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2009年5月24日 (日)

喜びなさい     ピリピ4:1-7

 聖書にはいくつかの命令があります。神様が命令するときには、必ず、そうできる保証というものがあります。神様はただ、命令するだけではなく、私たちがその命令に従えるような資源も同時に、与えてくださるということです。きょうは、ピリピ人への手紙から2つの命令を、神さからいただきたいと思います。1つ目は「喜びなさい」であり、2つ目は「思い煩うな」であります。もし、これらが私たちの感情に訴えるものであれば、それは不可能です。なぜなら、私たちの感情は自然発生的なものであり、自分の力ではどうにもなりません。しかし、この2つが、感情ではなく、私たちの意志に対して命じているのであれば、可能であります。神様が「喜びなさい」と命じるので、「はい、わかりました。喜びます」と従うなら、あとから「喜び」という感情がついてくるのであります。また、神様が「思いわずらうな」と命じるので、「はい、わかりました。思い煩いません」と従うなら、あとから「平安」が来るのであります。きょうは、それらのことを聖書から詳しく学びたいと思います。

1.喜びなさい

 ピリピ4:4には「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい」と書いてあります。では、みなさんはどんなときに喜ぶことができるでしょうか?逆に言うと、どんなときに喜べないでしょうか?一方が喜びであるなら、他方は悲しみとか失望でしょうか?ちょっと考えてみましょう。「あなたはどんなときに喜ぶでしょうか」。一人ひとり、考えて、その答えを私にテレパシーで送ってください。願い事がかなったとき。人からほめられて評価されたとき。何かうまくいったとき。プレゼントをいたただいたとき。楽しいことがやってきたとき。なるほど、たくさんありますね。今、プロ野球の交流試合が始まっています。しかし、新型インフルエンザも流行っています。見に行っている人は、みなマスクを着用しています。どうなんでしょうか?「わー」と喜びたいのですが、マスクが邪魔になるんじゃないかと思います。マスクしてでも、球場に行きたいのでしょうか?ちょっと滑稽な感じがします。では、みなさん、喜びと笑いの違いは何でしょう?表情とか、口の開き具合、かなり似ていますけど、違いますね。現代人は、喜ぶことが少ない分、それを笑いで補っているんじゃないでしょうか?我が家ではクイズヘキサゴンを見て、ずいぶん笑っています。大体、家内が笑っているときは、テレビを見ているときです。以前は、家族がテレビを見ることに否定的でした。でも、笑うことは健康に良いので、今は一緒に見たりしています。でも、みなさん、喜びと笑いは、質的に違いがあると思います。

では、イエス様が喜ばれたときがあったでしょうか?イエス様が大声で笑ったという箇所はおそらくないと思いますが、喜びにあふれたという箇所はあると思います。ルカ10章。ルカ10:17-21をお読みいたします。さて、七十人が喜んで帰って来て、こう言った。「主よ。あなたの御名を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します。」イエスは言われた。「わたしが見ていると、サタンが、稲妻のように天から落ちました。確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。」ちょうどこのとき、イエスは、聖霊によって喜びにあふれて言われた。「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現してくださいました。そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。70人の弟子たちはとっても喜んで伝道旅行から帰ってきました。「いやー、何人もの人たちから悪霊が追い出されたよ」「祈ったら、病気が治ったよ」「たくさんの人が福音を信じたよ」。弟子たちは自分たちの伝道旅行の成果が上がったので喜びました。もし、伝道旅行がうまくいかなかったら、どうでしょうか?「悪霊にやられて、一人も救われなかった」。当然、喜べないですよね。でも、イエス様はそういう何かをしたかではなく、何を喜べとおっしゃっているのでしょうか?「ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい」と言われました。さらに、どうでしょう?イエス様は「聖霊によって喜びにあふれて言われた」という続きがあります。内容を見ますと、父なる神様が幼子たちになしておられることを喜んでおられます。まだ、ここでははっきりとは、わかりませんが、喜びとは私たちが何かをしたかに基盤を置くのではなく、神様がなしておられることを喜ぶということではないでしょうか?私たちの喜びは、環境や状況に左右されますが、神様から来る喜びはどうも違うようです。

