« 2009年1月 | トップページ | 2009年3月 »

2009年2月22日 (日)

家族&結婚  【特別礼拝】

本日は、丸屋真也 師による特別礼拝の為、原稿が用意できませんでした。

| | トラックバック (0)

2009年2月15日 (日)

豊かなる愛        ピリピ1:8-11

だんだん、春が近づいてまいりました。先週の金曜日、春一番が吹いたようです。昔、キャンディーズが「もうすぐ春ですねー、恋をしてみませんか」と歌いました。昨日はバレンタインズ・ディでしたが、きょうは「恋」の話はしません。「愛」の話をしたいと思います。人がイエス様を信じてクリスチャンになりますと、神様の愛が与えられます。それは、生まれつきの愛ではなく、神様が与えてくださる新しい愛であります。でも、その愛も育てられ、訓練される必要があります。ピリピの教会の人たちにも愛がありました。でも、パウロは彼らの愛がもっと豊かになるように祈っています。きょうは、私たちの愛がどのような面において豊かになるべきなのか、3つのポイントで学びたいと思います。ピリピ1:9「私は祈っています。あなたがたの愛が真の知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、あなたがたが、真にすぐれたものを見分けることができるようになりますように。」

1.真の知識が伴った愛

真の知識はギリシャ語では、エピギノスコーと言って、「十分な知識」とか「深い知識」とも訳せることばです。当教会には子育て中の方もおりますが、子どもが大人になるまで2つの反抗期があると言われています。本当は反抗ではなく、自分と親とは別な存在であるという個別化をするための大事な時期であります。もしも、この時期、親が真の知識が伴った愛で愛するなら、子どもはしっかりと自分の足で歩き始めることができます。まず、2歳から4歳の子どもは、何でも自分でやろうとし、親の言うことを聞きません。「イヤ」を連発し、まるで悪魔っ子になりなります。ちょっとでも目を離したら、どこへでも行って、何でもしでかすでしょう。親は子どもにやってはいけないことを、愛を持って教えなければなりません。でも、子どもを虐待したり、無視をするならば、大きな傷になります。また、親が「良い子にならないと愛しませんよ」と言ったら、子どもは本音を隠し、良い子を演ずるようになるでしょう。親はそういう取引きをせず、叱るべきときは叱る。そうすれば、たとえ叱られても、子どもは愛されていると感じるのであります。もう1つ親にとっても子どもにとっても、大変な時期は思春期であります。中学から高校生でしょうか?子ども自身の中に「私はもう子供じゃない。私は私なんだ!」という独立心が起きてきます。しかし、現実的には、生活や経済面では親の世話になっています。親は「世間知らずが、生意気言うな!」と押さえつけたくなります。でも、子どもにとって、手探りではありますが、自分自身を試し、自分の頭で考え、自分の道を歩き始める大切な時期であります。だから、親には、「失敗しても大丈夫!また立ち上がれば良いさ!」という真の知識が伴った愛が必要であります。

もう1つ、真の知識が伴った愛が必要なのは男女間であります。私は結婚してわかりましたが、女は全く違う生き物だということです。ベネッセが発行している、『ねこのきもち』という本があります。今なら新規ご購読お申し込みの方全員に愛猫のしぐさの意味がわかる『ねこ語事典』プレゼントとありました。もう1つ他に『いぬのきもち』という本もありました。こっちにも『いぬ語事典』プレゼントとありました。私は、どうして『おんなの気持ち』を発行してくれないのかなーと思いました。2月末から、7週にわたり「カップルズコース」というのをやります。4週目は「衝突を解決する」というテーマで学びます。そのページにこのようなことが書いてあります。「もし、私たちがすべてにおいて、同じ意見だったら結婚はとても退屈でしょう。初め、お互いの違いはお互い引き合い夢中にさせたものです。しかしそれから、ハネムーン段階が終わり、だんだん熱が冷めてくると、魅力的だったこれらの違いは衝突を引き起こす刺激物になってしまうことがあります。この段階では違いを取り除く試みが共同生活をする上で必要となります。脱いだ靴下を洗濯籠に入れるか、はしの持ち方など、自分と同じことを要求します。要求する、巧妙にごまかす、イライラする、不満を口に出す。これらのすべては必然的に親密な関係を失わせてしまいます。悲しいことにたくさんのカップルがそのとき、自分たちはうまくいかないと結論を出してしまいます。しかし、実際はそうではありません。違いはお互いを補完するものであって共同の利益を得るために作用します。私たちは、違いや多様性について排除を試みるのではなく、貴重なものとして評価することが必要です。」と、このように書いてありました。愛は盲目とよく言われますが、成熟した愛は、真の知識が伴った愛であります。

イエス様はサマリヤの女の素性をすべて知りながらも、近づいて救いへと導きました。また、イエス様は弟子たちの長所も短所も受け入れ、彼らを最後まで愛し通されました。イエス様の一番弟子と言えばペテロであります。ペテロの本名は、バルヨナ・シモンでした。シモンとは「葦」という意味があります。風にゆらぐ葦のごとく、シモンは不安定な人でした。「麻生」と言う人も不安定ですが、「葦」であるシモンもそういう人です。でも、イエス様はシモンに対して、何と言ったでしょうか?ヨハネ1:42「イエスはシモンに目を留めて言われた。『あなたはヨハネの子シモンです。あなたをケパ(訳すとペテロ)と呼ぶことにします。』」。ペテロとは岩という意味です。イエス様はシモンの生まれ付きの性格の中に、岩のような大胆で力強い性質があることを見出していたのです。多くの場合、私たちは「あなたはシモン、不安定な人ですね」と外見や欠点に目を留めます。しかし、イエス様は真の知識をもって、「あなたをペテロ(岩)と呼ぶことにします」と言われました。そのときから、シモンの中にあったペテロがむくむくっと芽生えてきたのです。私自身もイエス様が私を忠実な者と認めてくださっておられるので(Ⅰテモテ1:12)、それに応えるしかないと思っています。このように、真の知識が伴った愛は人を生かします。あなたも、私も、真の知識が伴った愛をいただきましょう。

