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2009年3月 1日 (日)

宣教の動機       ピリピ1:8-11

 3月は大学の入試発表とか、卒業式があります。会社では年度末の決算があったり、人事異動もあるでしょう。とにかく、ストレスの多いシーズンであろうと思います。しかし、もし、神様への信仰があるならば、多くのことを受け入れ、最善を期待することができます。なぜなら、私たちの場合は、単なる偶然というものがないからです。すべてのことが、神様の御手の中にあることを信じて、感謝と賛美をささげるなら何と幸いでしょうか。必ず、そこから新しい道が開かれていくことを信じます。使徒パウロは牢獄に囚われていましたが、「このことを私は喜んでいます。今からも喜ぶ」と言っています。私たちも環境に左右されない、不動の喜びをいただきたいと思います。主イエス・キリストがなされた良き訪れを宣べ伝えることを、福音宣教と言いますが、きょうは2つのポイントでお話したいと思います。

1.福音宣教の前進

使徒パウロはローマにおいてであろうと思いますが、牢獄に囚われていました。それはパウロが宣べ伝えているキリストが当時の政府にとって、危険ではないかと思われていたからです。やがてパウロは、カイザルの前に立って裁判を受けるのですが、その前は、ある程度の自由が与えられていました。参考になる箇所が、使徒28:30,31にあります。「こうしてパウロは満二年の間、自費で借りた家に住み、たずねて来る人たちをみな迎えて、大胆に、少しも妨げられることなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えた」と書いてあります。おそらく、パウロは訪ねてくる友人や知人と自由に会うことができ、そこで福音を伝えることができたと思われます。するとそのとき、ローマの兵士たちも、間接的ではありますが、福音に触れるチャンスがあったのでしょう。ピリピ1:13.14にこのように書いてあります。「私がキリストのゆえに投獄されている、ということは、親衛隊の全員と、そのほかのすべての人にも明らかになり」。親衛隊とは、おそらくローマの兵士たちであり、彼らの中からも、主イエス・キリストを信じる人たちも起こされたのではないかと思います。彼らはパウロが牢獄に入らなければ決して福音を聞くチャンスが与えられず、また救われることもなかったでしょう。ですから、パウロが牢獄に入ったことも、益になったのであります。まさしく、ローマ8:28「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」であります。

牢獄で伝道した死刑囚の実話があります。韓国のある町で、36歳の男性が家族5人を殺害し、死刑宣告を受けました。クリスチャンの刑務官が彼に会うと、「人でも獣でもない存在が自分の中にいて、家族を殺害させた」と言うのです。刑務官は「これは悪霊に違いない」と思い、イエス様の御名によって悪霊を追い出す祈りをし、悪霊を恐れる彼に、イエス様の十字架について教えました。すると彼はイエス様を受け入れたのです。刑務官は聖書に悪霊を追い出す祈りを書いて、彼に渡しました。数日後、彼は悪霊に苦しめられ、牢獄にいた9人の前でのたうち回りました。しかし刑務官に聞いた祈りで振り絞るように言うと、その瞬間、悪霊は消えてしまったのです。するとそれを見ていた人たちが悪霊の激しさに恐れをなし、「救われるためにはどうしたらいいのか」と彼に聞いてきたのです。刑務官に教えられた通り伝えると、9人全員がイエス様を受け入れました。翌日の運動の時間には、それぞれがイエス様のことを伝え、多くの人が受け入れました。その後、聖書と讃美歌を欲しいと願った人は420にもなったのです。死刑執行の日。彼は絞首刑の階段を賛美しながら上って行きました。ロープがピンと張るその瞬間、足を痛めて杖をついていた刑務官に向かって、彼はこう叫びました。「イエスの力によって、早くいやされるように!」イエス様の十字架の愛と赦しを受けた彼は、すべての罪を洗い流され、キリストの愛を注ぐ人へと変えられたのです。アーメン。中国の話もあります。具体的にどこかは分かりませんが、公安によって捕らえられた牧師やクリスチャンが牢獄の中で取り調べを受けます。するとどうしても、自分がどうしてキリストを信じたのか証しなければなりません。「神なんか、いないんだ!」と迫害を受けます。でも、その中で祈り、感謝をしている姿を見て、共産党員がイエス様を信じるというケースがたくさんあるそうです。つまり、クリスチャンが牢獄に入ったことにより、その場所で、救われる人が起こるということです。まさしく、パウロを見張っていた、ローマの親衛隊もそうだったと思われます。

