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2009年8月30日 (日)

キリストを知る      エペソ3:17-21

 本日は衆議院議員選挙です。イエス様はすべての国民を弟子としなさいと言われました。神様は国に対して関心をもっておられます。神を恐れ、正義を行なう為政者が選ばれますように。また、一人でも多くのクリスチャンが政治の世界にも乗り込んで、聖書を土台とした政治や教育が行なわれますようにお祈りしたいと思います。ところで、エペソ3章14節以降には、パウロの私たちに対する祈りが記されています。第一は私たちの内なる人が強められるようにということです。このことは先週、学びました。本日は、その後の2つのことを学びたいと思います。新約聖書はギリシャ語で書かれていますが、日本語のような句読点がありません。特に、パウロの書き方というのは、どの言葉とどの言葉が繋がっているのかよくわかりません。まるで、串団子のようにつながっています。3個ぐらいだったら良いのですが、7個とか8個も繋がっていたらどうなるのでしょうか?私たちは日本語の聖書を読んでいますが、句読点の付け方次第で、随分と違ってきます。そのために、いくつかの英語版の聖書を読むと、「ああー、これとこれをくっつけた方がより原文に近いんじゃないだろうか」ということがよくあります。

1.キリストが住まうように

聖書を理解する上で一番大切なのは、主動詞がどれかということです。主動詞のもとに、いろんなことばがくっついて、それを修飾しているわけです。ですから、ほかのものを全部どけて、みると、「キリストがあなたがたの心のうちに住まうように」というのが、パウロの願いです。住むとは、滞在するとか、何日かお泊りするという意味ではありません。定住するとか、居住するという意味です。先週の日曜日、午後4時半からと7時から、新松戸教会で聖会がありました。久しぶりに津村先生とお会いしましたが、有賀先生がメッセンジャーでした。先週は、午後1時半から改革長老派の組織とか神学の固いお話を聞きました。その後、全く系統の違う聖霊と奇蹟の世界です。有賀先生は「アジアや南米、アフリカにバイバルが起こっているのに、なぜ、日本にリバイバルが起こっていなのでしょう。それは聖霊様に観光ビザしか与えていないからです。聖霊様に就業ビザを与えるべきです」とおっしゃっていました。観光ビザだったら、長くても6ヶ月でしょうか?でも、就業ビザだったら聖霊様にずっと働いてもらえます。同じように、私たちがイエス様を受け入れるとき、どのように受け入れるかであります。お客さんでしょうか?お客さんだったら、よくてもリビングルームまででしょう。しかし、イエス様と一緒に住まうとなると、様子が違ってきます。私生活のすべてが見られてしまいます。男性だったらポルノ雑誌やインターネットはどうでしょうか?女性だったら甘い物とかへそくりをどこかに隠しているかもしれません。「この部屋は良いけど、この部屋はダメです。これは私の宝箱です。鍵をかけていますので、私以外にはだれにも空けさせません。イエス様も見せませんよ」。

日本語の聖書は「また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが」と、別のことのように書いています。しかし、「愛において根を張り、堅い土台となって、心に住まうように」という訳し方も、有りであります。つまり、私たちの心の中に、キリスト様が植わって根を張っている。そして、キリスト様が私たちの心の中を支配している状態であります。もう、キリストによって心が占領され、キリストオンリーという感じです。しかし、世の中の人はどう言うでしょうか?「宗教は凝ったらあかん」「宗教にかぶれちゃいかんよ」と水を差します。何故、世の中の人はそういうのでしょうか?それは、自分の好み、自分がしたいこと、自分の楽しみが奪われてしまうのを恐れるからです。だから、人によっては礼拝でお話は聞くけど、決して洗礼は受けないという人がいます。また、ある人はクリスチャンになっても、キリストにはほどほどに従って、弟子にはならないという人です。そういう人は、自分の世界というものをしっかり持っています。だが、それは自我であります。キリストはその人にとって、主とか王様にはなっていないということです。でも、みなさんそういう人の心の状態はどうなのでしょうか?みなさん、この世においては中道とか、中立というものがありません。むしろ、この世の罪、肉的な楽しみ、中毒がその人を誘惑するでしょう。その人がキリストに従わないことによって、気ままで自由な生き方ができると思っていました。しかし、決してそうではありません。あなたは神の奴隷(義のしもべ)として生きるか、この世の奴隷(罪のしもべ)として生きるか2つに1つかありません。キリストを主として、神のご支配のもとで生きるなら、この世の誘惑、罪、中毒を排除して生きることができるのです。誰が排除してくれるのですか?王なるキリストがあなたの家を守って、キリストが悪魔を排除してくれるのです。

