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2009年7月19日 (日)

死んでいたもの   エペソ2:1-6

先週、梅雨が明けたようです。いよいよ、本格的に暑くなります。私たちは、信仰的に篤くなりたいと思います。使徒パウロは、救われる前の人、つまり人間の生まれながらの状態を何と言っているでしょうか?エペソ2:1「あなたがたは自分の罪過と罪との中で死んでいた」と書いてあります。罪過とは、過失など知らないで犯した罪です。また、罪は「的はずれ」という意味ですが、神の基準に達していない、あるいは神の目的からはずれているさまざまな行為です。その頃は、肉体的には生きていたかもしれませんが、神様から離れて、霊的に死んでいる状態であったということです。

1.死んでいたもの

霊的に死んでいるとはどういう状態なのか、3つあげられています。①第一番目の状態は、この世の流れに従い、肉の欲、肉と心の望むままを行なうということです。エペソ2:2「そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い」とあります。また、2:3「私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行なっていた」と書かれています。「この世の流れに従う」とは、まるで魚が死んだ状態です。ときどき、死んだ魚が川の上に浮かんでいるときがあります。魚が生きていれば、流れに逆らって進むことができます。でも、死んだ魚は流れのまま、流されていきます。「この世の流れ」とは、この世のしきたりとか、この世の価値観に流されて生きるということです。当然、「真理と命を求めて、キリストを信じる」ということは論外です。なぜなら、日本には日本の宗教やしきたりがあるからです。そして、「どういうことをするか」というと自分の欲、自分の心の望むまま生きるということです。「肉」とは神様に頼らないで、自分の考え、自分の好み、自分の力で生きることであります。肉の中には醜いものだけではなく、美しいものもあります。でも、根本的には神様を度外視する、自己中心であります。では、肉はどんなことを求めるでしょう?金持ちになりたい、おいしいものが食べたい、楽しいことをしたい、偉くなりたい、知恵と知識を得たい、才能を伸ばして有名になりたい、大邸宅に住みたい、多くのそばめを得たい・・・ソロモン王は言いました。「私は、私の目の欲するものは何でも拒まず、心のおもむくままに、あらゆる楽しみをした。私が手がけたあらゆる事業と、そのために私が骨折った労苦とを振り返ってみると、なんと、すべてがむなしいことよ、風を追うようなものだ」(伝道者の書2:10,11)と。

しかし、神様から離れた魂には平安がありません。そして、心の中には悪いものがたくさんつまっています。欲望、むさぼり、怒り、憎しみ、ねたみ、悲しみ、孤独感、劣等感、くやしさ、罪責感があるでしょう。でも、そういうものさえも、生きるバネにして、「クソー、負けるもんか!」とやってきました。とにかく、「生きているうちが花で、死んだらおしまい」とやってきたのです。しかし、心の中は満たされることはありません。人の評価や目を恐れ、あるいは不条理の中で、もがいて生きているんじゃないでしょうか?若いときはそれで良かったかもしれませんが、年齢とともに、「どうせこんなもんだ!器じゃなかった!悪いのはあいつだ、あいつのせいだ!」と言って、諦めてしまいます。でも、救われる前は、そういう感覚がありませんでした。できるだけ感じないで、無感覚で生きて来たのではないでしょうか?感じると辛いので、すべてを心の底に押し込んで、何もないように生きて来た。しかし、押し込んで沈めたはずのものが、しょうこりもなく「ぷかー」と浮かんでくる。それが、怒りであったり、悲しみであったり、空しさであったりします。これが、神から離れて、霊的に死んだ状態です。

