« 神の住まい       エペソ2:19-22 | トップページ | パウロの確信      エペソ3:12-16 »

2009年8月16日 (日)

その奥義とは       エペソ3:1-11

 夏休みいかが過ごされたでしょうか?私は秋田と岩手に行ってまいりました。秋田は私の生まれ故郷で、岩手は私の家内の実家があります。私の場合は、父も母もすでに亡くなりました。友人もわずかです。私は秋田平野を見ながら育ちましたが、そのはるか向こうに鳥海山を望むことができました。このたび、私だけですが、鳥海山のふもとまで行って、五合目まで登ることができました。家内と子どもたちは岩手に留まり、私は初めと終わり、2日間だけ泊まりました。家内のお母さんは、78歳で、足が随分と弱ってきているようです。お父さんは耳が遠いせいもあり、あまり会話はできませんでした。私の方は秋田平野、家内の方は岩手と宮城の県境の平野です。両者とも広々としています。車で帰るとき、山々や田んぼを見ながら、「緑色がなんとあざやかなんだろう!」と思ってきました。渋滞にもほとんど会わず、帰ってくることができましたことを感謝します。ところで、本日は、エペソ人への手紙3章の初めからであります。

1.その奥義とは

エペソ3章の前半には、「奥義」ということばが5回出てきます。奥義はギリシャ語では、ミュスティリオンと言いますが、「秘密の教え、秘密の計画」という意味です。英語のミステリーの語源です。奥義とは一般には表わされていない、隠されているヒ・ミ・ツなのであります。巻物に書いて、どこか密かに隠しておいて、これぞと思う人にだけに、奥義を明かすのであります。また、その道を究めたいならば、必ずその道の奥義を見出す必要があるでしょう。キリスト教にもいくつかの奥義があります。パウロは惜しげもなく「これが奥義である」と披露しているのが、このエペソ3章であります。では、パウロが言う奥義とは何なのでしょうか? 3:6「その奥義とは、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人もまた共同の相続者となり、ともに一つのからだに連なり、ともに約束にあずかる者となるということです。」どうでしょうか?みなさんは、「わあー、スゲェー」と感動したでしょうか?このことを知って、本当に感動した方はおられるでしょうか?このことが分からないと、救いのありがたみも分かりません。

みなさん、異邦人というのは、外国人とか他国人とも訳されることばです。日本人はキリスト教を「ああ、外国の宗教だろう。日本には日本の神様があるから、間に合っています」みたいに言うかもしれません。でも、それは逆であり、日本人の方が外国人なんです。神様は初め、エデンの園に人を造り、そこから人類が増え広がりました。世界には、たくさんの民族と種族がいますが、もとはと言えば、アダムとエバから生まれたのです。最近の科学でも、細胞のミトコンドリアをたどっていくと、一人の女性にたどりつくと言われています。神様はアブラハムを選び、そこから大いなる国民、イスラエルをおこしました。そして、神様の願いはイスラエルを通して、諸国の民、つまり異邦人を祝福しようと考えたのです。しかし、イスラエルは神様に逆らい、祭司の国の役目を果たせなくなりました。イスラエルの民の中にレビ人がいますが、彼らは祭司でありますが、イスラエルという国だけの祭司です。その歴史が長く続いたために、イスラエルは、自分たちは神から選ばれたんだと、自己満足に陥り、諸国の民に対する目的を忘れてしまったのです。だから、諸国の民も救われるという神様のご計画が、うずもれて、隠されたものとなっていたのです。そこで、使徒パウロが、神様からの啓示を受け、「そうじゃない、異邦人も救われるんだ、異邦人も神の民の中に加わることができるんだ」ということを発見したのです。日本から見たら、キリスト教は外国の宗教だと思うかもしれません。しかし、最初に選ばれた神の民であるイスラエルから見たなら、日本こそ、極東の国、外国だったのです。日本はイスラエルから見たら、ほんとうに東の果てです。旧訳聖書には「日の昇る国とか」「島々」という表現が出てきますが、そこに日本も含まれていると信じます。イザヤ41:1 「島々よ。わたしの前で静まれ。諸国の民よ。新しい力を得よ。近寄って、今、語れ。われわれは、こぞって、さばきの座に近づこう。」旧訳聖書に書かれていることを、パウロは再発見したのであります。

