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2009年5月31日 (日)

心に留めること      ピリピ4:8-9

 本日はペンテコステ、聖霊降臨日でした。本来ならば、聖霊に関することをお話すべきなのでしょうが、ピリピ書から予定を組んでいましたので、どこかでしたいと思います。どこかで、と言うととてもいい加減な感じがしますが、エペソ人への手紙がこの次から始まりますので、聖霊に関することが出てきたとき補充していきたいと思います。先週は「喜びなさい。思い煩うな」ということを学びました。何人かの方々にヒットしたらしく嬉しく思いました。「今回も期待に応えられるだろうか?」と思うとプレッシャーがかかりました。きょうは、たった2節からですので、「どうかな?」と思って準備させていただきました。でも、大丈夫です。聖書から順番に語っていくと、偏るということがないからです。偏食は体に良くないと言われますが、聖書も同じだと思います。どんな箇所からも、主に期待して共に学びたいと思います。

1.心に留めること

 ピリピ4:8「最後に、兄弟たち。すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと、そのほか徳と言われること、称賛に値することがあるならば、そのようなことに心を留めなさい。」ここには、私たちが心に留めるべきことが8つ記されています。8つと言えば、イエス様の山上の説教を思い出します。マタイ5章には、「8福の教え、8つの幸い」が記されています。使徒パウロは、「最後に、兄弟たちよ、これら8つのことに心を留めなさい。そうすれば、平和の神が共にいてくださいますよ」と教えています。私がクリスチャンになりたてのころの話です。座間教会に、ネル・ケネディという女性のジャーナリストがおられました。時々、英語集会があり、青年たちがたくさん集っていました。あるとき、彼女がこのピリピ4:8からお勧めしてくださいました。「クリスチャンのジャーナリストとして、自分が何に心を留めているか?また、クリスチャンの若者たちが何に心を留めるべきなのか?」ということを話してくれて、本当に感謝でした。クリスチャンになって教会生活が長くなると、「この世の中は、罪と汚れに満ちており、良いものなんかちっともないんだ」と思ってしまいます。極端になると、「政治も学校教育も、医療も、音楽も、みんなダメだ。教会はそんなことに関わらないで、魂の救いに専念すべきだ」となります。だから、PTAの役員もしないし、この世の音楽も聴かないし、映画も見ない。選挙も行かない。その代わり、教会の集会に出る、聖書を読む、讃美をする、奉仕する。「そういうことだけがすばらしいんだ」となります。でも、それはピリピ4章8節の教えと逆行している生活です。

 では、なぜ、教会に関するものは聖くて、この世のものは俗的で汚れているという考えが生まれてしまったのでしょうか?それは18世紀にまで遡ります。理神論なる考えが、イギリスで始まり、フランスやドイツの啓蒙思想家に受け継がれました。簡単に言いますと、神様は地球や宇宙を造ったけれど、今はもうタッチしておられない。この地球も宇宙も自然の法則によって勝手に動いているんだ。さらに、「神は死んだんだ」とさえ言う哲学者も出てきました。教会はそのことを否定しましたが、少なからず影響は受けました。やがて、「神様に関することは聖いけれど、この世に関するものは聖くないんだ」と考えるようになりました。つまり、聖なる世界と俗なる世界とに2つに分けてしまったのです。聖なる世界とはどんな世界でしょうか?聖書、信仰、祈り、伝道、賛美、神学、道徳に関することであります。その多くは、教会内で行ないます。では、俗なる世界とはどんな世界でしょうか?ビジネス、教育、政治、経済、医療、芸術、マスメディア、この世の法律などであります。もし、この考えが正しいとするならばどうでしょうか?私たちはきょう日曜日、教会にいて聖なることをしています。聖書を読み、賛美を捧げ、お祈りし、みことばを学んでいます。今は、聖なる時ですから、冗談も言わないし、不品行なことも考えません。「そのわりには、牧師が俗的なんですけど!」と文句が出るかもしれません。でもどうでしょうか?この礼拝が終るととたんに人間的になり、笑顔が出てくる。そして、教会の建物を出たら、この世のことを考える。職場では職場の価値観、学校では学校の価値観、家庭では家庭の価値観で生きる。また、日曜日が来ます。すると、聖書を取り出して、宗教的な顔になって教会に行く。私はそういうキリスト教という宗教を教えていないつもりであります。なぜでしょう?聖書の本当の考えは、この世のどまん中にも神様がおられるからです。エペソ人への手紙1章には「教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです」と書いてあります。神様は「政治の世界においても神様の持っているもので満たしたい。芸術の世界においても神様のもっているもので満たしたい。教育や医療、ビジネスの世界も神様のもっているもので満たしたい」と願っておられるのです。私たちは、この世の中に、神様が持っているすばらしいものを持ち運ぶという使命があります。

 そういう考えからしますと、ピリピ4:8は、まさしくそのことを教えています。なぜ、この世の中に、真実なこと、誉れあること正しいこと、清いこと、愛すべきこと、評判の良いこと、徳と言われること、称賛に値することがあるのでしょうか?そうです。神様が造られたからです。創世記1章には「良かった」「良かった」「非常に良かった」と書いてあります。でも、残念なことに人間が罪を犯してから、自然界は喪に服してしまいました。それでも、使徒パウロはローマ1:20でこのように言いました。「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。」完全ではないかもしれませんが、神様が造られたがゆえに、すばらしさがどこかしこに残っているということです。私は毎朝、中川のほとりを散歩します。雑草でも美しい花を咲かせます。1,2週間前、河川敷の雑草を刈り取る作業がありました。おじさんたちが、機械で一網打尽に刈り取るわけです。ある家の前にある花が植えてあります。その花は夏にはとても背が高くなり、大輪の花を咲かせる花なんです。ところが何本かは、河川敷まではみ出していました。あとから見ましたが、おじさんが機械で刈らないで、手作業でしたんでしょうね。3本か4本ちゃんと残っていました。「おじさん、やさしいなー!」と思いました。花をめでる心が、おじさんの心の中にもあったということです。そういえば、星野富広さんも草木にまつわる詩と絵をたくさん描いていらっしゃいます。うる覚えですみませんが、山登りの人が立ちしょんをしようと思ったけど、山ゆりが咲いていたので、場所を代えたというのがありました。あんまりきれいじゃないので、星野富広さんの美しい詩をいくつかご紹介します。①「病院の庭にさつきが咲いた。母が銀行強盗でもするようにおどおどしてひと枝折ってきてくれた。絵に描いて、となりのベッドの人に見せると、「きれいなゆりだなあ」と言った。②神様がたった一度だけ、この腕を動かして下さるとしたら、母の肩をたたかせてもらおう。風に揺れるぺんぺん草の 実を見ていたら、そんな日が本当にくるような気がした。」星野富広さんは、私たちが日常、見過ごしてしまうような些細なものに目を留めて、そこから素晴らしい神様の恵みを語ってくれます。そういう繊細な見方というのは、星野さんが学校の体育教師をそのまましておられたら、きっとできなかったんじゃないかと思います。

4章8節の、心に留めるべきことを、リビングバイブルは、このように訳しています。「真実なこと、良いこと、正しいことに注目しなさい。きよいこと、愛すべきことについて思いめぐらし、他人の長所に目を留めなさい。神様を喜び、賛美することばかりを考えなさい」。順番からすると、「すべての評判の良いこと」を、「他人の長所に目を留めなさい」というふうに解釈しています。私たちは自然界やこの世だけではなく、人々の中にも良いところを見出すべきであります。しかし、どうでしょうか?日本人は他人の良いところよりも、悪いところに目が行きがちではないでしょうか?先週の木曜日、お昼を食べているとき、日立にお住まいの石塚兄より電話がありました。ギデオンで勝田の教会におじゃましてラリーのメッセージをされたとのことです。そこに、吉永先生がいらっしゃって鈴木牧師と親しい関係だと聞いて驚かれたそうです。で、私の方は石塚兄が聞いてもいないのに、吉永先生は座間でうまくいかなくて、インドネシアに飛ばされて、その後は四国に戻って来て、勝田の教会に招聘されたこと。そして会堂建築で苦労されてストレスでものすごく太ってしまったこと。なんだか、悪いことばかり話してしまいました。その点、石塚兄はこの教会に10年以上おられた方ですが、人の良いところを見るすばらしい兄弟でした。今回も電話で、勝田の教会が教会あげてセルを目指している。目的主導の教会を作ろうとしている。そのような内容でした。私はピリピ4章を読んで、「これからメッセージを組み立てようかなー」としている矢先でした。なんと、リビングバイブルには「他人の長所に目を留めなさい」と書いてありました。いやー、私って何なんだろう?「口では人の良いところを見ましょう」と言いながら、自分自身は人の悪い点に目を留めているんじゃないだろうか?愕然としました。このように講壇に立っているときはまだ良いのですが、下に降りて、気を緩めると悪いことばが出てくる。おそらく、それは私が生まれてこの方、多くの批判や裁きを受けてきたので、自分に対しての見方、他の人に対する見方が否定的になっているということでしょう。

ベン・ウォン先生がコーチング・セミナーでよくおっしゃっていました。「日本も中国もそうだが、アジアの文化は親が子どものことを誉めないことである」と。また、何か失敗したら、もう立ち上がれないみたいなダメージを受ける。だから、失敗をどうしても隠してしまう。本当にそうだと思います。だれにでも長所と欠点があります。「あなたの欠点はどこですか?」と聞かれたら、4つ5つすぐに上げることができるでしょう。でも、「あなたの特技とか長所は何ですか?」と聞かれたら、「んんー」と、考えてしまいます。「長所は何だろう?私はどんなことにすぐれているのかなー」と悩みます。どうしてでしょうか?だいたい、何か悪いことをしたら注意されます。宿題してこなかったとか、遅刻したとか、喧嘩したとか…。宿題をやってきて当たり前、時間通りに来て当たり前。あまりほめられません。テストでも、たとえ70点取っても、「何故、80点とれなかったんだ」となります。もう、私たちの目が否定的になっています。悪いところが大きく見えて、良いところが見えない。日本の文化は、本当にそうだと思います。しかし、文化のせいばかりしてはいけません。私たちは聖書のみことばから神様が私たちをどうご覧になっておられるのか?そのことを心の奥底から、自分の価値観になるように理解しなければなりません。聖書で神様は「私の目にはあなたは高価で尊い。私はあなたを愛している」とおっしゃっています。だった、私は高価で尊い、私は愛されるべき存在だということです。聖書で神様は「あなたは義である。聖徒である」とおっしゃっています。だったら、私は正しい人間で、聖い存在だということになります。神様が「そうだ」とおっしゃるのに、「私はそうじゃない」と言ったならば神様に逆らうことになります。