②第二は、空中の権威を持つ支配者とその霊に従って歩んでいたということです。「空中の権威を持つ支配者」とはサタンのことです。霊的に一番高いところは、天であります。そこには御座があり、父なる神と御子イエスがいらっしゃいます。そして、この地上は私たちが住んでいます。そして、天と地上の間にあるのが、空中であります。空中と言っても、物理的なものではなく、霊の世界におけるものです。そこにサタンともろもろの悪霊、さらには天の御使いがいます。サタンと悪霊どもは、地上に住んでいる私たちを圧迫し、誘惑します。彼らの目的は、人々をできるだけ救いから遠ざけ、できるだけ多くの罪を犯さることです。彼らは神様には負けますが、神が造った人間を攻撃することによって、神の御名を引き下げることができます。神から離れた人間が罪を犯して、神の栄光を現わすことをできなくなる。これがサタンと悪霊の策略です。彼らは、人間が持っている、欲望、怒り、憎しみ、悲しみ、心の傷に働きかけて、罪を助長させます。たとえば、人が心の中に、怒りやうらみを持っていたとします。そこへサタンがやってきて誘惑します。すると、人は機会が訪れたときに人を殺したり、破壊的なことをします。最近の通り魔殺人や無差別殺人が起こっていますが、背後に悪霊が手助けしていることでしょう。また、人の心の中に悲しみや失望感が満ちている場合はどうでしょうか?様々な精神病を助長し、最後は自らの命を絶つように仕向けます。また、人の心の中に欲望やむさぼりが満ちていたらどうなるでしょうか?サタンが来て、盗みや姦淫を犯させるでしょう。このように人の心の中に解決されていない罪や癒されていない心の傷があると、サタンと悪霊が足場にして働くのです。

エペソの町は小アジア第一の商業都市であり、アルテミスの神殿が祭られ、様々な偶像崇拝や魔術がなされていました。使徒の働き19章に書いてありますが、彼らがイエス様を信じた後、実際にやっていることを悔い改めました。使徒19:19「また魔術を行っていた多くの者が、その書物をかかえて来て、みなの前で焼き捨てた。その値段を合計してみると、銀貨五万枚になった」とあります。今のお金に換算すると、5,000万円です。5,000万円相当の魔術や占いの本を焼き捨てたということです。相当なもんです。「ハリー・ポッター全集」がその中に入るでしょうか、入らないでしょうか?私は文学的には否定しませんが、その背後にある魔術は、神様の法則に反するものです。日本はエペソと同じように、偶像崇拝の国です。神社参拝、先祖崇拝、様々な新興宗教、占い、お守りが満ちています。テレビでは毎朝、どの局でも、占いを報じています。多くの占いは確立から生まれたものですから、ある程度は当たります。でも、当たるからとはまり込むと大変です。その人は恐れに縛られ、ジンクスに支配されるでしょう。「災いや苦しみを遠ざける」ことは、「主の祈り」にもありますから良いことです。でも、まことの神様は、私たちを成長させるために、時には試練を通されることもあります。占いは、苦しみを避けるという、薄っぺらい人生しか与えてくれません。しかし、本当の信仰は、苦しみを神様と一緒に乗り越えることによって、そこから宝を見出すことができます。悪魔のやり方は、最初はおいしいものを与えます。病気を治したり、商売も繁盛させるでしょう。でも最後は、その人の魂を奪うのです。イエス様はこのように言われました。ヨハネ10:10「盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。」

③第三は、神の怒りを受けて当然の者でした。

 エペソ2:3後半「ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした」。これは、罪を犯した魂は、やがて神の前に立って、裁きを受けるということです。時々、引用しますが、伝道者の書にもこのことが書かれています。伝道者の書11:9 「若い男よ。若いうちに楽しめ。若い日にあなたの心を喜ばせよ。あなたの心のおもむくまま、あなたの目の望むままに歩め。しかし、これらすべての事において、あなたは神のさばきを受けることを知っておけ。」神様は、「なんでも好きなことをやっていいよ、でも、神のさばきを受けることを知っておけ」とおっしゃっています。これはレストランの食事と同じです。私たちはレストランに入って、何でもいただくことができます。オードブルから始まり、スープ、フィッシュ、ワイン、ステーキ、最後にデザート。「ああー、おいしかった。帰ろうかなー」。でも、そのままでは帰れません。レジを通らなくてはなりません。同じように、私たちも人生の終わり、生前にしたこと、やったことの清算をしなければならないのです。イエス様を信じている人は、パスできますが、そうでない人は自分だけで、神の前に立たなければなりません。神様は100%正しい義なるお方です。果たして私たちの行ないで神様の義に立ち向かうことができるでしょうか?神の義に達していない人は、永遠のさばきを受けるしかありません。これがキリストのいない人の運命です。

