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2009年8月 9日 (日)

神の住まい       エペソ2:19-22

 教会とは何でしょう?エペソ人への手紙のテーマは「教会とは何か?」であります。もし、教会とは何かを知りたければ、エペソ人への手紙を見たら分かるということです。エペソ1章の後半では、教会のかしらはイエス・キリストであり、教会はキリストのからだであると書いてありした。そして、エペソ2章の後半には、2つのたとえで教会とは何かが示されています。まず、教会は神の家族であるとパウロは言っています。その次は、教会は神の住まいとも言われています。

1.神の家族

エペソ2:19「こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。」ここで言われている「あなたがた」とは、だれでしょう。それは、エペソのようなユダヤ人以外の人たち、つまり異邦人です。私たちも異邦人です。だから、私たちもエペソの人たちと同じように、かつては他国人であり、寄留者であったということです。英語の聖書を見ますと、他国人というのはstrangersとなっており、「見知らぬ人、他人」という意味です。また、寄留者というのはforeignersですから、「外国人」という意味になります。みなさん、私たちは天国の人たちから見て、外国人だったんです。ここにいらっしゃる多くの人たちは、日本で生まれ、日本で生活しているので、日本国籍ということをあまり意識していらっしゃらないと思います。でも、日本に来られているフィリッピンの方、中国や韓国、そしてアメリカの方はどうでしょうか?彼らは日本人から見たら、外国人でありstrangersです。おそらく、彼らは日本では肩身の狭い思いをしていらっしゃるのではないでしょうか?これは、きっと、味わった人でなければ分かりません。でも、みなさん、私たちはキリストにあってどうなったんでしょうか?聖徒たちと同じ国民、天国人だということです。ここで言われている聖徒とは、旧訳聖書のアブラハム、ノア、ダビデなど義人といわれている人たちでしょう。また、ペテロやヨハネ、ヤコブなどの使徒たちでしょうか?いや、いや、私たちも彼らと肩を並べられる聖徒たちだということです。ピリピ4章にも書いてありましたが、私たちの国籍は天であります。となると、この地上でどういう人種で、どういう国籍であろうと関係ないということです。先週、賛美しましたが、キリストにあって肌の色は、関係ないということです。だって、もとはアダムとエバから生まれたんです。でも、いろんな事情があってそれぞれのところで、それぞれの言語で生きてきました。でも、キリストにあって私たちは天国人なんであります。ハレルヤ!

使徒パウロは、天国人、イコール「神の家族」だと言っています。教会は神の家族であります。もし、みなさん教会を軍隊にたとえるなら神様はどうなるでしょう。神様は元帥であり、私たちは兵士ということになります。軍隊の目的は国を守り、敵に打ち勝つことであります。また、教会を会社にたとえるなら神様はどうなるでしょう。神様は社長であり、私たちは社員です。会社の目的は利益を追求することです。だから、社員は目標達成のため働かなければなります。教会は会社でしょうか?もし、教会を学校にたとえるなら神様はどうなるでしょう。神様は校長先生であり、私たちは生徒です。牧師はさしずめ教師でしょうか?「教会」とは「教える会」と書きますから、聖書を勉強しなければなりません。学校だったら中退とか卒業もありえます。もし、教会を病院にたとえるなら神様はどうなるでしょう。神様は院長であり、私たちは患者であります。牧師はお医者さんでしょうか?肉体や精神の癒しを行います。薬は新約と旧約があります。でも、なおったら退院します。医者は病人に用があり、健康な人には不要かもしれません。でも、みなさん教会は家族、家庭にたとえられています。教会を家族にたとえるなら神様はどうなるでしょう?神様はお父様です。私たち一人ひとりは、神の家族です。家族というのはどういう関係でしょうか?兄弟姉妹の関係です。家族どおしというのは、遠慮会釈というのがありません。屁もこくでしょうし、パンツ一丁でも構いません。話し合いも非公式です。どうでしょうか?家族で、「何時から居間で一緒に話し合いますよ、集まってください」ということがあるでしょうか?そうじゃないですね。顔を合わせたときに話します。それも、ものすごくストレートに、です。そして、ときどき衝突します。あるときは喧嘩もするでしょう。なぜなら、兄弟姉妹だからです。家族は、自分の弱さや恥、わがまま、自己主張、好みさえも、そのまま出すのではないでしょうか?

