« 宣教の動機       ピリピ1:8-11 | トップページ | 福音にふさわしい生活      ピリピ1:27-30 »

2009年3月 8日 (日)

生くるはキリスト       ピリピ1:20-29

 ピリピ1:20-21「それは、私がどういうばあいにも恥じることなく、いつものように今も大胆に語って、生きるにしても、死ぬにしても、私の身によって、キリストのすばらしさが現わされることを求める私の切なる願いと望みにかなっているのです。私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。」使徒パウロにとって、最大の関心事は自分の身によって、キリストのすばらしさが現わされることでした。キリストのすばらしさが現われたらなら、たとえ死んでも良いとまで考えています。なぜ、こんなことを書いているかというと、使徒パウロは現在、牢獄に囚われていますので、カイザルの前で有罪になり、死刑を宣告されるかもしれないからです。この時点では解放される希望があったようですが、あと何年か先、おそらく10年もたたないうちに、パウロは殉教します。ですから、パウロの言っていることがオーバーではないということです。使徒の働き5章における弟子たちも、死も投獄も恐れず、大胆に福音を宣べ伝えました。パウロもそうですが、初代教会の人たちは、キリストの福音が宣べ伝えられ、キリストの栄光が現わされたなら、死んでも構わないと思っていました。どうでしょうか、彼らと私たちの温度差は、どうでしょうか?私たちは日々の自分の生活が第一であり、キリストのことは二の次、三の次みたいなところはないでしょうか?

1.キリスト命

 使徒パウロは、「生きることはキリスト、死ぬこともまた益です」と何故、言えたのでしょうか?それはパウロの宗教体験とものすごく関係があります。パウロがキリストの出会う前はどうだったでしょうか?パウロはきっすいのヘブル人であり、厳格なパリサイ派に属していました。タルソという学問の町で、ガマリエルの門下生として学び、エリート中のエリートでした。また、彼はギリシャ語も堪能であり、ローマの市民権を持っていました。主なる神様に献身し、その当時のキリスト教を迫害するほど熱心でした。しかし、復活のキリストと出会ってから、全く変えられてしまったのです。みなさんはどうでしょうか?自分の生まれとか家系を誇りと思っていらっしゃるでしょうか?有名な大学を出たとか、だれかに師事したとか?あるいはどういう資格があり、どういう会社に入ったとか。博士号を持っているとか?外国語が堪能であるとか?もし、キリストよりもそういうものを誇っているなら、復活のキリストと出会っていないのかもしれません。パウロはそういうものは、ちりあくた、糞土のように思っているとピリピ3章で語っています。なぜでしょう?キリストを得、キリストに認められ、キリストを信じる義をいただいたからです。パウロは肉を誇っていた古い自分に一度死んで、全く新しい存在になりました。ガラテヤ2:20「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」アーメンです。パウロは古い自分に死んで、今度はキリストを中心にして生きています。もし、パウロの心の中を見るとしたら、心の王座にキリストがおられ、パウロ自身は床にひれ伏している状態です。みなさんの心の中はどうでしょうか?逆に、キリストを召し使いのように床に座らせ、自分は王座に座ってはいないでしょうか?自分が主人で、イエス様に「ああしてくれ、こうしてくれ」と命令しているかもしれません。

 もし、自我が心の王座を占めていて、自分の生活が何よりも大事であるならばどうでしょうか?算数で不等号、もしくは不等式というのがあります。「a が b より大きい」 ということを a > b で現わします。私なりに、いろいろ考えてみました。恋人>キリスト、結婚>キリスト、お金>キリスト、芸術>キリスト、趣味>キリスト、学歴>キリスト、家族>キリスト、職業>キリスト、飯>キリスト、出世>キリスト、健康>キリスト、快楽>キリスト、老後の生活>キリスト・・・これらをまとめると、自分>キリストになります。キリストよりも自分のことが大きいということです。私を信仰に導いてくれた職場の先輩が罪ということをこう説明してくれました。「罪を英語でSINと言うけれど、Sはサウスで南、Nはノースで北を表わします。その真中に、Iという私がいる。SINとは、私が世界の中心にいることですよ」と教えてくれました。神様はどこにいるかというと、神様は地球の外、大気圏外です。私が中心、私が価値の筆頭、これが罪なのであります。みなさんは朝起きて、一番最初に何を思うでしょうか?「ハレルヤ!神様、新しい朝をありがとうございます!今日も生かされて感謝です!」と開口一番に言う人はいるでしょうか?私は違います。私は「ああ、眠い。ああ、寒い」です。その次、何を思うでしょうか?「私が5時から起きて、仕事に行くのを批判している人たちがいる!くそっ!」です。最近、認知行動療法を丸屋先生から学んでいます。自分のセフルトークをチェックして驚きました。「あいつはあんなことを言った。ちくちょー」なんです。つまり、怒りがあります。クリスチャンになっても、怒り>キリスト、悲しみ>キリスト、せつなさ>キリスト、恨み>キリスト。自分の否定的な感情がキリストよりも大きくなっている。そういう人はいませんか?それは罪です。

