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2009年7月12日 (日)

かしらであるキリスト    エペソ1:20-23

エペソ人への手紙のテーマは「教会とは何か」について教えている書物です。おそらく、皆さんの頭の中に、「教会とはこうである」というイメージがそれぞれあると思います。私は、お一人ひとり、聖書的な教会観を持ってもらいたいと思います。なぜなら、神様は教会を通して、この世に働きかけたいと願っておられるからです。昔は神様にとって、イスラエルの民が希望でした。しかし、それは叶いませんでした。次は人となられたイエス・キリストでした。アーメン。でも、イエス様はあがないを成し遂げられ、天にお帰りになられました。果たして希望はあるのでしょうか?実はイエス様は聖霊によって、地上に戻ってこられたのです。では、どこにイエスさまがおられるのでしょうか?それは、教会におられるのです。そして、教会にこと希望があるのです。でも、教会とはこの建物ではありません。教会とは何なのでしょうか?

1.教会のかしら

エペソ1:22「また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。」聖書には、「かしらであるキリストを教会に与えた」と書いてあります。文章を良く見ますと、キリストは教会だけではなく、見えるものも、見えないものも、すべてのもののかしらであります。そのかしらなるお方が、教会のかしらになっておられるということです。初代教会はキリストをかしらとして仰ぎ、いつも聖霊様に聞き従っていました。ところが、中世に入ると、「教会のかしらは、ローマ教皇である」と言いました。イギリスはローマカトリックから独立し、聖公会を建てました。そして、教会の首長は国王が兼ねると言いました。ルターやカルバンは教会のかしらはイエス・キリストであると主張しました。私たちはプロテスタンの流れにありますので、教会のかしらはイエス・キリストであると信じています。でも、どうでしょうか?イエス様は目に見えません。そのため、教団教派の組織のもとで、牧師や長老会が教会をコントロールするようになりました。しかし、地方教会、いわゆる個々の教会に行きますと牧師と役員会のぶつかり合いが出てきます。牧師には二種類います。1つは、牧師は教会から招聘されたので、教会の方が牧師よりも強い場合です。このとき、牧師は「教会から雇われている」という感じがするでしょう。もう1つは教団から牧師が派遣されたので、教会は、いやでもその牧師を受け入れるしかありません。どちらにしても、牧師が交代するときは、教会に大きな影響を与えます。「教会は、牧師次第」という格言みたいなものもあります。でも、どうでしょうか?教会のかしらは一体だれなのでしょうか?牧師でも、長老会でもありません。イエス・キリストです。イエス様はマタイ16章で「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます」と言われました。だから、どのような名前の教会であれ、そのような組織であれ、「イエス・キリストが教会のかしらであり、イエス・キリストが教会を建てるんだ」ということを忘れてはいけません。

私たちはどんなお方をこの教会のかしらとして迎えているのか知らなければなりません。エペソ1:20-21神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。」私たちは、「イエス様は、私のために十字架で死んでくださり、あがないを成し遂げてくださった救い主だ」と信じています。それは本当です。でも、イエス様は救い主以上のお方だということを忘れてはいけません。イエス様は十字架で私たちのために身代わりに死なれました。でも、その後どうだったでしょうか?父なる神様がイエス様を死者の中からよみがえらせ、天に引き上げてくださいました。それから何と、父なる神様はイエス様にすべての支配権を与えたのです。「すべての支配、権威、権力、主権の上」とは、見えるものも、見えないものもすべての支配や主権の上にキリストがおられるということです。神学的には、「支配、権威、権力、主権」とは、霊的な世界、つまり天使や悪魔の階級を指すことばです。みなさん、私たちが信じているイエス・キリストがそのようなお方だとご存知だったでしょうか?イエス・キリストの御名は人間社会のだれよりも、天使や悪魔よりも権威があり、力があるのです。みなさんはだれを怖がっていますか?会社の上司、家内、政府高官、軍隊…ある人は死と答えるかもしれません。しかし、パウロはローマ8章で「死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主イエス・キリストにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません」と言っています。

