« 完了した       ヨハネ19:28-35 | トップページ | 救いの達成      ピリピ2:12-18 »

2009年4月12日 (日)

見て、信じた       ヨハネ20:1-10

 イースターおめでとうございます。今から約2000前、父なる神は、御子イエスを死人の中からよみがえらされました。私たち人類の最大の敵は罪であり死であります。しかし、イエス・キリストは十字架で罪を贖い、私たちの身代わりに死なれました。ところが3日目に、イエス様は死を打ち破り、栄光の体に復活したのであります。人類が誕生して以来、死からよみがえられた人は一人もいません。蘇生した人はいますが、やがて年老いて死んでしまいました。でも、イエス様は蘇生ではなく、二度と死なない栄光の体へとよみがえられたのです。ハレルヤ!私たちの信仰は復活にかかっています。イエス・キリストが復活したので、聖書とイエス・キリストがおっしゃっていることは真実である、信じるに値するという根拠があるのです。でも、当時の弟子たちはイエス様の復活を最初から信じたわけではありません。2000年前の人たちも、今の私たちと同じように常識がありました。一度死んだ人がよみがえるなんていうことは信じられなかったのであります。ある弟子たちは、よみがえられたイエス様と実際に出会っても、信じることができませんでした。きょうは、「見て、信じた」と題して、聖書から共に学びたいと思います。

①見て信じた

  ペテロともう一人の弟子は、マグダラのマリヤの知らせを受けて、墓に向かいました。もう一人の弟子とは「ヨハネの福音書」を書いた、ヨハネであります。ヨハネはペテロよりも若かったゆえでしょうか、一足先に墓に着いたようです。ヨハネ20:5-8「そして、からだをかがめてのぞき込み、亜麻布が置いてあるのを見たが、中に入らなかった。シモン・ペテロも彼に続いて来て、墓に入り、亜麻布が置いてあって、イエスの頭に巻かれていた布切れは、亜麻布といっしょにはなく、離れた所に巻かれたままになっているのを見た。そのとき、先に墓に着いたもうひとりの弟子も入って来た。そして、見て、信じた。」ここで、問題になるのは、ヨハネは何を見て信じたのかということです。前の章を見るとわかりますが、人々はイエス様のからだを、ユダヤ人の埋葬の習慣に従って、香料と一緒に亜麻布で巻いたようです。これはミイラにするためではなく、死体を潔めるためであり、敬意の念から出たものです。ペテロとヨハネが墓の中に入って、まず最初に見たものが、体にまかれていた亜麻布であります。大きな布だと思いますが、ある程度、たたまれて置いてありました。しかし、問題なのは顔と頭にまかれていた長い布切れであります。7節には、「イエスの頭に巻かれていた布切れは、亜麻布といっしょにはなく、離れた所に巻かれたままになっているのを見た」とあります。巻かれたままとは、どういうことでしょうか?これはすっぽり抜けた状態でそのまま置かれていたということです。たとえば、指などを切ったとき、包帯をぐるぐる巻きます。でも、後ですっぽりと包帯が抜ける時があります。それと同じ状態で、顔と頭に巻かれていた布が、頭部がすっぽり抜けた状態に折り重なっていたということです。その布切れは、首から頭にかけてぐるぐる巻いたものであり、頭部がすっぽり抜けることはまず不可能です。普通だったら、ほどいて、そこに丸めて置くはずですが、そうではなかったということです。

 8節には、「そのとき、先に墓に着いたもうひとりの弟子も入って来た。そして、見て、信じた。」と書いてあります。何を見て、信じたかと言いますと、イエス様がよみがえられたということを信じたということです。しかも、そのよみがえりというのは、普通の肉体ではないということです。普通の肉体ならば、頭にまかれた布をほどくしかありません。でも、復活の体というのは、そうではなく物理的な制限がないということです。ヨハネ20章の半ばを見ると分かるのですが、弟子たちがユダヤ人を恐れて戸を閉めていました。ところが、イエス様がその部屋に入って来られ、「平安があるように」と言われました。弟子たちが戸を閉じていたにもかかわらず、イエス様が「すうっと」室内に入ることができたということです。ヨハネ20:26にも同じ様なことが書かれています。八日後に、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいた。戸が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って『平安があなたがたにあるように』と言われた。」アーメン。よみがえられたイエス様の体は、戸が閉じられていても、全く、支障なく、すり抜けてと申しましょうか、入ることができるということです。これは、イエス様の体がただ生き返ったということではなく、栄光の体によみがえったということです。このように、ヨハネは、墓の中で布切れを見て、イエス様が栄光のお体によみがえられた、復活したということを信じたのであります。