どうでしょうか?教会は本当に神の家族になっているでしょうか?私は長い、教会の歴史を振り返ると必ずしもそうでないと思います。初代教会の頃は、神の家族だったかもしれません。使徒2:44-47「信者となった者たちはみないっしょにいて、いっさいの物を共有にしていた。そして、資産や持ち物を売っては、それぞれの必要に応じて、みなに分配していた。そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。」私は、この初代教会こそが、教会の理想だと確信しております。彼らは自分のものも、他人のものも区別がつかないくらい愛にあふれていたのです。物心ともに共有していました。しかし、西暦340年にキリスト教がローマの国教になってから狂い出しました。教会とは聖職者のために存在し、一般信徒は排除されました。教会は制度化し、いろんな儀式、戒律、階級ができました。家族とはほど遠い存在になったのです。マルチンルターが宗教改革をしましたが、まだ儀式や制度が色濃く残りました。しかし、ルターは一緒に食事をしながら弟子たちと交わり、そこでいろんな話をしました。ルターは音楽を愛し、妻を愛し、子どもたちを愛しました。彼が修道士であり、妻が修道女であったとは、とても思えません。しかし、ジョン・カルヴァンは組織と法律によって国教会を整備しました。現代、家族という概念から最も離れている教会は、カルヴァンの改革派と長老派教会と言ったら怒られるでしょうか?これまでいろんな教会の改革がありましたが、20世紀はセルチャーチムーブメントが起こりました。それは共同体の回復であります。

皆さん、創世記1章を見ると、神様はどういうお方であるということが分かるでしょうか?創世記1:26神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。」、1:27「神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」神様は一人の中に、3つの人格を持っておられます。父、子、聖霊なる神が互いに愛し合い、1つになっています。そのかたちに似せて、人を造られました。男と女が愛し合い、家庭を形成する共同体であります。家庭、家族という共同体こそが、神のかたちであります。私たちは「教会はペンテコステの日に誕生した」と言います。そして、教会は神の家族だと言います。でも、その原型は、神様ご自身にあり、神様が創造された家族の中にあったということです。考えてみれば、アダムとエバは家族で神様を礼拝しました。ノアの8人の家族も、洪水で助けられた後、礼拝をささげました。アブラハムも家族で礼拝をささげました。その後、モーセが登場し、荒野に幕屋を設けてそこで礼拝をささげました。その後、ソロモンが神殿を建てて、そこで神様を礼拝しました。ですから、幕屋よりも神殿よりも、家庭が家族が、礼拝の始まりであったということです。ですから、教会は神の共同体、神の家族ということを忘れてはいけません。ついつい、私たちはこの世の社会制度にならって、教会を組織にしようとします。この世の組織は、命が通っていません。使い物にならない人は解雇し、能力のある人が権力の座に着くでしょう。生産を上げることが何よりも重要視され、人間関係は二の次、三の次です。現代は、会社がいやになって出勤できない人が大勢出ています。それは公務員や学校教師も例外ではありません。何が原因なのでしょう?「仕事が大変だ」、それもあるでしょう。でも、それよりも問題なのは人間関係であります。人間関係の難しさが、心を、精神をダメにしてしまうのです。

使徒パウロが「教会は神の家族である」と定義しました。私たちは伝道や奉仕も大切です。立派な建物を建て、すばらしいプログラムを催すのも良いでしょう。でも、「教会は神の家族である」という価値観がなければ、崩壊してしまうでしょう。もし、教会が神の家族であるならば、そこでは互いに愛し合うこと、互いに祈り合うこと、互いに助け合うことが優先されると思います。最近、この礼拝が終った直後、お隣りどおしがなかなか席を立たないで、話し合ったり、祈りあったりする風景を目にします。すばらしいことだと思います。共同体ということばはあまり使わないかもしれませんが、私たちは神の家族という、共同体の真中に神様がおられることを覚えておきたいと思います。

