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2009年4月26日 (日)

福音の奉仕者     ピリピ2:19-30

 パウロは使徒でした。使徒の使命の1つは、福音が届いていない地域に教会を建て、群ができたら、また他のところへ行って教会を建てるということです。言い方を変えると、同じ所にじっとしているというのが苦手で、そこに牧師や長老を任命して、また他のところに行く、いわばフロンティア精神のかたまりみたいな人です。私のおもな賜物は牧師と勧めでありますので、同じところで人々に聖書を分かり易く教えるのが得意なのであります。だから、全く新しい所へでかけ、全く新しい人に福音を伝えるというのはものすごくプレッシャーがかかります。でも、10年後のビジョンを掲げますとそういうことも言っていられません。これまでしてこなかったことをチャレンジするしかありません。もう1つは、自分にできない部分を他の人に任せていきながら、チームで教会を形成していくということです。教会はキリストのからだにたとえられていますので、いろんな人が組み合わされて、神様のために用いられるようになっています。

1.パウロの最愛の同労者テモテ

 テモテはパウロの第二回伝道旅行において、20歳ぐらいで同労者に選ばれてから、忠実にその任に当たりました。彼はパウロに伴って、同じところで働きを共にするばかりでなく、パウロが去った後にもその地方にとどまって働きを継続しました。また、使者として派遣され、しばらくしてから教会の様子をパウロに報告しています。パウロが獄中にいたときも、最後まで一緒にいたので、「パウロの最愛の同労者」ということができるでしょう。パウロは使徒の賜物を持った人であるならば、テモテは奉仕の賜物を持った人です。「手足になる人」という表現は酷ですが、奉仕の賜物のある人はそれが喜んでできる人です。テモテは決して弱い人ではありませんでしたが、その奉仕が激しいので、時として霊的に弱ったり、体を壊すことがあったでしょう。だから、パウロは「神の賜物を再び燃え立たせてください」とか「たまには体のためにぶどう酒を飲みなさい」とテモテに対して書き送っています。私は使徒パウロを大変尊敬しています。そして、「テモテみたいにパウロ先生に愛され、用いられたらなんと幸いだろうなー」と思います。使徒パウロと同労者テモテは、すばらしい関係であります。

 同時に、こういうところを読みますと、「自分にテモテみたいな人がいるだろうか?」と思ってしまいます。自分の協力者、アシスタントというのは、なかなかいないですね。高砂教会に手束先生という方がいらっしゃいますが、教会の執事さんたちが本当によく仕えています。昔、「なぜ、なんだろうー?」と研究したことがあります。手束先生は自分で車を運転しませんし、細かい奉仕は一切しません。どこかへ行くにしても執事がみんなお世話します。「もっぱら祈りとみことばに専念する」というスタイルで、教えたり、本を書くのがおもな仕事です。私の場合は、奉仕の賜物もありますので、印刷をしたり、お掃除したり、送り迎えをしたり、音響やビデオをしたり、「やれ」と言われれば何でもします。だけど、結婚式や葬儀の準備のときは、「ああー、アシスタントがいたらどんなに良いだろうか?」と思うことがあります。でも、みなさん。「自分の思うとおりに人が動くか?」と思ったら、大間違いです。自分の子供たち、いや妻ですら、私の言うことは聞きません。教会員のみなさんだって、それぞれ自我を持っています。リーダー・役員会でも一人ひとりみんな違います。「なんで俺の言うことを聞けないんだ!」と思うくらい、異議を唱える人が結構います。たまに、「ぐさっ」と、突き上げを食らうときもあります。でも、これがトップダウンの教会ではなく、セルチャーチだというところからも来ています。セルチャーチは専門家がいません。それぞれの器官がかしらなるキリストにつながって、奉仕をしています。牧師もからだの器官の一つですから、ため口、OKであります。「なんで、こんな教会にしたのかなー」と時々、悔やむこともあります。

 同労者とはどういう意味でしょう?ギリシャ語ではスネルゴスと言いますが、スン「共に、一緒に」ということばと、エルゴス「行ない、働き」ということばが合わさったものです。簡単に言えば、「一緒に働く」ということです。神様は自分一人でご用をするように願っておられないようです。それぞれ違った賜物、違った性格、違った考え、違った情熱の人が、助け合って、1つの働きをなす。これがキリストのからだなる教会の理想であります。カルト的な教会は、一人の指導者に対して、みんながイエスマンです。「ノー」と言う人は追い出されます。回りの人たちは自分で考えないで、指導者の指示を待って、指示があったときだけ、指示通り動きます。そういう場合、同労者とは言いません。手下であり、良く言えばスタッフであります。仕事を裏方で支え、出演者以外の製作に携わった関係者全員をスタッフと呼びます。だから、スタッフは同労者ではありません。私個人としては、自分の思うままに動く、私の弟子を求めたいのですが、どうもそれは違うようであります。では、どういう人が真の同労者であり弟子なのでしょうか?Ⅱテモテ2:2はとても有名な聖句です。これは、パウロが同労者のテモテに書き送ったことばです。「多くの証人の前で私から聞いたことを、他の人にも教える力のある忠実な人たちにゆだねなさい。」まず、自分が聞いたことを、他の人に教えることができる忠実な人をさがします。その人を訓練してその教えをゆだねます。それで終りではありません。「あなたも次の教えることができる忠実な人をさがして、訓練して、ゆだねなさいよ」と言わなければなりません。パウロからテモテ。テモテから次の人と三代になります。どうぞ、自分の働きを継続できる忠実な人をさがして、ゆだねていきましょう。自分がだれかの同労者になるとともに、次の同労者を作っていきましょう。

2.パウロの兄弟、同労者、戦友エパフロデト

 エパフロデトはピリピ教会から贈物を持って獄中のパウロを訪れ、そこでパウロに仕えました。ところがその間に彼は「死ぬほどの病気にかかり」、「キリストの仕事のために、いのちの危険を冒して死ぬばかりになりました」(2:27,30)。パウロはエパフロデトの労をねぎらい、感謝しながら、ピリピに送り返そうとしています。第二のポイントで学びたいことは、使徒パウロのエパフロデトに対する配慮であります。ちょっと意地悪な見方をしたらどうなるでしょう?エパフロデトはパウロ先生に仕えるようにピリピ教会から送り出された人です。いわば代表であります。でも、どうでしょうか?向こうに着いてから、病気になって、パウロ先生に逆に心配をかけてしまいました。「どじだなー、何のために行ったんだ!」とピリピの教会は思うかもしれません。でも、パウロは恥をかかせないために、こう言っています。「私の兄弟、同労者、戦友、私の窮乏のときに仕えてくれた人エパフロデト」。さらに29,30節。「ですから、喜びにあふれて、主にあって、彼を迎えてください。また、彼のような人々には尊敬を払いなさい。なぜなら、彼は、キリストの仕事のために、いのちの危険を冒して死ぬばかりになったからです。彼は私に対して、あなたがたが私に仕えることのできなかった分を果たそうとしたのです。」うぁー、たまんないですねー。ときどき、テレビで「『この人が上司だったらいいなあ』と思う有名人は誰ですか?」というアンケートがあります。石原裕次郎とか、小林稔侍みたいな人がよくトップに上げられます。でも、使徒パウロの方がずっとすばらしいと思います。部下のことをこんなふうに言う人は少ないと思います。やっぱり指導者の人格の良し悪しでしょうか?人格の良し悪しが同労者に関係するのでしょうか?

