧師です。ボリビアとは、ペルーとチリの間、ブラジルの西にある国です。そのように南米からも来ているんです。彼らはなんとか、極東の日本にも福音を宣べ伝えたいと願っているからです。みなさん、極東の日本からもクリスチャンが起こされている。その数はたとえ少なくても、これは奇蹟であります。日本は世界でまれにみる高度な教育を持っている文化国です。戦後、たった30年で、GNP第一になったことがあります。日本は明治維新以降、西洋の知識や文化を吸収しました。しかし、この根底にある聖書、キリスト教精神を捨ててしまったのです。「良いとこ取り」であります。日本の政治や教育の方向がなぜ定まらないのでしょうか?根底に思想がないんです。思想というと啓蒙主義とかヒューマニズムだと思うかもしれませんが、人間の理性には限界があります。人間には神からの啓示が必要なのであります。パウロが「啓示を受けた」と何度も言っています。それは、私たちが見ている、読んでいる、聖書であります。神のことばこそが、神からの啓示であります。神のことば、聖書が土台にあるならば、そこから国が持つべきビジョンとか、進むべき道が示されるのであります。

今、もっとも注目されている牧師は、サンディ・アデラジャかもしれません。彼はナイジェリア人ですが、ロシアで学んだのち、ウクライナのキエフの牧師になりました。当時のウクライナは独立こそしていましたが、共産国ロシアの影響下にあり、不正と腐敗に満ちていました。貧富の差が激しく、一生懸命働いても、年金はすずめの涙ほどでした。町には麻薬、売春、犯罪、不道徳も溢れていました。大統領選がありましたが、政府の不正によってくつがえされました。それで、教会が立ち上がり、革命を起こしました。それは暴力ではなく、賛美と祈りの行進でした。そして、クリスチャンの大統領が選ばれ、国ごと変えられていきました。サンディ・アデラジャは黒人だったので、「お前は何しに来た。チョコレート野郎!」と馬鹿にされました。しかし、麻薬中毒の人が癒され、更生しました。親たちは何と言ったでしょう。「肌の色が黒いか、白いか問題じゃない。うちの息子を麻薬から解放したのなら神からのものだ」と言いました。サンディ・アデラジャ師が牧会している教会は2万5千人いますが、99%が白人だそうです。彼は、国連やホワイトハウスでも講演をしていますが、昨年、日本にも来られました。そのとき晩餐会があり、衆議院議員など著名な人たちも集まりました。そのとき、彼はこのようにおっしゃいました。「日本の電化製品は遠くのウクライナにも来ています。テレビや音響機器、家電製品が身の回りにたくさんあります。でも、その製品に必ずくっついているものがあります。それは、その製品のマニュアルです。マニュアルはその製品の使い方だけではなく、不具合が生じたときにどうするかが記されています。私たち人間の神様によって造られました。神様は人間がどう生きるべきか、不具合が生じたときにどうするか書き記したマニュアルも与えました。そのマニュアルとは神のことば聖書です。聖書には個人の生き方だけではなく、国家としてどう生きるべきかも、神のみこころと知恵が記されています。」このように語られました。

幸いに、私たちは新約時代に生きています。旧約時代において奥義であったものが、今や、当たり前のように分かる時代に生きているのです。Ⅰペテロには「それは御使いたちもはっきり見たいと願っていたことなのです」と書いてあります。私たち極東に、「異邦人もまた、神の国の共同相続人なのです」という福音が届いているのです。異邦人の私たちが救われることは、神の奥義であったのです。どうぞ、このことを喜びましょう。私たちも、御国に入らせていただていることを感謝しましょう。もう1つは、私たちは最も伝道が難しい日本に住んでいるということです。これは大いなるチャレンジであります。世界各国から宣教師が派遣されても、ほとんど効果が上がらなかった。では、どうすれば良いのでしょうか?私たちがこの日本の宣教師だということです。今年は、プロテスタント宣教150年ということで教会上げて、お祝いしています。でも、見方を変えるなら150年間、海外のお世話になってきたということです。日本の教会は、外国の講師をお招きして、リバイバルを望んできました。もう、そんな甘ったれたことはやめましょう。

21世紀は私たち日本人クリスチャンが神様の器になって、神様がくださる収穫を刈り取るべきです。サンディ・アデラジャが言っていました、「収穫は心配しなくて良い。問題は働き人である。これまでとは全く違った、神様の方法で福音を伝えるべきである」と。アーメンです。奥義とは、私たち、異邦人が救われることであったことを感謝しましょう。

2.奥義の実現

イエス様は最初から異邦人の救いをお考えになっておられたのでしょうか?イエス様が12弟子を宣教旅行に遣わしたときこのように言われました。「異邦人の道に行ってはいけません。サマリヤ人の町に入ってはいけません。イスラエルの家の失われた羊のところに行きなさい」と命じました。あるとき、カナン人の女性が、「娘を癒してください」と、叫びながら後に着いて来ました。そのとき、イエス様は彼女に一言も答えませんでした。イエス様は「私は、イスラエルの家の失われた羊以外のところには遣わされていません」と言われました。それでも、執拗に彼女が「主よ、私をお助けください」とひれ伏して願いました。結果的には、「パンくずでも良いですから」という彼女の信仰に感動して、娘を癒してさしあげました。また、あるとき、何人かのギリシャ人がイエス様にお目にかかりたいとやってきました。おそらく、「私たちのところに来て、福音をお聞かせください」と願うつもりだったのでしょう。しかし、イエス様は「一粒の麦が、もし地に落ちて死ななければ…」と言って、会うことさえしませんでした。結局、イエス様は猫の額みたいな、パレスチナの地でしか伝道しなかったのです。でも、エルサレムの中で、パリサイ人や律法学者と話しているとき、いくつかのたとえ話をされました。ぶどう園のたとえでは、農夫たちが収穫の分け前をぜんぜん渡そうとしない。それで、主人がしもべたちを何人も送るのですが、彼らを袋叩きにして手ぶらで返しました。最後に、息子を遣わしました。彼らは「あれはあと取りだ。さあ、殺してしまおう」と言って、ぶどう園の外に追い出して殺しました。ぶどう園の主人はどうするでしょうか?パリサイ人や律法学者たちは「農夫たちを情け容赦なく殺して、そのぶどう園を別の農夫たちに貸すに違いありません」と答えました。もう1つは、王子のための結婚の披露宴のたとえ話をしました。あらかじめ招待していた人たちは、婚宴の当日、畑や商売に出て行き、気にもとめませんでした。他のものたちは王のしもべたちを捕まえ、恥をかかせて殺してしまいました。王様は怒って、兵隊を出して、人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払いました。その後、王様はどうしたでしょう。「招待しておいた人たちはふさわしくなかった。だから、大通りに行って、出会った者をみな宴会に招きなさい」と命じました。他にもありますが、一連のたとえ話の中で、救いの招きがイスラエルから異邦人に渡ってしまうということ教えておられます。

