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2009年5月17日 (日)

国籍は天にあり      ピリピ3:17-21

 教会によっては、人々を集めるために、いろんなプログラムを催すところがあります。それも良いことだと思います。でも、聖書のみことばをまっすぐに語るならば、人々が集まり、人々が救われると信じます。なぜなら、福音にはそのような力があるからです。良い話とかためになる話ならば、世の中にたくさんの講演がありますし、著名な方が語ってくれるでしょう。でも、この聖書からのメッセージは、人々に命を与えることができる唯一のものです。少し、気になるのは献金でしょうか?別にささげなくても良いのですが、そこも本当は恵みなのです。神様はささげた人の産業を祝福し、健康を与え、幾倍もの祝福をもって報いてくださる方です。どうぞ、「献金を取られる」と思わないでください。信仰をもって種をまいたならば、30倍、60倍、100倍もの刈り取りがあることを期待してださい。

1.彼らの行き先

 3章の19節を、日本語の聖書でみますと、「彼ら」ということばが4回出てきます。彼らというのは、キリストの十字架を敵として歩んでいる人たちです。直接的には、パウロが宣べ伝えている福音に反対し、迫害しているユダヤ教徒です。でも、キリストの十字架を信じない人たちは、今も、世の中には、たくさんいます。そういう人たちも、「彼ら」の中に含まれます。では、彼らはどのような行き先、どのような生き方をしているのでしょうか?19節をみますと、第一に「彼らの最後は滅びです」と書いてあります。リビングバイブルは「彼らの行き着く先は永遠の滅びです」と訳しています。ある英語の聖書は「hell地獄に向かっている」となっています。だから、パウロは18節で「涙をもって言う」と書いてあるのです。第二番目は「彼らの神は彼らの欲望であり」と書いてあります。「欲望」は原文では「腹」となっていますが、物を消費することと関係があるのかもしれません。自分の欲望を満たすことが、第一になっているということです。第三番目は「彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです」とあります栄光というのは普通、輝かしくて誉のあることです。でも、彼らは恥ずべきことを誇っているということです。第四は「彼らの思いは地上のことだけです」とあります。彼らにとっては、地上の生活がすべてであり、死んだ後のことなどどうでも良く、「生きているうちが花だ」と思っている人たちです。

 私は講壇から今でさえ、立派なことを語っていますが、かつては私も「彼ら」の一人でした。今でも、「あのときカワサキのバイクを買えばよかったなー。あのグリーンのモトクロッサーを乗りたかったなー」。「なんで、あのときカローラのレビンを無理してでも買わなかったんだろう」。そういう欲望が片隅に残っています。私は25歳のときクリスチャンになりましたが、私の生きる目的は、「生きているうちに自分の夢をたくさん実現し、楽しいことをたくさんやってみること」でした。JUNの服を着て、かっこよい車に彼女を乗せる。英語を勉強してアメリカに行きたい。飯のために仕事もするが、食べて飲んで、面白おかしく生きる。しかし、人と争って生きていたので、憎しみと、怒りが心に満ちていました。「神なんかいるか?何がキリストだ。宗教なんか弱い人間が勝手に作ったものだ。時代おくれな聖書とか読んで、本当はかわいそうな人たちなんだ」と思っていました。そして、自分がやってきた悪いことや破廉恥なことを人々に自慢していました。「したたかで、トッポイ人生こそ!私の生きる道」。そんなふうに生きてきたんですね。それがどうでしょう?キリストに出会って、180°変わってしまいました。救われて、半年後に神学校に行きましたが、小林先生という有名な先生が教室に入るなり、「この中には肉の匂いがぷんぷんする」と言いました。「ああ、俺のことだろうな?」と思いました。きよめられていないまま、神学校に行ったので、目立っていたのでしょう。28歳のとき、とっても真面目で私と正反対な京子さんと結婚しました。そのとき、大川牧師が私になんと言ったでしょう。「あんな清い人を泣かせるなよ」と言いました。先生は、私のひどかった人生を見て、まだ不安があったんですね。でも、みなさん、毎週、語られる大川牧師の恵みのメッセージで、少しずつ、少しずつ変えられていったのであります。北風は旅人のコートを強い風で脱がそうとします。すると旅人はよけい、ぎゅっとコートを抱きしめるのです。律法主義はそのように、罪ある人をますます硬くなにします。しかし、太陽の熱はどうでしょうか?ぽかぽか暖められると、自分からコートを脱ぎます。同じように、人は愛と恵みを受けると、自分から進んで罪を捨てなくなるのです。これが福音の力です。私は福音の力を体験して、牧師になったのです。過去がひどければ、ひどいほど、福音のすばらしさ、福音の力強さを語ることができるのです。ハレルヤ!

