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2009年6月21日 (日)

礼拝を捧げる理由      エペソ1:1-14

 本日からエペソ人への手紙からしばらく学びたいと思います。きょうは一気に14節までお話し、来週は聖霊に関するメッセージをお届けいたします。なぜなら、先月、ペンテコステであったのに、うっかり飛ばしてしまったからです。本日、読んだ箇所はとても長かったですが、大きく3つに分けることができます。3節から6節までは、「神様が私たちを選んでくださった。それは、栄光がほめたたえるためです」ということです。7節から12節までは、「キリストがその血によって贖ってくださった。それは、神の栄光がほめたたえられるためです」。13節から14節は「私たちが福音を信じたときに、聖霊の証印が押された。これは、神の栄光がほめたたえられるためです」。つまり、ここには、三位一体の神に対する、3つの頌栄が記されています。頌栄とは神を褒め称える、礼拝するということです。私たちが救われたのは、神の栄光がほめたたえられるためだということです。

1.神の選び

 エペソ1:4「すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました」。ここには、私たちの思いを超える、神様の遠大な計画が記されています。どうでしょう?神様は、世界が創造される前から、私たちを選んでおられたということが信じられるでしょうか。5節には「私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。」私たちを自分の子どもにしようと予定しておられたということです。しかも、この世界が造られる前からです。この世界が造られる前ですから、果たして、どれくらい前なのでしょうか?でも、ここに1つのミソがあります。「彼にあって選び」あるいは「イエス・キリストによって定めた」と書いてあります。彼、イエス・キリストの中に、私たちが組み入れられることによって、永遠という時間を超えられるということです。父なる神様はキリストを通して、私たちを選ばれたということです。つまり、神様の選びを機械的に捉えてはいけないということです。宗教改革者カルヴァンとその弟子たちは、「神の予定」ということを強調しました。やがて、「救いに選ばれている人と、遺棄されている人とがあらかじめ予定されている」とまで言いました。これを二重予定説というのですが、行き過ぎだと思います。私はこのように信じています。神様はキリストにあってどなたでも救われているように召しておられます。すべての人をキリストにあって選ぼうとされているのです。でも、神様はどの人が信じるのか、どの人が信じないのか知っておられます。矛盾しているようですが、神様はある人に憐れみをかけ、救いを与えようとされていることも確かです。

 私たちが数ある神様の中から聖書の神様を選び、私がキリストを信じたということであればどうでしょうか?確かに、私たちは自分の意志で「キリストを信じます」と決断して救われました。しかし、何年かたつと、「いやそうじゃない。私は選ばれていたんだ。キリストを信じる前から、導かれていたんだ」と分かってきます。ヨハネ15:16「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。」このみことばは、弟子たちに語られたことばですが、私たちにも当てはまります。もし、「私がキリストを選んだんだ。そのことによって、私は救われたんだ」と、ずっと思っていたらどうでしょうか?つまり、自分が信じたことによって、救いが得られているということです。でも、自分の信仰がこの先、ずっと続くでしょうか?ひょっとしたら、「神様がわからなくなった。キリストも信じられない」ということになったらどうでしょうか?そうなったら、救いもなくなってしまうかもしれません。なぜなら、救いが自分の信仰にかかっているからです。でも、そうではなく、「確かに私はイエス様を信じた。その信仰さえも神様がくださったんだ。私が選んだのではなく、イエス様が私を選んでくださったんだ」。そうするとどうでしょうか?たとい、私の信仰がおかしくなり、キリストを手放したとしても大丈夫です。なぜなら、キリストの信仰が私を捕まえているからです。Ⅱテモテ2:13「私たちは真実でなくても、彼は常に真実である」と書いてあります。真実と言うことばは、ギリシャ語ではピストスで、「忠実、信用できる、信じてよい」という意味です。また、英語ではfaithful であり、真実だけではなく、信仰に満ちたというふうにもとれます。つまり、私たちがイエス様を信じているということだけではなく、イエス様の信仰が私たちを捕まえていることでもあるのです。だから、私たちがうっかりイエス様の手を離すことがあっても、イエス様は私たちを離さないということなんです。

