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2009年3月15日 (日)

福音にふさわしい生活      ピリピ1:27-30

 「キリストの福音にふさわしい生活」って何だろうといろいろ考え、悩みました。新約聖書はギリシャ語で書かれていますが、とてもすばらしいことが書かれていました。「ふさわしい生活をする」は、ギリシャ語でポリテュウオーであり、「市民として生活する」という意味です。また、この言葉が変化したものが、国籍であります。ピリピ3:20には、「私たちの国籍は天にあります」という有名なみことばがあります。つまり、「キリストの福音にふさわしい生活」とは、「御国の民として生きる」という意味になります。私的にはとても感動したのであります。その後、なんとはなしに、聖書の欄外を見てみました。とても小さい文字でこのように書かれていました。27節、別訳「御国の民の生活をしてください」とありました。「わー、あっていた」とさらに感動しました。きょうは、私たちは御国の民としてどのように生きるべきなのか、3つのポイントで学びたいと思います。

1.御国の民の特徴

 御国の民とはどういう特徴があるのでしょうか?当時、ピリピの町は、ローマ支配のもとにありました。聖書辞典には、「ピリピはエーゲ海を南に望む、マケドニヤの主要都市で、大量の金を産出する金鉱があり、また、軍事的にも通商的にも重要な位置を占めていた」と書いてありました。ピリピの人たちはローマ市民権を持っていました。ですから、御国の市民権に伴う特権と義務をよく理解できたと思います。日本の市民権、国籍って、あまりたいしたことがないと思うかもしれませんが、中国やフィリピンの方は、大変これを欲しがるようであります。アメリカによく行く人であれば、「アメリカの市民権を持ちたいなー」と思うかもしれません。その国の市民権があると、税金を納め、法律を守る義務、教育を受ける義務等があります。でも、また保障もあります。人権や生活が保障されます。警察や消防もいざという時は、助かります。国民保険に入っていなければ、医療が高くつきます。うちは子どもが4人なので、教育費や医療費の補助を受けることができました。わが国では、就職や住宅、老後の課題がかなりあるようですが、全く保証がないよりはましです。ソマリアという国は無政府状態です。彼らのある人たちは海賊をなりわいにしているようです。無政府状態と比べたら、日本はずっとずっとましであります。

 みなさん、私たちはこの地上にありながら、天国の市民権を持っている、御国の民なのであります。このことをどうぞお忘れなく。献金は税金とちょっと似ていますが、そうではありません。日曜日、教会に来ることは義務でしょうか?献金や礼拝は義務ではなく、特権であります。私たちはイエス様を信じたおかげで、罪赦され、滅びの国から、永遠の命の国に移されました。いくらすばらしい豪華客船に乗っていても、この先、沈むならどうでしょう。すばらしい音楽を聴きながら踊っても、ワインを飲んでも仕方がありません。タイタニックではありませんが、船を乗換えないとその先は死です。しかし、クリスチャンは天国行きの安全な船に乗り換えたのです。天国には私たちの住まいが用意されています。ハレルヤ!それだけではありません。天国の市民になりますと、父なる神様がこの地上においても、あらゆる必要や、守り、助けを与えてくださいます。イエス様は「あなたがたは空の鳥よりも、野の花よりもすぐれたものです。天の父があなたがたによくしてくださらないわけがありましょうか。天の父は、それがみんなあなたがたに必要であることをご存知です」と言われました。日本人の多くは、天地万物を創造し、今も保持しておられる天の父を知りません。だから、経済大国と言われながらも、汲々としているのです。日本よりも経済的に貧しい南米の人たちや東南アジアの人たちが、よっぽど毎日をエンジョイしています。日本人は物があっても物足りない、いくら食べても満足しない。それは、天の父を持っていないからです。どことは言いませんが、大きなお家があり、以前、空き巣に入られたことがあります。そのお家は、夜中じゅう赤々と電気をつけています。私などは盗られるものがないので、安心して寝ています。父なる神様が御使いを遣わして、我が家を守っておられます。子どもたち一人ひとりを守っておられると信じています。