では、イエス様から3年半、直に学びを受けた弟子たちはどうだったのでしょうか?イエス様は復活し、これから天にお帰りになるというそのとき、弟子たちに遺言ともとれるような命令を与えました。マタイ28章では「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい」と命じました。マルコ16章では「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい」と命じました。使徒1:8「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」イエス様は御自身があがないを成し遂げてから、弟子たちに世界に出て行きなさいとお命じになられました。でも、弟子たちはどうしていたのでしょうか?使徒の働きを見てもわかりますが、ずっとエルサレムに留まっていました。サマリヤの伝道にでかけたのは、信徒伝道者のピリポでした。そのうち、ステパノのことで迫害が大きくなって、一般の信徒は散らされて、それぞれの場所で伝道しました。そのときも、使徒たちはエルサレムに留まっていました。やがて、アンテオケということころに異邦人の教会ができました。名もない人たちが証ししてできた群がアンテオケです。そして、そこから、はじめて宣教師が遣わされました。それはパウロとバルナバです。パウロとバルナバが異邦人伝道から帰ってきて、宣教報告をしました。エルサレム教会は大さわぎです。「異邦人も信仰によって救われるのか?」「いや、異邦人にも割礼を受けさせ、モーセの律法を守るように命じるべきである」と言う者もいました。結局、異邦人も恵みによって信仰によって救われるということで一致しました。使徒たちは、聖霊様が異邦人を救っておられる現実に、文句を言えなかったのであります。

では、パウロが「聖徒たちの中で、一番小さな私に啓示が与えられ、奥義の実現のために遣わされた」と言っているのは何故でしょう。パウロはイエス様から直接、教えを受けず、十字架と復活も見ていません。だけど、彼は特別に、異邦人に福音を宣べ伝える使徒として選ばれました。パウロはダマスコの途上で復活の主と出会って回心しました。そのとき、この命令も一緒に受けました。使徒26:17-18「わたしは、この民と異邦人との中からあなたを救い出し、彼らのところに遣わす。それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである」。また、パウロは「私の福音」「私が宣べ伝えた福音」と何度も言っています。ガラテヤ書にもありますが、「私が宣べ伝えた福音は、人間から受けたのではなく、ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです」と言っています。神様が、異邦人が救われるという奥義を示した人はパウロであります。もちろん、パウロが発明したのではありません。パウロは、旧訳聖書から言われていること、イエス様が願われている計画を、聖霊によって開かれたのです。使徒ペテロや他の弟子たちは、後からそのことが分かって、世界に出て行くのです。パウロが宣べ伝えた福音、パウロが神様から受けた奥義とは何でしょう。それは、救いは行ないによってではなく、信仰によって救われるということです。ユダヤ人であっても異邦人であってもそれは変わりないということです。ユダヤ教からクリスチャンになった人たちは、どうしても律法を守らなければならない、儀式も重要だと考えていました。それは、「救われるためには行ないも必要だ」ということであります。しかし、パウロは「そうじゃない。キリストの贖いは完全であって、信仰によって神の義をいただくことができるんだ」と主張したのであります。表現を変えると、律法と儀式をパスして救われるということです。

みなさん、パウロが言う福音、パウロが言う奥義ということをご理解していただけたでしょうか?旧約聖書の中で生きてきた人たちは、「律法ではなく、信仰によって救われる」ということが理解しづらかったのです。では、異邦人である、私たち日本人にはどうでしょうか?旧約聖書の教えや様々な律法は不要だとは申しませんが、イエス・キリストを信じるだけで罪赦され、救われるのです。これは福音ではないでしょうか?ヨハネ1:12,13「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神のこどもとなされる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の要求や人に意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである」と書いてあります。現代訳聖書は、このように訳しています。「たとい選民イスラエルでなくても、このキリストを受け入れる人はだれでも神の子どもとしていただける。…キリストを信じる人は、神が生まれ変わらせてくださるのであり、それは、決して先祖や親の身分や地位によるのではなく、人間の願望や意思によるものでもなく、ただ神の御心によるのです」。アーメン。選民イスラエルでなくても、先祖や親の身分がなくても、地位がなくても救われるということです。イエス・キリストはすべての人を照らすまことの光であり、すべての人が救いの対象であるということです。全世界を造られた神様が、全世界の人々を救いたい。そのために御子イエス・キリストを遣わした。これが福音であります。救いの招待状が、あまねく国民に届けられているということです。今回、秋田の実家の裏山に登りました。そこには先祖代々のお墓があります。母は絶対、「父とはお墓を一緒にしないで!」と願っていたのに、改修工事のとき、一緒にさせられてしまいました。お墓には戒名碑があり、9名の人々の戒名と俗名が記されていました。私はそれを見て、神様が与えてくださったご先祖に感謝しました。しかし、私がこういう中から救われてクリスチャンになったことも感謝しました。「恐らく、普通の生き方をしていたならば、戒名と俗名の世界にいたんだろうなー」と思いました。しかし、そういう縄目から解放されて、神のこどもとなることができました。まさしく、「先祖や親の身分や地位によるのではなく、人間の願望や意思によるものでもなく、ただ神の御心によるのです」。アーメンです。