私は心の傷の癒しとか、カウンセリング、あるいは解放ということを学んでいます。しかし、この世では完全に癒されるということは決してありません。もし、自分の不完全なところ、傷や弱さに、目をとめていくならば、あなたはそれによって支配されてしまうでしょう。私たちの過去のトラウマ、嫌な思い出、苦々しさ、不当な扱い、失敗…ある程度は消えますが、全部はなくなりません。では、ずっと自分を癒してくれるところに通うのでしょうか?私たちは人に依存してはいけません。究極的な答えは主イエス・キリストにあります。つまりこうです。私たちの心の中に、王であるキリストを住まわせるのです。キリストにあなたの心を支配してもらうのです。では、あなたのなすべきことは何でしょう?キリストの教え、キリストの命令にしもべとして、従うということです。どんな教えや命令でしょうか?それは、マタイ5章から7章に記されている山上の説教です。「あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。あなたを告訴して、下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。あなたに1ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょに2ミリオン行きなさい。…自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」。ガビーンであります。これはショック療法であります。私たちはアイスクリームなど冷たいものを食べて、しみたときにどうするでしょうか?「ああー」と言って、額をたたくんじゃないでしょうか?すると神経が他の場所に行って、感じなくなります。山上の説教はとてつもなく高い基準です。しかし、これを私たちの心に満たすとき、自分の痛みやトラウマ、悲しみ、悔しさ、怒り、どうでもよくなります。

私は20歳のとき盲腸炎になりました。入院は、黒磯と白川の病院どちらが良いかということになりました。その半年前、白川の病院で健康診断があり、若い看護婦さんたちがいっぱいいました。そこで、私は「白川の病院が良い」と言いました。しかし、どうでしょう。手術台に上ると、7,8人の看護婦さんが私を取り囲んで、何やらメモを取っているんです。手術は2時間くらいかかって、会社の運転手さんは「鈴木君長かったなー」と言うんですね。どうも、実験台になったようです。それからガスが出なくて苦しく、また微熱もあり、ベッドの上で不平不満を言っていました。突然、兄が仙台からお見舞いに来ました。一番上の兄で、世話になったので頭の上がらない兄です。兄が「文句たれるな!」と言って、氷のいっぱい入った袋を額の上にどかんと置きました。私はしゃきーんとなって、言うこときくしかありませんでした。なんだか、モヤモヤも痛みも消え去った感じでした。みなさん、イエス様が慰め主であったなら「大丈夫かい、辛いだろう」と言うでしょう。でも、イエス様が王の王、主の主としてあなたに臨んだならどうするでしょうか?「主よ、あなたの十字架の痛みとくらべたら軽いもんです。主よ、あなたは全く罪がないのに、悪者呼ばわりされ、不当な扱いを受けました。神と人々からも捨てられました。それと比べたらたいしたことありません」。主であるイエス・キリストと出会うなら、私たちは圧倒されて、自分がどこかへ行ってしまうのです。重要な体験とは、活けるキリストと出会って、圧倒されるということです。ヨブもそれまでいろいろ文句を言っていました。しかし、主は嵐の中からヨブに答えました。神様はヨブの質問に1つも答えていません。宇宙論とか生物学の話をしました。そして、ヨブは「私はあなたの噂を耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔いています」(ヨブ42:5)

私は宗教という言葉はあまり好きではありませんが、こういう宗教的な体験が必要です。ヌミノーゼ、神を恐れることの体験です。モーセ、アブラハム、イザヤもそのような経験をしました。使徒ヨハネもそうです。黙示録において、ヨハネが再臨の主とお会いしたとき、どうなったでしょうか?「私は、この方を見たとき、その足もとに倒れて死者のようになった」(黙示録1:17)と書いてあります。これです。こういう体験こそが、私たちを罪の世から解放し、また自分の傷や弱さをも解放してくれるのです。私たちの心にキリストが愛において根を張り、堅い土台となって、心に住まうように願いましょう。