私たちはすべての権威を持っておられる方を教会のかしらとしていただいているのです。もし、すべての権威を持っておられるお方のもとにいるならどうでしょうか?この世では、「○○の傘下にある」という表現を用います。これから、いくつかの選挙があります。政治では派閥というのがあります。そのとき、有力な人のもとにいれば安心です。個々の政治家たちは、おそらく、どっちについたら良いか迷っている最中ではないでしょうか?クリスチャンということばの意味をご存知でしょうか?クリスチャンは異邦人教会であるアンテオケではじめて、呼ばれた呼び名です。それは「キリスト党」という意味であります。私たちはキリスト党に属しているのであります。でも、どこかの党のように政治と宗教が癒着しているものではありません。この世においても、あらゆる時代においても、ご支配しておられる王なるイエス・キリストに付く者であります。日本は戦後、アメリカの軍備のもとで国を守ることにしました。「安保反対!」と叫んだ頃がありましたが、戦後の日本はアメリカの傘下のもとで、国が守られるようにしています。日本には残念ながら、すべての権威を持っておられる方、主イエス・キリストがおられません。だから、あっちの国におべっか使い、こっちの国にお金をばらまき、方向が定まらないまま進んできました。かつてのイスラエルもそういうときがありました。イスラエルはとても小さな国です。北にはアッシリヤ、南はエジプトがあります。そして、すぐ北には、アラムという国がありました。このアラムが責めてきたときどうしたでしょうか?人々は風にゆらぐ葦のように恐れました。そして、ある者たちは「エジプトに頼ろう」と言い、他のものたちは「いや、アッシリヤに頼ろう」と言いました。でも、預言者イザヤは、「鼻で息をする人間をたよりにするな。万軍の主を頼れ」と言いました。このことは小国イスラエルだけではありません。小国日本にも言えることではないでしょうか?戦後、日本はアメリカを頼ってきましたが、アメリカは経済的にも道徳的にも破綻寸前です。このままだと日本丸は、経済的不況と道徳的堕落の荒波に飲み込まれてしまうでしょう。今、私たちは天地を造られた神様、そして、すべての権威の上におられるキリストに頼らなければなりません。実際、アフリカのいくつかの国は(ウガンダなど)、大統領あげて、キリストのもとにある国家を作ろうとしています。

教会のかしらは主イエス・キリストです。でも、私たちのイエス様は、見えるものと見えないものの上に立つかしらであることも忘れてはいけません。イエス様は、すべての支配、権威、権力、主権の上におられるのです。そうしますと、教会というところは1つの制度とか、組織で甘んじてはいけません。私たち教会こそが、「この世が神様と和解し、主イエス・キリストのご支配を受けるように」願わなければなりません。私たちクリスチャンだけではなく、日本が世界の人々が「イエスは主である」と礼拝するときに、神の国が訪れ、とこしえの平和と恵みが与えられるのです。

2.キリストのからだ

エペソ1:23 「教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」教会のかしらはキリストです。そして、キリストのからだとは、教会であると書いてあります。ちょっと考えるとどうでしょうか?復活昇天されたイエス・キリストは父なる神の右に座っておられます。でも、イエス・キリストのからだが教会であるとはちょっと解せません。「教会のかしらがキリスト、キリストのからだが教会?」これは一体どういう意味なのでしょうか?まず、かしらから考えて行きたいと思います。かしら、つまり頭はどのような働きをするでしょうか?頭は考えて、からだに司令を与えるところです。つまり、教会に対して司令を与えるのはかしらなるキリストだということです。では、からだとはどういう意味でしょう?からだとは、イエス・キリストの代わりに働く1つ1つの器官のことです。イエス様は現在、天上に座っておられますが、私たちクリスチャンがキリストのからだになってこの地上で、キリスト様の働きを継続するということです。確かに2000年前、イエス・キリストは十字架で罪の贖いを成し遂げられました。でも、それで人類の救済は終ったわけではありません。キリストの贖いを土台とした救いが、国々、そして全人格的になされる必要があります。救われた私たちが、こんどは神様の目的を果たすための、手足になるということです。私たちは「罪が赦され救われた、これで天国に行ける!」それで終わりなのではありません。キリストのからだである教会に連なって、イエス様の働きをこの地上で、継続するという使命が残されているのです。ハレルヤ!

