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2009年3月29日 (日)

キリストの謙卑       ピリピ2:6-11

 本日の箇所は、キリストはどんなお方であるかを知るために、神学的にとても有名な箇所です。また、この箇所は初代教会においてよく知られていた美しい讃美歌の1つではないかと言われています。使徒パウロはこの歌を引用することにより、キリストのような心構えを持ちなさいと勧めています。その心構えとは、2章の1節から4節にあります、一致と謙遜と思いやりであります。ピリピの教会の中には分裂や分派、あるいは虚栄心をもってキリストを宣べ伝える人たちがいました。パウロは見える行動ではなく、目に見えない動機とか心構えについて教えています。この世は結果とか、出来高など、何を成し遂げたかに注目します。それらは、いわば実であります。実も大事ですが、それを生み出す根っこの部分である、価値観とか、動機、心構えがもっと大切であります。

1.キリストの謙卑

神と等しくあることを固守せず

 ピリピ2:6-7「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ…」。「キリストは神の似姿である」とは、どういう意味でしょうか?それは、キリスト様が神と等しいお方、神そのものであるという意味です。そのお方が「神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無に」されたわけです。これは、キリスト様が持っておられる、さまざまな神様の特権、たとえば神の全能性、遍在性、権威、栄光を捨てられたということです。イエス様は神でありましたが、人間になられました。ロゴスなる神が、肉体の中に収まったために、父なる神様にすべて依存するしかなくなったのです。ある神学者は、「神が人となるとは、人間がうじ虫になることと同じようなものだ」と言いました。ああ、私はハエの幼虫であるうじ虫になんかなりたくありません。そんなの、いやです。このところに、「捨てられない」ということばがあります。原文には「引ったくる、奪い取る、手にいれた宝を失いたくない」という意味があります。日本語の他の聖書は「固守しない」とか「固執しない」「執着しない」と訳しています。アダムはどうだったでしょうか?アダムは人間でありながら、神のようになることを固執し、それを奪い取ろうとしました。一方、第二のアダムである、イエス・キリストはご自分が神であることに固執せず、それを捨てたのであります。みなさんは、せっかく得た宝物をすんなり放棄することができるでしょうか?

 また、「ご自分を無にする」という「無にする」はギリシャ語で「ケノオー」でありますが、ここから「謙卑」という神学用語が生まれました。ここでは、「神たる地位を棄てる」「自分の意思を空しくする」「貧しくなる」という意味になります。キリストは自分を空しくし、神たる地位を棄てて、どうなられたのでしょうか?「仕える者の姿をとり、人間と同じになれた」とあります。仕える者とは、奴隷と言う意味です。最初は神の姿であられたキリストが、奴隷の姿になられたのです。奴隷とは、人間以下であります。神様から奴隷になるとは、その高低差たるやいかばかりでしょうか?私たちは人の奴隷になるなんてまっぴら御免です。ところが、神である方が、人間となり、さらにその下である奴隷になった。もう頭が着いて行けません。では、イエス様がこの地上において、本当に、仕える者、奴隷であったのでしょうか?一番、有名な箇所は、ヨハネ13章であります。最後の晩餐をするために、弟子たちが二階の広間に集まりました。普通でしたら、入り口に召し使いがいて、お客さんの足を拭いて上げます。でも、弟子たちは「この中でだれが一番偉いのか?」ということに関心がありましたの。だから、進んで、人の足を拭いてあげようなどと考えていた人はいませんでした。みんな汚い足でしたけど、知らんぷりしていたのであります。ところが、イエス様が席から立ち上がり、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取り、それを腰にまとわれました。それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗い、腰にまとっておられる手ぬぐいで、拭いてあげました。最後に、イエス様は「主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたも互いに足を洗い合うべきです。…私はあなたがたに模範を示したのです」と言われました。

②自分を卑しくし

 続いて、ピリピ2:8をお読みいたします。「自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました」。「従い」という表現が2回ほど出てきますが、イエス様は父なる神様に完全に従われました。それはイエス様が、私たち人類の代表となり、私たちの身代わりとなるためです。イエス様の地上の生涯を見るならば、「神ではないんじゃないか」と疑いたくなります。実際、キリスト教の異端であるエホバの証人は、「キリストは神ではない。神よりも劣る存在である」と言います。どういうわけか、イエス様は、自分は神であるとは一度もおっしゃっていません。むしろ、ご自分を「人の子」「人の子」とおしゃっています。でも、それは私たちの代表、完全な贖い代となるためだったのです。また、「自分を卑しくし」とは、「地位・身分、境遇において低くする、卑しくする」という意味です。他には「当然の権利を放棄する」という意味があります。まさしく、イエス様は、イザヤ書53章に預言されている「苦難のしもべ」でありました。イザヤ書53章の初めにはこう書いてあります。「彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。」まさしく、イエス様はご自分を卑しくされました。そして、「死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました」。人間になり、奴隷になることも大変でありますが、十字架に付けられて死ぬということはどういうことでしょうか?ローマの時代の十字架は最も醜悪な死刑の道具であり、ローマ市民は絶対に十字架刑にはなりませんでした。異邦人のよっぽどの犯罪人か、政治犯であります。イエス様はユダヤ人からは神を冒瀆したかどで死刑を宣告されました。しかし、その当時ユダヤ人には死刑にする権利がありませんでした。そこで、ローマに対して、カイザルに背いた王様として十字架に渡したのであります。ですから、十字架のてっぺんには、ヘブル語、ギリシャ語、ラテン語の3種類の言語で書かれた「ユダヤ人の王」という罪状書きが取り付けられました。ヘブル語は宗教の言語、ギリシャ語は文化の言語、そしてラテン語は学問の言語であります。つまり、全世界に対して、イエス・キリストは十字架にかかられたのであります。

 しかし、イエス・キリストはすぐ十字架につけられたのではありません。真夜中における、ユダヤ人の裁判の後、リンチがありました。目隠しをされて平手で殴られました。人々は「だれが打ったか当ててみろ!」と言いました。朝になると、人々は「十字架につけろ」と口々に叫びました。死刑の宣告後、ローマ兵の全部隊が集まり、イエス様をいたぶりました。紫の衣を着せ、いばらの冠を編んでかぶせ、「ユダヤ人の王様。ばんざい」と叫びました。そして、葦の棒で頭をたたいたり、つばきをかけました。その後、裸にされ、ローマの鞭を何十回も体に受けます。パッションという映画を見ましたが、屈強なローマ兵たちが力任せに鞭を振り下ろします。鞭の先は何本にも別れており、そこには鉛や動物の骨が編みこまれています。1発でもそれを受けたら気絶してしまうでしょう。ユダヤの鞭は39回でしたが、ローマの鞭はそれ以上です。背中だけではなく、裏返しにされて、お腹にも、顔にも、鞭が当てられました。血が飛び散り、肉が裂けました。イエス様の顔は、崩れ去り、もはや人間の顔でなかったかもしれません。だから、イザヤ書には「彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない」と預言されているのです。そして、十字架にかけられると道行く人たちが、さんざん馬鹿にしました。「他人は救ったが自分は救えないのか」とか、「十字架から降りてみろ、そうしたら信じる」とか、勝手なことを言いました。イエス様は人々からも捨てられただけではなく、父なる神様からも捨てられました。なぜなら、私たち全人類の罪を背負われ、罪そのものとなったからです。

 「キリストの謙卑」とは、「謙遜」と「卑しい」を合わせた言葉です。イエス様はご自分が神であることに固執しないで、神たる権威と栄光とを捨てたのであります。そして、イエス様は空しくなり、仕える者の姿をとり、人間と同じになれました。イエス様は自分を卑しくし、ご自分が持っておられる、当然の権利をも放棄しました。イエス様は十字架の死にまでも従われました。それは、私たちの贖うためであります。私たちは贖い主の真似はできません。十字架の贖いはイエス・キリストだけができたことであります。しかし、パウロは「このイエス・キリストこそが謙遜の模範となられたのだから、そのことを学びなさい」と私たちに勧めています。謙遜とはどういうことでしょうか?それは自分が持っている権利、自分が持っている立場、自分が持っている栄光というものを棄てるということです。私たちは生まれたときは裸でした。何も持っていませんでした。でも、大きくなるにしたがって、勝ち得たものがあります。学歴、様々な能力、資格、財産、金、地位、名声、信用…。そういうものを一旦、得たならば、手放すのは容易ではありません。私たちは、それらを「固守し」「固執し」「執着する」のであります。しかし、謙遜になるとは、イエス・キリストのように、得た宝物を放棄するということです。「全部、放棄したらどうなるんだ!」と文句を言いたくなります。聖書的な放棄とは、こういう意味です。神様に対して、「私が持っているものはすべて、あなたから預けてもらったものであり、本来、私のものなど1つもありません。すべてはあなたのものです。私は管理者にすぎません。あなたが必要だとおっしゃるなら、すぐにでもお戻し致します」ということです。私たちは、「これは私が勝ち取った物だ」と、所有者になってしまうので傲慢になるのです。そうではなく、私は神様のしもべです。あなたの御用のために、喜んでお捧げ致します。このように忠実な管理者になることが、謙遜になるということなのであります。

2.キリストの高揚

高揚(高挙)とは、キリストが低きところから高く引き上げられ、再び神様の座に着いたということです。週報に絵が書いてありますが、キリストの高揚はどこから始まるかというと、十字架から始まります。イエス様は十字架で「完了した」と叫ばれました。それは、贖いが完了したという意味であり、地上に来た目的を果たしたということです。そして、イエス様の肉体は死んで、墓に埋葬されました。埋葬とは、完全に死んだということです。完全に死んだ人だけが埋葬されるのです。しかし、イエス様の霊はどこへ行ったでしょうか?Ⅰペテロ3:19「その霊において、キリストは捕らわれの霊たちのところに行って、みことばを語られたのです」とあります。また、エペソ4:8「高い所に上られたとき、彼は多くの捕虜を引き連れ、人々に賜物を分け与えられた」とあります。イエス様は霊において、陰府の底までお下りになり、勝利を宣言し、そこでもみことばを宣べ伝えました。それだけではありません。復活するとき、陰府の一部を携え挙げて、やがてそこをパラダイスにしたのであります。つまり、陰府の中にいた、義人の魂を引き上げて、パラダイスに移したのであります。ちょっと私たちの頭では考えることができません。イエス様はただで復活したのではなく、多くの虜を携えて復活なされたのです。