 ここで良い上司、良い指導者の条件というのを、2つだけあげてみました。第一に指導者はビジョンの人であるべきです。関西に、毎週360名くらい集まっている加古川バプテスト教会があります。リバイバル・ジャパンに、牧師夫人がこのように書いていました。これまで文書伝道、路傍伝道、訪問伝道、トラクト配布など「できることは全てした」。宣教拡大への大きな転換期となったのは、5年前に導入したセルグループが機能したこと。それまで世話をすることが大好きな梅谷牧師は、毎日何時間でもカウンセリングをしていた。しかし、モーセが同じようにして疲れ果てたように、牧師も疲れ果てた。今、梅谷牧師の役割は「神様からビジョンを受け取ること」「自分と関わるリーダーたちの成長を助けること」の2つだけだと言い、ほとんどカウンセリングもしなくなった。「お世話型教会」から、「ビジョンを受け取る教会」へと変換。この形へ変えてからリーダーという役割に光が当たり、積極的な変化が起こった。礼拝後には、リーダーを中心に手を繋いで祈っている姿などが見られるようになった。ハレルヤです。当教会もそのようになることを願っています。

 第二番目の指導者は肯定的で生産的な人です。失敗をことごとく指摘されると、やっている人は萎縮してしまいます。「失敗から学ぶ。失敗は良いことだ」、それくらいが良いでしょう。日本は否定的な文化の国で、重箱の隅をほじくってさばくところがあります。草彅なんとかさんが、裸で捕まったそうです。法務大臣は厳しいことを言っているようですが、マスコミでは同情するコメントが多いようです。何というか、日本は減点法が多いです。小さなことでも喜ぶ。そのような達成感が、積み重なって、大きなことにチャレンジすることができます。家の4年生の子供は、レゴブロックが大好きです。作品が部屋のあちらこちらにあるので、この間、足に引っ掛けて壊してしまいました。彼は「良いよ、良いよ。また作るから」と、コツコツ作り直していました。もし、彼が私だったら、「なんだよー!せっかく作ったのに!」と一回、大声で嘆いてから、作り直すでしょう。もしかしたら、作り直さないかもしれません。そういう姿勢はどこから来るかと言うと、やっぱり育てられ方ですね。この間、カップルズ・コースの学びの中で、「あなたの両親は?」というチェックリストがありました。あなたの両親は…。

□子供の頃、あなたをほめてくれましたか?

□物質的に必要なものを与えてくれましたか?(食べ物、衣服、住居など)

□安心感を与えてくれましたか?

□あなたの個性を尊重してくれましたか?

□あなたの成長を励ましてくれましたか?

□明確なきまりや適切な境界線を定めてくれましたか?

□年齢が進むにしたがい、その年齢にふさわしい自由を与えてくれましたか?

□動揺している時になぐさめてくれましたか?

□贈り物をくれましたか?

□あなたの生活に興味を示してくれましたか?

全部合わせて20項目ありましたが、あてはまったものが3つくらいはあったかもしれません。私の家が極端に悪かったということもあるかもしれませんが、日本は大体否定的なのではないでしょうか?そういうところで育った人が、どうやって肯定的、生産的になれるでしょうか?香港のベン・ウォンは「私もアジア人の家庭で育ち、叱られてばかりでほめられたことは1つもない」と言っていました。しかし、彼は自分の態度をあるときから、強いて変えたそうです。小さなことでも喜び、小さなことでも「やったなー」と励まし、強いて明るく振舞った。ベン・ウォンは58歳くらいですが、10代と話せるくらい若い心を持っています。使徒パウロもそうでしたが、イエス様も弟子たちに対して、肯定的、生産的でした。弟子たちは二匹の魚と5つのパンを手にして、「こんな大勢の人々では、それが何になりましょう」と言いました。しかし、イエス様はパンを手に取り、感謝をささげてから人々に分けてあげました。そういう心を私たちもいただきたいと思います。物ごとを否定的な面からではなく、肯定的な面から見たいと思います。

3.チームでする教会作り

ハワイのウェン・コデイロ師は『チームでする教会作り』という本を書いています。その本の中にDESIGNという項目がありますので、引用させていただきます。DESIGNは日本語にもなっていますが、「計画、目的、意図」という意味もあります。

D(Desire 願い):あなたの情熱は何ですか?何でもできるという機会が与えられたら、あなたは主のために何をしますか?「あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起こさせ、かつ実現に致されるのは神である」(ピリピ2:13口語訳)。このことばは先週学んだばかりです。主はあなたに特定の能力だけではなく、神様のみこころに沿った願いを与えられます。音楽家の中に、他のどの楽器よりもピアノを弾きたいという情熱を持った人を見たことがあるでしょう。それゆえその人は、その情熱をもってピアノを弾くのです。

E(Experience経験):あなたの過去の経験は、あなたのデザインを見つけるために考慮すべき重要な事柄です。神様は決して傷を無駄にされません。詩篇56:8「あなたは、私のさすらいをしるしておられます。どうか私の涙を、あなたの皮袋にたくわえてください。それはあなたの書には、ないのでしょうか。」。主はすべての涙を覚えておられ、それをあなたの益になるように用いてくださるのです。中には、自分の過去や生い立ちのゆえに成功できないと思っている人もいますが、過去の障害を乗り越えた、偉大な人たちが大勢います。「彼はあまりにも馬鹿で、何も学ぶことができない」と、教師の何人かはまだ少年であったトーマス・エジソンについて語った。ウォルト・ディズニーは若い時「アイディア不足」と新聞社の編集長から首にされました。

S(Spiritual Gift 御霊の賜物):イエス・キリストと個人的な関係を持つすべての人には、御霊の賜物がひとつか、もしくはそれ以上必ず与えられています。たとえば、ローマ12章には7つの動機の賜物があります。不思議なことに相反する賜物同士が協力するように召されています。預言の人は罪があるかないか見分けるのが得意です。一方、慈愛の人は、苦しんでいる人の傷みを察知することができます。これはペテロとヨハネのコンビです。指導の人は、目的や方向に向かって人々を動かし、まとめることのできます。一方、奉仕の人は自分の体をささげて仕えたいと願っています。これはパウロとテモテのコンビです。勧める人は人々の信仰や霊的成長を助けるためにどうしたら良いか願っています。一方、教える人は聖書研究に時間を費やし、体系的にまとめます。勧める人と教える人がコンビになったら最強です。分け与える人は、すべてのミニストリーを財政的に助けることができます。賜物はそれぞれ違いますが、互いに補い合うようになっています。

I(Individual Style 個人のスタイル):人はそれぞれ個性的な気質を持ち合わせています。まず、「外向的な人」と「内向的な人」がいます。自分が疲れてしまったとき、どのようにしたら力が蓄えられるか?「外向的な人」は人の中にいるとバッテリーが充電されます。「内向的な人」は一人の時間を持つとバッテリーが充電されます。また、「人好き」と「仕事好き」がいます。「人好き」の人は人間関係を作るのが得意です。一方「仕事好き」の人は、人とあまり話さないでもくもくと仕事を進めていきます。ベン・ウォンは、セルチャーチの第一条件は「関係作りです」と言われました。私は、あまり関係作りは得意な方ではありませんでした。また、おしゃべりばかりして、仕事をしない人を軽蔑していました。「教会はサロンじゃない」と神学校で学びました。でも、おしゃべり、交わり、食事は無駄な時間ではありません。関係を作るためにとても大事です。個人のスタイルを持つことはもちろん重要ですが、自分にない気質の人を尊重したり、そういうものを取り入れることも重要です。

G(Growth Phase成長段階):この地上で生きる限り、神様はキリストにあって私たちが成長するようにと言われています。私たち一人ひとりは、キリストにあって成長し続けています。知識はあるけど、知恵がまだ足りないという人、つまり、毎日の生活の中で知識を活用することに欠けている人もいます。また、常識には富んでいるが聖書の知識があまりないという人もいます。霊的成長は、教会に通った年数よりも、聞いたことを実践していく意志がその人にどれほどあるかによって測られます。このようにイエス様が言われました。ヨハネ13:17「あなたがたがこれらのことを知っているのなら、それを行うときに、あなたがたは祝福されるのです。」

N(Natural Ability 生まれ持った才能):どんなスポーツをやらせても、ずば抜けている「生まれながらのスポーツマン」を見たことがあるでしょう。それがコンピューターであれ、子どもの世話であれ、機械や電気に関することであれ、問題を解決することであれ、人間には誰でも生まれ持った才能を持っています。生まれ持った才能も、神様があなたを作られたことにおいて重要な要素なのです。神様は私たちがただ仕えることを望んではおられません。心から喜び楽しみ、主に仕えることを願っておられるのです。その時こそ神様がデザインされた通りに、あなたは働くことができるのです。

 ウェン・コデイロは「あなたにふさわしいところを見つけよう」と、さらにこのように勧めています。私たち一人ひとりは、神様の計画の中で巨大なジグソーパズルのピースのようなものです。余分なピースはひとつもありません。3000ピースのパズルを組み合わせていて、最後になって1ピースだけ足りないと分かったら、どんなにがっかりするでしょう。そのように、神様は私たち一人ひとりをすばらしいパズルを構成する、とても大切なピースとして見ておられるのです。神様のパズルを完成させるためには、すべての人が必要です。すべてのピースが組み合わされるとき、この世界を愛してくださるイエス様の心を描いた美しい絵が完成するのです。

