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2009年7月26日 (日)

恵みによる救い       エペソ2:5-10

恵みによる救いを意味する物語があります。ある人が深い穴に落ちてしまいました。とても深くて、自分では、はい上がることはできません。そこへ釈迦がやってきました。「ああ、あなたの業がそうさせたのですね。残念です」と悲しい顔をしながら去って行きました。次に孔子がやってきました。「ああ、私の教えを守っていればそんなことにならなかったのに」と悔しそうに去って行きました。その後、一人の人が来ました。だまって、ロープを降ろし、穴の中に降りて行きました。そして、彼を抱え、引き上げてあげてくれました。その方こそ、イエス・キリストです。

1.恵みによる救い

エペソ2:5「罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、──あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです──」2:8「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです」。恵みとはどういう意味でしょうか?恵みとは、受けるに値しないものが受ける賜物(プレゼント)であります。昔は「いさおし(手柄、功績)のない者に与えられる好意」と言いました。恵みと相対するものが、報酬です。報酬とは自分が働いていただく賃金です。これは、働いた者が得る当然の権利です。しかし、救いは報酬ではありません。救いは神からの恵みです。もし、功績や行ないで救いが得られたならどうなるでしょうか?天国では自慢大会になるでしょう。「私はこれだけ、行なったから救われました」。もう一人の人が来て、「あなたは、よくそれで救われましたね。私なんかこのくらい良いことをしましたよ」と言うでしょう。でも、天国は謙遜なところです。「こんな罪深い者でも救われたんです。イエス様はすばらしい。アーメン」。もう一人の人が来て、「いやいや、私なんか箸にも棒にもかからない者でしたが、救われたんです。イエス様は素晴らしい。アーメン」。救いは恵みなので、だれも誇る人がいないんです。罪過と罪との中に死んでいた者たちの運命はどうだったでしょうか?生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。神のさばきを受けて、地獄に行くべき運命だったのです。滅びるのが当然だったのです。しかし、しかし、大きな愛によって救われたのです。これは、全人類が滅びの中にあるにもかかわらず、例外があったということです。まるで、それは死刑囚が特赦を受け、無罪放免になるようなものです。これはサマージャンボ・宝くじで3億円当たるよりも、すごいことなのです。一生涯、喜ぶべきことなんです。

残念ですが、日本人は神の恵みを知りません。日本には恵みということばはあります。海とか山、大地の恵みとは言います。でも、神の恵みを知りません。世界で日本ほど勤勉な国民はいないでしょう。朝早くから、夜遅くまで働いています。一週間、休まないで働いている人もいます。現在は、主婦の方もパートで働いています。家のローンを払わなくてはなりません。「教会なんか、金持ちか、よっぽど暇な人がいくところだ」と思われているのかもしれません。でも、どうでしょう?日本のGNP(国民総生産)は世界第二位です。日本は経済大国です。でも、国民一人あたりの所得となると18位くらいになります。日本人は「ワーキングプア」と言われています。一生懸命働いているわりには貧しいのです。それに比べ、人あたりの所得が高いのが、欧米諸国です。彼らは日本人よりもそんなに働いていないのに金持ちなんです。なぜでしょう?私は経済の専門家でありませんので何とも言えませんが、日本の円がどんどん海外に流れていることは確かです。韓国のチョー・ヨンギ先生は「日本人はあれだけ働いているのに、うさぎ小屋に住んでいる。日本はまことの神様を信じていない。だから、日本人がかせいだお金は、神様を信じている国に流れるんだ」と言いました。勤勉だから良いというのではありません。まことの神様に立ち返り、神様の恵みの中で勤勉であることが大切なのです。詩篇127篇「主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい。あなたがたが早く起きるのも、おそく休むのも、辛苦の糧を食べるのも、それはむなしい。主はその愛する者には、眠っている間に、このように備えてくださる。」私たち日本人は、天地を造り、今も保持しておられるまことの神様を信じるべきです。もうすぐ選挙があります。多くの人たちは政党が変わったら、なんとかなると思っています。でも、どれほど変わるのでしょうか?私は「天地を造られた、まことの神を恐れ、神を愛し隣人を愛する政治」をマニフェストにあげたいですね。そのような国になるように祈りましょう。

ところで、恵みによる救いと対立するものに、律法(行ない)による救いがあります。旧訳聖書は律法による救いについて教えています。すべての律法を守るならば、かごもこね鉢も祝福されると申命記28章に書かれています。一方、律法を破るならばどうなるでしょう?あなたは町にあってものろわれ、野にあってものろわれると書いてあります。なんと祝福よりも、のろいの方が3倍も多くあります。律法で救いを得ようとする者は、全ての律法を守らなくてはなりません。1つ欠けがあってもだめです。いつも、100%でなければなりません。果たしてこんなことが可能でしょうか?でも、多くの人たちは自分の行ないで救いを得ようと、シナイ山を上っています。しかし、だんだん、だんだん険しくなります。もう、山がせせり立ち、自分におおいかぶさってきます。そこは雷と地響きが鳴り響く、恐ろしい山です。でも、あわれみ深い神様は律法とは別の道を示してくださいました。それは、キリストを信じる信仰の道です。イエス・キリストが私たちの代わりに律法を全うし、同時に私たちに対する律法の罰とのろいを負ってくださったのです。神様はキリストを信じる者に、神の義を与えると言われました。ローマ3:24「ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです」。テトス3:5「神は、私たちが行った義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました」アーメン。神の義は、完全無欠であり、100%の正しさです。これはだれもその基準に達することはできません。でも、イエス・キリストを信じるなら、神様はご自分の義をその人にプレゼントしてくださるのです。皆さんは、自力で救われる道を選びますか?それとも、恵みによって救われる道を選ぶでしょうか?「行ないではない、キリストの恵みによって救われる」。これが福音であり、新約聖書のメッセージです。