2.大きな愛

 エペソ2:4-6「しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、──あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです──キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。」私たちはこの「しかし」があるから、やって行けるんです。「しかし」は、前の事柄をくつがえすための接続詞です。私たちは霊的に死んで、肉の望むままを行ない、サタンに支配され、神のさばきを受けるべき存在でした。「しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに」です。神様はあわれみ豊かであり、大きな愛によって、私たちに何かをしてくださいました。「大きな愛」とは、どういう意味でしょう。それは、神様の一方的な愛、無条件の愛、犠牲的な愛です。父なる神様は、罪の中にいて滅びに向かっている私たちに、御子イエス様を地上に送ってくださいました。御子イエス様は、神の栄光を捨てて、人間となり、十字架にかかってくださいました。十字架はその当時、もっともむごたらしい死刑の道具でした。イエス様は裸にされ、釘打たれ、さらしものにされました。人々はみんなイエス様をあざわらい、のろい、つばきをかけました。何故、罪のないお方が十字架にかかる必要があったのでしょうか?それは、私たち全人類の罪を背負ったために、神からさばかれ、地獄に落とされたのです。イエス様は「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになられたのですか」と叫ばれました。そして、「すべてが完了した(贖った)」と言って息を引き取りました。つまり、イエス様は、私たちの罪を贖うために十字架で死なれたのです。このところが、キリスト教において最も難解なところであり、最も重要なところであります。「イエス様が他の誰でもない、私の罪ために十字架で死んでくださった。アーメン」。この信仰が、神様と私たちを結びつける、唯一のものであります。この信仰がないと、神様と私たちとは何の関係のないものになります。神様のこの大いなる愛を受け取る者が、救いを得ることができるのです。これは、行いではなく、神の恵みであります。恵みのことは、来週、お話したいと思います。

 でも、ここで、さらに分からないことが書かれています。罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、・・・キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。」とあります。キリストが復活し、昇天したのは分かります。でも、パウロはそうじゃない、「キリストにあって、あなたも復活し、昇天したんだよ」と言っています。きょうは、めでたくも、いみじくも、洗礼式があります。洗礼とはバプテスマと言いますが、ギリシャ語の意味は、「キリストと一体になる」ということです。水が多い、少ないではありません。ローマ6章にこう書いてあります。ローマ6:4、5「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。」私たちは、キリストの中に、一体化することによって、キリストと共に死んで、葬られ、さらには復活するということです。クリスチャンとは古い自分に一度死に、キリストと共に新しくよみがえった存在です。ハレルヤ!牛乳の1リットル入りがスパーで売られています。パッケージをよく見ると、2秒間殺菌と書いてあります。原理はよくわかりませんが、牛乳が高温のところを通過することによって、殺菌されるのでしょう。簡単にいうと、2秒前の牛乳と、2秒後の牛乳は違うということです。バプテスマ、洗礼も同じです。キリストと共に死んで、葬られ、復活する。2秒かどうか分かりませんが、古いものは過ぎ去り、新しくなるのです。もちろん、過去の記憶はあります。でもそれは、新しい被造物であります。

 エペソ2章には「それは、復活だけではない」と言っています。「キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。」とあります。「キリストと一緒に天にのぼり、天のところで一緒に座っているよ」ということなのです。信じられるでしょうか?私たちの肉体は確かにこの地上にあります。空中にはサタンや悪霊がいます。でも、私たちは霊的にはどうでしょうか?天の御座に父なる神さま、イエス様、そして私たちもいるということです。もし、私たちが霊的に天の御座にいるならば、空中の権威を持っているサタンより高いところにいるということになります。ハレルヤ!つまりこれは、私たちが神の子という身分が与えられ、それはサタンよりも権威があるということです。だから、私たちは悪霊を怖がらなくても良いのです。本当は、悪霊の方が私たちを怖がっているのです。せっかく、クリスチャンになったにも関わらず、この事実を知らない人がたくさんいます。「悪霊はこんなことをする、悪霊がこんなことをした」と悪霊のことばかり、話題に上げている人がいます。どうかお願いします。悪霊に栄光を与えないで、主イエス・キリストの話をしてください。祈るとき、まるで自分が地の底にいて、はるか天におられる神様に向かって「神様―」と、叫んでいる人がいます。確かに、旧約時代はそうだったかもしれません。しかし、新約の私たちは違います。私たちは霊的には、神の御座にいるのです。目をつぶると、すぐ隣にイエス様、そしてイエス様の向こうには父なる神様がおられます。だから、叫ばなくても聞こえるんです。「イエス様」とまるで、50センチくらい離れた距離に、イエス様がおられると思って良いのです。50センチ、口臭が気になる距離かもしれません。それくらい私たちは、イエス様と近しい関係になっているのです。はるか下を見下ろすと、自分が住んでいる日本が見えます。

