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2009年4月 5日 (日)

完了した       ヨハネ19:28-35

 今週は受難週、イエス・キリストが十字架にかかったことを特に覚える週であります。そして、来週は復活祭、イースターです。きょうは、イエス様が十字架で語られたことばの中から、1つだけをとりあげて、そのことを深く学びたいと思います。それは、ヨハネ19:30「完了した」ということばであります。このことばには、いろんな意味が含まれていて、一口には言い表すことができません。私はそれを分析して、4つの意味に分けてみました。4の数字は、東西南北の方向を表わしていますので、悪くはないと思います。4つの方向から、「完了した」という十字架上のことばを学びたいと思います。

1.終了した finished

  リビングバイブルは、「何もかも終わった」と訳しています。また、口語訳は「すべてが終わった」となっています。ここだけを見ますと、「ああ、キリスト教はこれでおしまいだ!」と思ってしまいます。実際、イエス様の弟子たちは、がっかりして、散り散りバラバラになりました。反対に、イエス様に敵対する人たちは、「ああ、死んじゃったか!」と、喜んだことでしょう。しかし、「終了した」は、フィニッシュした、ゴールまで走り通したという意味です。イエス様が人間としてこの地上でお生まれになったのがスタートだとしたらゴールはどこでしょうか?マラソンにおいても必ずゴールがあります。イエス様のゴールは十字架の死と復活でした。福音書でも、たびたび「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日の後によみがえらなければならない」と弟子たちに何度か予告しておられました。イエス様は、ご自分が十字架で殺されるために、この世に来られたということを知っておられました。ところが、悪魔は別の道、つまり近道を提示しました。「石をパンに変えなさい」とか「私を拝めばなんでもあげるよ」と誘惑しました。私などは近道が大好きですが、イエス様はそうではありません。イエス様は安易な道を退け、あえて十字架への道を歩まれたのです。

 イエス様はあることを終らせるために来られました。ご自分が十字架にかかることにより、一体何が終るのでしょうか?また、イエス様が十字架にかかることにより、何が変わるのでしょうか?それまで、長い間、人間を苦しめていたものは何でしょうか? それは、罪です。イエス様は罪の支配を終らせるために、十字架にかかられたのです。罪と言っても日本人はよく分からないかもしれません。旧訳聖書では罪を、失敗、咎、背き、過ちなどと訳しています。失敗とは、罪とも訳されますが、神が人に定められた道を踏みはずすということです。皆さんの中で、道を踏みはずしたことのある方はおられないでしょうか?山澤兄は郡山で大型二種の免許を取りに教習所に行っています。「二度も縁石を乗り越えてしまいました」とメールが来ました。前輪は通ったけど、後輪がはみ出てしまったのでしょう。人生においてもそういうことがあります。咎は、悪の行為です。簡単に言うと悪いことをするということです。私たちは悪いことだと知りながら、これまでカンニングしたり、盗んだり、うそをついたり、ごまかしたことがあるのではないでしょうか?背きとは、神に聞き従わないこと。不従順であります。私たちは生まれながらに、神様に対して頑固な存在ではないでしょうか?そして、過ちとは、被造物としての人が持つ弱さから来る誤った行為を意味します。わざとやったわけではないけど、誘惑に負けて、つい、うっかりということがあります。こういうふうに罪を分析してみますと、「みんなあるなー」と思いませんでしょうか?いかに罪が人間を支配し、蝕んでいることでしょうか?ある人たちは、麻痺して、なんとも思わない。しかし、罪の報酬は死であり、さばきであり、永遠の滅びであります。罪のゆえに、全人類が神様から離れ永遠の滅びに向かっているのです。しかし、イエス・キリストは罪の支配を終らせるために、この世に来て十字架に付けられたのです。

 ダニエル9:24「それは、そむきをやめさせ、罪を終わらせ、咎を贖い、永遠の義をもたらし、幻と預言とを確証し、至聖所に油をそそぐためである」とあります。ダニエルが、やがて来られるメシヤのことを預言しています。メシヤ、つまりキリストは、「そむきをやめさせ、罪を終わらせ、咎を贖い、永遠の義をもたらせる」ということです。ハレルヤ!イエス・キリストは罪を終らせるために来られたのです。また、同時に、咎を贖い、永遠の義をもたらせるためです。十字架でイエス様が「すべてが終わった」とおっしゃったのは、私の死によって、罪の支配が終る。もう、人々は、失敗、咎、背き、過ちで苦しむことはない!ということです。これからは、神様がくださる贖い、神様がくださる義の中で、生きることができるのです。クリスチャンは罪から解放され、今は、神様の贖いと義という家の中で生活しているのです。みなさんは罪から離れ、神様の贖いと神様の義の中で住んでいますか?「十字架のかげに」Jesus, keep me near the crossという賛美があります。十字架のそばこそが、罪の世界から守られる、すばらしいところであります。  