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2009年4月19日 (日)

救いの達成      ピリピ2:12-18

 桜の花が散って、新緑の候になりました。いろんな葉っぱが開いています。ロシアの男性は肺の中に、5センチ位のもみの木が生えたそうであります。それはちょっと問題ですが、心の中に、希望が芽生えるというのは良いことではないでしょうか?日本の文化は夢や希望を消すような否定的な文化です。西洋になぜ発明や発見が多いか?それは、彼らは楽天的であり、「失敗は成功のもと」とばかり、失敗にめげないからです。どうでしょうか?みなさんは失敗にめげる方でしょうか?ある先生が「私たちは成功からは何も学べない。失敗から多くのことが学ぶことができるんだ」と言われました。きょうは、内面的な成長と、夢や希望をもって生きることの大切さについて一緒に学びたいと思います。

1.救いの達成

  パウロは「恐れおののいて自分の救いの達成に努めなさい」と言っていますが、これは、私たちが持っている信仰と矛盾しているように感じます。私たちはイエス・キリストを信じたときに、救われたはずです。「まだ救われるために努力しなければならないのだろうか?」という疑問が起こります。実は、聖書が言う「救い」には、もっと広い意味があります。私たちがイエス・キリストを救い主として信じたとき、即座に与えられた「救い」というものがあります。キリストを信じたら、神様からすべての罪が赦され、義とみなされます。また、神の子供となり、永遠のいのちをいただくことができます。しかし、これは神様との関係が回復したことからくる「救い」であって、私たちの実質(中身)は、変えられなければならない要素がたくさんあります。もちろん、イエス様を信じたら、霊的に生まれ変わります。でもどうでしょうか?「おぎゃー」と赤ちゃんが誕生したら、「ああ、おめでとう。よかったねー」と何もしないでしょうか?生まれることも大切ですが、成長していくことも同じくらい大切であります。クリスチャンも同じで、霊的に新たに生まれたら、キリストの似姿に成長していかなければなりません。これを神学的には「聖化」と言います。私たちは身分的には神の子供なったのですが、実質的に神の子供らしく成長するということが残されているのです。そして、やがてキリストの日、終わり日にそれが完成するのであります。パウロはピリピ1:10,11「あなたがたが、キリストの日には純真で非難されるところがなく、イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされている者となり、神の御栄えと誉れが現されますように」と祈っています。

 では、ピリピの人たちはどういう点で、救いの達成、つまり人格的に成長すべきなのでしょうか?1章に書いてありますが、ピリピの人たちにあったものは、豊かな愛と喜びでした。パウロはそのことをとても喜んでいます。でも、マイナス要素もありました。それは、ねたみや争い、党派心や虚栄心があったということです。そのため、パウロは2章で、キリストの福音にふさわしい生活をするように、イエス様の父なる神への従順と謙遜を模範にあげました。そして、キリストのように謙遜で思いやりの心を持つように勧めました。ピリピの人たちが何故、一致できなかったのでしょうか?それは他の人より自分がすぐれているという高ぶりがあったからです。高ぶりを捨てて、謙遜で思いやりの心を持つということは、一日や二日でできることはありません。ピリピの人たちはキリストの福音を熱心に宣べ伝えていました。やっていることはすばらしかったのですが。下に隠されている動機とか、態度に問題があったのです。こういうことはこの世の中ではほとんど問題にされません。すべてが結果であります。実力があり、結果があればそれで良しとされます。でも、神様のみわざを進めるため、またその実が残るためには、どうしても内面的に整えられる必要があります。私もクリスチャンになった瞬間、救いの喜びが与えられ、友人や周りの人たちに伝えたくなりました。キリストの福音を大胆に伝えることは良いことです。でも、私の中に悪いものが残っており、それが一緒に出てきて、悪い影響も与えてしまったこともありました。今から15年くらい前になるでしょうか?大和キリスト教会に、アルゼンチンからソーサーという伝道者が来られ、金曜日の夜、出掛けました。彼は200人くらいの人に次々と預言をしてくれました。その先生は私のことを全く知りません。私に按手しながら、こう預言してくださいました。「あなたがもっと整えられるならば、あなたを通して、大ぜいの人たちが救われます」。「おお、当たっているなー」と思いました。

 かつて私はこのように考えていました。「そんな内面ばかり気にしていたのでは、前に進めないよ。何ができるか、目に見える結果が大事ではないだろうか?ことば使いが多少荒らくても、粗野な態度があったとしても、これは私の特性であって、神様は欠点のある人でも用いられるんだ」。私はそう考えていたので、伝道して教会を大きくすることばかりに、興味がありました。でも、様々な解放の集会やエリヤハウスの学びに出席して、自分の弱さや欠点を直視せざるを得なくなりました。私たちはイエス様を信じて、霊的に新しく生まれ変わりました。もちろん、新しくなったところもいっぱいあります。でも、相変わらず、古い性格や罪の性質が心の中を支配しているということも気付きます。そして、自分が育った家庭環境やこれまで受けてきた心の傷、あるいは家系の罪が結構、影響しているということが分かりました。もう体に染み込み、性格の一部になっている、そういう習慣や考え方があると思います。これを認めて告白し、悔い改めて十字架に持っていく。そして、新しい性質を神様からいただく。これは大変、骨の折れる作業です。まず、最初の段階の「認める」ということが一番、難しい作業です。私などは批判されて育ちましたので、何か言われたら、敵対し、防衛するという本能が身についています。人の欠点を言うのは良いのですが、人から欠点を指摘されるのは嫌であります。みなさんはいかがでしょうか?イエス様を信じて救われはしたものの、自分の中に醜い罪の性質があるということにまいってしまうことはないでしょうか?ですから、このみことばのように、「恐れおののいて自分の救いの達成に努める」ということが重要になります。

 ところで、私たちには生まれつきの、あるいは神様がお与えになったキャラクター、性格というものがあります。その人のキャラクターには長所もあり短所もあります。聖化というのは、キャラクター、性格全部を変えるということではありません。その人の心の傷が癒され、罪を犯してしまう傾向から解放されるということです。カウンセラーの李光雨師によりますと、私たちには束縛されたライフスタイルがあるといいます。あることが起こると、他の人だったら普通に乗り越えられることであっても、その人は過剰に反応してしまい、怒りや恐れ、失望感で満たされる。なぜ、そういうことが起こるのでしょう。その出来事によって、その人を支えている世界が壊れてしまうからです。その世界が壊れたら、生きてゆけないので、防御するために、人やものに過剰に反応するのです。あることを言われたら、憤慨してしまう。ある出来事に遭遇すると、恐れで満たされ、一歩も前進することができなくなる。あることが起こると、心配で夜も眠れなくなる。そこには一定のパターンがあることを発見するでしょう。実は、そういう異常事態の背後には、その人が解決すべき課題が残っているということです。せっかくイエス様を信じて救われたのに、救いの喜びを満喫できない。それは大変、気の毒なことです。そういう問題があることを教えてくれるのが、皆さんの周りの人たちです。それは妻、夫あるいは子供です。あるいは会社の人であったり、教会の兄弟姉妹かもしれません。あることで怒ってしまう。敵対関係になり、そばいるだけでも嫌になる。それは、解決されていない問題があるからです。これまで、私たちはそういう人たちや出来事を避けてきました。でも、いつかは面と向かって、解決しなければならないときが来ます。もし、それをイエス様の恵みによって、癒され、解決したならば、もっと恵まれた信仰生活が送れるでしょう。これが「恐れおののいて自分の救いの達成に努める」ということです。

 でも、忘れてはならないことは、イエス・キリスト様はあなたの第一の理解者だということです。そして、あなたを慰め、心の傷を癒してくださるお方です。イエス様は「私はあなたを捨てて孤児にはしない。世の終わりまであなたと共にいます」とおっしゃいました。内面の癒しと解放は、一日二日でできることではありません。どうか、自分を正しく認識し、主の恵みによって、栄光から栄光へと主の似姿に変えらせていただきたいと思います。

