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2009年3月22日 (日)

一致を保つ        ピリピ2:1-5

 もう今週中、桜が咲くのでしょうか?それとも来週でしょうか?日本で一番美しいのは、この桜が咲くシーズンではないかと思います。先日の金曜日は結婚式もあり、大賑わいでした。130名以上来られていました。ある方が、「先生、礼拝もこのくらい来たら、泣いて喜ぶんじゃないですか?」と言いました。「ま、泣くほどじゃないけど、嬉しいことは嬉しいだろうね」と答えておきました。いつかそのようになると信じます。きょうも、ピリピ人への手紙から共に学びたいと思います。2章1節の「そういうわけで」とは、前の1:27-30の内容をさしていることばです。パウロは、「福音宣教のため一緒に戦っているので、一致を保ち○○」と2章から勧めています。

1.一致の勧め

 パウロがピリピの人たちに、勧めていることは、2章2節からの内容です。「私の喜びが満たされるように、あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。」一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにするということは、生まれながらの人間ができることではありません。政治や企業、音楽や芸能などの世界では、分裂や分派、仲たがい、争いがたえません。では、キリスト教会ではどうか?恥ずかしながら、キリスト教会も分裂と争いの歴史であります。血で血を洗うような宗教戦争もありました。一見、パウロが言っていることは、実行不可能のような教えにも思えます。この世ばかりではなく、このキリスト教会において一体何が足りないのでしょうか?何が足りないので、一致できずに、仲たがいし、争っているのでしょうか?それは、2章1節の内容です。パウロは、「もしキリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら」と言っています。つまり、「もしキリストにある励まし、キリストにある愛の慰め、キリストにある御霊の交わり、キリストにある愛情とあわれみという基盤あるならば、2節以降のことが可能なのですよ」と言っているのです。問題は何を基盤にしているかであります。ヒューマニズムやイディオロギーで、一致することはとても不可能です。

 私はキリスト教とか宗教という用語はあまり使いたくありません。しかし、あえて使うならば、キリスト教は道徳や倫理ではありません。キリスト教はいわば生まれ変わりの宗教、奇跡の宗教であります。私たちが良い行ないやきよい生活をする前に、生まれ変わる必要があります。ヨハネ3章に言われているように、私たちがイエス様を救い主として信じるならば、御霊によって私たちは生まれ変わります。それまで死んでいた霊が目覚め、神様と交わるスイッチが入ります。それは、パソコンが起動したようなものです。突然、その人に与えられた神様のプログラムが開かれます。「ああ、私はこのために生きるんだ!」と人生の目的が与えられます。そして、さまざまな霊的能力が目覚め、そして何が良いことで、何が悪いことなのかという良心が目覚めます。そして、だんだんと神様の品性が身についていくわけです。なぜ、コンタンティヌスから始まった国教会に分裂や争いが絶えなかったか?それは生まれ変わっていない人たちがたくさん、信者となっていたからだという説があります。彼らは「おぎゃー」と誕生したら幼児洗礼を授けられ、回心しないまま、教会員となったのであります。そのためバプテスト教会は信じたものが洗礼を受けるべきだと主張したのであります。当然、といえば当然であります。でも、イエス様を信じたら、直ちに神の品性が与えられるかというとそうではありません。クリスチャンと言えども、生まれつきの人間性、つまり肉が隙あらば頭をもたげて、「頬を打たれたら打ち返す」「売り言葉に買い言葉」「呪われたら呪い返す」ということになるでしょう。

 では、どうしたら良いのでしょうか?2章の1節以降の「もしキリストにあって○○があるならば」というところに答えがあります。英国の聖書は、「キリストにあって」は、in Christ yields となっています。Yieldとは「作物や製品などを産する、産出」という意味です。ガラテヤ書5章の御霊の実であります。御霊によって結ばれるキリストの品性とは、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制と書いてあります。でも、Yieldのもう1つの意味は、明け渡す、譲る、屈服する、従うという意味もあります。つまり、「もし生まれ変わったクリスチャンが、キリストに明け渡していくならば…」となります。みなさん、キリスト様に自我を明け渡し、譲っているでしょうか?そして、キリスト様に明け渡すことによって与えられる励まし、愛の慰め、御霊の交わり、愛情とあわれみを体験することによって、はじめて一致とか謙遜を持つことができるのです。私たちの生まれつきの性質は自己中心で、虚栄心そのものなのであります。でも、キリスト様に屈服し、キリスト様がくださる励ましや愛の慰め、御霊の交わり、愛情とあわれみを充分いただく。するとだんだんと熟成されて神様の品性がにじみ出てくる。つまりキリストにある熟成が大事なのであります。「熟成」という言葉が、CMでよく聞かれます。ウェブには「熟成とは、様々な外的環境(温度、湿度、時間、空間等)により仕込んだものがさらに旨味を増し使える(飲める、食べる)状態になることを指します」と書いてありました。ですから、私たちは継続的にキリストにyield(屈服し、明け渡し、譲る)ことによって、これらの品性が私たちの心の中に熟成されていくのであります。