もう1つは、私たち自身に語っていることば、セルフ・トークを変える必要があります。私たちは意識しないで、日中、いろんなことを心の中でつぶやいています。「こんだけ、やったのに、あのそっけない態度はなんだ。もう、一生懸命やらないぞ!」「だいたい、あの偉そうな態度が気にくわないんだよなー。俺は道具じゃないんだ」。「いいよ、もうこれくらいで、どうせ給料安いんだから」。何を隠そう、これは数ヶ月前まで、郵便局で働いていたときの、私の心のつぶやきです。いや、もう、口には出さなくても、心で語っていることばが、いかに否定的でしょうか?おそらく、みなさんは聖められているので、こんなふうには語っていないと思いますが、どうでしょうか?まず、変えるべきことは、心の思いであり、このセルフ・トークであります。本当に、私たちは神様の愛と価値観を魂の中にいっぱいいただき、思いとセルフ・トークを積極的、肯定的にすべきであります。そうしますと、結果的に、人の良いところが見えてきたり、この世の中に良いところを見出せるようになるのではないでしょうか?一番の問題は、私たちのゆがんだ考え、ゆがんだめがねであります。ここを変えたならば、ピリピ4:8に記されている、8つの良きものを心に留めることができるのではないでしょうか。だから、ローマ12:2でこのように言われているのであります。ローマ12:2「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」アーメンであります。心の一新によって自分を変えるとは、まさしくそのことを言っているのであります。

2.行なうこと

ピリピ4:9「あなたがたが私から学び、受け、聞き、また見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神があなたがたとともにいてくださいます。」聖書ってうまくできているなーと思います。先週もそうでしたが、心理学者たちが言うようなことを2000年前、すでに教えておられるんであります。ピリピ4:8は私たちが思いを変えて、どのようなことに目を留めるべきか、ということが書いてありました。私たちの思いに良いものが留まるのが第一段階であるならば、第二段階は何でしょうか?それは私たちの生活が変わることです。これをライフ・スタイル・チェンジと言います。私たちは思いを変えたあと、実際に行動するときに、それがだんだんと身についてくるのであります。もし、思いが変えられただけで、実行しないならば、また古い生活と古い思いに逆戻りしてしまいます。だから、パウロは、「あなたがたが私から学び、受け、聞き、また見たことを実行しなさい」と命じているのであります。一般的に私たちは中立を好みます。たとえば、お酒を飲んでいる人に、「もうお酒を飲まないように」と言います。でも、どうでしょうか?ただ、お酒を飲まない状態というのは苦痛なのではないでしょうか?「お酒をやめれば良いじゃないか」と思うかもしれません。しかし、それではまだ半分であり、また逆戻りする可能性は大です。そうではなく、お酒の代わりにその人を喜ばせる神様からのものが必要なのです。今まではお酒で中毒だったけど、今度は神様に中毒になる。神のみことばに中毒になる。代わりに、そういうものが必要だということです。私は「子供に長い時間、ゲームをしちゃだめだよ。目が悪くなるから」と注意します。「ほどほどに」、と言っても何時間でもやります。だから、ゲームよりももっと生産的で楽しいことをやらせれば良いんです。うちの子供は「パパ、一緒に散歩行こう!」と言います。私はひとりが良いんですが、ゲームよりは良いかもしれません。「マサチューセッツ工科大学へ本当に行きたかったら、英語を一緒に勉強しよう」とやっても良いですね。

エペソ人への手紙4章には、そのことが詳しく書かれています。エペソ4:28「盗みをしている者は、もう盗んではいけません。かえって、困っている人に施しをするため、自分の手をもって正しい仕事をし、ほねおって働きなさい。」この人に、「もう盗んではいけません」と言いました。その人は「わかりました。もうやめます」と言いました。でもそのままでは、本当の悔い改めにはなりません。悔い改めとは「メタノイヤ」と言いますが、向きを変えるということです。「もう盗んではいけませんよ」と言われ、「分かりました。もうやめます」。それは盗みを休んでいるということです。「メタノイヤ」とは、向きを変え、別なことをするということです。働いて、困っている人に施すということです。以前は、「盗み」「盗み」「盗み」。「メタノイヤー!」と言われたら、「働いて施す」「働いて施す」「働いて施す」。これが本当の悔い改め、ライフ・スタイル・チェンジであります。ここまで行かないと人は本当に変わらないのであります。エペソ4:29「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。」これも同じようにやりたいと思います。「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません」。「はい、わかりました。もう、悪いことばを出しません」。それでは、本当の悔い改めにはなっていません。ただ、休んでいる状態です。これをメタノイヤをするとどうなるのでしょうか」。「悪いことばを口から出す」「悪いことばを口から出す」「悪いことばを口から出す」。「メタノイヤー!」。「人の徳を養うことばを話す」「人の徳を養うことばを話す」「人の徳を養うことばを話す」であります。このように実行していくと、ライフ・スタイル・チェンジが起こるのであります。一旦、体に身についたら、もう抜けることはありません。しかし、エディ・レオ先生は49日間続けないと、身につかないと言いました。49日、なんか聞いたことがある数字です。

私たちはライフスタイルが変わるためには、ここまでしなければなりません。でも、人間は自分に甘いんであります。だから、それを見届け、励ましてくれる人が必要なのであります。つまり、説明責任を互いに持てる人、アカウンタビリティの持てる人が必要なのであります。「どう、最近、守っている?」と聞いてくれる友人が必要です。あるいはこういうことが身につくためには、コーチが必要なのであります。どうでしょうか?友人にお願いすれば、互いにコーチングもできるんじゃないでしょうか? みなさんは、自分の状態を率直に伝えることができる信仰の友人を持っていらっしゃるでしょうか?私は家内がそうなんですが、自分をコーチしてくれる牧師も必要だと思っています。こう頼めば良いのです。ディボーションを毎日したいんだけど、1週間後にチェックしてくれますか?「先週、ディボーション、何回できましたか?」「はい、ほとんど欠かさずできました」。仕事でビジネスホテルに泊まる人は、「私がホテルで変なビデオを見ないように祈ってください」と友人に頼みます。その後、友人が「先週、ホテルで大丈夫でしたか?」と聞きます。「はい、見ませんでした」。すると「ハレルヤ!良かったね」と励ます。ですから、自分の目標とか自分の変えたいことを、親しい人に話すんです。そのとき、「祈ってください。チェックしてください」とお願いします。そして、後からそれを報告する。ちょっと堅苦しい感じがしますが、これを説明責任、アカウンタビリティの関係と言います。清瀬に菅谷先生という方がいらっしゃいます。ここにも来られたことがあります。たまに、先生から「最近どう?」と電話がきます。私も「べらべら」と話すんですね。あっという間に、20分くらいたちます。岡山の中嶋先生からもたまに電話がきます。うれしいですね。先生の方からなかなか切らないので、30分以上話してしまいます。どうでしょうか?「説明責任」みたいに堅苦しいことばを使わなくても、「最近どう?」くらいで良いんじゃないでしょうか?「最近どう?」これを、亀有教会の挨拶にしても良いくらいですね。ハレルヤ、きょうは8つの良いものを心に留め、それを実際に行なうということを学びました。愛兄姉と平和の神が共におられますようにお祈りいたします。

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2009年5月24日 (日)

喜びなさい     ピリピ4:1-7

 聖書にはいくつかの命令があります。神様が命令するときには、必ず、そうできる保証というものがあります。神様はただ、命令するだけではなく、私たちがその命令に従えるような資源も同時に、与えてくださるということです。きょうは、ピリピ人への手紙から2つの命令を、神さからいただきたいと思います。1つ目は「喜びなさい」であり、2つ目は「思い煩うな」であります。もし、これらが私たちの感情に訴えるものであれば、それは不可能です。なぜなら、私たちの感情は自然発生的なものであり、自分の力ではどうにもなりません。しかし、この2つが、感情ではなく、私たちの意志に対して命じているのであれば、可能であります。神様が「喜びなさい」と命じるので、「はい、わかりました。喜びます」と従うなら、あとから「喜び」という感情がついてくるのであります。また、神様が「思いわずらうな」と命じるので、「はい、わかりました。思い煩いません」と従うなら、あとから「平安」が来るのであります。きょうは、それらのことを聖書から詳しく学びたいと思います。

1.喜びなさい

 ピリピ4:4には「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい」と書いてあります。では、みなさんはどんなときに喜ぶことができるでしょうか?逆に言うと、どんなときに喜べないでしょうか?一方が喜びであるなら、他方は悲しみとか失望でしょうか?ちょっと考えてみましょう。「あなたはどんなときに喜ぶでしょうか」。一人ひとり、考えて、その答えを私にテレパシーで送ってください。願い事がかなったとき。人からほめられて評価されたとき。何かうまくいったとき。プレゼントをいたただいたとき。楽しいことがやってきたとき。なるほど、たくさんありますね。今、プロ野球の交流試合が始まっています。しかし、新型インフルエンザも流行っています。見に行っている人は、みなマスクを着用しています。どうなんでしょうか?「わー」と喜びたいのですが、マスクが邪魔になるんじゃないかと思います。マスクしてでも、球場に行きたいのでしょうか?ちょっと滑稽な感じがします。では、みなさん、喜びと笑いの違いは何でしょう?表情とか、口の開き具合、かなり似ていますけど、違いますね。現代人は、喜ぶことが少ない分、それを笑いで補っているんじゃないでしょうか?我が家ではクイズヘキサゴンを見て、ずいぶん笑っています。大体、家内が笑っているときは、テレビを見ているときです。以前は、家族がテレビを見ることに否定的でした。でも、笑うことは健康に良いので、今は一緒に見たりしています。でも、みなさん、喜びと笑いは、質的に違いがあると思います。