神からの救いはもう完成されているのです。ですから、私たちはもう、これに何も付け加える必要はありません。もし、私がそれに何かを足したり、変更したら台無しになってしまうでしょう。しかし、残念ながらキリスト教会はそれをしてきたのです。たとえば、教会に来なければならない、聖書を読まなければならない、個々の罪を悔い改めなければならない。30年くらい前、私が救われて間もない頃、ある先生のメッセージを聞きました。その先生はイエス様を信じるとき、今まで犯した罪を悔い改めました。若い頃、キセルをしたことを思い出し、駅に行ってお金を持って行ったそうです。駅員さんは、こんな正直な青年は見たことがないと赦してくれたそうです。他に、自分が悪いことをした人たち、一軒、一軒、謝りに行ったそうです。また、ある先生は、伝道集会でイエス様を信じました。宣教師から、今晩、お家に帰ったら、「お父さん、お母さんにイエス様を信じたことを報告しなさい」言われました。彼は勇気を振り絞って、そのことを報告しました。するとお父さんから大外狩りで畳の上に倒され、「仏壇を拝め」と頭を上から押さえつけられたそうです。昔は、キリストを信じたなら、「罪を悔い改めなければならない」とか「公に告白しなければならない」と命じた教会もあります。しかし、それは恵みによる救いではありません。私たちが罪を悔い改めるというのは、これまで犯した個々の罪ではありません。「私は神様に背いて生きて来たけれど、こんどはイエス様を信じて行きます」という、方向転換という意味の悔い改めです。教会に行くとか、聖書を読む、あるいは個々の罪を悔い改めるというのは、救われた後に行なえば良いのです。救われたらそういう力が出てきます。ですから、救いは神の恵みによって与えられるのです。そこに人間の行ないを付け加えてはなりません。エペソ2:8「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです」。アーメン。

2.恵みによる行ない

エペソ2:10「私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。」英国の聖書は「私たちは神の手作りであり、私たちが良い行ないに身を捧げるために神様がデザインしたように、キリスト・イエスにあって創造されたのです」。新共同訳はこのように訳しています。「なぜなら、私たちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。私たちは、その善い業を行なって歩むのです」。神様がなさってくださったことは何でしょう?神様は私たちを創造してくださいました。しかも、それは手作りです。製品ではありません。製品は規格や形が定まっていますが、作品は1ヶ1ヶ違います。たとえば、かっぱ橋に行くとお茶碗や湯のみ茶碗があります。業務用に使うために、同じものが50個とか、100個必要な場合はあそこへ行くと良いですね。でも、あの器は製品です。一方、どこかの釜で焼いた、茶器があります。ちょっといびつです。磁器と違って、ごつごつしています。しかし、名の通った人が作った器は、数十万円から数百万円もします。私たちは製品ではなく、神の作品です。すこしいびつでも良いんです。人と違って良いんです。ごつごつして良いんです。また、性格や才能、好みも一人ひとり違います。ハワイのウェインコディーロは、神のデザインということを言います。「私たちがどこに住み、どの時代に生を受けるのか、神様は明確な意志を持って、決められたのです。神様は、あらかじめ私たちが歩むべき道を備えてくださり、私たち一人ひとりに計画をもっておられます。しかし、それが何であるかを見つけ、その道を歩むことは私たちの責任です。天国に入ることだけが、神様があなたを救われた理由ではないのです。神様はあなたを通した働をなさりたいのです。」デザインコースでは、自分の性格とか能力、神様からの賜物・・・いろいろチェックして、その人が一番あった奉仕ができるようにお手伝いします。一般的には、「自分は人間関係よりも仕事好きなので、もっと人間関係作りに時間をかけなければ」と思うでしょう。しかし、デザインコースでは、その人の特徴を変えないで、仕事好きの人が向く、設営などの作業にあたってもらいます。逆に、人間関係作りに長けている人は、受付とか、アッシャーに回ってもらいます。これまで、日本の教会は、使命をものすごく重視しました。ある場合は、自分がそれに向いていなくても使命感だけでやってきました。しかし、神様がデザインしたそれぞれの賜物を活かすなら、楽しくできるのではないでしょうか?

しかし、ここで忘れてはならない表現は、「キリスト・イエスにあって造られた」ということです。これは、「生まれつきで良いよ、ありのままで良いよ」ということではありません。Ⅱコリント5:17「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」「キリストにある」という意味は、キリストに接木されるということです。台木がイエス・キリストであり、私たちはキリストに接木されたということです。私たちはこれまで生まれつきの木で根を張り、自分の力で生きてきました。しかし、それが根元から、ばっさり切られてしまいました。一度、私たちは死んだのです。それからどうしたんでしょう。イエス・キリストという木に、接木されたのです。そうしますと、養分というか命の源はどこから来るのでしょうか?そうです、イエス・キリスト様から来るのです。しかし、私たちが、たとえキリストに接木されたとしても、ただちに良い実を結ぶことができるのでしょうか?私たちは、古い源を断ち切られ、新しいキリストに接木されました。でも、私たちの内にある罪の性質はどうなるのでしょうか?まだまだ、クリスチャンになったとしても不完全で、再び罪を犯すでしょう?でも、「キリストにある」とは、神様が計画されたように私たちが回復するということも含まれると信じます。イエス様とつながっていれば、罪がきよめられ、あるところが癒され、栄光から栄光へと、主の似姿に造り変えられるのです。ハレルヤ!私たちにはクリスチャンになる前の記憶があり、心の傷があり、トラウマも残っています。弱さや罪の性質もあるでしょう。でも、古い源を断ち切られ、新しいキリストに接木されました。そして、日々、神様がデザインしたように私たちは変えられているのです。そうしますと、自分の生まれや育ち、いやだった過去、失敗や過ちも、「感謝だなー」と思えるようになります。そして、これまで、決して受け入れられなかったことが、キリストにあって受け入れられるようになります。

