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2009年7月26日 (日)

恵みによる救い       エペソ2:5-10

恵みによる救いを意味する物語があります。ある人が深い穴に落ちてしまいました。とても深くて、自分では、はい上がることはできません。そこへ釈迦がやってきました。「ああ、あなたの業がそうさせたのですね。残念です」と悲しい顔をしながら去って行きました。次に孔子がやってきました。「ああ、私の教えを守っていればそんなことにならなかったのに」と悔しそうに去って行きました。その後、一人の人が来ました。だまって、ロープを降ろし、穴の中に降りて行きました。そして、彼を抱え、引き上げてあげてくれました。その方こそ、イエス・キリストです。

1.恵みによる救い

エペソ2:5「罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、──あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです──」2:8「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです」。恵みとはどういう意味でしょうか?恵みとは、受けるに値しないものが受ける賜物(プレゼント)であります。昔は「いさおし(手柄、功績)のない者に与えられる好意」と言いました。恵みと相対するものが、報酬です。報酬とは自分が働いていただく賃金です。これは、働いた者が得る当然の権利です。しかし、救いは報酬ではありません。救いは神からの恵みです。もし、功績や行ないで救いが得られたならどうなるでしょうか?天国では自慢大会になるでしょう。「私はこれだけ、行なったから救われました」。もう一人の人が来て、「あなたは、よくそれで救われましたね。私なんかこのくらい良いことをしましたよ」と言うでしょう。でも、天国は謙遜なところです。「こんな罪深い者でも救われたんです。イエス様はすばらしい。アーメン」。もう一人の人が来て、「いやいや、私なんか箸にも棒にもかからない者でしたが、救われたんです。イエス様は素晴らしい。アーメン」。救いは恵みなので、だれも誇る人がいないんです。罪過と罪との中に死んでいた者たちの運命はどうだったでしょうか?生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。神のさばきを受けて、地獄に行くべき運命だったのです。滅びるのが当然だったのです。しかし、しかし、大きな愛によって救われたのです。これは、全人類が滅びの中にあるにもかかわらず、例外があったということです。まるで、それは死刑囚が特赦を受け、無罪放免になるようなものです。これはサマージャンボ・宝くじで3億円当たるよりも、すごいことなのです。一生涯、喜ぶべきことなんです。

残念ですが、日本人は神の恵みを知りません。日本には恵みということばはあります。海とか山、大地の恵みとは言います。でも、神の恵みを知りません。世界で日本ほど勤勉な国民はいないでしょう。朝早くから、夜遅くまで働いています。一週間、休まないで働いている人もいます。現在は、主婦の方もパートで働いています。家のローンを払わなくてはなりません。「教会なんか、金持ちか、よっぽど暇な人がいくところだ」と思われているのかもしれません。でも、どうでしょう?日本のGNP(国民総生産)は世界第二位です。日本は経済大国です。でも、国民一人あたりの所得となると18位くらいになります。日本人は「ワーキングプア」と言われています。一生懸命働いているわりには貧しいのです。それに比べ、人あたりの所得が高いのが、欧米諸国です。彼らは日本人よりもそんなに働いていないのに金持ちなんです。なぜでしょう?私は経済の専門家でありませんので何とも言えませんが、日本の円がどんどん海外に流れていることは確かです。韓国のチョー・ヨンギ先生は「日本人はあれだけ働いているのに、うさぎ小屋に住んでいる。日本はまことの神様を信じていない。だから、日本人がかせいだお金は、神様を信じている国に流れるんだ」と言いました。勤勉だから良いというのではありません。まことの神様に立ち返り、神様の恵みの中で勤勉であることが大切なのです。詩篇127篇「主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい。あなたがたが早く起きるのも、おそく休むのも、辛苦の糧を食べるのも、それはむなしい。主はその愛する者には、眠っている間に、このように備えてくださる。」私たち日本人は、天地を造り、今も保持しておられるまことの神様を信じるべきです。もうすぐ選挙があります。多くの人たちは政党が変わったら、なんとかなると思っています。でも、どれほど変わるのでしょうか?私は「天地を造られた、まことの神を恐れ、神を愛し隣人を愛する政治」をマニフェストにあげたいですね。そのような国になるように祈りましょう。

