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2009年5月31日 (日)

心に留めること      ピリピ4:8-9

 本日はペンテコステ、聖霊降臨日でした。本来ならば、聖霊に関することをお話すべきなのでしょうが、ピリピ書から予定を組んでいましたので、どこかでしたいと思います。どこかで、と言うととてもいい加減な感じがしますが、エペソ人への手紙がこの次から始まりますので、聖霊に関することが出てきたとき補充していきたいと思います。先週は「喜びなさい。思い煩うな」ということを学びました。何人かの方々にヒットしたらしく嬉しく思いました。「今回も期待に応えられるだろうか?」と思うとプレッシャーがかかりました。きょうは、たった2節からですので、「どうかな?」と思って準備させていただきました。でも、大丈夫です。聖書から順番に語っていくと、偏るということがないからです。偏食は体に良くないと言われますが、聖書も同じだと思います。どんな箇所からも、主に期待して共に学びたいと思います。

1.心に留めること

 ピリピ4:8「最後に、兄弟たち。すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと、そのほか徳と言われること、称賛に値することがあるならば、そのようなことに心を留めなさい。」ここには、私たちが心に留めるべきことが8つ記されています。8つと言えば、イエス様の山上の説教を思い出します。マタイ5章には、「8福の教え、8つの幸い」が記されています。使徒パウロは、「最後に、兄弟たちよ、これら8つのことに心を留めなさい。そうすれば、平和の神が共にいてくださいますよ」と教えています。私がクリスチャンになりたてのころの話です。座間教会に、ネル・ケネディという女性のジャーナリストがおられました。時々、英語集会があり、青年たちがたくさん集っていました。あるとき、彼女がこのピリピ4:8からお勧めしてくださいました。「クリスチャンのジャーナリストとして、自分が何に心を留めているか?また、クリスチャンの若者たちが何に心を留めるべきなのか?」ということを話してくれて、本当に感謝でした。クリスチャンになって教会生活が長くなると、「この世の中は、罪と汚れに満ちており、良いものなんかちっともないんだ」と思ってしまいます。極端になると、「政治も学校教育も、医療も、音楽も、みんなダメだ。教会はそんなことに関わらないで、魂の救いに専念すべきだ」となります。だから、PTAの役員もしないし、この世の音楽も聴かないし、映画も見ない。選挙も行かない。その代わり、教会の集会に出る、聖書を読む、讃美をする、奉仕する。「そういうことだけがすばらしいんだ」となります。でも、それはピリピ4章8節の教えと逆行している生活です。

 では、なぜ、教会に関するものは聖くて、この世のものは俗的で汚れているという考えが生まれてしまったのでしょうか?それは18世紀にまで遡ります。理神論なる考えが、イギリスで始まり、フランスやドイツの啓蒙思想家に受け継がれました。簡単に言いますと、神様は地球や宇宙を造ったけれど、今はもうタッチしておられない。この地球も宇宙も自然の法則によって勝手に動いているんだ。さらに、「神は死んだんだ」とさえ言う哲学者も出てきました。教会はそのことを否定しましたが、少なからず影響は受けました。やがて、「神様に関することは聖いけれど、この世に関するものは聖くないんだ」と考えるようになりました。つまり、聖なる世界と俗なる世界とに2つに分けてしまったのです。聖なる世界とはどんな世界でしょうか?聖書、信仰、祈り、伝道、賛美、神学、道徳に関することであります。その多くは、教会内で行ないます。では、俗なる世界とはどんな世界でしょうか?ビジネス、教育、政治、経済、医療、芸術、マスメディア、この世の法律などであります。もし、この考えが正しいとするならばどうでしょうか?私たちはきょう日曜日、教会にいて聖なることをしています。聖書を読み、賛美を捧げ、お祈りし、みことばを学んでいます。今は、聖なる時ですから、冗談も言わないし、不品行なことも考えません。「そのわりには、牧師が俗的なんですけど!」と文句が出るかもしれません。でもどうでしょうか?この礼拝が終るととたんに人間的になり、笑顔が出てくる。そして、教会の建物を出たら、この世のことを考える。職場では職場の価値観、学校では学校の価値観、家庭では家庭の価値観で生きる。また、日曜日が来ます。すると、聖書を取り出して、宗教的な顔になって教会に行く。私はそういうキリスト教という宗教を教えていないつもりであります。なぜでしょう?聖書の本当の考えは、この世のどまん中にも神様がおられるからです。エペソ人への手紙1章には「教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです」と書いてあります。神様は「政治の世界においても神様の持っているもので満たしたい。芸術の世界においても神様のもっているもので満たしたい。教育や医療、ビジネスの世界も神様のもっているもので満たしたい」と願っておられるのです。私たちは、この世の中に、神様が持っているすばらしいものを持ち運ぶという使命があります。

