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2009年8月23日 (日)

パウロの確信      エペソ3:12-16

 この世のテレビ番組やニュースは、本当に目に見える世界のことしか報道しません。そして、多くは否定的なものばかりです。あとは、お笑い系であります。たまに見ても良いとは思いますが、知らず知らずに、この世の価値観で私たちの魂が毒されてしまいます。私たちは聖書を読み、聖書のメッセージを聞き、神様と交わるときに、私たちの魂が健康になり、またそこから正しい信仰が生まれてくるのであります。私たちは食べ物に添加物が入っているかどうか、とても気にします。でも、クリスチャンであっても、心に何を入れるかあまり気にしていない人が意外と多いのではないでしょうか。テレビに「人生が変わる1分間の深イイ話」を見たことがあります。伸助の話術はとても面白いです。確かに、深い話がありました。でも、処世術の方が多くて、聖書的でありませんでした。と、言いながらテレビから話している自分に矛盾します。しかし、これからは神のことば、聖書からの深イイお話です。

1.パウロの確信

エペソ3:12「私たちはこのキリストにあり、キリストを信じる信仰によって大胆に確信をもって神に近づくことができるのです。」パウロは「キリストにあって」という表現を自分の書簡に数え切れないほど使っています。「キリストにあって」とはギリシャ語で、エン・クリストウと言いますが、エペソ人への手紙には何回記されているでしょう?「彼にあって」という言い方も、含めますと、エペソ1章では11回、2章では8回、3章では4回使われています。パウロにとっての、信仰のキーワードは「キリストにある」ということです。では、「私たちはこのキリストにあり、キリストを信じる信仰によって大胆に確信をもって神に近づくことができるのです」とは、どういう意味でしょうか?そうです。キリストは仲介者であって、キリストを通して私たちは神様に近づくことが可能だということです。なぜ、直接、私たちは神様のところへ行けないのでしょうか?それは、私たちには罪があるからです。神様は義なる方、100%正しいお方なので、1つの罪をも裁かれずにはおられません。もし、私たちが罪を持っているまま、神様に近づくならば、いっぺんに滅ぼされてしまうでしょう。少し前に皆既日食がありました。あいにく、関東はその日、曇りで太陽は見えませんでした。しかし、ニュースなどでは「直接、日食を見ないようにしてください。網膜が傷つきますから」と警告がなされていました。もし、私たちの肉眼で太陽を凝視したらどうなるでしょう。本当に目が見えなくなってしまいます。同じように、罪ある私たちが義なる神様のところには近づくことは不可能なのです。

しかし、幸いなことに、イエス・キリストが私たちのために来られました。この方は、神様と私たちの唯一の仲介者です。なぜ、唯一なんでしょう?それは、神のひとり子なる方が人としてこの世に来られ、私たちの罪を十字架で贖ってくださったからです。私たちはキリストの贖いによって、罪や汚れがきよめられ、神様に近づくことができるのです。世の中にはたくさんの宗教があります。彼らは良い教えを説いています。ご利益も確かにあるでしょう。でも、ないものがあります。それは贖罪論がありません。明治から戦後にかけて、日本にはたくさんの新興宗教が生まれました。どれもこれもキリスト教もしくは聖書の良いところを参考にして作られました。天理教も父なる神様のことを言います。でも、罪の贖いがありません。立正佼成会も創価学会も霊派の光も良いことを言います。でも、罪の贖いがありません。エホバの証人、統一協会も聖書を用います。そして、キリストの贖いのことも言います。しかし、彼らは「キリストのあがないは不完全だった。まだ、私たちのやるべきことが残されている」と言います。そのため、奉仕や償い、良い行ないを強いられます。しかし、どれもこれも、まことの神様には到達することができません。それらは人造宗教であり、ニセモノであります。Ⅰテモテ2:5-6「神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。これが時至ってなされたあかしなのです。」確かに、様々な宗教においても、神様がどういうお方なのか部分的ではありますが、啓示されています。幸福の科学が言うことも、一部は当たっています。みなさん、ニセモノというのは、本物を真似ます。でも、ないものがあります。それは、罪の贖いがないのです。私たちは教えだけでは救われません。教えも必要ですが、キリストの贖いこそが、神様に到達する道なのであります。

