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2009年6月28日 (日)

知恵と啓示の御霊     エペソ1:15-19

 先月5月31日は、ペンテコステ礼拝でした。ペンテコステというのは、聖霊降臨日、聖霊がこの地上に降りてくださったことを記念する日であります。その大事な日を、飛ばしてしまったので、1ヶ月後の本日、お話させていただきます。人の誕生日や結婚記念日を一ヵ月後にお祝いするというのは、ほとんどありませんが、どうぞお赦しください。先週からエペソ人への手紙を学び始めたところですが、本日の箇所は大変、ペンテコステと関係があるところです。ですから、聖霊がこの地上に注がれた、使徒の働き2章以降のことと照らし合わせながら、お話したいと思います。エペソ1章15節以降は、使徒パウロのエペソの教会に対する祈りであります。「あなたがたが、こういう風になりますように」と祈っているのですが、これがまた大変興味深い内容です。普通でしたら「健康で経済的にも恵まれますように」と祈るところですが、そうではありません。使徒パウロは、もっと根本的なもののために祈っています。この祈りが叶えられたら、他のことはうまくいくということです。それでは、パウロの祈りから、3つのポイントで学びたいと思います。

1.キリストを知る啓示の御霊

エペソ1:17「どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように」。日本語の聖書には、「神を知るための知恵と啓示の御霊が与えられるように」と書いてあります。しかし、原文には「彼を知る知恵と啓示の霊が与えられるように」となっています。ですから、リビングバイブルには「栄光の父が、キリスト様がどのようなお方か、また何をしてくださったかを、正しく、はっきりと理解させてくださいますように」と書いてあります。つまり、父なる神様の願いは、聖霊によって、キリスト様のことがよく分かるようにということであります。実際、イエス様がこの地上におられたとき、弟子たちにこのように予告しています。ヨハネ14:26「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」ヨハネ15:26「わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします。」弟子たちは、3年半、イエス様と生活を共に過ごし、イエス様から直接、教えをいただきました。でも、その時はわからないことがたくさんありました。ところが、ペンテコステの日、真理の御霊である聖霊が臨んだとき、「ああ、イエス様がこんなことおっしゃっていた」「ああ、イエス様は聖書的にこういうお方だったんだ」「ああ、十字架と復活の意味はこうだったんだ」ということが分かったのです。

使徒の働き2章にそのことが書いてあります。マルコ・ヨハネの家の二階座敷に、120人の人たちが集まっていました。彼らはイエス様に命じられたとおり、そこで聖霊が降るのを待っていました。イエス様が召天して、10日後に、聖霊が降ってきました。おそらく、そのとき、一度にたくさんのことが分かったのではないかと思います。ペテロが旧約聖書を引用しながら、キリストの十字架と復活の意味を解き明かしています。弟子たちはイエス様が十字架で死なれたこと、そして3日目によみがえられたことを目撃しました。でも、その意味がわからなかったのです。「その意味がわからない」というのは変な感じがします。出来事としては見て、知っていたのですが、聖書との関連で分からなかったのです。つまり、「なぜ、イエス様が十字架にかかる必要があったのか?」「なぜ、父なる神がイエス様を死人の中からよみがえらされたのか?」「このことを信じる者はどうなるのか?」「私と何の関係があるんだろう?」こういうことが、知恵と啓示の御霊が臨んだとき、いっぺんに分かったということです。よく、漫画にもありますが、何かひらめいたとき、電球がピカッと光ります。あれと同じことであります。「ああ、そうか!このことは、あのことだったのか!This is that」。イエス様の出来事と聖書のことばが、繋がったということです。イエス様が前もって、「聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます」とおっしゃったとおりです。ペテロがそのような説教をしたのち、捕らえられ裁判にかけられました。そこで、ペテロは聖霊に満たされて大胆に弁明しました。そのとき、宗教的指導者たちは「彼らが無学な、普通の人であるのを知って驚いた」(使徒4:13)と書いてあります。「無学な普通の人」とは、「律法を学んでいない素人」と言う意味です。聖書を専門に学んでいる人たちが、「どこからこんな深い知恵を得たんだ」と驚いたのであります。

2000年前、聖霊がこの地上に降られました。そして、イエス様を信じる人には、彼らと同じ「知恵と啓示の御霊」が与えられるのです。パウロはキリストを知る、知恵と啓示の御霊が与えられるようにと祈りました。でも、それをブロックするもの、妨げるものが、私たちの内にあるということも確かです。何が「知恵と啓示の御霊」を受けるのを邪魔するのでしょうか?それは、私たちの知恵、私たちの理性、私たちの考えであります。私たちはこれまで、自分が見て、聞いて、学んできた知恵や知識があります。全部ダメとは申しませんが、ある場合は、これが大きな妨げになるのです。Ⅰコリント2:14「生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。」私たちがイエス様を信じて、新生すると、霊的なことがある程度わかってきます。でも、私たちの魂はそう簡単に神の知恵に屈服しません。アダムとエバが善悪を知る知識の木から実を取って食べたらどうなったでしょう。「ふたりの目が開かれた」と書いてあります。それまで、二人は自分たちの霊によって、霊なる神様と交わって生きてきました。でも、その実を食べてから、霊が死に、逆に魂が異常に発達しました。そのことによって、人は、神様に聞こうとしないで、自分で考え、自分で意志して生きるようになったのです。ですから、私たちはクリスチャンになってから、自分を空しくして、「主よ、あなたの知恵をください。あなたが教えてください」と意識して求める必要があります。そうしますと、聖霊様が、神からの深い知恵と啓示を与えてくださるのです。

イエス様は福音書でこのように語っておられます。マタイ11:25「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現してくださいました。」どうぞ、幼子のようになって、神様がくださる知恵を求めてください。主は人々の目に隠されていたことがらを、ぱっと、開いて明らかにしてくださいます。私は毎週、このように聖書からメッセージを取り次がかせていただいていますが、これはみんな聖霊の助けによるものです。私が、その次の週の聖書箇所を開いたとたん、何と思うでしょうか?「え?ここから何を語るの?」と言うときが、2回に1回はあります。最初の頃は、いろんな注解書を見て、それらを参考にしながら説教を組み立てました。だんだん、頭がいたくなるし、恐れもやってきて、まったく自信のないものになりました。しかし、あるときから、聖書だけを読み、ただ、そこに書いてあることを汲み取ろうとしました。そのあと、目をつぶって瞑想すると、このこと、あのことと聖霊様が語るべき内容を教えてくださいます。そのあと、目を開いて、忘れないうちに与えられたメッセージを紙に書きとめます。最後に、肉付けしていくと完成です。そのとき、参考になる本や人のメッセージを借用しても全く問題ではありません。なぜなら、中心的なメッセージは神様からいただいたという確信があるからです。そのようにしてから、メッセージの準備がとても楽になりました。しかし、これは牧師だけのものではありません。みなさんも、聖書を開いて、聖霊様にお聞きするならば、真理の御霊があなたに教えてくれます。また、日常、いろんな問題が起こるでしょう。様々な問題を神様のところに、状況を報告しつつ差し出します。ある時、ぱっと、解決がやってきます。エレミヤ33:3「わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。」

2.将来を知らせる預言の御霊

 エペソ1:18「また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか」。リビングバイブルは、「神様が、あなたがたを召して与えようとされる将来を、はっきりと理解させてくださいますように」と訳しています。神様が与えようとされている、「聖徒の受け継ぐもの」とは一体何でしょうか?ペテロはペンテコステの日、このように旧訳聖書を引用しながらメッセージしました。使徒2:16-18「これは、預言者ヨエルによって語られた事です。『神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。』」旧訳聖書の時代は、預言をする人と言えば、預言者とか一部の人たちでした。一般の人たちは、預言者を通して語られる神のことばを聞くしかありませんでした。しかし、終わりの時代はどうでしょうか?「終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言する」と書いてあります。終わりの日とはいつでしょう?終わりの日はいつから始まったのでしょう?それは、ペンテコステの日、ペテロたちが聖霊に満たされて、預言したときからであります。二階座敷にいた、120人の人たち一人ひとりに聖霊が留まりました。おそらく、そのとき、すべての人たちが、一斉に預言や異言を語りだしたと思われます。ペテロはそのことが旧約のヨエルが預言したことの成就であると解釈したのです。つまり、特定の預言者だけではなく、息子や娘、普通の人も、預言をするということです。使徒の働きをみますと、ペンテコステの日だけではなく、聖霊が行くところ、どこにでもそういう現象が起こりました。コルネリオ、エペソの人たち、コリント教会の人たちにも起こりました。パウロはコリントの教会に、「愛を求めなさい。また、御霊の賜物、特に預言することを熱心に求めなさい」と命じました。ところがどうでしょう?福音派の多くの教会は、「新約聖書が完成した今は、そのような賜物の必要性は消えた」と言いました。消えたというよりも、消してしまったと言った方が良いでしょう。使徒パウロは「御霊を消してはなりません。預言をないがしろにしてはいけません」(Ⅰテサロニケ5:19,20)と注意しています。