2.神の住まい

エペソ2:20-22「あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり、このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。」新約聖書はギリシャ語で書かれています。家族とか家というギリシャ語は、オイコスです。そして、建物のことをオイコドメーと言います。さらに、建てるという動詞は、オイコドメオーと言います。オイコドメオーは、「強化する、向上させる」という意味もあります。エペソ2:20-22の中には、今、言ったことばが交互に使われています。これは、教会は単なる建物ではなく、「建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となる」というのですから、いのちがあり、成長する神の住まいだということです。イタリアに行くと、サクラダファミリアという教会堂がありますが、200年経ってもまだ完成していません。今も、建築中であります。もちろん、教会は建物ではありませんが、成長しているというところは注目したいと思います。しかし、この世に、有機的な建物、だんだん大きくなって成長している建物ってあるのでしょうか?よく分かりませんが、私たちは神のみ住まいの1つ1つの部材であり、組み合わせられていく存在だということです。もし、1つ1つの部材が、全体像が分からなければどうなるでしょうか?「ああ、私はつまらない1つのブロックです。私なんかいなくても言いのです」あるいは「毎日、どうしてブロックを積みかさせていくのですか。無意味です」。でも、全体像と建物の目的が分かるならば、1つ1つの部材である私たちも生きがいとか、喜びが生まれるのではないでしょうか。ですから、建物から少し、離れて、遠くから全体を眺める必要があります。

まず、神の住まい、建物の基礎部分を見ていきましょう。教会の土台と言っても過言ではありません。エペソ2:20「あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です」。アーメン。私は土木の現場監督をしていましたので、この辺がよーく分かります。建物の一番下は、堅固でなければなりません。一番強い建物は、堅い岩盤の上に建てた構造物です。マタイ7章にも砂の上ではなく、岩の上に自分の家を建てた賢い人のことが書かれています。岩の上に建てたならば、洪水や風が吹いても倒れることはありません。教会をささえる岩、礎石とは何でしょう。主イエス・キリストです。イエス様は礎石であり、隅のかしら石です。主イエス・キリストこそが私たちを罪から贖われた救い主であるからです。では次に、建物の土台の部分は何でしょう?多くの人は、建物の土台を見たことがないでしょう。建物の土台には地中梁という、梁があります。それが柱と壁に直結して、建物全体を受け止めているのです。20節に「使徒と預言者という土台の上に建てられており」と書いてあります。これはどういう意味でしょうか?これは教会の教え(教理)は、使徒と預言者の教えであるということです。イエス様はあまり教理的なことは教えませんでした。教理的なことを教えたのは、使徒パウロとか、ペテロ、ヨハネであります。預言者とは旧訳聖書を書いた人たちと言っても良いかもしれません。ある人たちはイエス・キリストがおっしゃったことばは信頼性があるが、他はそうではないと言います。そうではありません。使徒や預言者が教えたことも同じくらい権威があって、彼らの教えが教会の土台であるということです。残念ながら、自由主義神学は、使徒や預言者を排除して、著名な神学者の教えを土台としました。しかし、それは間違いです。私たちは聖書のことばと使徒たちの教えを教会の土台とすべきであります。人々の教えや神学は変わります。しかし、聖書のことばは天地が崩れ去っても残るのです。

礎石と土台は分かりました。では、その上に建つ建物とはどういうものなのでしょうか?エペソ2:21「この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり…」。私たちが建物であります。建物には柱、壁、梁、天井があります。ドア、窓、階段、棚、いろんな部屋があります。しかし、これは「聖なる宮」と言われていますので、神殿と言った方が良いかもしれません。神殿ですから、台所とかトイレはないかもしれません。ソロモン王は、山から大きな石を切り出して運びました。そして、遠くはレバノンから杉材を運んできました。金や銀をふんだんに用いました。しかし、どうでしょう山から切り出した石、あるいは木材、あるいは金銀をそのまま用いることはできません。設計図どおり、寸法を整え、定まった形に加工しなければなりません。割られたり、削られたり、切られたり、曲げられたり、穴をあけられたり、みがかれたり、たたかれたり…、大変です。テレビで石切り場から石を掘り出し、形を整えるところを見たことがあります。岩山に穴をあけ、そこにダイナマイトを突っ込み、発破。それを定まった形にするのですが、ドリルでいくつか穴をあけ、そこに楔をかませて、「コーン」とたたく。すると、四角い大きな石が「ごろり」。それから研磨機にかけます。最後は「つるっつる」になります。木材の方は皆さんもご存知でしょう。とにかく、材料のまんま用いられないということです。切られたり、削られたり、たたかれたりするのです。かたちを整えられるまでが大変です。自分では「これで良い。これで気に入っているんだ」と思っても、切られてしまう。「嫌、私は、この場所で用いられたい」と言っても、どの場所にもって行かれるかわかりません。それは、神様の設計図次第です。