では、キリストを通して、神様に近づくならどうなるのでしょうか?みなさん、神様は創造者です。すべてのものを造られたお方です。つまり、神様はすべての源であり、神様のところには全てが備えられているということです。神様は金も銀も持っていらっしゃいます。神様は愛と真理と喜びを持っていらっしゃいます。神様は永遠のいのち、豊かな命、そして健康を持っていらっしゃいます。神様はすべてをご存知であり、豊かな知恵があり、神様にはすべての解決があります。そのようなすべての源なる神様と交わることによって、神様からの必要が与えられるということです。だから、イエス様は「私の名前によって、なんでも求めなさい」と言われたのです。でも、みなさん私たちが、神様から何かを求めるために神様に近づくというのは、本筋ではありません。キリストを通して、神様に近づくとは、神との交わり、すなわち礼拝であります。私たちが一方的に「神様、あれください、これください」とやっているうちはまだ子どもクリスチャンです。お父さんが出張から帰ってきました。子どもたちが「パパ、お帰り」と玄関まで迎えます。その次に「パパ、おみやげは?」とせがみます。パパは「ごめん、ごめん、今回は買う時間がなかったんだ」と言います。子どもたちは「なーんだ」と部屋に戻って行きました。子どもたちは、パパよりも、おみやげがほしかったのです。そうではないはずです。おみやげよりも、パパが無事に帰ってきたこと、パパと一緒にいられることが嬉しいんじゃないでしょうか。父なる神様も同じです。私たちが神の息子、娘として御自身と交わってもらいたいのです。こちらからの要求だけではなく、父なる神様からの願いや求めがあるはずです。礼拝とは日曜日の1時間半だけではありません。これは公の礼拝ですが、日々、父なる神様と交わりながら生活する。むしろ、そちらの方が大事なのです。

では、「キリストにある」と逆の表現は何でしょうか?それは、「肉にある」ということです。神様を離れ、自分の力で生きるということです。もし、私たちがキリストにあることを拒否し、肉で生きるならばどうでしょうか?そうするならば、ただちに、この世のものがあなたを支配するでしょう。この世の誘惑、この世の喜び、この世の力があなたを捕まえるでしょう。教会や聖書も全く興味がなくなり、祈ることや賛美もつまらなくなるでしょう。元、キリストにあったものが、キリストから離れたら、ニュートラル(中立)になるのではありません。前よりももっと悪くなるのです。破壊的で、悪魔的で、ひどいものとなるでしょう。なぜなら、その人は、もはや神を恐れていないからです。未信者は神を呪いながらも、どこかで神を恐れています。しかし、堕落したクリスチャンは、神様を恐れず、なめてかかります。私たちは生きている限り、キリストにあることを継続していかなければなりません。キリストにあるなら、神様の守り、神様の助け、神様の力があなたに及ぶからです。ヨハネ15章のぶどうとぶどうの木のたとえは、そのことを分かりやすく教えています。ヨハネ15:5「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」イエス様は、はっきりと「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができない」と言われました。そうすると、私たちは「いや、いや、あなたなしでもできますよ。このとおり」と言うかもしれません。少しあとの、16節には「あなたがたの実が残るためである」と書かれています。そうです。肉でもある程度のことはできます。肉によって人が救われたり、教会堂も立つかもしれません。いろんな奉仕やミニストリーもできるかもしれません。でも、その人が死んだらどうなるでしょう?「ぱーっ」と消えてなくなります。肉で行なうなら、たとえ実を結ぶことがあっても、一時的であり、それが永続しないということです。

私たちはすべての源なる神様、そして唯一の仲介者、イエス・キリストを重んじるべきであります。「キリストにある」とはそんなに派手なことではありません。派手ではないけれど、着実に神様から恵みがやってきます。菜園をやっている人ならばよく分かるでしょう。なす、きゅうり、トマト、かぼちゃ、さやえんどう、えだまめ…いろいろあります。そんな派手ではありません。でも、その実がだんだんと大きくなるのがわかります。キリストによって、神様とつながっていることが大事です。派手ではないかもしれませんが、これが信仰の基本です。アーメン。