私は物心ついてから、父や母に感謝するということがほとんどありませんでした。「あんなのは私の父でもない、母でもない。私の父は空であり、私の母は海である」と高校生の頃、思っていました。クリスチャンになってから、父なる神様が与えられ、神様に感謝をささげました。今から10年くらい前に、酒乱の父を赦しました。しかし、自分を生んでくれた母には感謝したことはありませんでした。私は「決して、死ぬもんか!」と、必死に生き延びてきました。でも、この間、はじめて、「お母さんに、生んでくれてありがとう」と言えました。先週の21日、柴又の花火大会がありました。ドカンドカンと音がするので、雨が降っていましたが自転車で行きました。もう後半でしたが、最前列で花火を見ることができました。花火を見ながら、「ああ、こうやって生きているから見ることができるんだなー」と思いました。「そうだなー、生んでくれたお母さんにも感謝しなくちゃならないなー。お母さん、俺を生んでくれてありがとう」。雨と涙でほほをぬらしながら言うことができました。そして、翌日22日、練馬教会でJCMNの会議がありました。帰りが遅くなり、亀有のラーメン屋さんに寄りました。注文した、大盛りの味噌ラーメンが目の前に出てきました。「ああ、こんなの食べられて幸せだなー」と思いました。食前のお祈りのとき、「お母さん、俺を生んでくれてありがとう」と言うことができました。2回目です。それから、自分の顔を見て、「とてもハンサムで、いい男だなー」と思えるようになりました。みなさん、これがキリストにあるということではないでしょうか。今まで、自分にないものばかり目にとめてきました。しかし、キリストにあるならば、「自分も神の作品で、良いものがたくさんある」と気がつくのではないでしょうか?

 ですから、イエス・キリストを信じたなら、「生まれや育ち、過去のものを全部、捨てて新しくなれ」ということではありません。私たちがどこで生まれたのか、どのような家庭で育ったのか、どのようなことを勉強したのか、どのようなことをしたのか・・・。そういう自分の歴史、これも神様が備えて、導いてくださったのではないでしょうか。もちろん、その中には失敗や人から受けたいやなことがたくさんあります。神様は、本当は願っていなかったことも起こりました。パソコンでしたら、そこを削除して、きれいさっぱり忘れたいようなこともありました。何十年も前に起こったことを、時々、思い出してしまいます。もちろん、過去を塗り替えることはできません。起こったことは起こったことです。でも、私たちの神様は、キリスト・イエスにあってそれらを益に変えてくださるお方です。真珠はどのようにしてできるかということを聞いたことがあります。あこや貝の口を無理やり開けて、異物を埋め込みます。貝にとっては迷惑以外の何物でもありません。痛いし、ごろごろして邪魔になるでしょう。でも、貝は分泌物を出して、その異物を覆います。するとそれが何年もたつと、美しい真珠が形成されます。いわば、その真珠は貝の涙であります。神様は、私たちの苦しみをご存知でした。できれば、そうはさせたくないと思ったことでしょう。でも、私たちの思いをはるかに超えた、神様の御手と計画がありました。そして、そのマイナスが、いやな出来事が、こんどは美しい真珠になるのです。神様はそのことをご存知だったので、いやな出来事が起こるのを許可されたのです。「神様、ひどいじゃないですか、どうしてあのとき助けてくれなかったのですか?」と言いたくもなるでしょう。でも、そこを通過することは、私たちに対する神様の計画だったのです。悲しくて、辛い経験から生まれる真珠こそが、人々の救いのためにお役に立つのです。父なる神様の願いは、一人でも多くの人が救われて、本来の生き方を取り戻すことです。神様はそのために何をするのでしょうか?神様は私たちを用いたいのです。傷ついて修復された私たちを、罪赦されてきよめられた私たちを、失敗して立ち直った私たちを、どん底から救い出された私たちを、無価値であったのに価値あるものとして見出された私たちを、まるっきり期待されなかったのに期待される者となった私たちを。この間、すずめの学校ライトコースで学びました。神様は救いを知らせるために、天使を用いることができません。なぜなら、天使には贖われた経験がないからです。神様が用いることができるのは、罪があがなわれた人間だけです。私たちは神の作品です。ひとりひとり違った手作りです。少々いびつでも良いのです。欠けたところがあっても問題はありません。なぜなら、イエス・キリストという宝を持っているからです。

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2009年7月19日 (日)

死んでいたもの   エペソ2:1-6

先週、梅雨が明けたようです。いよいよ、本格的に暑くなります。私たちは、信仰的に篤くなりたいと思います。使徒パウロは、救われる前の人、つまり人間の生まれながらの状態を何と言っているでしょうか?エペソ2:1「あなたがたは自分の罪過と罪との中で死んでいた」と書いてあります。罪過とは、過失など知らないで犯した罪です。また、罪は「的はずれ」という意味ですが、神の基準に達していない、あるいは神の目的からはずれているさまざまな行為です。その頃は、肉体的には生きていたかもしれませんが、神様から離れて、霊的に死んでいる状態であったということです。

1.死んでいたもの

霊的に死んでいるとはどういう状態なのか、3つあげられています。①第一番目の状態は、この世の流れに従い、肉の欲、肉と心の望むままを行なうということです。エペソ2:2「そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い」とあります。また、2:3「私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行なっていた」と書かれています。「この世の流れに従う」とは、まるで魚が死んだ状態です。ときどき、死んだ魚が川の上に浮かんでいるときがあります。魚が生きていれば、流れに逆らって進むことができます。でも、死んだ魚は流れのまま、流されていきます。「この世の流れ」とは、この世のしきたりとか、この世の価値観に流されて生きるということです。当然、「真理と命を求めて、キリストを信じる」ということは論外です。なぜなら、日本には日本の宗教やしきたりがあるからです。そして、「どういうことをするか」というと自分の欲、自分の心の望むまま生きるということです。「肉」とは神様に頼らないで、自分の考え、自分の好み、自分の力で生きることであります。肉の中には醜いものだけではなく、美しいものもあります。でも、根本的には神様を度外視する、自己中心であります。では、肉はどんなことを求めるでしょう?金持ちになりたい、おいしいものが食べたい、楽しいことをしたい、偉くなりたい、知恵と知識を得たい、才能を伸ばして有名になりたい、大邸宅に住みたい、多くのそばめを得たい・・・ソロモン王は言いました。「私は、私の目の欲するものは何でも拒まず、心のおもむくままに、あらゆる楽しみをした。私が手がけたあらゆる事業と、そのために私が骨折った労苦とを振り返ってみると、なんと、すべてがむなしいことよ、風を追うようなものだ」(伝道者の書2:10,11)と。