確かに、日本はクリスチャン人口が1%にも満ちません。ある人は「日本は宣教師の墓場である」と言っています。日本ほど、多くの宣教師が来た国もないかもしれません。アメリカ、ヨーロッパ、最近はアジアからも来ています。菅谷先生が牧会している清瀬の教会は台湾からの宣教師がいます。富山の教会は、フィリピン系の牧師です。毛利佐保姉が8月5日から28日まで、豊川というところに神学校から派遣されています。その教会の牧師は、ボリビアから来られている婦人牧師です。ボリビアとは、ペルーとチリの間、ブラジルの西にある国です。そのように南米からも来ているんです。彼らはなんとか、極東の日本にも福音を宣べ伝えたいと願っているからです。みなさん、極東の日本からもクリスチャンが起こされている。その数はたとえ少なくても、これは奇蹟であります。日本は世界でまれにみる高度な教育を持っている文化国です。戦後、たった30年で、GNP第一になったことがあります。日本は明治維新以降、西洋の知識や文化を吸収しました。しかし、この根底にある聖書、キリスト教精神を捨ててしまったのです。「良いとこ取り」であります。日本の政治や教育の方向がなぜ定まらないのでしょうか?根底に思想がないんです。思想というと啓蒙主義とかヒューマニズムだと思うかもしれませんが、人間の理性には限界があります。人間には神からの啓示が必要なのであります。パウロが「啓示を受けた」と何度も言っています。それは、私たちが見ている、読んでいる、聖書であります。神のことばこそが、神からの啓示であります。神のことば、聖書が土台にあるならば、そこから国が持つべきビジョンとか、進むべき道が示されるのであります。

今、もっとも注目されている牧師は、サンディ・アデラジャかもしれません。彼はナイジェリア人ですが、ロシアで学んだのち、ウクライナのキエフの牧師になりました。当時のウクライナは独立こそしていましたが、共産国ロシアの影響下にあり、不正と腐敗に満ちていました。貧富の差が激しく、一生懸命働いても、年金はすずめの涙ほどでした。町には麻薬、売春、犯罪、不道徳も溢れていました。大統領選がありましたが、政府の不正によってくつがえされました。それで、教会が立ち上がり、革命を起こしました。それは暴力ではなく、賛美と祈りの行進でした。そして、クリスチャンの大統領が選ばれ、国ごと変えられていきました。サンディ・アデラジャは黒人だったので、「お前は何しに来た。チョコレート野郎!」と馬鹿にされました。しかし、麻薬中毒の人が癒され、更生しました。親たちは何と言ったでしょう。「肌の色が黒いか、白いか問題じゃない。うちの息子を麻薬から解放したのなら神からのものだ」と言いました。サンディ・アデラジャ師が牧会している教会は2万5千人いますが、99%が白人だそうです。彼は、国連やホワイトハウスでも講演をしていますが、昨年、日本にも来られました。そのとき晩餐会があり、衆議院議員など著名な人たちも集まりました。そのとき、彼はこのようにおっしゃいました。「日本の電化製品は遠くのウクライナにも来ています。テレビや音響機器、家電製品が身の回りにたくさんあります。でも、その製品に必ずくっついているものがあります。それは、その製品のマニュアルです。マニュアルはその製品の使い方だけではなく、不具合が生じたときにどうするかが記されています。私たち人間の神様によって造られました。神様は人間がどう生きるべきか、不具合が生じたときにどうするか書き記したマニュアルも与えました。そのマニュアルとは神のことば聖書です。聖書には個人の生き方だけではなく、国家としてどう生きるべきかも、神のみこころと知恵が記されています。」このように語られました。

幸いに、私たちは新約時代に生きています。旧約時代において奥義であったものが、今や、当たり前のように分かる時代に生きているのです。Ⅰペテロには「それは御使いたちもはっきり見たいと願っていたことなのです」と書いてあります。私たち極東に、「異邦人もまた、神の国の共同相続人なのです」という福音が届いているのです。異邦人の私たちが救われることは、神の奥義であったのです。どうぞ、このことを喜びましょう。私たちも、御国に入らせていただていることを感謝しましょう。もう1つは、私たちは最も伝道が難しい日本に住んでいるということです。これは大いなるチャレンジであります。世界各国から宣教師が派遣されても、ほとんど効果が上がらなかった。では、どうすれば良いのでしょうか?私たちがこの日本の宣教師だということです。今年は、プロテスタント宣教150年ということで教会上げて、お祝いしています。でも、見方を変えるなら150年間、海外のお世話になってきたということです。日本の教会は、外国の講師をお招きして、リバイバルを望んできました。もう、そんな甘ったれたことはやめましょう。