神様が自分を選んだということを神の人たちは信じていました。主はエレミヤに対して、このように言われました。エレミヤ1:5 「わたしは、あなたを胎内に形造る前から、あなたを知り、あなたが腹から出る前から、あなたを聖別し、あなたを国々への預言者と定めていた。」神様はエレミヤが生まれる前から、預言者になるように定めていたということです。使徒パウロも同じようなことを言っています。ガラテヤ1:15「けれども、生まれたときから私を選び分け、恵みをもって召してくださった方が…」。ある人たちは、自分が生まれたのは偶然だと思っています。でもそうではありません。あなたが生まれる前から選んでおられた神様が、あなたがこの地上に生まれるときに参与されていたのです。詩篇139篇にどう書いてあるでしょうか?139:13「それはあなたが私の内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられたからです。」15-16「私がひそかに造られ、地の深い所で仕組まれたとき、私の骨組みはあなたに隠れてはいませんでした。あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに。」アーメン。先週は、エリヤハウスの学びのために、札幌に行ってまいりました。胎児がお母さんの気持ちを汲み取っているということを学びました。ある人は、自分がおなかの中にいたとき、お母さんはとても混乱し、しばしば怒っていました。そして、私は「このお母さんから見捨てられたら生きて行けない」と思ったそうです。その気持ちは、おなかの中にいたときからあったそうです。講師のマークサンフォードの奥さんは、お母さんが生まれたときから自分を虐待し、おしめも換えてくれなかったそうです。しかも、お母さんは「お前は馬鹿だ」とか「汚い」とか言って、頭をたたいた。そのため、彼女は境界性人格障害と拒食症で長い間、苦しんだそうです。ある姉妹のお母さんは統合失調症で、気持ちが不安定でコロコロ変わる。その子は幼稚園のときから、お母さんの病院通いに付いて行ったそうです。でも、分かったことは、姉妹はおなかの中にいたときから、「私はこのお母さんを守ってあげなければならない」と思ったそうです。このように、胎児、もしくは幼いときから虐待されたり、無視された子どもの霊はとても傷つきます。ある場合は、眠りに陥って、何も感じないというふうになるそうです。でも、聖書にすばらしいみことばがあります。

イザヤ49:15-16「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。見よ。わたしは手のひらにあなたを刻んだ。あなたの城壁は、いつもわたしの前にある。」普通の、お母さんは自分の乳飲み子を忘れたりすることはありません。しかし、中には忘れる人もいるのです。でも、たといお母さんが見捨てたとしても、神様は、「手の平にあなたを刻んだあなたの城壁は、いつもわたしの前にある。」イスラエルの人たちは、年に一度、都のぼりをします。そこに行った人たちは、その感激を忘れないように手の平に神殿の城壁を書くそうです。記念とするためです。それと同じように、神様はあなたを手の平に刻むということです。なぜでしょう?神様があなたを永遠の昔から選び、神様があなたを母の胎の中で組み立てられたからです。なんという慰め、なんという喜びでしょうか?私たちは神様の選びを知ることができたならどうなるのでしょうか?エペソ1:6 「それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。」そうです。私たちを造り、私たちを選んでくださった神様をほめたたえるのです。私たちがまことの神様を知り、神様を礼拝するものになった。これは私たちが救われた目的の1つであります。