しかし、神様から離れた魂には平安がありません。そして、心の中には悪いものがたくさんつまっています。欲望、むさぼり、怒り、憎しみ、ねたみ、悲しみ、孤独感、劣等感、くやしさ、罪責感があるでしょう。でも、そういうものさえも、生きるバネにして、「クソー、負けるもんか!」とやってきました。とにかく、「生きているうちが花で、死んだらおしまい」とやってきたのです。しかし、心の中は満たされることはありません。人の評価や目を恐れ、あるいは不条理の中で、もがいて生きているんじゃないでしょうか?若いときはそれで良かったかもしれませんが、年齢とともに、「どうせこんなもんだ!器じゃなかった!悪いのはあいつだ、あいつのせいだ!」と言って、諦めてしまいます。でも、救われる前は、そういう感覚がありませんでした。できるだけ感じないで、無感覚で生きて来たのではないでしょうか?感じると辛いので、すべてを心の底に押し込んで、何もないように生きて来た。しかし、押し込んで沈めたはずのものが、しょうこりもなく「ぷかー」と浮かんでくる。それが、怒りであったり、悲しみであったり、空しさであったりします。これが、神から離れて、霊的に死んだ状態です。

②第二は、空中の権威を持つ支配者とその霊に従って歩んでいたということです。「空中の権威を持つ支配者」とはサタンのことです。霊的に一番高いところは、天であります。そこには御座があり、父なる神と御子イエスがいらっしゃいます。そして、この地上は私たちが住んでいます。そして、天と地上の間にあるのが、空中であります。空中と言っても、物理的なものではなく、霊の世界におけるものです。そこにサタンともろもろの悪霊、さらには天の御使いがいます。サタンと悪霊どもは、地上に住んでいる私たちを圧迫し、誘惑します。彼らの目的は、人々をできるだけ救いから遠ざけ、できるだけ多くの罪を犯さることです。彼らは神様には負けますが、神が造った人間を攻撃することによって、神の御名を引き下げることができます。神から離れた人間が罪を犯して、神の栄光を現わすことをできなくなる。これがサタンと悪霊の策略です。彼らは、人間が持っている、欲望、怒り、憎しみ、悲しみ、心の傷に働きかけて、罪を助長させます。たとえば、人が心の中に、怒りやうらみを持っていたとします。そこへサタンがやってきて誘惑します。すると、人は機会が訪れたときに人を殺したり、破壊的なことをします。最近の通り魔殺人や無差別殺人が起こっていますが、背後に悪霊が手助けしていることでしょう。また、人の心の中に悲しみや失望感が満ちている場合はどうでしょうか?様々な精神病を助長し、最後は自らの命を絶つように仕向けます。また、人の心の中に欲望やむさぼりが満ちていたらどうなるでしょうか?サタンが来て、盗みや姦淫を犯させるでしょう。このように人の心の中に解決されていない罪や癒されていない心の傷があると、サタンと悪霊が足場にして働くのです。

エペソの町は小アジア第一の商業都市であり、アルテミスの神殿が祭られ、様々な偶像崇拝や魔術がなされていました。使徒の働き19章に書いてありますが、彼らがイエス様を信じた後、実際にやっていることを悔い改めました。使徒19:19「また魔術を行っていた多くの者が、その書物をかかえて来て、みなの前で焼き捨てた。その値段を合計してみると、銀貨五万枚になった」とあります。今のお金に換算すると、5,000万円です。5,000万円相当の魔術や占いの本を焼き捨てたということです。相当なもんです。「ハリー・ポッター全集」がその中に入るでしょうか、入らないでしょうか?私は文学的には否定しませんが、その背後にある魔術は、神様の法則に反するものです。日本はエペソと同じように、偶像崇拝の国です。神社参拝、先祖崇拝、様々な新興宗教、占い、お守りが満ちています。テレビでは毎朝、どの局でも、占いを報じています。多くの占いは確立から生まれたものですから、ある程度は当たります。でも、当たるからとはまり込むと大変です。その人は恐れに縛られ、ジンクスに支配されるでしょう。「災いや苦しみを遠ざける」ことは、「主の祈り」にもありますから良いことです。でも、まことの神様は、私たちを成長させるために、時には試練を通されることもあります。占いは、苦しみを避けるという、薄っぺらい人生しか与えてくれません。しかし、本当の信仰は、苦しみを神様と一緒に乗り越えることによって、そこから宝を見出すことができます。悪魔のやり方は、最初はおいしいものを与えます。病気を治したり、商売も繁盛させるでしょう。でも最後は、その人の魂を奪うのです。イエス様はこのように言われました。ヨハネ10:10「盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。」

③第三は、神の怒りを受けて当然の者でした。

 エペソ2:3後半「ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした」。これは、罪を犯した魂は、やがて神の前に立って、裁きを受けるということです。時々、引用しますが、伝道者の書にもこのことが書かれています。伝道者の書11:9 「若い男よ。若いうちに楽しめ。若い日にあなたの心を喜ばせよ。あなたの心のおもむくまま、あなたの目の望むままに歩め。しかし、これらすべての事において、あなたは神のさばきを受けることを知っておけ。」神様は、「なんでも好きなことをやっていいよ、でも、神のさばきを受けることを知っておけ」とおっしゃっています。これはレストランの食事と同じです。私たちはレストランに入って、何でもいただくことができます。オードブルから始まり、スープ、フィッシュ、ワイン、ステーキ、最後にデザート。「ああー、おいしかった。帰ろうかなー」。でも、そのままでは帰れません。レジを通らなくてはなりません。同じように、私たちも人生の終わり、生前にしたこと、やったことの清算をしなければならないのです。イエス様を信じている人は、パスできますが、そうでない人は自分だけで、神の前に立たなければなりません。神様は100%正しい義なるお方です。果たして私たちの行ないで神様の義に立ち向かうことができるでしょうか?神の義に達していない人は、永遠のさばきを受けるしかありません。これがキリストのいない人の運命です。