2.識別力のある愛

9節「あなたがたの愛が真の知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、あなたがたが、真にすぐれたものを見分けることができるようになりますように」とあります。識別力は、他に洞察力、判断力、見分ける力とも訳すことができます。なんだか愛とは縁遠い感じがします。でも、この愛は、人を育てたり、訓練するために必要な愛です。多くの場合、「愛とは無条件であって、ありのままを愛することである」と定義します。確かにそうであります。私たちは神様からありのままで愛されています。でも、同時に、神様は私たちが成長することを願っておられます。ヘブル12:6「主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである」とあります。間違ったところを矯正する、足りないところを伸ばす、これも愛であります。でも、多くのクリスチャンはそういう愛をさばきと考えてしまいます。もちろん、愛とさばきは紙一重であります。心に傷のある人は、忠告や助言すらも、さばきとして受け止めてしまいます。そのため、そのところから成長しようとはせず、逆戻りというか、後退してしまいます。ですから、救われてクリスチャンなったならば、一日も早く、鷲(イーグル)クリスチャンになるべきです。鷲は力強く天にはばたいて飛びます。それは神の力を受けて歩む信仰者の姿です。鷲は高い岩の上に巣をつくり、そこでヒナを育てます。ヒナは毎日、食べ物をもらって、ふかふかの巣で暮らしています。しかし、ヒナが成長すると親鷲はふかふかの毛を全部、巣の外へ捨て去ります。そのために、巣はゴツゴツした居心地の悪いところとなります。そして、親鷲は子鷲の前でぐるぐる飛んでみせます。ある日、子鷲を突いて巣から落とします。子鷲は「あー、人殺し!鷲殺し!」と叫びながら羽根を広げることを覚えます。親鷲は真下に行って落下する子鷲を自分の体で受け止めます。そういうことを何度か繰り返すうちに、子鷲は自分の羽根で飛ぶことを学ぶのであります。やがて、自分で獲物を取って、生活するようになります。鷲(イーグル)クリスチャンとは、言い換えると、弟子クリスチャンになることです。

神様は愛する者を懲らしめるとき、人々の叱責や冷たいことばを用いるときがあります。そういう時に、私たちがどうそれを受け止めるかが問題です。破壊的なさばきとして受け止めるか、それとも私を成長させるための糧として受け止めるかは、その人次第です。私も牧師になって何度かそういうことがありました。しかし、箴言にはすばらしいみことばがたくさんあります。箴言9:8「あざける者を責めるな。おそらく、彼はあなたを憎むだろう。知恵のある者を責めよ。そうすれば、彼はあなたを愛するだろう。」あざける者は、人の叱責や忠告に対して、怒りと憎しみをあらわにするでしょう。でも、本当に知恵ある者は、責めてくれた人を愛するということです。そうではなく、「ばかやろー、このやろー」と憤慨するならば、あざける者であります。「ありがとう」と受け入れる人は、知恵ある者です。厳しいですねー。もう一箇所、箴言27:5「あからさまに責めるのは、ひそかに愛するのにまさる」。何ということばでしょう。これは、マタイ18章の出来事と関係しています。マタイ18:15「また、もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです。」アーメン。当人のところへ行って、罪を指摘し、悔い改めに導く。これはとても勇気がいることです。でも、これは本当に愛のある人にしかできません。もしかしたら、友情をなくすかもしれません。逆ギレして、殺されるかもしれません。でも、知恵ある者は、その人に心から感謝をするでしょう。

 イエス様は、ピリポ・カイザリヤというところで、弟子たちに「あなたがたは私をだれだと言いますか?」と聞きました。シモン・ペテロが真っ先に「あなたは、生ける神の子キリストです」と答えました。イエス様は「あなたは幸いです。わたしは、あなたに天の御国のかぎをあげます。」とペテロを誉めました。その後、イエス様は「私はエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならない」と言いました。するとペテロは、「そんなことが、あなたに起こるはずはありません」とイエス様をいさめました。マタイ16:23「しかし、イエスは振り向いて、ペテロに言われた。『下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。』」先ほどは、イエス様から誉められて天にまで昇ったかと思いきや、今度は、サタン呼ばわりされて地獄の底に落とされました。ガビーンであります。イエス様の愛は、識別力のある愛でした。言い換えると、イエス様の愛には、洞察力、判断力、見分ける力が伴っていました。だから、ペテロの人間的な愛を見破って、叱責したのであります。ま、ここではペテロをサタンと言ったのではなく、ペテロの背後にサタンがいて、そういうことを言わせた。サタンの誘惑に負けて、そういうことばを発したことを責めたのであります。ペテロはそのとき、「ああ、私はサタン呼ばわりされた!」と傷ついたかもしれませんが、あとから、「ああ、あのときは完全にやられていたなー」と気づいたことでしょう。

懲らしめも愛、叱責も愛、と受け止められたら何と幸いでしょう。長年、老人介護をされた先生がある本の中でこう述べています。「厳しい冬を経なければ春の本当の素晴らしさを体験できないように、また苦悩を経なければ歓喜に至れないように、ごく平凡な人間である私たちは、老人の言葉や行為によって幾度も幾度も痛打されておかないと、老人のいのちに触れることなどできないのだと思います。」これはクリスチャンも自己吟味が必要だということであります。

 

3.純真な愛

 1:10後半「またあなたがたが、キリストの日には純真で非難されるところがなく、イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされている者となり、神の御栄えと誉れが現わされますように。」文章はもっと複雑になっていますが、「純真な愛」としてまとめました。純真な愛とは混じり気のない愛です。私たちの愛には、いろんな不純物が混じっていることがよくあります。外側は愛の行ないであっても、神様は私たちの動機をご覧になっています。怒り、ねたみ、高ぶり、自己保身を取り除いた純真な愛が求められます。あるセミナーで、「愛の反対は何でしょう?」という質問が出されました。「愛の反対は、憎しみではないでだろうか?」というのがおおかたの答えでした。ところがその時、「愛の反対は、コントロール(支配)である」いう答えがありました。「えー?そうかなー」と思いましたが、時間が経つにつれて、「ああ、そうだなー」と思うようになりました。私たちは無意識的に人々を操作して、自分の思いどおりに動かそうとするところがないでしょうか?ある時は怒りによって、ある時は哀れみを乞い、ある時は魔術的な行ないによって人をコントロールしてはいないでしょうか?純真な愛は、人をコントロールせず、「ノー」と言える自由を与えます。しかし、不純な愛は、人をコントロールし、「ノー」を言わせない。ある人から「○○をやってください」と頼まれて、「あれー?これはコントロールじゃないの?」と思うときがたまにあります。その人は無意識でやっているのかもしれません。また、周りの人も無意識で従っています。共依存の関係もまさしくそのような関係であります。女性だったらヒステリーで、男性だったら暴力で相手に圧力をかけて、「ノー」を言わせない。聞き従っている人は、喜んで従っていないので、次第に怒りがたまってきます。これは良くない関係だと思います。