 そして、イエス様の肉体を父なる神様はご自分の全能の力によって、よみがえらせました。「よみがえらせました」というのは、受動態であります。正確に言うなら、イエス様はよみがえったのではなく、よみがえらされたのです。死んだ人は自分で何もすることができません。死んだのですから当然です。使徒の働き2:24「しかし神は、この方を死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、ありえないからです」。2:27「あなたは私のたましいをハデスに捨てて置かず、あなたの聖者が朽ち果てるのをお許しにならないからである。」そうです。イエス・キリストはすべての罪を支払って死なれました。死(ハデス)というのは罪ある者が行くところです。しかし、イエス・キリストには罪がありませんでした。そこで、父なる神は、イエス様を死(ハデス)から引き上げ、よみがえらされたのです。ハレルヤ!ところで、4月5日は受難週、12日はイースターです。きょうのメッセージは、その前哨戦であります。私たちの肉体も再臨が来なければ、死んで墓の中に葬られます。魂はパラダイスに行くでしょうが、肉体は死んでいるので何もすることができません。肉体はしばらくの間、眠るのです。ある人はお墓の中で、ある人は粉になって海の中を漂っているかもしれません。でも、世の終わり、イエス・キリストが来られ、私たちの名前を呼んでくださいます。そのとき私たちの肉体が目覚め、イエス様のように死なない栄光の体によみがえるのです。そして、天に引き上げられ、先に行っていた魂と合体するのです。イエス様は私たちのために復活の初穂(保証)となられたのです。

 再び、イエス様のことに戻します。イエス様は復活したのち40日間、弟子たちに姿を現わされました。聖書には、少なくとも500人以上の人たちが実際に見たと書かれています。その後どうなったでしょうか?使徒の働き1章ではオリーブ山の頂から、天に上って行かれたと書いてあります。昇天であります。天に上ってからどうなったのでしょうか?「待ってました!」それがピリピ2:9-10の内容であります。「それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。」アーメン。イエス・キリストは父なる神の右に座され、すべての名にまさる「主」という称号を与えられました。これは旧訳聖書の「主」と同じ意味であり、契約の神を意味する神の名前であります。正確に言いますと、イエス様が引き上げられて、元いた状態にまで戻ったということではありません。イエス様がへりくだって人間となり、卑しくなって十字架につき、死んで葬られ、陰府に下り、復活され、昇天し、着座されてからすべての名にまさる「主」という称号を与えられました。そして、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白するということです。それは、天地おいても、霊界においてにも、主の主、王の王になられたということです。エペソ人へ2:21「すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました」と書いてあります。ですから、主イエス・キリストにまさるお名前は他にいないということです。

 イエス・キリストはこのように自らをへりくだらせ、空しくなり、卑しくなったことによって、こんなに高く引き上げられたということは、私たち対する神様の保証でもあります。使徒パウロは、「キリストの謙卑と高揚を例にあげて、もしあなたがたがキリストの謙遜に倣うなら、このような神様からの報いがありますよ」と言っているのです。使徒ペテロもⅠペテロ5:6でこのように述べています。「ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです」(Ⅰペテロ5:6)。アーメン。私たちの生まれつきの性質、肉はへりくだることを好みません。「なんでだ!」と自分の義を主張します。あるときは、自分のことを棚にあげて、神の律法を手にとって相手を裁くかもしれません。このことは、牧師も信徒も例外ではありません。牧師は講壇から聖書を持って、「みなさんへりくだりなさい」と叫ぶことができます。しかし、信徒のみなさんはどうでしょうか?会堂を出てから、「お前こそ、へりくだれ!」と言うかもしれません。ですから、これは相手に言うことばではなく、自分に対する神様のみことばと受け止めるしかありません。私たちの人生において、様々な問題が起こります。クリスチャンになったら、クリスチャンになったで、新たな問題が起こるでしょう。でも、勝利の秘訣があります。それは「へりくだり」であります。私たちが頭を下げて、へりくだり、主に解決を求めるならば、どうでしょう。問題が全部、私の頭上を乗り越えて、通り過ぎて行くでしょう。そうではなく、自らが神のようになり、自分の義をふりかざすならどうでしょう。一生、どこへ行っても、困難や問題がぶち当たってきます。人々を通して、環境をとおして、病気や災難をとおして、あなた自身を打ち倒そうとするでしょう。一番の問題は、私たちの「我」であります。砕かれていない自我であります。自ら神様の前に真実になり、主の前にへりくだるのです。そうすればいかなる環境においても、神の平安があなたを支配するでしょう。このことは皆さんもそうでありますが、私自身も学んでいることであります。「ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです」(Ⅰペテロ5:6)。アーメン。

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2009年3月22日 (日)

一致を保つ        ピリピ2:1-5

 もう今週中、桜が咲くのでしょうか?それとも来週でしょうか?日本で一番美しいのは、この桜が咲くシーズンではないかと思います。先日の金曜日は結婚式もあり、大賑わいでした。130名以上来られていました。ある方が、「先生、礼拝もこのくらい来たら、泣いて喜ぶんじゃないですか?」と言いました。「ま、泣くほどじゃないけど、嬉しいことは嬉しいだろうね」と答えておきました。いつかそのようになると信じます。きょうも、ピリピ人への手紙から共に学びたいと思います。2章1節の「そういうわけで」とは、前の1:27-30の内容をさしていることばです。パウロは、「福音宣教のため一緒に戦っているので、一致を保ち○○」と2章から勧めています。

1.一致の勧め

 パウロがピリピの人たちに、勧めていることは、2章2節からの内容です。「私の喜びが満たされるように、あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。」一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにするということは、生まれながらの人間ができることではありません。政治や企業、音楽や芸能などの世界では、分裂や分派、仲たがい、争いがたえません。では、キリスト教会ではどうか?恥ずかしながら、キリスト教会も分裂と争いの歴史であります。血で血を洗うような宗教戦争もありました。一見、パウロが言っていることは、実行不可能のような教えにも思えます。この世ばかりではなく、このキリスト教会において一体何が足りないのでしょうか?何が足りないので、一致できずに、仲たがいし、争っているのでしょうか?それは、2章1節の内容です。パウロは、「もしキリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら」と言っています。つまり、「もしキリストにある励まし、キリストにある愛の慰め、キリストにある御霊の交わり、キリストにある愛情とあわれみという基盤あるならば、2節以降のことが可能なのですよ」と言っているのです。問題は何を基盤にしているかであります。ヒューマニズムやイディオロギーで、一致することはとても不可能です。

 私はキリスト教とか宗教という用語はあまり使いたくありません。しかし、あえて使うならば、キリスト教は道徳や倫理ではありません。キリスト教はいわば生まれ変わりの宗教、奇跡の宗教であります。私たちが良い行ないやきよい生活をする前に、生まれ変わる必要があります。ヨハネ3章に言われているように、私たちがイエス様を救い主として信じるならば、御霊によって私たちは生まれ変わります。それまで死んでいた霊が目覚め、神様と交わるスイッチが入ります。それは、パソコンが起動したようなものです。突然、その人に与えられた神様のプログラムが開かれます。「ああ、私はこのために生きるんだ!」と人生の目的が与えられます。そして、さまざまな霊的能力が目覚め、そして何が良いことで、何が悪いことなのかという良心が目覚めます。そして、だんだんと神様の品性が身についていくわけです。なぜ、コンタンティヌスから始まった国教会に分裂や争いが絶えなかったか?それは生まれ変わっていない人たちがたくさん、信者となっていたからだという説があります。彼らは「おぎゃー」と誕生したら幼児洗礼を授けられ、回心しないまま、教会員となったのであります。そのためバプテスト教会は信じたものが洗礼を受けるべきだと主張したのであります。当然、といえば当然であります。でも、イエス様を信じたら、直ちに神の品性が与えられるかというとそうではありません。クリスチャンと言えども、生まれつきの人間性、つまり肉が隙あらば頭をもたげて、「頬を打たれたら打ち返す」「売り言葉に買い言葉」「呪われたら呪い返す」ということになるでしょう。

 では、どうしたら良いのでしょうか?2章の1節以降の「もしキリストにあって○○があるならば」というところに答えがあります。英国の聖書は、「キリストにあって」は、in Christ yields となっています。Yieldとは「作物や製品などを産する、産出」という意味です。ガラテヤ書5章の御霊の実であります。御霊によって結ばれるキリストの品性とは、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制と書いてあります。でも、Yieldのもう1つの意味は、明け渡す、譲る、屈服する、従うという意味もあります。つまり、「もし生まれ変わったクリスチャンが、キリストに明け渡していくならば…」となります。みなさん、キリスト様に自我を明け渡し、譲っているでしょうか?そして、キリスト様に明け渡すことによって与えられる励まし、愛の慰め、御霊の交わり、愛情とあわれみを体験することによって、はじめて一致とか謙遜を持つことができるのです。私たちの生まれつきの性質は自己中心で、虚栄心そのものなのであります。でも、キリスト様に屈服し、キリスト様がくださる励ましや愛の慰め、御霊の交わり、愛情とあわれみを充分いただく。するとだんだんと熟成されて神様の品性がにじみ出てくる。つまりキリストにある熟成が大事なのであります。「熟成」という言葉が、CMでよく聞かれます。ウェブには「熟成とは、様々な外的環境(温度、湿度、時間、空間等)により仕込んだものがさらに旨味を増し使える(飲める、食べる)状態になることを指します」と書いてありました。ですから、私たちは継続的にキリストにyield(屈服し、明け渡し、譲る)ことによって、これらの品性が私たちの心の中に熟成されていくのであります。

 神様は私たちの内側に、キリストの品性が熟成されるように、様々な外的環境をとおして、仕込んでくださる。私たちはそれを、{こんなものはいらん!」と跳ね返すこともできます。しかし、「これが神様からのものだったら従います」とキリストに屈服し、明け渡す。そのことが重要なのであります。どうぞ、そのことによって得られる、キリストの励まし、愛の慰め、御霊の交わり、愛情とあわれみを体験しましょう。イエス様からの励ましをいただいた者がはじめて、他者を励ますことができます。イエス様からの愛情とあわれみをいただいた者がはじめて、他者に愛情とあわれみをもって接することができます。私などは家庭や学校であまりいただいたことがないので、クリスチャンになってからはじめて「そういうものがあったんだ!」と気づきました。しかし、育ちが悪かったり、受けた心の傷が、恵みを受けるさまたげにもなっていました。私は試練に会うたびに、「ああ、イエス様、あなたに従います」と明け渡してきました。はじめは荒削りの状態で牧師になりましたが、様々な外的環境と内的葛藤を経て、熟成の過程に入ろうとしています。熟成することは天国かなーと思います。この世では人と会うのが嫌で、できるだけ人間関係を持たない職業を選ぶ方がいらっしゃいます。また、教会に来て、人と交わるのが嫌だという人がいるかもしれません。でも、教会というところは神様を信じるだけではなく、救われた者どうしが交わり、1つになって神様に、そして人々に仕えていくことを学ぶところです。私たちは人間関係で傷を受けてきたかもしれませんが、その傷を癒すのはやはり、人間関係しかないのです。キリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみを受け、その後、一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにすることを学ぶのです。そうしますと、生きる喜びや幸いが与えられます。人間は、人間関係がうまくいって、幸せになるように造られているのです。神様はその幸いを体験できるように、地上に教会を与えてくださったのです。