では、イエス様が喜ばれたときがあったでしょうか?イエス様が大声で笑ったという箇所はおそらくないと思いますが、喜びにあふれたという箇所はあると思います。ルカ10章。ルカ10:17-21をお読みいたします。さて、七十人が喜んで帰って来て、こう言った。「主よ。あなたの御名を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します。」イエスは言われた。「わたしが見ていると、サタンが、稲妻のように天から落ちました。確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。」ちょうどこのとき、イエスは、聖霊によって喜びにあふれて言われた。「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現してくださいました。そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。70人の弟子たちはとっても喜んで伝道旅行から帰ってきました。「いやー、何人もの人たちから悪霊が追い出されたよ」「祈ったら、病気が治ったよ」「たくさんの人が福音を信じたよ」。弟子たちは自分たちの伝道旅行の成果が上がったので喜びました。もし、伝道旅行がうまくいかなかったら、どうでしょうか?「悪霊にやられて、一人も救われなかった」。当然、喜べないですよね。でも、イエス様はそういう何かをしたかではなく、何を喜べとおっしゃっているのでしょうか?「ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい」と言われました。さらに、どうでしょう?イエス様は「聖霊によって喜びにあふれて言われた」という続きがあります。内容を見ますと、父なる神様が幼子たちになしておられることを喜んでおられます。まだ、ここでははっきりとは、わかりませんが、喜びとは私たちが何かをしたかに基盤を置くのではなく、神様がなしておられることを喜ぶということではないでしょうか?私たちの喜びは、環境や状況に左右されますが、神様から来る喜びはどうも違うようです。

では、テキストに戻りますが、ピリピ4章の1節から3節の内容は、どんなことを書いているのでしょうか?ピリピ1章にもありましたが、教会の中に不一致や争いがあったようです。4章をみますと、ユウオウデヤとスントケという人たちは対立しているようです。でも、パウロはピリピの人たちを「私の喜び、冠」と呼んでいます。本来なら、ピリピ教会は、喜べない状況だと思います。でも、パウロは「いつも、主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい」と命じています。冒頭でも話しましたが、もし、私たちの感情に「喜びなさい」と命じているのであれば、それは無理です。感情は私たちの思い通りにはなりません。喜べる状況だったら喜ぶけど、喜べない状況にあるときは喜ぶことができません。感情というのはそういうものです。でも、パウロが命じているのは感情にではなく、意志、私たちの意志に対して命じているのです。確かにピリピの教会には不一致や争いがあり、喜べない状況です。でも、どうでしょうか?ピリピの教会の人たちは、ものすごい迫害の中から救われました。意見や考えの違いはあるかもしれないけど、みんなの国籍は天にあり、救い主が再び来られることを待ち望んでいます。そういうことを思って「喜びなさい」と言われたら、喜べるんじゃないでしょうか。それは、私たちの現実の生活でも同じです。仕事がうまくいった、望んでいるものが与えられた、病気が治った…そういう状況だったらだれでも喜ぶことができます。でも、逆に、仕事がうまくいかない、望んでいるものが与えられない、病気も治らない。問題が解決されるまで待つなら、永久に喜ぶことができません。パウロが「喜びなさい」というのは、うまくいったとか、うまくいっていないという環境や状況に対して、言っているわけではありません。

 では、どのようにしたら、環境や状況に関係なく、喜ぶことができるのでしょうか?これは、簡単な答えはないです。このように言っている私でも、悲しみや失望落胆に落とされたら、どうなるか分かりません。でも、聖書の原則だけは語ることができます。では、どんな理由で、いかなる状況の中でも喜ぶことが可能なのでしょうか。それは、キリストによって救われているということです。これはさきほどのルカ10章の弟子たちのことにも言えます。弟子たちは伝道旅行の成果がすばらしかったので喜んでいました。でも、イエス様はそんなことではなく、天に自分たちの名前が記されていることを喜びなさいと言われました。つまり、自分たちに何ができたかではなく、どういう存在になっているかということを喜ぶということです。今は、救われて神様の子供になった、この地上だけではなく、永遠の御国が与えられています。私たちはこの地上でたくさんのものを失います。喪失の悲しみ、喪失のトラウマというのがあります。健康を失うことも、若さを失うことも喪失です。人の信用とか仕事、ステータス、大切な持ち物、愛する家族、ペット…本当に失うということは悲しいです。決して喜ぶことはできません。でも、どうでしょうか?私たちがこれから行く、天国にはおそらく失ったもの以上のものがあるのではないかと思います。全く同じではないかもしれないけど、それ以上のものがあると思います。ですから、やがて行く天国のことを思うなら、どんな中でも、喜ぶことができるのではないでしょうか?

ピリピ4:5「あなたがたの寛容な心を、すべての人に知らせなさい。主は近いのです。」このみことばは、「喜びなさい」とあとに続くみことばです。つまりは、私たちがどうして喜べるのか、その理由を述べているのではないかと思います。このところに「主は近いのです」と言われています。これには2つの意味があると言われています。1つは、主がいつも共にいるから、喜ぶことができるということです。主が共にいたらどんなことが起こるのでしょうか?ローマ8:28「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」そうです。すべてのことが益にされるからです。だから、私たちはどんな失意の中でもイエス様が共にいるので、喜ぶことができるんだということです。アーメンです。もう1つ、「主は近いのです」とは、「主がまもなく来られて、御国が完成するからです」という意味もあります。そうです、「私たちが待ち望んでいる、御国が来るので、地上の悲しみに終わりが来ますよ。失ったものを取り戻すことができますよ」ということなのです。キリストが再び来られるとき、死も涙も、別れも、嘆きも、争いも、罪も、弱さも、不条理もなくなるということです。つまり、そのことを先取りするならば、どんな状況の中でも喜ぶことができるということです。もし、私たちが信仰によって、意志を働かせて、神様の命令どおり喜ぶならどうなるでしょうか?本当は喜べる状況では、全くないのです。「でも、神様のご命令なので、喜びます」。するとどうでしょうか?心の中から、聖霊によって、喜びが湧き上がってくるのです。そうです。少し後からですが、感情的にも喜ぶことができるのです。つまり、私たちが主にあって、喜ぶならば、喜びが湧き上がってきて、やがて喜ぶことができるようになるということです。神様の命令は、単なる命令ではなく、必ず、保証があります。私たちが神様のご命令どおり、主にあって喜ぶなら、喜びが出てくるのです。ハレルヤ!

2.思い煩うな

 ピリピ4:6,7「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」このみことばによって、数えきれない人たちが助けられているのではないでしょうか?この地上では思い煩うなと言われても、思い煩うことが海の波のように次から次へと押し寄せてきます。さて、このみことばは、3つの部分から成り立っています。まず、最初、この人はどうだったんでしょうか?どういう状態だったんでしょうか?そうです。何かのことで思い煩っていたのです。何かのことで思い煩っていたから、「何も思い煩うな」と言われているのです。つまり、思い煩いはあるものだという前提になっています。みなさんの中で、2009年5月になりましたが、「この5ヶ月間、1つも思い煩ったことはありません」と言う方は手をあげてください。では、先週1週間、たったの7日間ですよ、「私は思い煩ったことがありませんよ」と言う方は手をあげてください。私は思い煩いました。先週の月曜日は午後から常磐牧師セルがあるため、午前中はお菓子とか果物を買いに行きました。また、翌日からコーチング関東があるのでお布団も借りに行きました。午後1時、牧師夫人も含めて14人の牧師たちが集まりました。わいわい、がやがや。しかし、午後5時頃から、関東コーチングのコーチの先生方が集まってきました。こっちに顔を出しながら、あっちにも顔を出すと言う感じです。その夜は、コーチング関東の打ち合わせです。翌日の火曜と水曜日は50人前後の方々が集まりました。やるべきことがいっぺんに押し寄せてきたので、かなり、思い煩いました。これは、私の問題ですが、みなさんもそれぞれの生活の場で、いろんな問題が起こり、どう解決したら良いかと、思い煩ったことがきっとおありでしょう。つまり、この地上で生きている限りは、必ず、思い煩いというものはあるということです。

 次に、このみことばには思い煩いからの解決策が書かれています。思い煩わないで、どうしたら良いのでしょうか?「あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。」そうです、祈りの中で、「それらすべてのものを神様のところに持って行きなさい、ゆだねなさい」ということなのです。でも、順番があります。「まず、神様に自分はどんな問題で思い煩っているのか、1つ1つ報告しなさい」ということなのです。「え?神様は私の状況をご存知ないのですか?神様は全地全能なはずですから、いちいち報告なんて不要でしょう」と思うかもしれません。違うんです。神様はもちろん、お一人でもできますが、あなたとご一緒に解決したいと願っておられるのです。ですから、私たちが自分の今の状況を1つ1つ申し上げるときに、私たちの心の中に、神様が働いてくださるのです。1つ1つ報告しているうちに、「どれが大切で、どれが大切でないか」あるいは「どういう順番でやったら良いか」、あるいは「どれが自分のすべきことで、どれは神様がすべきことなのか」など、生理整頓ができてきます。ま、このことを祈りによって、あるときは紙に書きながら報告します。とにかくごちゃごちゃした、問題を神様に差し出します。すると、どうでしょう。「そんなに複雑じゃないなー」と分かってきます。そして、自分が思い煩っていたものが見えてきます。それは、「失敗したらどうなるだろう?」「うまくいかなかったらどうなるだろう?」という心配や恐れです。先のことは、私たち人間にはどうすることもできません。ですから、「ここは私がやりますから、どうか助けてくださいと祈ります。もう、1つ「これは私の力の及ばないところです。ですから、これはあなたにゆだねます」と祈れば良いのです。ゴスペルの賛美に、「キャスト、オール、ユアー、ケアーズ」という賛美があります。「すべての心配事をイエス様に投げ出しなさい」という意味です。Ⅰペテロ5:7「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです」。皆さんが、夜、心配ごとがたくさん募ってきて、眠れないときがあるかもしれません。そのときは、「羊が一匹、羊が二匹」と数えるのではなく、1つ1つ、心配事を主にゆだねるのです。でも、それだけではありません。「感謝をもってささげる祈りと願い」とありますので、これまで主がなしてくださった、良いことも思い出すべきです。すると、その祈りがとっても効果的になります。