 ところで、アガペー(神の愛)という名前までついている教会があります。しかし、今では完全にカルトになっています。信徒のうちはまだ良いのですが、献身者になると、牧師の言うことに対して完全服従を強いられます。「指導者に逆らうことは、神様に逆らうことと同じだ。家族よりもミニストリーの方が大事なんだ」。そういう教えを叩き込まれる。次第に自分で考えることができなくなり、ロボットのようになります。洗脳と言った方が良いのかもしれません。あげくの果、牧師がパワハラやセクハラを継続的に行ない、神の教会と言えなくなってしまう。程度差はあるかもしれませんが、こういう教会が日本にいくつか存在します。外から見たら、大ぜいの人たちが集まり、「すごい成長ぶりだなー」と注目されます。ところが、あるところまで行くと、土台ごとひっくり返る。それは動機が不純だったからではないかと思います。神の王国を建てるのではなく、自分の王国を建てて、一国の城主になろうとしているからです。小さい教会が良いとは申しませんが、神の霊が豊かに臨在する良い教会を作りたいと思います。私たちが伝道する動機は、その人が救われて天国に行ってもらいたいからです。福音の愛で愛するとは、その人が信じても、信じなくても愛していくということです。「あなたが教会に来るなら愛する」「信じるなら愛する」というのは、本当の愛ではありません。「信じなくても愛する」「言うことを聞かなくても愛する」。そうです。本当の愛は、「ノー」と言える自由さを与えるということです。自分の意思で「はい」と言い、自分の意思で「ノー」と言えることが大切です。もし、「俺を愛さなければ殺してしまうぞ!」と強制されて、「愛します」と言うのなら本当の愛ではありません。「ノー」も言えるような自由がある。そういう中で、「はい、愛します」という愛にこそ価値があるのです。

 私たちはクリスチャンとして成長していく上で、私たちの愛も純化されていく必要があります。私たちの愛が不完全であっても、愛することをやめてはいけません。しかし、同時に、私たちの愛が純真なものとなっていくとき、このみことばのとおり、神の御栄えと誉れが現わされるのです。ペテロはイエス様に「たとえ死ぬようなことがあっても、あなたを知らないなどとは申しません」と断言しました。ペテロは嘘で言ったのではなく、本心から言ったのだと思います。でも、彼の心の中には自分はイエス様の隣に座りたい、偉くなりたいという野望がありました。また、他の人は躓いても、自分は決して躓くことはないという自己過信もあったでしょう。案の定、イエス様が捕らえられたとき、彼は恐ろしくなって逃げました。一度は、逃げはしたものの、「死でも従います」と言った手前、様子を見るために裁判所の中庭に入りました。なんと、そこで3度もイエス様を知らないと言ってしまったのです。3度目は、「そんな人は知らない」とのろいをかけて誓ったほどです。その直後、鶏が鳴いたので、ペテロは我に帰って、男泣きに泣きました。その後のことが、ヨハネ21章に書かれています。復活したイエス様が、ペテロに私を愛するかと3度も尋ねました。ヨハネ21:17 イエスは三度ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロは、イエスが三度「あなたはわたしを愛しますか。」と言われたので、心を痛めてイエスに言った。「主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を飼いなさい」。ペテロは同じことを3度も問われて、心が痛くなりました。でも、その体験を通して、「私自身には本当の愛はないんだ」ということを知らされたでしょう。「最初はあると思っていたけれど、それはニセモノだったのかもしれない」。そこまで落とされたのかもしれません。でも、十字架の死のあとには、復活があります。一度、死ぬことによって不純な愛がきよめられる。そして、復活して純真な愛になる。人生はその繰り返しかもしれません。「私の愛は純真だ!」と言えるのは、一瞬で、また、十字架の死と復活が繰り返される。天国に行くまで、その繰り返しかもしれません。でも、聖霊様は私たちに神の愛を注いでくださいます。ローマ5:5「この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」アーメン。

| | トラックバック (0)

2009年2月 8日 (日)

感謝と喜び        ピリピ1:1-7

先週で「コロサイ人への手紙」が終わり、今週からしばらくは「ピリピ人への手紙」から学びたいと思います。ピリピ人への手紙の特徴はひとことで言ったら何でしょうか?それは「喜び」であります。「喜び」とか「喜べ」ということばが、ざっと数えて、16回出てきます。なんと、パウロはローマの獄中からこの手紙を書いているのです。牢獄というところは不自由でしょうから、決して喜べるような環境ではないと思います。でも、パウロ自身は喜んでいます。私たちはその秘訣を、この手紙から学んで、体得したいと思います。ところで、「喜ぶ」というのは、感情でしょうか?もし、感情であったならば、いくら「喜べ」と言われてもそれは無理であります。パウロが「主にあって喜べ」と命じているのは、本当の喜びというのは、感情ではなく、意志とか信仰が関係するのではないかと思います。そういうところも、これから学んでいきたいと思います。

1.感謝と喜び

ピリピ1:1「キリスト・イエスのしもべであるパウロとテモテから、ピリピにいるキリスト・イエスにあるすべての聖徒たち、また監督と執事たちへ」。ローマ、コリント、ガラテヤ、エペソなどの手紙は、「使徒パウロから」といかめしい挨拶になっています。しかし、ピリピ人への手紙は「キリスト・イエスのしもべパウロから」となっています。なぜでしょう?それは、ピリピの人たちに対して、パウロが使徒としての権威を振りかざさなくも良いような親密な関係があったからでしょう。うらやましいですねー。ローマ、コリント、ガラテヤ、エペソなどは、パウロが使徒の権威をもって、正さなければならない問題があったからなのでしょう。「私はキリストの使徒として語るので、よく聞きなさいよ!」と言われたら、緊張します。でも、ピリピ人への手紙は「キリスト・イエスのしもべであるパウロから」となっています。パウロは使徒という権威を脱いで友達のように、いや、しもべとして語っています。では、なぜ、そんな姿勢でパウロは手紙を書けたのでしょう?また、どのような理由で、パウロとピリピの人たちは親密な関係を持つことができたのでしょうか?