21世紀は私たち日本人クリスチャンが神様の器になって、神様がくださる収穫を刈り取るべきです。サンディ・アデラジャが言っていました、「収穫は心配しなくて良い。問題は働き人である。これまでとは全く違った、神様の方法で福音を伝えるべきである」と。アーメンです。奥義とは、私たち、異邦人が救われることであったことを感謝しましょう。

2.奥義の実現

イエス様は最初から異邦人の救いをお考えになっておられたのでしょうか?イエス様が12弟子を宣教旅行に遣わしたときこのように言われました。「異邦人の道に行ってはいけません。サマリヤ人の町に入ってはいけません。イスラエルの家の失われた羊のところに行きなさい」と命じました。あるとき、カナン人の女性が、「娘を癒してください」と、叫びながら後に着いて来ました。そのとき、イエス様は彼女に一言も答えませんでした。イエス様は「私は、イスラエルの家の失われた羊以外のところには遣わされていません」と言われました。それでも、執拗に彼女が「主よ、私をお助けください」とひれ伏して願いました。結果的には、「パンくずでも良いですから」という彼女の信仰に感動して、娘を癒してさしあげました。また、あるとき、何人かのギリシャ人がイエス様にお目にかかりたいとやってきました。おそらく、「私たちのところに来て、福音をお聞かせください」と願うつもりだったのでしょう。しかし、イエス様は「一粒の麦が、もし地に落ちて死ななければ…」と言って、会うことさえしませんでした。結局、イエス様は猫の額みたいな、パレスチナの地でしか伝道しなかったのです。でも、エルサレムの中で、パリサイ人や律法学者と話しているとき、いくつかのたとえ話をされました。ぶどう園のたとえでは、農夫たちが収穫の分け前をぜんぜん渡そうとしない。それで、主人がしもべたちを何人も送るのですが、彼らを袋叩きにして手ぶらで返しました。最後に、息子を遣わしました。彼らは「あれはあと取りだ。さあ、殺してしまおう」と言って、ぶどう園の外に追い出して殺しました。ぶどう園の主人はどうするでしょうか?パリサイ人や律法学者たちは「農夫たちを情け容赦なく殺して、そのぶどう園を別の農夫たちに貸すに違いありません」と答えました。もう1つは、王子のための結婚の披露宴のたとえ話をしました。あらかじめ招待していた人たちは、婚宴の当日、畑や商売に出て行き、気にもとめませんでした。他のものたちは王のしもべたちを捕まえ、恥をかかせて殺してしまいました。王様は怒って、兵隊を出して、人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払いました。その後、王様はどうしたでしょう。「招待しておいた人たちはふさわしくなかった。だから、大通りに行って、出会った者をみな宴会に招きなさい」と命じました。他にもありますが、一連のたとえ話の中で、救いの招きがイスラエルから異邦人に渡ってしまうということ教えておられます。

では、イエス様から3年半、直に学びを受けた弟子たちはどうだったのでしょうか?イエス様は復活し、これから天にお帰りになるというそのとき、弟子たちに遺言ともとれるような命令を与えました。マタイ28章では「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい」と命じました。マルコ16章では「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい」と命じました。使徒1:8「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」イエス様は御自身があがないを成し遂げてから、弟子たちに世界に出て行きなさいとお命じになられました。でも、弟子たちはどうしていたのでしょうか?使徒の働きを見てもわかりますが、ずっとエルサレムに留まっていました。サマリヤの伝道にでかけたのは、信徒伝道者のピリポでした。そのうち、ステパノのことで迫害が大きくなって、一般の信徒は散らされて、それぞれの場所で伝道しました。そのときも、使徒たちはエルサレムに留まっていました。やがて、アンテオケということころに異邦人の教会ができました。名もない人たちが証ししてできた群がアンテオケです。そして、そこから、はじめて宣教師が遣わされました。それはパウロとバルナバです。パウロとバルナバが異邦人伝道から帰ってきて、宣教報告をしました。エルサレム教会は大さわぎです。「異邦人も信仰によって救われるのか?」「いや、異邦人にも割礼を受けさせ、モーセの律法を守るように命じるべきである」と言う者もいました。結局、異邦人も恵みによって信仰によって救われるということで一致しました。使徒たちは、聖霊様が異邦人を救っておられる現実に、文句を言えなかったのであります。

