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2009年1月25日 (日)

祈ってください   コロサイ4:1-9

 元旦礼拝で、私たちは霊的に、天のところにすわっているということを学びました。ですから、目をつぶり、すぐ隣にイエス様、さらに向こう側には父なる神様がおられる。そのことを想像しながら祈ることができるのです。しかし、目を開けると私たちの肉体は地上にありますので、いろんな悩みごとがどっと押し寄せます。でも、また目をつぶると天のイエス様の隣にいます。すると地上の問題が小さく見えてきます。いっそのこと目をつぶって生活したくなりますが、そういうわけにはいきません。きょうは、前半は祈りについて、後半はあかし伝道について学びたいと思います。

1.祈りの三要素

 祈りには3つの要素があります。第一は交わりの祈りです。2節に「目をさまして」とあり、その下には、「たゆみなく祈りなさい」とあります。「目をさまして、たゆみなく祈れ」とは、神様と交わる祈りであります。また、「目をさまして」とは、霊的に目をさますということです。霊的に眠っていますと、罪と誘惑に負けてしまうからです。ゲツセマネの園で、イエス様は「目をさまして祈っていなさい」と弟子たちに命じました。ところが、彼らは寝入ってしまいました。お祈りがお寝入りになったのです。イエス様はこのようにおっしゃいました。「あなたがたは、そんなに、一時間でも、私と一緒に目をさましていることができなかったのか。誘惑に陥らないように、目をさまして祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです」(マタイ26:40-41)。ここだけを見ると、「1時間、ずっと続けて、祈れ!」みたいに思います。でも、みなさん、1時間、声を出して、祈り続けることができるでしょうか?昔、愛知県民の森で、毎年1月に教職者ゼミナールがありました。防寒服に身を包み、雪道を掻き分けで森に入り、5時半から7時くらいまで祈ったことがあります。とにかく寒いので、体を揺さぶりながら、大声を上げて祈ります。たまには良いけど、「あの時は、辛かったなー」という思いばかり残ります。みなさん、祈りは神様との交わりです。それなのに、「神様、あなたとの交わりは本当にしんどいです」と言ったら、失礼です。時には、雄叫びの祈りも必要ですが、祈りの基本は、神様との交わりです。ですから、そんなに、1時間もガンガン一方的に祈る必要はありません。こっちが話したり、神様の御声に耳を傾けたりという交互のやり取りが大事なのです。

 では、神様と交わってどのような効果があるのでしょうか?神様と交わると、神様のご性質をいただくことができます。モーセは主の前に出て祈りましたが、なんと、モーセの顔のはだが光を放っていました。神様と交わると神様の栄光が私たちに着せられるということでしょう。それはまた、神様が持っておられる聖さ、知恵、力をいただくことができるということです。エレミヤ33:3「わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう」とあります。また、詩篇139:23-24には、「神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。」とあります。神様と交わると、神様が私たちの心の深いところをチェックしてくださいます。私たちは行ないが正しくても、動機が汚れているときがあります。そういう場合、神様は、心の傷や罪を示してくださいます。今、預言喫茶というのが流行っています。多くのクリスチャンが、預言を求めて出かけます。気持ちはわかります。でも、自分自身が祈って、神様に聞くのが基本であります。自分はちっとも祈らないで、人が預言してくれるのを期待するのは、占いに近いことです。私は預言を信じますが、多くの場合は、チェックのためであります。「自分が神様から語られていたことが、やっぱり本当だった」と分かるからです。現代人は携帯電話で多くの人たちとひっきりなしに会話をしたり、メールのやり取りをします。人との交わりも良いですが、それはあくまでも水平的なものしか得られません。しかし、神様との交わりは垂直的です。神様は、人の理解を超えた知恵や解決、導きを与えてくださるからです。どうぞ、目をさまして、たゆみなく祈りましょう。