2.キリストを知るように

エペソ3:18,19節はどこと、どこがくっつくのでしょうか?「その広さ、長さ、高さ、深さ」とは何を指しているのでしょうか?英国の聖書は、「私たちの知性をはるかに超えた、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さを知るように」となっています。全部、キリストの愛に、かかっています。「キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さ」ってどのようなものなのでしょうか?まず、愛における「広さ」とはどういうものでしょうか?広さは、英語でもギリシャ語でも、「幅、横幅」という意味もあります。日曜学校の賛美にありますが、ある日、少年が「どれくらい僕を愛しているの?」と聞いてみました。「これくらいかな?」「これくらいかな?」と尋ねます。でも、イエス様はだまってほほえんでいるだけです。もう一度、イエス様に聴いて見ました。「どれくらい僕を愛しているの?」「これくらい?」「これくらい?」。ある日、イエス様が答えてくれました。静かに両手を広げて示してくださいました。その手の平には釘が打たれていました。十字架で命を与えるほど、愛しておられるということです。イエス様はご自分を信じる人たちのためだけに死なれたのではありません。ご自分に敵対し、信じない人のためにも贖いの代価を支払われたのです。Ⅱコリント5:16,17「ですから、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。…」とあります。つまり、私たちは、贖い主であるキリストを通して人々を見るべきです。「ああ、この人に対しても、イエス様は十字架で血を流されたんだ。だから、この人も救われるための候補者なんだ」と見るべきなのです。きょうは選挙がありますが、私たちの周りの人たち全てが、救いの候補者であり、神様は選ぼうとしているということです。

愛における「長さ」とはどういう意味でしょう?ヨハネ8章には、姦淫の場で捕らえられた女性の物語が記されています。律法学者とパリサイ人は、「モーセは律法の中で、こういう女性を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか?」と聞きました。「赦す」といえば、モーセの律法に反することになります。「赦さない、死刑だ」と言えば、愛のない人だと言われるでしょう。しかし、イエス様は身をかがめて、指で地面に何かを書いておられました。彼ら一人ひとりの罪なのか、それとも十戒なのか分かりません。「どうするんだ、どうするんだ」と人々は詰め寄ります。そのとき、イエス様は身を起し、「あなたがたのうちで、罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい」と言われました。もう一度、イエス様は身をかがめて、地面に書かれました。彼らはそれを聞くと、年長者たちから、ひとり、またひとりと去って行きました。最後にイエス様だけが残りました。イエス様は彼女に「あなたを罪に定める者はなかったのですか?」と言いました。「はい、だれもいません」。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今から決して罪を犯してはなりません」。律法は一つの尺度です。律法学者やパリサイ人たちはこの律法という尺度をもって「短い、達していない!」と、人々をさばいていたのです。でも、この尺度を人にあてるならば、同時に自分にもあてられることにもなります。さばくと、さばかれるのです。皆さん、この律法に叶う人は、地上にひとりもいません。しかし、イエス様は律法よりも、長い尺度、愛を示されました。ローマ13:10「愛は律法を全うする」とあります。律法よりも長い尺度、愛をお互いに持ちましょう。

愛における「高さ」とはどういう意味でしょう。ギリシャ語の「高さ」には、「地位、高ぶった、高慢な」という意味もあります。イエス様の愛は、高慢な人にも向けられました。エリコの町に、ザーカイという取税人がいました。彼は背が低くいために、群集にさえぎられ、イエス様を見ることができませんでした。そこで、ザーカイは先回りして、いちじく桑の木に登りました。よく考えると、ザアカイは、イエス様を高いところから見下ろした高慢な人かもしれません。でも、イエス様は彼の名前を呼んで、「急いで降りてきなさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから」と言いました。イエス様とザアカイどっちが、高い存在なのでしょう。イエス様は本来、高いところに住まわれていたのに、低いところに降りて来てくださいました。イザヤ書には、「神様は高慢な人とは一緒にいない」と書いてあります。でも、イエス様はザアカイのような人をも愛されました。私の家内は、このザアカイの物語で、イエス様を信じたそうです。彼女自身に聞けばわかりますが、ザアカイのように木の上から、イエス様を見下ろしていた存在だったということです。んーやっぱり、高慢な人だったんでしょうか?でも、救われて良かったですね。そして、とってもへりくだっている私と結婚したのであります。アーメン、ハレルヤ。