グーグルの地図を開くと、アジアの中の日本がぽつんとあります。「東京」のところを何回かクリックすると、葛飾区が見えてきます。亀有をクリックすると、「田中米作商店」があります。その左をクリックすると「日本基督教団亀有教会」。すると突然、ストリートビューになり、通りと建物が見えます。「おっつ、亀有教会だ!だれが、いつ撮ったんだろう」。また、航空写真にすると、こんどは上から見えます。縮尺を変えていくと、東京都が見えます。そして、関東地方になり、日本列島になります。これを霊的に考えるとどうでしょうか?神様は私たちのことを上から見ておられます。でも、見ようと思えば、ぐぐぐーと寄って、人間までも見ることができます。そうです。あなた自身と、あなたの心の中も、わかるんです。会社にいるとき、おうちにいる時、電車の中、どこでもわかるんです。「えー、本当ですか?」という人。詩篇139:7-12「私はあなたの御霊から離れて、どこへ行けましょう。私はあなたの御前を離れて、どこへのがれましょう。たとい、私が天に上っても、そこにあなたはおられ、私がよみに床を設けても、そこにあなたはおられます。私が暁の翼をかって、海の果てに住んでも、そこでも、あなたの御手が私を導き、あなたの右の手が私を捕らえます。たとい私が「おお、やみよ。私をおおえ。私の回りの光よ。夜となれ」と言っても、あなたにとっては、やみも暗くなく夜は昼のように明るいのです。暗やみも光も同じことです。」でも、どうでしょうか?あなたは神様が私のことを何でもご存知であるということが慰めになるでしょうか?それとも、脅威となるでしょうか?「恥ずかしい、イヤだ!」と思うでしょうか?もし、私たちがイエス・キリストの十字架の血しおによって贖われているなら、どんな状態でも安心です。私たちはどんなに醜い罪もイエス様の十字架の血によって、赦されているのです。赤ん坊がうんちをしました。けっこう広がっています。におっています。お母さんは「ああー」と少し驚くでしょうが、すかさず、うんちを片付けてくれます。最後に、濡れナプキンできれいに拭いて、新しいおむつをしてくれるでしょう。赤ちゃんはちょっと恥ずかしかったかもしれません。でも、お母さんを信頼していますから、全部、任せています。お母さんはお母さんで、もう覚悟をしていますから、どんなにきたないうんちでも受け入れます。イエス様も同じです。私たちの全ての罪、汚れ、恥、悲しみ、痛み、病をも受け止めてくださいます。キリストによって神と和解した魂には平安があります。たとえ、今晩、心臓が止まっても、神様の前に立つことができます。なぜなら、私たちを、弁護をしてくださる贖い主、イエス様が間に立ってくださるからです。「私に免じて赦してください」とイエス様がおっしゃれば、父なる神様は「うむ」と赦してくださるのです。

どうぞ、神様のあわれみ、神様の大きな愛にすがりましょう。信仰は難しいことはありません。私たちを命がけて愛してくださっているイエス様を信じて、任せれば良いのです。そのうち、神様は聖霊によって、あなたが何をすべきなのか、あなたの目的とすべきことは何なのか教えてくださいます。そして、こんどは肉の力ではなく、イエス様と一緒にやっていけば良いのです。神様はあなたを通して働きたいのです。これまで自分のがんばりや肉でやってきたので、切り替えが最初は大変です。最近の車に、ハイブリッド・カーがあります。普段はガソリンで走り、ときどき電気に切り替わります。いつ切り替わるのかは分かりません。同じように、私たちも聖霊と私たちとのハイブリッドです。いつ切り替わるのかは分かりませんが、聖霊モードのときもあります。自分で何かをやる、決断する。そういう部分もあります。でも、ときどき、知らない間に、聖霊モードに切り替わる。これが、新しく生まれた人の生き方です。クリスチャンになると分かるのですが、「いやー、イエス様を信じる前は、本当に死んでいたんだなー」と分かります。イエス様を信じて本当に良かったと思います。

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