 でも、ここで不可解なのは、その次の節、ピリピ1:14です。「また兄弟たちの大多数は、私が投獄されたことにより、主にあって確信を与えられ、恐れることなく、ますます大胆に神のことばを語るようになりました。」普通ならば、キリストのゆえに投獄されたならば、恐れるはずです。「私も捕らえられたらどうしよう!」と思うからです。ローマ政府に逆らうような教えであるならば、それは危険です。もし、投獄でもされたら、仕事はもちろん、家族も失ってしまうかもしれません。でも、ピリピの人たちはパウロが投獄されたことにより、「主にあって確信を与えられ、恐れることなく、ますます大胆に神のことばを語るようになった」ということです。これは、一体どういうことでしょうか?まことに、解せない。しかし、いくつかの理由が考えられます。「私もパウロ先生のように投獄されるくらい、熱心に福音を伝えたい!」「私たちクリスチャンはこの世の者じゃないから迫害されるんだ。これで良いんだ!」「迫害がなんだ、死がなんだ!私たちは神の国と永遠の命が与えられているんだ!」・・・どれもこれもすばらしいと思います。でも、みなさんならどうでしょうか?もし、日本がヨハネの黙示録のように反キリスト化したらどうなるでしょうか?「キリストを信じる者を捕らえよ!」「額に666の刻印を受けない者は、売り買えできない」となったらどうするでしょうか?信仰よりも、生活を第一にしているクリスチャンは、ふるいにかけられ信仰を捨てるかもしれません。あるいは逆に、キリストの福音のために喜んでいのちを捨てるでしょうか?それはまるで、レフト・ビハンドの世界です。

 いろいろ考えられますが、私はこのように考えます。ピリピの教会は迫害の中で生まれた教会です。最初に伝道に来たパウロとシラスはどうだったでしょうか?使徒16章にありますが、何も悪いことをしていないのに、二人は役人たちに訴えられました。長官たちはろくに調べもしないまま、二人の着物をはいでむちで打つように命じました。まあ、何度もむちを打たれ、二人は牢獄にぶちこまれました。もう、傷がヒリヒリして眠ることもできません。二人は「俺たちは悪くない!」と、役人や長官たちを呪ったでしょうか?そうではありません。使徒16:25,26「真夜中ごろ、パウロとシラスが神に祈りつつ賛美の歌を歌っていると、ほかの囚人たちも聞き入っていた。ところが突然、大地震が起こって、獄舎の土台が揺れ動き、たちまちとびらが全部あいて、みなの鎖が解けてしまった。」それからどうなったでしょう?ローマの看守が二人に「救われるためには、何をしなければなりませんか」と聞きました。すると、看守は二人を家に招きいれ、主のことばを聞きました。そのことによって、看守とその家族がバプテスマを受けました。これらの一連の出来事は何を意味しているのでしょうか?ピリピの人たちは思ったことでしょう。「ああ、パウロ先生が牢獄に入っているのは、ピリピにいたときと同じような理由なんだろうなー。あの時は看守とその家族が救われたけど、こんどはローマの親衛隊が救われている。今度、神様はピリピの牢獄ではなく、ローマの土台を揺り動かしているに違いない!カイザルよりも、神様の方が偉大なんだ。ああ、我らも神様を賛美しながら福音を伝えよう」。そんなふうに思ったのではないでしょうか?