2.キリストの贖い

 エペソ1:7「この方にあって私たちは、その血による贖い、罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。」第二番目に私たちが神様をほめたたえる理由は、キリストが私たちを贖ってくださったからです。イエス・キリストは2000年前、私たちが贖われるために、御自身の血を流してくださいました。それは私たちの努力を超える、神様の豊かな恵みです。このところに、血と贖いと罪の赦しという3つのことばが出ています。これらの3つはとても深い関係があります。「ゆるし」という漢字は2種類あります。一般的な許しは、許可の「許」であります。これはあまり重要なことではありません。もう1つの「赦し」は、恩赦とか特赦というときに使われます。つまり、「罪あやまちを赦す」ということです。でも、この罪が赦されるためには、それに伴う、代償、代価が必要になります。ただでは赦されないということです。レビ記5章には、「自分が犯した罪のために、償いとして、羊の群れの子羊でも、やぎでも、雌一頭を、主のもとに連れて、罪のためのいけにえとしなさい」とあります。罪を犯した本人が動物を連れてきます。そして、私と一体であるという意味で、動物の頭に手を置きます。それから祭司に渡しますが、祭司は動物の首を切り、その血を祭壇に注ぎます。そのとき、はじめてその人の罪が赦されます。なぜ、血を流さなければならないのでしょう。レビ記17:11「いのちとして贖いをするのは血である」と書いてあります。つまり、罪はただではゆるされない、命で贖われなければならないのです。そのため、きよい動物を身代わりにささげ、その動物が流した血によって初めて贖われるということです。新約の時代は、イエス・キリストが完全な贖いの供えものとなられました。御子イエス様が神の小羊として、十字架にかかり、血を流してくださいました。イエス様の流された血によって、全人類の罪が贖われたのです。イエス様は一回で永遠の贖いを成し遂げられました。だけど、どのままでは救われません。「イエス様が私のために十字架で死んでくださり、私のために血を流してくださったことを信じます。キリストの贖いをいただきます」と願わなければなりません。救いは、行ないとか努力ではなく、信仰であります。あなたが、キリストがなされた贖いを受け取るならば、罪赦され救われるのです。

 「神様が私たちを創造してくださったことはわかりました。でも、どうして、キリストの贖いが必要なのでしょうか?」と聞く人がいらっしゃいます。私たちはアダム以来、神様を離れ、自分勝手な道を歩みました。自分がだれかも分からず、罪と汚れの中で、あえぎながら生きてきました。キリストはそのような私たちを買い戻すために、尊い命を投げ出してくださったのです。ある人は、自分には価値がないと劣等感の中に生きている人がいます。また、ある人は神様からいただいた大切な命を自ら絶とうとしています。自分の人生を呪い、父母を呪っています。しかし、私たち一人ひとりには価値があります。なぜなら、神のかたちに似せて造られた尊い存在だからです。イエス様がなぜ死なれたのか?それは私たちの本当の価値を取り戻すためです。では、一体、どれほど、自分には価値があるのでしょうか?あなたは、イエス・キリストの命と同じくらい価値があるのです。なぜなら、イエス様はあなたを罪から買い取るために、ご自分の命を投げ出してくださったからです。私たちはデパートに買い物に行ったとき、価値あるものだったら高いお金を出します。宝石売り場に行くと、桁を数えなければならないほど高価なものがあります。一、十、百、千、万、十万、百万…「えー?1,200万円?高けー。こんなのだれが買うんだ!」とか言ったりします。しかし、ある人は買うんです。なぜでしょう?それだけの価値があると思っているからです。あなたにはどれだけの価値があるのでしょうか?イエス・キリストの命と同じだけの価値があるのです。ある人が言いました。「イエス様はこの世にあなた一人しかいなくても、十字架にかかって命を捨てたでしょう」と。どうぞ、自分を安く見積もらないでください。「私はキリストによって贖われた、神の息子、神の娘です」と、誇って良いのです。

 ある人たちは、「罪を簡単に赦されたのなら、また罪を犯すのでは?」と言います。キリストの贖いというのは、罪の赦しだけではありません。あなたが神様のかたちに似せて造られた、しかもあなた固有の姿に造られた、もとのかたちを回復するためです。つまり、私たちはキリストによって贖われることによって、自分は何者なんだとうことを知るのです。もし、「自分はだれなのか?」ということを本当に知ったならば、わざと罪を犯さなくなります。もし、私たちが神の息子であり、神の娘であることを心から信じたなら、そのように振舞います。もし、私たちが罪赦されただけではなく、義と認められ、聖徒として見られていることを心から信じたなら、正しい行いが当たり前になります。もし、私たちが神様が自分に与えてくださった賜物と使命を発見したならば、「あれしなさい、これしなさい」と言われなくても、自ら進んでやるようになります。つまり、贖いというのは全人格的なものまで及ぶということです。イエス様はよく病の癒しをしましたが、そのとき、be wholeと言われました。Wholeとは「全体、すべての、完全な、無傷な」という意味です。ケーキをまるごというとき、ホール・ケーキと言います。しかし、これが癒しに用いられるとき、「肉体、精神、社会生活、すべてにおいて欠けたところのないものとなるように」という意味です。イエス様の贖いの中には、そのような完全な癒しも含まれているということです。私たちはキリストによって罪の贖い、自分のアイディンテティの回復、全体的な癒しを体験するときにどうなるのでしょうか? 1:12 「それは、前からキリストに望みを置いていた私たちが、神の栄光をほめたたえるためです」。神様を礼拝するようになるのです。私たちクリスチャンは毎週、キリスト様によって贖われたことを感謝するために、このように集まっているのです。