私たち異邦人が救われる。律法や儀式を飛ばして、信仰のみによって救われる。すばらしい恵みが極東の私たちにも届いているということです。救いとは何でしょう。罪の赦し、永遠の命、御国の相続者、神の子の身分、新しい創造、豊かな命、人間関係の回復、敗者復活、意義ある人生…もう、言うことないです。この救いが、遠い極東の日本にも届いていることを感謝しましょう。そして、私たちの目が黒いうち、1000万人が救われ、国が変えられるように願いましょう。

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2009年8月 9日 (日)

神の住まい       エペソ2:19-22

 教会とは何でしょう?エペソ人への手紙のテーマは「教会とは何か?」であります。もし、教会とは何かを知りたければ、エペソ人への手紙を見たら分かるということです。エペソ1章の後半では、教会のかしらはイエス・キリストであり、教会はキリストのからだであると書いてありした。そして、エペソ2章の後半には、2つのたとえで教会とは何かが示されています。まず、教会は神の家族であるとパウロは言っています。その次は、教会は神の住まいとも言われています。

1.神の家族

エペソ2:19「こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。」ここで言われている「あなたがた」とは、だれでしょう。それは、エペソのようなユダヤ人以外の人たち、つまり異邦人です。私たちも異邦人です。だから、私たちもエペソの人たちと同じように、かつては他国人であり、寄留者であったということです。英語の聖書を見ますと、他国人というのはstrangersとなっており、「見知らぬ人、他人」という意味です。また、寄留者というのはforeignersですから、「外国人」という意味になります。みなさん、私たちは天国の人たちから見て、外国人だったんです。ここにいらっしゃる多くの人たちは、日本で生まれ、日本で生活しているので、日本国籍ということをあまり意識していらっしゃらないと思います。でも、日本に来られているフィリッピンの方、中国や韓国、そしてアメリカの方はどうでしょうか?彼らは日本人から見たら、外国人でありstrangersです。おそらく、彼らは日本では肩身の狭い思いをしていらっしゃるのではないでしょうか?これは、きっと、味わった人でなければ分かりません。でも、みなさん、私たちはキリストにあってどうなったんでしょうか?聖徒たちと同じ国民、天国人だということです。ここで言われている聖徒とは、旧訳聖書のアブラハム、ノア、ダビデなど義人といわれている人たちでしょう。また、ペテロやヨハネ、ヤコブなどの使徒たちでしょうか?いや、いや、私たちも彼らと肩を並べられる聖徒たちだということです。ピリピ4章にも書いてありましたが、私たちの国籍は天であります。となると、この地上でどういう人種で、どういう国籍であろうと関係ないということです。先週、賛美しましたが、キリストにあって肌の色は、関係ないということです。だって、もとはアダムとエバから生まれたんです。でも、いろんな事情があってそれぞれのところで、それぞれの言語で生きてきました。でも、キリストにあって私たちは天国人なんであります。ハレルヤ!

使徒パウロは、天国人、イコール「神の家族」だと言っています。教会は神の家族であります。もし、みなさん教会を軍隊にたとえるなら神様はどうなるでしょう。神様は元帥であり、私たちは兵士ということになります。軍隊の目的は国を守り、敵に打ち勝つことであります。また、教会を会社にたとえるなら神様はどうなるでしょう。神様は社長であり、私たちは社員です。会社の目的は利益を追求することです。だから、社員は目標達成のため働かなければなります。教会は会社でしょうか?もし、教会を学校にたとえるなら神様はどうなるでしょう。神様は校長先生であり、私たちは生徒です。牧師はさしずめ教師でしょうか?「教会」とは「教える会」と書きますから、聖書を勉強しなければなりません。学校だったら中退とか卒業もありえます。もし、教会を病院にたとえるなら神様はどうなるでしょう。神様は院長であり、私たちは患者であります。牧師はお医者さんでしょうか?肉体や精神の癒しを行います。薬は新約と旧約があります。でも、なおったら退院します。医者は病人に用があり、健康な人には不要かもしれません。でも、みなさん教会は家族、家庭にたとえられています。教会を家族にたとえるなら神様はどうなるでしょう?神様はお父様です。私たち一人ひとりは、神の家族です。家族というのはどういう関係でしょうか?兄弟姉妹の関係です。家族どおしというのは、遠慮会釈というのがありません。屁もこくでしょうし、パンツ一丁でも構いません。話し合いも非公式です。どうでしょうか?家族で、「何時から居間で一緒に話し合いますよ、集まってください」ということがあるでしょうか?そうじゃないですね。顔を合わせたときに話します。それも、ものすごくストレートに、です。そして、ときどき衝突します。あるときは喧嘩もするでしょう。なぜなら、兄弟姉妹だからです。家族は、自分の弱さや恥、わがまま、自己主張、好みさえも、そのまま出すのではないでしょうか?