 あんまり、キリスト教を悲壮的に捕らえないで下さい。日本はキリシタンの歴史がありますので、そのように思いがちですが、実際は違うと思います。旧訳聖書のダニエル書には燃える炉の中に入れられた3人のヘブル人がいました。また、ライオンの穴に投げ込まれたダニエルもいます。彼らは泣いたり、叫んだりしていません。ただ、単純に神様を信頼していただけです。彼らも「もしかしたら死ぬかも」と、覚悟はしていたと思います。でも、神様は彼らを救い出してくださいました。そして、そのことにより王様が「あなたがたの神こそ、まことの神だ」と恐れ、礼拝しました。ダニエルの頃はバビロンというもっとも強大な国でした。そしてピリピ教会の頃は、ローマという最も強大な国でした。だから、私たちも地上の国家を恐れる必要はありません。イエス様がヨハネ17章で弟子たちにどうおっしゃったでしょうか?ヨハネ17:14-16「わたしは彼らにあなたのみことばを与えました。しかし、世は彼らを憎みました。わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものでないからです彼らをこの世から取り去ってくださるようにというのではなく、悪い者から守ってくださるようにお願いします。わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではありません。」アーメン。世の終わり、神からのまことの宗教か、この世の宗教か試されるときが来ます。世の終わり、反キリストの政府の迫害が起こるでしょう。そのときに、政府と組みして迫害を受けない宗教は偽モノです。しかし、信仰を捨てないで迫害を受ける宗教は本モノです。もし、私たちは彼らから憎まれ、迫害を受けるなら、私たちはこの世のものではない、神のものであるという証拠だということです。ハレルヤ!迫害を受けるくらい、キリストに熱心でありたいと思います。ここに、日本のクリスチャンに対して、問いかけがあります。「あなたは、自分の生活とキリストの福音、どちらを大切にしているでしょうか?」ヨハネ6:27にイエス様のことばあります。「なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい」。アーメン。

2.福音宣教の動機

 ピリピ1:15「人々の中にはねたみや争いをもってキリストを宣べ伝える者もいますが、善意をもってする者もいます。一方の人たちは愛をもってキリストを伝え、私が福音を弁証するために立てられていることを認めていますが、他の人たちは純真な動機からではなく、党派心をもって、キリストを宣べ伝えており、投獄されている私をさらに苦しめるつもりなのです。」これはピリピ教会のことなのか、それとも他の教会に起こっていることなのでしょうか?福音を宣べ伝えること自体は、すばらしいことなのですが、その動機が問題にされています。心の動機というものは、隠れていますので分かりません。表面からだけ見たら、キリストの福音を宣べ伝えているのだからとても良く見えます。しかし、心の中はどうでしょうか?口では「神様や人のため」と言いながら、自分の利益や目的を達成したいという不純な動機で宣べ伝えているのかもしれません。この箇所を見ると、2種類に分けることができます。週報にも書いてありますが、不純な動機とはどんなものでしょうか?15節に「ねたみや争いをもってキリストを宣べ伝える」と書いてあります。17節には「党派心をもって、キリストを宣べ伝えており」とあります。さらに、18節には「見せかけで、キリストが宣べつたえられている」とあります。ねたみや争い、党派心、見せかけで、福音宣教が果たしてできるのでしょうか?おそらくはこういうことだと思います。

私が座間キリスト教会でスタッフの頃、副牧師や他のスタッフと張り合ったことがあります。大川先生が「一年間で一人も導けないようでは困る」みたいなことを言ったからです。当時の京子さんはご婦人たちを導いていました。私は「彼女は私よりも時間があるからなー」と思いました。また、副牧師がジュニアの洗礼準備会をしていたとき、私は「日曜学校から上がってきたんだから楽だよなー」と思いました。私は必死に日曜日の礼拝に来られた方々と接するのですが、なかなかうまくいきません。伝道と言いながら、心の中でライバル心がありました。では、教会の牧師になってからではどうでしょうか?2、30年前は「教会成長」という言葉が一斉を風靡していました。「教会は大きくなければ、神様の祝福が本当にあるとは言えない」ぐらいまで思っていました。受洗者が大ぜい与えられるのは嬉しいことなのですが、同じ日本基督教団内ではそうでない教会もたくさんあります。すると、「果たして信仰があるのかなー」と批判する気持ちがどこかにありました。しかし、上を見たらきりがありません。アメリカや韓国を見ると比べものにならないので、がっかりします。つまり、不純な動機というのは神様のためと言っておきながら、自己目的の達成、「この業界で偉くなりたい」という野心みたいなものがあったのではないかと思います。奉仕に携わっている兄姉で、教会が大きくなって喜ぶのは、牧師と他数名の役員さんくらいではないでしょうか?多くの人たちは、「教会が大きくなると交わりが薄くなるから、嫌だ」と思っているかもしれません。どうでしょうか?奉仕に携わっている兄姉の中で、不純な動機というか、肉的な思いでやっている人たちはいないでしょうか?パウロが言うように、ねたみや争い、党派心、見せかけで伝道している人たちはいないでしょうか?これは、本当に心がさぐられる問題です。やっていることは正しくても、神様は私たちの動機をごらんになられます。この世でダメだったので、せめてキリスト教会では、名を上げたい。この世界で権力を持ちたいとするならどうでしょうか?もし、動機が不純であるならば、途中までは良くても、最後は破滅です。Ⅰコリント3章には、「もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現われ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです」と書いてあります。できれば、私たちの奉仕が、草やわらでないことを願います。