2.志を立てさせ

 ピリピ2:13「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです。」以前、使っていた、口語訳聖書でもお読みいたします。2:13「あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。」神様は私たちの内に、志とか願いを与えてくださいます。私たちには「思い」というブラウン管みたいなものがあります。ブラウン管は古いので、液晶のモニターでも結構です。神様は霊であられますから、私たちは見たり、聞いたり、触ったりできません。でも、神様は私たちの霊に語りかけます。その霊が今度は、「思い」というモニターに何かを再現します。それが言葉であったり、映像とか印象かもしれません。とにかく、神様の思いが私たちの「思い」にふっと来るわけです。すると私たちの内側に、「ああ、そうだ。これをしよう。これを求めよう。こういうふうになりたい」という願いが起こります。でも、皆さん、私たちの「思い」というモニターには、神からの思いだけではなく、自分の思い、人々の思い、悪魔の思いも入ってきます。ですから、最初の頃は、「ああ、どれが神様の思いか分からないなー」と混乱します。しかし、聖書を読み、日々、主と交わっていると、「ああ、これは神様からの思いだなー」と分かってきます。ヨハネ10:3,4「羊はその声を聞き分けます。彼は自分の羊をその名で呼んで連れ出します。彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。すると羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます。」すごいですね。救われている人であるなら、イエス様の声がどういう声なのか分かってくるということです。

 では、どうしたら神様(イエス様)の声が「これだ!」と分かるのでしょうか?神様は私たちの耳が聞こえるような肉声ではほとんど語りません。一番、多く語られるのが聖書を通して語ります。私たちが神のみこころである聖書を読むとき、「ああ、神様は、こういうことを願っているんだなー」と分かります。第二は、祈っているときに「神様の思いはこうだなー」と分かります。第三は、何もしていないとき、ふっと、私たちの思いに語られるときがあります。神様は今も生きておられます。私たちが聞こうという気持ちがあれば、いつでも語りかけてくださいます。でも、みなさん、基本は聖書から神様のみこころを聞くということです。たとえば、ピリピ2:13に「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです」と書いてあります。このとき、この13節だけを見るのではなく、文脈から見ることが大切です。ここでいう「あなたがた」とはまず、ピリピの人たちです。ピリピの人たちは一体何を志し、何を達成したいと願っていたのでしょうか?ピリピ1:5,6にそのヒントがあります。「あなたがたが、最初の日から今日まで、福音を広めることにあずかって来たことを感謝しています。あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。」ピリピの人たちが、志、また完成したかったのは何でしょう。彼らは福音を広めたいと願い、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成するということでした。キリストの福音を広めるということが、彼らにとって第一の願いであり、世の終わりまでそれを完成したいと願っていたのです。

 すると、こんどは自分への適用であります。ピリピの人たちはキリストの福音を広げることが願いであったのに、自分はどうだろうか?福音を広めることが第一の関心事になっているだろうか?お金の問題、嫌な上司、過去のトラウマ、趣味とかこの世楽しみの方が心を支配しているんじゃないだろうか?ピリピの人たちだって、日常の生活の中で問題があったであろう。でも、彼らは何とか福音が広まるようにと願っていた。「わー、なんてこった!私と随分違うな。そうだ、不景気な世の中であっても、福音を広めるべきなんだ!」と気付くわけです。その後に、こんどは自分の適用として、「神様が私の人生において、達成させたいと願っていることは何だろう?」ということを聞きます。「そうだなー、私は教える賜物を神様からいただいたけど、これをなんとか用いなければならない。でも、だれを教えたら良いのだろうか?まず、子供たちがいるんじゃないだろうか?それから、信仰の後輩にも、主の恵みを分かち合うべきじゃないだろうか?」こういうふうにしていくと、神様が私に願っていることは何なのか少しずつ分かってきます。しかも、聖書を土台としているので、別の世界に迷いこむことがありません。逆に、自分の志や自分の願いからスタートしてしまいますと、神様を度外視した、自分の欲望の利己的な世界が広がってしまいます。そうではなく、神のみことばからスタートしたならば、そんなに道をそれることはありません。つまり、聖書を文脈から読み、そこから自分の生活に適用していくということです。昔、「マイ・ウェイ」という歌がありました。日本語の歌詞は、「すべて心の決めたままに…。君に告げよう、迷わずに行くことを、君の心の決めたままに」となっています。以前はすばらしい歌だと思いましたが、その人が決めたものが的外れだったらどうなるでしょうか?大変なことになります。19世紀に「自然主義」という思想がはやりました。人間には理性が備わっており、これで善悪を判断できる。理性に従えば良いんだということです。表現を変えるなら「人間には正しい思いがあるので、自分の思うとおりに生きればそれで良いんだ」ということです。一見、正しそうに思えますが、それはヒューマニズムであり、そこには神様がいません。私たちは自分の思いを第一にしてはいけません。船には羅針盤がついています。最近の車にナビがついています。これと同じものが、聖書であり、神様の語りかけであります。この世は絶対的なものを嫌います。でも、聖書こそが絶対であり、聖書の神様こそが絶対なのであります。つまり、神様と基本的なことにおいて、つながっているならば、日常生活のこともおのずと導かれていくということです。

3.つぶやかず、疑わず

最後にピリピ2:14をお読みします。「すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行いなさい」。ここまでいけたら、たいしたもんだなーと思います。私たちは結構、つぶやいたり、疑いながら行なっているんじゃないでしょうか?こんなふうに確信をもって生きることが可能なのでしょうか?私はこういうことだと思います。もし、私たちが神様のみこころが記されている聖書を読み、神様と交わり、神様の思いが私たちの中に入ってくることを願うならどうでしょう。それは私たちの単なる思い付きやわがままな願いではなく、神様がくださった志であり、願いです。そういう確信があるならば、「すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行う」ことができるということです。前後しますが、ピリピ2:13の「神があなたがたのうちに働く」という「働く」はギリシャ語で「エネルゲオー」であり、エネルギーの語源となったことばです。神様が私たちの内に、力を生ぜしめるということです。また、英語の聖書はinspireとなっています。これは、「鼓舞する、発奮させる、吹き込む」という意味があります。でも、inspireとは霊感を与えるというというのがもともとの意味です。ですから、みなさん信じましょう。神の霊、聖霊様が私たちの内側に、何かエネルギーを与え、発奮させてくださることを期待しましょう。私たちの中に、何か熱意がある。志がある。それはもしかしたら神からのものかもしれません。昔、クラーク先生という人が北大に数ヶ月しか滞在しないのに、多大な影響力を与えました。クラーク先生がお別れのときに、Boys Be ambitious.「少年よ、大志を抱け」と言われたようです。でも、本当はその後に続く文があるそうです。Boys Be ambitious in Christ.「少年よ、キリストにあって大志を抱け」であります。キリストがなかったなら大志ではなく、単なる野望になってしまいます。キリストの内にあるからこそ、神様のみこころに叶う、大志が与えられるのであります。

神奈川県に本郷台キリスト教会というのがあります。同じセルチャーチの仲間の月井先生がこんな証をしました。十数年前に、教会でリーダーたちが集まって、教会のビジョンについて語り合いました。この地域の人たちのニーズに応えていくためには、「小学校もやりたい、中学校もやりたい、保育園やりたい、作業所をやりたい、スポーツ活動をやりたい」という夢を「ノー」と言わないで全部受け入れて書き出しました。そのとき、「これが全部実現するにはどれくらいの広さが必要だろうか?」と話したときに、「最低でも、1万坪必要でしょう」と。「とりあえず、第一のステップとして、1500坪のところを探しましょう」ということで、今のダイヤモンドチャペルです。実際、広い場所が与えられたら、作業所、保育園、サッカースクール、チャーチスクール、弁当のサービスも始まりました。そういう中で、「場所が足りないねー」と祈り続けました。たまたま、昨年度、8500坪くらいの土地を手に入れることになった。考えてみたら、「ああ、もう、1万坪以上になりましたね。やっぱり夢を語ることはとても良い」という話になった。その土地は9億円するそうですが、既に手付金のため、1億円支払ったそうです。ちょっと桁がちがいます。練馬の小笠原先生は、向こう10年間で40の教会を生み出すというビジョンをたてました。私も彼らに触発されて、10年後のビジョンを総会資料に書きました。「350名の礼拝。5つの枝教会(5つあわせて350名?)、5人の牧師、50人の信徒リーダー。」数はあくまでも結果であり、そのプロセスが重要であります。とにかく、みなさん夢を持ちましょう。神様が事を起こすためには決まった方法があります。まず、私たちの心に志を起こさせる。神様の願いを私たちのうちに、inspireされる。同時にそれは神様からのエネルギーとなり、私たちは神様と共に実現していくのであります。どうぞ、神様から与えられた志や願いに水をかけて消すことのないように。むしろ、それを燃やし続けて、やがて目に見えるものとなることを期待しましょう。

