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2009年2月15日 (日)

豊かなる愛        ピリピ1:8-11

だんだん、春が近づいてまいりました。先週の金曜日、春一番が吹いたようです。昔、キャンディーズが「もうすぐ春ですねー、恋をしてみませんか」と歌いました。昨日はバレンタインズ・ディでしたが、きょうは「恋」の話はしません。「愛」の話をしたいと思います。人がイエス様を信じてクリスチャンになりますと、神様の愛が与えられます。それは、生まれつきの愛ではなく、神様が与えてくださる新しい愛であります。でも、その愛も育てられ、訓練される必要があります。ピリピの教会の人たちにも愛がありました。でも、パウロは彼らの愛がもっと豊かになるように祈っています。きょうは、私たちの愛がどのような面において豊かになるべきなのか、3つのポイントで学びたいと思います。ピリピ1:9「私は祈っています。あなたがたの愛が真の知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、あなたがたが、真にすぐれたものを見分けることができるようになりますように。」

1.真の知識が伴った愛

真の知識はギリシャ語では、エピギノスコーと言って、「十分な知識」とか「深い知識」とも訳せることばです。当教会には子育て中の方もおりますが、子どもが大人になるまで2つの反抗期があると言われています。本当は反抗ではなく、自分と親とは別な存在であるという個別化をするための大事な時期であります。もしも、この時期、親が真の知識が伴った愛で愛するなら、子どもはしっかりと自分の足で歩き始めることができます。まず、2歳から4歳の子どもは、何でも自分でやろうとし、親の言うことを聞きません。「イヤ」を連発し、まるで悪魔っ子になりなります。ちょっとでも目を離したら、どこへでも行って、何でもしでかすでしょう。親は子どもにやってはいけないことを、愛を持って教えなければなりません。でも、子どもを虐待したり、無視をするならば、大きな傷になります。また、親が「良い子にならないと愛しませんよ」と言ったら、子どもは本音を隠し、良い子を演ずるようになるでしょう。親はそういう取引きをせず、叱るべきときは叱る。そうすれば、たとえ叱られても、子どもは愛されていると感じるのであります。もう1つ親にとっても子どもにとっても、大変な時期は思春期であります。中学から高校生でしょうか?子ども自身の中に「私はもう子供じゃない。私は私なんだ!」という独立心が起きてきます。しかし、現実的には、生活や経済面では親の世話になっています。親は「世間知らずが、生意気言うな!」と押さえつけたくなります。でも、子どもにとって、手探りではありますが、自分自身を試し、自分の頭で考え、自分の道を歩き始める大切な時期であります。だから、親には、「失敗しても大丈夫!また立ち上がれば良いさ!」という真の知識が伴った愛が必要であります。

もう1つ、真の知識が伴った愛が必要なのは男女間であります。私は結婚してわかりましたが、女は全く違う生き物だということです。ベネッセが発行している、『ねこのきもち』という本があります。今なら新規ご購読お申し込みの方全員に愛猫のしぐさの意味がわかる『ねこ語事典』プレゼントとありました。もう1つ他に『いぬのきもち』という本もありました。こっちにも『いぬ語事典』プレゼントとありました。私は、どうして『おんなの気持ち』を発行してくれないのかなーと思いました。2月末から、7週にわたり「カップルズコース」というのをやります。4週目は「衝突を解決する」というテーマで学びます。そのページにこのようなことが書いてあります。「もし、私たちがすべてにおいて、同じ意見だったら結婚はとても退屈でしょう。初め、お互いの違いはお互い引き合い夢中にさせたものです。しかしそれから、ハネムーン段階が終わり、だんだん熱が冷めてくると、魅力的だったこれらの違いは衝突を引き起こす刺激物になってしまうことがあります。この段階では違いを取り除く試みが共同生活をする上で必要となります。脱いだ靴下を洗濯籠に入れるか、はしの持ち方など、自分と同じことを要求します。要求する、巧妙にごまかす、イライラする、不満を口に出す。これらのすべては必然的に親密な関係を失わせてしまいます。悲しいことにたくさんのカップルがそのとき、自分たちはうまくいかないと結論を出してしまいます。しかし、実際はそうではありません。違いはお互いを補完するものであって共同の利益を得るために作用します。私たちは、違いや多様性について排除を試みるのではなく、貴重なものとして評価することが必要です。」と、このように書いてありました。愛は盲目とよく言われますが、成熟した愛は、真の知識が伴った愛であります。