 どうでしょうか?みなさんの関心事はどこにあるでしょうか?消えてなくなるこの地上のことでしょうか?それとも永遠に続く御国のことでしょうか?さきほど、腹の話をしましたが、「現代は大量消費が良し」とされています。人々は大きな胃袋をもって、もっとほしい、ほっとほしいと言います。また、政府やCMは、「もっと消費しなさい。いっぱい消費して不景気を吹き飛ばすんだ」とけしかけます。現代においては節約とか貯金は奨励されません。貯めているお金を使って、流通させなさい。たくさん消費するならば、たくさん生産できる。消費イコール、景気アップ、こういう図式になっています。私は経済の専門家ではありませんので、なんとも言えませんが、隣の韓国はどうでしょうか?今から30,40年前は、ものすごく貧しかったです。そのとき、キリスト教会がリバイバルし、教会を通して、国や人々が豊かになりました。でも、今はどうでしょうか?離婚率、堕胎率はアメリカの次ぎぐらいになっています。アメリカもキリスト教国と言われていますが、模範となっていないところがたくさんあります。確かに経済力アップ、物の豊かさは魅力です。私たちは、豊かさを一旦、経験したならば、もう、ひもじい生活はできません。パソコンが1台あったら、もう1台欲しくなります。地デジになったので、大画面のテレビも買いたいです。海外旅行も安くなったので、いろんな国へ行きたい。私たちの欲望はこれで良いというところがありません。昔、「うわばみ」という、架空の動物を本で見たことがありますが、現代の私たちの胃袋は「うわばみ」になっています。これで十分だ、ということがない。「もっとほしい、もっとほしい、もっとほしい」と叫んでいます。

 みなさん、これが地上に住んでいる私たちの欲望です。でも、どうでしょうか?私たちは肉体のため、あるいは心を喜ばすため、一生懸命がんばっています。食べ過ぎたからこんどはダイエットします。いろんなカルチャー・スクールへ行ったり、映画をみたり、セックスや買い物を楽しんだりして、心を喜ばそうとします。でも、どうでしょうか?私たちは神のかたちに似せてつくられた存在です。神様は霊ですが、私たちも霊的な存在です。体や心がたとえ満足しても、霊はカラッカラで、やせ衰えています。いくら食べても物足りない。いくら飲んでも、酔いがさめたあとはものすごく空しい。いくら持っても物足りない。いくら楽しいことをしても、これで良いのか?死んだら終わりじゃないか。この世に、永遠とか真理というのがあるのだろうか?私は何のために生きているんだろう?生きる目的というのがあるのだろうか?だんだんと、考えてきます。でも、人にはこんなことは言えません。「何、馬鹿なこと考えているんだ。ちょっと、おかしいんじゃないの」と言われます。伝道者の書の記者は「私は、私の目の欲するものは何でも拒まず、心のおもむくままに、あらゆる楽しみをした。…振り返ってみると、なんと、すべてがむなしいことよ。風を追うようなものだ」と言いました。伝道者の書11:9「若い男よ。若いうちに楽しめ。若い日にあなたの心を喜ばせよ。あなたの心のおもむくまま、あなたの目の望むままに歩め。しかし、これらすべての事において、あなたは神のさばきを受けることを知っておけ。」神様は私たちに永遠を思う思いを与えてくださいました。人間は死んだら終わりではなく、その先、何かあるはずだ。人間が死を恐れるのは、その先、どうなるか分からないからです。神様は私たちに、強烈なラブコールを与えています。それは私が御子イエスを与えたので、あなたがには滅んでもらいたくない。どうか信じて、永遠のいのちを得てほしい。そのために、父なる神様は御子イエスを十字架につけて、罪の代価を支払ってくださったのです。神様がくださった、この世のものを楽しむことは悪いことではありません。この自然は、神様が私たちに与えてくださったものです。でも、人類はそのことを忘れ、我が物顔に、自然を破壊してでも、大量消費に走っています。私たちは、本当は、所有者ではなく、管理者なのです。もし、私たちが神様との関係を正し、みことばに従っていくならば、この時代はもっと変わると信じます。