 神様は私たちの内側に、キリストの品性が熟成されるように、様々な外的環境をとおして、仕込んでくださる。私たちはそれを、{こんなものはいらん!」と跳ね返すこともできます。しかし、「これが神様からのものだったら従います」とキリストに屈服し、明け渡す。そのことが重要なのであります。どうぞ、そのことによって得られる、キリストの励まし、愛の慰め、御霊の交わり、愛情とあわれみを体験しましょう。イエス様からの励ましをいただいた者がはじめて、他者を励ますことができます。イエス様からの愛情とあわれみをいただいた者がはじめて、他者に愛情とあわれみをもって接することができます。私などは家庭や学校であまりいただいたことがないので、クリスチャンになってからはじめて「そういうものがあったんだ!」と気づきました。しかし、育ちが悪かったり、受けた心の傷が、恵みを受けるさまたげにもなっていました。私は試練に会うたびに、「ああ、イエス様、あなたに従います」と明け渡してきました。はじめは荒削りの状態で牧師になりましたが、様々な外的環境と内的葛藤を経て、熟成の過程に入ろうとしています。熟成することは天国かなーと思います。この世では人と会うのが嫌で、できるだけ人間関係を持たない職業を選ぶ方がいらっしゃいます。また、教会に来て、人と交わるのが嫌だという人がいるかもしれません。でも、教会というところは神様を信じるだけではなく、救われた者どうしが交わり、1つになって神様に、そして人々に仕えていくことを学ぶところです。私たちは人間関係で傷を受けてきたかもしれませんが、その傷を癒すのはやはり、人間関係しかないのです。キリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみを受け、その後、一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにすることを学ぶのです。そうしますと、生きる喜びや幸いが与えられます。人間は、人間関係がうまくいって、幸せになるように造られているのです。神様はその幸いを体験できるように、地上に教会を与えてくださったのです。

2.謙遜と思いやりの勧め

ピリピ2:3-5「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。」一口に、言って、3-5節までは謙遜と思いやりについて教えられています。そして、その基盤となるものは6節から11節までの内容、キリストが空しくなられたということです。6節以降は来週学びたいと思います。きょうは5節までであります。本当は連続して学ぶと、流れが分かって、とても恵まれるのですが、30分では限界があります。ケズィック・コンベンションというのが、毎年、ホテル小湧園で開かれます。昔、ポーロ・リースという人が、このピリピ人への手紙から連続してお話したことがあります。連続して話すことをバイブルリーディングと言います。温泉に入って、ポカポカしていますので、思わずこっくりこっくりしてしまいます。でも、下界から離れ、3日くらいみことば漬けになると良いものであります。ところで、使徒パウロは1章において、「やたみや争い、党派心からでもキリストが宣べ伝えられているなら、私は喜ぶ」と言いました。でも、どうでしょうか、2節では「私の喜びが満たされるように」、このようにしてもらいたいんだと願っています。それが3節から5節の内容「謙遜と思いやり」であります。