では、パウロが「聖徒たちの中で、一番小さな私に啓示が与えられ、奥義の実現のために遣わされた」と言っているのは何故でしょう。パウロはイエス様から直接、教えを受けず、十字架と復活も見ていません。だけど、彼は特別に、異邦人に福音を宣べ伝える使徒として選ばれました。パウロはダマスコの途上で復活の主と出会って回心しました。そのとき、この命令も一緒に受けました。使徒26:17-18「わたしは、この民と異邦人との中からあなたを救い出し、彼らのところに遣わす。それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである」。また、パウロは「私の福音」「私が宣べ伝えた福音」と何度も言っています。ガラテヤ書にもありますが、「私が宣べ伝えた福音は、人間から受けたのではなく、ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです」と言っています。神様が、異邦人が救われるという奥義を示した人はパウロであります。もちろん、パウロが発明したのではありません。パウロは、旧訳聖書から言われていること、イエス様が願われている計画を、聖霊によって開かれたのです。使徒ペテロや他の弟子たちは、後からそのことが分かって、世界に出て行くのです。パウロが宣べ伝えた福音、パウロが神様から受けた奥義とは何でしょう。それは、救いは行ないによってではなく、信仰によって救われるということです。ユダヤ人であっても異邦人であってもそれは変わりないということです。ユダヤ教からクリスチャンになった人たちは、どうしても律法を守らなければならない、儀式も重要だと考えていました。それは、「救われるためには行ないも必要だ」ということであります。しかし、パウロは「そうじゃない。キリストの贖いは完全であって、信仰によって神の義をいただくことができるんだ」と主張したのであります。表現を変えると、律法と儀式をパスして救われるということです。

みなさん、パウロが言う福音、パウロが言う奥義ということをご理解していただけたでしょうか?旧約聖書の中で生きてきた人たちは、「律法ではなく、信仰によって救われる」ということが理解しづらかったのです。では、異邦人である、私たち日本人にはどうでしょうか?旧約聖書の教えや様々な律法は不要だとは申しませんが、イエス・キリストを信じるだけで罪赦され、救われるのです。これは福音ではないでしょうか?ヨハネ1:12,13「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神のこどもとなされる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の要求や人に意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである」と書いてあります。現代訳聖書は、このように訳しています。「たとい選民イスラエルでなくても、このキリストを受け入れる人はだれでも神の子どもとしていただける。…キリストを信じる人は、神が生まれ変わらせてくださるのであり、それは、決して先祖や親の身分や地位によるのではなく、人間の願望や意思によるものでもなく、ただ神の御心によるのです」。アーメン。選民イスラエルでなくても、先祖や親の身分がなくても、地位がなくても救われるということです。イエス・キリストはすべての人を照らすまことの光であり、すべての人が救いの対象であるということです。全世界を造られた神様が、全世界の人々を救いたい。そのために御子イエス・キリストを遣わした。これが福音であります。救いの招待状が、あまねく国民に届けられているということです。今回、秋田の実家の裏山に登りました。そこには先祖代々のお墓があります。母は絶対、「父とはお墓を一緒にしないで!」と願っていたのに、改修工事のとき、一緒にさせられてしまいました。お墓には戒名碑があり、9名の人々の戒名と俗名が記されていました。私はそれを見て、神様が与えてくださったご先祖に感謝しました。しかし、私がこういう中から救われてクリスチャンになったことも感謝しました。「恐らく、普通の生き方をしていたならば、戒名と俗名の世界にいたんだろうなー」と思いました。しかし、そういう縄目から解放されて、神のこどもとなることができました。まさしく、「先祖や親の身分や地位によるのではなく、人間の願望や意思によるものでもなく、ただ神の御心によるのです」。アーメンです。

私たち異邦人が救われる。律法や儀式を飛ばして、信仰のみによって救われる。すばらしい恵みが極東の私たちにも届いているということです。救いとは何でしょう。罪の赦し、永遠の命、御国の相続者、神の子の身分、新しい創造、豊かな命、人間関係の回復、敗者復活、意義ある人生…もう、言うことないです。この救いが、遠い極東の日本にも届いていることを感謝しましょう。そして、私たちの目が黒いうち、1000万人が救われ、国が変えられるように願いましょう。

|

« 神の住まい       エペソ2:19-22 | トップページ | パウロの確信      エペソ3:12-16 »