 日本人の宗教観は何でしょう?大阪弁ですと「宗教は凝ったらあかん」となります。東京では、「宗教にかぶれないように」と言うでしょうか。つまり、信心はほどほどにしないと、自分の生活がなくなり、とんでもないことになるということでしょう。これは裏返しに言うなら、さきほどの、恋人>キリスト、結婚>キリスト、お金>キリストであり、自分よりもキリストを大きくしてはいけない。自分の生活、自分の好み、自分の感情が第一であり、他の何者にもその座を奪われてはいけないということです。もし、クリスチャンになっても、そのような価値観を持っているならば、救われても罪の中にいるということです。あるいは、キリスト教信仰がアクセサリーになっているということです。アクセサリーって知っていますか?シルバーの十字架のネックレスがきらきら光っていてとても美しい。アクセサリーは、自分のある部分を飾る道具です。もし、信仰がアクセサリーだとしたならば、本体という自分があって、キリストの良さを少しプラスするということです。自分に死ぬとか、神に従うという厳しいみことばを捨てて、愛とか恵み、祝福だけをいただくということです。もし、アクセサリー的な信仰であるならば、キリストを利用することはあっても、キリストのために命を捨てるとか、キリストがすべてだということは全くありえないことです。

でも、みなさん使徒パウロは復活のキリストと出会って、全く変えられました。さきほどの不等号が、全く逆になったわけです。自分よりもキリストが大きくなった。それをキリスト教では、回心と言います。回心は英語では、conversionです。転換する、転向する、あべこべになるということです。もし、みなさん、この世にまことの神様がおられて、私たちを愛しておられる。そして、イエス・キリストが私たちを罪の中から贖い出すために、ご自分の命を捨てられた。このお方が、道であり、真理であり、命であるということを知ったらどうでしょうか?もう、中途半端は生き方は不可能です。「この世において、永遠に変わらないものがある。この世において真実がある。この世において私を命がけで愛しているお方がいる。私の人生は無駄ではない。人生には意味がある。人生には目的がある」。そして、自分が小さくなり、キリスト様が大きくなる。自分の生活がキリストにある生活、自分の夢がキリストにある夢、自分の望みがキリストにある望み、自分の感情がキリストにある感情。これこそが、キリストの信仰であります。多くの人は怒り、悲しみ、恨み、恐れ、寂しさの奴隷になっています。いくらカウンセリングを受けても、なかなか変わらない。カウンセリングはある程度の助けになるかもしれません。でも、究極的な解決は、キリスト様を自分の人生の中心に据えることです。キリストを王座に着かせているならば、自分の感情に支配されることはありません。どこかの首相のように、ぶれてしまって自分が王座を奪ってしまうかもしれません。そのため、混乱や怒りや憂いが心を支配しているかもしれない。そのとき、「ああ、いかん、いかん。キリストだった。イエス様、あなたは私の主であり、王です。どうぞこちらにお座りください。私はあなたに従います」。このような悔い改めこそが、精神科医やカウンセラーが教えない、究極的な解決です。パウロのように、「私にとっては、生きることはキリスト」、キリストこそが私のすべて、私の生きがい、私の中心ですと告白する者だけが、その境地に達することができるのです。「私にとっては、生きることはキリスト」To live is Christ, and to die is gain.ここに、絶対的な解決があります。