 では、預言の賜物というのはそれほど重要なのでしょうか?まず、それは賜物なので、信仰の年数とか、聖書をどのくらい学んだかということにはよらないということです。まさしく、「あなたがたの息子や娘は預言し」であります。ですから、主の霊に導かれるように、語るならば、それは大変役に立つということです。実際、シンガポールやインドネシアの教会では、セルの中で、預言を語ることができます。もちろん、そこには吟味とか、調整があります。でも、そこに聖霊様が臨在して、すばらしいことが起こります。預言を受けた人は、「ああ、神様は私のことをご存知である。私がしてきたことは無駄ではなかった。私が取り組んできたことは正しかったんだ」という励ましをいただきます。大体、預言というと、「裁かれるんじゃないだろうか?」と警戒しがちですが、ほとんどの場合は励ましの預言です。急に、預言者がやって来て「この教会の牧師には罪がある」と言うのは、偽預言者です。そうではありません。多くの場合は励ましですが、あるときは将来を見通す預言もあります。しかし、聖書をさっぱり読まないで、預言だけを安直に求めるというのは問題です。最近、預言喫茶なるものがあり、人々が占いを求めるようなつもりで、集まっているということです。ま、占いを求めるよりは良いと思いますが、まず自分で、聖書を読み、神様に求めるというのが第一にすべきことです。神様はすでにあなたに語っておられます。多くの場合、預言とはそれを確認するためのものです。ですから、順番を間違えないでください。そうすれば、預言は正しく用いられます。

 私は「神様はこう言われます」と度々、神様を引き合いに出すのは、賛成しません。神様が本当に言われないのに、勝手に「神様はこう言われます」と言ったらどうなるでしょうか?神様が言われたのだったら、絶対ですから、その預言は人を縛ることになります。ですから、どうしても言いたいなら、「神様はこのように言っていると思います」くらいが良いと思います。今の時代も預言はあります。でも、聖書と同じくらいのレベルまで引き上げるのは問題です。かといって、全く、ないというのも問題です。ある人は、旧約の預言者の預言は100%正しいが、現代の聖霊による預言は、20から80%の確立であろうということです。ですから、語る人も、受ける人も、それくらいの幅をもって参与する必要があります。一番無難なのは、祈りながら、預言の賜物を用いるということです。私はその人のために祈るとき、聖霊様に聞きながらお祈りします。おそらく、そのとき、聖霊様が預言を与えているのではないかと思います。みなさんの中にも、聖霊がいらっしゃるのですから、自分の子どもや兄弟姉妹のために祈るとき、そのように祈ったら良いと思います。

3.力を与える神の御霊

エペソ1:19「また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。」神様は、御自身の全能の力を、私たちクリスチャンにどのようにお与えになるのでしょうか?それは、神の御霊である、聖霊を通してであります。使徒の働き1:8「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます」と書いてあります。ペンテコステの日、聖霊を受けた使徒たちはどうしたでしょうか?使徒の働き3章にありますが、うまれつき足なえの人がいやされました。ペテロは、「自分の力や信仰深さによって彼を歩かせたのではない」と言いました。そうではなく「イエスの御名を信じる信仰のゆえである」と言いました。さらに、使徒の働きを読んでいくと、使徒ではなく、一般の信徒にもそれができたと書いてあります。使徒8章を見ますと、ピリポがサマリヤに伝道に行きました。彼はやもめの世話をするように執事として選ばれた人です。でも、彼はユダヤ人と交流のないサマリヤに下って、人々にキリストを宣べ伝えました。それと同時に、ピリポは悪霊を追い出し、中風の者や足なえ、様々な病気を治しました。おそらく、使徒たちが命じたのではなく、聖霊に導かれて、勝手に行なったのではないかと思います。使徒たちは昔の教えに縛られ、エルサレムに留まっていました。しかし、ピリポは自由な心で、聖霊に従ったのであります。教会は「聖霊に導かれたら、ある程度自由なことができる」こういう雰囲気が大切なのであります。何でもかんでも、牧師や役員会に相談し、承諾を得ないとできない。それはおかしいと思います。でも、後でも良いですから、ある程度の報告はいただきたいと思います。「ある程度」というのがとてもファジーで良いと思います。

聖霊の賜物は牧師だけが持っているものではありません。「しもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ」とありますから、イエス様を信じている人にだったら、だれにも可能です。でも、1つだけ申し上げたいことがあります。これは、啓示でも、預言でも、この力の賜物でも同じことです。それは、聖霊によってぱっと、開かれる必要があるということです。イエス様を信じている人であれば、だれ一人もれなく、聖霊が与えられています。でも、半数以上の人たちは、聖霊があふれ出していません。霊的に眠っているか、堅い魂の中に閉じ込められています。使徒の働きに出てくる人たちは、聖霊を受けるのと、聖霊がばっと溢れたのが同時に起こったのではないかと思います。私はペンテコステ教会が言う「聖霊を受けるイコール、聖霊のバプテスマ」という考えは反対です。私はイエス様を信じている人であればだれでも聖霊は受けている、内にいらっしゃるという考えです。でも、だれもがみな聖霊に満たされ、聖霊に溢れているかというとそうではありません。では、「鈴木牧師は常に聖霊に満たされ、聖霊に溢れているのですか?」と聞かれたら、「ノー」です。でも、こういうことは言えます。私はあるときに、聖霊が魂の中から、あふれ出る経験をしました。それは、水道のように、蛇口を開けたら、ばっと出て来るようなイメージです。それは、私が断食して、1時間祈ったら、そうなるということではありません。備えなくても、一瞬、願うだけで出て来ると信じます。もちろん、十分に祈って対処しなければならない大な問題もあります。でも、そんなに力まなくても、願うなら、聖霊は魂から溢れてきて、御自身の働きをなしてくださると信じます。ですから、一番、大切なのは、そのきっかけであります。自分の中から、聖霊が賜物と一緒に溢れ出る、そういう経験が必要であります。そういうことを何度か体験していくと、「ああ、こんな感じで聖霊様は働いていらっしゃるのかな?」と分かるようになります。これは理屈でわかるというものではなく、場数だと思います。

私たちは多くの場合、この目で見、この耳で聞き、この手で触ります。でも、聖霊のくださる賜物は、目で見えないものを見、耳で聞こえないものを聞き、手で触れないものを触ります。それらは信仰の目、信仰の耳、信仰の手と言って良いかも知れません。この世では馬鹿げているかもしれませんが、イエス様も初代教会の人たちもそれを当たり前のように用いたのではないでしょうか?現代はそういう聖霊の賜物は不要でしょうか?医療が発達しても、精神的にも肉体的も病んでいる人がたくさんいます。科学が発達しても、明日のことが分からないために、不安と恐れの中に閉じ込められています。医療や科学は否定しません。それも、神様が与えてくださった恵みです。でも、神様は聖霊による賜物も与えておられます。教会が、この賜物を用いるならば牧師や一部の人たちだけではなく、もっと多くの人が用いられるのではないでしょうか?ヨハネ14:12「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行うわざを行い、またそれよりもさらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです。」

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2009年6月21日 (日)

礼拝を捧げる理由      エペソ1:1-14

 本日からエペソ人への手紙からしばらく学びたいと思います。きょうは一気に14節までお話し、来週は聖霊に関するメッセージをお届けいたします。なぜなら、先月、ペンテコステであったのに、うっかり飛ばしてしまったからです。本日、読んだ箇所はとても長かったですが、大きく3つに分けることができます。3節から6節までは、「神様が私たちを選んでくださった。それは、栄光がほめたたえるためです」ということです。7節から12節までは、「キリストがその血によって贖ってくださった。それは、神の栄光がほめたたえられるためです」。13節から14節は「私たちが福音を信じたときに、聖霊の証印が押された。これは、神の栄光がほめたたえられるためです」。つまり、ここには、三位一体の神に対する、3つの頌栄が記されています。頌栄とは神を褒め称える、礼拝するということです。私たちが救われたのは、神の栄光がほめたたえられるためだということです。