 そして結果的にどうなるのでしょうか?「そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」「そうすれば」つまり、神様のところに報告して、ゆだねるべきことをゆだねたらです。「そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」その人の心と思いがどうなるのでしょうか?人のすべての考えにまさる神の平安がやってくるということです。しかし、この意味がわかりそうでわかりません。コンテンポラリー・イングリッシュ・バージョンというアメリカの現代訳版ですが、このように訳しています。「そのようにキリスト・イエスに属するならば、神様はだれもが理解できないような平和であなたを祝福します。そして、この平和はあなたの感じ方と考え方を支配するでしょう。」この訳からも分かるように、神様は環境とか状況を変える前に、あなたの心とか思い、あるいは感じ方と考え方を変えるということです。ちょっと整理しますと、私たちの心(ハート)とか感じ方というのは、感情面を表しています。心配や恐れ、いだらだち、憎しみ、怒り…これらはマイナスの感情です。しかし、神様の平安がこれらを支配して、取り除いてくださるということです。また、私たち思い(マインド)とか考え方というのは、感情とは別の面です。思いとか考え方を変えなければ、どうにもなりません。でも、神様の平和が私たちの思いとか考え方を支配し、神様のみこころに合致するようにしてくださるならばどうでしょう。私たちの思いが神様の思いと同じになるなら、もうしめたものです。私たちはこの世と罪の中で、思いや考えが混乱させられています。でも、神様が私たちの心に平和の支配をくださいます。そうすると、私たちの思いや考えがピッシッと正されるのです。

 私たちは喜べないとき、あるいは思い煩ったとき、状況や環境を変えてくださいと神様に願います。でも、それは神様の方法ではないようです。神様は、まず私たちの心と思いが変えられることを願っておられます。おそらく、私たちの心と思いが問題にだけ集中し、がんじがらめになっているわけです。でも、それら1つ1つを神様に報告していくと、神様の平和が私たちの心と思いを支配してきます。その後に、神様は私たちと一緒に、問題を解決してくださるということです。ですから、何よりも先に私たちが神様の方に向く必要があるということです。旧訳聖書にこのような話があります(ヨシュア記5章)。あるとき、ヨシュアがこれからカナンの地に攻め上ろうとしました。そのとき、天使が抜き身の剣を持って、目の前に立ちはだかりました。ヨシュアは、天使に聞きました。「あなたは、私たちの味方ですか。それとも私たちの敵なのですか。」すると、天使は、「いや、わたしは主の軍の将として、今、来たのだ」と答えました。ヨシュアは足のはきものを脱いで、主を伏し拝みました。つまりこういうことなのです。神様はヨシュアと共にいるけれど、ヨシュアが神様と共にいるかどうかを天使長は確かめに来たのです。天使は私たちの言うことは聞きません。もし、私たちが神様と共にいるならば、天使は一緒に戦ってくれるということです。ここに1つの法則があります。私たちの心と思いが神様に結びつき、神様の平和で支配されていることが何よりも大事なのです。私たちは状況とか環境が変わることを願いますが、それは次の段階だということです。もし、私たちが神様と共にいるならば、神様は私たちと一緒に、状況とか環境を変えてくださるのです。神様は私たちと共におられます。どうか、私たちの方も神様と共にいることを喜びましょう。あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、私たちの願い事を神に知っていただきましょう。そして、私たちの心と思いが神様に結びつき、神様の平和で支配されますように求めましょう。

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2009年5月17日 (日)

国籍は天にあり      ピリピ3:17-21

 教会によっては、人々を集めるために、いろんなプログラムを催すところがあります。それも良いことだと思います。でも、聖書のみことばをまっすぐに語るならば、人々が集まり、人々が救われると信じます。なぜなら、福音にはそのような力があるからです。良い話とかためになる話ならば、世の中にたくさんの講演がありますし、著名な方が語ってくれるでしょう。でも、この聖書からのメッセージは、人々に命を与えることができる唯一のものです。少し、気になるのは献金でしょうか?別にささげなくても良いのですが、そこも本当は恵みなのです。神様はささげた人の産業を祝福し、健康を与え、幾倍もの祝福をもって報いてくださる方です。どうぞ、「献金を取られる」と思わないでください。信仰をもって種をまいたならば、30倍、60倍、100倍もの刈り取りがあることを期待してださい。

1.彼らの行き先

 3章の19節を、日本語の聖書でみますと、「彼ら」ということばが4回出てきます。彼らというのは、キリストの十字架を敵として歩んでいる人たちです。直接的には、パウロが宣べ伝えている福音に反対し、迫害しているユダヤ教徒です。でも、キリストの十字架を信じない人たちは、今も、世の中には、たくさんいます。そういう人たちも、「彼ら」の中に含まれます。では、彼らはどのような行き先、どのような生き方をしているのでしょうか?19節をみますと、第一に「彼らの最後は滅びです」と書いてあります。リビングバイブルは「彼らの行き着く先は永遠の滅びです」と訳しています。ある英語の聖書は「hell地獄に向かっている」となっています。だから、パウロは18節で「涙をもって言う」と書いてあるのです。第二番目は「彼らの神は彼らの欲望であり」と書いてあります。「欲望」は原文では「腹」となっていますが、物を消費することと関係があるのかもしれません。自分の欲望を満たすことが、第一になっているということです。第三番目は「彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです」とあります栄光というのは普通、輝かしくて誉のあることです。でも、彼らは恥ずべきことを誇っているということです。第四は「彼らの思いは地上のことだけです」とあります。彼らにとっては、地上の生活がすべてであり、死んだ後のことなどどうでも良く、「生きているうちが花だ」と思っている人たちです。

 私は講壇から今でさえ、立派なことを語っていますが、かつては私も「彼ら」の一人でした。今でも、「あのときカワサキのバイクを買えばよかったなー。あのグリーンのモトクロッサーを乗りたかったなー」。「なんで、あのときカローラのレビンを無理してでも買わなかったんだろう」。そういう欲望が片隅に残っています。私は25歳のときクリスチャンになりましたが、私の生きる目的は、「生きているうちに自分の夢をたくさん実現し、楽しいことをたくさんやってみること」でした。JUNの服を着て、かっこよい車に彼女を乗せる。英語を勉強してアメリカに行きたい。飯のために仕事もするが、食べて飲んで、面白おかしく生きる。しかし、人と争って生きていたので、憎しみと、怒りが心に満ちていました。「神なんかいるか?何がキリストだ。宗教なんか弱い人間が勝手に作ったものだ。時代おくれな聖書とか読んで、本当はかわいそうな人たちなんだ」と思っていました。そして、自分がやってきた悪いことや破廉恥なことを人々に自慢していました。「したたかで、トッポイ人生こそ!私の生きる道」。そんなふうに生きてきたんですね。それがどうでしょう?キリストに出会って、180°変わってしまいました。救われて、半年後に神学校に行きましたが、小林先生という有名な先生が教室に入るなり、「この中には肉の匂いがぷんぷんする」と言いました。「ああ、俺のことだろうな?」と思いました。きよめられていないまま、神学校に行ったので、目立っていたのでしょう。28歳のとき、とっても真面目で私と正反対な京子さんと結婚しました。そのとき、大川牧師が私になんと言ったでしょう。「あんな清い人を泣かせるなよ」と言いました。先生は、私のひどかった人生を見て、まだ不安があったんですね。でも、みなさん、毎週、語られる大川牧師の恵みのメッセージで、少しずつ、少しずつ変えられていったのであります。北風は旅人のコートを強い風で脱がそうとします。すると旅人はよけい、ぎゅっとコートを抱きしめるのです。律法主義はそのように、罪ある人をますます硬くなにします。しかし、太陽の熱はどうでしょうか?ぽかぽか暖められると、自分からコートを脱ぎます。同じように、人は愛と恵みを受けると、自分から進んで罪を捨てなくなるのです。これが福音の力です。私は福音の力を体験して、牧師になったのです。過去がひどければ、ひどいほど、福音のすばらしさ、福音の力強さを語ることができるのです。ハレルヤ!

 どうでしょうか?みなさんの関心事はどこにあるでしょうか?消えてなくなるこの地上のことでしょうか?それとも永遠に続く御国のことでしょうか?さきほど、腹の話をしましたが、「現代は大量消費が良し」とされています。人々は大きな胃袋をもって、もっとほしい、ほっとほしいと言います。また、政府やCMは、「もっと消費しなさい。いっぱい消費して不景気を吹き飛ばすんだ」とけしかけます。現代においては節約とか貯金は奨励されません。貯めているお金を使って、流通させなさい。たくさん消費するならば、たくさん生産できる。消費イコール、景気アップ、こういう図式になっています。私は経済の専門家ではありませんので、なんとも言えませんが、隣の韓国はどうでしょうか?今から30,40年前は、ものすごく貧しかったです。そのとき、キリスト教会がリバイバルし、教会を通して、国や人々が豊かになりました。でも、今はどうでしょうか?離婚率、堕胎率はアメリカの次ぎぐらいになっています。アメリカもキリスト教国と言われていますが、模範となっていないところがたくさんあります。確かに経済力アップ、物の豊かさは魅力です。私たちは、豊かさを一旦、経験したならば、もう、ひもじい生活はできません。パソコンが1台あったら、もう1台欲しくなります。地デジになったので、大画面のテレビも買いたいです。海外旅行も安くなったので、いろんな国へ行きたい。私たちの欲望はこれで良いというところがありません。昔、「うわばみ」という、架空の動物を本で見たことがありますが、現代の私たちの胃袋は「うわばみ」になっています。これで十分だ、ということがない。「もっとほしい、もっとほしい、もっとほしい」と叫んでいます。

