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2009年6月28日 (日)

知恵と啓示の御霊     エペソ1:15-19

 先月5月31日は、ペンテコステ礼拝でした。ペンテコステというのは、聖霊降臨日、聖霊がこの地上に降りてくださったことを記念する日であります。その大事な日を、飛ばしてしまったので、1ヶ月後の本日、お話させていただきます。人の誕生日や結婚記念日を一ヵ月後にお祝いするというのは、ほとんどありませんが、どうぞお赦しください。先週からエペソ人への手紙を学び始めたところですが、本日の箇所は大変、ペンテコステと関係があるところです。ですから、聖霊がこの地上に注がれた、使徒の働き2章以降のことと照らし合わせながら、お話したいと思います。エペソ1章15節以降は、使徒パウロのエペソの教会に対する祈りであります。「あなたがたが、こういう風になりますように」と祈っているのですが、これがまた大変興味深い内容です。普通でしたら「健康で経済的にも恵まれますように」と祈るところですが、そうではありません。使徒パウロは、もっと根本的なもののために祈っています。この祈りが叶えられたら、他のことはうまくいくということです。それでは、パウロの祈りから、3つのポイントで学びたいと思います。

1.キリストを知る啓示の御霊

エペソ1:17「どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように」。日本語の聖書には、「神を知るための知恵と啓示の御霊が与えられるように」と書いてあります。しかし、原文には「彼を知る知恵と啓示の霊が与えられるように」となっています。ですから、リビングバイブルには「栄光の父が、キリスト様がどのようなお方か、また何をしてくださったかを、正しく、はっきりと理解させてくださいますように」と書いてあります。つまり、父なる神様の願いは、聖霊によって、キリスト様のことがよく分かるようにということであります。実際、イエス様がこの地上におられたとき、弟子たちにこのように予告しています。ヨハネ14:26「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」ヨハネ15:26「わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします。」弟子たちは、3年半、イエス様と生活を共に過ごし、イエス様から直接、教えをいただきました。でも、その時はわからないことがたくさんありました。ところが、ペンテコステの日、真理の御霊である聖霊が臨んだとき、「ああ、イエス様がこんなことおっしゃっていた」「ああ、イエス様は聖書的にこういうお方だったんだ」「ああ、十字架と復活の意味はこうだったんだ」ということが分かったのです。

使徒の働き2章にそのことが書いてあります。マルコ・ヨハネの家の二階座敷に、120人の人たちが集まっていました。彼らはイエス様に命じられたとおり、そこで聖霊が降るのを待っていました。イエス様が召天して、10日後に、聖霊が降ってきました。おそらく、そのとき、一度にたくさんのことが分かったのではないかと思います。ペテロが旧約聖書を引用しながら、キリストの十字架と復活の意味を解き明かしています。弟子たちはイエス様が十字架で死なれたこと、そして3日目によみがえられたことを目撃しました。でも、その意味がわからなかったのです。「その意味がわからない」というのは変な感じがします。出来事としては見て、知っていたのですが、聖書との関連で分からなかったのです。つまり、「なぜ、イエス様が十字架にかかる必要があったのか?」「なぜ、父なる神がイエス様を死人の中からよみがえらされたのか?」「このことを信じる者はどうなるのか?」「私と何の関係があるんだろう?」こういうことが、知恵と啓示の御霊が臨んだとき、いっぺんに分かったということです。よく、漫画にもありますが、何かひらめいたとき、電球がピカッと光ります。あれと同じことであります。「ああ、そうか!このことは、あのことだったのか!This is that」。イエス様の出来事と聖書のことばが、繋がったということです。イエス様が前もって、「聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます」とおっしゃったとおりです。ペテロがそのような説教をしたのち、捕らえられ裁判にかけられました。そこで、ペテロは聖霊に満たされて大胆に弁明しました。そのとき、宗教的指導者たちは「彼らが無学な、普通の人であるのを知って驚いた」(使徒4:13)と書いてあります。「無学な普通の人」とは、「律法を学んでいない素人」と言う意味です。聖書を専門に学んでいる人たちが、「どこからこんな深い知恵を得たんだ」と驚いたのであります。