では、純粋な動機でキリストを宣べ伝えるとはどうことでしょうか?それは、「善意をもって」「愛をもって」「真実をもって」キリストを伝えるということです。まことに、アーメンであります。でも、私たちは熱心なあまり、押し付けになったり、お説教になったりする場合が多々あります。それは善意であり、愛であり、真実であると思いますが、あるときは誤解を招くときがあります。クリスチャン10年くらいたって、「知恵とか、忍耐、へりくだりが必要なんだなー」と分かってきます。でも、その頃になりますと、熱心さとか情熱がなくなるのも確かです。私たちは情熱を保ちながら、純粋な動機でキリストを宣べ伝えたいと思います。それでも、私たちクリスチャンというか、教会には大きな問題が立ちはだかっています。マルコ16章には「全世界へ出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい」とあります。マタイ28章には「行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい」とあります。これらは、教会に与えられた大宣教命令で有名です。しかし、聖書全体で言われている、神様からの大きな戒めというものがあります。第一の戒めは、「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」です。第二の戒めは「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」であります。つまり、神様を愛することと隣人を愛することが、聖書を一貫しての戒めなのですが、大宣教命令とどういう関係があるか?ということです。私たちは大宣教命を守ろうとして熱心に伝道しても、この愛がなくてやっている場合はないでしょうか?「その人が教会に来るなら、愛します」あるいは、「その人がイエス様を信じるなら愛します」という動機が心の中にあるならばどうでしょうか?つまり、救われる可能性のある人は愛するけれど、「福音を伝えてもだめだなー」という人は愛さない。こういうのはどうでしょうか?

大宣教命令と聖書の愛の戒め、果たしてどちらが大切なのでしょうか?この両者の関係というのはどのような関係なのでしょうか?私は伝道よりも、愛のほうが基本であり、土台ではないかと思います。伝道しなくて良いということではありません。私たちは、隣人がイエス様に興味があろうとなかろうと、愛する必要があります。たとえ、「私はそんなの信じませんよ」と相手が言ったとしても、です。なぜなら、神様の愛は無条件の愛だからです。「信じるなら愛する」というのは、本当の愛ではありません。じゃ、キリスト様を宣べ伝えなくて良いのでしょうか?もちろん、伝えなければいけません。でも、その動機は何でしょうか?「愛する人が、滅んでしまうことがないように、何とかイエス様を信じて欲しい」これが、私たちの真実な気持ちであり、愛の表れです。そのために、その人が何とか心を開いてくれるように、祈りつつ、愛して仕えていく。こういう重荷を私たちは隣人に対して持つしかありません。でも、神様の愛とその人が救われることは矛盾していません。神様はその人を愛しているからこそ、イエス様を信じて、永遠の命を得てもらいたいと願っているのです。聖書には、そのことに対して、はっきりとした神様のみこころが示されています。1つは、Ⅰテモテ2:4です。「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます」。もう1箇所は、Ⅱペテロ3:8,9です。「しかし、愛する人たち。あなたがたは、この一事を見落としてはいけません。すなわち、主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」アーメン。

世の終わりがせまっていますが、神様は、なんとか一人でも多くの人が、御国に入るように、忍耐して待っておられるのです。今、まもなく門が閉まろうとしています。しかし、校門の扉を開けて待ってくれている先生のように、神様が間に入っている状態です。私たちはこの神様の愛を覚えながら、「何とか一人でも多くの人がイエス様を信じて救われるように」と伝道するのです。ですから、福音宣教と愛とは矛盾していません。最後に、使徒パウロはこう述べています。「見せかけであろうとも、真実であろうとも、あらゆるしかたで、キリストが宣べ伝えられているのであって、このことを私は喜んでいます。そうです、今からも喜ぶことでしょう」。動機が純粋であろうとなかろうと、キリストが宣べ伝えられているのなら私は喜ぶと言っています。父なる神様もおそらく同じ気持ちでしょう。できれば、私たちは神様の愛を土台としならが、私たちの隣人が救われるように願いつつ、キリストを宣べ伝えていきたいと思います。

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