1.神の選び

 エペソ1:4「すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました」。ここには、私たちの思いを超える、神様の遠大な計画が記されています。どうでしょう?神様は、世界が創造される前から、私たちを選んでおられたということが信じられるでしょうか。5節には「私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。」私たちを自分の子どもにしようと予定しておられたということです。しかも、この世界が造られる前からです。この世界が造られる前ですから、果たして、どれくらい前なのでしょうか?でも、ここに1つのミソがあります。「彼にあって選び」あるいは「イエス・キリストによって定めた」と書いてあります。彼、イエス・キリストの中に、私たちが組み入れられることによって、永遠という時間を超えられるということです。父なる神様はキリストを通して、私たちを選ばれたということです。つまり、神様の選びを機械的に捉えてはいけないということです。宗教改革者カルヴァンとその弟子たちは、「神の予定」ということを強調しました。やがて、「救いに選ばれている人と、遺棄されている人とがあらかじめ予定されている」とまで言いました。これを二重予定説というのですが、行き過ぎだと思います。私はこのように信じています。神様はキリストにあってどなたでも救われているように召しておられます。すべての人をキリストにあって選ぼうとされているのです。でも、神様はどの人が信じるのか、どの人が信じないのか知っておられます。矛盾しているようですが、神様はある人に憐れみをかけ、救いを与えようとされていることも確かです。

 私たちが数ある神様の中から聖書の神様を選び、私がキリストを信じたということであればどうでしょうか?確かに、私たちは自分の意志で「キリストを信じます」と決断して救われました。しかし、何年かたつと、「いやそうじゃない。私は選ばれていたんだ。キリストを信じる前から、導かれていたんだ」と分かってきます。ヨハネ15:16「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。」このみことばは、弟子たちに語られたことばですが、私たちにも当てはまります。もし、「私がキリストを選んだんだ。そのことによって、私は救われたんだ」と、ずっと思っていたらどうでしょうか?つまり、自分が信じたことによって、救いが得られているということです。でも、自分の信仰がこの先、ずっと続くでしょうか?ひょっとしたら、「神様がわからなくなった。キリストも信じられない」ということになったらどうでしょうか?そうなったら、救いもなくなってしまうかもしれません。なぜなら、救いが自分の信仰にかかっているからです。でも、そうではなく、「確かに私はイエス様を信じた。その信仰さえも神様がくださったんだ。私が選んだのではなく、イエス様が私を選んでくださったんだ」。そうするとどうでしょうか?たとい、私の信仰がおかしくなり、キリストを手放したとしても大丈夫です。なぜなら、キリストの信仰が私を捕まえているからです。Ⅱテモテ2:13「私たちは真実でなくても、彼は常に真実である」と書いてあります。真実と言うことばは、ギリシャ語ではピストスで、「忠実、信用できる、信じてよい」という意味です。また、英語ではfaithful であり、真実だけではなく、信仰に満ちたというふうにもとれます。つまり、私たちがイエス様を信じているということだけではなく、イエス様の信仰が私たちを捕まえていることでもあるのです。だから、私たちがうっかりイエス様の手を離すことがあっても、イエス様は私たちを離さないということなんです。

神様が自分を選んだということを神の人たちは信じていました。主はエレミヤに対して、このように言われました。エレミヤ1:5 「わたしは、あなたを胎内に形造る前から、あなたを知り、あなたが腹から出る前から、あなたを聖別し、あなたを国々への預言者と定めていた。」神様はエレミヤが生まれる前から、預言者になるように定めていたということです。使徒パウロも同じようなことを言っています。ガラテヤ1:15「けれども、生まれたときから私を選び分け、恵みをもって召してくださった方が…」。ある人たちは、自分が生まれたのは偶然だと思っています。でもそうではありません。あなたが生まれる前から選んでおられた神様が、あなたがこの地上に生まれるときに参与されていたのです。詩篇139篇にどう書いてあるでしょうか?139:13「それはあなたが私の内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられたからです。」15-16「私がひそかに造られ、地の深い所で仕組まれたとき、私の骨組みはあなたに隠れてはいませんでした。あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに。」アーメン。先週は、エリヤハウスの学びのために、札幌に行ってまいりました。胎児がお母さんの気持ちを汲み取っているということを学びました。ある人は、自分がおなかの中にいたとき、お母さんはとても混乱し、しばしば怒っていました。そして、私は「このお母さんから見捨てられたら生きて行けない」と思ったそうです。その気持ちは、おなかの中にいたときからあったそうです。講師のマークサンフォードの奥さんは、お母さんが生まれたときから自分を虐待し、おしめも換えてくれなかったそうです。しかも、お母さんは「お前は馬鹿だ」とか「汚い」とか言って、頭をたたいた。そのため、彼女は境界性人格障害と拒食症で長い間、苦しんだそうです。ある姉妹のお母さんは統合失調症で、気持ちが不安定でコロコロ変わる。その子は幼稚園のときから、お母さんの病院通いに付いて行ったそうです。でも、分かったことは、姉妹はおなかの中にいたときから、「私はこのお母さんを守ってあげなければならない」と思ったそうです。このように、胎児、もしくは幼いときから虐待されたり、無視された子どもの霊はとても傷つきます。ある場合は、眠りに陥って、何も感じないというふうになるそうです。でも、聖書にすばらしいみことばがあります。

イザヤ49:15-16「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。見よ。わたしは手のひらにあなたを刻んだ。あなたの城壁は、いつもわたしの前にある。」普通の、お母さんは自分の乳飲み子を忘れたりすることはありません。しかし、中には忘れる人もいるのです。でも、たといお母さんが見捨てたとしても、神様は、「手の平にあなたを刻んだあなたの城壁は、いつもわたしの前にある。」イスラエルの人たちは、年に一度、都のぼりをします。そこに行った人たちは、その感激を忘れないように手の平に神殿の城壁を書くそうです。記念とするためです。それと同じように、神様はあなたを手の平に刻むということです。なぜでしょう?神様があなたを永遠の昔から選び、神様があなたを母の胎の中で組み立てられたからです。なんという慰め、なんという喜びでしょうか?私たちは神様の選びを知ることができたならどうなるのでしょうか?エペソ1:6 「それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。」そうです。私たちを造り、私たちを選んでくださった神様をほめたたえるのです。私たちがまことの神様を知り、神様を礼拝するものになった。これは私たちが救われた目的の1つであります。

2.キリストの贖い

 エペソ1:7「この方にあって私たちは、その血による贖い、罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。」第二番目に私たちが神様をほめたたえる理由は、キリストが私たちを贖ってくださったからです。イエス・キリストは2000年前、私たちが贖われるために、御自身の血を流してくださいました。それは私たちの努力を超える、神様の豊かな恵みです。このところに、血と贖いと罪の赦しという3つのことばが出ています。これらの3つはとても深い関係があります。「ゆるし」という漢字は2種類あります。一般的な許しは、許可の「許」であります。これはあまり重要なことではありません。もう1つの「赦し」は、恩赦とか特赦というときに使われます。つまり、「罪あやまちを赦す」ということです。でも、この罪が赦されるためには、それに伴う、代償、代価が必要になります。ただでは赦されないということです。レビ記5章には、「自分が犯した罪のために、償いとして、羊の群れの子羊でも、やぎでも、雌一頭を、主のもとに連れて、罪のためのいけにえとしなさい」とあります。罪を犯した本人が動物を連れてきます。そして、私と一体であるという意味で、動物の頭に手を置きます。それから祭司に渡しますが、祭司は動物の首を切り、その血を祭壇に注ぎます。そのとき、はじめてその人の罪が赦されます。なぜ、血を流さなければならないのでしょう。レビ記17:11「いのちとして贖いをするのは血である」と書いてあります。つまり、罪はただではゆるされない、命で贖われなければならないのです。そのため、きよい動物を身代わりにささげ、その動物が流した血によって初めて贖われるということです。新約の時代は、イエス・キリストが完全な贖いの供えものとなられました。御子イエス様が神の小羊として、十字架にかかり、血を流してくださいました。イエス様の流された血によって、全人類の罪が贖われたのです。イエス様は一回で永遠の贖いを成し遂げられました。だけど、どのままでは救われません。「イエス様が私のために十字架で死んでくださり、私のために血を流してくださったことを信じます。キリストの贖いをいただきます」と願わなければなりません。救いは、行ないとか努力ではなく、信仰であります。あなたが、キリストがなされた贖いを受け取るならば、罪赦され救われるのです。