ところで、恵みによる救いと対立するものに、律法(行ない)による救いがあります。旧訳聖書は律法による救いについて教えています。すべての律法を守るならば、かごもこね鉢も祝福されると申命記28章に書かれています。一方、律法を破るならばどうなるでしょう?あなたは町にあってものろわれ、野にあってものろわれると書いてあります。なんと祝福よりも、のろいの方が3倍も多くあります。律法で救いを得ようとする者は、全ての律法を守らなくてはなりません。1つ欠けがあってもだめです。いつも、100%でなければなりません。果たしてこんなことが可能でしょうか?でも、多くの人たちは自分の行ないで救いを得ようと、シナイ山を上っています。しかし、だんだん、だんだん険しくなります。もう、山がせせり立ち、自分におおいかぶさってきます。そこは雷と地響きが鳴り響く、恐ろしい山です。でも、あわれみ深い神様は律法とは別の道を示してくださいました。それは、キリストを信じる信仰の道です。イエス・キリストが私たちの代わりに律法を全うし、同時に私たちに対する律法の罰とのろいを負ってくださったのです。神様はキリストを信じる者に、神の義を与えると言われました。ローマ3:24「ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです」。テトス3:5「神は、私たちが行った義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました」アーメン。神の義は、完全無欠であり、100%の正しさです。これはだれもその基準に達することはできません。でも、イエス・キリストを信じるなら、神様はご自分の義をその人にプレゼントしてくださるのです。皆さんは、自力で救われる道を選びますか?それとも、恵みによって救われる道を選ぶでしょうか?「行ないではない、キリストの恵みによって救われる」。これが福音であり、新約聖書のメッセージです。

神からの救いはもう完成されているのです。ですから、私たちはもう、これに何も付け加える必要はありません。もし、私がそれに何かを足したり、変更したら台無しになってしまうでしょう。しかし、残念ながらキリスト教会はそれをしてきたのです。たとえば、教会に来なければならない、聖書を読まなければならない、個々の罪を悔い改めなければならない。30年くらい前、私が救われて間もない頃、ある先生のメッセージを聞きました。その先生はイエス様を信じるとき、今まで犯した罪を悔い改めました。若い頃、キセルをしたことを思い出し、駅に行ってお金を持って行ったそうです。駅員さんは、こんな正直な青年は見たことがないと赦してくれたそうです。他に、自分が悪いことをした人たち、一軒、一軒、謝りに行ったそうです。また、ある先生は、伝道集会でイエス様を信じました。宣教師から、今晩、お家に帰ったら、「お父さん、お母さんにイエス様を信じたことを報告しなさい」言われました。彼は勇気を振り絞って、そのことを報告しました。するとお父さんから大外狩りで畳の上に倒され、「仏壇を拝め」と頭を上から押さえつけられたそうです。昔は、キリストを信じたなら、「罪を悔い改めなければならない」とか「公に告白しなければならない」と命じた教会もあります。しかし、それは恵みによる救いではありません。私たちが罪を悔い改めるというのは、これまで犯した個々の罪ではありません。「私は神様に背いて生きて来たけれど、こんどはイエス様を信じて行きます」という、方向転換という意味の悔い改めです。教会に行くとか、聖書を読む、あるいは個々の罪を悔い改めるというのは、救われた後に行なえば良いのです。救われたらそういう力が出てきます。ですから、救いは神の恵みによって与えられるのです。そこに人間の行ないを付け加えてはなりません。エペソ2:8「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです」。アーメン。