2.謙遜と思いやりの勧め

ピリピ2:3-5「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。」一口に、言って、3-5節までは謙遜と思いやりについて教えられています。そして、その基盤となるものは6節から11節までの内容、キリストが空しくなられたということです。6節以降は来週学びたいと思います。きょうは5節までであります。本当は連続して学ぶと、流れが分かって、とても恵まれるのですが、30分では限界があります。ケズィック・コンベンションというのが、毎年、ホテル小湧園で開かれます。昔、ポーロ・リースという人が、このピリピ人への手紙から連続してお話したことがあります。連続して話すことをバイブルリーディングと言います。温泉に入って、ポカポカしていますので、思わずこっくりこっくりしてしまいます。でも、下界から離れ、3日くらいみことば漬けになると良いものであります。ところで、使徒パウロは1章において、「やたみや争い、党派心からでもキリストが宣べ伝えられているなら、私は喜ぶ」と言いました。でも、どうでしょうか、2節では「私の喜びが満たされるように」、このようにしてもらいたいんだと願っています。それが3節から5節の内容「謙遜と思いやり」であります。

この世では謙遜とか思いやりは忘れられ、傲慢で他人を見下すことが当たり前になっています。国の省が地方の行政を、雇用者が被雇用者を、教師が生徒を、刑務官が受刑者を、聖職者が信徒を見下す傾向にあります。全部が全部とは言いませんが、どうしても権威とか権力を持つと、そうなりがちです。私も二年四ヶ月間、郵便事業でアルバイトをして、謙遜と思いやりがいかに大切か知りました。アルバイトというのはどうしても身分が低いですから、職員の対応の仕方も色々です。無愛想な人、高飛車な人、口だけの人が多いのですが、中には親切で腰の低い人もいらっしゃいます。同じ秋田出身の遠藤課長代理という方がいますが、この人が一番、私たちに良くしてくださいます。遠藤さんは謙遜で思いやりがあります。私は遠藤さんに「あなたは郵便局の鑑です!」とよくほめるんです。だから、私たちは「遠藤さんが言うことだったら、何でも喜んでやります」みたいなところがあります。私はつくづく思いました。「謙遜と思いやり」は、ギスギズしがちな世の中の人間関係の潤滑油のようなものです。自分の権利や立場だけを主張し、相手のことを考えないならば、ストレスがたまってきます。やがてそれが爆発すると、人間関係を壊してしまいます。この世の多くの人たちは、怒りをためて、どこかにそれを吐き出したいと願っているのかもしれません。不当な扱いをする人がいたならば、「待っていました」とばかり、自分の怒りをそこにぶつける。そういうことが日常茶飯事に行なわれているのではないでしょうか?使徒パウロは、まず、私たちクリスチャンが率先して、「謙遜と思いやり」を身につけるように勧めています。朝5時半くらいに始まる、カトリックのラジオ番組「心のともしび」があります。ベートーベンの田園をバックに、アナウンサーが「暗いと不平を言うよりも、すすんで灯りをつけましょう」と言います。世の中の暗さを批判するのではなく、「謙遜と思いやり」というともしびを付けていく。それは父なる神様が喜ばれる道ではないでしょうか?

主イエス・キリストはまさしく、「謙遜と思いやり」の道を歩まれたお方です。当時の宗教界の指導者、パリサイ人や律法学者たちは、収税人や罪人と一緒に食事をしませんでした。彼らの家に入ることもしませんでした。しかし、イエス様は収税人マタイの家に招かれ、彼らと一緒に食事をしました。あとから人々はイエス様に対して何と言ったでしょう?「あれ見よ。食いしんぼうの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ」(マタイ11:19)と批判しました。でも、考えてみると、イエス様は、この世から見下されている人たちと好んで、親しく交われたのです。あるときは、収税人ザアカイの家に泊まりました。そのときも人々は、「あの方は罪人のところに行って客となられた」とつぶやきました。またあるときは、ある女性と会うために、わざわざサマリヤの町を通られました。彼女は人目を避けて、昼間、水を汲みにしました。イエス様は彼女に「私に水をください」とお声をかけまれました。しかし、彼女の素性は大変なもので、夫を5人替え、今6人目と同棲していました。イエス様は全部そのことを知っておられました。彼女は「私はメシアに出会った」と、水がめをそこに置いて、町へ行き人々に伝えました。また、イエス様は12人の弟子たちをご自分のそばに置いて訓練しました。彼らは本当に個性的な人たちで、「よくこんな人たちが一緒に行動できたなー」と不思議に思います。多血質で自己主張の強いペテロ、怒りっぽいヤコブとヨハネ、憂鬱質でうたぐり深いトマス、ローマを転覆させようと考えていた熱心党のシモン、ローマにへつらい銭もうけしていたマタイ、気の良いアンデレ、現実主義者のピリポ、おとなしくて真面目なナタナエル、都会肌でエリートだけどイエス様を裏切るイスカリオテ・ユダ…。彼らはイエス様のもとにいて、一致と謙遜と思いやりを学びながら、「教会はこのようにあるべきなんだろうなー」ということを思い描くことができたのではないでしょうか。

「心のともしび」のホームページに「喜びの聖人、フランチェスコ」のムービーがあり、25分×3で、75分間ものを観てしまいました。フランチェスコは今から800年くらい前の人で、「イエス様に最も近い人物ではなかったか」と言われています。フランチェスコの生き方の中に、一致と謙遜と思いやりを持つための大事な秘訣があることを発見しました。フランチェスコは小鳥や動物、植物さえも神が創造された兄弟姉妹と呼びました。グビオという町に大きな狼が出没し、家畜ばかりか人間を襲いました。町の人たちは狼を殺すことに決めました。それを聞いたフランチェスコは「殺すのは、考え直してください」と狼に会いに行きました。初め、狼はフランチェスコに飛びかかろうとしました。が、フランチェスコは優しい声で「兄弟の狼よ、ここに来なさい」と言うとおとなしくなりました。「これから、家畜や人々を襲うのをやめると約束するならば、町の人たちは毎日、あなたに食べ物を与えるでしょう」と言いました。狼は子羊のように優しくなり、フランチェスコの後に従いました。グビオの人たちは喜びの声を上げて神様をほめたたえました。その時から、町の人たちは毎日、狼に食べ物を与え、狼は町の人たちのペットになりました。狼が年を取って死んだときは、グビオの人たちは皆、悲しんだということです。それから、フランチェスコのもとに「私を弟子にしてくれ」と若者たちが集まり、それが12人になりました。フランチェスコは彼らに「あなたがたは私の弟子ではなく、兄弟です」と共同生活しました。その数がイタリアだけではなく、近隣諸国にも増え、やがて5000人に達しました。

フランチェスコが強調したものの中に、現代の教会が忘れかけているいくつかの点があります。まず、彼が強調したのは貧困です。彼は「私は貧困と結婚した」と言いました。今、新車を買おうかどうか迷っているときに、貧困であります。でも、新車はあれば良いですが、なければなくてもなんとかなるわけです。2つ目は、悔い改めであります。「ああ、私は傲慢だった」とか「不親切だった」ということを絶えず悔い改めるということです。3つ目は、黙想であります。カトリック教会の場合は日常生活を断って、しばらくの間、黙想します。そして、聖書をそのまま単純に、実行するのであります。現代はテレビとかゲーム、パソコン、様々な機器が私たちの周りにありますので、黙想するということがなかなか困難です。プロテスタント教会では「静思の時とか、ディボーション」などと言いますが、やっぱり、神様と静かに交わる時が必要であります。4つ目は、本当の兄弟姉妹の関係であります。私たちの教会でも、いちおう、兄弟姉妹の関係なのですが、何かサークルとかカルチャースクール的なところがあります。好きな人とか、苦手な人というふうに分けているとしたらこの世と同じであります。もちろん人間ですから、合う、合わない人がいます。でも、私たちは二重の意味で兄弟姉妹なのです。私たちは、私たちを創造された父なる神様を仰いでいます。また、私たちを滅びから贖ってくださった主イエス・キリストを信じています。私たちの関係はこの地上だけの関係ではなく、天国に行ってからも永遠に続くのであります。私たちは日本人ですから本音と建前の中で生きています。でも、教会は運命共同体として、もう一歩踏み込み、イエス・キリストを媒介にした、聖徒の交わりなのであります。

パウロは「へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい」と言いました。このことは自分よりも年が上だとか下、あるいは自分よりも能力があるとかないということとは関係がありません。この世の中は、さらに地位とか立場、経験のあるないが上下関係を決めるでしょう。神のご支配のある教会ではそういう価値観であってはなりません。どうしたら、「へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思う」ことができるのか?それはさきほども言いましたが、神様がその人を創造されたからです。「私の目には、あなたは高価で尊い」というのは、自分のことだけではなく、その人のためにも与えられた約束なのです。また、父なる神様は一人ひとりにその人しかない、固有の賜物を与えておられます。それはまだ教育を受けていない、幼い子どもの中にも見られるものです。私も子どもを育てていて、あっと驚かされることがよくあります。「これは私が与えたものではなく、神様がお与えになられたものだ」と驚嘆します。もう1つの理由は、その人もイエス様が、愛し、ご自分の尊い血をもって贖われた存在だからです。自分もあの汚れた醜い罪から贖われたのです。その人をキリストの贖いを通して見るならば、愛すべき尊い存在なのです。私たちは律法とかこの世の価値観の色メガネをはずして、神のくださる創造と贖いのメガネをかけて見るべきであります。