②聖書から信じる

 しかし、ヨハネ福音書は「見て、信じる」だけではまだ不十分であると言っています。ヨハネ20:9「彼らは、イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していなかったのである。」これは一体どういうことでしょうか?これは、聖書の啓示から復活を悟る必要があるということです。つまり、聖書を読んで信じる道が残されているということです。ルカ福音書24章には、エマオに向かう二人の弟子のことが記されています。二人は「イエスが死からよみがえられたとは、どういうことなのだろう?」と話し合ったり、論じたりしながら歩いていました。そこへ、復活のイエス様が「話し合っている、その話は何のことですか?」と入り込んできました。しかし、二人の目はさえぎられて、その方がイエス様だとは分かりませんでした。二人は「仲間の何人か墓に行ったけれど、女たちの言ったとおり、イエスのからだが見当たらないのです」と悲しい顔をしながらその人に告げました。その人は「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてのことを信じない、心の鈍い人たち」と嘆きながら、モーセおよびすべての預言書から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書かれている事柄を彼らに解き明かされました。すると、二人の心が内に燃えてきました。途中、日も傾いたので、その人に無理にお願いして宿に入りました。その人がパンを取り、祝福し、裂いて二人に渡しました。すると、彼らの目が開かれ、その人がイエス様だとわかりました。彼らは復活のイエス様が共に歩いていたのに、その方がイエス様だと分かりませんでした。そのため、イエス様は聖書全体を解き明かして、ご自分が苦しみを受けて、栄光に入ることを彼らに解き明かされたのです。

 つまり、こういうことです。実際に、肉眼で復活のイエス様を見たにも関わらず、信じない弟子たちがいたということです。つまり、本当の信仰を持つためには、聖書から信じる必要があったということです。逆に言うなら、肉眼で復活されたイエス様を見なくても、聖書の啓示を信じて、救われる道もあるということです。12弟子のひとりで、とても疑り深いトマスという弟子がいました。復活された日曜日の夜、弟子たちが一緒に集まっていました。その部屋にイエス様が入ってこられ、「平安があるように」と言われました。そのとき、弟子たちは「わぁー、イエス様だ」と信じました。残念ながら、その中にトマスはいませんでした。どこかで一人しょんぼり、ふてくされていたのでしょう。ヨハネ20:25それで、ほかの弟子たちが彼に「私たちは主を見た」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません」と言った。そして、なんと、8日目にイエス様が再び現れて、彼らの中に立ちました。ヨハネ20:27-29それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」トマスは答えてイエスに言った。「私の主。私の神。」イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」イエス様はトマスになんとおっしゃったでしょうか?「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」アーメン。この肉眼で復活のイエス様を見て信じる信じ方もあります。でも、もう1つ他に見ないで信じる道があるということです。そして、その方がもっと幸いであるということです。その道とは何か?それは聖書の啓示を読んで、イエス様を信じるという道であります。復活から2000年近くたちますが、私たちにとって最も有効な手段は、復活を見たという証言が記されている聖書から信じる道であります。ごく稀に、直接、復活のイエス様を見て信じる人がいます。聖書では使徒パウロが有名です。私も何名か、「私はイエス様を見た」という人を知っています。でも、それは稀です。うらやましい感じがしますが、見ないで信じる方が幸いなのです。