2.完了した  accomplished

 私たちが使っている新改訳は「完了した」となっています。新共同訳は「成し遂げた」と訳されています。ほとんどの英語の聖書は日本語と同じ意味のaccomplishedになっています。現代訳聖書は「救いの業は完了した」となっています。ギリシャ語の時制は、完了形(パーフェクト・テンス)であります。It has been completed.「成し遂げられた。無期限にそうである」ということです。ヘブル人への手紙は、そのことを何度も強調しています。ヘブル9:12「ご自分の血によって、ただ一度、まことに聖書に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです」。ヘブル10:12「キリストは、罪のため1つの永遠のいけにえをささげ」となっていますハレルヤ!このことは何を意味するのでしょうか?旧約聖書時代は、人間が罪を犯すたびごとに、動物が殺され血を流しました。しかし、大祭司なるイエス様ご自身が血を流したので、罪のあがないは、もう必要ないということです。言い方を換えますと、私たちが救いを得るために、何もすることがないということです。この世の宗教は、功徳を積めとか、罪を償え、身を清めなさい、お布施をしろ、供養をしなさいと言うかもしれません。しかし、イエス・キリストは、神に受け入れられるためにする、様々な行ないを終らせたのです。それは、神からの人間に対する救いの手立てが完了したということであり、あとは人間が信仰によって受け取ることだけが残されているということです。私たちは完成された救いを、信仰によって受け取れば良いだけなのです。ハレルヤ!エペソ2:8,9「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」アーメン。

 私は毎週のように、このところで説教をしています。しかし、説教の大事なポイントは、神様が成し遂げられたことを宣言(proclamation)することであります。私がどんな者かは関係ありません。神様がなされた偉大なことを私が宣言する、そのことが重要なのであります。もし、私が間違った福音をここで伝えたならば、皆さんに対してものすごい被害を与えることになります。使徒パウロはそういう人は「呪われよ!」とガラテヤ書で言いました。もう一度、言わせていただきます。福音とはだれが語るかではなく、語っている内容が重要なのです。キリストが十字架で完了したみわざ、そのことを宣言すれば良いのです。私たちはあまりにも福音を複雑にしています。「ああ、話したら良いだろうか?」「こう話したら良いだろうか?」と悩みます。そうではありません。使徒パウロは、Ⅰコリントで「神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです」と言いました。それは、私たちの知恵ではとうてい理解できないからです。「キリストが2000年前、十字架にかかられたのが、なぜ私のためなんだ」と言うでしょう。かつて、あなたもそう考えたでしょう?でも、2000年前になされたことが、今も有効であるということを聖霊によって悟ることができたんでしょう。どうぞ、下手な理屈を並べるのではなく、十字架につけられたキリストを宣べ伝えることに徹しましょう。「あなたの罪ためにイエス・キリストは十字架につけられました。あなたは、このお方を信じるだけで罪赦され、救われるのです。」これで良いのです。なぜなら、私たちが信じるだけで救われるための条件は、イエス様がすべて完了されたからです。アーメン。