 詩篇127篇は、勤勉と言われる日本人にもっとも必要なみことばであろうと思います。詩篇127篇「主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい。あなたがたが早く起きるのも、おそく休むのも、辛苦の糧を食べるのも、それはむなしい。主はその愛する者には、眠っている間に、このように備えてくださる。見よ。子どもたちは主の賜物、胎の実は報酬である」。アーメン。日本には鬱とか、不安神経症の方がとても多いと聞きます。それで、夜も眠れない人がかなりおられると思います。「主の守りを体験したらいかがでしょうか」と言いたいです。「このままだと、明日、食べるものがないかもしれない。老後はどうなってしまうのだろう」。でも、御国の民は、安らかに眠ることができます。なぜなら、「主はその愛する者には、眠っている間に、このように備えてくださる」とあるからです。牧師の務めは何でしょう。「日曜日以外何をしているんだろう」とご不満もあるかもしれません。牧師の務めは、みなさん一人ひとりが、信仰によって天の父と親しく結ばれることを助けることです。

御国の民であるみなさんにはイエスの御名によって求める権利があります。ヨハネ14:14「 あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう。」とあります。メル・ボンド先生が日本に来られたとき、このように解説しておられました。「私はそれをしましょう」とは、「私の名によって求めなさい。もし、それが現実になかったならば、私がないところから造ってあなたにあげましょう」という意味だということです。メル・ボンド師はかつて、おんぼろの車に乗っていました。ドアが壊れていて番線でくくりつけておきました。そのため、乗り降りは、窓からしていたそうです。あるとき、天の父に言いました。「天の父よ、マフィアでもこんな車、乗っていませんよ。私は神の子どもですよ、マフィアよりもすばらしい車に乗るのが当然でしょう」。そして、ディラーに行って、お金がないのに、青のビュイックに乗って帰って来たそうです。またあるときは、1ドル銀貨しかないのに、広い土地の一番良いところを購入し、神学校を建てました。持ち主は死ぬ前に、その1ドル銀貨を返してくれたそうです。みなさん、現実から物ごとを推測するのはやめましょう。御国の民は、天の父がいらっしゃること、また、イエス様の御名によって求めるなら何でも与えられるという信仰の法則を用いましょう。ヨハネ16:24「あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。」すんなり、与えられるときもありますが、なかなかそうでないときもあります。ストレートではなく、紆余曲折することもあるでしょう。なぜでしょう?なぜ簡単に与えられないときがあるのでしょう。それは、天の父が私たちを訓練し、私たちの信仰を強めるためであります。忍耐力とか、煉られた品性を与えるためであります。でも、最後には与えてくれます。私たちは主イエスの御名と言う、神の国の権利と権威という、切り札を与えられていることを忘れないようにしましょう。

2.御国の民の目標

 ピリピ1:27節の後半は「あなたがたは霊を一つにしてしっかりと立ち、心を一つにして福音の信仰のために、ともに奮闘しており・・・」と書いてあります。この箇所はリビングバイブルがわかりやすいので、引用したいと思います。「つまり、あなたがたが、キリスト様の良い知らせを宣べ伝えるという、1つの目標に向かって、しっかりと協力しており」。アーメン。つまり、ピリピの教会の人たちにとって、霊と心を一つにして、福音を宣べ伝えることが、共通の目標であるということです。私たちは生まれや育ち、性格や好み、考え方も違いますので、一致するということがなかなかできません。でも、クリスチャンであるならば、必ず一致できることがあります。どんな点でしょうか?そのことはエペソ4章の前半に書いてあります。「平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。からだは一つ、御霊は一つです。・・・主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つです。すべてのものの上にあり・・・すべてのものの父なる神は一つです。」不思議なことに、このところでパウロは、「あなたがたは一致しなさい」とは言っていません。「御霊の一致を熱心に保ちなさい」と述べています。つまり、クリスチャンというのは、すべて聖霊によって新しく生まれた存在だということです。私たち一人ひとりに御霊が宿り、御霊がその人を生かしているということです。肉、つまり生まれつきの好みとか考えでは一致できません。この世において、ヒューマニズムやイデオロギーでは一致は不可能なことは証明されています。私たちはそういう一致ではなく、御霊が与えた一致がすでにあるのです。一致を新たに作り出す必要はありません。聖霊によって与えられた一致を熱心に保つだけなのです。