私たちは、この世のことだけに目をとめないで、神様との関係を、永遠を求めるべきです。私たちは神様によって造られた存在です。でも、私たちは神様を離れ滅びに向かっています。私たちは、向きを変えて神様に立ち返り、みこころを求め、御国を求めるべきです。

2.私たちの行き先

 ピリピ3:20-21「けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。」「けれども」となっていますので、キリストの十字架に敵対している彼らとは対照的に、私たちはどうなのかということをパウロは書いています。国籍ということばは、他の聖書には、「本国」とか「ふるさと」とも訳されています。みなさん、日本人である私たちがイギリスに行きたいとするならば、どうなるでしょうか?まず、パスポートが必要でしょう。短期間の旅行なら良いかもしれませんが、そこに住むとなるとビザとか国籍が必要となります。先日、パスポート偽造で入国していた外国の方が強制送還されました。お嬢さんは、中学を卒業するまで滞在できるようですが、ご両親はそうではありませんでした。残念ながら、日本国籍がない場合は、長い間、日本にいることはできないのです。天国もそうです。多くの日本人は、死んだら、天国へ行くと考えています。残念ですが、死んだ人がみな天国に行けるわけではありません。もし、悪人も善人も、みな天国に行けるとしたら、天国はこの世と何の変わらないところとなるでしょう。そうじゃありません。イエス様を信じて、新しく生まれ変わった者だけが、天国に行くことができるのです。神様のところには「いのちの書」があって、イエス様を信じて、契約を結んだら、そこに名前が記されます。キリスト教は、いわば、契約の宗教です。「主よ、主よ。私は生前、教会の礼拝に行きましたよ。私の家内は熱心なクリスチャンでしたよ。私も誘われて、毎週じゃないけど、教会に行ったことがありますよ。私のこと覚えているでしょう」。主は「さあ、あなたのことは全く存じ上げません」とおっしゃるでしょう。神様と契約を結んでいなかったからです。たとえ、教会に何べん行こうとも、たくさん良いことをしたとしても、契約を結んでいなかっなら天国には入ることはできないのです。

 では、天国とはどこにあるのでしょうか?「天」と書いてありますので、雲の上、天空にあるんじゃないかと思っている人もいます。昔、ソ連の時代、ガガーリンが人類史上初めて、人工衛星に乗り、宇宙に飛び出しました。彼は「私はまわりを見渡したが、神は見当たらなかった」と言ったそうです。あちらの国は、唯物論、見えるものしか信じません。これもソ連での話しですが、小学校のあるクラスの中で、たった一人、クリスチャンがいました。学校の先生は、みんなに「この中で、まさか、神様を信じている者はいないだろうな」と言いました。すると、一人の少年が「ぼくは信じています」と答えたそうです。先生は怒りに満ちて言いました。「宇宙へ行った、ガガーリンが何と言ったか知っているか。まわりを見渡したが、神は見当たらなかった、と言ったんだ。だから、神はいないんだ」。すると少年は答えました。「聖書には、心のきよい者は、神を見ると書いてあります。きっと、ガガーリンは、心がきよくなかったのではないかと思います」。先生は、何も答えられなかったそうです。聖書には宇宙とか空という意味の「天」もありますが、神様がおられるところも「天」と言います。パウロは「第三の天」とも言いましたが、私たちの住むこの世界ではなく、次元の違うところではないかと思います。天国は、神の国とも言いますが、正式には「神の支配」という意味です。神の支配の及ぶところ、そこが天国であり神の国です。ですから、目には見えませんが、今、このところにも神の国が及んでいるのです。イエス様は「神の国は近づいた、悔い改めて福音を信じなさい」と言われました。つまり、「神の国は目には見えないけど、あなたが手のとどくところに来ていますよ。さあ、方向転換して、神の国に入りなさい」ということなのです。でも、どうでしょうか?意外と、日本人は入ろうとしません。飛行機に乗って、海外に旅行する人は、年間、何百万人もいますが、天の御国に入ろうとはしません。マタイ11:12「バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。」これはどういう意味でしょうか?当時、天の御国に一番近いと思われていた宗教家たちは入りませんでした。なんと、罪人や収税人、遊女、異邦人が「われ先に」と押し入ったのです。デパートのバーゲン・セールでは、オバタリアンが、人々を押しのけて、良い品物をゲットしようとします。コンサート会場などでも、「われ先に」と良い席を取るでしょう。でも、どういう訳か、日本の場合、天の御国はあまり人気がありません。神様は非常に残念がっています。日本人は上品すぎて、あるいは満ち足りていて、「激しく攻める者」が少ないのでしょうか?おそらく、天の御国の価値が分からないんでしょう。無知なんです!猫に小判なんです。それだったら、何とか私たちが天の御国の福音を伝えなくてはなりません。なりふりかまわず、一人でも多くの人が、天の御国に入るように、福音を伝えるべきです。