2000年前、聖霊がこの地上に降られました。そして、イエス様を信じる人には、彼らと同じ「知恵と啓示の御霊」が与えられるのです。パウロはキリストを知る、知恵と啓示の御霊が与えられるようにと祈りました。でも、それをブロックするもの、妨げるものが、私たちの内にあるということも確かです。何が「知恵と啓示の御霊」を受けるのを邪魔するのでしょうか?それは、私たちの知恵、私たちの理性、私たちの考えであります。私たちはこれまで、自分が見て、聞いて、学んできた知恵や知識があります。全部ダメとは申しませんが、ある場合は、これが大きな妨げになるのです。Ⅰコリント2:14「生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。」私たちがイエス様を信じて、新生すると、霊的なことがある程度わかってきます。でも、私たちの魂はそう簡単に神の知恵に屈服しません。アダムとエバが善悪を知る知識の木から実を取って食べたらどうなったでしょう。「ふたりの目が開かれた」と書いてあります。それまで、二人は自分たちの霊によって、霊なる神様と交わって生きてきました。でも、その実を食べてから、霊が死に、逆に魂が異常に発達しました。そのことによって、人は、神様に聞こうとしないで、自分で考え、自分で意志して生きるようになったのです。ですから、私たちはクリスチャンになってから、自分を空しくして、「主よ、あなたの知恵をください。あなたが教えてください」と意識して求める必要があります。そうしますと、聖霊様が、神からの深い知恵と啓示を与えてくださるのです。

イエス様は福音書でこのように語っておられます。マタイ11:25「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現してくださいました。」どうぞ、幼子のようになって、神様がくださる知恵を求めてください。主は人々の目に隠されていたことがらを、ぱっと、開いて明らかにしてくださいます。私は毎週、このように聖書からメッセージを取り次がかせていただいていますが、これはみんな聖霊の助けによるものです。私が、その次の週の聖書箇所を開いたとたん、何と思うでしょうか?「え?ここから何を語るの?」と言うときが、2回に1回はあります。最初の頃は、いろんな注解書を見て、それらを参考にしながら説教を組み立てました。だんだん、頭がいたくなるし、恐れもやってきて、まったく自信のないものになりました。しかし、あるときから、聖書だけを読み、ただ、そこに書いてあることを汲み取ろうとしました。そのあと、目をつぶって瞑想すると、このこと、あのことと聖霊様が語るべき内容を教えてくださいます。そのあと、目を開いて、忘れないうちに与えられたメッセージを紙に書きとめます。最後に、肉付けしていくと完成です。そのとき、参考になる本や人のメッセージを借用しても全く問題ではありません。なぜなら、中心的なメッセージは神様からいただいたという確信があるからです。そのようにしてから、メッセージの準備がとても楽になりました。しかし、これは牧師だけのものではありません。みなさんも、聖書を開いて、聖霊様にお聞きするならば、真理の御霊があなたに教えてくれます。また、日常、いろんな問題が起こるでしょう。様々な問題を神様のところに、状況を報告しつつ差し出します。ある時、ぱっと、解決がやってきます。エレミヤ33:3「わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。」

