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2009年6月14日 (日)

私の神は         ピリピ4:14-23

 先週から関東地方が梅雨入りしたようです。梅雨というのは本当に「ゆうつ」であります。洗濯物は乾かないし、散歩にも行けません。先週、傘をさして散歩に行ったとき、修徳高校の生垣のコンクリートの壁を何の気なしに見ました。なんと、小さなかたつむりがいっぱい、いました。たぶん、彼らはコンクリートの中にあるカルシウムを食べているんじゃないかと思います。そのカルシウムが彼らの殻に必要だということを聞いたことがあります。コンクリートが雨に濡れると、カルシウムが染み出してくるのでしょうか?ところで、本日で「ピリピ人への手紙」は、終わりです。来週からは、「エペソ人への手紙」から学びたいと思います。パウロの書簡というのは、教えの塊みたいで、ミルクというよりは肉、堅い食物であります。コンクリートじゃありませんが、私たちは固い食物が必要なんであります。それでは、4章後半から2つのポイントで学びたいと思います。

1.霊的果実

 ピリピ4:14-18まで、日本語の聖書では「物」という漢字が、6回ほど出てきます。実際には、物というのは献金であり、他に衣類や穀物も含まれていたかもしれません。ピリピの教会はパウロの伝道を初期の頃からずっと、支えていました。Ⅱコリント8章には、「マケドニヤの諸教会は、極度の貧しさにもかかわらず…自ら進んで、力に応じ、いや力以上にささげた」と称賛しています。そのことは、パウロが新しい地に出かけて伝道しているとき、どんなに助けになったことでしょう。そして、今現在、パウロはローマの牢獄に繋がれています。その知らせを聞いて、ピリピの教会はエパフロデトを遣わしました。彼はパウロに贈り物をとどけた後、死ぬほどの病気にかかりました。パウロはピリピの教会の人たちのささげものが、「霊的祝福なのです」と言っています。霊的祝福というのは、原文では果実となっています。果実とは実であります。ピリピの教会の人たちに、神様の愛と信仰が与えられ、それが今度は具体的な実となって現れたのであります。実というのは、プロデュース、おのずと生み出されてくるものであります。献金とかささげものは、神様の愛と信仰から生み出されるものなのです。逆に言いますと、神様の愛と信仰がまだ育っていない場合は、献金とかささげものは、苦痛なのであります。ですから、そういう人は、神様から十分、受けることを学んでください。神様の豊かさを体験すると、今度は、与えること、ささげることができるようになるからです。

 では、パウロはどんな必要があったのでしょうか?パウロは使徒でした。使徒というのは、新しい地にでかけ、そこで福音を宣べ伝え、教会を設立します。教会と言っても建物ではなく、信仰者の群であります。しばらく、そこで滞在しながら、核となる人たちを育てます。その後、彼らに牧会を任せて、また新しい地に行くわけです。しかし、パウロには同労者たちがいました。シラス、テモテ、ルカ、テトスなど、彼らをも養わなければなりせん。移動するためには、船賃を含め、旅費も必要であります。ピリピのようにパウロたちを支えてくれる教会もありますが、コリントのようにパウロの使徒性を疑って、あまり支えない教会もあったでしょう。パウロはお金のために伝道してはいませんでしたが、宣教地に出かけ、教会を設立するために、お金が必要だったことは確かです。そういう意味で、神様の働きを拡大しようと思ったならば、どうしても資金が必要になります。それだったら、「神様、あなたご自身が出せば良いでしょう!」と言いたくなります。でも、どういう訳か、神様は贖われた人たちがささげる献金によって、神様の働きを進めるようにというのがみこころのようであります。イエス様もそうでしたし、ペテロやパウロ、他の弟子たちもそのようにしました。では、どうして、人々は神様の働きのためにささげるようになったのでしょうか?それは、霊のものを得たからです。霊のものというのは、福音によって罪の赦し、永遠の命、そして永遠の御国をいただいたということです。また、肉体や心が癒され、また、希望と信仰が与えられ、元気に働くことができるようになるでしょう。また、愛と平和がこころにやってきて、家庭や人間関係が祝福されるでしょう。人は霊のものを受けると、そこから生まれた肉のもの、物質を与えるようになるのです。コンピューターで言うなら、霊のものはソフトウェアーで、肉のものというのはハードウェアーであります。でも、神様は、ご自分の働きのために、信仰をもってささげた人を放ってはおかないのです。ちゃんと、それ以上の祝福を与えて報いてくださいます。これが、神様の方法なのであります。