 御国の民である私たちには共通した目標があります。リビングバイブルにあるように「キリスト様の良い知らせを宣べ伝えるという、1つの目標に向かって、しっかりと協力する」ということです。前回もお話しましたが、父なる神様の一番の願いは、一人でも多くの人が、滅びから救われて、御国に入るということです。ノアは何百年もかけて大きな箱舟を作りました。大雨がまもなく降るから箱舟ができたら、乗るようにと仕事の合い間をみつけて人々に伝えました。ところがそのときがやってきました。巨大な大いなる水の源が、ことごとく張り裂け、天の水門が開かれました。そして、大雨は四十日四十夜降り続け、陸地が見えなくなりました。なんと箱舟に入ったのはノアを含めてたった8人の家族だけでした。船のつくりが、八口と書くのはそのためだようです。それから何千年か後、「ノアの時代生きていた人はどうなったんだろう?みんな滅びてしまったのか?」という疑問が起こりました。Ⅰペテロ3章後半に、そのことが書いてあります。ペテロは、「キリストが死んで、その霊において捕らわれの霊たちのところへ行って、みことばを語られたのです。昔、ノアの時代に、箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたときに、従わなかった霊たちのことです」と言いました。つまり、父なる神様はキリストを彼らのところに遣わして、福音を宣べ伝えさせたということです。ある人たちは、「だから、死後もチャンスはあるのだ」と主張します。私はこのところは、そういうことを言っているのではなく、「父なる神様は、人々が罪の中で滅んで行くのをなんとか助け出したいと願っている」ということを強調しているのだと思います。

 一般的に、牧師は教会を大きくしたい、大ぜいの人が教会に集まるようにと願います。私もそのうちのひとりです。でも、そういう考えは自分の教会さえ良ければというエゴイズムに走る可能性があります。そうではなく、父なる神様は御国が拡大することを願っておられるのです。イエス様は天国のたとえをたびたび話されました。粉の中にパン種を入れると、あとから膨らみます。天国が、パンのように大ぜいの人々を収容できるように、膨らんでいるということです。また、イエス様は「小さなからし種が、生長すると、空の鳥が来て、その枝に巣を作るほど大きくなる」と言われました。天国は、最初は、本当に小さな群でした。イエス様と10名足らずの弟子たちしかいなかったのです。まもなく、収税人や遊女、罪人らが我先にと押し入りました。それから招かれていたイスラエルの民ではなく、招かれていなかった異邦人が入るようになりました。今は異邦人のときです。やがて、大迫害とともにユダヤ人のときがやってくるでしょう。残念ながら日本人の数がものすごく少ないということです。神様は日本人の席をたくさん用意しています。でも、世の終わり間近になると、その予約席が自由席になり、他の国の人たちがそこに座るかもしれません。講演会とかコンサートでは、招待席が取ってあります。でも、その人たちが定刻まで着席しないと、オープンになるのと同じです。機用な人はパンフレットとかハンカチを置いて、席を取っている人もいます。「ああ、これはお母さんの分、お父さんの分、友達の分、夫の分・・・」とか・・・。でも、みなさん、あまり時がないことは確かです。

 父なる神様はイエス・キリストを十字架に与えたので、罪の贖いは完成しました。あとは、良い知らせを聞いて、キリストを信じるだけです。私たち教会は、この良い知らせ、福音を伝えるために存在しているのです。日本は4種類の土地のうち、「石地の土地」であるとよく言われます。人々の心の中に、偏見と無知の石ころがたくさんあるからです。鍬を降ろして耕そうとしても、カキーンと跳ね返ってきます。どうしたら良いでしょうか?そうです。根気よく、偏見と無知の石ころを取り除いていくしかありません。その後、福音の種をまくのです。荒地を耕し、福音の種を蒔き続けましょう。詩篇126:5「涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう」。

3.御国の民の戦い

 ピリピ1:29-30を再び、リビングバイブルから引用いたします。「あなたがたは、ただキリスト様を信じるたけでなく、キリスト様のために苦しむという特権を与えられているのです。私たちは、共に戦っているのです。あなた方は、先にキリスト様のために苦しんでいる私を見ました。そして、今なお、激しく大きな戦いの真っただ中にいる私のことを、よく知っているはずです」。使徒パウロは、かつてピリピにおいて捕らえられ、鞭打たれました。福音を宣べ伝え、ミニストリーをしただけなのに、です。今、パウロはローマにおいても捕らえられ、裁判にかけられようとしています。何故、私たちは迫害を受けるのでしょうか?「いや、私はちっとも迫害を受けていません。気持ち良いですよ!」という人が、もしかしたらいるかもしれません。はっきり言わせてもらいますが、その人は福音とかイエス・キリストのことを言わないで隠しているからです。もし、私たちがキリストの福音を伝えたならば、必ずと言って良いほど、波風が立ちます。また、私たちが神の国のおきてに従うとするなら、「みんなに合わせなければならない」とか、「郷に入らば、郷に従え」みたいに非難されるかもしれません。Ⅰテモテ3:12「確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます」とあります。イエスの御名を掲げ、きよい生活をするならば、「この世」からどうしても抵抗を受けるということです。