 「神様が私たちを創造してくださったことはわかりました。でも、どうして、キリストの贖いが必要なのでしょうか?」と聞く人がいらっしゃいます。私たちはアダム以来、神様を離れ、自分勝手な道を歩みました。自分がだれかも分からず、罪と汚れの中で、あえぎながら生きてきました。キリストはそのような私たちを買い戻すために、尊い命を投げ出してくださったのです。ある人は、自分には価値がないと劣等感の中に生きている人がいます。また、ある人は神様からいただいた大切な命を自ら絶とうとしています。自分の人生を呪い、父母を呪っています。しかし、私たち一人ひとりには価値があります。なぜなら、神のかたちに似せて造られた尊い存在だからです。イエス様がなぜ死なれたのか?それは私たちの本当の価値を取り戻すためです。では、一体、どれほど、自分には価値があるのでしょうか?あなたは、イエス・キリストの命と同じくらい価値があるのです。なぜなら、イエス様はあなたを罪から買い取るために、ご自分の命を投げ出してくださったからです。私たちはデパートに買い物に行ったとき、価値あるものだったら高いお金を出します。宝石売り場に行くと、桁を数えなければならないほど高価なものがあります。一、十、百、千、万、十万、百万…「えー?1,200万円?高けー。こんなのだれが買うんだ!」とか言ったりします。しかし、ある人は買うんです。なぜでしょう?それだけの価値があると思っているからです。あなたにはどれだけの価値があるのでしょうか?イエス・キリストの命と同じだけの価値があるのです。ある人が言いました。「イエス様はこの世にあなた一人しかいなくても、十字架にかかって命を捨てたでしょう」と。どうぞ、自分を安く見積もらないでください。「私はキリストによって贖われた、神の息子、神の娘です」と、誇って良いのです。

 ある人たちは、「罪を簡単に赦されたのなら、また罪を犯すのでは?」と言います。キリストの贖いというのは、罪の赦しだけではありません。あなたが神様のかたちに似せて造られた、しかもあなた固有の姿に造られた、もとのかたちを回復するためです。つまり、私たちはキリストによって贖われることによって、自分は何者なんだとうことを知るのです。もし、「自分はだれなのか?」ということを本当に知ったならば、わざと罪を犯さなくなります。もし、私たちが神の息子であり、神の娘であることを心から信じたなら、そのように振舞います。もし、私たちが罪赦されただけではなく、義と認められ、聖徒として見られていることを心から信じたなら、正しい行いが当たり前になります。もし、私たちが神様が自分に与えてくださった賜物と使命を発見したならば、「あれしなさい、これしなさい」と言われなくても、自ら進んでやるようになります。つまり、贖いというのは全人格的なものまで及ぶということです。イエス様はよく病の癒しをしましたが、そのとき、be wholeと言われました。Wholeとは「全体、すべての、完全な、無傷な」という意味です。ケーキをまるごというとき、ホール・ケーキと言います。しかし、これが癒しに用いられるとき、「肉体、精神、社会生活、すべてにおいて欠けたところのないものとなるように」という意味です。イエス様の贖いの中には、そのような完全な癒しも含まれているということです。私たちはキリストによって罪の贖い、自分のアイディンテティの回復、全体的な癒しを体験するときにどうなるのでしょうか? 1:12 「それは、前からキリストに望みを置いていた私たちが、神の栄光をほめたたえるためです」。神様を礼拝するようになるのです。私たちクリスチャンは毎週、キリスト様によって贖われたことを感謝するために、このように集まっているのです。

3.聖霊の証印

 エペソ1:13-14「この方にあってあなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことにより、約束の聖霊をもって証印を押されました。聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。これは神の民の贖いのためであり、神の栄光がほめたたえられるためです。ここには、私たちが今、救われているということを示している2つのことばが記されています。第一は「証印」です。これは、法律用語であって、「それが正しいと立証されたことのしるし」であります。私たちのまわりには、様々な証印があります。工業製品、食料加工品、お薬など、「これは検査済みで大丈夫なものですよ」という何らかの証印がおされています。私たちはその標記を見て、「ああ、大丈夫、安心できるものなんだ」と客観的に納得するわけです。では、救いの証印、御国の証印とはどのようなものでしょうか?本当に救いがあり、本当に天国というのがあるのだろうか?客観的な、明確な、実感できる神様からの保証が必要であります。どうでしょう?クリスチャンの方々にお聞きします。あなたは救われていることがどうして分かりますか?天国に入ることができるとどのようにして分かるでしょうか?中には、洗礼を受けたにも関わらず、長い間、教会に通っているにも関わらず、「正直言って、自分は天国に行けるかどうか分からない」という人がいます。そういう人は、神様から聖霊の証印を押してもらう必要があります。聖霊があなたに確信を与えてくださいます。聖霊の確信は、「かーく、しーん」であって、ただの確信ではありません。知的な確信ではなく、魂の中から来る確信です。聖霊が与える確信は、私たちの内側に満足を与えます。幼稚園のこどもに「○○ちゃんは生きている」と聞きます。すると、「生きているよ!」と答えます。「どうしてそれが分かるの?」と聞きます。すると「ほら、生きているよ」と答えます。クリスチャンも同じです。「あなたは救われていますか?」と聞くと、「うん、救われているよ」と言えるのです。ローマ8:16「私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。」聖霊の証印をいただいてください。

第二番目の用語は、「保証」です。保証はギリシャ語では「アラボーン」と言って、これは商業用語です。アラボーンは、売買の際に契約履行の保証として前もって金品を渡す、手付金のことです。その手付金を払った者は、時いたれば残りのすべてを明け渡します。たとえば、私たちが不動産を買うとき、5%から10%を払って契約を結びます。向こうが違反した場合は、違約金として倍返しを、こちらが違反した場合は、解約金として失います。このことを神様と私たちの間に置き換えて考えたいと思います。神様が御国を私たちに売ろうとしています。そのとき、私たちはキリストの贖いを信じるということが必要です。御国がまだ完成していないので、神様は手付金を私たちに払います。手付金とは聖霊のことです。では、手付金である聖霊は私たちにどのようなことをしてくださるのでしょうか?聖霊は、私たちが御国に入るまで、御国の一部を与えてくださいます。御国の豊かさ、御国の喜び、御国の力、御国の愛、御国の能力、御国の知恵、御国の健康…これらすべてはあなたの中に住んでおられる聖霊がくださるものです。あなた地上において、手付金として与えられた聖霊の恵みを用いるべきであります。そうするならば、あなたは御国に入るまで、聖霊の助けによって勝利しながら歩んでいけるのです。ヨハネ14章でイエス様は、このようにお約束されましたとおりです。ヨハネ14:16「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。

昔、王様は、手紙に封印するときに、ロウをたらしました。その直後に、指輪に刻まれている、印章をポンと押します。そうすると、どうなるでしょうか?持ち主のところに着く前にだれかがその手紙を勝手に開けたら、その人は死刑になります。なぜなら、その手紙には王様の証印が押されているからです。これを救いということで解釈するとどうなるでしょうか?クリスチャンは聖霊の証印が押されています。そうすると、そのクリスチャンを聖霊様が、天国にちゃんと行くまで、守ってくださるということです。聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。これは神の民の贖いのためであり、神の栄光がほめたたえられるためです。

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2009年6月14日 (日)

私の神は         ピリピ4:14-23

 先週から関東地方が梅雨入りしたようです。梅雨というのは本当に「ゆうつ」であります。洗濯物は乾かないし、散歩にも行けません。先週、傘をさして散歩に行ったとき、修徳高校の生垣のコンクリートの壁を何の気なしに見ました。なんと、小さなかたつむりがいっぱい、いました。たぶん、彼らはコンクリートの中にあるカルシウムを食べているんじゃないかと思います。そのカルシウムが彼らの殻に必要だということを聞いたことがあります。コンクリートが雨に濡れると、カルシウムが染み出してくるのでしょうか?ところで、本日で「ピリピ人への手紙」は、終わりです。来週からは、「エペソ人への手紙」から学びたいと思います。パウロの書簡というのは、教えの塊みたいで、ミルクというよりは肉、堅い食物であります。コンクリートじゃありませんが、私たちは固い食物が必要なんであります。それでは、4章後半から2つのポイントで学びたいと思います。