2.パウロの祈り

エペソ3:14-16「こういうわけで、私はひざをかがめて、天上と地上で家族と呼ばれるすべてのものの名の元である父の前に祈ります。どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。」パウロは、エペソの人たちのために、何を第一に祈っているのでしょうか?だれかの病気が癒されることでしょうか?金銭的な必要が満たされるためでしょうか?また、何かの問題が解決されるためでしょうか?そうではありません。「あなたがたの内なる人が強くされるように」と願っています。つまり、こういうことになります。あなたがたの内なる人が強くされるならば、病気が癒され、金銭的に満たされ、問題が解決されるということではないでしょうか?箴言にこのようなみことばがあります。箴言4:23「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。」箴言17:22「陽気な心は健康を良くし、陰気な心は骨を枯らす」。旧約の人たちは、心こそが命の源であり、そこから生きる力や知恵が湧いてくると考えたのであります。しかし、新約聖書において、パウロは霊と魂と肉体と3つに分けていますが、この箇所のように2つに分けることもありました。2つに分ける場合は、「内なる人」と「外なる人です」。「内なる人」と言うのは、霊と魂であります。旧訳聖書ではこれらをまとめて、「心」と言ったのではないかと思います。しかし、新約では生まれ変わった霊と魂ですから、全く同じということではないでしょう。また、「外なる人」とは肉体をさしています。みなさんは内なる人と外なる人の2重構造なのであります。

Ⅱコリント4章と5章には、このことがもっと詳しく書かれています。Ⅱコリント4:16「たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。」私たちの肉体、つまり外なる人は、年老いてやがては滅びてしまいます。しかし、クリスチャンの場合は内なる人に聖霊が宿っていますので、日々新たにされていくのです。やがて、内なる人と外なる人が分離するときがきます。おそらくそのときは、私たちは2つの自分を見ることになると思います。1つは病室に死んで横たわっている自分(外なる人)です。いろんな管がまかれているかもしれせん。もう1つは、そこから離れて、部屋の片隅に浮いている自分(内なる人)です。「お医者さんは、時計を見て、何が言っている。ああ、周りの人たちが私を囲んで泣いている!牧師が祈っている。おや、あの人、舌を出して笑っている」。とにかく、内なる人は、ある一定の時間、そこに留まっていると思います。それから、まもなく御使いがやって来て、パラダイスに連れて行ってくれるでしょう。そして、外なる人、肉体は葬られます。でも、イエス様が再び、来られたとき肉体がよみがえり、パラライスにのぼっていた魂と合体するのです。これが、私たちの将来であります。とにかく、現在は、みなさんは、外なる人に、内なる人がまだ留まっている、つまり生きている状態です。世の中の人は、外なる人にだけ関心を払っています。肌の老化を防ぐクリーム、サプリメント、自然食品…スタイルアップのためいろんな運動をします。でも、いくらがんばっても、外なる人は衰えるのです。パウロは、それも大事だけど、「内なる人が強くなるように」と願っています。

では、どのようにしたら内なる人が強くさせられるのでしょうか?内なる人の食べ物、内なる人の運動、内なる人の健康管理というのがあるのでしょうか?内なる人とは、霊と魂の2つであると、さきほど申し上げました。これを解剖学的に2つに分けることは不可能ですが、便宜上、分けたいと思います。まず、霊ですが、これは神様と交わるところであります。霊が目覚めていないと、神様が分からない。賛美をしていても、聖書を読んでいても、またこのような礼拝の時間は退屈になるでしょう。また、霊が聖霊によって生かされているならば、神からの知恵、信仰、愛情、道徳心、そして力がわきあがってくるでしょう。でも、霊だけでは私たちは生きることはできません。霊は魂つまり心に作用し、そして外なる人である肉体にも作用する必要があります。つまり、私たちの霊が健全で神の恵みと力で満たされているならば、魂が健康になり、肉体も健康になるということです。心理学の世界は、感情とか意思の面しか取り扱いません。霊の代わりに潜在意識とか、人格という用語を用いるかもしれません。また、学校教育では知性の発達、そして保健体育でも肉体と精神の発達しか扱いません。つまり、人間が霊的な存在であるということが、オミットされているということです。神様も霊ですが、人間も霊であります。私たちの霊の部分で、神様と交わることができます。また、この霊が目覚めているならば、健全であるならば魂にそして肉体にも良い影響を与えるということです。ときどき、霊の弱い人がいますが、よく病気になったり、怪我や事故を拾います。霊が強いならば、病気や災いを跳ね返して生きることができるということです。