イエス様はサマリヤの女の素性をすべて知りながらも、近づいて救いへと導きました。また、イエス様は弟子たちの長所も短所も受け入れ、彼らを最後まで愛し通されました。イエス様の一番弟子と言えばペテロであります。ペテロの本名は、バルヨナ・シモンでした。シモンとは「葦」という意味があります。風にゆらぐ葦のごとく、シモンは不安定な人でした。「麻生」と言う人も不安定ですが、「葦」であるシモンもそういう人です。でも、イエス様はシモンに対して、何と言ったでしょうか?ヨハネ1:42「イエスはシモンに目を留めて言われた。『あなたはヨハネの子シモンです。あなたをケパ(訳すとペテロ)と呼ぶことにします。』」。ペテロとは岩という意味です。イエス様はシモンの生まれ付きの性格の中に、岩のような大胆で力強い性質があることを見出していたのです。多くの場合、私たちは「あなたはシモン、不安定な人ですね」と外見や欠点に目を留めます。しかし、イエス様は真の知識をもって、「あなたをペテロ(岩)と呼ぶことにします」と言われました。そのときから、シモンの中にあったペテロがむくむくっと芽生えてきたのです。私自身もイエス様が私を忠実な者と認めてくださっておられるので(Ⅰテモテ1:12)、それに応えるしかないと思っています。このように、真の知識が伴った愛は人を生かします。あなたも、私も、真の知識が伴った愛をいただきましょう。

2.識別力のある愛

9節「あなたがたの愛が真の知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、あなたがたが、真にすぐれたものを見分けることができるようになりますように」とあります。識別力は、他に洞察力、判断力、見分ける力とも訳すことができます。なんだか愛とは縁遠い感じがします。でも、この愛は、人を育てたり、訓練するために必要な愛です。多くの場合、「愛とは無条件であって、ありのままを愛することである」と定義します。確かにそうであります。私たちは神様からありのままで愛されています。でも、同時に、神様は私たちが成長することを願っておられます。ヘブル12:6「主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである」とあります。間違ったところを矯正する、足りないところを伸ばす、これも愛であります。でも、多くのクリスチャンはそういう愛をさばきと考えてしまいます。もちろん、愛とさばきは紙一重であります。心に傷のある人は、忠告や助言すらも、さばきとして受け止めてしまいます。そのため、そのところから成長しようとはせず、逆戻りというか、後退してしまいます。ですから、救われてクリスチャンなったならば、一日も早く、鷲(イーグル)クリスチャンになるべきです。鷲は力強く天にはばたいて飛びます。それは神の力を受けて歩む信仰者の姿です。鷲は高い岩の上に巣をつくり、そこでヒナを育てます。ヒナは毎日、食べ物をもらって、ふかふかの巣で暮らしています。しかし、ヒナが成長すると親鷲はふかふかの毛を全部、巣の外へ捨て去ります。そのために、巣はゴツゴツした居心地の悪いところとなります。そして、親鷲は子鷲の前でぐるぐる飛んでみせます。ある日、子鷲を突いて巣から落とします。子鷲は「あー、人殺し!鷲殺し!」と叫びながら羽根を広げることを覚えます。親鷲は真下に行って落下する子鷲を自分の体で受け止めます。そういうことを何度か繰り返すうちに、子鷲は自分の羽根で飛ぶことを学ぶのであります。やがて、自分で獲物を取って、生活するようになります。鷲(イーグル)クリスチャンとは、言い換えると、弟子クリスチャンになることです。