3.聖霊の証印

 エペソ1:13-14「この方にあってあなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことにより、約束の聖霊をもって証印を押されました。聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。これは神の民の贖いのためであり、神の栄光がほめたたえられるためです。ここには、私たちが今、救われているということを示している2つのことばが記されています。第一は「証印」です。これは、法律用語であって、「それが正しいと立証されたことのしるし」であります。私たちのまわりには、様々な証印があります。工業製品、食料加工品、お薬など、「これは検査済みで大丈夫なものですよ」という何らかの証印がおされています。私たちはその標記を見て、「ああ、大丈夫、安心できるものなんだ」と客観的に納得するわけです。では、救いの証印、御国の証印とはどのようなものでしょうか?本当に救いがあり、本当に天国というのがあるのだろうか?客観的な、明確な、実感できる神様からの保証が必要であります。どうでしょう?クリスチャンの方々にお聞きします。あなたは救われていることがどうして分かりますか?天国に入ることができるとどのようにして分かるでしょうか?中には、洗礼を受けたにも関わらず、長い間、教会に通っているにも関わらず、「正直言って、自分は天国に行けるかどうか分からない」という人がいます。そういう人は、神様から聖霊の証印を押してもらう必要があります。聖霊があなたに確信を与えてくださいます。聖霊の確信は、「かーく、しーん」であって、ただの確信ではありません。知的な確信ではなく、魂の中から来る確信です。聖霊が与える確信は、私たちの内側に満足を与えます。幼稚園のこどもに「○○ちゃんは生きている」と聞きます。すると、「生きているよ!」と答えます。「どうしてそれが分かるの?」と聞きます。すると「ほら、生きているよ」と答えます。クリスチャンも同じです。「あなたは救われていますか?」と聞くと、「うん、救われているよ」と言えるのです。ローマ8:16「私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。」聖霊の証印をいただいてください。

第二番目の用語は、「保証」です。保証はギリシャ語では「アラボーン」と言って、これは商業用語です。アラボーンは、売買の際に契約履行の保証として前もって金品を渡す、手付金のことです。その手付金を払った者は、時いたれば残りのすべてを明け渡します。たとえば、私たちが不動産を買うとき、5%から10%を払って契約を結びます。向こうが違反した場合は、違約金として倍返しを、こちらが違反した場合は、解約金として失います。このことを神様と私たちの間に置き換えて考えたいと思います。神様が御国を私たちに売ろうとしています。そのとき、私たちはキリストの贖いを信じるということが必要です。御国がまだ完成していないので、神様は手付金を私たちに払います。手付金とは聖霊のことです。では、手付金である聖霊は私たちにどのようなことをしてくださるのでしょうか?聖霊は、私たちが御国に入るまで、御国の一部を与えてくださいます。御国の豊かさ、御国の喜び、御国の力、御国の愛、御国の能力、御国の知恵、御国の健康…これらすべてはあなたの中に住んでおられる聖霊がくださるものです。あなた地上において、手付金として与えられた聖霊の恵みを用いるべきであります。そうするならば、あなたは御国に入るまで、聖霊の助けによって勝利しながら歩んでいけるのです。ヨハネ14章でイエス様は、このようにお約束されましたとおりです。ヨハネ14:16「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。

昔、王様は、手紙に封印するときに、ロウをたらしました。その直後に、指輪に刻まれている、印章をポンと押します。そうすると、どうなるでしょうか?持ち主のところに着く前にだれかがその手紙を勝手に開けたら、その人は死刑になります。なぜなら、その手紙には王様の証印が押されているからです。これを救いということで解釈するとどうなるでしょうか?クリスチャンは聖霊の証印が押されています。そうすると、そのクリスチャンを聖霊様が、天国にちゃんと行くまで、守ってくださるということです。聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。これは神の民の贖いのためであり、神の栄光がほめたたえられるためです。

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