どうでしょうか?教会は本当に神の家族になっているでしょうか?私は長い、教会の歴史を振り返ると必ずしもそうでないと思います。初代教会の頃は、神の家族だったかもしれません。使徒2:44-47「信者となった者たちはみないっしょにいて、いっさいの物を共有にしていた。そして、資産や持ち物を売っては、それぞれの必要に応じて、みなに分配していた。そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。」私は、この初代教会こそが、教会の理想だと確信しております。彼らは自分のものも、他人のものも区別がつかないくらい愛にあふれていたのです。物心ともに共有していました。しかし、西暦340年にキリスト教がローマの国教になってから狂い出しました。教会とは聖職者のために存在し、一般信徒は排除されました。教会は制度化し、いろんな儀式、戒律、階級ができました。家族とはほど遠い存在になったのです。マルチンルターが宗教改革をしましたが、まだ儀式や制度が色濃く残りました。しかし、ルターは一緒に食事をしながら弟子たちと交わり、そこでいろんな話をしました。ルターは音楽を愛し、妻を愛し、子どもたちを愛しました。彼が修道士であり、妻が修道女であったとは、とても思えません。しかし、ジョン・カルヴァンは組織と法律によって国教会を整備しました。現代、家族という概念から最も離れている教会は、カルヴァンの改革派と長老派教会と言ったら怒られるでしょうか?これまでいろんな教会の改革がありましたが、20世紀はセルチャーチムーブメントが起こりました。それは共同体の回復であります。

皆さん、創世記1章を見ると、神様はどういうお方であるということが分かるでしょうか?創世記1:26神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。」、1:27「神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」神様は一人の中に、3つの人格を持っておられます。父、子、聖霊なる神が互いに愛し合い、1つになっています。そのかたちに似せて、人を造られました。男と女が愛し合い、家庭を形成する共同体であります。家庭、家族という共同体こそが、神のかたちであります。私たちは「教会はペンテコステの日に誕生した」と言います。そして、教会は神の家族だと言います。でも、その原型は、神様ご自身にあり、神様が創造された家族の中にあったということです。考えてみれば、アダムとエバは家族で神様を礼拝しました。ノアの8人の家族も、洪水で助けられた後、礼拝をささげました。アブラハムも家族で礼拝をささげました。その後、モーセが登場し、荒野に幕屋を設けてそこで礼拝をささげました。その後、ソロモンが神殿を建てて、そこで神様を礼拝しました。ですから、幕屋よりも神殿よりも、家庭が家族が、礼拝の始まりであったということです。ですから、教会は神の共同体、神の家族ということを忘れてはいけません。ついつい、私たちはこの世の社会制度にならって、教会を組織にしようとします。この世の組織は、命が通っていません。使い物にならない人は解雇し、能力のある人が権力の座に着くでしょう。生産を上げることが何よりも重要視され、人間関係は二の次、三の次です。現代は、会社がいやになって出勤できない人が大勢出ています。それは公務員や学校教師も例外ではありません。何が原因なのでしょう?「仕事が大変だ」、それもあるでしょう。でも、それよりも問題なのは人間関係であります。人間関係の難しさが、心を、精神をダメにしてしまうのです。

使徒パウロが「教会は神の家族である」と定義しました。私たちは伝道や奉仕も大切です。立派な建物を建て、すばらしいプログラムを催すのも良いでしょう。でも、「教会は神の家族である」という価値観がなければ、崩壊してしまうでしょう。もし、教会が神の家族であるならば、そこでは互いに愛し合うこと、互いに祈り合うこと、互いに助け合うことが優先されると思います。最近、この礼拝が終った直後、お隣りどおしがなかなか席を立たないで、話し合ったり、祈りあったりする風景を目にします。すばらしいことだと思います。共同体ということばはあまり使わないかもしれませんが、私たちは神の家族という、共同体の真中に神様がおられることを覚えておきたいと思います。

2.神の住まい

エペソ2:20-22「あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり、このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。」新約聖書はギリシャ語で書かれています。家族とか家というギリシャ語は、オイコスです。そして、建物のことをオイコドメーと言います。さらに、建てるという動詞は、オイコドメオーと言います。オイコドメオーは、「強化する、向上させる」という意味もあります。エペソ2:20-22の中には、今、言ったことばが交互に使われています。これは、教会は単なる建物ではなく、「建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となる」というのですから、いのちがあり、成長する神の住まいだということです。イタリアに行くと、サクラダファミリアという教会堂がありますが、200年経ってもまだ完成していません。今も、建築中であります。もちろん、教会は建物ではありませんが、成長しているというところは注目したいと思います。しかし、この世に、有機的な建物、だんだん大きくなって成長している建物ってあるのでしょうか?よく分かりませんが、私たちは神のみ住まいの1つ1つの部材であり、組み合わせられていく存在だということです。もし、1つ1つの部材が、全体像が分からなければどうなるでしょうか?「ああ、私はつまらない1つのブロックです。私なんかいなくても言いのです」あるいは「毎日、どうしてブロックを積みかさせていくのですか。無意味です」。でも、全体像と建物の目的が分かるならば、1つ1つの部材である私たちも生きがいとか、喜びが生まれるのではないでしょうか。ですから、建物から少し、離れて、遠くから全体を眺める必要があります。

まず、神の住まい、建物の基礎部分を見ていきましょう。教会の土台と言っても過言ではありません。エペソ2:20「あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です」。アーメン。私は土木の現場監督をしていましたので、この辺がよーく分かります。建物の一番下は、堅固でなければなりません。一番強い建物は、堅い岩盤の上に建てた構造物です。マタイ7章にも砂の上ではなく、岩の上に自分の家を建てた賢い人のことが書かれています。岩の上に建てたならば、洪水や風が吹いても倒れることはありません。教会をささえる岩、礎石とは何でしょう。主イエス・キリストです。イエス様は礎石であり、隅のかしら石です。主イエス・キリストこそが私たちを罪から贖われた救い主であるからです。では次に、建物の土台の部分は何でしょう?多くの人は、建物の土台を見たことがないでしょう。建物の土台には地中梁という、梁があります。それが柱と壁に直結して、建物全体を受け止めているのです。20節に「使徒と預言者という土台の上に建てられており」と書いてあります。これはどういう意味でしょうか?これは教会の教え(教理)は、使徒と預言者の教えであるということです。イエス様はあまり教理的なことは教えませんでした。教理的なことを教えたのは、使徒パウロとか、ペテロ、ヨハネであります。預言者とは旧訳聖書を書いた人たちと言っても良いかもしれません。ある人たちはイエス・キリストがおっしゃったことばは信頼性があるが、他はそうではないと言います。そうではありません。使徒や預言者が教えたことも同じくらい権威があって、彼らの教えが教会の土台であるということです。残念ながら、自由主義神学は、使徒や預言者を排除して、著名な神学者の教えを土台としました。しかし、それは間違いです。私たちは聖書のことばと使徒たちの教えを教会の土台とすべきであります。人々の教えや神学は変わります。しかし、聖書のことばは天地が崩れ去っても残るのです。