1.霊的果実

 ピリピ4:14-18まで、日本語の聖書では「物」という漢字が、6回ほど出てきます。実際には、物というのは献金であり、他に衣類や穀物も含まれていたかもしれません。ピリピの教会はパウロの伝道を初期の頃からずっと、支えていました。Ⅱコリント8章には、「マケドニヤの諸教会は、極度の貧しさにもかかわらず…自ら進んで、力に応じ、いや力以上にささげた」と称賛しています。そのことは、パウロが新しい地に出かけて伝道しているとき、どんなに助けになったことでしょう。そして、今現在、パウロはローマの牢獄に繋がれています。その知らせを聞いて、ピリピの教会はエパフロデトを遣わしました。彼はパウロに贈り物をとどけた後、死ぬほどの病気にかかりました。パウロはピリピの教会の人たちのささげものが、「霊的祝福なのです」と言っています。霊的祝福というのは、原文では果実となっています。果実とは実であります。ピリピの教会の人たちに、神様の愛と信仰が与えられ、それが今度は具体的な実となって現れたのであります。実というのは、プロデュース、おのずと生み出されてくるものであります。献金とかささげものは、神様の愛と信仰から生み出されるものなのです。逆に言いますと、神様の愛と信仰がまだ育っていない場合は、献金とかささげものは、苦痛なのであります。ですから、そういう人は、神様から十分、受けることを学んでください。神様の豊かさを体験すると、今度は、与えること、ささげることができるようになるからです。

 では、パウロはどんな必要があったのでしょうか?パウロは使徒でした。使徒というのは、新しい地にでかけ、そこで福音を宣べ伝え、教会を設立します。教会と言っても建物ではなく、信仰者の群であります。しばらく、そこで滞在しながら、核となる人たちを育てます。その後、彼らに牧会を任せて、また新しい地に行くわけです。しかし、パウロには同労者たちがいました。シラス、テモテ、ルカ、テトスなど、彼らをも養わなければなりせん。移動するためには、船賃を含め、旅費も必要であります。ピリピのようにパウロたちを支えてくれる教会もありますが、コリントのようにパウロの使徒性を疑って、あまり支えない教会もあったでしょう。パウロはお金のために伝道してはいませんでしたが、宣教地に出かけ、教会を設立するために、お金が必要だったことは確かです。そういう意味で、神様の働きを拡大しようと思ったならば、どうしても資金が必要になります。それだったら、「神様、あなたご自身が出せば良いでしょう!」と言いたくなります。でも、どういう訳か、神様は贖われた人たちがささげる献金によって、神様の働きを進めるようにというのがみこころのようであります。イエス様もそうでしたし、ペテロやパウロ、他の弟子たちもそのようにしました。では、どうして、人々は神様の働きのためにささげるようになったのでしょうか?それは、霊のものを得たからです。霊のものというのは、福音によって罪の赦し、永遠の命、そして永遠の御国をいただいたということです。また、肉体や心が癒され、また、希望と信仰が与えられ、元気に働くことができるようになるでしょう。また、愛と平和がこころにやってきて、家庭や人間関係が祝福されるでしょう。人は霊のものを受けると、そこから生まれた肉のもの、物質を与えるようになるのです。コンピューターで言うなら、霊のものはソフトウェアーで、肉のものというのはハードウェアーであります。でも、神様は、ご自分の働きのために、信仰をもってささげた人を放ってはおかないのです。ちゃんと、それ以上の祝福を与えて報いてくださいます。これが、神様の方法なのであります。

 先週は、十分の一献金の大切さについてお話しました。神様に十分の一献金をささげるならば、神様が責任をもってみなさんの生活を祝福してくださいます。また、ささげた本人は金銭の奴隷となることなく、金銭を正しく管理することができるんだということです。しかし、献金にはもう1種類の献金があります。ピリピの人たちは、使徒パウロの働きが支えられるように献金しました。それは、十分の一献金とは別のものであります。みなさんがこういう集会でささげる献金、あるいは感謝献金、宣教団体、会堂建築、最近は車のための献金もありました。これはみな、神の国に対する投資であります。みなさんは、「御国の働きが拡大されるように」と信仰をもって投資しているのです。たとえて言うならば、このようになります。神様に十分の一献金をささげることによって、みなさんの畑の周りに、囲いが設けられました。これで悪い者が、入ってあなたの畑を荒らすことはありません。しかし、その畑に種を蒔くならばどうでしょうか?つまり、御国の働きのために投資するのです。すると、その実は何倍も帰ってきます。農家の人が1粒の種を蒔いて、1粒の実がなることを期待するでしょうか?そうじゃありません。麦やお米、とうもろこしを想像してみてください。おそらく、100倍から200倍の実をならせるのではないでしょうか?福音書に良い地にまかれた種のたとえが書いてあります。マタイ13:8「あるものは100倍、あるものは60倍、あるものは30倍の実を結んだ」と書いてあります。これはどういう意味でしょうか?これは、普通で100倍の実を結ぶ。「まあまあ」でも60倍。最低でも30倍の実は結ぶということです。

どうぞ、みなさん、「ああ、余分な献金をさせられる。損した」と考えないでください。こう語っている私自身はどうかと言いますと、ペンテコステ系の集会に参加したときは、試されます。1日、3回の集会があるとすると、集会ごと、つまり3回献金のときがあります。どんなに講壇から強く、アピールされても「いやー、まいったなー」と思うときがあります。その点、メル・ボンド師は、毎回、信仰をもってささげることがどんなにすばらしいことか話してくだいます。また、先生は、献金のたびに、祝福の祈りもしてくださいます。そうすると、こちらに信仰がやってきて、信仰をもってささげたくなります。みなさん、これは信仰なのです。パウロは「信仰から出たものでないならばすべてのことは罪です」と教えています。こういう話があります。小さな娘が、食後のデザートでいちごを食べていました。お父さんが仕事から家に帰ってきて、そのいちごが欲しくなりました。「ああ、おいしそうだな。パパも食べたいな。少しちょうだい」と言ったとします。もし、娘が「いや、これ私のだもん。ダメ」と言ったらどうでしょう。パパは、「娘よ、あなたの洋服も、食べ物も、私が働いて得たものだよ」とは言わないでしょうが、がっかりはするでしょう。でも、どうでしょうか?娘が「パパ、お仕事、疲れたでしょう。どうぞ」と6粒のうち、3粒をくれたとします。パパは「うぁー、半分もくれるの。たいした犠牲を払ったなー」と感激するでしょう。それで終わりでしょうか?そうではありません。何日か後、パパは、仕事の帰り、果物屋さんに寄るでしょう。そこで、いちご1パックを買って、まるごと全部、娘にプレゼントするのではないでしょうか?神様は私たちの心をご覧になっておられるのです。それはパウロが言っていることと同じであります。パウロが言っていることは、まさしく、天のお父様のことばであります。ピリピ4:17「私は贈り物を求めているのではありません。私のほしいのは、あなたがたの収支を償わせて余りある霊的祝福(果実)なのです。」

2.私の神は

ピリピ4:19-20「また、私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。どうか、私たちの父なる神に御栄えがとこしえにありますように。アーメン。」パウロは贈り物の問題を、頌栄をもって結んでいるということは、意義深いことであります。頌栄とは、パウロは神様をほめたたえることであります。ピリピの人たちのささげものが、神様をほめたたえるに至ったということです。そして、パウロは神様が、ピリピの人たち対して豊かに報いて得くださることを確信しています。19節に「私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます」とあります。ちょっとこれは、驚きではないでしょうか?パウロは「私の神は…あなたがたの必要をすべて満たしてくださる」と言っています。「私の神」とは、すごいんじゃないでしょうか?パウロはそれほど神様と親しい関係にあり、まるで、神様を独占しているかのようであります。みなさんも、人々に「私の神は」「私のイエス様は」と紹介できたら、すばらしいですね。何故、パウロはこんなふうに「私の神は」と言えたのでしょうか?それはパウロが、自分が信じている神様は、いつも必要を与えてくださり、乏しいことがなかったということを腹いっぱい体験していたからです。パウロは「私の神様は良き神様であり、豊かに供給してくださるお方だ」ということを体験的に知っていたのです。私たちも、頭だけの信仰ではなく、心の深みまで、神様の豊かさを体験したいと思います。では、どうしたらそういうことを体験できるのでしょうか?