最後に、聖フランチェスコが祈った、「平和の祈り」を紹介して終わりたいと思います。

ああ主よ、わたしをあなたの平和の道具にしてください。
憎しみのあるところに、愛をもたらすことができますように。
争いのあるところにゆるしを、
分裂のあるところに一致を、
疑いのあるところに信仰を、
誤りのあるところに真理を、
絶望のあるところに希望を、
悲しみのあるところに喜びを、
闇のあるところに光をもたらすことができますように。
ああ主よ、わたしに、
慰められるよりも、慰めることを、
理解されるよりも、理解することを、
愛されるよりも、愛することを求めさせてください。
わたしたちは与えるので受け、
ゆるすのでゆるされ、
自分自身を捨てることによって、永遠の命に生きるからです。
                        アーメン

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2009年3月15日 (日)

福音にふさわしい生活      ピリピ1:27-30

 「キリストの福音にふさわしい生活」って何だろうといろいろ考え、悩みました。新約聖書はギリシャ語で書かれていますが、とてもすばらしいことが書かれていました。「ふさわしい生活をする」は、ギリシャ語でポリテュウオーであり、「市民として生活する」という意味です。また、この言葉が変化したものが、国籍であります。ピリピ3:20には、「私たちの国籍は天にあります」という有名なみことばがあります。つまり、「キリストの福音にふさわしい生活」とは、「御国の民として生きる」という意味になります。私的にはとても感動したのであります。その後、なんとはなしに、聖書の欄外を見てみました。とても小さい文字でこのように書かれていました。27節、別訳「御国の民の生活をしてください」とありました。「わー、あっていた」とさらに感動しました。きょうは、私たちは御国の民としてどのように生きるべきなのか、3つのポイントで学びたいと思います。

1.御国の民の特徴

 御国の民とはどういう特徴があるのでしょうか?当時、ピリピの町は、ローマ支配のもとにありました。聖書辞典には、「ピリピはエーゲ海を南に望む、マケドニヤの主要都市で、大量の金を産出する金鉱があり、また、軍事的にも通商的にも重要な位置を占めていた」と書いてありました。ピリピの人たちはローマ市民権を持っていました。ですから、御国の市民権に伴う特権と義務をよく理解できたと思います。日本の市民権、国籍って、あまりたいしたことがないと思うかもしれませんが、中国やフィリピンの方は、大変これを欲しがるようであります。アメリカによく行く人であれば、「アメリカの市民権を持ちたいなー」と思うかもしれません。その国の市民権があると、税金を納め、法律を守る義務、教育を受ける義務等があります。でも、また保障もあります。人権や生活が保障されます。警察や消防もいざという時は、助かります。国民保険に入っていなければ、医療が高くつきます。うちは子どもが4人なので、教育費や医療費の補助を受けることができました。わが国では、就職や住宅、老後の課題がかなりあるようですが、全く保証がないよりはましです。ソマリアという国は無政府状態です。彼らのある人たちは海賊をなりわいにしているようです。無政府状態と比べたら、日本はずっとずっとましであります。

 みなさん、私たちはこの地上にありながら、天国の市民権を持っている、御国の民なのであります。このことをどうぞお忘れなく。献金は税金とちょっと似ていますが、そうではありません。日曜日、教会に来ることは義務でしょうか?献金や礼拝は義務ではなく、特権であります。私たちはイエス様を信じたおかげで、罪赦され、滅びの国から、永遠の命の国に移されました。いくらすばらしい豪華客船に乗っていても、この先、沈むならどうでしょう。すばらしい音楽を聴きながら踊っても、ワインを飲んでも仕方がありません。タイタニックではありませんが、船を乗換えないとその先は死です。しかし、クリスチャンは天国行きの安全な船に乗り換えたのです。天国には私たちの住まいが用意されています。ハレルヤ!それだけではありません。天国の市民になりますと、父なる神様がこの地上においても、あらゆる必要や、守り、助けを与えてくださいます。イエス様は「あなたがたは空の鳥よりも、野の花よりもすぐれたものです。天の父があなたがたによくしてくださらないわけがありましょうか。天の父は、それがみんなあなたがたに必要であることをご存知です」と言われました。日本人の多くは、天地万物を創造し、今も保持しておられる天の父を知りません。だから、経済大国と言われながらも、汲々としているのです。日本よりも経済的に貧しい南米の人たちや東南アジアの人たちが、よっぽど毎日をエンジョイしています。日本人は物があっても物足りない、いくら食べても満足しない。それは、天の父を持っていないからです。どことは言いませんが、大きなお家があり、以前、空き巣に入られたことがあります。そのお家は、夜中じゅう赤々と電気をつけています。私などは盗られるものがないので、安心して寝ています。父なる神様が御使いを遣わして、我が家を守っておられます。子どもたち一人ひとりを守っておられると信じています。

 詩篇127篇は、勤勉と言われる日本人にもっとも必要なみことばであろうと思います。詩篇127篇「主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい。あなたがたが早く起きるのも、おそく休むのも、辛苦の糧を食べるのも、それはむなしい。主はその愛する者には、眠っている間に、このように備えてくださる。見よ。子どもたちは主の賜物、胎の実は報酬である」。アーメン。日本には鬱とか、不安神経症の方がとても多いと聞きます。それで、夜も眠れない人がかなりおられると思います。「主の守りを体験したらいかがでしょうか」と言いたいです。「このままだと、明日、食べるものがないかもしれない。老後はどうなってしまうのだろう」。でも、御国の民は、安らかに眠ることができます。なぜなら、「主はその愛する者には、眠っている間に、このように備えてくださる」とあるからです。牧師の務めは何でしょう。「日曜日以外何をしているんだろう」とご不満もあるかもしれません。牧師の務めは、みなさん一人ひとりが、信仰によって天の父と親しく結ばれることを助けることです。

御国の民であるみなさんにはイエスの御名によって求める権利があります。ヨハネ14:14「 あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう。」とあります。メル・ボンド先生が日本に来られたとき、このように解説しておられました。「私はそれをしましょう」とは、「私の名によって求めなさい。もし、それが現実になかったならば、私がないところから造ってあなたにあげましょう」という意味だということです。メル・ボンド師はかつて、おんぼろの車に乗っていました。ドアが壊れていて番線でくくりつけておきました。そのため、乗り降りは、窓からしていたそうです。あるとき、天の父に言いました。「天の父よ、マフィアでもこんな車、乗っていませんよ。私は神の子どもですよ、マフィアよりもすばらしい車に乗るのが当然でしょう」。そして、ディラーに行って、お金がないのに、青のビュイックに乗って帰って来たそうです。またあるときは、1ドル銀貨しかないのに、広い土地の一番良いところを購入し、神学校を建てました。持ち主は死ぬ前に、その1ドル銀貨を返してくれたそうです。みなさん、現実から物ごとを推測するのはやめましょう。御国の民は、天の父がいらっしゃること、また、イエス様の御名によって求めるなら何でも与えられるという信仰の法則を用いましょう。ヨハネ16:24「あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。」すんなり、与えられるときもありますが、なかなかそうでないときもあります。ストレートではなく、紆余曲折することもあるでしょう。なぜでしょう?なぜ簡単に与えられないときがあるのでしょう。それは、天の父が私たちを訓練し、私たちの信仰を強めるためであります。忍耐力とか、煉られた品性を与えるためであります。でも、最後には与えてくれます。私たちは主イエスの御名と言う、神の国の権利と権威という、切り札を与えられていることを忘れないようにしましょう。

2.御国の民の目標

 ピリピ1:27節の後半は「あなたがたは霊を一つにしてしっかりと立ち、心を一つにして福音の信仰のために、ともに奮闘しており・・・」と書いてあります。この箇所はリビングバイブルがわかりやすいので、引用したいと思います。「つまり、あなたがたが、キリスト様の良い知らせを宣べ伝えるという、1つの目標に向かって、しっかりと協力しており」。アーメン。つまり、ピリピの教会の人たちにとって、霊と心を一つにして、福音を宣べ伝えることが、共通の目標であるということです。私たちは生まれや育ち、性格や好み、考え方も違いますので、一致するということがなかなかできません。でも、クリスチャンであるならば、必ず一致できることがあります。どんな点でしょうか?そのことはエペソ4章の前半に書いてあります。「平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。からだは一つ、御霊は一つです。・・・主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つです。すべてのものの上にあり・・・すべてのものの父なる神は一つです。」不思議なことに、このところでパウロは、「あなたがたは一致しなさい」とは言っていません。「御霊の一致を熱心に保ちなさい」と述べています。つまり、クリスチャンというのは、すべて聖霊によって新しく生まれた存在だということです。私たち一人ひとりに御霊が宿り、御霊がその人を生かしているということです。肉、つまり生まれつきの好みとか考えでは一致できません。この世において、ヒューマニズムやイデオロギーでは一致は不可能なことは証明されています。私たちはそういう一致ではなく、御霊が与えた一致がすでにあるのです。一致を新たに作り出す必要はありません。聖霊によって与えられた一致を熱心に保つだけなのです。

 御国の民である私たちには共通した目標があります。リビングバイブルにあるように「キリスト様の良い知らせを宣べ伝えるという、1つの目標に向かって、しっかりと協力する」ということです。前回もお話しましたが、父なる神様の一番の願いは、一人でも多くの人が、滅びから救われて、御国に入るということです。ノアは何百年もかけて大きな箱舟を作りました。大雨がまもなく降るから箱舟ができたら、乗るようにと仕事の合い間をみつけて人々に伝えました。ところがそのときがやってきました。巨大な大いなる水の源が、ことごとく張り裂け、天の水門が開かれました。そして、大雨は四十日四十夜降り続け、陸地が見えなくなりました。なんと箱舟に入ったのはノアを含めてたった8人の家族だけでした。船のつくりが、八口と書くのはそのためだようです。それから何千年か後、「ノアの時代生きていた人はどうなったんだろう?みんな滅びてしまったのか?」という疑問が起こりました。Ⅰペテロ3章後半に、そのことが書いてあります。ペテロは、「キリストが死んで、その霊において捕らわれの霊たちのところへ行って、みことばを語られたのです。昔、ノアの時代に、箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたときに、従わなかった霊たちのことです」と言いました。つまり、父なる神様はキリストを彼らのところに遣わして、福音を宣べ伝えさせたということです。ある人たちは、「だから、死後もチャンスはあるのだ」と主張します。私はこのところは、そういうことを言っているのではなく、「父なる神様は、人々が罪の中で滅んで行くのをなんとか助け出したいと願っている」ということを強調しているのだと思います。