礎石と土台は分かりました。では、その上に建つ建物とはどういうものなのでしょうか?エペソ2:21「この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり…」。私たちが建物であります。建物には柱、壁、梁、天井があります。ドア、窓、階段、棚、いろんな部屋があります。しかし、これは「聖なる宮」と言われていますので、神殿と言った方が良いかもしれません。神殿ですから、台所とかトイレはないかもしれません。ソロモン王は、山から大きな石を切り出して運びました。そして、遠くはレバノンから杉材を運んできました。金や銀をふんだんに用いました。しかし、どうでしょう山から切り出した石、あるいは木材、あるいは金銀をそのまま用いることはできません。設計図どおり、寸法を整え、定まった形に加工しなければなりません。割られたり、削られたり、切られたり、曲げられたり、穴をあけられたり、みがかれたり、たたかれたり…、大変です。テレビで石切り場から石を掘り出し、形を整えるところを見たことがあります。岩山に穴をあけ、そこにダイナマイトを突っ込み、発破。それを定まった形にするのですが、ドリルでいくつか穴をあけ、そこに楔をかませて、「コーン」とたたく。すると、四角い大きな石が「ごろり」。それから研磨機にかけます。最後は「つるっつる」になります。木材の方は皆さんもご存知でしょう。とにかく、材料のまんま用いられないということです。切られたり、削られたり、たたかれたりするのです。かたちを整えられるまでが大変です。自分では「これで良い。これで気に入っているんだ」と思っても、切られてしまう。「嫌、私は、この場所で用いられたい」と言っても、どの場所にもって行かれるかわかりません。それは、神様の設計図次第です。

どうでしょうか?せっかく、救いを受けたけど、神の神殿に組み合わされていない人もいるんじゃないでしょうか?「あの人はよい柱になると思っていたのに」。でも、今も木材として他の場所にころがっているのかもしれません。「あの人は、金のケルビムになると思っていたのに」。でも、今は金の塊として他の場所にころがっているのかもしれません。その人たちは、「いや、私はこれで十分です。神の神殿に組み込まれるのはまっぴらごめんです」と言うかもしれません。もちろん、その人たちは、その人たちなりに目的をもって生きているかもしれません。でも、神様には人の考えをはるかに超えた計画があります。もし、神様が定めたところに、その人が納まったならば、どうでしょうか?本当に、信じられないような働きを果たし、神の栄光を現わすのではないかと思います。一番大切なのは、その人が持っている才能とか賜物ではありません。才能や賜物も大事です。でも、もっと大事なのは「神様の計画とご命令どおり、私を変えてくださっても結構です」という従順さであります。もう1つは、「神様の計画とご命令どおり、どこにでも遣わしてください。どの場所、どの働きでも喜んでやります」という忠実さであります。神様の前の従順さと忠実さ、これこそが、もっともすばらしい品性であります。多くの人たちは、従順さと忠実さが欠けているために、神様のすばらしい神殿に組み合わされることがないのです。

私は自慢するわけではありませんが、大川牧師が言うことはほとんど従いました。ま、全部が全部、神様のご命令だということではないと思いますが、そう信じて従ってきました。掃除、印刷、看板書き、訪問、集会準備…なんでもしました。思い出に残るのが、通訳の奉仕でした。水曜日の祈祷会に、タイ人がゲストに来ました。彼はYWAMの奉仕者で、座間教会に立ち寄ったのです。大川牧師は彼に証をするように依頼しました。そのとき、私が通訳をしたのです。他に私よりもできる人がいっぱいいましたが、私が献身者なので…。私の英語の実力もないこともそうですが、彼の発音がさっぱり分かりませんでした。なんというか、タイ人なまりの英語で、何を言っているのか分からない。「心の中で、早くやめろ!」と叫んでいましたが、彼は30分以上もメッセージしました。証ではなく、メッセージをしたのです。私はその奉仕が終った後、泣き崩れました。恥ずかしさと、みんなに迷惑をかけたという気持ちからです。他にも礼拝のカセットの録音の奉仕をしました。教会員だけではなく、全国からアメリカからも、礼拝のテープの注文が殺到し。1週間200本は録音しました。それを月一度郵送します。地下室にこもり、「早く、人間になりたーい」と叫んでいました。しかし、この礼拝テープが縁で、この亀有教会に招かれたのです。ある人がごみの中から、バイオリンを拾いました。そのバイオリンは弦が切れ、ボロボロの状態でした。しかし、その人はバイオリンの名手で、拾ったバイオリンを修繕し、新しい弦を張り、調律しました。素材が素材だったので、名器とはいえないまでも、良い音色を出すことができました。楽器そのものよりも、弾く人がうまかったのです。拾われたバイオリンとは私のことです。バイオリンの名手とはイエス・キリストです。私は拾われたと思っています。あのままでは、朽ちて終わりだったでしょう。しかし、キリストに見出され、神の宮で奉仕する者になったのです。だから、誇るところは何もありません。

どうでしょうか?みなさんは、「ああでなければならない」「こうでなければ不満だ」「私の思いどおりやらせてほしい」。いろんな主義主張はあるでしょう。もちろん、神様は私たちをロボットで造ったわけではなく、自由意思を与えていらっしゃいます。でも、はっきり言えることは、神様に本当に用いられたいならば、神の神殿であなたらしく用いられたいならば、主イエス・キリストに従うということです。そして、神様の計画と目的に合うように、加工されることに対しても甘んずるということです。その後、きっと、神様はあなたらしい、あなたに合う部署につかせ、用いてくださると信じます。黙示録にまばゆいばかりの神殿のことが記されています。黙示録3:12「勝利を得る者を、わたしの神の聖所の柱としよう。彼はもはや決して外に出て行くことはない。わたしは彼の上にわたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、わたしの神のもとを出て天から下って来る新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを書きしるす。」