③見ないで信じた人たち

 ペテロの手紙には見ないで信じた人たちのことが書かれています。Ⅰペテロ1:8,9「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。」とんで、Ⅰペテロ1:12「彼らは、それらのことが、自分たちのためではなく、あなたがたのための奉仕であるとの啓示を受けました。そして今や、それらのことは、天から送られた聖霊によってあなたがたに福音を語った人々を通して、あなたがたに告げ知らされたのです。」アーメン。ペテロが手紙を宛てた人たちは、ポント、ガラテヤ、カパドキヤ、ビテニヤに散って寄留している人たちでした。彼らは直接、イエス様には出会っていません。でも、どうでしょうか?彼らは、イエス様を見たことがないのに、イエス様を愛しており、イエス様を信じていました。そして、信仰の結果である、たましいの救いを得て、喜んでいました。どうして、そんなことができたのでしょうか?聖書の啓示、キリストの福音を受けたからです。厳密に言うならば、ペテロの時代は、新約聖書は完成していませんでした。あったのは、旧訳聖書のメシヤに関する啓示と、実際に復活を見たという証言でした。でも、ポント、ガラテヤ、カパドキヤの人たちは、直接、復活のキリストを見たわけではありません。それでも、その知らせを聞いて、信じて、救われたのです。ポント、ガラテヤ、カパドキヤの人たちと私たちはほぼ、同じ条件であります。直接は見たわけではないけれど、旧訳聖書のメシヤに関する啓示と実際に復活を見たという証言の新約聖書があります。ポント、ガラテヤ、カパドキヤの人たちも、現代の人たちもそうですが、「キリストを見たら信じる」という人たちがいるのではないでしょうか?私もかつて「神様を見せてくれ、見たら信じる」と生意気なことを言いました。

 でも、みなさん目に見える神様というのは本当の神様ではありません。それは偶像の神様です。ついこの間、長野県の善光寺で、7年に一度の御開帳というのがありました。高速道路が土日、1000円ということもあり、県外からも大ぜいの人たちが駆けつけました。6年前の御開帳のときは、2ヶ月間で、約628万人集まり、経済効果はおよそ1,035億円だったそうです。今年は、もっと大ぜい集まるんじゃないかということです。私もテレビで見ましたが、パカーット開けたら、黒い観音様でした。それを人目見ようと、長蛇の列であります。日本人は御利益宗教が本当に好きなようであります。でも、残念ですが目に見える神様は、ニセモノの神様であります。本当の神様は霊のまなこによって、信仰によって見るしかありません。神様は私たちに五感の他に、信仰という霊的な感覚を与えておられます。私たちはこの目で見えなくても、耳で聞こえなくても、手で触れなくても、今も生きておられるまことの神様を信じることができます。神様は霊ですから、私たちも霊によって神様と交わるしかないのです。でも、多くの場合、人間は生まれたときから、この霊はお休み状態です。眠っているか、死んでいるか、どちらかです。しかし、ここに神の霊、聖霊が来られるときに、霊的に目覚めて、「イエス様を信じようかなー」思うわけです。ヨハネ20:22でイエス様がこのように言われました。彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい』」私が思うには、この聖霊はペンテコステの人が新生する聖霊の働きではなく、神様を信じる助けとなる聖霊ではないかと思います。人はだれしも、聖霊の助けなしでは、聖書を理解できず、まことの神様も信じることができないからです。私たちは聖霊の助けによって、聖書のみことばを悟り、その中に記されている救い主、イエス・キリストを信じることができるのです。

④信じてどうなるのか?

 では、キリストを信じたらどうなるのか?ということをお話して終りたいと思います。ヨハネ20:31にそのことが書かれています。きょうのメッセージはヨハネ20章を中心にお届けしています。ハネ20:31「しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。」ヨハネは聖書が書かれた目的をはっきりここで告げています。「イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためです」と言っています。では、信じてどうなるのでしょうか?「あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである」。アーメンです。私たちの罪のために十字架におかかりになり、3日目によみがえられたイエス・キリストを信じるならば、いのちが得られるということです。ここで用いられているギリシャ語のいのちは、ゾーエーであり、神のいのち、永遠のいのちという意味です。私たちの地上のいのちには限りがあります。でも、私たちがイエス様を信じるならば、神のいのち、永遠のいのちが与えられるということです。ハレルヤ!ある人たちは、この肉体で1000歳、2000歳とずっと長生きするのが、永遠のいのちだと誤解しています。そうではありません。この肉体はこの地上のものなので、100年もたないのであります。ここで、永遠のいのちは2つの意味で語られています。1つは私たちが霊的に新しく生まれ変わることによって与えられる霊的ないのちです。パウロはこれを「内なる人」と言っています。「外なる人は衰えても、内なる人は日々、新たにされています」(Ⅱコリンと4:16)。もう1つは私たちはイエス様がよみがえられたような栄光の体が与えられるということです。これは、世の終わりイエス・キリストが再び来られるその時を待つしかありません。私たちが生きているうちに来られるかもしれないし、死んだ後かもしれません。でも、私たちの肉体は、イエス様のように栄光の体でよみがえるのです。私たちは死を乗り越える、このようなすばらしい希望を神様からいただいているのです。