 そういう考えからしますと、ピリピ4:8は、まさしくそのことを教えています。なぜ、この世の中に、真実なこと、誉れあること正しいこと、清いこと、愛すべきこと、評判の良いこと、徳と言われること、称賛に値することがあるのでしょうか?そうです。神様が造られたからです。創世記1章には「良かった」「良かった」「非常に良かった」と書いてあります。でも、残念なことに人間が罪を犯してから、自然界は喪に服してしまいました。それでも、使徒パウロはローマ1:20でこのように言いました。「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。」完全ではないかもしれませんが、神様が造られたがゆえに、すばらしさがどこかしこに残っているということです。私は毎朝、中川のほとりを散歩します。雑草でも美しい花を咲かせます。1,2週間前、河川敷の雑草を刈り取る作業がありました。おじさんたちが、機械で一網打尽に刈り取るわけです。ある家の前にある花が植えてあります。その花は夏にはとても背が高くなり、大輪の花を咲かせる花なんです。ところが何本かは、河川敷まではみ出していました。あとから見ましたが、おじさんが機械で刈らないで、手作業でしたんでしょうね。3本か4本ちゃんと残っていました。「おじさん、やさしいなー!」と思いました。花をめでる心が、おじさんの心の中にもあったということです。そういえば、星野富広さんも草木にまつわる詩と絵をたくさん描いていらっしゃいます。うる覚えですみませんが、山登りの人が立ちしょんをしようと思ったけど、山ゆりが咲いていたので、場所を代えたというのがありました。あんまりきれいじゃないので、星野富広さんの美しい詩をいくつかご紹介します。①「病院の庭にさつきが咲いた。母が銀行強盗でもするようにおどおどしてひと枝折ってきてくれた。絵に描いて、となりのベッドの人に見せると、「きれいなゆりだなあ」と言った。②神様がたった一度だけ、この腕を動かして下さるとしたら、母の肩をたたかせてもらおう。風に揺れるぺんぺん草の 実を見ていたら、そんな日が本当にくるような気がした。」星野富広さんは、私たちが日常、見過ごしてしまうような些細なものに目を留めて、そこから素晴らしい神様の恵みを語ってくれます。そういう繊細な見方というのは、星野さんが学校の体育教師をそのまましておられたら、きっとできなかったんじゃないかと思います。

4章8節の、心に留めるべきことを、リビングバイブルは、このように訳しています。「真実なこと、良いこと、正しいことに注目しなさい。きよいこと、愛すべきことについて思いめぐらし、他人の長所に目を留めなさい。神様を喜び、賛美することばかりを考えなさい」。順番からすると、「すべての評判の良いこと」を、「他人の長所に目を留めなさい」というふうに解釈しています。私たちは自然界やこの世だけではなく、人々の中にも良いところを見出すべきであります。しかし、どうでしょうか?日本人は他人の良いところよりも、悪いところに目が行きがちではないでしょうか?先週の木曜日、お昼を食べているとき、日立にお住まいの石塚兄より電話がありました。ギデオンで勝田の教会におじゃましてラリーのメッセージをされたとのことです。そこに、吉永先生がいらっしゃって鈴木牧師と親しい関係だと聞いて驚かれたそうです。で、私の方は石塚兄が聞いてもいないのに、吉永先生は座間でうまくいかなくて、インドネシアに飛ばされて、その後は四国に戻って来て、勝田の教会に招聘されたこと。そして会堂建築で苦労されてストレスでものすごく太ってしまったこと。なんだか、悪いことばかり話してしまいました。その点、石塚兄はこの教会に10年以上おられた方ですが、人の良いところを見るすばらしい兄弟でした。今回も電話で、勝田の教会が教会あげてセルを目指している。目的主導の教会を作ろうとしている。そのような内容でした。私はピリピ4章を読んで、「これからメッセージを組み立てようかなー」としている矢先でした。なんと、リビングバイブルには「他人の長所に目を留めなさい」と書いてありました。いやー、私って何なんだろう?「口では人の良いところを見ましょう」と言いながら、自分自身は人の悪い点に目を留めているんじゃないだろうか?愕然としました。このように講壇に立っているときはまだ良いのですが、下に降りて、気を緩めると悪いことばが出てくる。おそらく、それは私が生まれてこの方、多くの批判や裁きを受けてきたので、自分に対しての見方、他の人に対する見方が否定的になっているということでしょう。