 みなさん、これが地上に住んでいる私たちの欲望です。でも、どうでしょうか?私たちは肉体のため、あるいは心を喜ばすため、一生懸命がんばっています。食べ過ぎたからこんどはダイエットします。いろんなカルチャー・スクールへ行ったり、映画をみたり、セックスや買い物を楽しんだりして、心を喜ばそうとします。でも、どうでしょうか?私たちは神のかたちに似せてつくられた存在です。神様は霊ですが、私たちも霊的な存在です。体や心がたとえ満足しても、霊はカラッカラで、やせ衰えています。いくら食べても物足りない。いくら飲んでも、酔いがさめたあとはものすごく空しい。いくら持っても物足りない。いくら楽しいことをしても、これで良いのか?死んだら終わりじゃないか。この世に、永遠とか真理というのがあるのだろうか?私は何のために生きているんだろう?生きる目的というのがあるのだろうか?だんだんと、考えてきます。でも、人にはこんなことは言えません。「何、馬鹿なこと考えているんだ。ちょっと、おかしいんじゃないの」と言われます。伝道者の書の記者は「私は、私の目の欲するものは何でも拒まず、心のおもむくままに、あらゆる楽しみをした。…振り返ってみると、なんと、すべてがむなしいことよ。風を追うようなものだ」と言いました。伝道者の書11:9「若い男よ。若いうちに楽しめ。若い日にあなたの心を喜ばせよ。あなたの心のおもむくまま、あなたの目の望むままに歩め。しかし、これらすべての事において、あなたは神のさばきを受けることを知っておけ。」神様は私たちに永遠を思う思いを与えてくださいました。人間は死んだら終わりではなく、その先、何かあるはずだ。人間が死を恐れるのは、その先、どうなるか分からないからです。神様は私たちに、強烈なラブコールを与えています。それは私が御子イエスを与えたので、あなたがには滅んでもらいたくない。どうか信じて、永遠のいのちを得てほしい。そのために、父なる神様は御子イエスを十字架につけて、罪の代価を支払ってくださったのです。神様がくださった、この世のものを楽しむことは悪いことではありません。この自然は、神様が私たちに与えてくださったものです。でも、人類はそのことを忘れ、我が物顔に、自然を破壊してでも、大量消費に走っています。私たちは、本当は、所有者ではなく、管理者なのです。もし、私たちが神様との関係を正し、みことばに従っていくならば、この時代はもっと変わると信じます。

私たちは、この世のことだけに目をとめないで、神様との関係を、永遠を求めるべきです。私たちは神様によって造られた存在です。でも、私たちは神様を離れ滅びに向かっています。私たちは、向きを変えて神様に立ち返り、みこころを求め、御国を求めるべきです。

2.私たちの行き先

 ピリピ3:20-21「けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。」「けれども」となっていますので、キリストの十字架に敵対している彼らとは対照的に、私たちはどうなのかということをパウロは書いています。国籍ということばは、他の聖書には、「本国」とか「ふるさと」とも訳されています。みなさん、日本人である私たちがイギリスに行きたいとするならば、どうなるでしょうか?まず、パスポートが必要でしょう。短期間の旅行なら良いかもしれませんが、そこに住むとなるとビザとか国籍が必要となります。先日、パスポート偽造で入国していた外国の方が強制送還されました。お嬢さんは、中学を卒業するまで滞在できるようですが、ご両親はそうではありませんでした。残念ながら、日本国籍がない場合は、長い間、日本にいることはできないのです。天国もそうです。多くの日本人は、死んだら、天国へ行くと考えています。残念ですが、死んだ人がみな天国に行けるわけではありません。もし、悪人も善人も、みな天国に行けるとしたら、天国はこの世と何の変わらないところとなるでしょう。そうじゃありません。イエス様を信じて、新しく生まれ変わった者だけが、天国に行くことができるのです。神様のところには「いのちの書」があって、イエス様を信じて、契約を結んだら、そこに名前が記されます。キリスト教は、いわば、契約の宗教です。「主よ、主よ。私は生前、教会の礼拝に行きましたよ。私の家内は熱心なクリスチャンでしたよ。私も誘われて、毎週じゃないけど、教会に行ったことがありますよ。私のこと覚えているでしょう」。主は「さあ、あなたのことは全く存じ上げません」とおっしゃるでしょう。神様と契約を結んでいなかったからです。たとえ、教会に何べん行こうとも、たくさん良いことをしたとしても、契約を結んでいなかっなら天国には入ることはできないのです。

 では、天国とはどこにあるのでしょうか?「天」と書いてありますので、雲の上、天空にあるんじゃないかと思っている人もいます。昔、ソ連の時代、ガガーリンが人類史上初めて、人工衛星に乗り、宇宙に飛び出しました。彼は「私はまわりを見渡したが、神は見当たらなかった」と言ったそうです。あちらの国は、唯物論、見えるものしか信じません。これもソ連での話しですが、小学校のあるクラスの中で、たった一人、クリスチャンがいました。学校の先生は、みんなに「この中で、まさか、神様を信じている者はいないだろうな」と言いました。すると、一人の少年が「ぼくは信じています」と答えたそうです。先生は怒りに満ちて言いました。「宇宙へ行った、ガガーリンが何と言ったか知っているか。まわりを見渡したが、神は見当たらなかった、と言ったんだ。だから、神はいないんだ」。すると少年は答えました。「聖書には、心のきよい者は、神を見ると書いてあります。きっと、ガガーリンは、心がきよくなかったのではないかと思います」。先生は、何も答えられなかったそうです。聖書には宇宙とか空という意味の「天」もありますが、神様がおられるところも「天」と言います。パウロは「第三の天」とも言いましたが、私たちの住むこの世界ではなく、次元の違うところではないかと思います。天国は、神の国とも言いますが、正式には「神の支配」という意味です。神の支配の及ぶところ、そこが天国であり神の国です。ですから、目には見えませんが、今、このところにも神の国が及んでいるのです。イエス様は「神の国は近づいた、悔い改めて福音を信じなさい」と言われました。つまり、「神の国は目には見えないけど、あなたが手のとどくところに来ていますよ。さあ、方向転換して、神の国に入りなさい」ということなのです。でも、どうでしょうか?意外と、日本人は入ろうとしません。飛行機に乗って、海外に旅行する人は、年間、何百万人もいますが、天の御国に入ろうとはしません。マタイ11:12「バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。」これはどういう意味でしょうか?当時、天の御国に一番近いと思われていた宗教家たちは入りませんでした。なんと、罪人や収税人、遊女、異邦人が「われ先に」と押し入ったのです。デパートのバーゲン・セールでは、オバタリアンが、人々を押しのけて、良い品物をゲットしようとします。コンサート会場などでも、「われ先に」と良い席を取るでしょう。でも、どういう訳か、日本の場合、天の御国はあまり人気がありません。神様は非常に残念がっています。日本人は上品すぎて、あるいは満ち足りていて、「激しく攻める者」が少ないのでしょうか?おそらく、天の御国の価値が分からないんでしょう。無知なんです!猫に小判なんです。それだったら、何とか私たちが天の御国の福音を伝えなくてはなりません。なりふりかまわず、一人でも多くの人が、天の御国に入るように、福音を伝えるべきです。

 また、この箇所には、イエス様が世の終わり向こうからやって来るとも書いてあります。天国は私たちの方から行くだけではなく、向こうから近づいて来るものなのです。イエス様が再び来られるとき、どのようなことが起こるのでしょうか?そうです。生きている人は、そのまま栄光の体に変わり、死んだ人は復活します。そして、今度は、完成した天の御国に住まうのです。そうです。今は、天の御国は私たちの目には見えません。なぜなら、まだ完成していないからです。神様は、今、御国の民を集めている最中です。でも、その数が満ちると、目に見えるかたちで神の国がやってきます。みなさん、王国には3つのものが必要です。第一は王様、第二は臣民、第三は領土です。これら3つのものがやがて、そろうのです。天国は精神的なものとか、単なるおとぎばなしではありあません。現実に、必ず、やってくるものなのです。「我らの国籍は天にあり」、これは、キリスト教の墓地で、もっとも多く彫られているみことばではないかと思います。キリスト教の墓地には、希望があります。彼らは死んで亡くなったのではなく、眠っている状態です。永眠ではなく、休眠であります。世の終わり、イエス様が来られたなら、栄光の体によみがえり、天に引き上げられるのです。ハレルヤ!パウロは「キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです」と言っています。卑しいからだとは、やがて朽ちてしまう肉体という意味です。みなさん、この肉体では天国で永遠に暮すことはできません。この肉体はこの地上だけのものです。永遠の天国に住まうためには、朽ちない栄光のからだが必要です。イエス様は、全能の力で、私たちを変えてくださいます。それはいつでしょう?イエス・キリストが世の終わり、再び来られるときです。そのときこそ、「死は勝利にのまれた」(Ⅰコリント15:54)という、みことばが実現するのです。ハレルヤ!