 一般的に、牧師は教会を大きくしたい、大ぜいの人が教会に集まるようにと願います。私もそのうちのひとりです。でも、そういう考えは自分の教会さえ良ければというエゴイズムに走る可能性があります。そうではなく、父なる神様は御国が拡大することを願っておられるのです。イエス様は天国のたとえをたびたび話されました。粉の中にパン種を入れると、あとから膨らみます。天国が、パンのように大ぜいの人々を収容できるように、膨らんでいるということです。また、イエス様は「小さなからし種が、生長すると、空の鳥が来て、その枝に巣を作るほど大きくなる」と言われました。天国は、最初は、本当に小さな群でした。イエス様と10名足らずの弟子たちしかいなかったのです。まもなく、収税人や遊女、罪人らが我先にと押し入りました。それから招かれていたイスラエルの民ではなく、招かれていなかった異邦人が入るようになりました。今は異邦人のときです。やがて、大迫害とともにユダヤ人のときがやってくるでしょう。残念ながら日本人の数がものすごく少ないということです。神様は日本人の席をたくさん用意しています。でも、世の終わり間近になると、その予約席が自由席になり、他の国の人たちがそこに座るかもしれません。講演会とかコンサートでは、招待席が取ってあります。でも、その人たちが定刻まで着席しないと、オープンになるのと同じです。機用な人はパンフレットとかハンカチを置いて、席を取っている人もいます。「ああ、これはお母さんの分、お父さんの分、友達の分、夫の分・・・」とか・・・。でも、みなさん、あまり時がないことは確かです。

 父なる神様はイエス・キリストを十字架に与えたので、罪の贖いは完成しました。あとは、良い知らせを聞いて、キリストを信じるだけです。私たち教会は、この良い知らせ、福音を伝えるために存在しているのです。日本は4種類の土地のうち、「石地の土地」であるとよく言われます。人々の心の中に、偏見と無知の石ころがたくさんあるからです。鍬を降ろして耕そうとしても、カキーンと跳ね返ってきます。どうしたら良いでしょうか?そうです。根気よく、偏見と無知の石ころを取り除いていくしかありません。その後、福音の種をまくのです。荒地を耕し、福音の種を蒔き続けましょう。詩篇126:5「涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう」。

3.御国の民の戦い

 ピリピ1:29-30を再び、リビングバイブルから引用いたします。「あなたがたは、ただキリスト様を信じるたけでなく、キリスト様のために苦しむという特権を与えられているのです。私たちは、共に戦っているのです。あなた方は、先にキリスト様のために苦しんでいる私を見ました。そして、今なお、激しく大きな戦いの真っただ中にいる私のことを、よく知っているはずです」。使徒パウロは、かつてピリピにおいて捕らえられ、鞭打たれました。福音を宣べ伝え、ミニストリーをしただけなのに、です。今、パウロはローマにおいても捕らえられ、裁判にかけられようとしています。何故、私たちは迫害を受けるのでしょうか?「いや、私はちっとも迫害を受けていません。気持ち良いですよ!」という人が、もしかしたらいるかもしれません。はっきり言わせてもらいますが、その人は福音とかイエス・キリストのことを言わないで隠しているからです。もし、私たちがキリストの福音を伝えたならば、必ずと言って良いほど、波風が立ちます。また、私たちが神の国のおきてに従うとするなら、「みんなに合わせなければならない」とか、「郷に入らば、郷に従え」みたいに非難されるかもしれません。Ⅰテモテ3:12「確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます」とあります。イエスの御名を掲げ、きよい生活をするならば、「この世」からどうしても抵抗を受けるということです。

 みなさん、聖書では「この世」とは、神と敵対している国のことを言います。人々はまことの神から離れて、思い思いの生活をしています。そして、彼らの背後には悪魔(サタン)がいます。彼らも神を礼拝しているとは言いますが、すべてが偶像でありサタンと結びつくものです。さらに悪魔は彼らの思いをくらまして、福音の光が輝かないようにしています。でも、2000年前、光なるイエス様がやって来られました。イエス様はこの世からすれば、敵であり侵入者です。しかし、イエス様はこの世から人々が救われるために、御国の福音を宣べ伝え、御国に人々が入れるように、十字架であがないを成し遂げられました。みなさん、親分であるイエス様がこの世から憎まれ迫害を受けたのですから、子分である私たちが迫害を受けるのは当然ではないでしょうか?でも、イエス様は、私たちの追うべき十字架は重くはない、イージーである(楽だよ)と言われました。

神戸に井上眞一牧師がおられますが、そのお母さんの井上孝子姉妹が、最近『広がる夢』という題で証をまとめられました。旧姓鈴木孝子姉妹は京都の住職の三女として生まれました。もの心が付かないうちに、お父さんの友人の養女になりました。17歳のときに始めて、自分が養女だと分かったそうです。彼女が19歳のとき、家族で北朝鮮に渡りましたが、1年半後に敗戦。日本人400人が、ソ連軍によって捕まえられ馬小屋に入れられました。食べ物もろくに与えられずに、強制労働をさせられるので、次々と人々が亡くなっていったそうです。満州風邪が流行し、自分も風邪で寝込み、看病していた養母が死にました。雪が解けた4月、馬小屋のリーダーが船を準備し、38度線を突破。昭和21年5月に養母の遺髪を携えて故郷に帰ってくることができました。その年の9月に友達に誘われ始めて教会というところに行きました。そこに中村先生という美しい婦人牧師がおり、信仰に導かれました。養父が再婚したとき、実の父が家(お寺)を継いで欲しいから彼女に帰ってくるように言いました。ところが、鈴木姉妹は洗礼を受けてクリスチャンになっていたので、大問題になりました。みんなから「ご先祖様に申し訳がたたないから、信仰を捨ててくれ」と頼まれたそうです。ちょうどそのとき、ある牧師から井上さんと縁談があり、結婚し、全くのゼロからの生活をしました。そのとき、ご主人は未信者でしたが、20年後?に復活のイエス様と遭遇。即、献身し、家を出て、北海道から沖縄までトラクト配布し、8年後に召されました。井上眞一牧師はそのとき、中学生1年でしたが、はじめて自分にはお父さんがいたのだと分かったそうです。井上孝子姉妹はとても伝道熱心で、東京、静岡、大阪、博多、高知と行く先々で伝道し、地元の教会に救われた魂を結びつけてきました。考えてみれば、京都の住職の娘が、クリスチャンになり牧師顔負けの伝道し、大ぜいの魂を育ててきたのです。

当教会にも北朝鮮から引き上げてこられた、山崎長老さんがおられました。その方の妹が板橋姉妹です。兄と妹が雪深い北朝鮮から脱出してきたのです。山崎長老さんはとても伝道熱心で、また、よく捧げられました。山崎長老さんは幼いとき、ご両親が北朝鮮で亡くなり、親戚の家で育てられました。その後、引き上げてきたわけですから、自分の家がないというか、故郷もないわけです。井上孝子姉妹も帰る家がありませんでした。お二人は共通していますが、イエス様を信じて、御国の民になり、天国が故郷になったわけです。そして、一生懸命、御国の福音を宣べ伝え、子ども達はもちろん、大ぜいの人たちが信仰に導かれました。様々な信仰的上の戦いもあったと思いますが、神様一筋に乗り越えてきた先輩たちです。私たちも、御国の民になったことを誇りに思い、福音を宣べ伝えることを恥としないようにしたいと思います。確かに戦いはありますが、これは主の戦いであり、勝利が分かっている戦いであることを忘れないようにしたいと思います。

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2009年3月 8日 (日)

生くるはキリスト       ピリピ1:20-29

 ピリピ1:20-21「それは、私がどういうばあいにも恥じることなく、いつものように今も大胆に語って、生きるにしても、死ぬにしても、私の身によって、キリストのすばらしさが現わされることを求める私の切なる願いと望みにかなっているのです。私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。」使徒パウロにとって、最大の関心事は自分の身によって、キリストのすばらしさが現わされることでした。キリストのすばらしさが現われたらなら、たとえ死んでも良いとまで考えています。なぜ、こんなことを書いているかというと、使徒パウロは現在、牢獄に囚われていますので、カイザルの前で有罪になり、死刑を宣告されるかもしれないからです。この時点では解放される希望があったようですが、あと何年か先、おそらく10年もたたないうちに、パウロは殉教します。ですから、パウロの言っていることがオーバーではないということです。使徒の働き5章における弟子たちも、死も投獄も恐れず、大胆に福音を宣べ伝えました。パウロもそうですが、初代教会の人たちは、キリストの福音が宣べ伝えられ、キリストの栄光が現わされたなら、死んでも構わないと思っていました。どうでしょうか、彼らと私たちの温度差は、どうでしょうか?私たちは日々の自分の生活が第一であり、キリストのことは二の次、三の次みたいなところはないでしょうか?

1.キリスト命

 使徒パウロは、「生きることはキリスト、死ぬこともまた益です」と何故、言えたのでしょうか?それはパウロの宗教体験とものすごく関係があります。パウロがキリストの出会う前はどうだったでしょうか?パウロはきっすいのヘブル人であり、厳格なパリサイ派に属していました。タルソという学問の町で、ガマリエルの門下生として学び、エリート中のエリートでした。また、彼はギリシャ語も堪能であり、ローマの市民権を持っていました。主なる神様に献身し、その当時のキリスト教を迫害するほど熱心でした。しかし、復活のキリストと出会ってから、全く変えられてしまったのです。みなさんはどうでしょうか?自分の生まれとか家系を誇りと思っていらっしゃるでしょうか?有名な大学を出たとか、だれかに師事したとか?あるいはどういう資格があり、どういう会社に入ったとか。博士号を持っているとか?外国語が堪能であるとか?もし、キリストよりもそういうものを誇っているなら、復活のキリストと出会っていないのかもしれません。パウロはそういうものは、ちりあくた、糞土のように思っているとピリピ3章で語っています。なぜでしょう?キリストを得、キリストに認められ、キリストを信じる義をいただいたからです。パウロは肉を誇っていた古い自分に一度死んで、全く新しい存在になりました。ガラテヤ2:20「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」アーメンです。パウロは古い自分に死んで、今度はキリストを中心にして生きています。もし、パウロの心の中を見るとしたら、心の王座にキリストがおられ、パウロ自身は床にひれ伏している状態です。みなさんの心の中はどうでしょうか?逆に、キリストを召し使いのように床に座らせ、自分は王座に座ってはいないでしょうか?自分が主人で、イエス様に「ああしてくれ、こうしてくれ」と命令しているかもしれません。