2.大きな愛

 エペソ2:4-6「しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、──あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです──キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。」私たちはこの「しかし」があるから、やって行けるんです。「しかし」は、前の事柄をくつがえすための接続詞です。私たちは霊的に死んで、肉の望むままを行ない、サタンに支配され、神のさばきを受けるべき存在でした。「しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに」です。神様はあわれみ豊かであり、大きな愛によって、私たちに何かをしてくださいました。「大きな愛」とは、どういう意味でしょう。それは、神様の一方的な愛、無条件の愛、犠牲的な愛です。父なる神様は、罪の中にいて滅びに向かっている私たちに、御子イエス様を地上に送ってくださいました。御子イエス様は、神の栄光を捨てて、人間となり、十字架にかかってくださいました。十字架はその当時、もっともむごたらしい死刑の道具でした。イエス様は裸にされ、釘打たれ、さらしものにされました。人々はみんなイエス様をあざわらい、のろい、つばきをかけました。何故、罪のないお方が十字架にかかる必要があったのでしょうか?それは、私たち全人類の罪を背負ったために、神からさばかれ、地獄に落とされたのです。イエス様は「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになられたのですか」と叫ばれました。そして、「すべてが完了した(贖った)」と言って息を引き取りました。つまり、イエス様は、私たちの罪を贖うために十字架で死なれたのです。このところが、キリスト教において最も難解なところであり、最も重要なところであります。「イエス様が他の誰でもない、私の罪ために十字架で死んでくださった。アーメン」。この信仰が、神様と私たちを結びつける、唯一のものであります。この信仰がないと、神様と私たちとは何の関係のないものになります。神様のこの大いなる愛を受け取る者が、救いを得ることができるのです。これは、行いではなく、神の恵みであります。恵みのことは、来週、お話したいと思います。

 でも、ここで、さらに分からないことが書かれています。罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、・・・キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。」とあります。キリストが復活し、昇天したのは分かります。でも、パウロはそうじゃない、「キリストにあって、あなたも復活し、昇天したんだよ」と言っています。きょうは、めでたくも、いみじくも、洗礼式があります。洗礼とはバプテスマと言いますが、ギリシャ語の意味は、「キリストと一体になる」ということです。水が多い、少ないではありません。ローマ6章にこう書いてあります。ローマ6:4、5「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。」私たちは、キリストの中に、一体化することによって、キリストと共に死んで、葬られ、さらには復活するということです。クリスチャンとは古い自分に一度死に、キリストと共に新しくよみがえった存在です。ハレルヤ!牛乳の1リットル入りがスパーで売られています。パッケージをよく見ると、2秒間殺菌と書いてあります。原理はよくわかりませんが、牛乳が高温のところを通過することによって、殺菌されるのでしょう。簡単にいうと、2秒前の牛乳と、2秒後の牛乳は違うということです。バプテスマ、洗礼も同じです。キリストと共に死んで、葬られ、復活する。2秒かどうか分かりませんが、古いものは過ぎ去り、新しくなるのです。もちろん、過去の記憶はあります。でもそれは、新しい被造物であります。

 エペソ2章には「それは、復活だけではない」と言っています。「キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。」とあります。「キリストと一緒に天にのぼり、天のところで一緒に座っているよ」ということなのです。信じられるでしょうか?私たちの肉体は確かにこの地上にあります。空中にはサタンや悪霊がいます。でも、私たちは霊的にはどうでしょうか?天の御座に父なる神さま、イエス様、そして私たちもいるということです。もし、私たちが霊的に天の御座にいるならば、空中の権威を持っているサタンより高いところにいるということになります。ハレルヤ!つまりこれは、私たちが神の子という身分が与えられ、それはサタンよりも権威があるということです。だから、私たちは悪霊を怖がらなくても良いのです。本当は、悪霊の方が私たちを怖がっているのです。せっかく、クリスチャンになったにも関わらず、この事実を知らない人がたくさんいます。「悪霊はこんなことをする、悪霊がこんなことをした」と悪霊のことばかり、話題に上げている人がいます。どうかお願いします。悪霊に栄光を与えないで、主イエス・キリストの話をしてください。祈るとき、まるで自分が地の底にいて、はるか天におられる神様に向かって「神様―」と、叫んでいる人がいます。確かに、旧約時代はそうだったかもしれません。しかし、新約の私たちは違います。私たちは霊的には、神の御座にいるのです。目をつぶると、すぐ隣にイエス様、そしてイエス様の向こうには父なる神様がおられます。だから、叫ばなくても聞こえるんです。「イエス様」とまるで、50センチくらい離れた距離に、イエス様がおられると思って良いのです。50センチ、口臭が気になる距離かもしれません。それくらい私たちは、イエス様と近しい関係になっているのです。はるか下を見下ろすと、自分が住んでいる日本が見えます。

グーグルの地図を開くと、アジアの中の日本がぽつんとあります。「東京」のところを何回かクリックすると、葛飾区が見えてきます。亀有をクリックすると、「田中米作商店」があります。その左をクリックすると「日本基督教団亀有教会」。すると突然、ストリートビューになり、通りと建物が見えます。「おっつ、亀有教会だ!だれが、いつ撮ったんだろう」。また、航空写真にすると、こんどは上から見えます。縮尺を変えていくと、東京都が見えます。そして、関東地方になり、日本列島になります。これを霊的に考えるとどうでしょうか?神様は私たちのことを上から見ておられます。でも、見ようと思えば、ぐぐぐーと寄って、人間までも見ることができます。そうです。あなた自身と、あなたの心の中も、わかるんです。会社にいるとき、おうちにいる時、電車の中、どこでもわかるんです。「えー、本当ですか?」という人。詩篇139:7-12「私はあなたの御霊から離れて、どこへ行けましょう。私はあなたの御前を離れて、どこへのがれましょう。たとい、私が天に上っても、そこにあなたはおられ、私がよみに床を設けても、そこにあなたはおられます。私が暁の翼をかって、海の果てに住んでも、そこでも、あなたの御手が私を導き、あなたの右の手が私を捕らえます。たとい私が「おお、やみよ。私をおおえ。私の回りの光よ。夜となれ」と言っても、あなたにとっては、やみも暗くなく夜は昼のように明るいのです。暗やみも光も同じことです。」でも、どうでしょうか?あなたは神様が私のことを何でもご存知であるということが慰めになるでしょうか?それとも、脅威となるでしょうか?「恥ずかしい、イヤだ!」と思うでしょうか?もし、私たちがイエス・キリストの十字架の血しおによって贖われているなら、どんな状態でも安心です。私たちはどんなに醜い罪もイエス様の十字架の血によって、赦されているのです。赤ん坊がうんちをしました。けっこう広がっています。におっています。お母さんは「ああー」と少し驚くでしょうが、すかさず、うんちを片付けてくれます。最後に、濡れナプキンできれいに拭いて、新しいおむつをしてくれるでしょう。赤ちゃんはちょっと恥ずかしかったかもしれません。でも、お母さんを信頼していますから、全部、任せています。お母さんはお母さんで、もう覚悟をしていますから、どんなにきたないうんちでも受け入れます。イエス様も同じです。私たちの全ての罪、汚れ、恥、悲しみ、痛み、病をも受け止めてくださいます。キリストによって神と和解した魂には平安があります。たとえ、今晩、心臓が止まっても、神様の前に立つことができます。なぜなら、私たちを、弁護をしてくださる贖い主、イエス様が間に立ってくださるからです。「私に免じて赦してください」とイエス様がおっしゃれば、父なる神様は「うむ」と赦してくださるのです。