 祈りの第二の要素は、求める祈りです。マタイ7章に「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます」とあります。また、ルカ18章には、やもめと不正な裁判官のたとえ話があります。裁判官は、神を恐れず、人を人とも思わない人でした。だが、そのやもめは、ひっきりなしにやって来て、うるさいので仕方なく、彼女のために裁判をしてあげました。イエス様は、そのたとえを用いて「失望しないで、いつでも祈りなさい」と教えました。神様は私たちの祈りを、一回で聞いてくれることもありますが、何回も何十回も祈ってから、聞いてくれることがあります。何故でしょうか?残念ながら、私にもわかりません。少しだけ分かることは、祈りと信仰が関係あるように思います。私たちは信仰がなくても、求めることができます。ただ、欲しいからとか、「そうなれば良いなー」ぐらいの淡い望みです。そういうふうに求めたものは、1,2回で消えてなくなります。その時は、「ま、いいか、神様に頼らなくても、自分の力でなんとかなるさ」と思うでしょう。でも、自分でも手におえないことがあります。しかも、それが絶対に叶えてもらいたいのです。そうすると、私たちは恥も外聞も捨てて祈るのです。祈るのです。祈るのです。そうするとどうでしょうか?私たちの中に、信仰が湧いてきます。また、聖霊の炎によってその祈りが聖められ、「これは神様に届いている」と確信します。神様は私たちの信仰が成長するように願っておられるのです。

 さらに、コロサイ4:2には「感謝をもって、たゆみなく祈りなさい」と書いてあります。祈りに必要なものは、感謝であります。感謝とは信仰があることの表れです。そうなる前から、神様にありがとうございますと言っているからです。イエス様がラザロをよみがえらせたとき、どのように祈られたでしょうか?ヨハネ11:41「父よ。私の願いを聞いてくださったことを感謝します。私は、あなたがいつも私の願いを聞いてくださることを知っておりました」と言われました。その後、「ラザロよ。出てきなさい」と大声で叫ばれました。大川牧師がよくメッセージでおっしゃいます。「祈りが聞かれた後は、だれでも感謝ができます。大切なのは、祈りが聞かれる前から、先取りをして、感謝をすることです」と。でも、みなさん、祈りがなかなか聞かれないと、感謝なんかできません。「主よ、どうしてなんですか。私がこんなに辛いのに、いつまでほうっておいているのですか?主よ、何とかしてくださいよ!」と自己憐憫に陥ってしまいます。しかし、悩みの底から、叫ぶと「ああ、感謝だったなー、感謝が大切なんだ!」と悟ります。しかし、また、感謝が消えて、絶望感に満たされます。「いや、そうじゃない。感謝が大切だ!主よ。信じます。主よ、感謝します。」正直、私などはこういう繰り返しが多いです。ピリピ4:6「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい」とあります。このみことばは、交わりの祈りと求める祈りが、合体したものをささげよと教えています。詩篇のあちこちにも、最初は嘆きで始まり、最後は賛美と確信に終わっている箇所がたくさんあります。私たちも嘆きと絶望感を神様に訴え、その後、信仰をいただき感謝をもって祈るのです。求めの祈りは、戦いの祈りです。不信仰に負けてはいけません。ただ、ただ主にすがり、感謝をもって祈るのです。そうすると、祈りがまだ叶えられていなくても、主の真実にゆだねる信仰が湧いてきます。