 先週は、十分の一献金の大切さについてお話しました。神様に十分の一献金をささげるならば、神様が責任をもってみなさんの生活を祝福してくださいます。また、ささげた本人は金銭の奴隷となることなく、金銭を正しく管理することができるんだということです。しかし、献金にはもう1種類の献金があります。ピリピの人たちは、使徒パウロの働きが支えられるように献金しました。それは、十分の一献金とは別のものであります。みなさんがこういう集会でささげる献金、あるいは感謝献金、宣教団体、会堂建築、最近は車のための献金もありました。これはみな、神の国に対する投資であります。みなさんは、「御国の働きが拡大されるように」と信仰をもって投資しているのです。たとえて言うならば、このようになります。神様に十分の一献金をささげることによって、みなさんの畑の周りに、囲いが設けられました。これで悪い者が、入ってあなたの畑を荒らすことはありません。しかし、その畑に種を蒔くならばどうでしょうか?つまり、御国の働きのために投資するのです。すると、その実は何倍も帰ってきます。農家の人が1粒の種を蒔いて、1粒の実がなることを期待するでしょうか?そうじゃありません。麦やお米、とうもろこしを想像してみてください。おそらく、100倍から200倍の実をならせるのではないでしょうか?福音書に良い地にまかれた種のたとえが書いてあります。マタイ13:8「あるものは100倍、あるものは60倍、あるものは30倍の実を結んだ」と書いてあります。これはどういう意味でしょうか?これは、普通で100倍の実を結ぶ。「まあまあ」でも60倍。最低でも30倍の実は結ぶということです。

どうぞ、みなさん、「ああ、余分な献金をさせられる。損した」と考えないでください。こう語っている私自身はどうかと言いますと、ペンテコステ系の集会に参加したときは、試されます。1日、3回の集会があるとすると、集会ごと、つまり3回献金のときがあります。どんなに講壇から強く、アピールされても「いやー、まいったなー」と思うときがあります。その点、メル・ボンド師は、毎回、信仰をもってささげることがどんなにすばらしいことか話してくだいます。また、先生は、献金のたびに、祝福の祈りもしてくださいます。そうすると、こちらに信仰がやってきて、信仰をもってささげたくなります。みなさん、これは信仰なのです。パウロは「信仰から出たものでないならばすべてのことは罪です」と教えています。こういう話があります。小さな娘が、食後のデザートでいちごを食べていました。お父さんが仕事から家に帰ってきて、そのいちごが欲しくなりました。「ああ、おいしそうだな。パパも食べたいな。少しちょうだい」と言ったとします。もし、娘が「いや、これ私のだもん。ダメ」と言ったらどうでしょう。パパは、「娘よ、あなたの洋服も、食べ物も、私が働いて得たものだよ」とは言わないでしょうが、がっかりはするでしょう。でも、どうでしょうか?娘が「パパ、お仕事、疲れたでしょう。どうぞ」と6粒のうち、3粒をくれたとします。パパは「うぁー、半分もくれるの。たいした犠牲を払ったなー」と感激するでしょう。それで終わりでしょうか?そうではありません。何日か後、パパは、仕事の帰り、果物屋さんに寄るでしょう。そこで、いちご1パックを買って、まるごと全部、娘にプレゼントするのではないでしょうか?神様は私たちの心をご覧になっておられるのです。それはパウロが言っていることと同じであります。パウロが言っていることは、まさしく、天のお父様のことばであります。ピリピ4:17「私は贈り物を求めているのではありません。私のほしいのは、あなたがたの収支を償わせて余りある霊的祝福(果実)なのです。」

2.私の神は

ピリピ4:19-20「また、私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。どうか、私たちの父なる神に御栄えがとこしえにありますように。アーメン。」パウロは贈り物の問題を、頌栄をもって結んでいるということは、意義深いことであります。頌栄とは、パウロは神様をほめたたえることであります。ピリピの人たちのささげものが、神様をほめたたえるに至ったということです。そして、パウロは神様が、ピリピの人たち対して豊かに報いて得くださることを確信しています。19節に「私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます」とあります。ちょっとこれは、驚きではないでしょうか?パウロは「私の神は…あなたがたの必要をすべて満たしてくださる」と言っています。「私の神」とは、すごいんじゃないでしょうか?パウロはそれほど神様と親しい関係にあり、まるで、神様を独占しているかのようであります。みなさんも、人々に「私の神は」「私のイエス様は」と紹介できたら、すばらしいですね。何故、パウロはこんなふうに「私の神は」と言えたのでしょうか?それはパウロが、自分が信じている神様は、いつも必要を与えてくださり、乏しいことがなかったということを腹いっぱい体験していたからです。パウロは「私の神様は良き神様であり、豊かに供給してくださるお方だ」ということを体験的に知っていたのです。私たちも、頭だけの信仰ではなく、心の深みまで、神様の豊かさを体験したいと思います。では、どうしたらそういうことを体験できるのでしょうか?