3.完済した  redeemed

 新約聖書はギリシャ語で書かれていますが、この箇所はtetelestai(テテレスタイ)という動詞になっています。この言葉には、「すべてを支払った、贖った」という意味があります。つまり、主イエス・キリストが十字架の上で、全人類の罪の負債を支払ったということです。高木慶太先生が『信じるだけで救われる』という本の中でこのように述べています。「人間は生まれたときから罪の中で堕落し、サタンの奴隷市場で売り渡されている存在である。奴隷を自由放免できるのは自由人だけであるが、イエス・キリストことは、その資格を持った唯一のお方であった。それは、キリストのみが奴隷市場の外に生まれた唯一の人間だったからである。キリストは十字架で息を引き取られるとき、『テテレスタイ』と叫ばれたが、これは商業用語で『完済した』という意味である。それは奴隷の代価を払ったということである。しかし、キリストが、すべての人の罪の代価を払われたといっても、それだけですべての人が奴隷市場から自由されたわけでは決してない。キリストを救い主として信じ受け入れて初めて、人は救われるのであり、信じない人は、代価が支払われたにもかかわらず、まだサタンの奴隷市場の中につながれたままなのである。『テテレスタイ』、キリストは、十字架の上で、すべての人のために、ただ一度だけ、しかも永遠に有効な支払いをされたのである。」アーメン。どうでしょうか?あなたはイエス様が代価を支払ったにも関わらず、牢の中にいるんじゃないでしょうか?仮面をかぶり、サタンに欺かれ、死を恐れて生きているんじゃないでしょうか?「テテレスタイ、完済した」という主の御声を聞きましょう。

 これは、実際にあった男性の体験談です。数年前のアメリカでの事、いつも通勤している道を車で走っていました。頭の中では次の仕事の段取りを考えていましたが、四つ角に来た時、うっかり一旦停止の標識を見落とし、走り過ぎていました。けれども、なんとそこにはパトカーがいました。警官は私に違反チケットを渡して、それを持って裁判所に行くように言われました。裁判所と聞いて私はとてもドキドキしました。恐い裁判官の前に立たされるのではないかと。私の英語力ではよく説明できないと思って不安になりアメリカ人の妻に頼み込み、一緒に来てもらいました。裁判所で違反チケットを見せると、窓口の人はパソコンに私のことを入力し、「あなたの罰金はこの額です」と70ドルの請求書を示しました。私は慌てて財布を見ましたが25ドルしかありません。あと45ドル、全然足りませんでしたので、妻に「45ドルある?」と聞くと、なんとか持っていました。窓口の女性は注意深く3回数え、そして赤いスタンプを罰金70ドルの請求書にパーンッと押しました。“Paid in full”と書かれていました。つまり「罰金を完全に支払った」という意味です。その時、私は聖書の真理が改めてよく分かりました、「これかっ!」と。私たちはいずれ、死んだ後、神様の前に立つことでしょう。もしかしたら、たくさんの罪がいのちの書にしるされているかもしれません。自分が忘れていたこと、赤面するようなこともいっぱい書いてあるかもしれません。でも、大丈夫です。「テテレスタイ、完済した」という赤いスタンプが押されています。気がつくとそこはさばきの座ではなく、恵みの御座であった。私はきっとそうであると信じます。

4.成就した fulfilled

 このことを言っている箇所が、使徒の働き13章にあります。「エルサレムに住む人々とその指導者たちは、このイエスを認めず、また安息日ごとに読まれる預言者のことばを理解せず、イエスを罪に定めて、その預言を成就させてしまいました」(使徒13:27)。つまり、イエス様が十字架に渡され、死なれたのは旧約の預言が成就したということです。一番有名な箇所は、イザヤ書53章であります。イザヤ書には、「私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼のうち傷によって私たちはいやされた。…主は私たちのすべての咎を彼に負わせた」とあります。イエス様はほふり場に引かれていく子羊のように口を開きませんでした。なぜなら、ご自分がそのために地上に来られたことを知っておられたからです。新聖書注解という本がありますが、このところをすばらしく解説しています。「この最後のことばは、もちろん息を引き取る最後の瞬間が来たという断末魔の叫びではなく、聖書の預言をすべて成就して、贖いのわざを成し遂げた勝利の雄叫びである。これはまさに、マルコが『イエスは大声をあげて息を引き取られた』(マルコ15:37)と記している、その叫びのことばであったと思われる。」アーメンです。まさしく、聖書の預言をすべて成就して、贖いのわざを成し遂げた勝利の雄叫びなのであります。イエス様が息を引き取られた後、ローマ兵がイエス様のわき腹を槍で突き刺しました。すると、ただちに血と水が出たとあります。これは医学的には、イエス様は、心臓が破裂したことによって死んだということです。イエス様の上に全人類の罪が負わされ、神から捨てられました。その後、テテレスタイと大声で叫ばれました。その直後、イエス様の心臓が破裂したのです。つまり、勝利の雄叫びをした直後であります。

