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2009年6月 7日 (日)

満ち足りる秘訣    ピリピ4:10-13

 ノーマン・ヴィンセント・ピールが書いた『積極的考え方の力』という有名な本があります。あるビジネスマンが、仕事中、時々、ポケットから白い紙を出しては口ずさんでいました。そのことによって、彼はいろんな問題を解決できました。その白い紙に書いてあったものが、このピリピ4章13節です。「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです」と、彼は事ある度に、口ずさんでいたのです。私は、積極思考は、すばらしいことだと思います。反対しません。でも、このみことばは「できると考えるなら、何でもできる。私は主にあって不可能はない」ということを教えているみことばではないようです。聖書は文脈から学ぶことが大切です。このみことばの前後を見ると、別なことに対して言っているのではないかと思います。もう一度、11節から13節までを一気に読んでみます。ピリピ4:11-13「乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」どうでしょうか?パウロは貧しい中、豊かさの中、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ていました。あらゆる境遇に対処することと、「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです」というみことばが関係あると思います。きょうは2つのポイントでお話しいたしますが、口語訳の「わたしは貧に処する道を知っており、富におる道も知っている」というみことばを用いたいと思います。

1.貧に処する道

 言い換えるならば、飢えや乏しさという境遇に対処する秘訣です。戦争を通過した方は、飢えや乏しさということを十分に体験されたのではないでしょうか。配給米とか、ヤミ米というのを聞いたことがあります。大川牧師は「芋とかぼちゃは一生分食べたので、もう食べたくない」と言っておられました。私も8人兄弟の7番目だったので、結構、貧しかったです。何にもないので、小麦粉を解いてフライパンで揚げたり、水で溶かした片栗粉にお湯を入れて食べました。だから、もんじゃ焼きとかお好み焼きは、貧しい頃を思い出すので、食べたくないのであります。インスタントラーメンもそうであります。もう一生分食べたので、もう食べたくありません。世界では、8億人以上が飢えているそうです。また、飢えと貧困によって、毎日2万5000人が亡くなっているとのことです。それと比べたら、私の子供時代も、まだマシだったのかもしれません。でも、みなさん、家庭が貧しいとどんなことが起こるでしょうか?私は「また、シャケか-」と、食事の度ごとに不平不満をもらしました。どっちが多い、こっちが多いと食べ物でよく兄弟喧嘩をしました。学校に行くといろんなものが必要になります。買うお金が家にはなかったので、母は隣り近所にお金を借りに行っていました。こっちは、他の友達と同じでなければ恥ずかしいので、買ってもらうのが当たり前だと思っていました。しかし、私が高校生のとき、母が一階から二階にいる私にこう言いました。「他の兄弟はみんな我慢したのに、何故、お前はがまんできないんだ!ヤシ、お前が一番、親不孝者だ。ああ、情けない」。私は、「情けない」ということばが大嫌いなのであります。「何で、この家はこんなに貧しいんだ!」と何度、叫んだでしょうか?要は、父が酒を飲んで、あまり働かなかったからであります。結構、みなさんの中にも、「貧乏って嫌だよなー」と腹の底から思っていらっしゃる方がおられるのではないでしょうか。貧しさは本当に、心を卑屈にします。また、貧しいために人の物を取ったり、セコイことをやってお金をせしめる、そういうことをするようになるんじゃないでしょうか?お金で苦しんだ人は、大人になると逆に、金の亡者になる恐れがあります。ケチになって、貯金をして、全く使わないという人もいるかもしれません。また、私のように貧しかった人は、お金の管理が得意ではないかもしれません。あればあっただけ使ってしまう。どちらにしても、貧困という劣等感で支配されています。