愛における「深さ」とはどういう意味でしょう。ギリシャ語の「深さ」には、「どん底の、貧乏の」という意味もあります。ヨハネ5章に、ベテスダの池の傍で横たわっている人がいました。そこには、天使が水をかき回したときに、入った者が癒されるという伝説がありました。人々は、天使が水をかき回すときを、今か、今かと待っていました。イエス様は彼に「よくなりたいか」と聞かれました。彼は「主よ、私は水がかき回されたとき、池にだれもいれてくる人がいません。行きかけると、もう他の人が先に降りていくのです」と答えました。こういう人っているんじゃないでしょうか?彼は、38年間も病んでいたので、「なおりたい」と素直に言えなかったのです。「水が…池に、だれも、入れてくれないんです…他の人が、むにゃむにゃ」。でも、イエス様は「起きて、床を取り上げて歩きなさい」と命じました。すると、彼はすぐに直って、床を取り上げて歩き出しました。主の愛は、孤独で、全く希望もないような人にも届くということです。他にもたくさんの病人がいたのに、座り込んで、全く希望のない人に、イエス様は目をとめられました。イエス様の愛って深いんじゃないでしょうか?聖歌429『99匹の羊』という賛美があります。4節は「谷底より空まで御声ぞ響く、失われた羊は見出されたり!」とあります。イエス様の声は、谷底より空まで響いているのです。

先週から、『天国と地獄』という本を読み始めました。メアリー・バクスターという人が書いたんですが、「ちょっと怪しい」という感じがして、ずっと買わないでいました。しかし、今がセールで安いというので、買いました。私は「お一人様1品だけ」というのに弱いんです。メアリー・バクスターがイエス様に連れられて、地獄を訪れます。骸骨の中に灰色の霧のような魂がいます。しかも、腐った肉片が骨に垂れ下がっていて、ものすごい嫌なにおいがします。地獄には福音の説教者もいました。教会に行っていた男性や女性もいました。ある人は「主イエス様、私の罪のためには十分苦しんだんじゃないですか?死んでもう40年たちましたよ」と言いました。イエス様はこのように語りました。「すべて、あざける者たちと信じない者たちの受ける分は、火の池の中にあります。あなたは真理を信じようとしませんでした。幾度も私の民があなたのところに送られ、あなたにその道を示しました。しかしあなたは彼らの言うことを聞こうとしませんでした。あなたは彼らをあざ笑い、福音を拒みました。私はあなたのために十字架の上で死んだのに、あなたは私をあざけり、あなたの罪を悔い改めようとしまでんでした。私の父はあなたに救われる機会を幾度も与えました。もし、あなたが耳を傾けてさえいたのなら!」イエス様は泣かれました。その男の人は叫びました。「知っています。主よ、知っていますよ!だけど今は悔い改めています」イエス様は言われました。「遅すぎます、裁きは決定しています」。こういう、ことがずっと書いてあります。果たして、事実なのか分かりません。でも、ありえることであるとは思います。まだ、3分の1ぐらいしか読んでいませんが、イエス様はその人を何度も訪問した、あるいは人々を遣わしたということです。そして、イエス様は一人ひとりに涙を流しておられるということです。可愛そうだと思ったなら、地獄から救ってやれば良いのにと思いました。しかし、そこには1つのルールがあるようです。大切なのは、生きているうちに決断をするということです。地獄にいた一人の女性に対して、イエス様はこのように言われました。「あなたが地上にいたとき、私は私のもとに来るようにあなたを呼びました。手をくれになる前にあなたの心を私に対して正すよう、私はあなたに嘆願しました。私は私の愛をあなたに語るため、真夜中に何度もあなたを訪れました。」このように、イエス様は生前、一人ひとりを訪ね、愛をもって招いています。幻の書物なので、全部が全部、正しいのかわかりません。でも、その本に書かれているイエス様の愛は本当ではないかと思います。

救いとは地獄を避けて、天国に入ることです。それも、当たっていないわけではありません。でも、救いはその一点だけではありません。イエス様を心の真中に受け入れ、イエス様と共に生活することです。私たちはイエス様を知れば知るほど、私たちの信仰生活は豊かなものとなるでしょう。世の中には幸福や祝福を求める宗教や教えがたくさんあります。人間は幸福を求めることが権利であるという考えもあります。でも、みなさん幸福は人生の目的ではありません。結婚もそうです。幸せになるために結婚するならとんでもないことになります。幸福や祝福は、神様からのボーナスです。私たちが神様に従っていくならば、付録として幸福や祝福があとからついてくるのです。そのためには、私たちの信仰の対象であり、信仰の完成者であるイエス・キリストを知り、イエス・キリストの愛を受けることが大切であります。

祝祷:エペソ3:20-21「どうか、私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方に、教会により、またキリスト・イエスにより、栄光が、世々にわたって、とこしえまでありますように。アーメン。」

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