2.キリスト天国

 ピリピ1:22-24「しかし、もしこの肉体のいのちが続くとしたら、私の働きが豊かな実を結ぶことになるので、どちらを選んだらよいのか、私にはわかりません。私は、その二つのものの間に板ばさみとなっています。私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。実はそのほうが、はるかにまさっています。しかし、この肉体にとどまることが、あなたがたのためには、もっと必要です。」使徒パウロは2つのものの板ばさみになっています。「このまま生き延びて、ピリピの人たちのためにお役に立ちたい」。もう1つは「主のみもとに早く行って、主にお会いしたい」です。「板ばさみ」にあたる、ギリシャ語は、2つの考えによって悩んだり、苦しんだりすることです。でも、英国の聖書は、「2方向に引き裂かれる」と訳しています。使徒パウロは果たしてどちらの方を望んでいるのでしょうか?「私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。実はそのほうが、はるかにまさっています」と言っています。Ⅱコリント5:8でも、「むしろ肉体を離れて、主のみもとにいるほうがよいと思っています」と述べています。ということは、パウロはどちらかと言うと、「早く、主のみもとに行きたい」です。でも、「あなたがたのためになるならば、もっと生き延びるべきか」であります。この手紙には、「死を恐れるとか、死にたくないとか、死んだらどうなるのだろう」などという、ことばは1つもありません。「生きることはキリスト、死ぬことも益です」と言うのは、「この世ではキリストのために生きるけど、死んだらそれも良い。なぜならキリストに会えるから」ということです。みなさん、こういうパウロの死生観を持ちたいと思わないでしょうか?

 まず、私たちは医学的な死と聖書が言う死の違いを理解しなければなりません。医学的な死とは、肉体が死ぬことです。具体的には心臓が止って、あらゆる細胞が活動をやめるということです。でも、聖書はそうは言っていません。22節には「肉体のいのちが続く」と書いてあります。これは肉体が生きていることであり、医学的にも同じ意味でしょう。でも、23節はどうでしょう。「私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです」と書いてあります。これはパウロ自身が世を去って、天におられるキリストのもとに行くと言うことです。24節には「この肉体にとどまることが、あなたがたのためには、もっと必要です」と書いてあります。これは、パウロ自身が肉体の中にとどまっている状態、つまり生きているということです。まとめるとこうなります。聖書では死というのは、肉体と自分の魂が離れることなんだということです。地上の肉体は魂の入れ物のような存在であり、死んだら朽ち果てます。しかし、自分の魂はキリストがおられるパラダイスに行くか、それとも陰府に行くかどちらかだということです。ルカ16章には、ある金持ちが死んで、気づいたら陰府にいたという記事があります。そこは熱くて、苦しい場所らしい。はるか上には、貧乏人のラザロがアブラハムのふところに抱かれていました。どうも、肉体が死んでからも、魂というか意識があるらしいです。

読売新聞が1月17,18日に実施した調査では、日本人は何かの宗教を信じている人は26%にとどまり、信じていない人が72%に上ることが分かったそうです。死んだ人の魂については、「生まれ変わる」が30%で最も多く、「別の世界に行く」が24%、「消滅する」が18%だそうです。つまり、半数以上の人が、「死んだら終わり」ということではない、とどこかで思っているということです。日本語で死ぬことを「逝去」と言いますが、どこかへ「逝く」ことであり、消滅するということではありません。伝道者の書11:10に面白いみことばがあります。「若い男よ。若いうちに楽しめ。若い日にあなたの心を喜ばせよ。あなたの心のおもむくまま、あなたの目の望むままに歩め。しかし、これらすべての事において、あなたは神のさばきを受けることを知っておけ。」「生きているうちは、何でも、好きなことをやって良いけど、死後、神様の前に立つことを忘れるなよ」ということです。私たちのゴールが肉体の命が終わり、この地上だけのことだけなのでしょうか?それとも、肉体を去っても、向こうでキリストのもとで永遠に過ごすのがゴールでしょうか?この世の人たちは、「死んだのちはどうでも良い。生きているうちが花なんだから」とゴールをさだめていません。でも、「私はやがてキリスト様の前に立つんだ。そこで慰めと報いを受けるんだ!」というゴールを定めている人はどうでしょうか?肉体の死が自分のゴールであるという人は、お葬式やお墓のことを気にするでしょう。「死ぬときは痛いだろうな?怖いだろうな?」と思うでしょう。でも、「肉体の死は旅立ちであり、天におられるキリストとまみえるときなんだ。私はイエス様のところへ行き、肉体の復活後、永遠の御国に住まうんだ」という、ゴールを定めている人はどうでしょうか?私も「やっぱり、死も怖いし、火葬場も嫌だなー」と思います。職業がら火葬場になんべんも行っているし、やがて自分の番になることは分かっています。みんなの前で、お骨を拾ってもらうのは自体したいと思っています。お茶を飲んで、1時間くらい待ったら、壷の中に収められている。それが良いです。でも、そんなことはどうでも良いことです。肉体という私の入れ物は焼かれるかもしれませんが、私自身は天におられるイエス様のもとにいるわけです。違いは住む場所が、地上から御国へと変わっただけであります。