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2009年4月12日 (日)

見て、信じた       ヨハネ20:1-10

 イースターおめでとうございます。今から約2000前、父なる神は、御子イエスを死人の中からよみがえらされました。私たち人類の最大の敵は罪であり死であります。しかし、イエス・キリストは十字架で罪を贖い、私たちの身代わりに死なれました。ところが3日目に、イエス様は死を打ち破り、栄光の体に復活したのであります。人類が誕生して以来、死からよみがえられた人は一人もいません。蘇生した人はいますが、やがて年老いて死んでしまいました。でも、イエス様は蘇生ではなく、二度と死なない栄光の体へとよみがえられたのです。ハレルヤ!私たちの信仰は復活にかかっています。イエス・キリストが復活したので、聖書とイエス・キリストがおっしゃっていることは真実である、信じるに値するという根拠があるのです。でも、当時の弟子たちはイエス様の復活を最初から信じたわけではありません。2000年前の人たちも、今の私たちと同じように常識がありました。一度死んだ人がよみがえるなんていうことは信じられなかったのであります。ある弟子たちは、よみがえられたイエス様と実際に出会っても、信じることができませんでした。きょうは、「見て、信じた」と題して、聖書から共に学びたいと思います。

①見て信じた

  ペテロともう一人の弟子は、マグダラのマリヤの知らせを受けて、墓に向かいました。もう一人の弟子とは「ヨハネの福音書」を書いた、ヨハネであります。ヨハネはペテロよりも若かったゆえでしょうか、一足先に墓に着いたようです。ヨハネ20:5-8「そして、からだをかがめてのぞき込み、亜麻布が置いてあるのを見たが、中に入らなかった。シモン・ペテロも彼に続いて来て、墓に入り、亜麻布が置いてあって、イエスの頭に巻かれていた布切れは、亜麻布といっしょにはなく、離れた所に巻かれたままになっているのを見た。そのとき、先に墓に着いたもうひとりの弟子も入って来た。そして、見て、信じた。」ここで、問題になるのは、ヨハネは何を見て信じたのかということです。前の章を見るとわかりますが、人々はイエス様のからだを、ユダヤ人の埋葬の習慣に従って、香料と一緒に亜麻布で巻いたようです。これはミイラにするためではなく、死体を潔めるためであり、敬意の念から出たものです。ペテロとヨハネが墓の中に入って、まず最初に見たものが、体にまかれていた亜麻布であります。大きな布だと思いますが、ある程度、たたまれて置いてありました。しかし、問題なのは顔と頭にまかれていた長い布切れであります。7節には、「イエスの頭に巻かれていた布切れは、亜麻布といっしょにはなく、離れた所に巻かれたままになっているのを見た」とあります。巻かれたままとは、どういうことでしょうか?これはすっぽり抜けた状態でそのまま置かれていたということです。たとえば、指などを切ったとき、包帯をぐるぐる巻きます。でも、後ですっぽりと包帯が抜ける時があります。それと同じ状態で、顔と頭に巻かれていた布が、頭部がすっぽり抜けた状態に折り重なっていたということです。その布切れは、首から頭にかけてぐるぐる巻いたものであり、頭部がすっぽり抜けることはまず不可能です。普通だったら、ほどいて、そこに丸めて置くはずですが、そうではなかったということです。

 8節には、「そのとき、先に墓に着いたもうひとりの弟子も入って来た。そして、見て、信じた。」と書いてあります。何を見て、信じたかと言いますと、イエス様がよみがえられたということを信じたということです。しかも、そのよみがえりというのは、普通の肉体ではないということです。普通の肉体ならば、頭にまかれた布をほどくしかありません。でも、復活の体というのは、そうではなく物理的な制限がないということです。ヨハネ20章の半ばを見ると分かるのですが、弟子たちがユダヤ人を恐れて戸を閉めていました。ところが、イエス様がその部屋に入って来られ、「平安があるように」と言われました。弟子たちが戸を閉じていたにもかかわらず、イエス様が「すうっと」室内に入ることができたということです。ヨハネ20:26にも同じ様なことが書かれています。八日後に、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいた。戸が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って『平安があなたがたにあるように』と言われた。」アーメン。よみがえられたイエス様の体は、戸が閉じられていても、全く、支障なく、すり抜けてと申しましょうか、入ることができるということです。これは、イエス様の体がただ生き返ったということではなく、栄光の体によみがえったということです。このように、ヨハネは、墓の中で布切れを見て、イエス様が栄光のお体によみがえられた、復活したということを信じたのであります。

②聖書から信じる

 しかし、ヨハネ福音書は「見て、信じる」だけではまだ不十分であると言っています。ヨハネ20:9「彼らは、イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していなかったのである。」これは一体どういうことでしょうか?これは、聖書の啓示から復活を悟る必要があるということです。つまり、聖書を読んで信じる道が残されているということです。ルカ福音書24章には、エマオに向かう二人の弟子のことが記されています。二人は「イエスが死からよみがえられたとは、どういうことなのだろう?」と話し合ったり、論じたりしながら歩いていました。そこへ、復活のイエス様が「話し合っている、その話は何のことですか?」と入り込んできました。しかし、二人の目はさえぎられて、その方がイエス様だとは分かりませんでした。二人は「仲間の何人か墓に行ったけれど、女たちの言ったとおり、イエスのからだが見当たらないのです」と悲しい顔をしながらその人に告げました。その人は「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてのことを信じない、心の鈍い人たち」と嘆きながら、モーセおよびすべての預言書から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書かれている事柄を彼らに解き明かされました。すると、二人の心が内に燃えてきました。途中、日も傾いたので、その人に無理にお願いして宿に入りました。その人がパンを取り、祝福し、裂いて二人に渡しました。すると、彼らの目が開かれ、その人がイエス様だとわかりました。彼らは復活のイエス様が共に歩いていたのに、その方がイエス様だと分かりませんでした。そのため、イエス様は聖書全体を解き明かして、ご自分が苦しみを受けて、栄光に入ることを彼らに解き明かされたのです。

 つまり、こういうことです。実際に、肉眼で復活のイエス様を見たにも関わらず、信じない弟子たちがいたということです。つまり、本当の信仰を持つためには、聖書から信じる必要があったということです。逆に言うなら、肉眼で復活されたイエス様を見なくても、聖書の啓示を信じて、救われる道もあるということです。12弟子のひとりで、とても疑り深いトマスという弟子がいました。復活された日曜日の夜、弟子たちが一緒に集まっていました。その部屋にイエス様が入ってこられ、「平安があるように」と言われました。そのとき、弟子たちは「わぁー、イエス様だ」と信じました。残念ながら、その中にトマスはいませんでした。どこかで一人しょんぼり、ふてくされていたのでしょう。ヨハネ20:25それで、ほかの弟子たちが彼に「私たちは主を見た」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません」と言った。そして、なんと、8日目にイエス様が再び現れて、彼らの中に立ちました。ヨハネ20:27-29それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」トマスは答えてイエスに言った。「私の主。私の神。」イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」イエス様はトマスになんとおっしゃったでしょうか?「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」アーメン。この肉眼で復活のイエス様を見て信じる信じ方もあります。でも、もう1つ他に見ないで信じる道があるということです。そして、その方がもっと幸いであるということです。その道とは何か?それは聖書の啓示を読んで、イエス様を信じるという道であります。復活から2000年近くたちますが、私たちにとって最も有効な手段は、復活を見たという証言が記されている聖書から信じる道であります。ごく稀に、直接、復活のイエス様を見て信じる人がいます。聖書では使徒パウロが有名です。私も何名か、「私はイエス様を見た」という人を知っています。でも、それは稀です。うらやましい感じがしますが、見ないで信じる方が幸いなのです。