どうぞ、神様のあわれみ、神様の大きな愛にすがりましょう。信仰は難しいことはありません。私たちを命がけて愛してくださっているイエス様を信じて、任せれば良いのです。そのうち、神様は聖霊によって、あなたが何をすべきなのか、あなたの目的とすべきことは何なのか教えてくださいます。そして、こんどは肉の力ではなく、イエス様と一緒にやっていけば良いのです。神様はあなたを通して働きたいのです。これまで自分のがんばりや肉でやってきたので、切り替えが最初は大変です。最近の車に、ハイブリッド・カーがあります。普段はガソリンで走り、ときどき電気に切り替わります。いつ切り替わるのかは分かりません。同じように、私たちも聖霊と私たちとのハイブリッドです。いつ切り替わるのかは分かりませんが、聖霊モードのときもあります。自分で何かをやる、決断する。そういう部分もあります。でも、ときどき、知らない間に、聖霊モードに切り替わる。これが、新しく生まれた人の生き方です。クリスチャンになると分かるのですが、「いやー、イエス様を信じる前は、本当に死んでいたんだなー」と分かります。イエス様を信じて本当に良かったと思います。

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2009年7月12日 (日)

かしらであるキリスト    エペソ1:20-23

エペソ人への手紙のテーマは「教会とは何か」について教えている書物です。おそらく、皆さんの頭の中に、「教会とはこうである」というイメージがそれぞれあると思います。私は、お一人ひとり、聖書的な教会観を持ってもらいたいと思います。なぜなら、神様は教会を通して、この世に働きかけたいと願っておられるからです。昔は神様にとって、イスラエルの民が希望でした。しかし、それは叶いませんでした。次は人となられたイエス・キリストでした。アーメン。でも、イエス様はあがないを成し遂げられ、天にお帰りになられました。果たして希望はあるのでしょうか?実はイエス様は聖霊によって、地上に戻ってこられたのです。では、どこにイエスさまがおられるのでしょうか?それは、教会におられるのです。そして、教会にこと希望があるのです。でも、教会とはこの建物ではありません。教会とは何なのでしょうか?

1.教会のかしら

エペソ1:22「また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。」聖書には、「かしらであるキリストを教会に与えた」と書いてあります。文章を良く見ますと、キリストは教会だけではなく、見えるものも、見えないものも、すべてのもののかしらであります。そのかしらなるお方が、教会のかしらになっておられるということです。初代教会はキリストをかしらとして仰ぎ、いつも聖霊様に聞き従っていました。ところが、中世に入ると、「教会のかしらは、ローマ教皇である」と言いました。イギリスはローマカトリックから独立し、聖公会を建てました。そして、教会の首長は国王が兼ねると言いました。ルターやカルバンは教会のかしらはイエス・キリストであると主張しました。私たちはプロテスタンの流れにありますので、教会のかしらはイエス・キリストであると信じています。でも、どうでしょうか?イエス様は目に見えません。そのため、教団教派の組織のもとで、牧師や長老会が教会をコントロールするようになりました。しかし、地方教会、いわゆる個々の教会に行きますと牧師と役員会のぶつかり合いが出てきます。牧師には二種類います。1つは、牧師は教会から招聘されたので、教会の方が牧師よりも強い場合です。このとき、牧師は「教会から雇われている」という感じがするでしょう。もう1つは教団から牧師が派遣されたので、教会は、いやでもその牧師を受け入れるしかありません。どちらにしても、牧師が交代するときは、教会に大きな影響を与えます。「教会は、牧師次第」という格言みたいなものもあります。でも、どうでしょうか?教会のかしらは一体だれなのでしょうか?牧師でも、長老会でもありません。イエス・キリストです。イエス様はマタイ16章で「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます」と言われました。だから、どのような名前の教会であれ、そのような組織であれ、「イエス・キリストが教会のかしらであり、イエス・キリストが教会を建てるんだ」ということを忘れてはいけません。

私たちはどんなお方をこの教会のかしらとして迎えているのか知らなければなりません。エペソ1:20-21神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。」私たちは、「イエス様は、私のために十字架で死んでくださり、あがないを成し遂げてくださった救い主だ」と信じています。それは本当です。でも、イエス様は救い主以上のお方だということを忘れてはいけません。イエス様は十字架で私たちのために身代わりに死なれました。でも、その後どうだったでしょうか?父なる神様がイエス様を死者の中からよみがえらせ、天に引き上げてくださいました。それから何と、父なる神様はイエス様にすべての支配権を与えたのです。「すべての支配、権威、権力、主権の上」とは、見えるものも、見えないものもすべての支配や主権の上にキリストがおられるということです。神学的には、「支配、権威、権力、主権」とは、霊的な世界、つまり天使や悪魔の階級を指すことばです。みなさん、私たちが信じているイエス・キリストがそのようなお方だとご存知だったでしょうか?イエス・キリストの御名は人間社会のだれよりも、天使や悪魔よりも権威があり、力があるのです。みなさんはだれを怖がっていますか?会社の上司、家内、政府高官、軍隊…ある人は死と答えるかもしれません。しかし、パウロはローマ8章で「死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主イエス・キリストにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません」と言っています。