でも、私たちの人生は、この地上においてどのように生きたかということと、天上における神様からの報いが、非常に関係があるということです。使徒パウロは天に召されるまで、自分の走るべき行程を走りつくして、天に凱旋した人であります。できれば、私たちも「ただ死んだ」というだけではなく、神様から与えられた生を全うしたいと思います。そして、イエス様から「善かつ忠なる僕よ、よくやった」とお褒めのことばをいただきたいと思います。先週のテレビで、「世界を変える100人の日本人」というをやっていました。カンボジアで選挙を実現させた中田厚仁さん、彼はポルポト派によって殺害されました。しかし、その後、アツヒト村とかアツヒト小学校ができています。また、ネパールの不毛地帯を開拓した人物。2000メートルの山岳地帯に植林をし、田んぼを作り、ヤギやにわとりを飼えるように農業を指導したご老人。そして、地下鉄サリンの救急病院に用いられた聖路加病院の日野原先生のことも取り上げられていました。長崎で被爆したお医者さん、永井隆先生。彼は被爆医療のために人生をささげました。中国の砂漠の緑化のために人生をささげた人もいました。ベトナムでは、目が見えなくなる病気があるそうです。その人たちのためにボランティアで目の手術をしてあげる日本の医者がいました。何千名もの人たちが視力を取り戻しています。他にもたくさんいましたが、彼らのことばがとても重みがありました。不可能と思えるようなことのために、また人々のために自分の人生をささげるということは、本当に美しいことであります。しかも、後の世にも残るような影響を与えています。

キリスト教はイエス様を信じて天国に行くことが目的ではありません。もし、天国に行くことが目的であれば、「ああ、永遠のいのちがあるから、地上で好き勝手に生きれば良いやー」となってしまいます。確かに、イエス様を信じるたけで罪赦され、天国に行くことができます。でも、神様は私たちに一人ひとりに計画をもっておられ、私たちしかできないことをなさせようと願っておられます。それは、必ずしもノーベル賞を取るような、この世の多くの人たちに大きな影響を与えるということではないかもしれません。大小の問題ではなく、神様があなたにしかできない特有の使命を与えておられるのではないでしょうか?使命とは日本語で、「命を使う」と書きます。何のために、命を使うかであります。私はクリスチャンになる前は、無目的で生きていました。しいて言うなら、自分の夢、自分がやりたいことをやるために生きていました。しかし、「私は何のために生きているのだろう?」という疑問があり、まるで心の中にぽっかりと穴があいているような状態でした。その当時は、パチンコやマージャンを良くしました。夜遅くまで、ぼーっと考えるときもありました。しかし、クリスチャンになってから、暇をもてあますということがなくなりました。パチンコやマージャンはやっても罪じゃないと思いますが、やる暇がないというか、優先順位の中にないので、やらなくなりました。向こうの世界には永遠がありますが、この地上の命には限りがあります。そうすると、短い人生、よけい大事にしなけりゃなーと思うようになりました。

使徒パウロは何のために残りの人生を使おうと思っていたでしょうか?ピリピ1:24,25「しかし、この肉体にとどまることが、あなたがたのためには、もっと必要です。私はこのことを確信していますから、あなたがたの信仰の進歩と喜びとのために、私が生きながらえて、あなたがたすべてといっしょにいるようになることを知っています。」そうです。自分の残りの人生を自分のためにではなく、彼らのため、彼らの信仰と進歩と喜びのために使おうとしました。聖書学者のウィリアム・バークレーという人が言いました。「生き甲斐というのは、自分のためではなく、他の人たちのために生きるときに与えられるものだ」と。ご主人をなくしたやもめが、どのように立ち直ったか?他のさびしいご老人のために仕えたら、自分の悲しみがふっとんでしまったそうです。神様は、私たちが与えられた命を、隣人と御国のために使うように願っておられるのではないでしょうか?地上ではわかりませんが、天においては報いがあります。人からの報いは保証できませんが、イエス様のからの報いは必ずあります。どうぞ、神様からの使命に生きてください。「生きるにしても、死ぬにしても、私の身によって、キリストのすばらしさが現われるように。生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。」アーメン。

|

« 宣教の動機       ピリピ1:8-11 | トップページ | 福音にふさわしい生活      ピリピ1:27-30 »