それらの答えになるヒントは、3-5節にあると思います。「私は、あなたがたのことを思うごとに私の神に感謝し、あなたがたすべてのために祈るごとに、いつも喜びをもって祈り、あなたがたが、最初の日から今日まで、福音を広めることにあずかって来たことを感謝しています。」「最初の日から今日まで福音を広めることにあずかって来た」と書いてありますので、最初の日に起きたことと、それから今日まで福音を広めることにあずかってきたことの2つの理由があると思います。では、最初の日とはどの日でしょうか?おそらく、パウロがはじめてピリピを訪れた日のことだと思います。使徒16章を見ますとそのことが分かります。使徒パウロは第二回目の伝道旅行中、「マケドニヤに渡って来て、私たちを助けてください」という幻を見ました。それで、パウロははじめて海を渡ってヨーロッパに行きました。そして、最初に福音を伝えた町が、ピリピであります。川岸の祈り場に行って、女性たちに話しかけました。主はルデヤという女性の心を開いてくださり、彼女とその家族がバプテスマを受けました。また、占いの霊につかれた女性から悪霊を追い出しました。すると、彼女を雇っていた主人が、役人たちに訴えました。長官たちは何も調べないで、パウロとシラスにむちでうつように命じました。何度もむちで打たれた後、二人は牢にぶち込まれました。真夜中、パウロとシラスが賛美していると、突然、大地震が起こり、獄屋の土台が揺れ動きました。たちまち牢のとびらが全部あいて、みなの鎖も解けてしまいました。看守は囚人たちがみな逃げてしまったと思って、剣を抜いて自殺しようとしました。パウロは大声で「自害してはいけない。私たちはみなここにいる」と叫びました。看守は「先生方、救われるためには、何をしなければなりませんか」と言いました。二人は、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」と言いました。看守は時を移さず、二人を家に招きいれ、全家族が神様を信じました。

このように劇的にピリピの教会が誕生したのであります。リビングバイブルの緒論には、このように書いてあります。「ピリピは、パウロにとっても思い出深い町で、彼がヨーロッパに最初の教会を作ったのもこの町でした。それも、捕らえられ、むちで打たれながらも作ったのです。」パウロが捕らえられ、むち打たれて誕生した教会なので、親しい関係が生まれたのではないでしょうか?お母さんですと、お産のとき、苦しんで生んだ子どもと、すんなり生まれた子どもではどうでしょうか?ある役者が少年の頃はみな言うかもしれませんが、お母さんに、「だれも生んでくれと頼んだ覚えはない!」と言ったそうです。すると、お母さんは「○○ちゃん、そこに座りなさい。あんたがお腹にいたとき、手術しなければならならなかったのよ。お医者さんは、麻酔ができないので、「お腹のお子さんをあきらめなければ、お母さんあなたの命があぶないですよ」と言った。お母さんは「麻酔なしで手術を受けるので、どうか子どもを助けてください」とお願いした。「そうやって、あなたが生まれたのよ」と話した。それから、二度と、その少年はお母さんに、そのようなことは言わなくなったばかりか、お母さんに感謝するようになったということです。おそらく、ピリピの教会の人たちも、パウロに心から感謝していることでしょう。

第二の理由は、彼らが今日まで福音を広めることにあずかってきたということです。ピリピの人たちは、パウロが去った後、自分たちで伝道し教会をもりたてていきました。それだけではなく、パウロの宣教のために、経済的な必要をしばしば満たしてあげました。Ⅱコリント8章で、ピリピを含めた教会のことをこのように紹介しています。Ⅱコリント8:1-4「私たちは、マケドニヤの諸教会に与えられた神の恵みを、あなたがたに知らせようと思います。苦しみゆえの激しい試練の中にあっても、彼らの満ちあふれる喜びは、その極度の貧しさにもかかわらず、あふれ出て、その惜しみなく施す富となったのです。私はあかしします。彼らは自ら進んで、力に応じ、いや力以上にささげ、聖徒たちをささえる交わりの恵みにあずかりたいと、熱心に私たちに願ったのです。」それゆえに、パウロは、ピリピの人たちのために祈るとき、喜びをもって祈り、また、感謝しているのです。仮に、私たちがピリピの教会の人たちで、パウロがこのように祈ったとしたなら、どういう気持ちになるでしょうか?「おお、主よ!○○兄に信仰を与えてください。おお、主よ!○○姉の心のかたくなさを取り扱ってください!おお、主よ!○○兄の罪を赦したまえ!」じゃ、困りますね。できたら、「あなたがたのことを思うごとに私の神に感謝し、あなたがたすべてのために祈るごとに、いつも喜びをもって祈っています」と言われたいですね。でも、ピリピの教会に全く問題がなかったか、と言うとそうではありません。おそらく、パウロの心を悩ますような祈りの課題もあったでしょう。でも、パウロは感謝し喜びをもって祈ることができたのです。それは、私たちの場合であっても同じことです。なぜでしょう。その答えは、6節です。「あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです」。主ご自身が、あの日、私たちを救ってくださった。つまり、私たちのうちに良い働きを始めてくださったのです。でも、私たちの信仰がアップダウンしたり、いろんな罪や誘惑に負けて、すんなり成長しないかもしれない。でも、イエス様はどこまでも真実なお方です。そして、父なる神様は「あなたを神の国のために用いたい」と偉大なご計画を立ててくださいました。途中、挫折したり、方向を少々間違えることがあるかもしれません。でも、どうでしょうか?「あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです」

最近、テレビのCMを見ました。『安土城をつくる』パーツ付きクラフトマガジン。毎週届けられるパーツをひたすら組み立てていくと、立派なお城ができる。創刊号は590円ですが、その後は1,490円。なんと、110号で完結する。おそらく2、3年はかかるんじゃないでしょうか。なんだか、気が遠くなります。でも、ある人は完成することができます。信仰も同じであります。一体、その秘訣は何でしょうか?それは、諦めないことです。私たちの方が諦めたら、いくらイエス様でも、私たちの働きを完成させることはできません。Never give up.諦めないことです。神様はすでに、あなたにご自身の計画を与えたのではないでしょうか?あなたはそれに取り組んでいます。思ったよりも、時間がかかるかもしれない。でも、諦めなければ、世の終わり再び来られるイエス様が、完成させてくださるのです。アーメン。完成する秘訣は、Never give up.諦めないことです。イエス様ご自身が、それを完成させてくださるからです。