私たちはすべての権威を持っておられる方を教会のかしらとしていただいているのです。もし、すべての権威を持っておられるお方のもとにいるならどうでしょうか?この世では、「○○の傘下にある」という表現を用います。これから、いくつかの選挙があります。政治では派閥というのがあります。そのとき、有力な人のもとにいれば安心です。個々の政治家たちは、おそらく、どっちについたら良いか迷っている最中ではないでしょうか?クリスチャンということばの意味をご存知でしょうか?クリスチャンは異邦人教会であるアンテオケではじめて、呼ばれた呼び名です。それは「キリスト党」という意味であります。私たちはキリスト党に属しているのであります。でも、どこかの党のように政治と宗教が癒着しているものではありません。この世においても、あらゆる時代においても、ご支配しておられる王なるイエス・キリストに付く者であります。日本は戦後、アメリカの軍備のもとで国を守ることにしました。「安保反対!」と叫んだ頃がありましたが、戦後の日本はアメリカの傘下のもとで、国が守られるようにしています。日本には残念ながら、すべての権威を持っておられる方、主イエス・キリストがおられません。だから、あっちの国におべっか使い、こっちの国にお金をばらまき、方向が定まらないまま進んできました。かつてのイスラエルもそういうときがありました。イスラエルはとても小さな国です。北にはアッシリヤ、南はエジプトがあります。そして、すぐ北には、アラムという国がありました。このアラムが責めてきたときどうしたでしょうか?人々は風にゆらぐ葦のように恐れました。そして、ある者たちは「エジプトに頼ろう」と言い、他のものたちは「いや、アッシリヤに頼ろう」と言いました。でも、預言者イザヤは、「鼻で息をする人間をたよりにするな。万軍の主を頼れ」と言いました。このことは小国イスラエルだけではありません。小国日本にも言えることではないでしょうか?戦後、日本はアメリカを頼ってきましたが、アメリカは経済的にも道徳的にも破綻寸前です。このままだと日本丸は、経済的不況と道徳的堕落の荒波に飲み込まれてしまうでしょう。今、私たちは天地を造られた神様、そして、すべての権威の上におられるキリストに頼らなければなりません。実際、アフリカのいくつかの国は(ウガンダなど)、大統領あげて、キリストのもとにある国家を作ろうとしています。

教会のかしらは主イエス・キリストです。でも、私たちのイエス様は、見えるものと見えないものの上に立つかしらであることも忘れてはいけません。イエス様は、すべての支配、権威、権力、主権の上におられるのです。そうしますと、教会というところは1つの制度とか、組織で甘んじてはいけません。私たち教会こそが、「この世が神様と和解し、主イエス・キリストのご支配を受けるように」願わなければなりません。私たちクリスチャンだけではなく、日本が世界の人々が「イエスは主である」と礼拝するときに、神の国が訪れ、とこしえの平和と恵みが与えられるのです。

2.キリストのからだ

エペソ1:23 「教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」教会のかしらはキリストです。そして、キリストのからだとは、教会であると書いてあります。ちょっと考えるとどうでしょうか?復活昇天されたイエス・キリストは父なる神の右に座っておられます。でも、イエス・キリストのからだが教会であるとはちょっと解せません。「教会のかしらがキリスト、キリストのからだが教会?」これは一体どういう意味なのでしょうか?まず、かしらから考えて行きたいと思います。かしら、つまり頭はどのような働きをするでしょうか?頭は考えて、からだに司令を与えるところです。つまり、教会に対して司令を与えるのはかしらなるキリストだということです。では、からだとはどういう意味でしょう?からだとは、イエス・キリストの代わりに働く1つ1つの器官のことです。イエス様は現在、天上に座っておられますが、私たちクリスチャンがキリストのからだになってこの地上で、キリスト様の働きを継続するということです。確かに2000年前、イエス・キリストは十字架で罪の贖いを成し遂げられました。でも、それで人類の救済は終ったわけではありません。キリストの贖いを土台とした救いが、国々、そして全人格的になされる必要があります。救われた私たちが、こんどは神様の目的を果たすための、手足になるということです。私たちは「罪が赦され救われた、これで天国に行ける!」それで終わりなのではありません。キリストのからだである教会に連なって、イエス様の働きをこの地上で、継続するという使命が残されているのです。ハレルヤ!

でも、どうでしょうか?キリストのからだは一体化しているでしょうか?教会は1つであると言いながら、世界に散在し、それぞれの目的を持ち、それぞれ活動しているのではないでしょうか?アルゼンチンにエドシルボソという人がいます。「グー」のエド晴海ではありません。伝道者のエドシルボソです。彼はエペソ1章を解説しながら、天上ではこのようなことが起こったと言っています。空中の権威をもつ支配者(悪魔)は、イエス・キリストの十字架と復活によって、イエス様の足の下に封じ込められました。まさしく、エペソ1:22 前半「神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ」であります。そして、キリストのかしらは、天の最も高いところにあります。1:22後半「いっさいのものの上に立つかしらであるキリスト」と書いてあります。でも、問題なのはキリストのからだです。イエス様は「わたしの教会を建てます」とおっしゃり、救われた人々を教会に連ならせています。確かに、教会はキリストのからだです。でも、どうでしょうか?教会はバラバラになっていて、本来の力を発揮することができません。エドシルボソが教会の力を損なわせ、悪魔に機会を与えるものがあると言います。パウロは私たちに、日が暮れるまで憤ったままでいてはいけない、悪魔に機会を与えるだけだと警告しています(エペソ4:26,27)。クリスチャンが怒りを持ちつづけることによって、交わりが壊れ、イエスの血潮がすべての罪から私たちを清めることができなくなります(Ⅰヨハネ1:7)。また、怒りの罪のゆえに、聖霊は悲しまれ、天にある教会のキリストの完全性が傷つけられます。そのため、空中の力ある支配者(サタン)の影響力が、天の所で拡大されていくのです。それゆえに、サタンが都市の中で支配権を得るなら、その中における教会員、集会、教派は互いに憎しみ合い、分裂していくのです。アルゼンチンのリバイバルは、教会が怒りや憎しみを捨て、一致したことから始まりました。教会が一致の中に歩み、キリストの満ち満ちた様を現わすとき、天の所の悪の軍勢は、イエスの足元に追いやられるのです。