 皆さん、私たちには希望があります。みなさん、希望の最たるものは、復活です。私たちの国籍は天にあり、そこで永遠に住まうことができるということです。天国は精神的なものでも、作り話でもありません。この目では見えませんが、今まもなく、完成しつつあります。その前に、神様は御国に入る人たちを応募しているのです。内村鑑三といえば、明治時代で最も有名なクリスチャンです。内村鑑三師にまつわるエピソードをご紹介したいと思います。東大の総長だった矢内原忠雄氏がキリストを信じて、内村鑑三師の弟子となったばかりの時、内村師の愛する娘「ルツ子さん」が18才で死去しました。ルツ子さんと矢内原忠雄氏は同じ年でした。内村鑑三師は、愛娘ルツ子さんの告別式の時、「今日は実はルツ子の結婚式であります。私は愛する娘を天国に嫁入りさせたのです。これこそ聖書に書いてある、婚宴です」と挨拶されました。その言葉は、キリストを信じたばかりの矢内原忠雄氏にとっては、内村鑑三師は、愛娘に死去されて、変な妄想を云われたと思ったほどでした。しかし「ルツ子さん」の棺を雑司ヶ谷(ぞうしがや)の墓地に掘られた穴に埋められるその時、内村鑑三師は、一握りの土をつかみ、高く差し上げて、「ルツ子、万歳!」と叫びました。その声を聞いた時、矢内原忠雄氏は雷に打たれたように全身がすくんで動けなくなり、「これが本当のキリスト教だ」と感じ、その生涯を、天国を目指して歩みつづけたということです。内村鑑三師のそのころの詩があります。「私たちは四人家族だった。しかし今も四人だ。戸籍から一人の名は消えたが、天の記録に一人の名は増えた。四角の食卓の一方は空しく、三度の食事に空席ができたが、しかしなお私たちは四人だ。残された三人はもっと親しくなった。天にいった娘が愛のきずなとなっている。そしてやがて天国で再び一緒に相会うのだ。「けれども、私たちの国籍は天にあります」。お祈りいたしましょう。

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2009年5月10日 (日)

目標を目指して      ピリピ3:12-16

 森光子さんは、昨日、89歳の誕生日でした。そして、昨日演じた「放浪記」は、東京・帝劇で前人未到の上演2000回目だったそうです。彼女は毎日欠かさず150回のスクワット、軽めの屈伸運動に近いものをしておられます。お年を感じさせぬ容貌とバイタリティから「妖怪」とも一部で揶揄されているそうです。彼女は、紫綬褒章(しじゅほうしょう)、文化勲章を授与されたこともあります。なぜ、こういう話をするかと言うと、「神の栄冠を得るために、目標を目指して走る」というのが、きょうのテーマだからです。作家のフランチェスコ・アルベローニは「本当の老化は、夢も見ず、自分の可能性にも見切りをつけたところから始まる」と言いました。またCSルイスは「新しい目標を持ったり、新しい夢を見るのに、歳をとりすぎたということはない」と言いました。それでは、きょうも、聖書のみことばからご一緒に学びましょう。

①キリスト教における「救い」

 キリスト教における救いとは何でしょう?私たちは「キリストを信じて救われました」と言います。では、どういう意味で「救われた」のでしょうか?私たちはキリストによって罪が赦されたので、地獄に行ってさばきを受けることはありません。積極的な意味では、キリストによって義と認められ、神の子供になったということです。これは、キリストを信じることによって、神様との関係が変わったためです。でもどうでしょうか?私たちの実質は、相変わらず罪を犯す存在であり、弱さや罪の性質も宿っています。それでも、私たちは主の御霊によって、栄光から栄光へと主の似姿へと変えられていきます。中身が変えられて、成長していかなければなりません。そういう意味では、まだ救われつつある存在です。これを神学的には「聖化」と言います。完全に救われるのは、キリストが再臨して、神の国が完成し、私たちのからだが栄光の体に変えられるときであります。死んだ肉体が復活する、つまり肉体が贖われるときこそが、救いが完成するときなのです。そのときは、罪の性質も弱さも病もありません。それを神学的には「栄化」と言います。ですから、クリスチャンはみな、聖化から栄化へのプロセスを歩んでいる存在なのです。

②パウロの目標

 それでは、パウロが既に持っているものと、これから得たいと望んでいるものは何でしょうか?使徒パウロは、キリストを知り、キリストを得ました。9節には、「キリストの中にある者と認められ、キリストを信じる信仰による義を得た」と書いてあります。「キリストを信じる信仰によって義と認められた。」これはパウロによる救いの定義として最も有名なことばです。ローマ人への手紙やガラテヤ人への手紙に、そのことが詳しく書いてあります。12節「私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。」パウロはダマスコの途上で、復活の主と出会い、まったく変えられました。また、第三の天に引き上げられ、特別な啓示をいただきました。それなのに、「すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして、追求しているのです」とはどういうことでしょうか?確かに、パウロはキリストを知り、キリストを得ました。そして、神様から義と認められました。でも、パウロはキリストを完全に知っているわけでもないし、またパウロ自身が完全にされているわけでもありません。人間ですから、この地上で神様のことが全部分かるということはありえないでしょう。でも、終わりの日、神様のことがはっきりと分かる日がくるのです。Ⅰコリント13:12「今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。」アーメンです。私たちは神様のことをほんの一部分しか知りません。だから、今は、信仰が必要なのです。でも、やがてはっきりと分かる日がきます。また、パウロは既に義とされていますが、さらには、義の栄冠を得たいと望んでいます。Ⅱテモテ4:7-8「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。」私たちもパウロと同じように義と認められました。しかし、恵みによって、正しい生活を送り、義の栄冠をいただきたいと思います。

 もう1つパウロが目指していたことは何でしょうか?それは神様から召された使徒としての働きを十分に成し遂げることです。パウロは、異邦人への使徒として神様から召され、福音が届いていない地域に出かけて、教会を設立しました。小アジアへ行って宣教し、小アジア全体に福音が広がりました。その次はギリシャに足を運びました。コリントの人たち対して「神が私たちに量って割り当ててくださった限度内で行くのです」と言いました。また、パウロはローマの人たちにこのように書き送っています。「もうこの地方には私の働くべき場所がなくなりましたし、また、イスパニヤに行く場合は、あなたがたのところに立ち寄ることを多年希望していました。」(ローマ15:23)。パウロは、ローマで福音を宣べ伝えてから、イスパニヤ、現在のスペインに行きたいと望んでいました。パウロはⅠコリント15章で「私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです」と自負したほどです。でも、今は、どうでしょうか。パウロはローマで囚われの身となっています。神様のために働きたくても、働けない状況です。私だったら神様に文句を言いたいところです。でも、パウロは何と言っているでしょうか。13節「ただ、この一事に励んでいます」14節「キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。」パウロには自分の計画や思いがありました。でも、それ以上に、神様ご自身が、私ができないことをしてくださるに違いない。たとえ、こういう状況でも、「ただ、この一事に励む」と言うのです。それは、神の栄冠を得るためであります。

 

③私たちが持つべき目標

 では、私たちが目指すべき目標とは何でしょうか?15節「ですから、成人である者はみな、このような考え方をしましょう。」16節「私たちはすでに達しているところを基準として、進むべきです」と書いてあります。私たちは、使徒パウロと程度差はあるかもしれませんが、基本的には同じような目標をもって生きるべきであります。私たちはイエス様を信じたことにより、神様から義と認められています。こんどは、中身がきよめられ、キリストに似るように成長していかなければなりません。つまり、聖化され、やがては栄化されることを目指すわけです。また、それぞれ神様からいただいた使命を全うすべきであります。神様はパウロだけではなく、私たちにも栄冠を与えたいと願っておられるからです。Ⅰコリント9章には、「あなたがたも賞を受けられるように走りなさい。…私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです」と書いてあります。冠の種類は1つではないようです。Ⅱテモテ4章には「義の栄冠」があります。黙示録2章には死に至るまで忠実なら「いのちの冠」が与えられると書いてあります。Ⅰペテロ5章には神の羊の群を牧する人は「しぼむことのない栄光の冠」を受けると書いてあります。はっきりとは分かりませんが、神様からの使命を全うした人には、何らかの賞が与えられるようです。

私は小学校のときや中学のときは、何かの賞をもらったことがありますが、大人になってからはほとんどありません。「賞を与えるとか与えないというのは、不平等じゃないか」という意見もあるかもしれません。でも、ゴルフでも、野球でもスポーツ競技には、必ずと言ってよいほど、何らかの賞があります。カーレースにもありますし、競馬にもあります。文学や芸術の世界にもあります。世界的に有名なノーベル賞もあります。ウェブに「賞の事典ファイル」というのがあり、日本でどのくらいあるのか調べてみました。科学賞、芸能賞、美術賞、文学賞、文化賞の5部門。これは新聞社、総理府、財団、○○協会、都道府県が出している賞ですが、5部門合わせていくつあるでしょうか。日本だけで、ざっと3,205ヶありました。中には「一休とんち大賞」というのもありました。様々なスポーツの競技を除いてこれくらいあるのです。地上では、賞をいただけるか分かりませんが、それよりも天国で何らかの栄冠を受けたいと思います。

パウロは、神様から賞を受けるための大切な秘訣をここに書いています。「ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進む…」ということです。うしろのものを忘れとは、過去の失敗や悲しい出来事を忘れるということです。結構、私たちは過去で生きています。心理学では過去が現在に多大な影響を与えていると言います。あるところは悔い改め、またあるところは癒しが必要でしょう。でも、最終的には神様のもとにそれらを置いて、忘れるということです。しかし、それだけではありません。成功したこと、「あのときは頑張ったなー」という誉も忘れるということです。私も「新会堂は信仰によって建てたなー」と自負していました。でも、16年たったので、もう新会堂とは言えません。あと、4つくらいは建てたいですね。私たちは過去に生きてはいけません。「ひたむきに前のものに向かって進む…」とは、ランナーが一生懸命に走っている姿を想像します。これは前向き、肯定的な生き方です。日本人はあまりにも、後ろ向きで否定的です。また、パウロは「ただ、この一事に励んでいます」と言いました。パウロにゆだねられたものは、使徒として異邦人の世界に教会を建てることでした。パウロは使徒職という一事に励みました。もちろん、牧師や教師、伝道者の働きもしました。でも、そういう働きは他の人に任せて、新しいところへ、新しいところへと進んでいきました。私たちが「ただ、この一事に励む」べきことは何でしょう?一事ですから、そんなに多くはないはずです。いや、1つです。家事や仕事もあるかもしれません。でも、神様の前に、私はこの一事に励みますというものが必要です。他のものは、その一事を支えるものかもしれません。いくつあっても良いですが、神様の優先順位はあるはずです。先週、林兄弟の仕事の関係者が、教会の外壁とか屋根を見てくれました。西脇さんと言う人ですが、名刺を見てびっくりしました。表には「ミッションン西脇」と書いてあります。裏を見たら、「マイミッション」とあり、いくつか箇条書きがありました。一般工事、特殊工事、教会工事、そしてミッション。このミッションの項目の文字が一番大きくて、「伝道、カウンセリング、宗教に関しての相談」と書いてありました。そして、一番傑作だったのが大きな字で「お部屋のリフォームから心のリフォームまで」と書いてありました。彼は建設工事をしていますが、本当は調布教会の伝道師でもあるそうです。