 使徒パウロはどのようにして、貧しさの中にいる道、つまり、飢えや乏しさという境遇に対処する秘訣を学んだのでしょうか?Ⅱコリント11章には、パウロ自身のことが記されています。Ⅱコリント11:27「労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいたこともありました。」パウロは、神からの召命で、異邦人伝道を志し小アジアからギリシャ、そしてローマまでも出かけました。パウロを使徒として歓迎してくれるところもあれば、まったくそうでないところもありました。最初の頃、パウロは天幕作りをして、自費で伝道していました。コリントの教会に対してこのように述べています。「あなたがたに御霊のものを蒔いたのであれば、あなたがたから物質的なものを刈り取ることは行き過ぎでしょうか?…主も、福音を宣べ伝える者が、福音の働きから生活のささえを得るように定めておられます。しかし、私はこれらの権利を一つも用いませんでした。」(Ⅰコリント9:11以下)。パウロは、報酬のために福音を宣べ伝えたのではなく、福音を宣べ伝えなければ災い会うのでしたのです。でも、主がパウロに福音宣教を命じたがゆえに、主が責任をもって必要を満たしてあげたことは確かであります。おそらく巡回伝道者が最初に学ぶべきことは、「経済的な必要は神様が与えてくださる」という信仰でありましょう。牧師の場合は支えてくれる教会がありますが、伝道者とか宣教師は、明日のことに対する保証がありません。だから、祈って、必死に主に頼りながら、福音宣教をしなければなりません。でも、主が本当にその人を召しておられるなら、その必要は必ず与えられるということです。ですから、多くの場合、牧師とか伝道者になるときの関門は、経済的な問題が信仰によってクリヤーできるかどうかです。でも、その人が神様から本当に召されているならば、神様が経済的な必要を満たしてくださいます。

 では、私たち、みんなはどうでしょうか?クリスチャンであろうと伝道者であろうと本当は変わりありません。神様は、それぞれが働いて、日々の糧を得るように願っておられます。では、どうしたら、たとえ貧しさの中にいても、主にあって必要が与えられるのでしょうか?クリスチャンは3つのことができます。第一番目は祈るということです。神様は祈りのこたえてくださいます。第二番目は勤勉に働くことです。これは私たちの責任です。第三番目は創造的であることです。神様は私たちに神様の知恵と原則を与えてくださいます。「主の祈り」でも、「日ごとの糧をきょうもお与えください」と祈るように命じられています。仕事がなければ、「仕事をください」と神様にお祈りすれば良いのです。インドネシヤは日本よりも失業率が高いそうですが、すばらしい証がたくさんあります。ある人は寿司を全く握ったことがないのに、レストランで働くことになりました。いつものコックが急病で休んだために、彼は臨時採用になりました。彼は、「ハレルヤ!聖霊様どうやって握ったら良いでしょうか?教えてください」と聞きながら、寿司を握ってみました。すると、その寿司が売切れてしまいました。次の日、彼は店長に「昨日の倍、作らせてください」とお願いしました。すると店長は、「もし売れ残ったならお前が全部、買い取るんだよ」と言いました。すると、なんと、倍の数のお寿司が売れました。どういう訳か、彼のお寿司を人々が買いに来ました。何日かたって、前のコックが健康を回復して戻ってきました。そのため、彼はクビになりました。「ハレルヤ!主よ、クビになりました。また、どうか導いてください」と祈りました。するとどうでしょう?お店に、「いつもの寿司はないのか?」とお客さんが何人も尋ねてきました。仕方なく、店長はその人に連絡し、正社員になってもらって、またお寿司を握ってもらったそうです。このように祈りはきかれます。私は詩篇23篇がとても大好きです。「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。」ここには、主が私の羊飼いであるならば、乏しいことはないと書いてあります。主が私たちよりも先立って歩み、牧草や水のありかまで導いてくださるからです。また、英語の聖書は、I shall not want.「私は欲しいということがない」と訳すことができます。つまり、満ち足りているということです。現実的に、私たちは欲しいものがいっぱいあります。人間の欲望にはキリがないからです。でも、主は私たちに満ち足りる喜びを与えてくださいます。欲しいものは全部与えられないかもしれませんが、主は、必要なものは与えてくださるということです。イエス様を信じていない頃ですが、美味しいものを食べたときは確かに美味しかったでしょう。美味しいものは信仰にあまり関係ありません。でもどうでしょうか?信仰があると、わずかなものでも、「アーメン感謝します」とおいしくいただくことができます。私は貧しい家庭で育ったことを今では感謝しています。食わず嫌いは別にして、だいたい、何でもいただくことができます。なけりゃないなりに、ご飯が食べられます。「あれはあれで良かったなー」と思います。魂が満足しているならば、食べ物や持ち物などから解放されます。あればあったに越したことはないけど、なければないでも構わない。そういうシンプルライフこそが、貧に処する道ではないかと思います。