 みなさん、聖書では「この世」とは、神と敵対している国のことを言います。人々はまことの神から離れて、思い思いの生活をしています。そして、彼らの背後には悪魔(サタン)がいます。彼らも神を礼拝しているとは言いますが、すべてが偶像でありサタンと結びつくものです。さらに悪魔は彼らの思いをくらまして、福音の光が輝かないようにしています。でも、2000年前、光なるイエス様がやって来られました。イエス様はこの世からすれば、敵であり侵入者です。しかし、イエス様はこの世から人々が救われるために、御国の福音を宣べ伝え、御国に人々が入れるように、十字架であがないを成し遂げられました。みなさん、親分であるイエス様がこの世から憎まれ迫害を受けたのですから、子分である私たちが迫害を受けるのは当然ではないでしょうか?でも、イエス様は、私たちの追うべき十字架は重くはない、イージーである(楽だよ)と言われました。

神戸に井上眞一牧師がおられますが、そのお母さんの井上孝子姉妹が、最近『広がる夢』という題で証をまとめられました。旧姓鈴木孝子姉妹は京都の住職の三女として生まれました。もの心が付かないうちに、お父さんの友人の養女になりました。17歳のときに始めて、自分が養女だと分かったそうです。彼女が19歳のとき、家族で北朝鮮に渡りましたが、1年半後に敗戦。日本人400人が、ソ連軍によって捕まえられ馬小屋に入れられました。食べ物もろくに与えられずに、強制労働をさせられるので、次々と人々が亡くなっていったそうです。満州風邪が流行し、自分も風邪で寝込み、看病していた養母が死にました。雪が解けた4月、馬小屋のリーダーが船を準備し、38度線を突破。昭和21年5月に養母の遺髪を携えて故郷に帰ってくることができました。その年の9月に友達に誘われ始めて教会というところに行きました。そこに中村先生という美しい婦人牧師がおり、信仰に導かれました。養父が再婚したとき、実の父が家(お寺)を継いで欲しいから彼女に帰ってくるように言いました。ところが、鈴木姉妹は洗礼を受けてクリスチャンになっていたので、大問題になりました。みんなから「ご先祖様に申し訳がたたないから、信仰を捨ててくれ」と頼まれたそうです。ちょうどそのとき、ある牧師から井上さんと縁談があり、結婚し、全くのゼロからの生活をしました。そのとき、ご主人は未信者でしたが、20年後?に復活のイエス様と遭遇。即、献身し、家を出て、北海道から沖縄までトラクト配布し、8年後に召されました。井上眞一牧師はそのとき、中学生1年でしたが、はじめて自分にはお父さんがいたのだと分かったそうです。井上孝子姉妹はとても伝道熱心で、東京、静岡、大阪、博多、高知と行く先々で伝道し、地元の教会に救われた魂を結びつけてきました。考えてみれば、京都の住職の娘が、クリスチャンになり牧師顔負けの伝道し、大ぜいの魂を育ててきたのです。

当教会にも北朝鮮から引き上げてこられた、山崎長老さんがおられました。その方の妹が板橋姉妹です。兄と妹が雪深い北朝鮮から脱出してきたのです。山崎長老さんはとても伝道熱心で、また、よく捧げられました。山崎長老さんは幼いとき、ご両親が北朝鮮で亡くなり、親戚の家で育てられました。その後、引き上げてきたわけですから、自分の家がないというか、故郷もないわけです。井上孝子姉妹も帰る家がありませんでした。お二人は共通していますが、イエス様を信じて、御国の民になり、天国が故郷になったわけです。そして、一生懸命、御国の福音を宣べ伝え、子ども達はもちろん、大ぜいの人たちが信仰に導かれました。様々な信仰的上の戦いもあったと思いますが、神様一筋に乗り越えてきた先輩たちです。私たちも、御国の民になったことを誇りに思い、福音を宣べ伝えることを恥としないようにしたいと思います。確かに戦いはありますが、これは主の戦いであり、勝利が分かっている戦いであることを忘れないようにしたいと思います。

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