私たちの人生には限りがありますので、どれも、これもというわけにはいきません。この一事とは何でしょう?それは、神様があなたに与えた賜物を用いて、召命に忠実に生きるということです。それぞれ、タラントの種類やタラントの量は違います。任せられたものが1タラントであろうと2タラントであろうと、大事なのは忠実に果たすということです。やがて、神様の前に立つときがきます。「あれー、私の成すべきことってなんだったっけー」ということのないようにしましょう。今から8年くらい前のことですが、イスラム過激派がある神学校を襲いました。二人は大きな刀で切られ、一人は完全に死にました。もう一人も首を切られて死にました。隋液が出て、首がぷらんぷらんの状態で、かけつけた医者は「これはだめだ。でも、棺にこのまま入れるのは可愛そうだから、首だけ縫っておこう」と荒っぽく縫いました。ほったらかしにされていた彼は2時間後に生き返りました。その後、奇跡的に傷が治り、自分が天国に行ったことを人々に証しました。彼の証によると、天国にはいくつかの部屋があったそうです。救われても不忠実だった人の部屋、一生懸命忠実に仕えた人の部屋など、いくつかあったそうです。部屋の中で、人々はそれぞれ、何かを問われているようだったということです。みなさん、どうでしょうか?神様はすでに、あなたの心に「あなたはこれをもって神様の栄光を現しなさい」という賜物と召しを与えておられるのではないでしょうか?私たちは多くのことができません。神様が与えた賜物と召しに焦点を絞る必要があります。

 

④目標を設定するときの注意点

 目標設定の場合重要なことは、できるだけ具体的であるということです。ビジョンとしてあげるだけではなく、具体的にどのようにするのか、どの程度にするのか書き上げる必要があります。そして、短いことばで「私の神様から与えられた目標はこれ、これです」と言えたらすばらしいです。みんなに言う必要がありませんが、神様とコーチには言ったら良いですね。コーチは自分の夢を押し付けるのではなく、その人に与えられた夢を助ける人です。また、目標をあげるもう1つの注意点は、目標は測定可能であるべきです。何年後にこのくらいとか、何年後にこうなると明記しておけば、そのときが来たとき、達成できたか達成できなかったが分かるからです。たとえば、「私は全世界に出て行って福音を宣べ伝えます」というのは大き過ぎます。どこに行くのか、何年間で、どのくらいの人に福音を宣べ伝えるのか。そして、何人の人が救いに導かれるのか。そういうふうに測定可能であるべきです。私は総会資料に「10年間で350名の礼拝になるように」と書きました。350名は、5つの枝教会、合わせてです。同時に、5人の牧師、50人の信徒リーダーが与えられるということです。私が赴任してから、22年になりました。「未だ100名の礼拝も達成していないのに、何を言うんだ。これまで何度も、しゃべってきたのに空砲じゃないか」と私自身もそのように思います。でも、目標をあげないで、このまま行くと、あっという間に10年が来て、引退の年を迎えるでしょう。実はきょうの午後、練馬教会の「主任牧師セレブレーション」に招かれています。横田義弥副牧師が、小笠原先生に代わって主任牧師に就任します。小笠原先生は72歳です。それでも、後10年後に40の教会を生み出すというビジョンを掲げています。40というのは教会外のセルを含めてということですが、それでも大きな風呂敷かもしれません。小笠原先生は「目標達成はもちろん重要だが、そこへ行くまでのプロセスがもっと重要です」とおっしゃっておりました。

 でも、みなさん数字をあげることの弱点があります。それは、相手が絡んでくるものは不確実な要素が多いということです。教会が何名になるようにというのは、相手がいることなので、どうなるか分かりません。ビジネスマンが売上をこのくらいにしますと言っても、相手がいますので、どうなるか分かりません。主婦が「夫や子供から良い主婦と言われるように努力します」という目標を立てたとしても、相手がいるのでどうなるか分かりません。でも、だれも阻止することのできない目標の立て方があります。それは、自分に関した目標であります。たとえば、350人集まる教会に相応しい牧師になるというのは、だれも妨げることができません。人格的にこのような人になり、このようなスキルを身につけ、このようにチャレンジをする。そういう、自分に対する目標を立てることができます。また、ある人は、この仕事や奉仕をするのに、このような技術を身につけ、このような努力をし、このような人格になります。こういう目標はだれも阻止することができません。ですから、自分に関する目標を立てるならば、そのようにふるまい、そのように努力するようになるでしょう。まず、私たちは自分に対する思いを変え、思いを新しくする必要があります。周りの人や環境を変える前に、自分を変えていく。自分のライフスタイルをより良いものへと変えていく。そうするならば、結果的に、あなたに影響されて、周りの人や環境が変わっていくのではないでしょうか?夢と希望を持っている人、肯定的で前向きの人、そういう人のところに人が集まるものです。どうぞ、神様から与えられた、「賜物と使命はこれだ!」とつかんで、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進みましょう。神様はあなたのために、すばらしい賞をご用意しておられます。

 きょうは「母の日」でした。母の日にちなんで、何か語らなければなりません。先日、家内に聞いたらこんなことを言っていました。子供が小さいときは、どこかへ行くという計画が立てられない。急に熱を出していけなくなる事がよくある。そのとき、怒ったり、がっかりしないように、計画を立てないで流れに任せるようになったということです。そういう意味で、お母さんは自分の目標、自分の計画どおり突き進むというよりも、夫や子供をどうしても優先させ、彼らの目標や計画がかなうように、自己を犠牲にするところがあるのかもしれません。かなり前のことですが、長野さんという婦人牧師が詩集を出しました。そこに「お母さんは、削り節。自分を削って与える削り節」と書いてありました。ちょっと悲しい感じもしますが、聖書には「受けるより、与える方が幸いです」と書いてあります。神様から与えられた、母としての使命というのがあります。それを果たすときに、やはり神様からの報いが与えられることを信じます。

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2009年5月 3日 (日)

損、ちりあくた      ピリピ3:1-11

 ゴールデンウィークの前半ですが、共に集まり、神様を礼拝できることを感謝します。礼拝の意義の1つは、「神体験」です。この場で、神様を体験することができるということです。聖書の学びとか、研究、悪いことではありません。良いことです。でも、このような礼拝は、神様と出会うことができる幸いな機会を与えます。みなさんは、神様、イエス様と出会っておられるでしょうか?きょうは、イエス様と出会ってすっかり変えられたパウロの話から始めたいと思います。

1.パウロの起承転結

前半は、起承転結ふうに、お話ししたいと思います。新聞には、4コマ漫画が載っていますがが、みな起承転結になっています。画像を見ながら、ご一緒に考えましょう。

①犬(パウロの敵)

 愛犬家には大変申し訳ありませんが、パウロは「犬に気をつけなさい」と命じています。当時は、家畜とかペットの犬は少なくて、野生の犬がたくさんいたようです。それで、聖書の中では、犬は「不潔な人、汚れた人」を指すことばであり、はなはだしい侮辱を意味していました。パウロはどのような人たちを「犬」と呼んだのでしょうか?2節には「悪い働き人であり、肉体だけの割礼の者」たちと書いてあります。彼らは、人間的なものにより頼み、自分を誇っていました。つまり、犬とはパウロに反対していた、ユダヤ教徒のことであります。パウロが福音を伝え、教会を設置しました。ところが、彼らはその後やってきて、「信仰だけでは救われない、モーセの律法を守り、割礼を受けなければならない」と妨害したのであります。パウロにとって、彼らは、福音の敵でありキリストの敵でした。だから、犬と呼んだのであります。ガラテヤ書6章には、「割礼を受けるというのは、肉を誇ることである」と書かれています。彼らは「自分たちこそ本当のユダヤ人である。アブラハムの子孫、ダビデの子孫である」と誇ったのでしょう。犬でも「血統書付き」というのがありますが、そういう部類かもしれません。

②肉(パウロの誇り)

 パウロは「私もあなたがたのように誇ってみましょう」と自慢しています。でも、この自慢話は、彼らの次元に自分を合わせて、あとからひっくり返すためです。パウロはこういう話法を、しばしば用いています。Ⅱコリント12章でも「無益なことですが、誇るのもやむをえないことです」と言いながら、自分が啓示を受けたことや、だれよりも苦労したことを述べています。ここで「人間的なもの」と訳されている、もとのことばは「肉」であります。パウロはあえて、自分も肉にあって誇っているのです。ざっと見ますと、肉において頼れるものが7つほど上げられています。「八日目に割礼を受けたこと」「イスラエル部族に属し」「ベニヤミンの分かれの者」「きっすいのヘブル人」「律法についてはパリサイ人」「教会を迫害するほどの熱心さ」「律法による義では非難されるところのない者」。おそらく、パウロほどのきっすいのユダヤ教徒は、いなかったのではないかと思います。また、パウロはタルソでガマリエルの門下生でしたから、学問的にもエリート中のエリートでした。バイオリストですと、芸大を主席で卒業し、ドイツに留学し、だれか有名なソリストに師事したとか?チャイコフスキー国際コンクールで優勝したとか?よくわかりませんが、音楽家でしたらそういう感じでしょう。

 

③ふん(パウロの回心)

 パウロはキリストに出会って、大転換を体験しました。そのことが3章7-8節で述べられています。「しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。」パウロは人間的には大変、得になるようなものが、損と思うようになりました。それらは、キリストと比べたら、「ちりあくた」となったということです。「ちりあくた」とは、英語の聖書ではdung、「ふん」になっています。口語訳は「ふん土」となっています。「ふん土」とは堆肥とか肥やしのことです。生まれ、血統、身分、学歴、自分のまじめさ、そういうもの一切が、損であり「ふん土」とはどういうことでしょう?人間的なものは捨てて、キリストに頼りなさいということです。パウロはキリストを得、キリストの中にある者と認められ、キリストを信じる信仰による義を持つことができました。つまり、キリストに出会ってから、すべてが変わったということです。みなさんは、クリスチャンになってそのような大転換を経験したでしょうか?回心ということばは、英語でconversionと言いますが、もとの意味は、変わる、転換する、変換するということです。今まで価値のあったものが、「くそくらえ!」まったく価値のないものになったということです。そういう変革をパウロは経験したのです。

④冠(パウロの目標)