祈りの第三の要素は、とりなしの祈りです。パウロは、「同時に、私たちのためにも、神がみことばのために門を開いてくださって、私たちがキリストの奥義を語れるように、祈ってください。・・・私がこの奥義を、当然語るべき語り方で、はっきり語れるように、祈ってください」とお願いしています。とりなしの祈りとは、当人の代わりにこちらが祈ってあげるということです。当人自身も祈っているのですが、それではまだ足りないということです。あのイエス様ですら、ゲツセマネの園で、「悲しみのあまり死にそうなので、私のために祈ってくれ」と弟子たちに要請しました。使徒パウロも、ローマで福音が語れるように祈ってくれとコロサイの教会にお願いしています。出エジプト17章に、このような記事があります。アマレクがイスラエルの後方から襲いかかりました。おそらく後方には、行進についていけない弱い人たちがいたのでしょう。ヨシュアが先頭に立ち、彼らと戦いました。そして、丘の頂で、モーセが神の杖をもって祈りました。ところがどうでしょう?モーセが手を上げているときは、イスラエルが優勢になり、手を降ろしているときは、アマレクが優勢になりました。そのためモーセが石の上に腰賭け、手をあげました。そして、アロンとフルが、ひとりはこちら側、ひとりはあちら側から、モーセの手をささえました。それでモーセの手は日が沈むまで、しっかりそのままでした。それゆえ、ヨシュアは、アマレクとその民を剣の刃で打ち破ることができたのです。実際、アマレクと戦ったのはヨシュアと兵士たちです。しかし、丘の頂では、モーセとアロン、フルが祈っていたのです。これがとりなしの祈りです。

とりなしの祈りは、霊的戦いのときは欠かすことができません。親が子どものためにとりなす必要があります。また、牧師は信徒のために、信徒は牧師のためにとりなす必要があります。Ⅰテモテ2:1「すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。それは、私たちが敬虔に、また、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすためです。」とあります。先週はオバマ大統領の就任式がありました。ジョセフ・ラウリー牧師が祝福の祈りをしました。インターネットに翻訳が載っていましたので紹介いたします。「主よ、既に休まれた全ての聖人の思い出により、さらに、新しい時代の始まりの歓びにより、その日のために私たちが働くのを助けてください。黒い人が後に入れと言われない日、茶色い人がそこに留まる日、黄色い人が栄える日、赤い人が成功できる日、そして、白い人が正しいことを受け入れる日。正しいことを行い寛容を愛するすべての人はアーメンを唱えます。」全世界の人々を色で分けてたのは興味深いことです。おそらく、数え切れないほどのアメリカの人たちが、オバマ大統領のために祈っているでしょう。でも、麻生首相のために祈っている日本人はどれだけいるでしょうか?「あんな漢字も読めないのか!」と批判しているかもしれません。大川牧師は早天祈祷会で、天皇陛下とそのご家族のためにも祈っていました。私は、高い地位にある人たちのために祈っていないことを告白して悔い改めます。活動的な人はあまり祈らない傾向があります。そうすると、霊的な守りが欠如して、穴があいてしまいます。ですから、教会の一致のために、またその働きのために祈りが必要です。祈りは年をとって、体があまり動かなくなってからもできます。とりなしの祈りをあなどってはいけません。教会で奉仕をする人も必要ですが、背後でとりなしの祈りをする人も同じくらい重要です。どうぞ、困難の中で闘っている兄姉のために祈りましょう。また、人々が救われますように、教会の必要が満たされますように、どうぞお祈りください。

2.あかし伝道の三要素

 「あかし伝道」って何ですかと、疑問に思う方もおられるかもしれません。でも、これはとても聖書的です。マタイ24章は世の終わりのときのしるしが書かれています。マタイ24:14「この御国の福音は全世界に宣べ伝えられ、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます」と書かれています。福音が宣べ伝えられるだけではなく、あかしされることも必要だということです。つまり、あかし伝道とは、私たちの生活とことばを通して、福音を伝えるということです。コロサイ4:5-6は、あかし伝道の三要素について教えています。第一は、懸命なふるまいです。5節「外部の人に対して賢明にふるまい」となっています。リビングバイブルでは、「彼らとは、いつも賢く慎重に接しなさい」と訳されています。「外部の人」とはだれでしょう?パウロはローマにおいて、牢に入れられていました。何故でしょう?福音を語ったために、捕らえられていたのです。今の私たちの時代では、捕らえられることはなくても、多少の迫害はあるでしょう。私たちは毎日、多くの未信者と接しています。彼らのほとんどは、一度も聖書も読んだことがなく、福音を聞いたこともない人たちです。そういう中で、私たちは福音に生かされている者として、行動すべきです。旧訳聖書でヨセフという人物がいます。ヨセフは奴隷としてエジプトに売られましたが、主がヨセフと共におられたので、ヨセフを栄えさせてくださいました。そのためヨセフはポテファルの家でも、監獄の中でも、み栄を現わすことができました。気張る必要はありませんが、主が私たちと共におられることが、自然と現われてくる、そのような生き方をしたいと思います。ある人が「私たちはこの世の人たちのための小さなキリスト、小さな聖書である」と言いました。人々があなたを通して、神様のみ栄えを見ることができますように。