2.富におる道

 言い換えるならば、豊かさの中にいる道、富むことの境遇に対処する秘訣です。豊かさは悪いことではありません。でも、豊かになれば豊かになったで、誘惑もあります。箴言の30章には、このような祈りがあります。箴言30:8-9「貧しさも富も私に与えず、ただ、私に定められた分の食物で私を養ってください。私が食べ飽きて、あなたを否み、『主とはだれだ』と言わないために。また、私が貧しくて、盗みをし、私の神の御名を汚すことのないために。」豊かになると、食べ飽きて、主を否み、「主とはだれだ」と言ってしまう可能性があるということです。世の中には、「成金」という人たちがいます。今から30-40年くらい前でしょうか?成田空港やその道路のために土地を売って大金持ちになった人たちがいました。また、鹿島臨海工業地帯とか筑波学園都市の場合もそうでした。日本中が開発ブームでしたから、その場所にひっかかったら土地成金になります。でもどうでしょうか?息子はスポーツカーを何台も買って仕事もしない。ギャンブルや財テクに手を出し、あっという間にお金を使い果たしたという人たちもいたでしょう。芸能界の人も売れないときは、ラーメンとかパンの耳で暮らします。でも、一旦、ブレークしたら、もうお金がうなるように入ります。まず、高級マンションを買います。それから毎日、高級クラブを飲み歩き、税金対策のため会社を経営したりします。ある人は外国のホテルを買いあさります。でも、どうでしょうか?本業ではなく、会社や株のために、莫大な借金を負ってしまいます。でも、彼らは一旦、身についたハイクラスの生活を落とすことができません。そのため、さらに借金が積み重なり、再起不能になるようです。私たちはそういう人たちの話を聞いていますので、「あんまり大きな額のお金は不要だなー」と思っています。でも、「ある程度のお金は持ちたい、ある程度は豊かになりたい」とどなたでも思っているのではないでしょうか?

 では、みなさん、お金の奴隷にならないで、豊かになるという秘訣はあるのでしょうか?あります。これが富におる道であります。皆さん、世界で最もお金持ちだった人はだれかご存知でしょうか?人類史上最高の富豪はロックフェラーであり、ビル・ゲイツの3倍もの富を築き上げました。ニューヨークのロックフェラーセンターのように、ロックフェラーは今でも、偉大な巨人として、世界中の称賛を集めています。これは、『ロックフェラーが知っていたもうけ方』という本からの引用です。ロックフェラーは一生母親との約束を守りながら、神様が与えてくださった賜物を開発し続けました。彼は、母親の教えに従って、困難のときも喜びのときも、いつも祈ることを忘れない人でした。彼の母は、息子に幼いときから次の3つの約束を守るように教えました。①十分の一献金をささげること。②教会に行ったら、一番前の席に座って礼拝をささげること。③教会に素直に従い、牧師を悲しませないこと。特に、マラキ3:10のみことばをよく思い起こすようにさせました。「わたしの宮に食物のあるように、十分の一全部をわたしの倉に携えてきなさい。これをもってわたしを試み、わたしが天の窓を開いて、あふるる恵みを、あなたがたに注ぐか否かを見なさいと、万軍の主は言われる。」アーメン。ロックフェラーは億万長者になった後も、誠実に節約する精神を貫き通しました。彼は一生、日記を付けるように会計帳簿を徹底的に記録しましたし、収入を正確に計算し、完全な十分の一の献金を神様に捧げました。世界一の富豪になった後も、十分の一献金を計算するための担当部署に、40名の職員を雇うほどでした。彼は小学校に入る前から98歳で天に召されるまで、一度も忘れることなく十分の一献金を神様に捧げました。幼い頃から受けた母の教えは、彼にとって座右の銘となり、最も大きな遺産になったのです。ロックフェラーは、十分の一献金が天の御国に宝を蓄えることであり、困難な人々を助けることであると考えていたので、いつも喜びながら十分の一献金を捧げました。そして、神様はそれを30倍、60倍、100倍にして、自分に返してくださるという信仰を持っていました。…さて、富におる道とは何でしょう?今、引用した本の中で、何度も繰り返し出てきた「十分の一献金」であります。人間的に考えるなら、「生活が楽になってからで良いよ」と言いたくなります。でも、そのように教えるならば、みなさんから神様の祝福を奪ってしまうことになります。主が「私を試して見よ」とおっしゃるのですから、信仰をもって捧げたらいかがでしょうか?主のみことばが真実であるかどうかは、捧げた人だけが分かります。