2.恵みと平安

 ピリピ1:2「どうか、私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように。」これは単なる挨拶ではなく、パウロのメッセージの要約でもあります。恵み、ギリシャ語でカリスは、新約聖書では、神様の一方的な好意の表れとして使われています。恵みの具体的な表れとは何でしょう?それは、神様がキリストによって与えてくださる、神様の救いです。旧訳聖書は律法の時代で、自らの行ないと努力によって、到達する道でした。生まれつきの私たちは、そういう道が大好きです。スポーツや勉強の世界では、具体的な目標をあげて、それに到達するように頑張る。それは大いに効果があがるでしょう。でも、救いの道はそうではありません。自らが一生懸命がんばると、逆に遠のいて行きます。こちらは、「これだけ一生懸命に、がんばっているのに!」と怒りが生じてきます。それでも、真面目で、意志の強い人はある程度のところまで行きます。新興宗教ほど、熱心なのはそのためです。彼らは自分が救われたいがために、一生懸命、布教活動をしています。外から見たら、彼らの方がクリスチャンよりも何倍も熱心です。でも、それは律法の道であって、本当の救いに達することは不可能です。ある宣教師が、「救い」という意味を原住民にどう伝えたら良いか迷ったそうです。そうしたら、こういう絵が浮かんだそうです。底なし沼にズブズブっと沈んでいく人がいる。その人は自分の髪の毛をつかんで持ち上げようとしても、無理です。そうではなく、別な人が安全な場所から、その人をつかんで持ち上げること。「救い」はそういうことと同じだと伝えたそうです。私たちは罪の中に生まれ、滅びへとまっしぐら進んでいました。自分の悟りや努力や行ないでは、とうてい不可能であります。そこへ、イエス様がやって来られ、私たちをつかんで、引き上げてくださったのです。

 ですから、救いにおける「恵み」というのは、私たちが自慢できるところは1つもありません。私たちの努力とか人徳によらないからです。逆に、救われる価値がなかったのに、ひどい生活をしていたのに、一方的にあちらさんが救ってくれたのです。まったく、他力本願です。でも、みなさん、恵みは救いを受けるという一点だけのことでしょうか?そうではありません。救われた後、天国に行くまで、恵みが必要なのです。「救いは恵みだけれど、信仰生活は努力とか行ないが必要です」と言うのは詐欺であります。教会(牧師)はしばしばこういう嘘を言います。「救いは恵みですけど、洗礼を受けてからは、聖日礼拝を守り、什一献金をし、隣人に伝道し、聖書を毎日読みなさい。そうしないと神様の祝福を得られませんよ」。「わー、信仰生活というのはそんなに大変のか!だまされた!」と思うかもしれません。そうじゃないんです。「礼拝を守らなければならない、献金をしなければならない、伝道しなければならない、聖書を読まなければ祝福されない」というのは律法の世界に再突入してしまいます。そうではありません。私たちはキリストにあってすでに祝福の世界に置かれているのです。大切なのは、それらを自分の力ではなく、イエス様と一緒に行なうということです。そうなると、礼拝を守ることは恵み、献金できることも恵み、伝道できることも恵み、聖書を読めることも恵みになるということです。回りを見ると、そうしていない人がいるかもしれません。「クリスチャンのくせになんだ!」とさばいてはいけません。なぜなら、自分がそうできるのは、神様の恵みだからです。みなさん、奉仕ができるのも恵みです。だから、誇るものなど1つもないのです。神様が私にそういう賜物や能力を与えて、御自身の栄光のために用いている。ただそれだけのことなのです。一人ひとり、神様から与えられた召命に従って忠実に生きたらそれで良いのです。アーメン。

 もう1つ、パウロは「平安があるように」と祈っています。平安には二段階あります。まず、第一段階は、神の救いの恵みの結果として与えられる平安です。以前の私たちは神様と敵対していました。でも、キリストの十字架によって平安がやってきたのです。別な表現をしますとこうです。以前の私たちは神様の怒りの対象でした。なぜなら、神様から離れ、様々な罪を行なっていたからです。でも、神様は御子イエスを十字架に与え、私たちの罪を全部そこに付けられました。そのために御子イエスは断罪され、神様から捨てられました。キリストにあって、私たちに対する神様の怒りが消えたのであります。しかし、それだけではまだ不十分です。私たちが御子イエス・キリストを救い主として受け入れなければなりません。贖い主イエス様を信じるときにはじめて、私たちは義とされ、神様との平和を持つことができるのです。ローマ5:1「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています」。イエス・キリストが私たちの罪の身代わりにさばかれたので、私たちはもうさばかれることはありません。イエス様を通して私たちが神様を見るときに、いかめしい裁きの神様ではありません。それは、ほうとう息子を迎える、父なる神様のようです。キリストにあって、私たちは無条件の愛で、愛されているのです。私たちがこの先、どんな生活をしようとであります。これが、救いによって与えられる平安、平和です。

 第二段階は、人との平和です。私たちは生まれながらにして、争い、憎しみ、不和を内にもっています。でも、神様は、それらの敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのです。エペソ2:14-16「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。」とあります。私たちは敵意と言うと、民族間とか、人と人との間の争いを思い浮かべます。しかし、このみことばをみますと、「敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです」とあります。なんじゃろなーと思います。なぜ、民族と民族、人と人が争うのでしょう。雇用者と従業員、牧師と信徒、教師と生徒、親と子ども、妻と夫、男と女・・・何らかの敵意を持っています。なぜ、私たちの中に敵意が生まれるのでしょうか?それはこのみことばによると、それぞれ「さまざまな規定から成り立っている戒めの律法」を持っているからです。会社ではお互いに「上司はこうでなければならない、社員はこうでなければならない」という律法がある。教会の中では、牧師は「信徒はこうでなければならない」、信徒の方では「牧師はこうでなければならない」という律法があります。家庭では、「父親は、母親は、子どもはこうでなければならない」という律法があるでしょう。相手はこうであるべきだという律法をお互いに振りかざしている。それを相手に押し付けようとしている。だから、争いが起こるのではないでしょうか?