でも、どうでしょうか?キリストのからだは一体化しているでしょうか?教会は1つであると言いながら、世界に散在し、それぞれの目的を持ち、それぞれ活動しているのではないでしょうか?アルゼンチンにエドシルボソという人がいます。「グー」のエド晴海ではありません。伝道者のエドシルボソです。彼はエペソ1章を解説しながら、天上ではこのようなことが起こったと言っています。空中の権威をもつ支配者(悪魔)は、イエス・キリストの十字架と復活によって、イエス様の足の下に封じ込められました。まさしく、エペソ1:22 前半「神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ」であります。そして、キリストのかしらは、天の最も高いところにあります。1:22後半「いっさいのものの上に立つかしらであるキリスト」と書いてあります。でも、問題なのはキリストのからだです。イエス様は「わたしの教会を建てます」とおっしゃり、救われた人々を教会に連ならせています。確かに、教会はキリストのからだです。でも、どうでしょうか?教会はバラバラになっていて、本来の力を発揮することができません。エドシルボソが教会の力を損なわせ、悪魔に機会を与えるものがあると言います。パウロは私たちに、日が暮れるまで憤ったままでいてはいけない、悪魔に機会を与えるだけだと警告しています(エペソ4:26,27)。クリスチャンが怒りを持ちつづけることによって、交わりが壊れ、イエスの血潮がすべての罪から私たちを清めることができなくなります(Ⅰヨハネ1:7)。また、怒りの罪のゆえに、聖霊は悲しまれ、天にある教会のキリストの完全性が傷つけられます。そのため、空中の力ある支配者(サタン)の影響力が、天の所で拡大されていくのです。それゆえに、サタンが都市の中で支配権を得るなら、その中における教会員、集会、教派は互いに憎しみ合い、分裂していくのです。アルゼンチンのリバイバルは、教会が怒りや憎しみを捨て、一致したことから始まりました。教会が一致の中に歩み、キリストの満ち満ちた様を現わすとき、天の所の悪の軍勢は、イエスの足元に追いやられるのです。

ヨハネ13:34-34「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。もし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」来年の1月末、常磐牧師セル主催で、万座温泉で集会を開きます。題名が、「主の愛と温泉につかろう」で、副題が「日本での弟子訓練と教会形成を求めて」であります。そして、主題聖句がこの、ヨハネ13:34-34であります。牧師たちが教団教派を超え、日本のリバイバルのため仲良くしましょうというのが趣旨なんであります。いわゆる裸の付き合いであります。ですから個々の教会の中ではもちろん、教団教派を越えて、キリストにあって一致する、互いに愛し合う。これこそが終末の時代における教会に求められていることです。かしらと足元は定まりました。問題は、かしらと足元の間にあるからだです。私たちがキリストにあって一致するときに、悪魔の力が封じ込められ、御国の働きが前進するのであります。最近のテレビや新聞のニュース、どうでしょうか?残酷で悲惨なことが相次いでいます。まさしく、悪魔が罪ある人間を操っています。「世の中、悪くなった」と言えば、それまでですが、私たち教会が一致して、この世に影響力を与えていないからです。私たちがキリストのからだとして一致していくならば、キリストの足で悪魔のわざを踏み続けていくことができるのです。