 もし、自我が心の王座を占めていて、自分の生活が何よりも大事であるならばどうでしょうか?算数で不等号、もしくは不等式というのがあります。「a が b より大きい」 ということを a > b で現わします。私なりに、いろいろ考えてみました。恋人>キリスト、結婚>キリスト、お金>キリスト、芸術>キリスト、趣味>キリスト、学歴>キリスト、家族>キリスト、職業>キリスト、飯>キリスト、出世>キリスト、健康>キリスト、快楽>キリスト、老後の生活>キリスト・・・これらをまとめると、自分>キリストになります。キリストよりも自分のことが大きいということです。私を信仰に導いてくれた職場の先輩が罪ということをこう説明してくれました。「罪を英語でSINと言うけれど、Sはサウスで南、Nはノースで北を表わします。その真中に、Iという私がいる。SINとは、私が世界の中心にいることですよ」と教えてくれました。神様はどこにいるかというと、神様は地球の外、大気圏外です。私が中心、私が価値の筆頭、これが罪なのであります。みなさんは朝起きて、一番最初に何を思うでしょうか?「ハレルヤ!神様、新しい朝をありがとうございます!今日も生かされて感謝です!」と開口一番に言う人はいるでしょうか?私は違います。私は「ああ、眠い。ああ、寒い」です。その次、何を思うでしょうか?「私が5時から起きて、仕事に行くのを批判している人たちがいる!くそっ!」です。最近、認知行動療法を丸屋先生から学んでいます。自分のセフルトークをチェックして驚きました。「あいつはあんなことを言った。ちくちょー」なんです。つまり、怒りがあります。クリスチャンになっても、怒り>キリスト、悲しみ>キリスト、せつなさ>キリスト、恨み>キリスト。自分の否定的な感情がキリストよりも大きくなっている。そういう人はいませんか?それは罪です。

 日本人の宗教観は何でしょう?大阪弁ですと「宗教は凝ったらあかん」となります。東京では、「宗教にかぶれないように」と言うでしょうか。つまり、信心はほどほどにしないと、自分の生活がなくなり、とんでもないことになるということでしょう。これは裏返しに言うなら、さきほどの、恋人>キリスト、結婚>キリスト、お金>キリストであり、自分よりもキリストを大きくしてはいけない。自分の生活、自分の好み、自分の感情が第一であり、他の何者にもその座を奪われてはいけないということです。もし、クリスチャンになっても、そのような価値観を持っているならば、救われても罪の中にいるということです。あるいは、キリスト教信仰がアクセサリーになっているということです。アクセサリーって知っていますか?シルバーの十字架のネックレスがきらきら光っていてとても美しい。アクセサリーは、自分のある部分を飾る道具です。もし、信仰がアクセサリーだとしたならば、本体という自分があって、キリストの良さを少しプラスするということです。自分に死ぬとか、神に従うという厳しいみことばを捨てて、愛とか恵み、祝福だけをいただくということです。もし、アクセサリー的な信仰であるならば、キリストを利用することはあっても、キリストのために命を捨てるとか、キリストがすべてだということは全くありえないことです。

でも、みなさん使徒パウロは復活のキリストと出会って、全く変えられました。さきほどの不等号が、全く逆になったわけです。自分よりもキリストが大きくなった。それをキリスト教では、回心と言います。回心は英語では、conversionです。転換する、転向する、あべこべになるということです。もし、みなさん、この世にまことの神様がおられて、私たちを愛しておられる。そして、イエス・キリストが私たちを罪の中から贖い出すために、ご自分の命を捨てられた。このお方が、道であり、真理であり、命であるということを知ったらどうでしょうか?もう、中途半端は生き方は不可能です。「この世において、永遠に変わらないものがある。この世において真実がある。この世において私を命がけで愛しているお方がいる。私の人生は無駄ではない。人生には意味がある。人生には目的がある」。そして、自分が小さくなり、キリスト様が大きくなる。自分の生活がキリストにある生活、自分の夢がキリストにある夢、自分の望みがキリストにある望み、自分の感情がキリストにある感情。これこそが、キリストの信仰であります。多くの人は怒り、悲しみ、恨み、恐れ、寂しさの奴隷になっています。いくらカウンセリングを受けても、なかなか変わらない。カウンセリングはある程度の助けになるかもしれません。でも、究極的な解決は、キリスト様を自分の人生の中心に据えることです。キリストを王座に着かせているならば、自分の感情に支配されることはありません。どこかの首相のように、ぶれてしまって自分が王座を奪ってしまうかもしれません。そのため、混乱や怒りや憂いが心を支配しているかもしれない。そのとき、「ああ、いかん、いかん。キリストだった。イエス様、あなたは私の主であり、王です。どうぞこちらにお座りください。私はあなたに従います」。このような悔い改めこそが、精神科医やカウンセラーが教えない、究極的な解決です。パウロのように、「私にとっては、生きることはキリスト」、キリストこそが私のすべて、私の生きがい、私の中心ですと告白する者だけが、その境地に達することができるのです。「私にとっては、生きることはキリスト」To live is Christ, and to die is gain.ここに、絶対的な解決があります。

2.キリスト天国

 ピリピ1:22-24「しかし、もしこの肉体のいのちが続くとしたら、私の働きが豊かな実を結ぶことになるので、どちらを選んだらよいのか、私にはわかりません。私は、その二つのものの間に板ばさみとなっています。私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。実はそのほうが、はるかにまさっています。しかし、この肉体にとどまることが、あなたがたのためには、もっと必要です。」使徒パウロは2つのものの板ばさみになっています。「このまま生き延びて、ピリピの人たちのためにお役に立ちたい」。もう1つは「主のみもとに早く行って、主にお会いしたい」です。「板ばさみ」にあたる、ギリシャ語は、2つの考えによって悩んだり、苦しんだりすることです。でも、英国の聖書は、「2方向に引き裂かれる」と訳しています。使徒パウロは果たしてどちらの方を望んでいるのでしょうか?「私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。実はそのほうが、はるかにまさっています」と言っています。Ⅱコリント5:8でも、「むしろ肉体を離れて、主のみもとにいるほうがよいと思っています」と述べています。ということは、パウロはどちらかと言うと、「早く、主のみもとに行きたい」です。でも、「あなたがたのためになるならば、もっと生き延びるべきか」であります。この手紙には、「死を恐れるとか、死にたくないとか、死んだらどうなるのだろう」などという、ことばは1つもありません。「生きることはキリスト、死ぬことも益です」と言うのは、「この世ではキリストのために生きるけど、死んだらそれも良い。なぜならキリストに会えるから」ということです。みなさん、こういうパウロの死生観を持ちたいと思わないでしょうか?

 まず、私たちは医学的な死と聖書が言う死の違いを理解しなければなりません。医学的な死とは、肉体が死ぬことです。具体的には心臓が止って、あらゆる細胞が活動をやめるということです。でも、聖書はそうは言っていません。22節には「肉体のいのちが続く」と書いてあります。これは肉体が生きていることであり、医学的にも同じ意味でしょう。でも、23節はどうでしょう。「私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです」と書いてあります。これはパウロ自身が世を去って、天におられるキリストのもとに行くと言うことです。24節には「この肉体にとどまることが、あなたがたのためには、もっと必要です」と書いてあります。これは、パウロ自身が肉体の中にとどまっている状態、つまり生きているということです。まとめるとこうなります。聖書では死というのは、肉体と自分の魂が離れることなんだということです。地上の肉体は魂の入れ物のような存在であり、死んだら朽ち果てます。しかし、自分の魂はキリストがおられるパラダイスに行くか、それとも陰府に行くかどちらかだということです。ルカ16章には、ある金持ちが死んで、気づいたら陰府にいたという記事があります。そこは熱くて、苦しい場所らしい。はるか上には、貧乏人のラザロがアブラハムのふところに抱かれていました。どうも、肉体が死んでからも、魂というか意識があるらしいです。

読売新聞が1月17,18日に実施した調査では、日本人は何かの宗教を信じている人は26%にとどまり、信じていない人が72%に上ることが分かったそうです。死んだ人の魂については、「生まれ変わる」が30%で最も多く、「別の世界に行く」が24%、「消滅する」が18%だそうです。つまり、半数以上の人が、「死んだら終わり」ということではない、とどこかで思っているということです。日本語で死ぬことを「逝去」と言いますが、どこかへ「逝く」ことであり、消滅するということではありません。伝道者の書11:10に面白いみことばがあります。「若い男よ。若いうちに楽しめ。若い日にあなたの心を喜ばせよ。あなたの心のおもむくまま、あなたの目の望むままに歩め。しかし、これらすべての事において、あなたは神のさばきを受けることを知っておけ。」「生きているうちは、何でも、好きなことをやって良いけど、死後、神様の前に立つことを忘れるなよ」ということです。私たちのゴールが肉体の命が終わり、この地上だけのことだけなのでしょうか?それとも、肉体を去っても、向こうでキリストのもとで永遠に過ごすのがゴールでしょうか?この世の人たちは、「死んだのちはどうでも良い。生きているうちが花なんだから」とゴールをさだめていません。でも、「私はやがてキリスト様の前に立つんだ。そこで慰めと報いを受けるんだ!」というゴールを定めている人はどうでしょうか?肉体の死が自分のゴールであるという人は、お葬式やお墓のことを気にするでしょう。「死ぬときは痛いだろうな?怖いだろうな?」と思うでしょう。でも、「肉体の死は旅立ちであり、天におられるキリストとまみえるときなんだ。私はイエス様のところへ行き、肉体の復活後、永遠の御国に住まうんだ」という、ゴールを定めている人はどうでしょうか?私も「やっぱり、死も怖いし、火葬場も嫌だなー」と思います。職業がら火葬場になんべんも行っているし、やがて自分の番になることは分かっています。みんなの前で、お骨を拾ってもらうのは自体したいと思っています。お茶を飲んで、1時間くらい待ったら、壷の中に収められている。それが良いです。でも、そんなことはどうでも良いことです。肉体という私の入れ物は焼かれるかもしれませんが、私自身は天におられるイエス様のもとにいるわけです。違いは住む場所が、地上から御国へと変わっただけであります。