 ですから、敵意という私たちの感情とか意志を十字架につけるのではありません。「敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法」なのですから、お互いが相手に対して持っている律法を十字架につけるのです。そうすると、敵意が消えてなくなります。なぜなら、相手をさばく定規がなくなるからです。そうすると、イエス様が平和を実現するために、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げてくださる。つまりは、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるということです。ですから、お互いが平和な心を持つためには、自分の持っている律法を十字架につける必要があるということです。そうすると、敵意が消えて、キリストにあって1つになることができるということです。ハレルヤ!大川牧師が1979年に聖霊体験をしたとき、「聖霊はおのが好むところを吹く」というみことばが与えられたそうです。そのとき、「聖霊は勝手なお方だなー、韓国ばかり吹かないで日本にも吹いてくださいよ」と思いました。しかし、待てよ、聖霊には、好き嫌いがあるのかもしれない。それではどんな教会がお好きなのだろう?それは裁き合わない教会だということが分かったそうです。それから、みるみる座間教会に人が集まり、小さなリバイバルが起こりました。私は1979年から1987年まで8年間いましたが、礼拝が180名くらいから340名くらいになりました。今は1200名くらいになっているのでしょうか?大川先生は「互いに裁き合わないように」と言っておられましたが、きょうは、裁きの原因はお互いに持っている戒めの律法だということがわかりました。私たちは律法から解放されて、恵みの中に生かされている存在です。一度、捨て去った律法を再び掘り起こさないようにしたいと思います。

 使徒パウロは「どうか、私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように」と祈っています。ハレルヤ!私たちは父なる神と主イエス・キリストから常に、恵みと平安をいただきたいと思います。そして、感謝と喜びにあふれた信仰生活を送っていきましょう。

| | トラックバック (0)

2009年2月 1日 (日)

パウロの同労者      コロサイ4:10-18

パウロは聖書の中で最も用いられた人物の一人です。新約聖書の13の手紙を書きました。また、パウロには使徒職だけではなく、霊的賜物もほとんど備えており、宣教、牧会、癒し、奇跡、預言、異言、教え、知恵、知識など、まさしく霊的巨人であります。パウロは異邦人の教会を開拓し、土台を据えた使徒でありますが、一人でやったわけではありません。パウロを支えるたくさんの同労者がいました。最後にパウロは、ローマの牢獄で捕らえられていたので、動きたくても動けない状態でした。「神様!どうして使徒パウロを解放して、もっと用いないのですか!」と訴えたくなりますが、神様の考えはそうではありません。パウロは自由に動けませんでしたが、その代わり、各教会にたくさんの手紙を書きました。パウロの同労者たちがその手紙を携えて各教会を訪問し、また、その様子をパウロに伝えたのであります。それは、私たちに「一人ではなく、チームで牧会をする」ように教えているかのようであります。

1.パウロの同労者

 「同労者」のもとになったギリシャ語の動詞はスネルゲオーですが、「一緒に働く、共働する、仕事を手伝う、助ける」という意味があります。使徒パウロと一緒に働いて、その仕事を助けた人たちにはどんな人がいたのでしょうか?まず、パウロと常に行動を共にした同労者がいました。つまり、一緒に伝道旅行をし、そこに教会が建てられたら、同労者数人が残りました。そして、ある期間が過ぎると、またパウロと合流し、その後、また他の教会に遣わされるという次第です。彼らは、使徒パウロの働きを拡大し、継続した人たちです。パウロの一番弟子は何と言ってもテモテです。コロサイ1:1「神のみこころによる、キリスト・イエスの使徒パウロ、および兄弟テモテから」と、一緒に挨拶を送っています。テモテは父がギリシャ人で母がユダヤ人でした。第二次伝道旅行中、小アジアのルステラで出会いました(使徒16章)。テモテのためには、2つの手紙が残されています。パウロ自身には子どもはいませんでしたが、「信仰による真実のわが子テモテ」と言っています。私は長男が与えられたとき、テモテと名づけたかったのですが、副牧師から「それはかわいそうだ」と止められました。当時、テレビで「テモティー」というシャンプーなかんかのCMが流行っていたからです。外国人にはそういう名前の人がいますが、やっぱり、おかしいでしょうか?今思えば、家内が名前をつけて良かったのかもしれません。

 コロサイ1:7には「テキコ」という同労者の名前が出ています。彼には、たくさんの修飾語がついています。「主にあって愛する兄弟、忠実な奉仕者、同労のしもべであるテキコ」。いいですねー。テキコの代わりに自分の名前を入れたらどうでしょうか?女の人は、「主にあって愛する姉妹、忠実な奉仕者、同労のしもべであるトシコ、サチコ、ヨシコ」。9節には「オネシモ」という人が出ています。「あなたがたの仲間の一人で、忠実な愛する兄弟オネシモ」。どうも、テキコとオネシモがローマからコロサイにパウロの様子を知らせに行くようです。でも、このオネシモと言う人はどんな人でしょう。ピレモン書を見ますと、彼はコロサイの有力なクリスチャン、ピレモンのもとから逃亡した奴隷であることがわかります。オネシモはローマの獄中でパウロと出会い、回心しました。パウロはピレモンに対して「奴隷以上の者、すなわち、愛する兄弟して受け入れるように」と願っています。オネシモは、以前は役に立たない人でしたが、今はオネシモ「役に立つ者」となったということです。それから、パウロと一緒に囚人になっている人もいました。10節には「アリスタルコ」がいます。この人物はテサロニケの人ですが、パウロとエルサレムへ一緒に行ったとき捕らえられ、船に乗ってローマに行きました。嵐で難破した船の中にパウロと一緒におり、今も、ローマの獄中で一緒です。「いやー、パウロと一緒に牢の中にいるなんて!うらやましいですね。」一緒に牢に入るくらいの同労者って何なんでしょう!また、10節半ばには、バルナバのいとこマルコの名前が載っています。マルコは第一次伝道旅行の途中、エルサレムに帰った人です。第二次伝道旅行のとき、パウロは「仕事のために同行しなかったような者はいっしょに連れて行かない方が良い」と考えました。つまり、マルコは同労者としては失格だから、「ノー、お断り」と言ったのです。でも、今は、パウロと一緒にいます。何があったのでしょう?マルコが成長したのでしょうか?それともパウロが成長したのでしょうか?Ⅱテモテ4:11でパウロは「彼は私の務めのために役に立つからです」と言っています。