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2009年8月 1日 (土)

キリストの血によって       エペソ2:11-18

久保有政先生が、「日本のルーツと古代イスラエル」ということを研究しています。テレビをご覧になった方もおられるでしょうか?イスラエルの10部族のある者たちは、シルクロードを渡って西から東へとやって来ました。聖徳太子がいたころ、19万人が日本に渡ってきて、多大な影響を与えました。彼らは「秦氏」と呼ばれています。現在の京都で活躍したので、彼らの名前が残っています。テレビでもやっていましたが、日本の歌やことばの中に、多くのヘブライ語が残っています。たとえば、「ヤーレンソーラン」の意味は?ヤーレンは「歌を歌って楽しくなる」、ソーランは「はしご」。昔、二シンが浜に来るのをはしごで登って高いところから見て歌いました。また、みこしの掛け声「エッサ」は、「運べ」という意味です。ヘブライ語の「アタ」は「あなた」という意味。「バレル」は「はっきりさせる」という意味。「ホル」は「穴」。「コオル」は「寒い」。「ミツ」は「果汁」。「ヘスル」が「減らす」。「ダベル」は「話す」。「ヤドゥルール」は「宿る」。神社の祭儀、仏教の教え、祇園祭りを初め多くの祭り、国技と言われる相撲でさえも、影響を受けているということです。日本とイスラエルは遠いようで近いということです。

1.異邦人とユダヤ人の壁

聖書に「異邦人」ということばが出てきます。イスラエル以外の民のことを、異邦人と言います。では、異邦人とはイスラエルと比べてどのような違いがあるのでしょうか?11節には「無割礼の人々と呼ばれる者」だとあります。割礼とは男性の性器の包皮を切り取ることですが、これはイスラエルの民であるという契約のしるしでした。さらに、十戒をはじめとする律法も与えられました。イスラエルが神様から選ばれたのは、祭司の国として、諸国の民を祝福するためであります。しかし、残念ですが、イスラエルは堕落し、神様の目的を達成することができませんでした。それで、最後に来たのが、イエス・キリストです。キリストはユダヤ人の家系から生まれました。最初に、ご自分の民に、福音を宣べ伝えました。しかし、ユダヤ人はキリストを拒絶し、「十字架に付けろ!」と叫びました。しかし、キリストの十字架は全人類の贖いとなり、救いが異邦人に向けられるようになりました。イエス様のご命令通り、弟子たちは全世界に出て行き福音を宣べ伝え、たくさんの教会ができていきました。幸か不幸か、ユダヤ人よりも、異邦人の方が教会に大勢やってきたのです。同じ教会の中で、異邦人とユダヤ人の壁ができてきました。そのため、パウロはこのように言っているのです。エペソ2:12-13「そのころのあなたがたは、キリストから離れ、イスラエルの国から除外され、約束の契約については他国人であり、この世にあって望みもなく、神もない人たちでした。しかし、以前は遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスの中にあることにより、キリストの血によって近い者とされたのです。」つまり、パウロは異邦人に対して「あなたがたは誇るところは何もないのですよ。かつては他国人で、この世にあって望みもなく、神もない人たちだったことを忘れてはならない」と言っているのです。

 問題なのは異邦人とユダヤ人の間にある敵意という壁です。ユダヤ人は「自分たちは神から選ばれた民である」という自負心があったでしょう。「モーセの律法や聖なる儀式も守らないで、いい気なもんだ」と批判していたかもしれません。一方、異邦人は「あなたがたは神様に従わなかったからそうなったんだ。私たちはキリストを信じて救われた新しい神の民である。これからは私たちの時代だ」と言ったかもしれません。日本は今、「政権交代」で話題が沸騰していますが、対立という面からすると、少し似ているところがあります。ローマ人への手紙11章で、パウロはこのように書いています。「イスラエルが違反したので、救いが異邦人に及んだのです。彼らの失敗が異邦人の富となりました。しかし、異邦人よ、誇ってはいけません。あなたがたは野生種のオリーブであったのに、栽培されたオリーブに接木されたのです。イスラエルは不信仰によって折られたが、栽培種のものは、もっとたやすく自分の台木につながれるはずです。だから、異邦人よ、高ぶらないで、かえって神を恐れなさい」。そのように書いてあります。簡単に言うと、イスラエルがつまずいたので、救いが異邦人の方に回ってきたのです。なんとラッキーなのでしょうか。でも、イスラエルの一部が頑なになったのは、異邦人の完成のなる時までです。終わりの日、異邦人の数が満たされたならば、こんどはイスラエルが救われるときがきます。これが神様のご計画であります。エペソ2:14、15「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ち壊し、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です」とあります。また、16節「敵意は十字架によって葬り去られました」ともあります。つまり、キリストこそが、ユダヤ人と異邦人の隔ての壁を壊し、両者を1つにできるということです。イエス様は、敵意の壁を打ち壊したので、異邦人もユダヤ人も1つになりなさいと願っておられます。でも、残念ですが、キリスト教会は長い間、ユダヤ人を迫害してきました。なぜなら、ユダヤ人がキリストを十字架につけたと思っているからです。一番顕著なのは、ナチス・ドイツがユダヤ人を虐殺しているとき、教会は見てみぬふりをしていたのです。しかし、本来、キリストを十字架につけたのは、私たちの罪であるということを本当に自覚しなければなりません。