③見ないで信じた人たち

 ペテロの手紙には見ないで信じた人たちのことが書かれています。Ⅰペテロ1:8,9「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。」とんで、Ⅰペテロ1:12「彼らは、それらのことが、自分たちのためではなく、あなたがたのための奉仕であるとの啓示を受けました。そして今や、それらのことは、天から送られた聖霊によってあなたがたに福音を語った人々を通して、あなたがたに告げ知らされたのです。」アーメン。ペテロが手紙を宛てた人たちは、ポント、ガラテヤ、カパドキヤ、ビテニヤに散って寄留している人たちでした。彼らは直接、イエス様には出会っていません。でも、どうでしょうか?彼らは、イエス様を見たことがないのに、イエス様を愛しており、イエス様を信じていました。そして、信仰の結果である、たましいの救いを得て、喜んでいました。どうして、そんなことができたのでしょうか?聖書の啓示、キリストの福音を受けたからです。厳密に言うならば、ペテロの時代は、新約聖書は完成していませんでした。あったのは、旧訳聖書のメシヤに関する啓示と、実際に復活を見たという証言でした。でも、ポント、ガラテヤ、カパドキヤの人たちは、直接、復活のキリストを見たわけではありません。それでも、その知らせを聞いて、信じて、救われたのです。ポント、ガラテヤ、カパドキヤの人たちと私たちはほぼ、同じ条件であります。直接は見たわけではないけれど、旧訳聖書のメシヤに関する啓示と実際に復活を見たという証言の新約聖書があります。ポント、ガラテヤ、カパドキヤの人たちも、現代の人たちもそうですが、「キリストを見たら信じる」という人たちがいるのではないでしょうか?私もかつて「神様を見せてくれ、見たら信じる」と生意気なことを言いました。

 でも、みなさん目に見える神様というのは本当の神様ではありません。それは偶像の神様です。ついこの間、長野県の善光寺で、7年に一度の御開帳というのがありました。高速道路が土日、1000円ということもあり、県外からも大ぜいの人たちが駆けつけました。6年前の御開帳のときは、2ヶ月間で、約628万人集まり、経済効果はおよそ1,035億円だったそうです。今年は、もっと大ぜい集まるんじゃないかということです。私もテレビで見ましたが、パカーット開けたら、黒い観音様でした。それを人目見ようと、長蛇の列であります。日本人は御利益宗教が本当に好きなようであります。でも、残念ですが目に見える神様は、ニセモノの神様であります。本当の神様は霊のまなこによって、信仰によって見るしかありません。神様は私たちに五感の他に、信仰という霊的な感覚を与えておられます。私たちはこの目で見えなくても、耳で聞こえなくても、手で触れなくても、今も生きておられるまことの神様を信じることができます。神様は霊ですから、私たちも霊によって神様と交わるしかないのです。でも、多くの場合、人間は生まれたときから、この霊はお休み状態です。眠っているか、死んでいるか、どちらかです。しかし、ここに神の霊、聖霊が来られるときに、霊的に目覚めて、「イエス様を信じようかなー」思うわけです。ヨハネ20:22でイエス様がこのように言われました。彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい』」私が思うには、この聖霊はペンテコステの人が新生する聖霊の働きではなく、神様を信じる助けとなる聖霊ではないかと思います。人はだれしも、聖霊の助けなしでは、聖書を理解できず、まことの神様も信じることができないからです。私たちは聖霊の助けによって、聖書のみことばを悟り、その中に記されている救い主、イエス・キリストを信じることができるのです。

④信じてどうなるのか?

 では、キリストを信じたらどうなるのか?ということをお話して終りたいと思います。ヨハネ20:31にそのことが書かれています。きょうのメッセージはヨハネ20章を中心にお届けしています。ハネ20:31「しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。」ヨハネは聖書が書かれた目的をはっきりここで告げています。「イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためです」と言っています。では、信じてどうなるのでしょうか?「あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである」。アーメンです。私たちの罪のために十字架におかかりになり、3日目によみがえられたイエス・キリストを信じるならば、いのちが得られるということです。ここで用いられているギリシャ語のいのちは、ゾーエーであり、神のいのち、永遠のいのちという意味です。私たちの地上のいのちには限りがあります。でも、私たちがイエス様を信じるならば、神のいのち、永遠のいのちが与えられるということです。ハレルヤ!ある人たちは、この肉体で1000歳、2000歳とずっと長生きするのが、永遠のいのちだと誤解しています。そうではありません。この肉体はこの地上のものなので、100年もたないのであります。ここで、永遠のいのちは2つの意味で語られています。1つは私たちが霊的に新しく生まれ変わることによって与えられる霊的ないのちです。パウロはこれを「内なる人」と言っています。「外なる人は衰えても、内なる人は日々、新たにされています」(Ⅱコリンと4:16)。もう1つは私たちはイエス様がよみがえられたような栄光の体が与えられるということです。これは、世の終わりイエス・キリストが再び来られるその時を待つしかありません。私たちが生きているうちに来られるかもしれないし、死んだ後かもしれません。でも、私たちの肉体は、イエス様のように栄光の体でよみがえるのです。私たちは死を乗り越える、このようなすばらしい希望を神様からいただいているのです。

 イエス様は復活の夜、戸が閉ざされていたのに、弟子たちがいた部屋にすっと入って来られました。でも、イエス様は私たちの心の部屋には勝手に入るようなことはなさいません。神様でありますから、しようと思えばできるのです。でも、しません。なぜなら、イエス様は私たちの自由意志を尊重されるからです。だれが書いたか分かりませんが、戸をたたいているイエス様の1枚の絵があります。扉には足元にはいばらがあり、ドアにはうっすらの蔦が絡まっています。これまで、一度も開けた形跡がありません。イエス様がランプをもって、ドアをたたいている絵であります。ヨハネの黙示録3:20にはこのように書いてあります。「見よ、わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼(彼女)のところにはいって、彼らとともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」この間、岡山から来られた中嶋先生が面白いことをおっしゃっていました。新説かもしれません。心のドアは内側からかける錠がついているということです。形は古いのですが、レバーをカチャっと180度倒すと、鍵がかかります。開けるためには、本人がまた、レバーをカチャっと180度倒しかありません。こういう鍵をみんな持っているんだということです。中嶋先生がおっしゃるには、「悪霊よ、主の御名によって出ろとか」命じることはできますが、心の問題は本人の承諾が得なければ、癒すことができないそうです。同じように、イエス様を信じる、つまり心にお迎えするということは、やはり本人の意思が大切なのであります。私は今から30年前、1979年4月15日のイースターの夜、イエス様を信じましたが、結構、大変でした。職場の先輩が私のアパートを訪ねてこられ、お昼の12時半から、9時半くらいまで、約9時間かかりました。クリスチャンの先輩は、ヨハネの黙示録3:20の内容をたとえ話しのように語ってくれました。私の心の部屋は6畳一間のような狭い部屋でした。その部屋の片隅に膝小僧をだいて座っている私がいました。「この世に本当に真実なものがあるのか?もし、神が本当にいるんだったら信じてみたい。」そんなふうにどこかで思っていました。教会に行って2ヶ月くらいたっていましたが、もし、イエス・キリストやらを信じたら、私自身はどうなるんだろう?私はどこかへ行っちゃうのだろうか?それは困ると思って、なかなか、うんとは言えませんでした。しかし、先輩は最後に、「信じてダメだったらそれでも良いじゃないか?どうだろう、1つ賭けて見たら」と言いました。私もあんまり長いので、根負けしたような感じになり、「じゃあ、信じるよ」と言いました。先輩はびっくりして、「今から大川先生のところへ行こう」と言うのですね。「いや、もう遅いから良いよ。信じたんだから」と言いました。もう、10時近くになっていましたのでそのまま床を敷いて寝ました。朝、起きたらどうでしょうか?何もかも光輝いて見えました。アパートの前に樹木が植えられていたのですが、その葉っぱの葉脈1つ1つがとっても繊細に見えました。いやー、あの晩、私は救われたんですね。

 しつこくされることも恵みであります。いつしか、TPWが来られて、ゴスペルコンサートをしたことがあります。最後にアンドレが「今晩、イエス様を信じる人は前に出てきてください!」と招きました。だれもいないと、また同じことを言います。10分、15分も続き、ようやく、一人出てくる。すると、二人目、三人目が続いて出てきます。あのしつっこさのゆえに、自分は信じられたという人がいっぱいいるのではないでしょうか?神様の愛は淡白ではありません。イエス様をあなたのために十字架に死なせるくらい熱いものです。また、神様は死なれたイエス様をよみがえらせる同じ力をもって、あなたを新たに造り変えてくださるお方です。死からよみがえられたイエス・キリストを信じ、永遠のいのちを得てください。

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2009年4月 5日 (日)