ヨハネ13:34-34「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。もし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」来年の1月末、常磐牧師セル主催で、万座温泉で集会を開きます。題名が、「主の愛と温泉につかろう」で、副題が「日本での弟子訓練と教会形成を求めて」であります。そして、主題聖句がこの、ヨハネ13:34-34であります。牧師たちが教団教派を超え、日本のリバイバルのため仲良くしましょうというのが趣旨なんであります。いわゆる裸の付き合いであります。ですから個々の教会の中ではもちろん、教団教派を越えて、キリストにあって一致する、互いに愛し合う。これこそが終末の時代における教会に求められていることです。かしらと足元は定まりました。問題は、かしらと足元の間にあるからだです。私たちがキリストにあって一致するときに、悪魔の力が封じ込められ、御国の働きが前進するのであります。最近のテレビや新聞のニュース、どうでしょうか?残酷で悲惨なことが相次いでいます。まさしく、悪魔が罪ある人間を操っています。「世の中、悪くなった」と言えば、それまでですが、私たち教会が一致して、この世に影響力を与えていないからです。私たちがキリストのからだとして一致していくならば、キリストの足で悪魔のわざを踏み続けていくことができるのです。

3.教会の目的とビジョン

エペソ1章には教会の目的とビジョンについて書かれています。エペソ1:23 「教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」教会とは、キリストの満ち溢れているところです。私たちにキリストが満ちあふれているなら、いっさいのものを満たすことができるということです。このボトルが水で満たされています。教会はボトルであり、キリストは水のようなものです。教会がキリストによって満たされていくならば、町や国々に対しても影響を与えていくことができるということです。すべての領域において、神の栄光が満たされていくことができるとしたら何と幸いでしょうか。教育、政治、経済、ビジネス、音楽、芸術の分野にも影響を与えることができます。神様は偉大な芸術家です。私は福音派で育ちました。福音派というのはアメリカで生まれました。ビリーグラハムという大伝道者が聖書を高々と上げて、キリストによる救いを語ると大勢の人たちが前に進み出てきました。福音派とは、「人々が罪を悔い改めて救われる」そのことに焦点を当てます。そのこと自体は悪いことではありません。すばらしいことです。でも、救われてからどうしたら良いのでしょうか?「教会につながって礼拝を守り、あなたも福音を伝道しなさい」。これもすばらしいことです。でも、どうでしょうか?福音派の救いというのは、魂の救いに関してのみであり、「この世において神様の栄光が現わされるように」とは言いません。むしろ、「この世は堕落しており、まもなくこの世は終り、再臨が来る」と言います。でも、あれから2000年たっても、イエス様は来られていません。その間、この地上は神なしで生活し、教会はその中で福音を伝えていきます。

でも、このエペソ人への手紙を見ると、教会はキリストのからだとして、「いっさいのものをいっさいのものによって満たすんだ」とおっしゃっています。つまり、「この世において、キリストの恵みを現わしていきなさいよ」と命じています。私たちはヨハネ3:16をよく知っています。ヨハネ3:16「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」アーメン。でも、どうでしょうか?私たちは「世を愛された」というところに、「神様はあなたを愛された、人々を愛された」というふうに置き換えます。それは悪いことではありません。でも、神様は人間だけを愛されたのでしょうか?この聖句では、神は「世を愛された、世界を愛された」と書いてあります。世界とは、クリスチャンだけではありません。神からは離れている人たちも含まれます。でも、それだけではありません。動物も、植物も、一切の被造物も含まれます。ローマ8章には「被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現れを待ち望んでいるのです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。」と書いてあります。つまり、聖書が言う救いというのは、魂の救いはもちろんそうですが、肉体的、社会的、自然界も救われるということです。ですから、教会はこの地上のあらゆるものが神様と和解し、回復するように願うべきです。そして、さきほども申しましたように、教会の目的は、伝道して教会の人数を増やし、大きくするだけではありません。教会がキリストによって満たされて、町や国々に対しても影響を与えていくということです。すべての領域、つまり教育、政治、経済、ビジネス、音楽、芸術の分野においても神の栄光が満たされていくということです。

みなさん、これまでの世界の歴史を考えて見ましょう。教会こそが芸術の中心でした。人々は神様をたたえるために音楽を作り、絵を描き、彫刻しました。ジョン・ミルトンを初め、神様のために書かれた文学作品も多数あります。そして、プロテスタント教会から発明や発見、民主主義が始まったのです。ニュートンやリンカーンはすばらしいクリスチャンでした。人種差別や貧困をなくす、病院を作る、学校を作る、社会福祉などは、教会から始まりました。日本もかつては、赤線があり、女性に参政権はありませんでした。日本キリスト婦人矯風会が1886年設立され、公娼制度の廃止、婦人参政権、禁酒運動をやったのであります。また、賀川豊彦先生がもとになって、農業組合などの組合ができました。しかし、福音派は「私たちは社会派とは違う」と言って、もっぱら魂の救いのために活動してきました。でも、最近はそうであってはいけないということで、目覚めてきたのです。ですから、キリスト教の病院や老人ホーム、それからチャーチスクール、様々なNPO団体を立ち上げて、この世の人たちに神様の愛をもって仕えていこうとし始めました。アフリカの諸国は度重なる民族戦争で国がボロボロになりました。また、キリスト教にはなっても、頭だけの信仰で、汚職や不正がなくなりませんでした。そこで、最近はキリスト教信仰を政治や教育レベルにまで浸透し、聖書を土台とした国作りをしているところも出てきました。ウクライナのキエフでは、サンディ・アデラジャという伝道者がいます。彼はたくさんの教会を設立しました。それだけではなく、政治やビジネス界にもたくさんのリーダーを送っています。世の中に、神の国の価値観を浸透させています。どうぞ、私たちも個人だけではなく、国レベルで人々がキリストの弟子になるように祈り求めましょう。

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2009年7月 5日 (日)

創立記念礼拝

本日は、中野雄一郎 師による創立記念礼拝の為、原稿が用意できませんでした。

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