でも、私たちの人生は、この地上においてどのように生きたかということと、天上における神様からの報いが、非常に関係があるということです。使徒パウロは天に召されるまで、自分の走るべき行程を走りつくして、天に凱旋した人であります。できれば、私たちも「ただ死んだ」というだけではなく、神様から与えられた生を全うしたいと思います。そして、イエス様から「善かつ忠なる僕よ、よくやった」とお褒めのことばをいただきたいと思います。先週のテレビで、「世界を変える100人の日本人」というをやっていました。カンボジアで選挙を実現させた中田厚仁さん、彼はポルポト派によって殺害されました。しかし、その後、アツヒト村とかアツヒト小学校ができています。また、ネパールの不毛地帯を開拓した人物。2000メートルの山岳地帯に植林をし、田んぼを作り、ヤギやにわとりを飼えるように農業を指導したご老人。そして、地下鉄サリンの救急病院に用いられた聖路加病院の日野原先生のことも取り上げられていました。長崎で被爆したお医者さん、永井隆先生。彼は被爆医療のために人生をささげました。中国の砂漠の緑化のために人生をささげた人もいました。ベトナムでは、目が見えなくなる病気があるそうです。その人たちのためにボランティアで目の手術をしてあげる日本の医者がいました。何千名もの人たちが視力を取り戻しています。他にもたくさんいましたが、彼らのことばがとても重みがありました。不可能と思えるようなことのために、また人々のために自分の人生をささげるということは、本当に美しいことであります。しかも、後の世にも残るような影響を与えています。

キリスト教はイエス様を信じて天国に行くことが目的ではありません。もし、天国に行くことが目的であれば、「ああ、永遠のいのちがあるから、地上で好き勝手に生きれば良いやー」となってしまいます。確かに、イエス様を信じるたけで罪赦され、天国に行くことができます。でも、神様は私たちに一人ひとりに計画をもっておられ、私たちしかできないことをなさせようと願っておられます。それは、必ずしもノーベル賞を取るような、この世の多くの人たちに大きな影響を与えるということではないかもしれません。大小の問題ではなく、神様があなたにしかできない特有の使命を与えておられるのではないでしょうか?使命とは日本語で、「命を使う」と書きます。何のために、命を使うかであります。私はクリスチャンになる前は、無目的で生きていました。しいて言うなら、自分の夢、自分がやりたいことをやるために生きていました。しかし、「私は何のために生きているのだろう?」という疑問があり、まるで心の中にぽっかりと穴があいているような状態でした。その当時は、パチンコやマージャンを良くしました。夜遅くまで、ぼーっと考えるときもありました。しかし、クリスチャンになってから、暇をもてあますということがなくなりました。パチンコやマージャンはやっても罪じゃないと思いますが、やる暇がないというか、優先順位の中にないので、やらなくなりました。向こうの世界には永遠がありますが、この地上の命には限りがあります。そうすると、短い人生、よけい大事にしなけりゃなーと思うようになりました。

使徒パウロは何のために残りの人生を使おうと思っていたでしょうか?ピリピ1:24,25「しかし、この肉体にとどまることが、あなたがたのためには、もっと必要です。私はこのことを確信していますから、あなたがたの信仰の進歩と喜びとのために、私が生きながらえて、あなたがたすべてといっしょにいるようになることを知っています。」そうです。自分の残りの人生を自分のためにではなく、彼らのため、彼らの信仰と進歩と喜びのために使おうとしました。聖書学者のウィリアム・バークレーという人が言いました。「生き甲斐というのは、自分のためではなく、他の人たちのために生きるときに与えられるものだ」と。ご主人をなくしたやもめが、どのように立ち直ったか?他のさびしいご老人のために仕えたら、自分の悲しみがふっとんでしまったそうです。神様は、私たちが与えられた命を、隣人と御国のために使うように願っておられるのではないでしょうか?地上ではわかりませんが、天においては報いがあります。人からの報いは保証できませんが、イエス様のからの報いは必ずあります。どうぞ、神様からの使命に生きてください。「生きるにしても、死ぬにしても、私の身によって、キリストのすばらしさが現われるように。生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。」アーメン。

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2009年3月 1日 (日)

宣教の動機       ピリピ1:8-11

 3月は大学の入試発表とか、卒業式があります。会社では年度末の決算があったり、人事異動もあるでしょう。とにかく、ストレスの多いシーズンであろうと思います。しかし、もし、神様への信仰があるならば、多くのことを受け入れ、最善を期待することができます。なぜなら、私たちの場合は、単なる偶然というものがないからです。すべてのことが、神様の御手の中にあることを信じて、感謝と賛美をささげるなら何と幸いでしょうか。必ず、そこから新しい道が開かれていくことを信じます。使徒パウロは牢獄に囚われていましたが、「このことを私は喜んでいます。今からも喜ぶ」と言っています。私たちも環境に左右されない、不動の喜びをいただきたいと思います。主イエス・キリストがなされた良き訪れを宣べ伝えることを、福音宣教と言いますが、きょうは2つのポイントでお話したいと思います。

1.福音宣教の前進

使徒パウロはローマにおいてであろうと思いますが、牢獄に囚われていました。それはパウロが宣べ伝えているキリストが当時の政府にとって、危険ではないかと思われていたからです。やがてパウロは、カイザルの前に立って裁判を受けるのですが、その前は、ある程度の自由が与えられていました。参考になる箇所が、使徒28:30,31にあります。「こうしてパウロは満二年の間、自費で借りた家に住み、たずねて来る人たちをみな迎えて、大胆に、少しも妨げられることなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えた」と書いてあります。おそらく、パウロは訪ねてくる友人や知人と自由に会うことができ、そこで福音を伝えることができたと思われます。するとそのとき、ローマの兵士たちも、間接的ではありますが、福音に触れるチャンスがあったのでしょう。ピリピ1:13.14にこのように書いてあります。「私がキリストのゆえに投獄されている、ということは、親衛隊の全員と、そのほかのすべての人にも明らかになり」。親衛隊とは、おそらくローマの兵士たちであり、彼らの中からも、主イエス・キリストを信じる人たちも起こされたのではないかと思います。彼らはパウロが牢獄に入らなければ決して福音を聞くチャンスが与えられず、また救われることもなかったでしょう。ですから、パウロが牢獄に入ったことも、益になったのであります。まさしく、ローマ8:28「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」であります。

牢獄で伝道した死刑囚の実話があります。韓国のある町で、36歳の男性が家族5人を殺害し、死刑宣告を受けました。クリスチャンの刑務官が彼に会うと、「人でも獣でもない存在が自分の中にいて、家族を殺害させた」と言うのです。刑務官は「これは悪霊に違いない」と思い、イエス様の御名によって悪霊を追い出す祈りをし、悪霊を恐れる彼に、イエス様の十字架について教えました。すると彼はイエス様を受け入れたのです。刑務官は聖書に悪霊を追い出す祈りを書いて、彼に渡しました。数日後、彼は悪霊に苦しめられ、牢獄にいた9人の前でのたうち回りました。しかし刑務官に聞いた祈りで振り絞るように言うと、その瞬間、悪霊は消えてしまったのです。するとそれを見ていた人たちが悪霊の激しさに恐れをなし、「救われるためにはどうしたらいいのか」と彼に聞いてきたのです。刑務官に教えられた通り伝えると、9人全員がイエス様を受け入れました。翌日の運動の時間には、それぞれがイエス様のことを伝え、多くの人が受け入れました。その後、聖書と讃美歌を欲しいと願った人は420にもなったのです。死刑執行の日。彼は絞首刑の階段を賛美しながら上って行きました。ロープがピンと張るその瞬間、足を痛めて杖をついていた刑務官に向かって、彼はこう叫びました。「イエスの力によって、早くいやされるように!」イエス様の十字架の愛と赦しを受けた彼は、すべての罪を洗い流され、キリストの愛を注ぐ人へと変えられたのです。アーメン。中国の話もあります。具体的にどこかは分かりませんが、公安によって捕らえられた牧師やクリスチャンが牢獄の中で取り調べを受けます。するとどうしても、自分がどうしてキリストを信じたのか証しなければなりません。「神なんか、いないんだ!」と迫害を受けます。でも、その中で祈り、感謝をしている姿を見て、共産党員がイエス様を信じるというケースがたくさんあるそうです。つまり、クリスチャンが牢獄に入ったことにより、その場所で、救われる人が起こるということです。まさしく、パウロを見張っていた、ローマの親衛隊もそうだったと思われます。

 でも、ここで不可解なのは、その次の節、ピリピ1:14です。「また兄弟たちの大多数は、私が投獄されたことにより、主にあって確信を与えられ、恐れることなく、ますます大胆に神のことばを語るようになりました。」普通ならば、キリストのゆえに投獄されたならば、恐れるはずです。「私も捕らえられたらどうしよう!」と思うからです。ローマ政府に逆らうような教えであるならば、それは危険です。もし、投獄でもされたら、仕事はもちろん、家族も失ってしまうかもしれません。でも、ピリピの人たちはパウロが投獄されたことにより、「主にあって確信を与えられ、恐れることなく、ますます大胆に神のことばを語るようになった」ということです。これは、一体どういうことでしょうか?まことに、解せない。しかし、いくつかの理由が考えられます。「私もパウロ先生のように投獄されるくらい、熱心に福音を伝えたい!」「私たちクリスチャンはこの世の者じゃないから迫害されるんだ。これで良いんだ!」「迫害がなんだ、死がなんだ!私たちは神の国と永遠の命が与えられているんだ!」・・・どれもこれもすばらしいと思います。でも、みなさんならどうでしょうか?もし、日本がヨハネの黙示録のように反キリスト化したらどうなるでしょうか?「キリストを信じる者を捕らえよ!」「額に666の刻印を受けない者は、売り買えできない」となったらどうするでしょうか?信仰よりも、生活を第一にしているクリスチャンは、ふるいにかけられ信仰を捨てるかもしれません。あるいは逆に、キリストの福音のために喜んでいのちを捨てるでしょうか?それはまるで、レフト・ビハンドの世界です。

 いろいろ考えられますが、私はこのように考えます。ピリピの教会は迫害の中で生まれた教会です。最初に伝道に来たパウロとシラスはどうだったでしょうか?使徒16章にありますが、何も悪いことをしていないのに、二人は役人たちに訴えられました。長官たちはろくに調べもしないまま、二人の着物をはいでむちで打つように命じました。まあ、何度もむちを打たれ、二人は牢獄にぶちこまれました。もう、傷がヒリヒリして眠ることもできません。二人は「俺たちは悪くない!」と、役人や長官たちを呪ったでしょうか?そうではありません。使徒16:25,26「真夜中ごろ、パウロとシラスが神に祈りつつ賛美の歌を歌っていると、ほかの囚人たちも聞き入っていた。ところが突然、大地震が起こって、獄舎の土台が揺れ動き、たちまちとびらが全部あいて、みなの鎖が解けてしまった。」それからどうなったでしょう?ローマの看守が二人に「救われるためには、何をしなければなりませんか」と聞きました。すると、看守は二人を家に招きいれ、主のことばを聞きました。そのことによって、看守とその家族がバプテスマを受けました。これらの一連の出来事は何を意味しているのでしょうか?ピリピの人たちは思ったことでしょう。「ああ、パウロ先生が牢獄に入っているのは、ピリピにいたときと同じような理由なんだろうなー。あの時は看守とその家族が救われたけど、こんどはローマの親衛隊が救われている。今度、神様はピリピの牢獄ではなく、ローマの土台を揺り動かしているに違いない!カイザルよりも、神様の方が偉大なんだ。ああ、我らも神様を賛美しながら福音を伝えよう」。そんなふうに思ったのではないでしょうか?