どうでしょうか?せっかく、救いを受けたけど、神の神殿に組み合わされていない人もいるんじゃないでしょうか?「あの人はよい柱になると思っていたのに」。でも、今も木材として他の場所にころがっているのかもしれません。「あの人は、金のケルビムになると思っていたのに」。でも、今は金の塊として他の場所にころがっているのかもしれません。その人たちは、「いや、私はこれで十分です。神の神殿に組み込まれるのはまっぴらごめんです」と言うかもしれません。もちろん、その人たちは、その人たちなりに目的をもって生きているかもしれません。でも、神様には人の考えをはるかに超えた計画があります。もし、神様が定めたところに、その人が納まったならば、どうでしょうか?本当に、信じられないような働きを果たし、神の栄光を現わすのではないかと思います。一番大切なのは、その人が持っている才能とか賜物ではありません。才能や賜物も大事です。でも、もっと大事なのは「神様の計画とご命令どおり、私を変えてくださっても結構です」という従順さであります。もう1つは、「神様の計画とご命令どおり、どこにでも遣わしてください。どの場所、どの働きでも喜んでやります」という忠実さであります。神様の前の従順さと忠実さ、これこそが、もっともすばらしい品性であります。多くの人たちは、従順さと忠実さが欠けているために、神様のすばらしい神殿に組み合わされることがないのです。

私は自慢するわけではありませんが、大川牧師が言うことはほとんど従いました。ま、全部が全部、神様のご命令だということではないと思いますが、そう信じて従ってきました。掃除、印刷、看板書き、訪問、集会準備…なんでもしました。思い出に残るのが、通訳の奉仕でした。水曜日の祈祷会に、タイ人がゲストに来ました。彼はYWAMの奉仕者で、座間教会に立ち寄ったのです。大川牧師は彼に証をするように依頼しました。そのとき、私が通訳をしたのです。他に私よりもできる人がいっぱいいましたが、私が献身者なので…。私の英語の実力もないこともそうですが、彼の発音がさっぱり分かりませんでした。なんというか、タイ人なまりの英語で、何を言っているのか分からない。「心の中で、早くやめろ!」と叫んでいましたが、彼は30分以上もメッセージしました。証ではなく、メッセージをしたのです。私はその奉仕が終った後、泣き崩れました。恥ずかしさと、みんなに迷惑をかけたという気持ちからです。他にも礼拝のカセットの録音の奉仕をしました。教会員だけではなく、全国からアメリカからも、礼拝のテープの注文が殺到し。1週間200本は録音しました。それを月一度郵送します。地下室にこもり、「早く、人間になりたーい」と叫んでいました。しかし、この礼拝テープが縁で、この亀有教会に招かれたのです。ある人がごみの中から、バイオリンを拾いました。そのバイオリンは弦が切れ、ボロボロの状態でした。しかし、その人はバイオリンの名手で、拾ったバイオリンを修繕し、新しい弦を張り、調律しました。素材が素材だったので、名器とはいえないまでも、良い音色を出すことができました。楽器そのものよりも、弾く人がうまかったのです。拾われたバイオリンとは私のことです。バイオリンの名手とはイエス・キリストです。私は拾われたと思っています。あのままでは、朽ちて終わりだったでしょう。しかし、キリストに見出され、神の宮で奉仕する者になったのです。だから、誇るところは何もありません。

どうでしょうか?みなさんは、「ああでなければならない」「こうでなければ不満だ」「私の思いどおりやらせてほしい」。いろんな主義主張はあるでしょう。もちろん、神様は私たちをロボットで造ったわけではなく、自由意思を与えていらっしゃいます。でも、はっきり言えることは、神様に本当に用いられたいならば、神の神殿であなたらしく用いられたいならば、主イエス・キリストに従うということです。そして、神様の計画と目的に合うように、加工されることに対しても甘んずるということです。その後、きっと、神様はあなたらしい、あなたに合う部署につかせ、用いてくださると信じます。黙示録にまばゆいばかりの神殿のことが記されています。黙示録3:12「勝利を得る者を、わたしの神の聖所の柱としよう。彼はもはや決して外に出て行くことはない。わたしは彼の上にわたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、わたしの神のもとを出て天から下って来る新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを書きしるす。」

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