神様は「父なる神様です」。私たちは神様を「天のお父様」と呼びます。そのとき、「ああー、もう一人いたなー」と思い出します。それは、私を育ててくれた、地上のお父さんです。でも、どういうわけか、地上のお父さんと天のお父さんが、重なって見えます。つまりこういうことです。地上のお父さんが、酒ばっかり飲んで、ろくにも働かず、お家が貧しかった。お父さんは全く頼りにならないので、自分が母や弟や妹たちのために働いたという人はどうでしょうか?そういう人が、天のお父様の正しいイメージをいだくことができるでしょうか?おそらく、「天のお父様も、貧しくて、あまり面倒みてくれないんじゃないだろうか?」と思わないでしょうか?心の奥底に、「本当に頼れるのは自分だけだ、神様じゃないよ」と、思うのではないでしょうか?地上のお父さんがケチであるなら、天のお父様もケチに見える。地上のお父さんが弱々しかったなら、天のお父様も弱々しく見える?本当に神様は豊かに与えてくださるのだろうか?なかなか、信じられないのではないでしょうか?放蕩息子のお兄さんがそうでした。彼は「私には、友達と楽しめと言って、子山羊一匹くださったことがありません」と言いました。でも、彼の父は「子よ。私のものは全部おまえのものだ」と言いました。では、放蕩息子のお兄さんとはだれでしょうか?当時の宗教指導者、パリサイ人や律法学者でした。彼らはとても真面目に律法を守りました。でも、父なる神様と楽しく交わったり、父なる神様の豊かさを喜ぶということがありませんでした。クリスチャンで、真面目に信仰生活を送っている人たちの中にもいるんじゃないでしょうか?「もし、自分が信じている神様を信じたなら、不幸な人がもう一人ふえる。だったら、紹介しない方が良いかなー」なんて。自分が心から信じて、慕っている神様だったなら、「黙れ」と言われても、言いたくなるんじゃないでしょうか?

パウロは「私の神は」と言えたことはすばらしいと思います。みなさんは、「私の神様は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、私の必要をすべて満たしてくださいます」と信じていらっしゃるでしょうか?私自身のことです。私は何度かお話したことがありますが、私の長男はアメリカに行ったきりです。アメリカ留学がこんなにもお金がかかるのか知りませんでした。長男を送り出すとき「私にはお金がないけど、私の父にはお金があるから大丈夫、心配ない」と言いました。そのときは、何とかなると本気で思っていたんです。でも、「この間、送ったのに、またかよー?」ということが度々、というか何年も続きました。私は教会堂建築のときはあまり苦労しませんでした。1億4千万円くらいかかりましたが、本当に、信仰によって建てられたと思いました。でも、息子に関しては信仰が試されました。会堂建設のように、大声で言うわけにもいきません。もうどこから、お金がくるのでしょう?どの銀行が貸してくれるのでしょう?一体、だれが貸してくれるのでしょう?何度も、パニック状態になりました。郵便局でも2年と4ヶ月働きました。「それはあなたの息子のことであって、神様の働きではないでしょう」と言われれば、それまでです。私も自分で送り出した手前、面倒みなくてはなりません。「だれも助けてくれない。自分が可愛そうだ」と、自己憐憫に陥る暇はありません。何度か、泣きましたけど、ただ、ひたすら、神様に頼るのみです。では、私自身、「私の神様は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、私の必要をすべて満たしてくださるということを信じているのだろうか?」と、自問自答しました。まだ結論は出ていませんが、こういうことだけは学んでいます。神様は「はい、どうぞ!」と現金を「ドーン」とくださるお方ではないようです。私自身も祈りつつ、どこからかお金を工面しようとします。あっちがダメで、こっちもダメ。じゃあ、こうしよう。不思議に1つの道が開かれます。また半年もたつと、「お金がない」という連絡が来ます。また、「こうしょう、ああしよう」と捜し求める。すると、不思議に1つの道が開かれます。この繰り返しで、今までやって来られました。少なくとも、言えることは、父なる神様は、こういう金銭的に八方塞の中で、訓練してくれたのではないかと思います。もう、長男のために十分送ったと思いますので、信仰的には、一段落しました。神様はケチな方ではありませんが、同時に、気前よく、ポンと与えてくださる方もないようです。神様は、必要であるならば、満たしてくださる。そのとき、私の信仰と私の品性を同時に、訓練して成長させてくださるということです。まだ、私もこの分野の学びは途中なので、途中のことしかみなさんには言えません。

でも、ここに重要なポイントが隠されています。「私の神様は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって…満たしてくださる」と書いてあります。神様と栄光の富の間に、イン・クライスト、つまりキリスト・イエス様がおられるということです。言い換えるならば、キリスト・イエス様抜きでは、神様の栄光の富を受け取ることができないということです。では、「キリスト・イエスにある」とはどういうことでしょうか?これは、使徒パウロも経験していたことであり、私たちにも必要なことです。私たちがキリスト・イエスにあって神様の栄光の富を受けるためにはどのようなことが必要なのでしょうか?第一に、イエス・キリストを信じて、神様と親しい関係を持つということです。つまり、神様が天のお父様であり、私が神のこどもであるということです。神様と親子関係を結ぶならば、大胆に「下さい!」と、お願いできるということです。第二に、「キリスト・イエスにある」とは、イエス様が御国の金庫を開ける鍵だということです。ヨハネ16章でイエス様はこのように約束されました。ヨハネ16:23-24「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが父に求めることは何でも、父は、わたしの名によってそれをあなたがたにお与えになります。あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。」私は、このみことばをまだ、十分できて体験していません。一体何が足りないのでしょうか?それは求める祈りをしていないからです。祈りには神様と交わる祈りと、神様に求める祈りがあります。求める祈りは、何かレベルが低いように思われがちです。でも、祈りがあまりきかれていないとしたら、求める祈りが足りないということではないでしょうか?10数年に山崎長老さんが、「祈りの友」というグループを作りました。みんな同じ手帳を持って、そこに共通の祈りの課題を加えました。そして、みんながその祈りの課題を祈ります。不思議なことに、90%ぐらい叶えられました。やっぱり、自分で祈りのノートを作って、具体的に神様に祈るべきだと思います。「神様、まだ、これが叶えられていませんよ」と、食らいつくような祈りをしたいです。私たちには、求める祈りが不足していると思います。いかがでしょうか?第三は、「キリスト・イエスにある」とはビジョンと関係があるということです。私たちは「お金があったらこういうことができるのになー」と、まずお金を求めてしまいます。そして、「お金がないから、できないんだ」と諦めてしまいます。でも、そうではありません。お金よりも先立つものがあります。それはビジョンです。キリスト・イエスにあって、どんなビジョンを持っているのか?本当に神様からのビジョンであれば、お金がキリスト・イエスを通して、与えられるということです。私は「本当にビジョンがないなー」と思います。「必要なお金も、必要な人材も、すべて与えられるとしたら、何をしたいでしょうか?」ビジョンが先で、資金はその次である。これは神の国の原則であると信じます。

前にもお話しましたが、本郷台キリスト教会は、先月、8500坪の土地を購入しました。9億円するのですが、すでにその1億円を払ったそうです。その土地を前から、サッカー場として使っていましがが、会社が土地を手放したいということになりました。もし、他のところが買ったのであれば、もうサッカーはできません。300人ものメンバーがいますが、その父兄たちが、「教会が買ってくれたら、子供たちがサッカーできるのに」とお願いしたそうです。そこで、伝道のために教会が買ったのです。でも、本郷台キリスト教会はその10年も前から、1万坪が与えられるように祈っていたそうです。既に1500坪のダイヤモンドチャペルが与えられていましたので、あと8500坪が与えられるように祈っていました。すると前の教会の下にトンネルが通ることになり、代替地購入のため、2億円で売れたそうです。そのお金は、8500坪の土地に、新たな建物を建てる資金になりました。亀有教会では信じられない額かもしれませんが、大切なのは神様からビジョンをいただくということです。現状から夢を見るのではなく、神様の世界から夢を見る。ビジョンは下からではなく、上からやってくるものです。可能か、可能でないかではなく、お金があるかないかでもありません。神様からのビジョンが与えられるように祈りましょう。ビジョンが与えられたなら、必要な資金も、必要な人材も与えられるのです。「私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。アーメン。」

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2009年6月 7日 (日)