完了した       ヨハネ19:28-35

 今週は受難週、イエス・キリストが十字架にかかったことを特に覚える週であります。そして、来週は復活祭、イースターです。きょうは、イエス様が十字架で語られたことばの中から、1つだけをとりあげて、そのことを深く学びたいと思います。それは、ヨハネ19:30「完了した」ということばであります。このことばには、いろんな意味が含まれていて、一口には言い表すことができません。私はそれを分析して、4つの意味に分けてみました。4の数字は、東西南北の方向を表わしていますので、悪くはないと思います。4つの方向から、「完了した」という十字架上のことばを学びたいと思います。

1.終了した finished

  リビングバイブルは、「何もかも終わった」と訳しています。また、口語訳は「すべてが終わった」となっています。ここだけを見ますと、「ああ、キリスト教はこれでおしまいだ!」と思ってしまいます。実際、イエス様の弟子たちは、がっかりして、散り散りバラバラになりました。反対に、イエス様に敵対する人たちは、「ああ、死んじゃったか!」と、喜んだことでしょう。しかし、「終了した」は、フィニッシュした、ゴールまで走り通したという意味です。イエス様が人間としてこの地上でお生まれになったのがスタートだとしたらゴールはどこでしょうか?マラソンにおいても必ずゴールがあります。イエス様のゴールは十字架の死と復活でした。福音書でも、たびたび「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日の後によみがえらなければならない」と弟子たちに何度か予告しておられました。イエス様は、ご自分が十字架で殺されるために、この世に来られたということを知っておられました。ところが、悪魔は別の道、つまり近道を提示しました。「石をパンに変えなさい」とか「私を拝めばなんでもあげるよ」と誘惑しました。私などは近道が大好きですが、イエス様はそうではありません。イエス様は安易な道を退け、あえて十字架への道を歩まれたのです。

 イエス様はあることを終らせるために来られました。ご自分が十字架にかかることにより、一体何が終るのでしょうか?また、イエス様が十字架にかかることにより、何が変わるのでしょうか?それまで、長い間、人間を苦しめていたものは何でしょうか? それは、罪です。イエス様は罪の支配を終らせるために、十字架にかかられたのです。罪と言っても日本人はよく分からないかもしれません。旧訳聖書では罪を、失敗、咎、背き、過ちなどと訳しています。失敗とは、罪とも訳されますが、神が人に定められた道を踏みはずすということです。皆さんの中で、道を踏みはずしたことのある方はおられないでしょうか?山澤兄は郡山で大型二種の免許を取りに教習所に行っています。「二度も縁石を乗り越えてしまいました」とメールが来ました。前輪は通ったけど、後輪がはみ出てしまったのでしょう。人生においてもそういうことがあります。咎は、悪の行為です。簡単に言うと悪いことをするということです。私たちは悪いことだと知りながら、これまでカンニングしたり、盗んだり、うそをついたり、ごまかしたことがあるのではないでしょうか?背きとは、神に聞き従わないこと。不従順であります。私たちは生まれながらに、神様に対して頑固な存在ではないでしょうか?そして、過ちとは、被造物としての人が持つ弱さから来る誤った行為を意味します。わざとやったわけではないけど、誘惑に負けて、つい、うっかりということがあります。こういうふうに罪を分析してみますと、「みんなあるなー」と思いませんでしょうか?いかに罪が人間を支配し、蝕んでいることでしょうか?ある人たちは、麻痺して、なんとも思わない。しかし、罪の報酬は死であり、さばきであり、永遠の滅びであります。罪のゆえに、全人類が神様から離れ永遠の滅びに向かっているのです。しかし、イエス・キリストは罪の支配を終らせるために、この世に来て十字架に付けられたのです。

 ダニエル9:24「それは、そむきをやめさせ、罪を終わらせ、咎を贖い、永遠の義をもたらし、幻と預言とを確証し、至聖所に油をそそぐためである」とあります。ダニエルが、やがて来られるメシヤのことを預言しています。メシヤ、つまりキリストは、「そむきをやめさせ、罪を終わらせ、咎を贖い、永遠の義をもたらせる」ということです。ハレルヤ!イエス・キリストは罪を終らせるために来られたのです。また、同時に、咎を贖い、永遠の義をもたらせるためです。十字架でイエス様が「すべてが終わった」とおっしゃったのは、私の死によって、罪の支配が終る。もう、人々は、失敗、咎、背き、過ちで苦しむことはない!ということです。これからは、神様がくださる贖い、神様がくださる義の中で、生きることができるのです。クリスチャンは罪から解放され、今は、神様の贖いと義という家の中で生活しているのです。みなさんは罪から離れ、神様の贖いと神様の義の中で住んでいますか?「十字架のかげに」Jesus, keep me near the crossという賛美があります。十字架のそばこそが、罪の世界から守られる、すばらしいところであります。  

2.完了した  accomplished

 私たちが使っている新改訳は「完了した」となっています。新共同訳は「成し遂げた」と訳されています。ほとんどの英語の聖書は日本語と同じ意味のaccomplishedになっています。現代訳聖書は「救いの業は完了した」となっています。ギリシャ語の時制は、完了形(パーフェクト・テンス)であります。It has been completed.「成し遂げられた。無期限にそうである」ということです。ヘブル人への手紙は、そのことを何度も強調しています。ヘブル9:12「ご自分の血によって、ただ一度、まことに聖書に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです」。ヘブル10:12「キリストは、罪のため1つの永遠のいけにえをささげ」となっていますハレルヤ!このことは何を意味するのでしょうか?旧約聖書時代は、人間が罪を犯すたびごとに、動物が殺され血を流しました。しかし、大祭司なるイエス様ご自身が血を流したので、罪のあがないは、もう必要ないということです。言い方を換えますと、私たちが救いを得るために、何もすることがないということです。この世の宗教は、功徳を積めとか、罪を償え、身を清めなさい、お布施をしろ、供養をしなさいと言うかもしれません。しかし、イエス・キリストは、神に受け入れられるためにする、様々な行ないを終らせたのです。それは、神からの人間に対する救いの手立てが完了したということであり、あとは人間が信仰によって受け取ることだけが残されているということです。私たちは完成された救いを、信仰によって受け取れば良いだけなのです。ハレルヤ!エペソ2:8,9「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」アーメン。

 私は毎週のように、このところで説教をしています。しかし、説教の大事なポイントは、神様が成し遂げられたことを宣言(proclamation)することであります。私がどんな者かは関係ありません。神様がなされた偉大なことを私が宣言する、そのことが重要なのであります。もし、私が間違った福音をここで伝えたならば、皆さんに対してものすごい被害を与えることになります。使徒パウロはそういう人は「呪われよ!」とガラテヤ書で言いました。もう一度、言わせていただきます。福音とはだれが語るかではなく、語っている内容が重要なのです。キリストが十字架で完了したみわざ、そのことを宣言すれば良いのです。私たちはあまりにも福音を複雑にしています。「ああ、話したら良いだろうか?」「こう話したら良いだろうか?」と悩みます。そうではありません。使徒パウロは、Ⅰコリントで「神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです」と言いました。それは、私たちの知恵ではとうてい理解できないからです。「キリストが2000年前、十字架にかかられたのが、なぜ私のためなんだ」と言うでしょう。かつて、あなたもそう考えたでしょう?でも、2000年前になされたことが、今も有効であるということを聖霊によって悟ることができたんでしょう。どうぞ、下手な理屈を並べるのではなく、十字架につけられたキリストを宣べ伝えることに徹しましょう。「あなたの罪ためにイエス・キリストは十字架につけられました。あなたは、このお方を信じるだけで罪赦され、救われるのです。」これで良いのです。なぜなら、私たちが信じるだけで救われるための条件は、イエス様がすべて完了されたからです。アーメン。

3.完済した  redeemed

 新約聖書はギリシャ語で書かれていますが、この箇所はtetelestai(テテレスタイ)という動詞になっています。この言葉には、「すべてを支払った、贖った」という意味があります。つまり、主イエス・キリストが十字架の上で、全人類の罪の負債を支払ったということです。高木慶太先生が『信じるだけで救われる』という本の中でこのように述べています。「人間は生まれたときから罪の中で堕落し、サタンの奴隷市場で売り渡されている存在である。奴隷を自由放免できるのは自由人だけであるが、イエス・キリストことは、その資格を持った唯一のお方であった。それは、キリストのみが奴隷市場の外に生まれた唯一の人間だったからである。キリストは十字架で息を引き取られるとき、『テテレスタイ』と叫ばれたが、これは商業用語で『完済した』という意味である。それは奴隷の代価を払ったということである。しかし、キリストが、すべての人の罪の代価を払われたといっても、それだけですべての人が奴隷市場から自由されたわけでは決してない。キリストを救い主として信じ受け入れて初めて、人は救われるのであり、信じない人は、代価が支払われたにもかかわらず、まだサタンの奴隷市場の中につながれたままなのである。『テテレスタイ』、キリストは、十字架の上で、すべての人のために、ただ一度だけ、しかも永遠に有効な支払いをされたのである。」アーメン。どうでしょうか?あなたはイエス様が代価を支払ったにも関わらず、牢の中にいるんじゃないでしょうか?仮面をかぶり、サタンに欺かれ、死を恐れて生きているんじゃないでしょうか?「テテレスタイ、完済した」という主の御声を聞きましょう。