2.将来を知らせる預言の御霊

 エペソ1:18「また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか」。リビングバイブルは、「神様が、あなたがたを召して与えようとされる将来を、はっきりと理解させてくださいますように」と訳しています。神様が与えようとされている、「聖徒の受け継ぐもの」とは一体何でしょうか?ペテロはペンテコステの日、このように旧訳聖書を引用しながらメッセージしました。使徒2:16-18「これは、預言者ヨエルによって語られた事です。『神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。』」旧訳聖書の時代は、預言をする人と言えば、預言者とか一部の人たちでした。一般の人たちは、預言者を通して語られる神のことばを聞くしかありませんでした。しかし、終わりの時代はどうでしょうか?「終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言する」と書いてあります。終わりの日とはいつでしょう?終わりの日はいつから始まったのでしょう?それは、ペンテコステの日、ペテロたちが聖霊に満たされて、預言したときからであります。二階座敷にいた、120人の人たち一人ひとりに聖霊が留まりました。おそらく、そのとき、すべての人たちが、一斉に預言や異言を語りだしたと思われます。ペテロはそのことが旧約のヨエルが預言したことの成就であると解釈したのです。つまり、特定の預言者だけではなく、息子や娘、普通の人も、預言をするということです。使徒の働きをみますと、ペンテコステの日だけではなく、聖霊が行くところ、どこにでもそういう現象が起こりました。コルネリオ、エペソの人たち、コリント教会の人たちにも起こりました。パウロはコリントの教会に、「愛を求めなさい。また、御霊の賜物、特に預言することを熱心に求めなさい」と命じました。ところがどうでしょう?福音派の多くの教会は、「新約聖書が完成した今は、そのような賜物の必要性は消えた」と言いました。消えたというよりも、消してしまったと言った方が良いでしょう。使徒パウロは「御霊を消してはなりません。預言をないがしろにしてはいけません」(Ⅰテサロニケ5:19,20)と注意しています。

 では、預言の賜物というのはそれほど重要なのでしょうか?まず、それは賜物なので、信仰の年数とか、聖書をどのくらい学んだかということにはよらないということです。まさしく、「あなたがたの息子や娘は預言し」であります。ですから、主の霊に導かれるように、語るならば、それは大変役に立つということです。実際、シンガポールやインドネシアの教会では、セルの中で、預言を語ることができます。もちろん、そこには吟味とか、調整があります。でも、そこに聖霊様が臨在して、すばらしいことが起こります。預言を受けた人は、「ああ、神様は私のことをご存知である。私がしてきたことは無駄ではなかった。私が取り組んできたことは正しかったんだ」という励ましをいただきます。大体、預言というと、「裁かれるんじゃないだろうか?」と警戒しがちですが、ほとんどの場合は励ましの預言です。急に、預言者がやって来て「この教会の牧師には罪がある」と言うのは、偽預言者です。そうではありません。多くの場合は励ましですが、あるときは将来を見通す預言もあります。しかし、聖書をさっぱり読まないで、預言だけを安直に求めるというのは問題です。最近、預言喫茶なるものがあり、人々が占いを求めるようなつもりで、集まっているということです。ま、占いを求めるよりは良いと思いますが、まず自分で、聖書を読み、神様に求めるというのが第一にすべきことです。神様はすでにあなたに語っておられます。多くの場合、預言とはそれを確認するためのものです。ですから、順番を間違えないでください。そうすれば、預言は正しく用いられます。

 私は「神様はこう言われます」と度々、神様を引き合いに出すのは、賛成しません。神様が本当に言われないのに、勝手に「神様はこう言われます」と言ったらどうなるでしょうか?神様が言われたのだったら、絶対ですから、その預言は人を縛ることになります。ですから、どうしても言いたいなら、「神様はこのように言っていると思います」くらいが良いと思います。今の時代も預言はあります。でも、聖書と同じくらいのレベルまで引き上げるのは問題です。かといって、全く、ないというのも問題です。ある人は、旧約の預言者の預言は100%正しいが、現代の聖霊による預言は、20から80%の確立であろうということです。ですから、語る人も、受ける人も、それくらいの幅をもって参与する必要があります。一番無難なのは、祈りながら、預言の賜物を用いるということです。私はその人のために祈るとき、聖霊様に聞きながらお祈りします。おそらく、そのとき、聖霊様が預言を与えているのではないかと思います。みなさんの中にも、聖霊がいらっしゃるのですから、自分の子どもや兄弟姉妹のために祈るとき、そのように祈ったら良いと思います。

