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2009年8月 1日 (土)

キリストの血によって       エペソ2:11-18

久保有政先生が、「日本のルーツと古代イスラエル」ということを研究しています。テレビをご覧になった方もおられるでしょうか?イスラエルの10部族のある者たちは、シルクロードを渡って西から東へとやって来ました。聖徳太子がいたころ、19万人が日本に渡ってきて、多大な影響を与えました。彼らは「秦氏」と呼ばれています。現在の京都で活躍したので、彼らの名前が残っています。テレビでもやっていましたが、日本の歌やことばの中に、多くのヘブライ語が残っています。たとえば、「ヤーレンソーラン」の意味は?ヤーレンは「歌を歌って楽しくなる」、ソーランは「はしご」。昔、二シンが浜に来るのをはしごで登って高いところから見て歌いました。また、みこしの掛け声「エッサ」は、「運べ」という意味です。ヘブライ語の「アタ」は「あなた」という意味。「バレル」は「はっきりさせる」という意味。「ホル」は「穴」。「コオル」は「寒い」。「ミツ」は「果汁」。「ヘスル」が「減らす」。「ダベル」は「話す」。「ヤドゥルール」は「宿る」。神社の祭儀、仏教の教え、祇園祭りを初め多くの祭り、国技と言われる相撲でさえも、影響を受けているということです。日本とイスラエルは遠いようで近いということです。

1.異邦人とユダヤ人の壁

聖書に「異邦人」ということばが出てきます。イスラエル以外の民のことを、異邦人と言います。では、異邦人とはイスラエルと比べてどのような違いがあるのでしょうか?11節には「無割礼の人々と呼ばれる者」だとあります。割礼とは男性の性器の包皮を切り取ることですが、これはイスラエルの民であるという契約のしるしでした。さらに、十戒をはじめとする律法も与えられました。イスラエルが神様から選ばれたのは、祭司の国として、諸国の民を祝福するためであります。しかし、残念ですが、イスラエルは堕落し、神様の目的を達成することができませんでした。それで、最後に来たのが、イエス・キリストです。キリストはユダヤ人の家系から生まれました。最初に、ご自分の民に、福音を宣べ伝えました。しかし、ユダヤ人はキリストを拒絶し、「十字架に付けろ!」と叫びました。しかし、キリストの十字架は全人類の贖いとなり、救いが異邦人に向けられるようになりました。イエス様のご命令通り、弟子たちは全世界に出て行き福音を宣べ伝え、たくさんの教会ができていきました。幸か不幸か、ユダヤ人よりも、異邦人の方が教会に大勢やってきたのです。同じ教会の中で、異邦人とユダヤ人の壁ができてきました。そのため、パウロはこのように言っているのです。エペソ2:12-13「そのころのあなたがたは、キリストから離れ、イスラエルの国から除外され、約束の契約については他国人であり、この世にあって望みもなく、神もない人たちでした。しかし、以前は遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスの中にあることにより、キリストの血によって近い者とされたのです。」つまり、パウロは異邦人に対して「あなたがたは誇るところは何もないのですよ。かつては他国人で、この世にあって望みもなく、神もない人たちだったことを忘れてはならない」と言っているのです。

 問題なのは異邦人とユダヤ人の間にある敵意という壁です。ユダヤ人は「自分たちは神から選ばれた民である」という自負心があったでしょう。「モーセの律法や聖なる儀式も守らないで、いい気なもんだ」と批判していたかもしれません。一方、異邦人は「あなたがたは神様に従わなかったからそうなったんだ。私たちはキリストを信じて救われた新しい神の民である。これからは私たちの時代だ」と言ったかもしれません。日本は今、「政権交代」で話題が沸騰していますが、対立という面からすると、少し似ているところがあります。ローマ人への手紙11章で、パウロはこのように書いています。「イスラエルが違反したので、救いが異邦人に及んだのです。彼らの失敗が異邦人の富となりました。しかし、異邦人よ、誇ってはいけません。あなたがたは野生種のオリーブであったのに、栽培されたオリーブに接木されたのです。イスラエルは不信仰によって折られたが、栽培種のものは、もっとたやすく自分の台木につながれるはずです。だから、異邦人よ、高ぶらないで、かえって神を恐れなさい」。そのように書いてあります。簡単に言うと、イスラエルがつまずいたので、救いが異邦人の方に回ってきたのです。なんとラッキーなのでしょうか。でも、イスラエルの一部が頑なになったのは、異邦人の完成のなる時までです。終わりの日、異邦人の数が満たされたならば、こんどはイスラエルが救われるときがきます。これが神様のご計画であります。エペソ2:14、15「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ち壊し、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です」とあります。また、16節「敵意は十字架によって葬り去られました」ともあります。つまり、キリストこそが、ユダヤ人と異邦人の隔ての壁を壊し、両者を1つにできるということです。イエス様は、敵意の壁を打ち壊したので、異邦人もユダヤ人も1つになりなさいと願っておられます。でも、残念ですが、キリスト教会は長い間、ユダヤ人を迫害してきました。なぜなら、ユダヤ人がキリストを十字架につけたと思っているからです。一番顕著なのは、ナチス・ドイツがユダヤ人を虐殺しているとき、教会は見てみぬふりをしていたのです。しかし、本来、キリストを十字架につけたのは、私たちの罪であるということを本当に自覚しなければなりません。