2.恵みによる行ない

エペソ2:10「私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。」英国の聖書は「私たちは神の手作りであり、私たちが良い行ないに身を捧げるために神様がデザインしたように、キリスト・イエスにあって創造されたのです」。新共同訳はこのように訳しています。「なぜなら、私たちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。私たちは、その善い業を行なって歩むのです」。神様がなさってくださったことは何でしょう?神様は私たちを創造してくださいました。しかも、それは手作りです。製品ではありません。製品は規格や形が定まっていますが、作品は1ヶ1ヶ違います。たとえば、かっぱ橋に行くとお茶碗や湯のみ茶碗があります。業務用に使うために、同じものが50個とか、100個必要な場合はあそこへ行くと良いですね。でも、あの器は製品です。一方、どこかの釜で焼いた、茶器があります。ちょっといびつです。磁器と違って、ごつごつしています。しかし、名の通った人が作った器は、数十万円から数百万円もします。私たちは製品ではなく、神の作品です。すこしいびつでも良いんです。人と違って良いんです。ごつごつして良いんです。また、性格や才能、好みも一人ひとり違います。ハワイのウェインコディーロは、神のデザインということを言います。「私たちがどこに住み、どの時代に生を受けるのか、神様は明確な意志を持って、決められたのです。神様は、あらかじめ私たちが歩むべき道を備えてくださり、私たち一人ひとりに計画をもっておられます。しかし、それが何であるかを見つけ、その道を歩むことは私たちの責任です。天国に入ることだけが、神様があなたを救われた理由ではないのです。神様はあなたを通した働をなさりたいのです。」デザインコースでは、自分の性格とか能力、神様からの賜物・・・いろいろチェックして、その人が一番あった奉仕ができるようにお手伝いします。一般的には、「自分は人間関係よりも仕事好きなので、もっと人間関係作りに時間をかけなければ」と思うでしょう。しかし、デザインコースでは、その人の特徴を変えないで、仕事好きの人が向く、設営などの作業にあたってもらいます。逆に、人間関係作りに長けている人は、受付とか、アッシャーに回ってもらいます。これまで、日本の教会は、使命をものすごく重視しました。ある場合は、自分がそれに向いていなくても使命感だけでやってきました。しかし、神様がデザインしたそれぞれの賜物を活かすなら、楽しくできるのではないでしょうか?

しかし、ここで忘れてはならない表現は、「キリスト・イエスにあって造られた」ということです。これは、「生まれつきで良いよ、ありのままで良いよ」ということではありません。Ⅱコリント5:17「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」「キリストにある」という意味は、キリストに接木されるということです。台木がイエス・キリストであり、私たちはキリストに接木されたということです。私たちはこれまで生まれつきの木で根を張り、自分の力で生きてきました。しかし、それが根元から、ばっさり切られてしまいました。一度、私たちは死んだのです。それからどうしたんでしょう。イエス・キリストという木に、接木されたのです。そうしますと、養分というか命の源はどこから来るのでしょうか?そうです、イエス・キリスト様から来るのです。しかし、私たちが、たとえキリストに接木されたとしても、ただちに良い実を結ぶことができるのでしょうか?私たちは、古い源を断ち切られ、新しいキリストに接木されました。でも、私たちの内にある罪の性質はどうなるのでしょうか?まだまだ、クリスチャンになったとしても不完全で、再び罪を犯すでしょう?でも、「キリストにある」とは、神様が計画されたように私たちが回復するということも含まれると信じます。イエス様とつながっていれば、罪がきよめられ、あるところが癒され、栄光から栄光へと、主の似姿に造り変えられるのです。ハレルヤ!私たちにはクリスチャンになる前の記憶があり、心の傷があり、トラウマも残っています。弱さや罪の性質もあるでしょう。でも、古い源を断ち切られ、新しいキリストに接木されました。そして、日々、神様がデザインしたように私たちは変えられているのです。そうしますと、自分の生まれや育ち、いやだった過去、失敗や過ちも、「感謝だなー」と思えるようになります。そして、これまで、決して受け入れられなかったことが、キリストにあって受け入れられるようになります。