では、テキストに戻りますが、ピリピ4章の1節から3節の内容は、どんなことを書いているのでしょうか?ピリピ1章にもありましたが、教会の中に不一致や争いがあったようです。4章をみますと、ユウオウデヤとスントケという人たちは対立しているようです。でも、パウロはピリピの人たちを「私の喜び、冠」と呼んでいます。本来なら、ピリピ教会は、喜べない状況だと思います。でも、パウロは「いつも、主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい」と命じています。冒頭でも話しましたが、もし、私たちの感情に「喜びなさい」と命じているのであれば、それは無理です。感情は私たちの思い通りにはなりません。喜べる状況だったら喜ぶけど、喜べない状況にあるときは喜ぶことができません。感情というのはそういうものです。でも、パウロが命じているのは感情にではなく、意志、私たちの意志に対して命じているのです。確かにピリピの教会には不一致や争いがあり、喜べない状況です。でも、どうでしょうか?ピリピの教会の人たちは、ものすごい迫害の中から救われました。意見や考えの違いはあるかもしれないけど、みんなの国籍は天にあり、救い主が再び来られることを待ち望んでいます。そういうことを思って「喜びなさい」と言われたら、喜べるんじゃないでしょうか。それは、私たちの現実の生活でも同じです。仕事がうまくいった、望んでいるものが与えられた、病気が治った…そういう状況だったらだれでも喜ぶことができます。でも、逆に、仕事がうまくいかない、望んでいるものが与えられない、病気も治らない。問題が解決されるまで待つなら、永久に喜ぶことができません。パウロが「喜びなさい」というのは、うまくいったとか、うまくいっていないという環境や状況に対して、言っているわけではありません。

 では、どのようにしたら、環境や状況に関係なく、喜ぶことができるのでしょうか?これは、簡単な答えはないです。このように言っている私でも、悲しみや失望落胆に落とされたら、どうなるか分かりません。でも、聖書の原則だけは語ることができます。では、どんな理由で、いかなる状況の中でも喜ぶことが可能なのでしょうか。それは、キリストによって救われているということです。これはさきほどのルカ10章の弟子たちのことにも言えます。弟子たちは伝道旅行の成果がすばらしかったので喜んでいました。でも、イエス様はそんなことではなく、天に自分たちの名前が記されていることを喜びなさいと言われました。つまり、自分たちに何ができたかではなく、どういう存在になっているかということを喜ぶということです。今は、救われて神様の子供になった、この地上だけではなく、永遠の御国が与えられています。私たちはこの地上でたくさんのものを失います。喪失の悲しみ、喪失のトラウマというのがあります。健康を失うことも、若さを失うことも喪失です。人の信用とか仕事、ステータス、大切な持ち物、愛する家族、ペット…本当に失うということは悲しいです。決して喜ぶことはできません。でも、どうでしょうか?私たちがこれから行く、天国にはおそらく失ったもの以上のものがあるのではないかと思います。全く同じではないかもしれないけど、それ以上のものがあると思います。ですから、やがて行く天国のことを思うなら、どんな中でも、喜ぶことができるのではないでしょうか?

ピリピ4:5「あなたがたの寛容な心を、すべての人に知らせなさい。主は近いのです。」このみことばは、「喜びなさい」とあとに続くみことばです。つまりは、私たちがどうして喜べるのか、その理由を述べているのではないかと思います。このところに「主は近いのです」と言われています。これには2つの意味があると言われています。1つは、主がいつも共にいるから、喜ぶことができるということです。主が共にいたらどんなことが起こるのでしょうか?ローマ8:28「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」そうです。すべてのことが益にされるからです。だから、私たちはどんな失意の中でもイエス様が共にいるので、喜ぶことができるんだということです。アーメンです。もう1つ、「主は近いのです」とは、「主がまもなく来られて、御国が完成するからです」という意味もあります。そうです、「私たちが待ち望んでいる、御国が来るので、地上の悲しみに終わりが来ますよ。失ったものを取り戻すことができますよ」ということなのです。キリストが再び来られるとき、死も涙も、別れも、嘆きも、争いも、罪も、弱さも、不条理もなくなるということです。つまり、そのことを先取りするならば、どんな状況の中でも喜ぶことができるということです。もし、私たちが信仰によって、意志を働かせて、神様の命令どおり喜ぶならどうなるでしょうか?本当は喜べる状況では、全くないのです。「でも、神様のご命令なので、喜びます」。するとどうでしょうか?心の中から、聖霊によって、喜びが湧き上がってくるのです。そうです。少し後からですが、感情的にも喜ぶことができるのです。つまり、私たちが主にあって、喜ぶならば、喜びが湧き上がってきて、やがて喜ぶことができるようになるということです。神様の命令は、単なる命令ではなく、必ず、保証があります。私たちが神様のご命令どおり、主にあって喜ぶなら、喜びが出てくるのです。ハレルヤ!