そして、内なる人の魂、つまり心の部分はどうでしょうか?私たちには外なる人、つまり肉体があります。魂は外なる人(肉体)の五感の影響を受けます。それと同時に、霊からの影響を受けます。私たちが救われる前は、すべて外なる人(肉体)の五感を頼りに生きてきました。目に見えること、聞こえるもの、触れるもの、物理的な感覚がすべてでした。しかし、新生すると今度は、五感よりも、霊が何と言っているか霊に聞く必要があります。霊は神様と直結していますから、神様(聖霊)の指示や導き、知恵がやってきます。すると、魂は板ばさみ状態になり、どっちの方に従ったら良いのか混乱してしまいます。では、内なる人が強くなるようにとはどういうことなのでしょうか?内なる人が強くなるとは、肉が弱くなり、霊において強くなるということです。簡単に言うならば、自分の五感や考えも駆使しますが、それ以上に、霊(聖霊)に聞くということです。自分の五感や考えを無視しろというわけではありません。たとえば、車を運転するときは、かなりの面で、自分の五感や考えで運転しています。最近はナビゲーターが車についています。あれは、衛星から自分の位置を知り、さらに地図のデーターをもとに、どこへ進めば良いか教えてくれる装置です。以前の車はそれがなくて、私は地図と感で運転していました。いわゆるカンナビです。でも、今回、カーナビを運転して、「いやー、とても便利だなー。心強いなー」と思いました。渋滞情報をキャッチし新しいルートまで検索してくれます。皆さん、私たちの人生にも、聖霊によるカーナビがあったらどんなに便利でしょうか?神様は未来のことを知っておられます。人間に隠された知恵や知識を与えてくれます。また、霊は私たちの感情に作用し、恐れや怒りを静めてくれます。その代わりに、平安とか愛、希望を注いでくれます。それが、神がともにいる人生であります。私たちは内なる人が強められるように、神のみことばを瞑想しながら、たえず、聖霊なる神様に聞き、そして従う必要があります。すると、だんだん内なる人が強められ、目で見えなくても、耳で聞こえなくても、手で触れなくても、信仰によって歩むことが可能になってきます。

父なる神様は豊かなるお方で、私たちが必要な経済、知恵、力、健康、すべてのものを持っていらっしゃいます。贖い主イエス様は、父なる神様と私たちの間の仲介者であられます。私たちがイエス様の御名によって求めるなら、父なる神様は必要を与えてくださいます。私たちの内なる人が強められ、信仰によって歩む者となりたいと思います。このように私は語ることができますが、この10年間、私は特に3つのことを祈り求めてきました。第一には教会成長です。大勢の人が救われ、日本に御国が来るようにと願っています。第二は経済的な必要です。長男の留学の必要のため、ものすごく祈ってきました。第三は私の皮膚病の癒しのためです。皆さんには、「父なる神様は豊かなる方ですから、イエス様のお名前によって求めるなら、何でも与えられます」と講壇から力強く語ることができます。でも、いざ、自分の問題となったらどうでしょうか?「なぜ、亀有教会はセルチャーチとなることが難しいんだろう。100名礼拝になると宣言したけど、いまだ70-80名じゃないか」。「ああ、アルバイトをやめたけど、なんとかなるのだろうか?本当、もう、頭も下げ、何度、涙したことだろう?お金はどこからやってくるのか?宝くじを買っても当たらないし」。「人には病の癒しをするけど、自分の皮膚病がなおらない。医学的に難しいのは分かるが、神様は、なぜ癒してくださらないのだろうか。いろいろ試したけど効果が現れない」。このように、悶々としたことが何度もあります。今、1つだけ言えることがあります。私たちは祈りが叶うことという結果にポイントを当てる傾向があります。でも、父なる神様はそういう問題を通して、御自身に近づくこと。そして、いろんなことを挑戦しながら答えを見出していくこと。そして、私自身の内なる人がそのようにして強められること。つまり、結果ではなくプロセス(過程)が大事だということです。私たちはすぐ目的地に行きたがります。現代は特にそうです。「問題に対する解決を今すぐ与えてください!」と求めます。でも、父なる神様は、問題を通して、私たちが神様に近づき、いろいろ悩んだり、「ああ、何故なんだ!」と叫んだりする私たちをご覧になっています。ただ、ご覧になっているだけではなく、そういう私たちを受け入れ、もっとすばらしい何かを学ばせようとしておられるのかもしれません。私たちを精錬し、金よりも尊いものにしようしているのかもしれません。

でも、はっきり言えることは、神様は真実だということです。そして、神様は私たちを愛しておられるということです。「キリストにあって、真実であり、愛である神様を仰いで、従っていく」これが信仰ではないかと思います。

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