神様は愛する者を懲らしめるとき、人々の叱責や冷たいことばを用いるときがあります。そういう時に、私たちがどうそれを受け止めるかが問題です。破壊的なさばきとして受け止めるか、それとも私を成長させるための糧として受け止めるかは、その人次第です。私も牧師になって何度かそういうことがありました。しかし、箴言にはすばらしいみことばがたくさんあります。箴言9:8「あざける者を責めるな。おそらく、彼はあなたを憎むだろう。知恵のある者を責めよ。そうすれば、彼はあなたを愛するだろう。」あざける者は、人の叱責や忠告に対して、怒りと憎しみをあらわにするでしょう。でも、本当に知恵ある者は、責めてくれた人を愛するということです。そうではなく、「ばかやろー、このやろー」と憤慨するならば、あざける者であります。「ありがとう」と受け入れる人は、知恵ある者です。厳しいですねー。もう一箇所、箴言27:5「あからさまに責めるのは、ひそかに愛するのにまさる」。何ということばでしょう。これは、マタイ18章の出来事と関係しています。マタイ18:15「また、もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです。」アーメン。当人のところへ行って、罪を指摘し、悔い改めに導く。これはとても勇気がいることです。でも、これは本当に愛のある人にしかできません。もしかしたら、友情をなくすかもしれません。逆ギレして、殺されるかもしれません。でも、知恵ある者は、その人に心から感謝をするでしょう。

 イエス様は、ピリポ・カイザリヤというところで、弟子たちに「あなたがたは私をだれだと言いますか?」と聞きました。シモン・ペテロが真っ先に「あなたは、生ける神の子キリストです」と答えました。イエス様は「あなたは幸いです。わたしは、あなたに天の御国のかぎをあげます。」とペテロを誉めました。その後、イエス様は「私はエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならない」と言いました。するとペテロは、「そんなことが、あなたに起こるはずはありません」とイエス様をいさめました。マタイ16:23「しかし、イエスは振り向いて、ペテロに言われた。『下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。』」先ほどは、イエス様から誉められて天にまで昇ったかと思いきや、今度は、サタン呼ばわりされて地獄の底に落とされました。ガビーンであります。イエス様の愛は、識別力のある愛でした。言い換えると、イエス様の愛には、洞察力、判断力、見分ける力が伴っていました。だから、ペテロの人間的な愛を見破って、叱責したのであります。ま、ここではペテロをサタンと言ったのではなく、ペテロの背後にサタンがいて、そういうことを言わせた。サタンの誘惑に負けて、そういうことばを発したことを責めたのであります。ペテロはそのとき、「ああ、私はサタン呼ばわりされた!」と傷ついたかもしれませんが、あとから、「ああ、あのときは完全にやられていたなー」と気づいたことでしょう。

懲らしめも愛、叱責も愛、と受け止められたら何と幸いでしょう。長年、老人介護をされた先生がある本の中でこう述べています。「厳しい冬を経なければ春の本当の素晴らしさを体験できないように、また苦悩を経なければ歓喜に至れないように、ごく平凡な人間である私たちは、老人の言葉や行為によって幾度も幾度も痛打されておかないと、老人のいのちに触れることなどできないのだと思います。」これはクリスチャンも自己吟味が必要だということであります。

 

3.純真な愛

 1:10後半「またあなたがたが、キリストの日には純真で非難されるところがなく、イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされている者となり、神の御栄えと誉れが現わされますように。」文章はもっと複雑になっていますが、「純真な愛」としてまとめました。純真な愛とは混じり気のない愛です。私たちの愛には、いろんな不純物が混じっていることがよくあります。外側は愛の行ないであっても、神様は私たちの動機をご覧になっています。怒り、ねたみ、高ぶり、自己保身を取り除いた純真な愛が求められます。あるセミナーで、「愛の反対は何でしょう?」という質問が出されました。「愛の反対は、憎しみではないでだろうか?」というのがおおかたの答えでした。ところがその時、「愛の反対は、コントロール(支配)である」いう答えがありました。「えー?そうかなー」と思いましたが、時間が経つにつれて、「ああ、そうだなー」と思うようになりました。私たちは無意識的に人々を操作して、自分の思いどおりに動かそうとするところがないでしょうか?ある時は怒りによって、ある時は哀れみを乞い、ある時は魔術的な行ないによって人をコントロールしてはいないでしょうか?純真な愛は、人をコントロールせず、「ノー」と言える自由を与えます。しかし、不純な愛は、人をコントロールし、「ノー」を言わせない。ある人から「○○をやってください」と頼まれて、「あれー?これはコントロールじゃないの?」と思うときがたまにあります。その人は無意識でやっているのかもしれません。また、周りの人も無意識で従っています。共依存の関係もまさしくそのような関係であります。女性だったらヒステリーで、男性だったら暴力で相手に圧力をかけて、「ノー」を言わせない。聞き従っている人は、喜んで従っていないので、次第に怒りがたまってきます。これは良くない関係だと思います。