2.思い煩うな

 ピリピ4:6,7「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」このみことばによって、数えきれない人たちが助けられているのではないでしょうか?この地上では思い煩うなと言われても、思い煩うことが海の波のように次から次へと押し寄せてきます。さて、このみことばは、3つの部分から成り立っています。まず、最初、この人はどうだったんでしょうか?どういう状態だったんでしょうか?そうです。何かのことで思い煩っていたのです。何かのことで思い煩っていたから、「何も思い煩うな」と言われているのです。つまり、思い煩いはあるものだという前提になっています。みなさんの中で、2009年5月になりましたが、「この5ヶ月間、1つも思い煩ったことはありません」と言う方は手をあげてください。では、先週1週間、たったの7日間ですよ、「私は思い煩ったことがありませんよ」と言う方は手をあげてください。私は思い煩いました。先週の月曜日は午後から常磐牧師セルがあるため、午前中はお菓子とか果物を買いに行きました。また、翌日からコーチング関東があるのでお布団も借りに行きました。午後1時、牧師夫人も含めて14人の牧師たちが集まりました。わいわい、がやがや。しかし、午後5時頃から、関東コーチングのコーチの先生方が集まってきました。こっちに顔を出しながら、あっちにも顔を出すと言う感じです。その夜は、コーチング関東の打ち合わせです。翌日の火曜と水曜日は50人前後の方々が集まりました。やるべきことがいっぺんに押し寄せてきたので、かなり、思い煩いました。これは、私の問題ですが、みなさんもそれぞれの生活の場で、いろんな問題が起こり、どう解決したら良いかと、思い煩ったことがきっとおありでしょう。つまり、この地上で生きている限りは、必ず、思い煩いというものはあるということです。

 次に、このみことばには思い煩いからの解決策が書かれています。思い煩わないで、どうしたら良いのでしょうか?「あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。」そうです、祈りの中で、「それらすべてのものを神様のところに持って行きなさい、ゆだねなさい」ということなのです。でも、順番があります。「まず、神様に自分はどんな問題で思い煩っているのか、1つ1つ報告しなさい」ということなのです。「え?神様は私の状況をご存知ないのですか?神様は全地全能なはずですから、いちいち報告なんて不要でしょう」と思うかもしれません。違うんです。神様はもちろん、お一人でもできますが、あなたとご一緒に解決したいと願っておられるのです。ですから、私たちが自分の今の状況を1つ1つ申し上げるときに、私たちの心の中に、神様が働いてくださるのです。1つ1つ報告しているうちに、「どれが大切で、どれが大切でないか」あるいは「どういう順番でやったら良いか」、あるいは「どれが自分のすべきことで、どれは神様がすべきことなのか」など、生理整頓ができてきます。ま、このことを祈りによって、あるときは紙に書きながら報告します。とにかくごちゃごちゃした、問題を神様に差し出します。すると、どうでしょう。「そんなに複雑じゃないなー」と分かってきます。そして、自分が思い煩っていたものが見えてきます。それは、「失敗したらどうなるだろう?」「うまくいかなかったらどうなるだろう?」という心配や恐れです。先のことは、私たち人間にはどうすることもできません。ですから、「ここは私がやりますから、どうか助けてくださいと祈ります。もう、1つ「これは私の力の及ばないところです。ですから、これはあなたにゆだねます」と祈れば良いのです。ゴスペルの賛美に、「キャスト、オール、ユアー、ケアーズ」という賛美があります。「すべての心配事をイエス様に投げ出しなさい」という意味です。Ⅰペテロ5:7「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです」。皆さんが、夜、心配ごとがたくさん募ってきて、眠れないときがあるかもしれません。そのときは、「羊が一匹、羊が二匹」と数えるのではなく、1つ1つ、心配事を主にゆだねるのです。でも、それだけではありません。「感謝をもってささげる祈りと願い」とありますので、これまで主がなしてくださった、良いことも思い出すべきです。すると、その祈りがとっても効果的になります。