 ユダヤ人と異邦人が1つになるようにという運動をしている人たちが何人もいます。まず、ブリッヂフォーピースという世界的な団体があります。「イスラエルとその人々を愛し、クリスチャンとユダヤ人の間に愛の関係を築くために、1976年、エルサレムに設立されました。私たちの願いは、双方がお互いへの理解を深め、神にある兄弟としての関係を構築することです。本来、一つであったはずのユダヤ人とクリスチャンは、神の意志に反して、2000年間にわたって対立してきました。悲しいかなそれは、クリスチャン国によるユダヤ人迫害という歴史の積み重ねでもありました。クリスチャンはこの問題に対し、あまりにも長い間沈黙してきました。ユダヤ人もまた、あまりにも長い間孤立して戦ってきました。今こそ、個人、教派にかかわらず、神の選びの民、ユダヤ人の癒やしのために立ち上がる時です。ブリッジス・フォー・ピースは、お互いを隔てているこの溝に、“平和の架け橋”を築くために献身しています。」また、ピーター・ツカヒラという日系アメリカ人がおられます。彼はイスラエル市民であり、「ケイラット・ハ・カルメル・コングリゲーション(集会)」の牧師の一人でもあります。このコングリゲーションの会堂は、歴史的旧跡であるカルメル山に建っています。会堂は、イスラエルの12の部族を象徴する12個の石、十戒を象徴する10本の柱などが組み込まれ、非常にユニークな建築物となっています。救われたユダヤ人を、メシアニックジューと言ってクリスチャンとは言いません。ピーター・ツカヒラ師が書いた『神の津波』という本があります。「イスラエルは神によって長子として選ばれ、他の国々の手本となるように神の契約を与えられた。これは神がえこひいきされたのはなく、天の父による現実的で主権的な選びである。私たちはイスラエルの従順と祝福から学び、同時にイスラエルの不従順と呪いからも学ばなければならない。私たちの兄であるイスラエルは、信仰の家族から約2000年間も疎外されてきたのだ。父が彼に近寄るときに、私たち異邦人信徒は誉れと喜びをもって兄を迎え入れるだろうか?それとも、彼への父の愛は納得できないと言って憤慨する、あの放蕩息子の兄のようになるのだろうか?」彼はアジア、イスラム、そしてイスラエルにリバイバルが来ると信じています。第一のポイントはかなり話題が広がりましたが、私たち異邦人は誇れるものは何もないということです。主のあわれみによって、遠くにいた私たちにも福音が宣べ伝えられ、恵みによって救われたのです。キリストの血によって、私たちは神様に近いものとされました。このことは、イスラエル、ユダヤ人も同じだということです。