 あんまり、キリスト教を悲壮的に捕らえないで下さい。日本はキリシタンの歴史がありますので、そのように思いがちですが、実際は違うと思います。旧訳聖書のダニエル書には燃える炉の中に入れられた3人のヘブル人がいました。また、ライオンの穴に投げ込まれたダニエルもいます。彼らは泣いたり、叫んだりしていません。ただ、単純に神様を信頼していただけです。彼らも「もしかしたら死ぬかも」と、覚悟はしていたと思います。でも、神様は彼らを救い出してくださいました。そして、そのことにより王様が「あなたがたの神こそ、まことの神だ」と恐れ、礼拝しました。ダニエルの頃はバビロンというもっとも強大な国でした。そしてピリピ教会の頃は、ローマという最も強大な国でした。だから、私たちも地上の国家を恐れる必要はありません。イエス様がヨハネ17章で弟子たちにどうおっしゃったでしょうか?ヨハネ17:14-16「わたしは彼らにあなたのみことばを与えました。しかし、世は彼らを憎みました。わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものでないからです彼らをこの世から取り去ってくださるようにというのではなく、悪い者から守ってくださるようにお願いします。わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではありません。」アーメン。世の終わり、神からのまことの宗教か、この世の宗教か試されるときが来ます。世の終わり、反キリストの政府の迫害が起こるでしょう。そのときに、政府と組みして迫害を受けない宗教は偽モノです。しかし、信仰を捨てないで迫害を受ける宗教は本モノです。もし、私たちは彼らから憎まれ、迫害を受けるなら、私たちはこの世のものではない、神のものであるという証拠だということです。ハレルヤ!迫害を受けるくらい、キリストに熱心でありたいと思います。ここに、日本のクリスチャンに対して、問いかけがあります。「あなたは、自分の生活とキリストの福音、どちらを大切にしているでしょうか?」ヨハネ6:27にイエス様のことばあります。「なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい」。アーメン。

2.福音宣教の動機

 ピリピ1:15「人々の中にはねたみや争いをもってキリストを宣べ伝える者もいますが、善意をもってする者もいます。一方の人たちは愛をもってキリストを伝え、私が福音を弁証するために立てられていることを認めていますが、他の人たちは純真な動機からではなく、党派心をもって、キリストを宣べ伝えており、投獄されている私をさらに苦しめるつもりなのです。」これはピリピ教会のことなのか、それとも他の教会に起こっていることなのでしょうか?福音を宣べ伝えること自体は、すばらしいことなのですが、その動機が問題にされています。心の動機というものは、隠れていますので分かりません。表面からだけ見たら、キリストの福音を宣べ伝えているのだからとても良く見えます。しかし、心の中はどうでしょうか?口では「神様や人のため」と言いながら、自分の利益や目的を達成したいという不純な動機で宣べ伝えているのかもしれません。この箇所を見ると、2種類に分けることができます。週報にも書いてありますが、不純な動機とはどんなものでしょうか?15節に「ねたみや争いをもってキリストを宣べ伝える」と書いてあります。17節には「党派心をもって、キリストを宣べ伝えており」とあります。さらに、18節には「見せかけで、キリストが宣べつたえられている」とあります。ねたみや争い、党派心、見せかけで、福音宣教が果たしてできるのでしょうか?おそらくはこういうことだと思います。

私が座間キリスト教会でスタッフの頃、副牧師や他のスタッフと張り合ったことがあります。大川先生が「一年間で一人も導けないようでは困る」みたいなことを言ったからです。当時の京子さんはご婦人たちを導いていました。私は「彼女は私よりも時間があるからなー」と思いました。また、副牧師がジュニアの洗礼準備会をしていたとき、私は「日曜学校から上がってきたんだから楽だよなー」と思いました。私は必死に日曜日の礼拝に来られた方々と接するのですが、なかなかうまくいきません。伝道と言いながら、心の中でライバル心がありました。では、教会の牧師になってからではどうでしょうか?2、30年前は「教会成長」という言葉が一斉を風靡していました。「教会は大きくなければ、神様の祝福が本当にあるとは言えない」ぐらいまで思っていました。受洗者が大ぜい与えられるのは嬉しいことなのですが、同じ日本基督教団内ではそうでない教会もたくさんあります。すると、「果たして信仰があるのかなー」と批判する気持ちがどこかにありました。しかし、上を見たらきりがありません。アメリカや韓国を見ると比べものにならないので、がっかりします。つまり、不純な動機というのは神様のためと言っておきながら、自己目的の達成、「この業界で偉くなりたい」という野心みたいなものがあったのではないかと思います。奉仕に携わっている兄姉で、教会が大きくなって喜ぶのは、牧師と他数名の役員さんくらいではないでしょうか?多くの人たちは、「教会が大きくなると交わりが薄くなるから、嫌だ」と思っているかもしれません。どうでしょうか?奉仕に携わっている兄姉の中で、不純な動機というか、肉的な思いでやっている人たちはいないでしょうか?パウロが言うように、ねたみや争い、党派心、見せかけで伝道している人たちはいないでしょうか?これは、本当に心がさぐられる問題です。やっていることは正しくても、神様は私たちの動機をごらんになられます。この世でダメだったので、せめてキリスト教会では、名を上げたい。この世界で権力を持ちたいとするならどうでしょうか?もし、動機が不純であるならば、途中までは良くても、最後は破滅です。Ⅰコリント3章には、「もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現われ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです」と書いてあります。できれば、私たちの奉仕が、草やわらでないことを願います。

では、純粋な動機でキリストを宣べ伝えるとはどうことでしょうか?それは、「善意をもって」「愛をもって」「真実をもって」キリストを伝えるということです。まことに、アーメンであります。でも、私たちは熱心なあまり、押し付けになったり、お説教になったりする場合が多々あります。それは善意であり、愛であり、真実であると思いますが、あるときは誤解を招くときがあります。クリスチャン10年くらいたって、「知恵とか、忍耐、へりくだりが必要なんだなー」と分かってきます。でも、その頃になりますと、熱心さとか情熱がなくなるのも確かです。私たちは情熱を保ちながら、純粋な動機でキリストを宣べ伝えたいと思います。それでも、私たちクリスチャンというか、教会には大きな問題が立ちはだかっています。マルコ16章には「全世界へ出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい」とあります。マタイ28章には「行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい」とあります。これらは、教会に与えられた大宣教命令で有名です。しかし、聖書全体で言われている、神様からの大きな戒めというものがあります。第一の戒めは、「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」です。第二の戒めは「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」であります。つまり、神様を愛することと隣人を愛することが、聖書を一貫しての戒めなのですが、大宣教命令とどういう関係があるか?ということです。私たちは大宣教命を守ろうとして熱心に伝道しても、この愛がなくてやっている場合はないでしょうか?「その人が教会に来るなら、愛します」あるいは、「その人がイエス様を信じるなら愛します」という動機が心の中にあるならばどうでしょうか?つまり、救われる可能性のある人は愛するけれど、「福音を伝えてもだめだなー」という人は愛さない。こういうのはどうでしょうか?

大宣教命令と聖書の愛の戒め、果たしてどちらが大切なのでしょうか?この両者の関係というのはどのような関係なのでしょうか?私は伝道よりも、愛のほうが基本であり、土台ではないかと思います。伝道しなくて良いということではありません。私たちは、隣人がイエス様に興味があろうとなかろうと、愛する必要があります。たとえ、「私はそんなの信じませんよ」と相手が言ったとしても、です。なぜなら、神様の愛は無条件の愛だからです。「信じるなら愛する」というのは、本当の愛ではありません。じゃ、キリスト様を宣べ伝えなくて良いのでしょうか?もちろん、伝えなければいけません。でも、その動機は何でしょうか?「愛する人が、滅んでしまうことがないように、何とかイエス様を信じて欲しい」これが、私たちの真実な気持ちであり、愛の表れです。そのために、その人が何とか心を開いてくれるように、祈りつつ、愛して仕えていく。こういう重荷を私たちは隣人に対して持つしかありません。でも、神様の愛とその人が救われることは矛盾していません。神様はその人を愛しているからこそ、イエス様を信じて、永遠の命を得てもらいたいと願っているのです。聖書には、そのことに対して、はっきりとした神様のみこころが示されています。1つは、Ⅰテモテ2:4です。「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます」。もう1箇所は、Ⅱペテロ3:8,9です。「しかし、愛する人たち。あなたがたは、この一事を見落としてはいけません。すなわち、主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」アーメン。

世の終わりがせまっていますが、神様は、なんとか一人でも多くの人が、御国に入るように、忍耐して待っておられるのです。今、まもなく門が閉まろうとしています。しかし、校門の扉を開けて待ってくれている先生のように、神様が間に入っている状態です。私たちはこの神様の愛を覚えながら、「何とか一人でも多くの人がイエス様を信じて救われるように」と伝道するのです。ですから、福音宣教と愛とは矛盾していません。最後に、使徒パウロはこう述べています。「見せかけであろうとも、真実であろうとも、あらゆるしかたで、キリストが宣べ伝えられているのであって、このことを私は喜んでいます。そうです、今からも喜ぶことでしょう」。動機が純粋であろうとなかろうと、キリストが宣べ伝えられているのなら私は喜ぶと言っています。父なる神様もおそらく同じ気持ちでしょう。できれば、私たちは神様の愛を土台としならが、私たちの隣人が救われるように願いつつ、キリストを宣べ伝えていきたいと思います。

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