この世では謙遜とか思いやりは忘れられ、傲慢で他人を見下すことが当たり前になっています。国の省が地方の行政を、雇用者が被雇用者を、教師が生徒を、刑務官が受刑者を、聖職者が信徒を見下す傾向にあります。全部が全部とは言いませんが、どうしても権威とか権力を持つと、そうなりがちです。私も二年四ヶ月間、郵便事業でアルバイトをして、謙遜と思いやりがいかに大切か知りました。アルバイトというのはどうしても身分が低いですから、職員の対応の仕方も色々です。無愛想な人、高飛車な人、口だけの人が多いのですが、中には親切で腰の低い人もいらっしゃいます。同じ秋田出身の遠藤課長代理という方がいますが、この人が一番、私たちに良くしてくださいます。遠藤さんは謙遜で思いやりがあります。私は遠藤さんに「あなたは郵便局の鑑です!」とよくほめるんです。だから、私たちは「遠藤さんが言うことだったら、何でも喜んでやります」みたいなところがあります。私はつくづく思いました。「謙遜と思いやり」は、ギスギズしがちな世の中の人間関係の潤滑油のようなものです。自分の権利や立場だけを主張し、相手のことを考えないならば、ストレスがたまってきます。やがてそれが爆発すると、人間関係を壊してしまいます。この世の多くの人たちは、怒りをためて、どこかにそれを吐き出したいと願っているのかもしれません。不当な扱いをする人がいたならば、「待っていました」とばかり、自分の怒りをそこにぶつける。そういうことが日常茶飯事に行なわれているのではないでしょうか?使徒パウロは、まず、私たちクリスチャンが率先して、「謙遜と思いやり」を身につけるように勧めています。朝5時半くらいに始まる、カトリックのラジオ番組「心のともしび」があります。ベートーベンの田園をバックに、アナウンサーが「暗いと不平を言うよりも、すすんで灯りをつけましょう」と言います。世の中の暗さを批判するのではなく、「謙遜と思いやり」というともしびを付けていく。それは父なる神様が喜ばれる道ではないでしょうか?

主イエス・キリストはまさしく、「謙遜と思いやり」の道を歩まれたお方です。当時の宗教界の指導者、パリサイ人や律法学者たちは、収税人や罪人と一緒に食事をしませんでした。彼らの家に入ることもしませんでした。しかし、イエス様は収税人マタイの家に招かれ、彼らと一緒に食事をしました。あとから人々はイエス様に対して何と言ったでしょう?「あれ見よ。食いしんぼうの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ」(マタイ11:19)と批判しました。でも、考えてみると、イエス様は、この世から見下されている人たちと好んで、親しく交われたのです。あるときは、収税人ザアカイの家に泊まりました。そのときも人々は、「あの方は罪人のところに行って客となられた」とつぶやきました。またあるときは、ある女性と会うために、わざわざサマリヤの町を通られました。彼女は人目を避けて、昼間、水を汲みにしました。イエス様は彼女に「私に水をください」とお声をかけまれました。しかし、彼女の素性は大変なもので、夫を5人替え、今6人目と同棲していました。イエス様は全部そのことを知っておられました。彼女は「私はメシアに出会った」と、水がめをそこに置いて、町へ行き人々に伝えました。また、イエス様は12人の弟子たちをご自分のそばに置いて訓練しました。彼らは本当に個性的な人たちで、「よくこんな人たちが一緒に行動できたなー」と不思議に思います。多血質で自己主張の強いペテロ、怒りっぽいヤコブとヨハネ、憂鬱質でうたぐり深いトマス、ローマを転覆させようと考えていた熱心党のシモン、ローマにへつらい銭もうけしていたマタイ、気の良いアンデレ、現実主義者のピリポ、おとなしくて真面目なナタナエル、都会肌でエリートだけどイエス様を裏切るイスカリオテ・ユダ…。彼らはイエス様のもとにいて、一致と謙遜と思いやりを学びながら、「教会はこのようにあるべきなんだろうなー」ということを思い描くことができたのではないでしょうか。

「心のともしび」のホームページに「喜びの聖人、フランチェスコ」のムービーがあり、25分×3で、75分間ものを観てしまいました。フランチェスコは今から800年くらい前の人で、「イエス様に最も近い人物ではなかったか」と言われています。フランチェスコの生き方の中に、一致と謙遜と思いやりを持つための大事な秘訣があることを発見しました。フランチェスコは小鳥や動物、植物さえも神が創造された兄弟姉妹と呼びました。グビオという町に大きな狼が出没し、家畜ばかりか人間を襲いました。町の人たちは狼を殺すことに決めました。それを聞いたフランチェスコは「殺すのは、考え直してください」と狼に会いに行きました。初め、狼はフランチェスコに飛びかかろうとしました。が、フランチェスコは優しい声で「兄弟の狼よ、ここに来なさい」と言うとおとなしくなりました。「これから、家畜や人々を襲うのをやめると約束するならば、町の人たちは毎日、あなたに食べ物を与えるでしょう」と言いました。狼は子羊のように優しくなり、フランチェスコの後に従いました。グビオの人たちは喜びの声を上げて神様をほめたたえました。その時から、町の人たちは毎日、狼に食べ物を与え、狼は町の人たちのペットになりました。狼が年を取って死んだときは、グビオの人たちは皆、悲しんだということです。それから、フランチェスコのもとに「私を弟子にしてくれ」と若者たちが集まり、それが12人になりました。フランチェスコは彼らに「あなたがたは私の弟子ではなく、兄弟です」と共同生活しました。その数がイタリアだけではなく、近隣諸国にも増え、やがて5000人に達しました。

