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2009年2月 8日 (日)

感謝と喜び        ピリピ1:1-7

先週で「コロサイ人への手紙」が終わり、今週からしばらくは「ピリピ人への手紙」から学びたいと思います。ピリピ人への手紙の特徴はひとことで言ったら何でしょうか?それは「喜び」であります。「喜び」とか「喜べ」ということばが、ざっと数えて、16回出てきます。なんと、パウロはローマの獄中からこの手紙を書いているのです。牢獄というところは不自由でしょうから、決して喜べるような環境ではないと思います。でも、パウロ自身は喜んでいます。私たちはその秘訣を、この手紙から学んで、体得したいと思います。ところで、「喜ぶ」というのは、感情でしょうか?もし、感情であったならば、いくら「喜べ」と言われてもそれは無理であります。パウロが「主にあって喜べ」と命じているのは、本当の喜びというのは、感情ではなく、意志とか信仰が関係するのではないかと思います。そういうところも、これから学んでいきたいと思います。

1.感謝と喜び

ピリピ1:1「キリスト・イエスのしもべであるパウロとテモテから、ピリピにいるキリスト・イエスにあるすべての聖徒たち、また監督と執事たちへ」。ローマ、コリント、ガラテヤ、エペソなどの手紙は、「使徒パウロから」といかめしい挨拶になっています。しかし、ピリピ人への手紙は「キリスト・イエスのしもべパウロから」となっています。なぜでしょう?それは、ピリピの人たちに対して、パウロが使徒としての権威を振りかざさなくも良いような親密な関係があったからでしょう。うらやましいですねー。ローマ、コリント、ガラテヤ、エペソなどは、パウロが使徒の権威をもって、正さなければならない問題があったからなのでしょう。「私はキリストの使徒として語るので、よく聞きなさいよ!」と言われたら、緊張します。でも、ピリピ人への手紙は「キリスト・イエスのしもべであるパウロから」となっています。パウロは使徒という権威を脱いで友達のように、いや、しもべとして語っています。では、なぜ、そんな姿勢でパウロは手紙を書けたのでしょう?また、どのような理由で、パウロとピリピの人たちは親密な関係を持つことができたのでしょうか?

それらの答えになるヒントは、3-5節にあると思います。「私は、あなたがたのことを思うごとに私の神に感謝し、あなたがたすべてのために祈るごとに、いつも喜びをもって祈り、あなたがたが、最初の日から今日まで、福音を広めることにあずかって来たことを感謝しています。」「最初の日から今日まで福音を広めることにあずかって来た」と書いてありますので、最初の日に起きたことと、それから今日まで福音を広めることにあずかってきたことの2つの理由があると思います。では、最初の日とはどの日でしょうか?おそらく、パウロがはじめてピリピを訪れた日のことだと思います。使徒16章を見ますとそのことが分かります。使徒パウロは第二回目の伝道旅行中、「マケドニヤに渡って来て、私たちを助けてください」という幻を見ました。それで、パウロははじめて海を渡ってヨーロッパに行きました。そして、最初に福音を伝えた町が、ピリピであります。川岸の祈り場に行って、女性たちに話しかけました。主はルデヤという女性の心を開いてくださり、彼女とその家族がバプテスマを受けました。また、占いの霊につかれた女性から悪霊を追い出しました。すると、彼女を雇っていた主人が、役人たちに訴えました。長官たちは何も調べないで、パウロとシラスにむちでうつように命じました。何度もむちで打たれた後、二人は牢にぶち込まれました。真夜中、パウロとシラスが賛美していると、突然、大地震が起こり、獄屋の土台が揺れ動きました。たちまち牢のとびらが全部あいて、みなの鎖も解けてしまいました。看守は囚人たちがみな逃げてしまったと思って、剣を抜いて自殺しようとしました。パウロは大声で「自害してはいけない。私たちはみなここにいる」と叫びました。看守は「先生方、救われるためには、何をしなければなりませんか」と言いました。二人は、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」と言いました。看守は時を移さず、二人を家に招きいれ、全家族が神様を信じました。