2.私たちの間の壁

エペソ2:14-16「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。」後半は、お互いの中にある壁ということをお話したいと思います。私たち一人ひとりの間に、壁があるとお感じになられませんでしょうか?ある人との間の壁は、5メートルくらいあって、しかも分厚いコンクリートである。しかし、ある人との間の壁は、30センチくらいで、生垣でできている。「私たちの間には壁なんかありません」というカップルがいるかもしれません。しかし、正しい意味での壁、境界線は必要であると思います。それぞれの権利とか責任があって、飛び越えてはならないものがあるでしょう。しかし、問題となるのは敵意の壁であります。それは、拒絶の壁と言って良いかもしれません。親と子、男性と女性、社長と従業員など両者に敵対心があり、なかなか本音を分かち合えないというのが実情ではないでしょうか?クリスチャンになりますと、随分と楽になり、多くの人たちと自分の気持ちを分かち合えるようになります。でも、過去の傷やトラウマが原因して、困難を覚えている方もいらっしゃるのではないでしょうか?たとえば、礼拝の前半に、「さあ、お互いに挨拶しましょう!」と賛美リーダーが言ったとします。「ハレルヤ!」と喜んで、いろんなところへ出かけて挨拶する人もいます。しかし、「なんだか、イヤだなー」という人もおられるでしょう。私もかつては、握手を断ったことがあります。その人が久保有政先生だったんですねー。彼はそのとき神学生で、私はまだ求道者でした。せっかく彼女を連れて礼拝に来たのに、その日が、大川先生じゃなかったんです。年配者の牧師で自慢話をしているように思えたんですね。帰り際に、久保神学生が「ようこそ、おい出くださいました」と手を伸べました。私は怒っていたので、「何で、私があなたと握手をしなければいけないんだ!」とその手を振り切りました。そのときは、クリスチャンは「いつもニコニコしている変な人種じゃないか」と誤解していました。ですから、そういう人たちの気持ちは、よーく分かります。

この世の関係の多くは血縁関係か、利害関係でなりたっています。男女関係というのもありますが、この関係もかなり微妙であります。知らない男性が近づいてくる場合、どういう下心があるか分かりませんので女性は警戒します。学校や職場は上下関係がしっかりしています。ことば使い1つでも気を使います。ですから、日本は本音と建前を使い分けて、生きています。アメリカでは「ハーイ、ジョン」とかファーストネームを呼び合って、フレンドリーな付き合いが得意です。大学教授や牧師でさえも、ファーストネームでOKです。文化の違いってすごいなーと思います。日本は儒教の影響を受けていますので、そういう訳にはいきません。でも、みなさん、イエス・キリストは私たちがお互いに持っている、敵意の壁、拒絶の壁を取り去ってくださいました。なぜならキリストの血は、私たちの良心をきよめ、私たちの心の傷を癒してくださるからです。私たちはキリストにあって1つになることができるのです。私たちは本来、地獄に行くべき存在でした。しかし、キリストによって贖われ御国に入ることができたのです。私たちの関係は、父なる神様のもとで、兄弟姉妹の関係であり、それが永遠の御国まで続きます。ですから、この世の血縁関係とか利害関係ではなく、キリストにある愛の関係です。キリストが私たちの間にいて、両者を取り持ってくださるのです。問題は、私たちが持っている心の中の壁であります。これまで、私たちは自分を守るために、壁を築いてきました。この壁がクリスチャンになったからと言って、すぐ取り除けるものでもありません。「心を開いたとしても、また傷を受けたらどうなるだろう?」「この人は、昔、私を傷つけたタイプによく似ている。気をつけないといけない」「ああ、この人は親切だけど、きっと私を支配する気だわ」「この人と仲良くなったとしても、いつかは、悲しい別れをするんだ」…このような疑いや恐れ、トラウマがあるので、クリスチャンになったとしても人間関係を作るのが困難なのです。