 さらに、11節以降には、ユトスというイエスがおりました。ユトスはパウロを「激励する者」となってくれました。今でいうチア・リーダーのような存在ですね。指導者とは孤独なものです。パウロはユダヤ人からものすごい迫害を受け、反対者も多かったでしょう。そこに、ユトスのように「激励する人」はなんとありがたい存在でしょうか。インドネシアのエディ・レオのところに行ったとき、とても感激したのはそのことです。エディ・レオ師を物心ともに支えている人たちがいました。まるで家族のように親しい存在で、「うらやましいなー」と思いました。12節にはエパフラスという人がいます。13節からもわかるように、彼はコロサイの人ですが、コロサイ、ヒエラポリス、ラオデキヤの教会を建てたと思われます。コロサイの教会に危機が訪れたのか、ローマにいるパウロを訪ね、指示を仰ぎました。今しばらくの間、パウロと共に獄中にあったようです。でも、彼はコロサイの人たちが「完全な人となり、神のすべてのみこころを十分に確信して立つことができるように、祈りに励んでいます」。14節には「愛する医者ルカ、それにデマスが」パウロと共にいました。ルカは最初の頃からパウロと伝道旅行を共にした人物で、「使徒の働き」と「ルカによる福音書」を書いた人物です。パウロ自身、「肉体に1つのとげがある」と言っていますが、医者であるルカが共にいたということはなんと幸いでしょうか?しかも、ルカは最後の最後まで、パウロと同行していました。Ⅱテモテ4:10,11「デマスは今の世を愛し、私を捨ててテサロニケに行ってしまい、また、クレスケンスはガラテヤに、テトスはダルマテヤに行ったからです。ルカだけは私とともにおります。」とあります。デマスは最初、パウロと一緒にいましたが、「今の世を愛し、私を捨ててテサロニケに行ってしまいました」。「がびーん」であります。デマスになっては、いけません。ルカのように最後まで、忠実に従う人が良いですね。15節以降には、家の教会もあったようです。ヌンパと言う人がそこの指導者でした。17節にはアルキポがいます。おそらく、コロサイのクリスチャンであろうと思われます。アルキポにはどこか問題があったのでしょうか?パウロはアルキポに「主にあって受けた務めを、注意して果たすように」と述べています。どこか彼は不忠実だったのでしょうか?それとも、迷いがあったのでしょうか?主からゆだねられた務めを、果たすということはとても重要です。

 これで全部終わりました。パウロの同労者とはどんな人たちでしょうか?一見、パウロの手足みたいな感じがしますが、そうではありません。なぜなら、彼らもかしらなるキリストにつながっていたからです。でも、パウロは使徒として神様から召され、使徒の務めを全うするために同労者が必要でした。では、使徒とは端的にどういう人なのでしょうか?エペソ人への手紙4章には教会の五職の賜物について記されています。エペソ4:11「キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになった」とあります。使徒は五本の指の親指のような存在です。使徒(親指)、預言者(人差し指)、伝道者(中指)、牧師(薬指)、教師(小指)です。面白いことに、5本の指の中で、親指だけが、他の4本の指と、自由に接触することができます。中指で他の指と接触するためにはとても苦労します。でも、親指は万能です。そうです。使徒は教会を開拓し、神学的な土台を据える賜物があります。だから、そのときどうしても、預言者、伝道者、牧師、教師の賜物も必要になります。使徒は複雑なことがらを端的にまとめ、それを伝授していきます。しかし、使徒には唯一の欠点があります。何でしょう?その場所で、同じ働きをずっとやることができません。飽きてくるのです。パウロは長くても3年、テサロニケには3週間しかいませんでした。牧師であれば、20年も30年も、留まることができますが、使徒にはできません。それでどうするのでしょうか?教会に長老や牧師を任命し、バイバイと言って、他の地域を開拓しに行きます。でも、そのまま放っておくのではありません。自らもまた訪問することがありますが、同労者たちをそれらの教会に度々、送って指導したのです。これが使徒パウロの戦略であります。また、使徒には霊的賜物を発掘し、油注ぎを与える賜物もあります。だから、ローマの教会に「御霊の賜物をいくらかでもあなたがたに分けて、あなたがたを強くしたいからです」と願っています。テモテも時々、油が切れたのかパウロが「私の按手をもってあなたのうちに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせてください」と書き送っています。以上が、コロサイ書にあります、パウロとパウロの同労者たちのことです。パウロというか、イエス様にどこまでも従っていく、同労者になりたいですね。アーメン。

2.チームでする牧会

 後半は、どうして牧会はチームでしなければならないのか短く、お話したいと思います。最近、『チームでする教会づくり』と読み終えました。以前、古いものも読んだことがありますが、改訂版を読んで、「ああ、本当だなー」と具体的に気づかされたことがたくさんありました。ベン・ウォンのコーチングは、根っこの部分、価値観とか、動機という面が強調されていました。でも、ウェイン・コディロは『チームでする教会づくり』の本の中で、「あなたならどうしますか」という適用面も教えてくれたのでとっても助かりました。

①チームで牧会する第一の理由は、教会はキリストのからだだからです

 かしらはキリストで、一人ひとりはからだの器官です。「教会がキリストのからだである」ということは、様々な器官が組み合わされて奉仕をするように召されているということです。また、様々な器官とは、神様から与えられた様々な賜物という意味です。賜物の中には生まれつき与えたれたものとか、努力して得た賜物があるでしょう。外交的とか内向的という性格もあります。また、関係作りの得意な人もおれば、もくもくと働く仕事中心の人もいます。指導する人もおれば、手足のように活動する人もいます。また、Ⅰコリント12章には霊的な賜物があり、癒しとか預言、知識や知恵のことばがあります。あるとき、ピラーっと、聖霊様から示されることがあるでしょう。とにかく1つの価値基準で人を測ってはいけません。パウロは「からだの中で比較的弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです」(Ⅰコリント12:22)と述べています。小指を立てたまま、握ってください。何か力が入りません。しかし、小指と一緒に他の指も曲げると、ぎゅっと握力が増します。教会では音楽や賛美が目立つかもしれません。でも、隣に座って、人の話に耳を傾ける人も必要です。その人が深くうなずいてくれただけで、大きな励ましを受けるでしょう。ある人は、駐車場係りの誘導で、クリスチャンになったという人がいます。日曜日の車の送迎に感動して、クリスチャンになる人もいるかもしれません。アーメン。

 各からだの器官においてもっとも大切なことは何でしょう?その人がものすごい賜物や能力があったとしても、生かされない場合があります。それは何でしょう?キリストのからだなる教会から離れたときです。孤立した場合です。そうすると、せっかく神様から与えられた賜物が死んでしまいます。神様はキリストのからだなる教会を通して、あなたを用いたいのです。一匹狼的なクリスチャンでは、ダメなんです。手や足、そして指もからだにつながっていないと、その役目を果たすことができません。また、手足がからだから離れたなら、血液がストップし、死んでしまいます。ですから、私たちはキリストにつながるだけではなく、お互いにもつながりあって、はじめて、神様から与えられた使命を全うすることができるのです。私たちのからだ全体、私たちの賜物全体が集まると、そこに何が見えるでしょう。復活のイエス・キリストが見えてきます。イエス・キリストは今、教会と言うからだを通して、生きておられ、この世で働きたいと願っておられます。