3.教会の目的とビジョン

エペソ1章には教会の目的とビジョンについて書かれています。エペソ1:23 「教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」教会とは、キリストの満ち溢れているところです。私たちにキリストが満ちあふれているなら、いっさいのものを満たすことができるということです。このボトルが水で満たされています。教会はボトルであり、キリストは水のようなものです。教会がキリストによって満たされていくならば、町や国々に対しても影響を与えていくことができるということです。すべての領域において、神の栄光が満たされていくことができるとしたら何と幸いでしょうか。教育、政治、経済、ビジネス、音楽、芸術の分野にも影響を与えることができます。神様は偉大な芸術家です。私は福音派で育ちました。福音派というのはアメリカで生まれました。ビリーグラハムという大伝道者が聖書を高々と上げて、キリストによる救いを語ると大勢の人たちが前に進み出てきました。福音派とは、「人々が罪を悔い改めて救われる」そのことに焦点を当てます。そのこと自体は悪いことではありません。すばらしいことです。でも、救われてからどうしたら良いのでしょうか?「教会につながって礼拝を守り、あなたも福音を伝道しなさい」。これもすばらしいことです。でも、どうでしょうか?福音派の救いというのは、魂の救いに関してのみであり、「この世において神様の栄光が現わされるように」とは言いません。むしろ、「この世は堕落しており、まもなくこの世は終り、再臨が来る」と言います。でも、あれから2000年たっても、イエス様は来られていません。その間、この地上は神なしで生活し、教会はその中で福音を伝えていきます。

でも、このエペソ人への手紙を見ると、教会はキリストのからだとして、「いっさいのものをいっさいのものによって満たすんだ」とおっしゃっています。つまり、「この世において、キリストの恵みを現わしていきなさいよ」と命じています。私たちはヨハネ3:16をよく知っています。ヨハネ3:16「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」アーメン。でも、どうでしょうか?私たちは「世を愛された」というところに、「神様はあなたを愛された、人々を愛された」というふうに置き換えます。それは悪いことではありません。でも、神様は人間だけを愛されたのでしょうか?この聖句では、神は「世を愛された、世界を愛された」と書いてあります。世界とは、クリスチャンだけではありません。神からは離れている人たちも含まれます。でも、それだけではありません。動物も、植物も、一切の被造物も含まれます。ローマ8章には「被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現れを待ち望んでいるのです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。」と書いてあります。つまり、聖書が言う救いというのは、魂の救いはもちろんそうですが、肉体的、社会的、自然界も救われるということです。ですから、教会はこの地上のあらゆるものが神様と和解し、回復するように願うべきです。そして、さきほども申しましたように、教会の目的は、伝道して教会の人数を増やし、大きくするだけではありません。教会がキリストによって満たされて、町や国々に対しても影響を与えていくということです。すべての領域、つまり教育、政治、経済、ビジネス、音楽、芸術の分野においても神の栄光が満たされていくということです。

みなさん、これまでの世界の歴史を考えて見ましょう。教会こそが芸術の中心でした。人々は神様をたたえるために音楽を作り、絵を描き、彫刻しました。ジョン・ミルトンを初め、神様のために書かれた文学作品も多数あります。そして、プロテスタント教会から発明や発見、民主主義が始まったのです。ニュートンやリンカーンはすばらしいクリスチャンでした。人種差別や貧困をなくす、病院を作る、学校を作る、社会福祉などは、教会から始まりました。日本もかつては、赤線があり、女性に参政権はありませんでした。日本キリスト婦人矯風会が1886年設立され、公娼制度の廃止、婦人参政権、禁酒運動をやったのであります。また、賀川豊彦先生がもとになって、農業組合などの組合ができました。しかし、福音派は「私たちは社会派とは違う」と言って、もっぱら魂の救いのために活動してきました。でも、最近はそうであってはいけないということで、目覚めてきたのです。ですから、キリスト教の病院や老人ホーム、それからチャーチスクール、様々なNPO団体を立ち上げて、この世の人たちに神様の愛をもって仕えていこうとし始めました。アフリカの諸国は度重なる民族戦争で国がボロボロになりました。また、キリスト教にはなっても、頭だけの信仰で、汚職や不正がなくなりませんでした。そこで、最近はキリスト教信仰を政治や教育レベルにまで浸透し、聖書を土台とした国作りをしているところも出てきました。ウクライナのキエフでは、サンディ・アデラジャという伝道者がいます。彼はたくさんの教会を設立しました。それだけではなく、政治やビジネス界にもたくさんのリーダーを送っています。世の中に、神の国の価値観を浸透させています。どうぞ、私たちも個人だけではなく、国レベルで人々がキリストの弟子になるように祈り求めましょう。

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