 回心したパウロが目指すものは、復活でした。9-11節「キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。」この文章を読みますと、パウロが望んでいることは、死んでから復活するということだけではないようです。死ぬような苦しみにあずかるとき、つまり、キリストの死と同じ状態になるとき、復活に達することができるということです。自分が「ああ、もう死んでしまうんじゃないか」という窮地に立たされたときに、復活の力が働くんだということです。まさしく、大逆転であります。パウロはそれを何度も体験しています。私たちもイエス様を信じた後も、試練や困難がやってきます。そのとき、自分の中にまだ混在していた人間的なものが砕かれ、取り去られる。そして、キリストの復活のいのちをいただいていくという作業が残されています。けちょんけちょんにやられて、死のさまに等しくなる。しかし、そこから復活の力が現れ、栄光から栄光へと変えられるということです。さらに、パウロが最終的に望んでいることは何でしょう?これは来週、学ぶ箇所ですが、14節にあります。「キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。」アーメン。そうです。パウロが目指しているものは、栄冠であります。きっとパウロはギリシャのオリンピック競技でいただく栄冠をイメージして書いているのかもしれません。

 パウロンの起承転結はどうだったでしょうか?「人生はドラマである」とよく言われますが、パウロほど劇的な変化を体験した人は他にいないかもしれません。キリスト教に真っ向から反対していた人が、キリストを宣べ伝える使徒になりました。こういうケースが実際にあったのですから、私たちの回りにいる手ごわい人はどうでしょうか?強く反対している方が、かえって、望みがあるように思います。「いいよ、いいよ。キリスト教も良いね」と何でも賛成する人の方が、かえって難しいのかもしれません。でも、一番、大切なことは何でしょうか?そうです、生けるキリストと出会うということです。やっぱりキリストに出会って、人生がひっくり返る。そういう経験が必要であります。地上のものから天上のものへと、まったく価値観が変わる。これが、必要であります。

2.私たちの起承転結

 前半は使徒パウロの起承転結でしたが、私たちの起承転結はどうなるんでしょうか?

①起―問題や悩み

 人生において問題や悩みは必ず起こります。しかし、それらは良いものなのです。なぜなら、その人は神様を求めるようになるからです。イエス様は山上の説教でこのように言われました。「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから。義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるから。」心の中が貧しいですか?悲しみや憂いがありますか?「この世に真実なものがあるのか?」と渇きを覚えておられるでしょうか?ある人が「死にいたる健康、命にいたる病い」があると言いました。健康な人には医者はいりません。病人は医者が必要です。同じように、「自分は正しい、何の問題もない」と言う人にはイエス様は不要です。イエス様は「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです」と言われました。

②承―罪、肉、偽り

 なぜ、問題や悩みがあるのでしょうか?その根底に、罪、肉、偽りがあるからです。罪とは聖書では「的外れ」という意味です。まことの神から離れ、自分勝手な方向に進んでいるということです。肉とは何でしょうか?肉とは神様に頼らない人間的なものすべてです。生まれ、身分、学歴、自分のまじめさ、自分の知恵、力、それらはみんな肉であります。肉は一見、良さそうです。この世では何の問題もありません。しかし、そういうものがある限り、イエス・キリストにとことん頼ろうとしません。偽りとは、この世に混在しているウソです。日本、アメリカ、中国、どの国でも、文化の中にウソが含まれています。私たちはその中で生まれ、育ったので、ウソがまるで正しいものであるかのように思っているのです。

③転―回心

 回心とは悔い改めとも言いますが、キリストに出会って方向転換するということです。これは人生において一回限りです。「個々の罪を悔い改めなさい」「正しいことをしなさい」「偽りを捨てなさい」ということではありません。なぜでしょう?生まれつきの罪人は、それをしたくてもできないからです。残念ですが、自分を変える力が内側にないのです。キリストを信じるということは、キリストを心の中に受け入れるということです。それも単なる友人や客人ではなく、救い主、主として受け入れるということです。私たちの心の中には王座があります。生まれつきの人は、だいたい、自我、自分が王座に座っています。自分の好みで、自分の考えで、自分の知恵で行動しています。しかし、その王座をイエス様に明け渡して、自分はイエス様に聞き従うということです。主従が逆になる、これを回心と言います。回心すると、これまで価値のあったものが「損であり、ちりあくた」になります。逆に、これまで価値のなかったようなものが、価値あるものに見えてくるということです。どうでしょうか?車に乗っているとわかりますが、行くときの風景と、帰りの風景は全く逆です。方向転換すると、右のものが左に見え、左のものが右に見える。これが回心です。でも、一番重要なのは、救い主であり、人生の主であるキリストに出会う、キリストを受け入れるということです。このことがないと何も始まりません。

④結―聖化、栄化

 クリスチャンになると何が変わるのでしょうか?立場が変わります。神様が父であり、あなたは神様の子どもになります。ほうとう息子は指輪をはめてもらいました。身分が回復したのです。キリストを信じたあなたは、御国の相続者になったのです。さらに、神様はあなたに義の衣を着せてくださいます。ほうとう息子は、ぼろの衣を脱いで、新しい着物を着せられました。キリストを信じたら、義人、あなたは正しい人と見なされます。自分のアイディンテティが変わります。義人は義人のように行動します。なぜなら、もう「罪人じゃないからです」。そして、あなたは罪の奴隷ではなりません。ほうとう息子は裸足でしたが、靴を履かせてもらいました。もう、奴隷じゃないということです。このように回心してクリスチャンになりますと、神様との立場が変わります。これはだんだんと変わるのではなく、一気に起こるのです。このように、救いは一瞬にして起こるんです。でも、みなさん、クリスチャンになっても、中身はまだ変わっていないところがたくさん残っています。身分は変わっても、実質が変わる作業が残っています。これが、聖化であり、栄化であります。栄化とは最終ゴールで、天国に行き、復活するときであります。でも、この地上では、罪とか肉がきよめられ、偽りを真実に入れ替える作業があります。心の傷が癒されたり、考えが修正される必要もあるでしょう。でも、大丈夫です。あなたを変えてくださるのは、あなたではありません。あなたの中におられるキリスト、聖霊様があなたを助けてくださいます。もちろん、あなたの意志や努力も必要です。でも、イエス様が共にいてくださり、栄光から栄光へと変えてくださるのです。

 クリスチャンになってからどういうことをするのか、具体的にもう少し、説明したいと思います。罪とは何でしょう。いままでは、そんなのちっとも悪いと思わなかった。「世の中の人、みんなやっているんじゃないか!私はまだましな方だ!」とやってきました。しかし、イエス様を信じると、霊的に新しく生まれ変わりますので、「ああ、それは罪だなー、悪いことだなー」と痛みを覚えるようになります。これは霊的な感覚が目覚めたという証拠であり、良いことなんです。そのときに、罪を具体的に神様に告白します。告白とは、ギリシャ語でホモ・ロゲオーであり、「同じことを言う」ということです。神様にありのままを言えば良いわけです。Ⅰヨハネ1:9「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」イエス様を信じる悔い改めは一生に一回ですが、個々の罪を悔い改めるのは一生涯続きます。これは結構、しんどいです。でも、罪が残っていると、様々な悩みや問題がずっと続きます。父なる神様は、「本当の原因はここにあるんだよ!」と教えてくださります。そのときは、素直になって、「はい、わかりました」と、罪を告白すれば良いのです。イエス様の血しおと聖霊の力で、だんだんきよめられていきます。

もう1つは肉の問題です。さきほども話しましたが、肉とは神様に頼らない、一切のものを肉と言います。ですから、肉の中には、すばらしいもの、美しいもの、価値と思えるようなものもあります。学歴、立場、才能、経験、頭が良いこと、これらはみんな肉になります。私たちはうっかりすると、神様よりも、こういうものに頼ってしまいます。しかし、神様は私たちをねたむほど愛していますので、そういう偶像崇拝的な信仰を放っておきません。何をするんでしょうか?そうです。試練を与えます。ヘルブ12:6「主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである」と書いてあります。「うゎー」いやですねー。失敗や挫折、経済的な問題、人間関係のトラブル、あるときは病気さえもお用いになられます。そのとき、叫ぶんです。「主よー。あなたを信じているのに、どうしてこんなことが起こるのですか?ひどいじゃないですか?」。神様は悪魔さえも用いるんですね。ヨブ記を見ると分かりますが、サタンがヨブの持ち物、家族、健康を打って、取り去りました。それでも、ヨブは「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」と礼拝しました。ヨブほどになるとは思いませんが、人は試練を通らされて、神様に信頼することを学ぶのです。

 最後の偽りの問題です。ここに樹木があります。左の木はひょろひょろでほとんど枯れています。なぜでしょう?土の中に、偽り(ウソ)がたくさんあるからです。真実がほとんどないんです。だから、樹木は健康に育つことができません。真中の木はいちおうは育っていますが、実があまりありません。これは土の中に、真理もありますが、まだ、偽り(ウソ)が混在している状態です。たとえクリスチャンになっても、文化的な偽り、家庭の偽り、この世の価値観で生きているかもしれません。ですから、そういう偽りを捨てて、真実と置き換える作業が必要です。右端の木は健康で大きく育っています。土の中がほとんど真実だからです。解決は実ではなく、根っこにあります。根が健康であれば、木が健康になり、豊かな実を結ぶことができます。私は、人から何か言われると、自分が責められていると感じてしまいます。小さなときから父や母、兄弟、学校の先生から責められました。5年生だったかクラス委員に選ばれました。そのとき、まわりの友人が「委員長のくせに!」とことごとく、言動を非難しましました。正確には、批判とか、さばきということばなんでしょうが、私の成育史では「責められる」という表現がぴったり来ました。家内は平気なんですが、テレビで正しい人がやっつけられたり、不当な扱いを受けている場面を見ることができません。「これ以上、傷つきたくない」という思いがあります。でも、この世では敵対する人がたくさんいるので、身構えたり、さばき返して防御せざるをえないわけです。自分のゆがんだ思考を、正しく変えていくならば、悪い感情が消えてなくなります。これも偽りを真理に変える作業です。クリスチャンになっても、いろいろありますが、神様はすべてを益に変えてくださいます。そして、救いの喜びが霊的なものから、心の中、生活全般に広がっていくのです。イエス・キリストはすばらしい恵みをあなたに用意しておられます。主を信頼しましょう!

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