 ある人たちは、イエス様が勝利をしたのは復活であると言います。確かに復活は死に対する勝利であります。でも、イエス様は十字架上で既に勝利していたのです。パッションという映画を見たとき、そのことを確認できるシーンがありました。悪魔はイエス様が死ぬことを望んでいました。ユダがその手先となりました。イエス様が息を引き取った瞬間、天から一粒の涙が地上にむけて落ちました。その涙が、大地震を起こしたのです。すると、悪魔は「わぁー」とばかり、頭をかかえてのたうちまわりました。敗北したのです。つまり、悪魔は復活のとき敗北したのではなく、イエス様の十字架の死によって敗北したのです。ここがとても重要であります。私たちはイエス様の十字架の死をとても、否定的に捉えてしまいます。確かに、イエス様は私たちの罪を贖うために十字架で死なれました。でも、イエス様は仕方なく死なれたのではありません。最後は「すべてが成就した」と歓喜しながら死なれたのであります。6年くらい前でしょうか?新松戸の津村先生も同じようなことをおっしゃっていました。「イエス様の十字架の叫びは歓喜の叫びであった。歓喜の叫びに心臓が持ちこたえることができずに破裂したんだ」とおっしゃっていました。夜の祈祷会で、津村先生はよく「喜び!喜び!」と叫んでいました。

 最後のまとめに入りたいと思います。イエス・キリストが十字架において、罪の支配を終らせ、救いの業を完了し、すべての罪を贖い、勝利を遂げました。そうするならば、私たちはどのようなことになるのでしょうか?このようになります。「もう、あなたは罪の中に生きる必要はありません」。「もう、あなたは罪を償う必要はありません」「もう、あなたは呪いのもとに生きる必要はありません」。「もう、あなたはだれからも訴えられる必要はありません」。「もう、あなたは死を恐れる必要がありません」。では、積極的にどのように生きることができるのでしょうか?赦しと祝福と自由と救いの中に生きることができるのです。先週は、セルサミットのために、富士箱根ランドというところに行きました。私が総合司会ということで、用いられたのは良かったですが、何から何までもやらされました。パワーポイントの操作、マイクの出し入れ、ビデオ係り、アナウンス、タイムキーパー。でも、良かったのはチケットをいただいて、ホテルの展望風呂に入ったことです。次の日も午後3時半くらいから入りました。だれもいない、貸し切り状態。三島とか沼津市がパノラマのように見えます。そのとき思いました。「私は神様から愛されているなー。そのわりには信仰生活を楽しんでいないなー」と思いました。本来、信仰生活というのは、喜びや楽しみ、満足があるのではないでしょうか?私たちの中に未達成感がないでしょうか?まだ十分じゃない。過去の失敗や過ちが度々思い出されるでしょうか?借金とかローンがある。これから、まだまだ返済しなければならない。持病を抱えている。家族の老いの問題があるでしょうか?人から嫌なことをされたことに対する怒り、憎しみ、恐れがあるでしょうか?私たちは完全な生活を100%とするならば、人生を暗くする問題というのは10から30%ぐらいではないでしょうか?70%以上はうまくいっているのに、20-30%の問題が生活全体を暗くするというのはガテンがいきません。この地上では完全はありえません。イエス様は私たちのために、十字架にかかり、終了し、完了させ、完済し、勝利されました。でも、私たちは相変わらず、この地上で未達成感、敗北感、罪責感、借金の返済、トラウマ、苦々しさ…に捕らえられている。そうだったらば、十字架を私たちの真中に立てる必要があります。そうするならば、イエス様が共にいて、終了させ、完了させ、完済させ、勝利させてくださるのではないでしょうか。

 出エジプト記15章において、人々が三日間、荒野を歩いて喉の渇きを覚えました。水があったにはあったのですが苦くて飲むことができませんでした。民はモーセに「私たちは何を飲んだら良いのですか」とつぶやきました。主はモーセに一本の木を示されました。モーセはその木を水に投げ入れました。「すると、水は甘くなった」と書いてあります。皆さんの人生は苦みがあるでしょうか?木とは十字架を象徴しています。どうぞ、そこに、十字架を投げ入れましょう。そうすれば、皆さんの苦い人生が甘くなります。問題は相変わらず存在しているかもしれません。でも、その中で、楽しみ、喜ぶことができるのです。なぜなら、イエス様が共におられて、私たちと一緒に終了させ、完了させ、完済させ、勝利させてくださるからです。

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