 ところで、アガペー(神の愛)という名前までついている教会があります。しかし、今では完全にカルトになっています。信徒のうちはまだ良いのですが、献身者になると、牧師の言うことに対して完全服従を強いられます。「指導者に逆らうことは、神様に逆らうことと同じだ。家族よりもミニストリーの方が大事なんだ」。そういう教えを叩き込まれる。次第に自分で考えることができなくなり、ロボットのようになります。洗脳と言った方が良いのかもしれません。あげくの果、牧師がパワハラやセクハラを継続的に行ない、神の教会と言えなくなってしまう。程度差はあるかもしれませんが、こういう教会が日本にいくつか存在します。外から見たら、大ぜいの人たちが集まり、「すごい成長ぶりだなー」と注目されます。ところが、あるところまで行くと、土台ごとひっくり返る。それは動機が不純だったからではないかと思います。神の王国を建てるのではなく、自分の王国を建てて、一国の城主になろうとしているからです。小さい教会が良いとは申しませんが、神の霊が豊かに臨在する良い教会を作りたいと思います。私たちが伝道する動機は、その人が救われて天国に行ってもらいたいからです。福音の愛で愛するとは、その人が信じても、信じなくても愛していくということです。「あなたが教会に来るなら愛する」「信じるなら愛する」というのは、本当の愛ではありません。「信じなくても愛する」「言うことを聞かなくても愛する」。そうです。本当の愛は、「ノー」と言える自由さを与えるということです。自分の意思で「はい」と言い、自分の意思で「ノー」と言えることが大切です。もし、「俺を愛さなければ殺してしまうぞ!」と強制されて、「愛します」と言うのなら本当の愛ではありません。「ノー」も言えるような自由がある。そういう中で、「はい、愛します」という愛にこそ価値があるのです。

 私たちはクリスチャンとして成長していく上で、私たちの愛も純化されていく必要があります。私たちの愛が不完全であっても、愛することをやめてはいけません。しかし、同時に、私たちの愛が純真なものとなっていくとき、このみことばのとおり、神の御栄えと誉れが現わされるのです。ペテロはイエス様に「たとえ死ぬようなことがあっても、あなたを知らないなどとは申しません」と断言しました。ペテロは嘘で言ったのではなく、本心から言ったのだと思います。でも、彼の心の中には自分はイエス様の隣に座りたい、偉くなりたいという野望がありました。また、他の人は躓いても、自分は決して躓くことはないという自己過信もあったでしょう。案の定、イエス様が捕らえられたとき、彼は恐ろしくなって逃げました。一度は、逃げはしたものの、「死でも従います」と言った手前、様子を見るために裁判所の中庭に入りました。なんと、そこで3度もイエス様を知らないと言ってしまったのです。3度目は、「そんな人は知らない」とのろいをかけて誓ったほどです。その直後、鶏が鳴いたので、ペテロは我に帰って、男泣きに泣きました。その後のことが、ヨハネ21章に書かれています。復活したイエス様が、ペテロに私を愛するかと3度も尋ねました。ヨハネ21:17 イエスは三度ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロは、イエスが三度「あなたはわたしを愛しますか。」と言われたので、心を痛めてイエスに言った。「主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を飼いなさい」。ペテロは同じことを3度も問われて、心が痛くなりました。でも、その体験を通して、「私自身には本当の愛はないんだ」ということを知らされたでしょう。「最初はあると思っていたけれど、それはニセモノだったのかもしれない」。そこまで落とされたのかもしれません。でも、十字架の死のあとには、復活があります。一度、死ぬことによって不純な愛がきよめられる。そして、復活して純真な愛になる。人生はその繰り返しかもしれません。「私の愛は純真だ!」と言えるのは、一瞬で、また、十字架の死と復活が繰り返される。天国に行くまで、その繰り返しかもしれません。でも、聖霊様は私たちに神の愛を注いでくださいます。ローマ5:5「この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」アーメン。

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