では、どうしたら良いでしょうか?ある教会は、そういう傷とかトラウマに触れないで、表面上のお付き合いで済ませようとします。婦人会、壮年会、青年会…そういうところに出るように勧められます。でも、そこではさしさわりのない話で終ってしまいます。いつか、気の合う信仰の友が見つかるでしょう。全員と交わるのは無理だけど、何かのきっかけで親しくなる兄弟姉妹はいるものです。でも、私はそういう自然発生的な関係よりも、セルチャーチを導入しました。1986年、もう13年にもなります。インドネシヤのアバラブ教会に学び、また日本のセルチャーチネットワークにも所属しています。香港のベン・ウォンは「何よりも関係が大事だ、関係が大事だ」と言います。私はこれまで、「どうぞ勝手にセルを作りなさい」でやってきました。しかし、教会や家庭で分かち合いをするのは良いのですが、「そんなのダメだよ」と裁いたり、教えたりします。本人は、攻撃されたと思って、いっぺんに心を閉じてしまいます。ですから、セルをやるにしても、必ずリスクが伴います。女性の場合は自分の感情を分かち合うのが結構、できます。しかし、男性の場合は、考えとか出来事を分かち合うのはできます。ところが、動機だとか心の傷は押し殺しています。男性も女性もそうですが、もっと水面下にあるもの、隠されているものを分かち合わなければ、癒しも起こらないということです。そのためには、その小さなグループが安全な場所になる必要があります。「自分の恥ずかしいことや失敗を分かち合っても、ここでは大丈夫だ」という安心感が必要です。ですから、その集まりの中でいくつか守るべき、最低のきまりが必要になってきます。1つはエペソ2章には「敵意とは戒めの律法である」と書かれています。つまり、私たちの心の中には、「人はこうでなければならない、クリスチャンはこうでなければならない」という律法があります。その律法を相手に当てると、どうしても裁いてしまいます。律法を全うされたイエス様が、愛と恵みで生きるように命じておられます。ですから、人を裁かないでできるだけ、受け入れるということです。「愛、赦し、受け入れ」こそが、共同体の大憲章、マグナカルタです。もう1つは秘密を守るということです。その場で話されたことは口外しないということです。また、その場にいない兄弟姉妹のうわさやゴシップも、人間関係を壊してしまいます。第三番目は、クリスチャンの先輩から自分の失敗や心の傷を分かち合うということです。そうすると、他の人も安心して、心の奥底に隠した未解決な問題も分かち合うことができます。エペソ5:13 ,14「明るみに引き出されるものは、みな、光によって明らかにされます。明らかにされたものはみな、光だからです」とあります。答えを出さなくても、その場におられるイエス様が解決と癒しを与えてくださいます。

考えてみれば、アダムとエバが神様から離れ堕落して以来、人間関係も壊れてしまいました。夫婦の関係にあつれきが生じました。カインが弟アベルを殺しました。レメクは77倍復讐すると言い出し、争いは民族間へと広まりました。カインはエデンの東に町を建て、自分の子どもの名前をつけました。カインは身を建て、名を上げる先祖でした。また、カインが建てた町には、城壁がはりめぐらされていました。城壁は相手から身を守るためのもですが、同時に、自分も相手の所に行く妨げにもなります。カインの子孫はみな業績志向の人たちでした。ヤバルは家畜を飼う者の先祖になりました。ユバルは立琴と笛をたくみに奏する、芸術の先祖になりました。トバル・カインは工業の先祖になりました。一方、セツの子孫は「主の名を呼んで」関係を大事にしました。聖書にカインの子孫は何をしたか書かれていますが、何歳まで生きたかは書かれていません。一方、セツの子孫は何をしたかは書かれていませんが、「○○年生きて、○○を生んだ。○○を生んで後、○○年生きて死んだ」と書かれています。神様にとっては、何をしたかということよりも、ご自分と関係があったかどうかを記憶しているようであります。私たちは、「自分は何をした、何者である」というカインの子孫の価値観を捨てるべきであります。むしろ、セツの子孫のように、神様と関係、人々との関係を重んじるべきであります。考えてみれば、エデンの園には城壁がありませんでした。なぜ、城壁がなかったのでしょう?それは、神様ご自身が城壁だったからです。そして、その中にいる人たちは、お互いに家族だったからです。今は、家庭や家族が崩壊している時代です。夫の妻の間、親子の間、子ども同士の間が壊れています。家庭が壊れているので、そのことが社会へと展開されています。しかし、キリスト教、神様のみこころは家族が回復することであります。そのためには、まず、キリストにあがなわれた神の家族が必要であります。ここで癒された者が、こんどは肉の家族や職場、地域社会に出て行くのです。クリスチャンであるのに、世の中の人から「鼻つまみ」的存在になるのは、問題があります。もし、私たちが「それは違う、あれは違うでしょう」と世の中をさばくならば、そうなるでしょう。しかし、イエス様と同じように、あわれみの心をもって、人々の痛みや苦しみを理解するならばどうなるでしょう?イエス様は平和をもたらす君でありました。私たちも平和を作る神の子らであります。イエス様はヨハネ13章でこのように言われました。ヨハネ13:34,35「 あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。もし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」伝道はむずかしくありません。私たちが互いに愛し合っているなら、「ああ、あそこに神の国がある、彼らはキリストの弟子だ」と思うでしょう。セルチャーチにするとかしないというのは問題ではありません。私たちはキリストの和解をたいだいた者として、互いに愛し合う。神様との関係と共に、お互いの関係を建て上げる。このような努力を主の恵みによって、進めて行く。そうするならば、御国がこの世でも拡大していくと信じます。

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