 これは、実際にあった男性の体験談です。数年前のアメリカでの事、いつも通勤している道を車で走っていました。頭の中では次の仕事の段取りを考えていましたが、四つ角に来た時、うっかり一旦停止の標識を見落とし、走り過ぎていました。けれども、なんとそこにはパトカーがいました。警官は私に違反チケットを渡して、それを持って裁判所に行くように言われました。裁判所と聞いて私はとてもドキドキしました。恐い裁判官の前に立たされるのではないかと。私の英語力ではよく説明できないと思って不安になりアメリカ人の妻に頼み込み、一緒に来てもらいました。裁判所で違反チケットを見せると、窓口の人はパソコンに私のことを入力し、「あなたの罰金はこの額です」と70ドルの請求書を示しました。私は慌てて財布を見ましたが25ドルしかありません。あと45ドル、全然足りませんでしたので、妻に「45ドルある?」と聞くと、なんとか持っていました。窓口の女性は注意深く3回数え、そして赤いスタンプを罰金70ドルの請求書にパーンッと押しました。“Paid in full”と書かれていました。つまり「罰金を完全に支払った」という意味です。その時、私は聖書の真理が改めてよく分かりました、「これかっ!」と。私たちはいずれ、死んだ後、神様の前に立つことでしょう。もしかしたら、たくさんの罪がいのちの書にしるされているかもしれません。自分が忘れていたこと、赤面するようなこともいっぱい書いてあるかもしれません。でも、大丈夫です。「テテレスタイ、完済した」という赤いスタンプが押されています。気がつくとそこはさばきの座ではなく、恵みの御座であった。私はきっとそうであると信じます。

4.成就した fulfilled

 このことを言っている箇所が、使徒の働き13章にあります。「エルサレムに住む人々とその指導者たちは、このイエスを認めず、また安息日ごとに読まれる預言者のことばを理解せず、イエスを罪に定めて、その預言を成就させてしまいました」(使徒13:27)。つまり、イエス様が十字架に渡され、死なれたのは旧約の預言が成就したということです。一番有名な箇所は、イザヤ書53章であります。イザヤ書には、「私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼のうち傷によって私たちはいやされた。…主は私たちのすべての咎を彼に負わせた」とあります。イエス様はほふり場に引かれていく子羊のように口を開きませんでした。なぜなら、ご自分がそのために地上に来られたことを知っておられたからです。新聖書注解という本がありますが、このところをすばらしく解説しています。「この最後のことばは、もちろん息を引き取る最後の瞬間が来たという断末魔の叫びではなく、聖書の預言をすべて成就して、贖いのわざを成し遂げた勝利の雄叫びである。これはまさに、マルコが『イエスは大声をあげて息を引き取られた』(マルコ15:37)と記している、その叫びのことばであったと思われる。」アーメンです。まさしく、聖書の預言をすべて成就して、贖いのわざを成し遂げた勝利の雄叫びなのであります。イエス様が息を引き取られた後、ローマ兵がイエス様のわき腹を槍で突き刺しました。すると、ただちに血と水が出たとあります。これは医学的には、イエス様は、心臓が破裂したことによって死んだということです。イエス様の上に全人類の罪が負わされ、神から捨てられました。その後、テテレスタイと大声で叫ばれました。その直後、イエス様の心臓が破裂したのです。つまり、勝利の雄叫びをした直後であります。

 ある人たちは、イエス様が勝利をしたのは復活であると言います。確かに復活は死に対する勝利であります。でも、イエス様は十字架上で既に勝利していたのです。パッションという映画を見たとき、そのことを確認できるシーンがありました。悪魔はイエス様が死ぬことを望んでいました。ユダがその手先となりました。イエス様が息を引き取った瞬間、天から一粒の涙が地上にむけて落ちました。その涙が、大地震を起こしたのです。すると、悪魔は「わぁー」とばかり、頭をかかえてのたうちまわりました。敗北したのです。つまり、悪魔は復活のとき敗北したのではなく、イエス様の十字架の死によって敗北したのです。ここがとても重要であります。私たちはイエス様の十字架の死をとても、否定的に捉えてしまいます。確かに、イエス様は私たちの罪を贖うために十字架で死なれました。でも、イエス様は仕方なく死なれたのではありません。最後は「すべてが成就した」と歓喜しながら死なれたのであります。6年くらい前でしょうか?新松戸の津村先生も同じようなことをおっしゃっていました。「イエス様の十字架の叫びは歓喜の叫びであった。歓喜の叫びに心臓が持ちこたえることができずに破裂したんだ」とおっしゃっていました。夜の祈祷会で、津村先生はよく「喜び!喜び!」と叫んでいました。

 最後のまとめに入りたいと思います。イエス・キリストが十字架において、罪の支配を終らせ、救いの業を完了し、すべての罪を贖い、勝利を遂げました。そうするならば、私たちはどのようなことになるのでしょうか?このようになります。「もう、あなたは罪の中に生きる必要はありません」。「もう、あなたは罪を償う必要はありません」「もう、あなたは呪いのもとに生きる必要はありません」。「もう、あなたはだれからも訴えられる必要はありません」。「もう、あなたは死を恐れる必要がありません」。では、積極的にどのように生きることができるのでしょうか?赦しと祝福と自由と救いの中に生きることができるのです。先週は、セルサミットのために、富士箱根ランドというところに行きました。私が総合司会ということで、用いられたのは良かったですが、何から何までもやらされました。パワーポイントの操作、マイクの出し入れ、ビデオ係り、アナウンス、タイムキーパー。でも、良かったのはチケットをいただいて、ホテルの展望風呂に入ったことです。次の日も午後3時半くらいから入りました。だれもいない、貸し切り状態。三島とか沼津市がパノラマのように見えます。そのとき思いました。「私は神様から愛されているなー。そのわりには信仰生活を楽しんでいないなー」と思いました。本来、信仰生活というのは、喜びや楽しみ、満足があるのではないでしょうか?私たちの中に未達成感がないでしょうか?まだ十分じゃない。過去の失敗や過ちが度々思い出されるでしょうか?借金とかローンがある。これから、まだまだ返済しなければならない。持病を抱えている。家族の老いの問題があるでしょうか?人から嫌なことをされたことに対する怒り、憎しみ、恐れがあるでしょうか?私たちは完全な生活を100%とするならば、人生を暗くする問題というのは10から30%ぐらいではないでしょうか?70%以上はうまくいっているのに、20-30%の問題が生活全体を暗くするというのはガテンがいきません。この地上では完全はありえません。イエス様は私たちのために、十字架にかかり、終了し、完了させ、完済し、勝利されました。でも、私たちは相変わらず、この地上で未達成感、敗北感、罪責感、借金の返済、トラウマ、苦々しさ…に捕らえられている。そうだったらば、十字架を私たちの真中に立てる必要があります。そうするならば、イエス様が共にいて、終了させ、完了させ、完済させ、勝利させてくださるのではないでしょうか。

 出エジプト記15章において、人々が三日間、荒野を歩いて喉の渇きを覚えました。水があったにはあったのですが苦くて飲むことができませんでした。民はモーセに「私たちは何を飲んだら良いのですか」とつぶやきました。主はモーセに一本の木を示されました。モーセはその木を水に投げ入れました。「すると、水は甘くなった」と書いてあります。皆さんの人生は苦みがあるでしょうか?木とは十字架を象徴しています。どうぞ、そこに、十字架を投げ入れましょう。そうすれば、皆さんの苦い人生が甘くなります。問題は相変わらず存在しているかもしれません。でも、その中で、楽しみ、喜ぶことができるのです。なぜなら、イエス様が共におられて、私たちと一緒に終了させ、完了させ、完済させ、勝利させてくださるからです。

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