満ち足りる秘訣    ピリピ4:10-13

 ノーマン・ヴィンセント・ピールが書いた『積極的考え方の力』という有名な本があります。あるビジネスマンが、仕事中、時々、ポケットから白い紙を出しては口ずさんでいました。そのことによって、彼はいろんな問題を解決できました。その白い紙に書いてあったものが、このピリピ4章13節です。「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです」と、彼は事ある度に、口ずさんでいたのです。私は、積極思考は、すばらしいことだと思います。反対しません。でも、このみことばは「できると考えるなら、何でもできる。私は主にあって不可能はない」ということを教えているみことばではないようです。聖書は文脈から学ぶことが大切です。このみことばの前後を見ると、別なことに対して言っているのではないかと思います。もう一度、11節から13節までを一気に読んでみます。ピリピ4:11-13「乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」どうでしょうか?パウロは貧しい中、豊かさの中、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ていました。あらゆる境遇に対処することと、「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです」というみことばが関係あると思います。きょうは2つのポイントでお話しいたしますが、口語訳の「わたしは貧に処する道を知っており、富におる道も知っている」というみことばを用いたいと思います。

1.貧に処する道

 言い換えるならば、飢えや乏しさという境遇に対処する秘訣です。戦争を通過した方は、飢えや乏しさということを十分に体験されたのではないでしょうか。配給米とか、ヤミ米というのを聞いたことがあります。大川牧師は「芋とかぼちゃは一生分食べたので、もう食べたくない」と言っておられました。私も8人兄弟の7番目だったので、結構、貧しかったです。何にもないので、小麦粉を解いてフライパンで揚げたり、水で溶かした片栗粉にお湯を入れて食べました。だから、もんじゃ焼きとかお好み焼きは、貧しい頃を思い出すので、食べたくないのであります。インスタントラーメンもそうであります。もう一生分食べたので、もう食べたくありません。世界では、8億人以上が飢えているそうです。また、飢えと貧困によって、毎日2万5000人が亡くなっているとのことです。それと比べたら、私の子供時代も、まだマシだったのかもしれません。でも、みなさん、家庭が貧しいとどんなことが起こるでしょうか?私は「また、シャケか-」と、食事の度ごとに不平不満をもらしました。どっちが多い、こっちが多いと食べ物でよく兄弟喧嘩をしました。学校に行くといろんなものが必要になります。買うお金が家にはなかったので、母は隣り近所にお金を借りに行っていました。こっちは、他の友達と同じでなければ恥ずかしいので、買ってもらうのが当たり前だと思っていました。しかし、私が高校生のとき、母が一階から二階にいる私にこう言いました。「他の兄弟はみんな我慢したのに、何故、お前はがまんできないんだ!ヤシ、お前が一番、親不孝者だ。ああ、情けない」。私は、「情けない」ということばが大嫌いなのであります。「何で、この家はこんなに貧しいんだ!」と何度、叫んだでしょうか?要は、父が酒を飲んで、あまり働かなかったからであります。結構、みなさんの中にも、「貧乏って嫌だよなー」と腹の底から思っていらっしゃる方がおられるのではないでしょうか。貧しさは本当に、心を卑屈にします。また、貧しいために人の物を取ったり、セコイことをやってお金をせしめる、そういうことをするようになるんじゃないでしょうか?お金で苦しんだ人は、大人になると逆に、金の亡者になる恐れがあります。ケチになって、貯金をして、全く使わないという人もいるかもしれません。また、私のように貧しかった人は、お金の管理が得意ではないかもしれません。あればあっただけ使ってしまう。どちらにしても、貧困という劣等感で支配されています。

 使徒パウロはどのようにして、貧しさの中にいる道、つまり、飢えや乏しさという境遇に対処する秘訣を学んだのでしょうか?Ⅱコリント11章には、パウロ自身のことが記されています。Ⅱコリント11:27「労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいたこともありました。」パウロは、神からの召命で、異邦人伝道を志し小アジアからギリシャ、そしてローマまでも出かけました。パウロを使徒として歓迎してくれるところもあれば、まったくそうでないところもありました。最初の頃、パウロは天幕作りをして、自費で伝道していました。コリントの教会に対してこのように述べています。「あなたがたに御霊のものを蒔いたのであれば、あなたがたから物質的なものを刈り取ることは行き過ぎでしょうか?…主も、福音を宣べ伝える者が、福音の働きから生活のささえを得るように定めておられます。しかし、私はこれらの権利を一つも用いませんでした。」(Ⅰコリント9:11以下)。パウロは、報酬のために福音を宣べ伝えたのではなく、福音を宣べ伝えなければ災い会うのでしたのです。でも、主がパウロに福音宣教を命じたがゆえに、主が責任をもって必要を満たしてあげたことは確かであります。おそらく巡回伝道者が最初に学ぶべきことは、「経済的な必要は神様が与えてくださる」という信仰でありましょう。牧師の場合は支えてくれる教会がありますが、伝道者とか宣教師は、明日のことに対する保証がありません。だから、祈って、必死に主に頼りながら、福音宣教をしなければなりません。でも、主が本当にその人を召しておられるなら、その必要は必ず与えられるということです。ですから、多くの場合、牧師とか伝道者になるときの関門は、経済的な問題が信仰によってクリヤーできるかどうかです。でも、その人が神様から本当に召されているならば、神様が経済的な必要を満たしてくださいます。

 では、私たち、みんなはどうでしょうか?クリスチャンであろうと伝道者であろうと本当は変わりありません。神様は、それぞれが働いて、日々の糧を得るように願っておられます。では、どうしたら、たとえ貧しさの中にいても、主にあって必要が与えられるのでしょうか?クリスチャンは3つのことができます。第一番目は祈るということです。神様は祈りのこたえてくださいます。第二番目は勤勉に働くことです。これは私たちの責任です。第三番目は創造的であることです。神様は私たちに神様の知恵と原則を与えてくださいます。「主の祈り」でも、「日ごとの糧をきょうもお与えください」と祈るように命じられています。仕事がなければ、「仕事をください」と神様にお祈りすれば良いのです。インドネシヤは日本よりも失業率が高いそうですが、すばらしい証がたくさんあります。ある人は寿司を全く握ったことがないのに、レストランで働くことになりました。いつものコックが急病で休んだために、彼は臨時採用になりました。彼は、「ハレルヤ!聖霊様どうやって握ったら良いでしょうか?教えてください」と聞きながら、寿司を握ってみました。すると、その寿司が売切れてしまいました。次の日、彼は店長に「昨日の倍、作らせてください」とお願いしました。すると店長は、「もし売れ残ったならお前が全部、買い取るんだよ」と言いました。すると、なんと、倍の数のお寿司が売れました。どういう訳か、彼のお寿司を人々が買いに来ました。何日かたって、前のコックが健康を回復して戻ってきました。そのため、彼はクビになりました。「ハレルヤ!主よ、クビになりました。また、どうか導いてください」と祈りました。するとどうでしょう?お店に、「いつもの寿司はないのか?」とお客さんが何人も尋ねてきました。仕方なく、店長はその人に連絡し、正社員になってもらって、またお寿司を握ってもらったそうです。このように祈りはきかれます。私は詩篇23篇がとても大好きです。「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。」ここには、主が私の羊飼いであるならば、乏しいことはないと書いてあります。主が私たちよりも先立って歩み、牧草や水のありかまで導いてくださるからです。また、英語の聖書は、I shall not want.「私は欲しいということがない」と訳すことができます。つまり、満ち足りているということです。現実的に、私たちは欲しいものがいっぱいあります。人間の欲望にはキリがないからです。でも、主は私たちに満ち足りる喜びを与えてくださいます。欲しいものは全部与えられないかもしれませんが、主は、必要なものは与えてくださるということです。イエス様を信じていない頃ですが、美味しいものを食べたときは確かに美味しかったでしょう。美味しいものは信仰にあまり関係ありません。でもどうでしょうか?信仰があると、わずかなものでも、「アーメン感謝します」とおいしくいただくことができます。私は貧しい家庭で育ったことを今では感謝しています。食わず嫌いは別にして、だいたい、何でもいただくことができます。なけりゃないなりに、ご飯が食べられます。「あれはあれで良かったなー」と思います。魂が満足しているならば、食べ物や持ち物などから解放されます。あればあったに越したことはないけど、なければないでも構わない。そういうシンプルライフこそが、貧に処する道ではないかと思います。