ベン・ウォン先生がコーチング・セミナーでよくおっしゃっていました。「日本も中国もそうだが、アジアの文化は親が子どものことを誉めないことである」と。また、何か失敗したら、もう立ち上がれないみたいなダメージを受ける。だから、失敗をどうしても隠してしまう。本当にそうだと思います。だれにでも長所と欠点があります。「あなたの欠点はどこですか?」と聞かれたら、4つ5つすぐに上げることができるでしょう。でも、「あなたの特技とか長所は何ですか?」と聞かれたら、「んんー」と、考えてしまいます。「長所は何だろう?私はどんなことにすぐれているのかなー」と悩みます。どうしてでしょうか?だいたい、何か悪いことをしたら注意されます。宿題してこなかったとか、遅刻したとか、喧嘩したとか…。宿題をやってきて当たり前、時間通りに来て当たり前。あまりほめられません。テストでも、たとえ70点取っても、「何故、80点とれなかったんだ」となります。もう、私たちの目が否定的になっています。悪いところが大きく見えて、良いところが見えない。日本の文化は、本当にそうだと思います。しかし、文化のせいばかりしてはいけません。私たちは聖書のみことばから神様が私たちをどうご覧になっておられるのか?そのことを心の奥底から、自分の価値観になるように理解しなければなりません。聖書で神様は「私の目にはあなたは高価で尊い。私はあなたを愛している」とおっしゃっています。だった、私は高価で尊い、私は愛されるべき存在だということです。聖書で神様は「あなたは義である。聖徒である」とおっしゃっています。だったら、私は正しい人間で、聖い存在だということになります。神様が「そうだ」とおっしゃるのに、「私はそうじゃない」と言ったならば神様に逆らうことになります。

もう1つは、私たち自身に語っていることば、セルフ・トークを変える必要があります。私たちは意識しないで、日中、いろんなことを心の中でつぶやいています。「こんだけ、やったのに、あのそっけない態度はなんだ。もう、一生懸命やらないぞ!」「だいたい、あの偉そうな態度が気にくわないんだよなー。俺は道具じゃないんだ」。「いいよ、もうこれくらいで、どうせ給料安いんだから」。何を隠そう、これは数ヶ月前まで、郵便局で働いていたときの、私の心のつぶやきです。いや、もう、口には出さなくても、心で語っていることばが、いかに否定的でしょうか?おそらく、みなさんは聖められているので、こんなふうには語っていないと思いますが、どうでしょうか?まず、変えるべきことは、心の思いであり、このセルフ・トークであります。本当に、私たちは神様の愛と価値観を魂の中にいっぱいいただき、思いとセルフ・トークを積極的、肯定的にすべきであります。そうしますと、結果的に、人の良いところが見えてきたり、この世の中に良いところを見出せるようになるのではないでしょうか?一番の問題は、私たちのゆがんだ考え、ゆがんだめがねであります。ここを変えたならば、ピリピ4:8に記されている、8つの良きものを心に留めることができるのではないでしょうか。だから、ローマ12:2でこのように言われているのであります。ローマ12:2「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」アーメンであります。心の一新によって自分を変えるとは、まさしくそのことを言っているのであります。

2.行なうこと

ピリピ4:9「あなたがたが私から学び、受け、聞き、また見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神があなたがたとともにいてくださいます。」聖書ってうまくできているなーと思います。先週もそうでしたが、心理学者たちが言うようなことを2000年前、すでに教えておられるんであります。ピリピ4:8は私たちが思いを変えて、どのようなことに目を留めるべきか、ということが書いてありました。私たちの思いに良いものが留まるのが第一段階であるならば、第二段階は何でしょうか?それは私たちの生活が変わることです。これをライフ・スタイル・チェンジと言います。私たちは思いを変えたあと、実際に行動するときに、それがだんだんと身についてくるのであります。もし、思いが変えられただけで、実行しないならば、また古い生活と古い思いに逆戻りしてしまいます。だから、パウロは、「あなたがたが私から学び、受け、聞き、また見たことを実行しなさい」と命じているのであります。一般的に私たちは中立を好みます。たとえば、お酒を飲んでいる人に、「もうお酒を飲まないように」と言います。でも、どうでしょうか?ただ、お酒を飲まない状態というのは苦痛なのではないでしょうか?「お酒をやめれば良いじゃないか」と思うかもしれません。しかし、それではまだ半分であり、また逆戻りする可能性は大です。そうではなく、お酒の代わりにその人を喜ばせる神様からのものが必要なのです。今まではお酒で中毒だったけど、今度は神様に中毒になる。神のみことばに中毒になる。代わりに、そういうものが必要だということです。私は「子供に長い時間、ゲームをしちゃだめだよ。目が悪くなるから」と注意します。「ほどほどに」、と言っても何時間でもやります。だから、ゲームよりももっと生産的で楽しいことをやらせれば良いんです。うちの子供は「パパ、一緒に散歩行こう!」と言います。私はひとりが良いんですが、ゲームよりは良いかもしれません。「マサチューセッツ工科大学へ本当に行きたかったら、英語を一緒に勉強しよう」とやっても良いですね。