私は物心ついてから、父や母に感謝するということがほとんどありませんでした。「あんなのは私の父でもない、母でもない。私の父は空であり、私の母は海である」と高校生の頃、思っていました。クリスチャンになってから、父なる神様が与えられ、神様に感謝をささげました。今から10年くらい前に、酒乱の父を赦しました。しかし、自分を生んでくれた母には感謝したことはありませんでした。私は「決して、死ぬもんか!」と、必死に生き延びてきました。でも、この間、はじめて、「お母さんに、生んでくれてありがとう」と言えました。先週の21日、柴又の花火大会がありました。ドカンドカンと音がするので、雨が降っていましたが自転車で行きました。もう後半でしたが、最前列で花火を見ることができました。花火を見ながら、「ああ、こうやって生きているから見ることができるんだなー」と思いました。「そうだなー、生んでくれたお母さんにも感謝しなくちゃならないなー。お母さん、俺を生んでくれてありがとう」。雨と涙でほほをぬらしながら言うことができました。そして、翌日22日、練馬教会でJCMNの会議がありました。帰りが遅くなり、亀有のラーメン屋さんに寄りました。注文した、大盛りの味噌ラーメンが目の前に出てきました。「ああ、こんなの食べられて幸せだなー」と思いました。食前のお祈りのとき、「お母さん、俺を生んでくれてありがとう」と言うことができました。2回目です。それから、自分の顔を見て、「とてもハンサムで、いい男だなー」と思えるようになりました。みなさん、これがキリストにあるということではないでしょうか。今まで、自分にないものばかり目にとめてきました。しかし、キリストにあるならば、「自分も神の作品で、良いものがたくさんある」と気がつくのではないでしょうか?

 ですから、イエス・キリストを信じたなら、「生まれや育ち、過去のものを全部、捨てて新しくなれ」ということではありません。私たちがどこで生まれたのか、どのような家庭で育ったのか、どのようなことを勉強したのか、どのようなことをしたのか・・・。そういう自分の歴史、これも神様が備えて、導いてくださったのではないでしょうか。もちろん、その中には失敗や人から受けたいやなことがたくさんあります。神様は、本当は願っていなかったことも起こりました。パソコンでしたら、そこを削除して、きれいさっぱり忘れたいようなこともありました。何十年も前に起こったことを、時々、思い出してしまいます。もちろん、過去を塗り替えることはできません。起こったことは起こったことです。でも、私たちの神様は、キリスト・イエスにあってそれらを益に変えてくださるお方です。真珠はどのようにしてできるかということを聞いたことがあります。あこや貝の口を無理やり開けて、異物を埋め込みます。貝にとっては迷惑以外の何物でもありません。痛いし、ごろごろして邪魔になるでしょう。でも、貝は分泌物を出して、その異物を覆います。するとそれが何年もたつと、美しい真珠が形成されます。いわば、その真珠は貝の涙であります。神様は、私たちの苦しみをご存知でした。できれば、そうはさせたくないと思ったことでしょう。でも、私たちの思いをはるかに超えた、神様の御手と計画がありました。そして、そのマイナスが、いやな出来事が、こんどは美しい真珠になるのです。神様はそのことをご存知だったので、いやな出来事が起こるのを許可されたのです。「神様、ひどいじゃないですか、どうしてあのとき助けてくれなかったのですか?」と言いたくもなるでしょう。でも、そこを通過することは、私たちに対する神様の計画だったのです。悲しくて、辛い経験から生まれる真珠こそが、人々の救いのためにお役に立つのです。父なる神様の願いは、一人でも多くの人が救われて、本来の生き方を取り戻すことです。神様はそのために何をするのでしょうか?神様は私たちを用いたいのです。傷ついて修復された私たちを、罪赦されてきよめられた私たちを、失敗して立ち直った私たちを、どん底から救い出された私たちを、無価値であったのに価値あるものとして見出された私たちを、まるっきり期待されなかったのに期待される者となった私たちを。この間、すずめの学校ライトコースで学びました。神様は救いを知らせるために、天使を用いることができません。なぜなら、天使には贖われた経験がないからです。神様が用いることができるのは、罪があがなわれた人間だけです。私たちは神の作品です。ひとりひとり違った手作りです。少々いびつでも良いのです。欠けたところがあっても問題はありません。なぜなら、イエス・キリストという宝を持っているからです。

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