 ユダヤ人と異邦人が1つになるようにという運動をしている人たちが何人もいます。まず、ブリッヂフォーピースという世界的な団体があります。「イスラエルとその人々を愛し、クリスチャンとユダヤ人の間に愛の関係を築くために、1976年、エルサレムに設立されました。私たちの願いは、双方がお互いへの理解を深め、神にある兄弟としての関係を構築することです。本来、一つであったはずのユダヤ人とクリスチャンは、神の意志に反して、2000年間にわたって対立してきました。悲しいかなそれは、クリスチャン国によるユダヤ人迫害という歴史の積み重ねでもありました。クリスチャンはこの問題に対し、あまりにも長い間沈黙してきました。ユダヤ人もまた、あまりにも長い間孤立して戦ってきました。今こそ、個人、教派にかかわらず、神の選びの民、ユダヤ人の癒やしのために立ち上がる時です。ブリッジス・フォー・ピースは、お互いを隔てているこの溝に、“平和の架け橋”を築くために献身しています。」また、ピーター・ツカヒラという日系アメリカ人がおられます。彼はイスラエル市民であり、「ケイラット・ハ・カルメル・コングリゲーション(集会)」の牧師の一人でもあります。このコングリゲーションの会堂は、歴史的旧跡であるカルメル山に建っています。会堂は、イスラエルの12の部族を象徴する12個の石、十戒を象徴する10本の柱などが組み込まれ、非常にユニークな建築物となっています。救われたユダヤ人を、メシアニックジューと言ってクリスチャンとは言いません。ピーター・ツカヒラ師が書いた『神の津波』という本があります。「イスラエルは神によって長子として選ばれ、他の国々の手本となるように神の契約を与えられた。これは神がえこひいきされたのはなく、天の父による現実的で主権的な選びである。私たちはイスラエルの従順と祝福から学び、同時にイスラエルの不従順と呪いからも学ばなければならない。私たちの兄であるイスラエルは、信仰の家族から約2000年間も疎外されてきたのだ。父が彼に近寄るときに、私たち異邦人信徒は誉れと喜びをもって兄を迎え入れるだろうか?それとも、彼への父の愛は納得できないと言って憤慨する、あの放蕩息子の兄のようになるのだろうか?」彼はアジア、イスラム、そしてイスラエルにリバイバルが来ると信じています。第一のポイントはかなり話題が広がりましたが、私たち異邦人は誇れるものは何もないということです。主のあわれみによって、遠くにいた私たちにも福音が宣べ伝えられ、恵みによって救われたのです。キリストの血によって、私たちは神様に近いものとされました。このことは、イスラエル、ユダヤ人も同じだということです。

2.私たちの間の壁

エペソ2:14-16「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。」後半は、お互いの中にある壁ということをお話したいと思います。私たち一人ひとりの間に、壁があるとお感じになられませんでしょうか?ある人との間の壁は、5メートルくらいあって、しかも分厚いコンクリートである。しかし、ある人との間の壁は、30センチくらいで、生垣でできている。「私たちの間には壁なんかありません」というカップルがいるかもしれません。しかし、正しい意味での壁、境界線は必要であると思います。それぞれの権利とか責任があって、飛び越えてはならないものがあるでしょう。しかし、問題となるのは敵意の壁であります。それは、拒絶の壁と言って良いかもしれません。親と子、男性と女性、社長と従業員など両者に敵対心があり、なかなか本音を分かち合えないというのが実情ではないでしょうか?クリスチャンになりますと、随分と楽になり、多くの人たちと自分の気持ちを分かち合えるようになります。でも、過去の傷やトラウマが原因して、困難を覚えている方もいらっしゃるのではないでしょうか?たとえば、礼拝の前半に、「さあ、お互いに挨拶しましょう!」と賛美リーダーが言ったとします。「ハレルヤ!」と喜んで、いろんなところへ出かけて挨拶する人もいます。しかし、「なんだか、イヤだなー」という人もおられるでしょう。私もかつては、握手を断ったことがあります。その人が久保有政先生だったんですねー。彼はそのとき神学生で、私はまだ求道者でした。せっかく彼女を連れて礼拝に来たのに、その日が、大川先生じゃなかったんです。年配者の牧師で自慢話をしているように思えたんですね。帰り際に、久保神学生が「ようこそ、おい出くださいました」と手を伸べました。私は怒っていたので、「何で、私があなたと握手をしなければいけないんだ!」とその手を振り切りました。そのときは、クリスチャンは「いつもニコニコしている変な人種じゃないか」と誤解していました。ですから、そういう人たちの気持ちは、よーく分かります。

この世の関係の多くは血縁関係か、利害関係でなりたっています。男女関係というのもありますが、この関係もかなり微妙であります。知らない男性が近づいてくる場合、どういう下心があるか分かりませんので女性は警戒します。学校や職場は上下関係がしっかりしています。ことば使い1つでも気を使います。ですから、日本は本音と建前を使い分けて、生きています。アメリカでは「ハーイ、ジョン」とかファーストネームを呼び合って、フレンドリーな付き合いが得意です。大学教授や牧師でさえも、ファーストネームでOKです。文化の違いってすごいなーと思います。日本は儒教の影響を受けていますので、そういう訳にはいきません。でも、みなさん、イエス・キリストは私たちがお互いに持っている、敵意の壁、拒絶の壁を取り去ってくださいました。なぜならキリストの血は、私たちの良心をきよめ、私たちの心の傷を癒してくださるからです。私たちはキリストにあって1つになることができるのです。私たちは本来、地獄に行くべき存在でした。しかし、キリストによって贖われ御国に入ることができたのです。私たちの関係は、父なる神様のもとで、兄弟姉妹の関係であり、それが永遠の御国まで続きます。ですから、この世の血縁関係とか利害関係ではなく、キリストにある愛の関係です。キリストが私たちの間にいて、両者を取り持ってくださるのです。問題は、私たちが持っている心の中の壁であります。これまで、私たちは自分を守るために、壁を築いてきました。この壁がクリスチャンになったからと言って、すぐ取り除けるものでもありません。「心を開いたとしても、また傷を受けたらどうなるだろう?」「この人は、昔、私を傷つけたタイプによく似ている。気をつけないといけない」「ああ、この人は親切だけど、きっと私を支配する気だわ」「この人と仲良くなったとしても、いつかは、悲しい別れをするんだ」…このような疑いや恐れ、トラウマがあるので、クリスチャンになったとしても人間関係を作るのが困難なのです。