エペソ人への手紙4章には、そのことが詳しく書かれています。エペソ4:28「盗みをしている者は、もう盗んではいけません。かえって、困っている人に施しをするため、自分の手をもって正しい仕事をし、ほねおって働きなさい。」この人に、「もう盗んではいけません」と言いました。その人は「わかりました。もうやめます」と言いました。でもそのままでは、本当の悔い改めにはなりません。悔い改めとは「メタノイヤ」と言いますが、向きを変えるということです。「もう盗んではいけませんよ」と言われ、「分かりました。もうやめます」。それは盗みを休んでいるということです。「メタノイヤ」とは、向きを変え、別なことをするということです。働いて、困っている人に施すということです。以前は、「盗み」「盗み」「盗み」。「メタノイヤー!」と言われたら、「働いて施す」「働いて施す」「働いて施す」。これが本当の悔い改め、ライフ・スタイル・チェンジであります。ここまで行かないと人は本当に変わらないのであります。エペソ4:29「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。」これも同じようにやりたいと思います。「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません」。「はい、わかりました。もう、悪いことばを出しません」。それでは、本当の悔い改めにはなっていません。ただ、休んでいる状態です。これをメタノイヤをするとどうなるのでしょうか」。「悪いことばを口から出す」「悪いことばを口から出す」「悪いことばを口から出す」。「メタノイヤー!」。「人の徳を養うことばを話す」「人の徳を養うことばを話す」「人の徳を養うことばを話す」であります。このように実行していくと、ライフ・スタイル・チェンジが起こるのであります。一旦、体に身についたら、もう抜けることはありません。しかし、エディ・レオ先生は49日間続けないと、身につかないと言いました。49日、なんか聞いたことがある数字です。

私たちはライフスタイルが変わるためには、ここまでしなければなりません。でも、人間は自分に甘いんであります。だから、それを見届け、励ましてくれる人が必要なのであります。つまり、説明責任を互いに持てる人、アカウンタビリティの持てる人が必要なのであります。「どう、最近、守っている?」と聞いてくれる友人が必要です。あるいはこういうことが身につくためには、コーチが必要なのであります。どうでしょうか?友人にお願いすれば、互いにコーチングもできるんじゃないでしょうか? みなさんは、自分の状態を率直に伝えることができる信仰の友人を持っていらっしゃるでしょうか?私は家内がそうなんですが、自分をコーチしてくれる牧師も必要だと思っています。こう頼めば良いのです。ディボーションを毎日したいんだけど、1週間後にチェックしてくれますか?「先週、ディボーション、何回できましたか?」「はい、ほとんど欠かさずできました」。仕事でビジネスホテルに泊まる人は、「私がホテルで変なビデオを見ないように祈ってください」と友人に頼みます。その後、友人が「先週、ホテルで大丈夫でしたか?」と聞きます。「はい、見ませんでした」。すると「ハレルヤ!良かったね」と励ます。ですから、自分の目標とか自分の変えたいことを、親しい人に話すんです。そのとき、「祈ってください。チェックしてください」とお願いします。そして、後からそれを報告する。ちょっと堅苦しい感じがしますが、これを説明責任、アカウンタビリティの関係と言います。清瀬に菅谷先生という方がいらっしゃいます。ここにも来られたことがあります。たまに、先生から「最近どう?」と電話がきます。私も「べらべら」と話すんですね。あっという間に、20分くらいたちます。岡山の中嶋先生からもたまに電話がきます。うれしいですね。先生の方からなかなか切らないので、30分以上話してしまいます。どうでしょうか?「説明責任」みたいに堅苦しいことばを使わなくても、「最近どう?」くらいで良いんじゃないでしょうか?「最近どう?」これを、亀有教会の挨拶にしても良いくらいですね。ハレルヤ、きょうは8つの良いものを心に留め、それを実際に行なうということを学びました。愛兄姉と平和の神が共におられますようにお祈りいたします。

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