神様は「父なる神様です」。私たちは神様を「天のお父様」と呼びます。そのとき、「ああー、もう一人いたなー」と思い出します。それは、私を育ててくれた、地上のお父さんです。でも、どういうわけか、地上のお父さんと天のお父さんが、重なって見えます。つまりこういうことです。地上のお父さんが、酒ばっかり飲んで、ろくにも働かず、お家が貧しかった。お父さんは全く頼りにならないので、自分が母や弟や妹たちのために働いたという人はどうでしょうか?そういう人が、天のお父様の正しいイメージをいだくことができるでしょうか?おそらく、「天のお父様も、貧しくて、あまり面倒みてくれないんじゃないだろうか?」と思わないでしょうか?心の奥底に、「本当に頼れるのは自分だけだ、神様じゃないよ」と、思うのではないでしょうか?地上のお父さんがケチであるなら、天のお父様もケチに見える。地上のお父さんが弱々しかったなら、天のお父様も弱々しく見える?本当に神様は豊かに与えてくださるのだろうか?なかなか、信じられないのではないでしょうか?放蕩息子のお兄さんがそうでした。彼は「私には、友達と楽しめと言って、子山羊一匹くださったことがありません」と言いました。でも、彼の父は「子よ。私のものは全部おまえのものだ」と言いました。では、放蕩息子のお兄さんとはだれでしょうか?当時の宗教指導者、パリサイ人や律法学者でした。彼らはとても真面目に律法を守りました。でも、父なる神様と楽しく交わったり、父なる神様の豊かさを喜ぶということがありませんでした。クリスチャンで、真面目に信仰生活を送っている人たちの中にもいるんじゃないでしょうか?「もし、自分が信じている神様を信じたなら、不幸な人がもう一人ふえる。だったら、紹介しない方が良いかなー」なんて。自分が心から信じて、慕っている神様だったなら、「黙れ」と言われても、言いたくなるんじゃないでしょうか?

パウロは「私の神は」と言えたことはすばらしいと思います。みなさんは、「私の神様は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、私の必要をすべて満たしてくださいます」と信じていらっしゃるでしょうか?私自身のことです。私は何度かお話したことがありますが、私の長男はアメリカに行ったきりです。アメリカ留学がこんなにもお金がかかるのか知りませんでした。長男を送り出すとき「私にはお金がないけど、私の父にはお金があるから大丈夫、心配ない」と言いました。そのときは、何とかなると本気で思っていたんです。でも、「この間、送ったのに、またかよー?」ということが度々、というか何年も続きました。私は教会堂建築のときはあまり苦労しませんでした。1億4千万円くらいかかりましたが、本当に、信仰によって建てられたと思いました。でも、息子に関しては信仰が試されました。会堂建設のように、大声で言うわけにもいきません。もうどこから、お金がくるのでしょう?どの銀行が貸してくれるのでしょう?一体、だれが貸してくれるのでしょう?何度も、パニック状態になりました。郵便局でも2年と4ヶ月働きました。「それはあなたの息子のことであって、神様の働きではないでしょう」と言われれば、それまでです。私も自分で送り出した手前、面倒みなくてはなりません。「だれも助けてくれない。自分が可愛そうだ」と、自己憐憫に陥る暇はありません。何度か、泣きましたけど、ただ、ひたすら、神様に頼るのみです。では、私自身、「私の神様は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、私の必要をすべて満たしてくださるということを信じているのだろうか?」と、自問自答しました。まだ結論は出ていませんが、こういうことだけは学んでいます。神様は「はい、どうぞ!」と現金を「ドーン」とくださるお方ではないようです。私自身も祈りつつ、どこからかお金を工面しようとします。あっちがダメで、こっちもダメ。じゃあ、こうしよう。不思議に1つの道が開かれます。また半年もたつと、「お金がない」という連絡が来ます。また、「こうしょう、ああしよう」と捜し求める。すると、不思議に1つの道が開かれます。この繰り返しで、今までやって来られました。少なくとも、言えることは、父なる神様は、こういう金銭的に八方塞の中で、訓練してくれたのではないかと思います。もう、長男のために十分送ったと思いますので、信仰的には、一段落しました。神様はケチな方ではありませんが、同時に、気前よく、ポンと与えてくださる方もないようです。神様は、必要であるならば、満たしてくださる。そのとき、私の信仰と私の品性を同時に、訓練して成長させてくださるということです。まだ、私もこの分野の学びは途中なので、途中のことしかみなさんには言えません。