このように劇的にピリピの教会が誕生したのであります。リビングバイブルの緒論には、このように書いてあります。「ピリピは、パウロにとっても思い出深い町で、彼がヨーロッパに最初の教会を作ったのもこの町でした。それも、捕らえられ、むちで打たれながらも作ったのです。」パウロが捕らえられ、むち打たれて誕生した教会なので、親しい関係が生まれたのではないでしょうか?お母さんですと、お産のとき、苦しんで生んだ子どもと、すんなり生まれた子どもではどうでしょうか?ある役者が少年の頃はみな言うかもしれませんが、お母さんに、「だれも生んでくれと頼んだ覚えはない!」と言ったそうです。すると、お母さんは「○○ちゃん、そこに座りなさい。あんたがお腹にいたとき、手術しなければならならなかったのよ。お医者さんは、麻酔ができないので、「お腹のお子さんをあきらめなければ、お母さんあなたの命があぶないですよ」と言った。お母さんは「麻酔なしで手術を受けるので、どうか子どもを助けてください」とお願いした。「そうやって、あなたが生まれたのよ」と話した。それから、二度と、その少年はお母さんに、そのようなことは言わなくなったばかりか、お母さんに感謝するようになったということです。おそらく、ピリピの教会の人たちも、パウロに心から感謝していることでしょう。

第二の理由は、彼らが今日まで福音を広めることにあずかってきたということです。ピリピの人たちは、パウロが去った後、自分たちで伝道し教会をもりたてていきました。それだけではなく、パウロの宣教のために、経済的な必要をしばしば満たしてあげました。Ⅱコリント8章で、ピリピを含めた教会のことをこのように紹介しています。Ⅱコリント8:1-4「私たちは、マケドニヤの諸教会に与えられた神の恵みを、あなたがたに知らせようと思います。苦しみゆえの激しい試練の中にあっても、彼らの満ちあふれる喜びは、その極度の貧しさにもかかわらず、あふれ出て、その惜しみなく施す富となったのです。私はあかしします。彼らは自ら進んで、力に応じ、いや力以上にささげ、聖徒たちをささえる交わりの恵みにあずかりたいと、熱心に私たちに願ったのです。」それゆえに、パウロは、ピリピの人たちのために祈るとき、喜びをもって祈り、また、感謝しているのです。仮に、私たちがピリピの教会の人たちで、パウロがこのように祈ったとしたなら、どういう気持ちになるでしょうか?「おお、主よ!○○兄に信仰を与えてください。おお、主よ!○○姉の心のかたくなさを取り扱ってください!おお、主よ!○○兄の罪を赦したまえ!」じゃ、困りますね。できたら、「あなたがたのことを思うごとに私の神に感謝し、あなたがたすべてのために祈るごとに、いつも喜びをもって祈っています」と言われたいですね。でも、ピリピの教会に全く問題がなかったか、と言うとそうではありません。おそらく、パウロの心を悩ますような祈りの課題もあったでしょう。でも、パウロは感謝し喜びをもって祈ることができたのです。それは、私たちの場合であっても同じことです。なぜでしょう。その答えは、6節です。「あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです」。主ご自身が、あの日、私たちを救ってくださった。つまり、私たちのうちに良い働きを始めてくださったのです。でも、私たちの信仰がアップダウンしたり、いろんな罪や誘惑に負けて、すんなり成長しないかもしれない。でも、イエス様はどこまでも真実なお方です。そして、父なる神様は「あなたを神の国のために用いたい」と偉大なご計画を立ててくださいました。途中、挫折したり、方向を少々間違えることがあるかもしれません。でも、どうでしょうか?「あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです」

最近、テレビのCMを見ました。『安土城をつくる』パーツ付きクラフトマガジン。毎週届けられるパーツをひたすら組み立てていくと、立派なお城ができる。創刊号は590円ですが、その後は1,490円。なんと、110号で完結する。おそらく2、3年はかかるんじゃないでしょうか。なんだか、気が遠くなります。でも、ある人は完成することができます。信仰も同じであります。一体、その秘訣は何でしょうか?それは、諦めないことです。私たちの方が諦めたら、いくらイエス様でも、私たちの働きを完成させることはできません。Never give up.諦めないことです。神様はすでに、あなたにご自身の計画を与えたのではないでしょうか?あなたはそれに取り組んでいます。思ったよりも、時間がかかるかもしれない。でも、諦めなければ、世の終わり再び来られるイエス様が、完成させてくださるのです。アーメン。完成する秘訣は、Never give up.諦めないことです。イエス様ご自身が、それを完成させてくださるからです。