フランチェスコが強調したものの中に、現代の教会が忘れかけているいくつかの点があります。まず、彼が強調したのは貧困です。彼は「私は貧困と結婚した」と言いました。今、新車を買おうかどうか迷っているときに、貧困であります。でも、新車はあれば良いですが、なければなくてもなんとかなるわけです。2つ目は、悔い改めであります。「ああ、私は傲慢だった」とか「不親切だった」ということを絶えず悔い改めるということです。3つ目は、黙想であります。カトリック教会の場合は日常生活を断って、しばらくの間、黙想します。そして、聖書をそのまま単純に、実行するのであります。現代はテレビとかゲーム、パソコン、様々な機器が私たちの周りにありますので、黙想するということがなかなか困難です。プロテスタント教会では「静思の時とか、ディボーション」などと言いますが、やっぱり、神様と静かに交わる時が必要であります。4つ目は、本当の兄弟姉妹の関係であります。私たちの教会でも、いちおう、兄弟姉妹の関係なのですが、何かサークルとかカルチャースクール的なところがあります。好きな人とか、苦手な人というふうに分けているとしたらこの世と同じであります。もちろん人間ですから、合う、合わない人がいます。でも、私たちは二重の意味で兄弟姉妹なのです。私たちは、私たちを創造された父なる神様を仰いでいます。また、私たちを滅びから贖ってくださった主イエス・キリストを信じています。私たちの関係はこの地上だけの関係ではなく、天国に行ってからも永遠に続くのであります。私たちは日本人ですから本音と建前の中で生きています。でも、教会は運命共同体として、もう一歩踏み込み、イエス・キリストを媒介にした、聖徒の交わりなのであります。

パウロは「へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい」と言いました。このことは自分よりも年が上だとか下、あるいは自分よりも能力があるとかないということとは関係がありません。この世の中は、さらに地位とか立場、経験のあるないが上下関係を決めるでしょう。神のご支配のある教会ではそういう価値観であってはなりません。どうしたら、「へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思う」ことができるのか?それはさきほども言いましたが、神様がその人を創造されたからです。「私の目には、あなたは高価で尊い」というのは、自分のことだけではなく、その人のためにも与えられた約束なのです。また、父なる神様は一人ひとりにその人しかない、固有の賜物を与えておられます。それはまだ教育を受けていない、幼い子どもの中にも見られるものです。私も子どもを育てていて、あっと驚かされることがよくあります。「これは私が与えたものではなく、神様がお与えになられたものだ」と驚嘆します。もう1つの理由は、その人もイエス様が、愛し、ご自分の尊い血をもって贖われた存在だからです。自分もあの汚れた醜い罪から贖われたのです。その人をキリストの贖いを通して見るならば、愛すべき尊い存在なのです。私たちは律法とかこの世の価値観の色メガネをはずして、神のくださる創造と贖いのメガネをかけて見るべきであります。

最後に、聖フランチェスコが祈った、「平和の祈り」を紹介して終わりたいと思います。

ああ主よ、わたしをあなたの平和の道具にしてください。
憎しみのあるところに、愛をもたらすことができますように。
争いのあるところにゆるしを、
分裂のあるところに一致を、
疑いのあるところに信仰を、
誤りのあるところに真理を、
絶望のあるところに希望を、
悲しみのあるところに喜びを、
闇のあるところに光をもたらすことができますように。
ああ主よ、わたしに、
慰められるよりも、慰めることを、
理解されるよりも、理解することを、
愛されるよりも、愛することを求めさせてください。
わたしたちは与えるので受け、
ゆるすのでゆるされ、
自分自身を捨てることによって、永遠の命に生きるからです。
                        アーメン

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