でも、ここに重要なポイントが隠されています。「私の神様は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって…満たしてくださる」と書いてあります。神様と栄光の富の間に、イン・クライスト、つまりキリスト・イエス様がおられるということです。言い換えるならば、キリスト・イエス様抜きでは、神様の栄光の富を受け取ることができないということです。では、「キリスト・イエスにある」とはどういうことでしょうか?これは、使徒パウロも経験していたことであり、私たちにも必要なことです。私たちがキリスト・イエスにあって神様の栄光の富を受けるためにはどのようなことが必要なのでしょうか?第一に、イエス・キリストを信じて、神様と親しい関係を持つということです。つまり、神様が天のお父様であり、私が神のこどもであるということです。神様と親子関係を結ぶならば、大胆に「下さい!」と、お願いできるということです。第二に、「キリスト・イエスにある」とは、イエス様が御国の金庫を開ける鍵だということです。ヨハネ16章でイエス様はこのように約束されました。ヨハネ16:23-24「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが父に求めることは何でも、父は、わたしの名によってそれをあなたがたにお与えになります。あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。」私は、このみことばをまだ、十分できて体験していません。一体何が足りないのでしょうか?それは求める祈りをしていないからです。祈りには神様と交わる祈りと、神様に求める祈りがあります。求める祈りは、何かレベルが低いように思われがちです。でも、祈りがあまりきかれていないとしたら、求める祈りが足りないということではないでしょうか?10数年に山崎長老さんが、「祈りの友」というグループを作りました。みんな同じ手帳を持って、そこに共通の祈りの課題を加えました。そして、みんながその祈りの課題を祈ります。不思議なことに、90%ぐらい叶えられました。やっぱり、自分で祈りのノートを作って、具体的に神様に祈るべきだと思います。「神様、まだ、これが叶えられていませんよ」と、食らいつくような祈りをしたいです。私たちには、求める祈りが不足していると思います。いかがでしょうか?第三は、「キリスト・イエスにある」とはビジョンと関係があるということです。私たちは「お金があったらこういうことができるのになー」と、まずお金を求めてしまいます。そして、「お金がないから、できないんだ」と諦めてしまいます。でも、そうではありません。お金よりも先立つものがあります。それはビジョンです。キリスト・イエスにあって、どんなビジョンを持っているのか?本当に神様からのビジョンであれば、お金がキリスト・イエスを通して、与えられるということです。私は「本当にビジョンがないなー」と思います。「必要なお金も、必要な人材も、すべて与えられるとしたら、何をしたいでしょうか?」ビジョンが先で、資金はその次である。これは神の国の原則であると信じます。

前にもお話しましたが、本郷台キリスト教会は、先月、8500坪の土地を購入しました。9億円するのですが、すでにその1億円を払ったそうです。その土地を前から、サッカー場として使っていましがが、会社が土地を手放したいということになりました。もし、他のところが買ったのであれば、もうサッカーはできません。300人ものメンバーがいますが、その父兄たちが、「教会が買ってくれたら、子供たちがサッカーできるのに」とお願いしたそうです。そこで、伝道のために教会が買ったのです。でも、本郷台キリスト教会はその10年も前から、1万坪が与えられるように祈っていたそうです。既に1500坪のダイヤモンドチャペルが与えられていましたので、あと8500坪が与えられるように祈っていました。すると前の教会の下にトンネルが通ることになり、代替地購入のため、2億円で売れたそうです。そのお金は、8500坪の土地に、新たな建物を建てる資金になりました。亀有教会では信じられない額かもしれませんが、大切なのは神様からビジョンをいただくということです。現状から夢を見るのではなく、神様の世界から夢を見る。ビジョンは下からではなく、上からやってくるものです。可能か、可能でないかではなく、お金があるかないかでもありません。神様からのビジョンが与えられるように祈りましょう。ビジョンが与えられたなら、必要な資金も、必要な人材も与えられるのです。「私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。アーメン。」

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