 そして結果的にどうなるのでしょうか?「そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」「そうすれば」つまり、神様のところに報告して、ゆだねるべきことをゆだねたらです。「そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」その人の心と思いがどうなるのでしょうか?人のすべての考えにまさる神の平安がやってくるということです。しかし、この意味がわかりそうでわかりません。コンテンポラリー・イングリッシュ・バージョンというアメリカの現代訳版ですが、このように訳しています。「そのようにキリスト・イエスに属するならば、神様はだれもが理解できないような平和であなたを祝福します。そして、この平和はあなたの感じ方と考え方を支配するでしょう。」この訳からも分かるように、神様は環境とか状況を変える前に、あなたの心とか思い、あるいは感じ方と考え方を変えるということです。ちょっと整理しますと、私たちの心(ハート)とか感じ方というのは、感情面を表しています。心配や恐れ、いだらだち、憎しみ、怒り…これらはマイナスの感情です。しかし、神様の平安がこれらを支配して、取り除いてくださるということです。また、私たち思い(マインド)とか考え方というのは、感情とは別の面です。思いとか考え方を変えなければ、どうにもなりません。でも、神様の平和が私たちの思いとか考え方を支配し、神様のみこころに合致するようにしてくださるならばどうでしょう。私たちの思いが神様の思いと同じになるなら、もうしめたものです。私たちはこの世と罪の中で、思いや考えが混乱させられています。でも、神様が私たちの心に平和の支配をくださいます。そうすると、私たちの思いや考えがピッシッと正されるのです。

 私たちは喜べないとき、あるいは思い煩ったとき、状況や環境を変えてくださいと神様に願います。でも、それは神様の方法ではないようです。神様は、まず私たちの心と思いが変えられることを願っておられます。おそらく、私たちの心と思いが問題にだけ集中し、がんじがらめになっているわけです。でも、それら1つ1つを神様に報告していくと、神様の平和が私たちの心と思いを支配してきます。その後に、神様は私たちと一緒に、問題を解決してくださるということです。ですから、何よりも先に私たちが神様の方に向く必要があるということです。旧訳聖書にこのような話があります(ヨシュア記5章)。あるとき、ヨシュアがこれからカナンの地に攻め上ろうとしました。そのとき、天使が抜き身の剣を持って、目の前に立ちはだかりました。ヨシュアは、天使に聞きました。「あなたは、私たちの味方ですか。それとも私たちの敵なのですか。」すると、天使は、「いや、わたしは主の軍の将として、今、来たのだ」と答えました。ヨシュアは足のはきものを脱いで、主を伏し拝みました。つまりこういうことなのです。神様はヨシュアと共にいるけれど、ヨシュアが神様と共にいるかどうかを天使長は確かめに来たのです。天使は私たちの言うことは聞きません。もし、私たちが神様と共にいるならば、天使は一緒に戦ってくれるということです。ここに1つの法則があります。私たちの心と思いが神様に結びつき、神様の平和で支配されていることが何よりも大事なのです。私たちは状況とか環境が変わることを願いますが、それは次の段階だということです。もし、私たちが神様と共にいるならば、神様は私たちと一緒に、状況とか環境を変えてくださるのです。神様は私たちと共におられます。どうか、私たちの方も神様と共にいることを喜びましょう。あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、私たちの願い事を神に知っていただきましょう。そして、私たちの心と思いが神様に結びつき、神様の平和で支配されますように求めましょう。

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