2.恵みと平安

 ピリピ1:2「どうか、私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように。」これは単なる挨拶ではなく、パウロのメッセージの要約でもあります。恵み、ギリシャ語でカリスは、新約聖書では、神様の一方的な好意の表れとして使われています。恵みの具体的な表れとは何でしょう?それは、神様がキリストによって与えてくださる、神様の救いです。旧訳聖書は律法の時代で、自らの行ないと努力によって、到達する道でした。生まれつきの私たちは、そういう道が大好きです。スポーツや勉強の世界では、具体的な目標をあげて、それに到達するように頑張る。それは大いに効果があがるでしょう。でも、救いの道はそうではありません。自らが一生懸命がんばると、逆に遠のいて行きます。こちらは、「これだけ一生懸命に、がんばっているのに!」と怒りが生じてきます。それでも、真面目で、意志の強い人はある程度のところまで行きます。新興宗教ほど、熱心なのはそのためです。彼らは自分が救われたいがために、一生懸命、布教活動をしています。外から見たら、彼らの方がクリスチャンよりも何倍も熱心です。でも、それは律法の道であって、本当の救いに達することは不可能です。ある宣教師が、「救い」という意味を原住民にどう伝えたら良いか迷ったそうです。そうしたら、こういう絵が浮かんだそうです。底なし沼にズブズブっと沈んでいく人がいる。その人は自分の髪の毛をつかんで持ち上げようとしても、無理です。そうではなく、別な人が安全な場所から、その人をつかんで持ち上げること。「救い」はそういうことと同じだと伝えたそうです。私たちは罪の中に生まれ、滅びへとまっしぐら進んでいました。自分の悟りや努力や行ないでは、とうてい不可能であります。そこへ、イエス様がやって来られ、私たちをつかんで、引き上げてくださったのです。

 ですから、救いにおける「恵み」というのは、私たちが自慢できるところは1つもありません。私たちの努力とか人徳によらないからです。逆に、救われる価値がなかったのに、ひどい生活をしていたのに、一方的にあちらさんが救ってくれたのです。まったく、他力本願です。でも、みなさん、恵みは救いを受けるという一点だけのことでしょうか?そうではありません。救われた後、天国に行くまで、恵みが必要なのです。「救いは恵みだけれど、信仰生活は努力とか行ないが必要です」と言うのは詐欺であります。教会(牧師)はしばしばこういう嘘を言います。「救いは恵みですけど、洗礼を受けてからは、聖日礼拝を守り、什一献金をし、隣人に伝道し、聖書を毎日読みなさい。そうしないと神様の祝福を得られませんよ」。「わー、信仰生活というのはそんなに大変のか!だまされた!」と思うかもしれません。そうじゃないんです。「礼拝を守らなければならない、献金をしなければならない、伝道しなければならない、聖書を読まなければ祝福されない」というのは律法の世界に再突入してしまいます。そうではありません。私たちはキリストにあってすでに祝福の世界に置かれているのです。大切なのは、それらを自分の力ではなく、イエス様と一緒に行なうということです。そうなると、礼拝を守ることは恵み、献金できることも恵み、伝道できることも恵み、聖書を読めることも恵みになるということです。回りを見ると、そうしていない人がいるかもしれません。「クリスチャンのくせになんだ!」とさばいてはいけません。なぜなら、自分がそうできるのは、神様の恵みだからです。みなさん、奉仕ができるのも恵みです。だから、誇るものなど1つもないのです。神様が私にそういう賜物や能力を与えて、御自身の栄光のために用いている。ただそれだけのことなのです。一人ひとり、神様から与えられた召命に従って忠実に生きたらそれで良いのです。アーメン。