 また、この箇所には、イエス様が世の終わり向こうからやって来るとも書いてあります。天国は私たちの方から行くだけではなく、向こうから近づいて来るものなのです。イエス様が再び来られるとき、どのようなことが起こるのでしょうか?そうです。生きている人は、そのまま栄光の体に変わり、死んだ人は復活します。そして、今度は、完成した天の御国に住まうのです。そうです。今は、天の御国は私たちの目には見えません。なぜなら、まだ完成していないからです。神様は、今、御国の民を集めている最中です。でも、その数が満ちると、目に見えるかたちで神の国がやってきます。みなさん、王国には3つのものが必要です。第一は王様、第二は臣民、第三は領土です。これら3つのものがやがて、そろうのです。天国は精神的なものとか、単なるおとぎばなしではありあません。現実に、必ず、やってくるものなのです。「我らの国籍は天にあり」、これは、キリスト教の墓地で、もっとも多く彫られているみことばではないかと思います。キリスト教の墓地には、希望があります。彼らは死んで亡くなったのではなく、眠っている状態です。永眠ではなく、休眠であります。世の終わり、イエス様が来られたなら、栄光の体によみがえり、天に引き上げられるのです。ハレルヤ!パウロは「キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです」と言っています。卑しいからだとは、やがて朽ちてしまう肉体という意味です。みなさん、この肉体では天国で永遠に暮すことはできません。この肉体はこの地上だけのものです。永遠の天国に住まうためには、朽ちない栄光のからだが必要です。イエス様は、全能の力で、私たちを変えてくださいます。それはいつでしょう?イエス・キリストが世の終わり、再び来られるときです。そのときこそ、「死は勝利にのまれた」(Ⅰコリント15:54)という、みことばが実現するのです。ハレルヤ!

 皆さん、私たちには希望があります。みなさん、希望の最たるものは、復活です。私たちの国籍は天にあり、そこで永遠に住まうことができるということです。天国は精神的なものでも、作り話でもありません。この目では見えませんが、今まもなく、完成しつつあります。その前に、神様は御国に入る人たちを応募しているのです。内村鑑三といえば、明治時代で最も有名なクリスチャンです。内村鑑三師にまつわるエピソードをご紹介したいと思います。東大の総長だった矢内原忠雄氏がキリストを信じて、内村鑑三師の弟子となったばかりの時、内村師の愛する娘「ルツ子さん」が18才で死去しました。ルツ子さんと矢内原忠雄氏は同じ年でした。内村鑑三師は、愛娘ルツ子さんの告別式の時、「今日は実はルツ子の結婚式であります。私は愛する娘を天国に嫁入りさせたのです。これこそ聖書に書いてある、婚宴です」と挨拶されました。その言葉は、キリストを信じたばかりの矢内原忠雄氏にとっては、内村鑑三師は、愛娘に死去されて、変な妄想を云われたと思ったほどでした。しかし「ルツ子さん」の棺を雑司ヶ谷(ぞうしがや)の墓地に掘られた穴に埋められるその時、内村鑑三師は、一握りの土をつかみ、高く差し上げて、「ルツ子、万歳!」と叫びました。その声を聞いた時、矢内原忠雄氏は雷に打たれたように全身がすくんで動けなくなり、「これが本当のキリスト教だ」と感じ、その生涯を、天国を目指して歩みつづけたということです。内村鑑三師のそのころの詩があります。「私たちは四人家族だった。しかし今も四人だ。戸籍から一人の名は消えたが、天の記録に一人の名は増えた。四角の食卓の一方は空しく、三度の食事に空席ができたが、しかしなお私たちは四人だ。残された三人はもっと親しくなった。天にいった娘が愛のきずなとなっている。そしてやがて天国で再び一緒に相会うのだ。「けれども、私たちの国籍は天にあります」。お祈りいたしましょう。

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