では、どうしたら良いでしょうか?ある教会は、そういう傷とかトラウマに触れないで、表面上のお付き合いで済ませようとします。婦人会、壮年会、青年会…そういうところに出るように勧められます。でも、そこではさしさわりのない話で終ってしまいます。いつか、気の合う信仰の友が見つかるでしょう。全員と交わるのは無理だけど、何かのきっかけで親しくなる兄弟姉妹はいるものです。でも、私はそういう自然発生的な関係よりも、セルチャーチを導入しました。1986年、もう13年にもなります。インドネシヤのアバラブ教会に学び、また日本のセルチャーチネットワークにも所属しています。香港のベン・ウォンは「何よりも関係が大事だ、関係が大事だ」と言います。私はこれまで、「どうぞ勝手にセルを作りなさい」でやってきました。しかし、教会や家庭で分かち合いをするのは良いのですが、「そんなのダメだよ」と裁いたり、教えたりします。本人は、攻撃されたと思って、いっぺんに心を閉じてしまいます。ですから、セルをやるにしても、必ずリスクが伴います。女性の場合は自分の感情を分かち合うのが結構、できます。しかし、男性の場合は、考えとか出来事を分かち合うのはできます。ところが、動機だとか心の傷は押し殺しています。男性も女性もそうですが、もっと水面下にあるもの、隠されているものを分かち合わなければ、癒しも起こらないということです。そのためには、その小さなグループが安全な場所になる必要があります。「自分の恥ずかしいことや失敗を分かち合っても、ここでは大丈夫だ」という安心感が必要です。ですから、その集まりの中でいくつか守るべき、最低のきまりが必要になってきます。1つはエペソ2章には「敵意とは戒めの律法である」と書かれています。つまり、私たちの心の中には、「人はこうでなければならない、クリスチャンはこうでなければならない」という律法があります。その律法を相手に当てると、どうしても裁いてしまいます。律法を全うされたイエス様が、愛と恵みで生きるように命じておられます。ですから、人を裁かないでできるだけ、受け入れるということです。「愛、赦し、受け入れ」こそが、共同体の大憲章、マグナカルタです。もう1つは秘密を守るということです。その場で話されたことは口外しないということです。また、その場にいない兄弟姉妹のうわさやゴシップも、人間関係を壊してしまいます。第三番目は、クリスチャンの先輩から自分の失敗や心の傷を分かち合うということです。そうすると、他の人も安心して、心の奥底に隠した未解決な問題も分かち合うことができます。エペソ5:13 ,14「明るみに引き出されるものは、みな、光によって明らかにされます。明らかにされたものはみな、光だからです」とあります。答えを出さなくても、その場におられるイエス様が解決と癒しを与えてくださいます。

考えてみれば、アダムとエバが神様から離れ堕落して以来、人間関係も壊れてしまいました。夫婦の関係にあつれきが生じました。カインが弟アベルを殺しました。レメクは77倍復讐すると言い出し、争いは民族間へと広まりました。カインはエデンの東に町を建て、自分の子どもの名前をつけました。カインは身を建て、名を上げる先祖でした。また、カインが建てた町には、城壁がはりめぐらされていました。城壁は相手から身を守るためのもですが、同時に、自分も相手の所に行く妨げにもなります。カインの子孫はみな業績志向の人たちでした。ヤバルは家畜を飼う者の先祖になりました。ユバルは立琴と笛をたくみに奏する、芸術の先祖になりました。トバル・カインは工業の先祖になりました。一方、セツの子孫は「主の名を呼んで」関係を大事にしました。聖書にカインの子孫は何をしたか書かれていますが、何歳まで生きたかは書かれていません。一方、セツの子孫は何をしたかは書かれていませんが、「○○年生きて、○○を生んだ。○○を生んで後、○○年生きて死んだ」と書かれています。神様にとっては、何をしたかということよりも、ご自分と関係があったかどうかを記憶しているようであります。私たちは、「自分は何をした、何者である」というカインの子孫の価値観を捨てるべきであります。むしろ、セツの子孫のように、神様と関係、人々との関係を重んじるべきであります。考えてみれば、エデンの園には城壁がありませんでした。なぜ、城壁がなかったのでしょう?それは、神様ご自身が城壁だったからです。そして、その中にいる人たちは、お互いに家族だったからです。今は、家庭や家族が崩壊している時代です。夫の妻の間、親子の間、子ども同士の間が壊れています。家庭が壊れているので、そのことが社会へと展開されています。しかし、キリスト教、神様のみこころは家族が回復することであります。そのためには、まず、キリストにあがなわれた神の家族が必要であります。ここで癒された者が、こんどは肉の家族や職場、地域社会に出て行くのです。クリスチャンであるのに、世の中の人から「鼻つまみ」的存在になるのは、問題があります。もし、私たちが「それは違う、あれは違うでしょう」と世の中をさばくならば、そうなるでしょう。しかし、イエス様と同じように、あわれみの心をもって、人々の痛みや苦しみを理解するならばどうなるでしょう?イエス様は平和をもたらす君でありました。私たちも平和を作る神の子らであります。イエス様はヨハネ13章でこのように言われました。ヨハネ13:34,35「 あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。もし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」伝道はむずかしくありません。私たちが互いに愛し合っているなら、「ああ、あそこに神の国がある、彼らはキリストの弟子だ」と思うでしょう。セルチャーチにするとかしないというのは問題ではありません。私たちはキリストの和解をたいだいた者として、互いに愛し合う。神様との関係と共に、お互いの関係を建て上げる。このような努力を主の恵みによって、進めて行く。そうするならば、御国がこの世でも拡大していくと信じます。

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