 イエス様は復活の夜、戸が閉ざされていたのに、弟子たちがいた部屋にすっと入って来られました。でも、イエス様は私たちの心の部屋には勝手に入るようなことはなさいません。神様でありますから、しようと思えばできるのです。でも、しません。なぜなら、イエス様は私たちの自由意志を尊重されるからです。だれが書いたか分かりませんが、戸をたたいているイエス様の1枚の絵があります。扉には足元にはいばらがあり、ドアにはうっすらの蔦が絡まっています。これまで、一度も開けた形跡がありません。イエス様がランプをもって、ドアをたたいている絵であります。ヨハネの黙示録3:20にはこのように書いてあります。「見よ、わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼(彼女)のところにはいって、彼らとともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」この間、岡山から来られた中嶋先生が面白いことをおっしゃっていました。新説かもしれません。心のドアは内側からかける錠がついているということです。形は古いのですが、レバーをカチャっと180度倒すと、鍵がかかります。開けるためには、本人がまた、レバーをカチャっと180度倒しかありません。こういう鍵をみんな持っているんだということです。中嶋先生がおっしゃるには、「悪霊よ、主の御名によって出ろとか」命じることはできますが、心の問題は本人の承諾が得なければ、癒すことができないそうです。同じように、イエス様を信じる、つまり心にお迎えするということは、やはり本人の意思が大切なのであります。私は今から30年前、1979年4月15日のイースターの夜、イエス様を信じましたが、結構、大変でした。職場の先輩が私のアパートを訪ねてこられ、お昼の12時半から、9時半くらいまで、約9時間かかりました。クリスチャンの先輩は、ヨハネの黙示録3:20の内容をたとえ話しのように語ってくれました。私の心の部屋は6畳一間のような狭い部屋でした。その部屋の片隅に膝小僧をだいて座っている私がいました。「この世に本当に真実なものがあるのか?もし、神が本当にいるんだったら信じてみたい。」そんなふうにどこかで思っていました。教会に行って2ヶ月くらいたっていましたが、もし、イエス・キリストやらを信じたら、私自身はどうなるんだろう?私はどこかへ行っちゃうのだろうか?それは困ると思って、なかなか、うんとは言えませんでした。しかし、先輩は最後に、「信じてダメだったらそれでも良いじゃないか?どうだろう、1つ賭けて見たら」と言いました。私もあんまり長いので、根負けしたような感じになり、「じゃあ、信じるよ」と言いました。先輩はびっくりして、「今から大川先生のところへ行こう」と言うのですね。「いや、もう遅いから良いよ。信じたんだから」と言いました。もう、10時近くになっていましたのでそのまま床を敷いて寝ました。朝、起きたらどうでしょうか?何もかも光輝いて見えました。アパートの前に樹木が植えられていたのですが、その葉っぱの葉脈1つ1つがとっても繊細に見えました。いやー、あの晩、私は救われたんですね。

 しつこくされることも恵みであります。いつしか、TPWが来られて、ゴスペルコンサートをしたことがあります。最後にアンドレが「今晩、イエス様を信じる人は前に出てきてください!」と招きました。だれもいないと、また同じことを言います。10分、15分も続き、ようやく、一人出てくる。すると、二人目、三人目が続いて出てきます。あのしつっこさのゆえに、自分は信じられたという人がいっぱいいるのではないでしょうか?神様の愛は淡白ではありません。イエス様をあなたのために十字架に死なせるくらい熱いものです。また、神様は死なれたイエス様をよみがえらせる同じ力をもって、あなたを新たに造り変えてくださるお方です。死からよみがえられたイエス・キリストを信じ、永遠のいのちを得てください。

|

« 完了した       ヨハネ19:28-35 | トップページ | 救いの達成      ピリピ2:12-18 »