 もう1つ、パウロは「平安があるように」と祈っています。平安には二段階あります。まず、第一段階は、神の救いの恵みの結果として与えられる平安です。以前の私たちは神様と敵対していました。でも、キリストの十字架によって平安がやってきたのです。別な表現をしますとこうです。以前の私たちは神様の怒りの対象でした。なぜなら、神様から離れ、様々な罪を行なっていたからです。でも、神様は御子イエスを十字架に与え、私たちの罪を全部そこに付けられました。そのために御子イエスは断罪され、神様から捨てられました。キリストにあって、私たちに対する神様の怒りが消えたのであります。しかし、それだけではまだ不十分です。私たちが御子イエス・キリストを救い主として受け入れなければなりません。贖い主イエス様を信じるときにはじめて、私たちは義とされ、神様との平和を持つことができるのです。ローマ5:1「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています」。イエス・キリストが私たちの罪の身代わりにさばかれたので、私たちはもうさばかれることはありません。イエス様を通して私たちが神様を見るときに、いかめしい裁きの神様ではありません。それは、ほうとう息子を迎える、父なる神様のようです。キリストにあって、私たちは無条件の愛で、愛されているのです。私たちがこの先、どんな生活をしようとであります。これが、救いによって与えられる平安、平和です。

 第二段階は、人との平和です。私たちは生まれながらにして、争い、憎しみ、不和を内にもっています。でも、神様は、それらの敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのです。エペソ2:14-16「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。」とあります。私たちは敵意と言うと、民族間とか、人と人との間の争いを思い浮かべます。しかし、このみことばをみますと、「敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです」とあります。なんじゃろなーと思います。なぜ、民族と民族、人と人が争うのでしょう。雇用者と従業員、牧師と信徒、教師と生徒、親と子ども、妻と夫、男と女・・・何らかの敵意を持っています。なぜ、私たちの中に敵意が生まれるのでしょうか?それはこのみことばによると、それぞれ「さまざまな規定から成り立っている戒めの律法」を持っているからです。会社ではお互いに「上司はこうでなければならない、社員はこうでなければならない」という律法がある。教会の中では、牧師は「信徒はこうでなければならない」、信徒の方では「牧師はこうでなければならない」という律法があります。家庭では、「父親は、母親は、子どもはこうでなければならない」という律法があるでしょう。相手はこうであるべきだという律法をお互いに振りかざしている。それを相手に押し付けようとしている。だから、争いが起こるのではないでしょうか?

 ですから、敵意という私たちの感情とか意志を十字架につけるのではありません。「敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法」なのですから、お互いが相手に対して持っている律法を十字架につけるのです。そうすると、敵意が消えてなくなります。なぜなら、相手をさばく定規がなくなるからです。そうすると、イエス様が平和を実現するために、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げてくださる。つまりは、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるということです。ですから、お互いが平和な心を持つためには、自分の持っている律法を十字架につける必要があるということです。そうすると、敵意が消えて、キリストにあって1つになることができるということです。ハレルヤ!大川牧師が1979年に聖霊体験をしたとき、「聖霊はおのが好むところを吹く」というみことばが与えられたそうです。そのとき、「聖霊は勝手なお方だなー、韓国ばかり吹かないで日本にも吹いてくださいよ」と思いました。しかし、待てよ、聖霊には、好き嫌いがあるのかもしれない。それではどんな教会がお好きなのだろう?それは裁き合わない教会だということが分かったそうです。それから、みるみる座間教会に人が集まり、小さなリバイバルが起こりました。私は1979年から1987年まで8年間いましたが、礼拝が180名くらいから340名くらいになりました。今は1200名くらいになっているのでしょうか?大川先生は「互いに裁き合わないように」と言っておられましたが、きょうは、裁きの原因はお互いに持っている戒めの律法だということがわかりました。私たちは律法から解放されて、恵みの中に生かされている存在です。一度、捨て去った律法を再び掘り起こさないようにしたいと思います。

 使徒パウロは「どうか、私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように」と祈っています。ハレルヤ!私たちは父なる神と主イエス・キリストから常に、恵みと平安をいただきたいと思います。そして、感謝と喜びにあふれた信仰生活を送っていきましょう。

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