富におる道で、もっとも大切な真理とは何でしょうか?それは、「私たちは所有者ではなくて、管理者だ」ということです。お金や富、財産、あらゆる持ち物でも言うことができますが、私たちは所有者ではなくて、管理者だということです。では、だれが一体、所有者なのでしょうか?そうです。神様が所有者なのです。神様は私たちが必要とあらば、私たちに必要な分だけ預けてくださいます。もちろん、私たちは何らかの労働をして、受けることをしなければなりません。でも、それは「俺が自分の手で稼いだ」ということではなく、神様からの賜物だということです。さきほど、十分の一献金のお話をしましたが、十分の一献金とはこのような意味です。「神様、これらはみな、あなたからいただいたものです。私は今もこれからも、あなたにより頼みます。そのしるしとして、十分の一献金をあなたにお返しします。」また、十分の一は、「私は金銭の奴隷ではありません。私はあなたのしもべです」という意味です。そうしますと、金銭はあなたの良いしもべとなって、あなたに仕えてくれます。でも、十分の一をしない場合は、金銭があなたの主人となり、あなたが金銭の奴隷となってしまうでしょう。金銭はあなたにとって、とても厳しい主人となるでしょう。あなたは金銭に鞭打たれ、酷使され、追い回されるでしょう。どうぞ、金銭の奴隷にならないように、むしろ、金銭をあなたのしもべにしましょう。そうするならば、あなたは金銭をとても良いものに用いることができるでしょう。皆さん、お金はとても大切です。お金がなければ、教会堂も建てられませんし、牧師や宣教師を支えることができません。献金のときに、「このお金をきよめてください」とお祈りする方がおられます。これはお金が汚いとか汚れているという意味ではないでしょう。「きよめて」とは、「聖別する」と言う意味です。聖別とは、神様の御用のためにこのお金を用いてくださいという意味です。ついでに申し上げますが、「神様のご用のためにお用いください」のあと、「捧げられた方々の産業を豊かに祝福してください」とお祈りしたらもっと良いと思います。

セル・セミナーの関係で、香港からベン・ウォン師を何度もお呼びいたしました。ベン先生はいつもこのように言うのです。「出されたものならば何でもいただきます。ステーキだったらステーキを、ラーメンだったらラーメンでも喜んでいただきます。また、ベッドだったらベッドで寝ます。床に寝なさいと言われれば、喜んで床に寝ます。どうか気を使わないでください。」ベン先生は宣教師ですからいろんなところへ行っています。豊かなキリスト教国といえば、カナダ、オストラリア、南アフリカでしょうか。南アフリカの教会にはプール付きのゲストルームもあります。でも、貧しい国、たとえばインド、タイ、ネパールも行くことが度々あります。ネパールでは、寝床にさそりが出るそうです。ベン先生は、まさしく、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。でも、ベン先生は生活を楽しむこともちゃんとご存知です。亀有にお泊りになったとき、夜の10時過ぎだったでしょうか?「駅前のイトー・ヨーカドーに行きたい」と言うのです。亀有に来たときは、いつも行っているようです。一度、ご一緒したら「ああ、そうか」と思いました。ヨーカドーの地下に行くと、生ものが半値になっています。ベン先生はそこで、甘エビとか、刺身を買って来るんですね。ベン先生は市場みたいなところが大好きだとおっしゃっていました。みなさんも、どうでしょうか?お金が沢山ないと楽しむことができないと思ったらそれは間違いです。満ち足りる秘訣を持っているならば、わずかな金額でも喜び楽しむことができます。

皆さん、幼い頃を思い出してください。あなたがいただいたプレゼントでどんなものが心に残っていますか?おもちゃのピストルとか、ぬいぐるみ、帽子、赤い靴だったでしょうか?おそらく、そんなに高額ではなかったはずです。「あの時は満たされなかった。だからもっと、欲しい」という、心の中にイエス様を歓迎しましょう。イエス様は天のみくらを捨て、貧しい馬小屋にお生まれになりした。ナザレの貧しい家庭で育ち、貧しい中で伝道活動をされました。「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません」と言われました。亡くなられた時は他人のお墓を借りなければなりませんでした。なぜでしょう。Ⅱコリント 8:9「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。」もちろん、富むことの中には経済的、物質的なという意味も含まれるでしょう。でも、その前に私たちが癒されて、満ち足りる心を持つということが前提ではないでしょうか。私たちが満ち足りる秘訣を得ているならば、どんな境遇の中にあっても、富む者となることができるからです。

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