3.力を与える神の御霊

エペソ1:19「また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。」神様は、御自身の全能の力を、私たちクリスチャンにどのようにお与えになるのでしょうか?それは、神の御霊である、聖霊を通してであります。使徒の働き1:8「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます」と書いてあります。ペンテコステの日、聖霊を受けた使徒たちはどうしたでしょうか?使徒の働き3章にありますが、うまれつき足なえの人がいやされました。ペテロは、「自分の力や信仰深さによって彼を歩かせたのではない」と言いました。そうではなく「イエスの御名を信じる信仰のゆえである」と言いました。さらに、使徒の働きを読んでいくと、使徒ではなく、一般の信徒にもそれができたと書いてあります。使徒8章を見ますと、ピリポがサマリヤに伝道に行きました。彼はやもめの世話をするように執事として選ばれた人です。でも、彼はユダヤ人と交流のないサマリヤに下って、人々にキリストを宣べ伝えました。それと同時に、ピリポは悪霊を追い出し、中風の者や足なえ、様々な病気を治しました。おそらく、使徒たちが命じたのではなく、聖霊に導かれて、勝手に行なったのではないかと思います。使徒たちは昔の教えに縛られ、エルサレムに留まっていました。しかし、ピリポは自由な心で、聖霊に従ったのであります。教会は「聖霊に導かれたら、ある程度自由なことができる」こういう雰囲気が大切なのであります。何でもかんでも、牧師や役員会に相談し、承諾を得ないとできない。それはおかしいと思います。でも、後でも良いですから、ある程度の報告はいただきたいと思います。「ある程度」というのがとてもファジーで良いと思います。

聖霊の賜物は牧師だけが持っているものではありません。「しもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ」とありますから、イエス様を信じている人にだったら、だれにも可能です。でも、1つだけ申し上げたいことがあります。これは、啓示でも、預言でも、この力の賜物でも同じことです。それは、聖霊によってぱっと、開かれる必要があるということです。イエス様を信じている人であれば、だれ一人もれなく、聖霊が与えられています。でも、半数以上の人たちは、聖霊があふれ出していません。霊的に眠っているか、堅い魂の中に閉じ込められています。使徒の働きに出てくる人たちは、聖霊を受けるのと、聖霊がばっと溢れたのが同時に起こったのではないかと思います。私はペンテコステ教会が言う「聖霊を受けるイコール、聖霊のバプテスマ」という考えは反対です。私はイエス様を信じている人であればだれでも聖霊は受けている、内にいらっしゃるという考えです。でも、だれもがみな聖霊に満たされ、聖霊に溢れているかというとそうではありません。では、「鈴木牧師は常に聖霊に満たされ、聖霊に溢れているのですか?」と聞かれたら、「ノー」です。でも、こういうことは言えます。私はあるときに、聖霊が魂の中から、あふれ出る経験をしました。それは、水道のように、蛇口を開けたら、ばっと出て来るようなイメージです。それは、私が断食して、1時間祈ったら、そうなるということではありません。備えなくても、一瞬、願うだけで出て来ると信じます。もちろん、十分に祈って対処しなければならない大な問題もあります。でも、そんなに力まなくても、願うなら、聖霊は魂から溢れてきて、御自身の働きをなしてくださると信じます。ですから、一番、大切なのは、そのきっかけであります。自分の中から、聖霊が賜物と一緒に溢れ出る、そういう経験が必要であります。そういうことを何度か体験していくと、「ああ、こんな感じで聖霊様は働いていらっしゃるのかな?」と分かるようになります。これは理屈でわかるというものではなく、場数だと思います。

私たちは多くの場合、この目で見、この耳で聞き、この手で触ります。でも、聖霊のくださる賜物は、目で見えないものを見、耳で聞こえないものを聞き、手で触れないものを触ります。それらは信仰の目、信仰の耳、信仰の手と言って良いかも知れません。この世では馬鹿げているかもしれませんが、イエス様も初代教会の人たちもそれを当たり前のように用いたのではないでしょうか?現代はそういう聖霊の賜物は不要でしょうか?医療が発達しても、精神的にも肉体的も病んでいる人がたくさんいます。科学が発達しても、明日のことが分からないために、不安と恐れの中に閉じ込められています。医療や科学は否定しません。それも、神様が与えてくださった恵みです。でも、神様は聖霊による賜物も与えておられます。教会が、この賜物を用いるならば牧師や一部の人たちだけではなく、もっと多くの人が用いられるのではないでしょうか?ヨハネ14:12「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行うわざを行い、またそれよりもさらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです。」

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