2.富におる道

 言い換えるならば、豊かさの中にいる道、富むことの境遇に対処する秘訣です。豊かさは悪いことではありません。でも、豊かになれば豊かになったで、誘惑もあります。箴言の30章には、このような祈りがあります。箴言30:8-9「貧しさも富も私に与えず、ただ、私に定められた分の食物で私を養ってください。私が食べ飽きて、あなたを否み、『主とはだれだ』と言わないために。また、私が貧しくて、盗みをし、私の神の御名を汚すことのないために。」豊かになると、食べ飽きて、主を否み、「主とはだれだ」と言ってしまう可能性があるということです。世の中には、「成金」という人たちがいます。今から30-40年くらい前でしょうか?成田空港やその道路のために土地を売って大金持ちになった人たちがいました。また、鹿島臨海工業地帯とか筑波学園都市の場合もそうでした。日本中が開発ブームでしたから、その場所にひっかかったら土地成金になります。でもどうでしょうか?息子はスポーツカーを何台も買って仕事もしない。ギャンブルや財テクに手を出し、あっという間にお金を使い果たしたという人たちもいたでしょう。芸能界の人も売れないときは、ラーメンとかパンの耳で暮らします。でも、一旦、ブレークしたら、もうお金がうなるように入ります。まず、高級マンションを買います。それから毎日、高級クラブを飲み歩き、税金対策のため会社を経営したりします。ある人は外国のホテルを買いあさります。でも、どうでしょうか?本業ではなく、会社や株のために、莫大な借金を負ってしまいます。でも、彼らは一旦、身についたハイクラスの生活を落とすことができません。そのため、さらに借金が積み重なり、再起不能になるようです。私たちはそういう人たちの話を聞いていますので、「あんまり大きな額のお金は不要だなー」と思っています。でも、「ある程度のお金は持ちたい、ある程度は豊かになりたい」とどなたでも思っているのではないでしょうか?

 では、みなさん、お金の奴隷にならないで、豊かになるという秘訣はあるのでしょうか?あります。これが富におる道であります。皆さん、世界で最もお金持ちだった人はだれかご存知でしょうか?人類史上最高の富豪はロックフェラーであり、ビル・ゲイツの3倍もの富を築き上げました。ニューヨークのロックフェラーセンターのように、ロックフェラーは今でも、偉大な巨人として、世界中の称賛を集めています。これは、『ロックフェラーが知っていたもうけ方』という本からの引用です。ロックフェラーは一生母親との約束を守りながら、神様が与えてくださった賜物を開発し続けました。彼は、母親の教えに従って、困難のときも喜びのときも、いつも祈ることを忘れない人でした。彼の母は、息子に幼いときから次の3つの約束を守るように教えました。①十分の一献金をささげること。②教会に行ったら、一番前の席に座って礼拝をささげること。③教会に素直に従い、牧師を悲しませないこと。特に、マラキ3:10のみことばをよく思い起こすようにさせました。「わたしの宮に食物のあるように、十分の一全部をわたしの倉に携えてきなさい。これをもってわたしを試み、わたしが天の窓を開いて、あふるる恵みを、あなたがたに注ぐか否かを見なさいと、万軍の主は言われる。」アーメン。ロックフェラーは億万長者になった後も、誠実に節約する精神を貫き通しました。彼は一生、日記を付けるように会計帳簿を徹底的に記録しましたし、収入を正確に計算し、完全な十分の一の献金を神様に捧げました。世界一の富豪になった後も、十分の一献金を計算するための担当部署に、40名の職員を雇うほどでした。彼は小学校に入る前から98歳で天に召されるまで、一度も忘れることなく十分の一献金を神様に捧げました。幼い頃から受けた母の教えは、彼にとって座右の銘となり、最も大きな遺産になったのです。ロックフェラーは、十分の一献金が天の御国に宝を蓄えることであり、困難な人々を助けることであると考えていたので、いつも喜びながら十分の一献金を捧げました。そして、神様はそれを30倍、60倍、100倍にして、自分に返してくださるという信仰を持っていました。…さて、富におる道とは何でしょう?今、引用した本の中で、何度も繰り返し出てきた「十分の一献金」であります。人間的に考えるなら、「生活が楽になってからで良いよ」と言いたくなります。でも、そのように教えるならば、みなさんから神様の祝福を奪ってしまうことになります。主が「私を試して見よ」とおっしゃるのですから、信仰をもって捧げたらいかがでしょうか?主のみことばが真実であるかどうかは、捧げた人だけが分かります。

富におる道で、もっとも大切な真理とは何でしょうか?それは、「私たちは所有者ではなくて、管理者だ」ということです。お金や富、財産、あらゆる持ち物でも言うことができますが、私たちは所有者ではなくて、管理者だということです。では、だれが一体、所有者なのでしょうか?そうです。神様が所有者なのです。神様は私たちが必要とあらば、私たちに必要な分だけ預けてくださいます。もちろん、私たちは何らかの労働をして、受けることをしなければなりません。でも、それは「俺が自分の手で稼いだ」ということではなく、神様からの賜物だということです。さきほど、十分の一献金のお話をしましたが、十分の一献金とはこのような意味です。「神様、これらはみな、あなたからいただいたものです。私は今もこれからも、あなたにより頼みます。そのしるしとして、十分の一献金をあなたにお返しします。」また、十分の一は、「私は金銭の奴隷ではありません。私はあなたのしもべです」という意味です。そうしますと、金銭はあなたの良いしもべとなって、あなたに仕えてくれます。でも、十分の一をしない場合は、金銭があなたの主人となり、あなたが金銭の奴隷となってしまうでしょう。金銭はあなたにとって、とても厳しい主人となるでしょう。あなたは金銭に鞭打たれ、酷使され、追い回されるでしょう。どうぞ、金銭の奴隷にならないように、むしろ、金銭をあなたのしもべにしましょう。そうするならば、あなたは金銭をとても良いものに用いることができるでしょう。皆さん、お金はとても大切です。お金がなければ、教会堂も建てられませんし、牧師や宣教師を支えることができません。献金のときに、「このお金をきよめてください」とお祈りする方がおられます。これはお金が汚いとか汚れているという意味ではないでしょう。「きよめて」とは、「聖別する」と言う意味です。聖別とは、神様の御用のためにこのお金を用いてくださいという意味です。ついでに申し上げますが、「神様のご用のためにお用いください」のあと、「捧げられた方々の産業を豊かに祝福してください」とお祈りしたらもっと良いと思います。

セル・セミナーの関係で、香港からベン・ウォン師を何度もお呼びいたしました。ベン先生はいつもこのように言うのです。「出されたものならば何でもいただきます。ステーキだったらステーキを、ラーメンだったらラーメンでも喜んでいただきます。また、ベッドだったらベッドで寝ます。床に寝なさいと言われれば、喜んで床に寝ます。どうか気を使わないでください。」ベン先生は宣教師ですからいろんなところへ行っています。豊かなキリスト教国といえば、カナダ、オストラリア、南アフリカでしょうか。南アフリカの教会にはプール付きのゲストルームもあります。でも、貧しい国、たとえばインド、タイ、ネパールも行くことが度々あります。ネパールでは、寝床にさそりが出るそうです。ベン先生は、まさしく、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。でも、ベン先生は生活を楽しむこともちゃんとご存知です。亀有にお泊りになったとき、夜の10時過ぎだったでしょうか?「駅前のイトー・ヨーカドーに行きたい」と言うのです。亀有に来たときは、いつも行っているようです。一度、ご一緒したら「ああ、そうか」と思いました。ヨーカドーの地下に行くと、生ものが半値になっています。ベン先生はそこで、甘エビとか、刺身を買って来るんですね。ベン先生は市場みたいなところが大好きだとおっしゃっていました。みなさんも、どうでしょうか?お金が沢山ないと楽しむことができないと思ったらそれは間違いです。満ち足りる秘訣を持っているならば、わずかな金額でも喜び楽しむことができます。

皆さん、幼い頃を思い出してください。あなたがいただいたプレゼントでどんなものが心に残っていますか?おもちゃのピストルとか、ぬいぐるみ、帽子、赤い靴だったでしょうか?おそらく、そんなに高額ではなかったはずです。「あの時は満たされなかった。だからもっと、欲しい」という、心の中にイエス様を歓迎しましょう。イエス様は天のみくらを捨て、貧しい馬小屋にお生まれになりした。ナザレの貧しい家庭で育ち、貧しい中で伝道活動をされました。「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません」と言われました。亡くなられた時は他人のお墓を借りなければなりませんでした。なぜでしょう。Ⅱコリント 8:9「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。」もちろん、富むことの中には経済的、物質的なという意味も含まれるでしょう。でも、その前に私たちが癒されて、満ち足りる心を持つということが前提ではないでしょうか。私たちが満ち足りる秘訣を得ているならば、どんな境遇の中にあっても、富む者となることができるからです。

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