②チームで牧会する第二の理由はクリスチャンすべてが万人祭司だからです

「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です(Ⅰペテロ2:9)」。すべてのクリスチャンは祭司です。つまり、すべての人がミニスターだということです。ミニスターとは一般的に聖職者とか大臣という意味ですが、本当はそうではありません。もともとは、ギリシャ語の「デァコネオー」から来たことばで、「給仕をする、仕える、世話をする」という意味があります。だから、ルターが言うように、すべてのキリスト者が神様と人々に仕える祭司だということです。しかし、プロテスタント教会は、ローマカトリックのなごりを、今だに持っています。石原良人師はご自分のブログでこのように述べています。「万人が祭司になるためには、教役者たちが、プライド、支配欲から解放されなければなりません。自分の欲ではなく、神の御国が広がることを欲するまで、御心を追い求める必要があります。支配欲を手放し、信徒たちが自立できるように促さない限り、万人祭司はあり得ないからです。世界を見る時に、チャーチプランテイング・ムーブメントが様々な国で起こっています。神ご自身が再臨に向けて、御国を一挙に拡大しておられるようです。実はこのムーブメントは、明らかに万人祭司を見事に実現させており、信徒が自分でセルグループ・レベルの教会を起こし、それが再生産しているのです」。ちょっと今、石原先生はひりこもりに集中していますが、良いこともおっしゃっています。

今は、「1つのセルが教会なんだ」というところまで来ています。私たちは教会員がどこかに引っ越したら、その近くの良さそうな教会を紹介します。しかし、そうではなくその引っ越した先で、セルを起こし、そこに教会を開拓するという運動が始まっています。コーチングの仲間に渡辺牧師がいます。茨城の筑西市、2005年に下館市と真壁郡など合併してできた市です。つくばの北西にあります。彼は田舎に10年くらい前に教会を開拓し、教会員は50名くらいでしょう。さらに、つくばエキスプレスでできた新たな駅の近くに、教会を開拓しようとしています。一人の姉妹を遣わし、そこから始めようとしています。ところが最近、JCMNで働いていた清水兄ご夫妻もその近くで開拓を始めました。教会はつくば市の町に集中していますが、郊外にはほとんどありません。おおー、それなのにゼロから、いやセルによって教会を始めようとしています。セルとは1つの細胞です。細胞がぽろっと、一粒の種のようにその地に根を降ろし、増殖していく。おそらく、洗礼も聖餐式すべてセルで行うのでしょう。でも、孤立しているとやっぱり弱いので、ネットワークとコーチングで支えていくということです。既存の教会の外にセルを作る、これが、今、最先端のわざです。でも、足元である当亀有教会を見たらどうでしょう?セルで教会を開拓するなどというのは夢みたいな話です。ですから、まず、本当にいのちあるセルを作ること先決です。私も郵便局を3月いっぱいで辞めて、セルを作るためのコーチングに専心していきたいと思いますので、よろしくお願いします。

③チームで牧会する第三の理由は、私たちは神の家族(共同体)だからです

ミニストリー(働き)も大事ですが、それ以上に関係が大事です。ともすれば、私たちは教会を会社組織に似せてしまいます。会社は利潤をあげるために組織化し、人々はお金を得るために働いています。命令系統は、社長、部長、課長、係長、平とピラミッド型です。会社ではミィーティング(会合)をしばしば持ちますが、大体は事務的な内容で、心の中のことは一切話しません。本音を話すところはもっぱら、居酒屋であります。そこでは、仕事の愚痴や上司の悪口でしょう。もし、教会を会社のように考えるなら、教会を大きくするために、人々を動かすでしょう。役員会も雇用者と労働者のような論争の場になるかもしれません。しかし、教会は神の家族です。もちろん、最低限度の規則とか戒規は必要でしょうが、それは特別な時だけです。ふだんは、互いに愛し合い、互いに赦しあい、互いに助け合う場であるべきです。つまり、教会は教勢(人数や予算)をあげることも大切ですが、それよりももっと大切なのは、関係であります。教会にきてほっとする、そういうところでなければなりません。それは、律法が支配しているのではなく、恵みが支配しているところです。私たちはそういう暖かい神の家族の雰囲気をかもし出して行きたいと思います。

でも、みなさん「教会は神の家族だ」とは言いますが、私たちは本当の家族を経験しているでしょうか?私の家などは、父は酒乱で、母を打ち叩き、母も子どもたちの前で父をむちゃくちゃ非難していました。兄弟同士が集まると喧嘩し、まるで無政府状態でした。そういうところで育った牧師が、「教会は神の家族です」と言っても、心の傷が癒されないとすぐには無理であります。また、韓国の家庭は儒教のもとで、非常に父親の権威が強く、口答えなど全く許されませんでした。日本の教会も韓国の教会から学びましたが、儒教の影響を受けた牧師像も一緒に学んだのではないでしょうか?かつて、「牧師に権威がなくては、教会は成長しない」とよく言われましたが、本当にそうでしょうか?ふだんちっともコミュニケーションを取らないで、権威だけ振りかざす、それは本当の牧師ではありません。本当の権威は、人々から尊敬されるときに、自然と生まれるものです。「私は牧師だから権威があるんだ」と押し付けたら、イエス様の生き方とは反対になります。教会が大人数になったら、家族のような交わりは不可能になります。「大きな教会は冷たい」と言われます。でも、少人数のグループ(セル)がその中にたくさん存在していたなら、どうでしょう。セルの中には、父や母のような存在の人、若者、霊的な子供もいるでしょう。その中でもっとも大切な役割を果たすのは、天の父の心を持った人です。ファザリングとか、メンタリングとも言いますが、父の心を持った兄弟姉妹の存在が鍵です。ルカ15章の放蕩息子の兄のような存在ではなく、父親のような存在です。どうぞ、憐れみに満ちた、父の心を持ちましょう。そうすれば、教会はひとりでに神の家族となっていきます。きょうは前半ではパウロと共に働いた同労者について学びました。また、後半はチームで教会を作るということを学びました。みなさん一人ひとりがイエス様の同労者であり、キリストのからだを形成するためのかけがいのない存在です。アーメン。

|

« 2009年1月 | トップページ | 2009年3月 »