 第二は、機会を十分に生かすということです。リビングバイブルはこのように訳しています。「与えられた機会を最大限に生かして、あなたがたも、この良い知らせを人々に伝えなさい」。機会というものは、ぼーっとしていると、逃げ去ってしまいます。「どうか、あの人に福音を語るチャンスを与えてください」と祈っていると、機会がやってきます。チャンスというのは、人が困っているときです。何か必要を覚えている、病気だとか、問題に直面している。そういうときに、福音の愛で愛するのです。岡野先生は「福音の愛で愛するとは、その人が信じようと信じまいと愛することです」と定義しています。「あなたが信じてくれたら愛します」とか、「教会に来たら愛します」ではありません。しかも、教会の集会に来てくれる人はあまりありません。私たち自身が教会であり、その人のところに、出かけているわけです。私たちは動く教会です。そのように考えると、チャンスというのはいっぱい広がってきます。そのためには自分の福音の提示法を1つか2つ持っている必要があります。伝道用の本やパンフレットがあります。また、手作りのものも良いでしょう。私は福音を分かり易く書いた紙芝居のようなものを持っています。今度からは、A4サイズのパウチにして、それを見せて伝道しょうかと思っています。戦争にでかけるには武器が必要です。同じように、自分が使い慣れた、福音の提示の仕方を持つべきです。おいおい、そういうものを紹介しながら、コーチしていきたいと思います。でも、福音を伝えるチャンスはそこいら中、いっぱいあるということを覚えておきたいと思います。

第三は、親切で、塩味のきいたことばです。リビングバイブルは、「あなたがたの会話が、良識的であり、善意にあふれるように心がけなさい。そうすれば、相手の一人ひとりに適切な答えができます」と訳しています。私は23歳のとき小さな貿易会社で仕事をしていました。銀行に提出する書類はお金の問題がからんでいるので1字間違ってもダメです。私はタイプを打っていると、突然、「あー」と叫びます。打ち間違えたんですね。すると、クリスチャンの先輩は、「鈴木君、たかが仕事じゃないか。仕事よりも大切なものがあるよ」と言うんですね。あとから、それが信仰だということがわかりました。普通だったら、「ちゃんと打てよ。大事な書類だぞ」と叱られるでしょう。でも、そうじゃないんですね。いろんな出来事を、福音に対して飢え乾きを覚えるような、会話に持っていけたらなんと幸いでしょうか。私たちが話す「ことば」はとても重要です。多くの人たちのことばは、否定的で、ぶっきらぼうです。もし、私たちも同じように否定的でぶっきらぼうに返したら、ますますひどくなります。そういう場合、親切で、塩味のきいたことばとは、どういうことばなのでしょう?エペソ4:29「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい」とあります。悪いことばとは、人を刺すようなさばきのことばです。そのことばによって人々が傷つきます。反対に、人の徳を養うのに役立つことばを話す。そして、聞く人に恵みを与えるということです。人を壊すのではなく、人の徳を建てるようなことば。いやー、これは私にとっても課題です。生まれてこの方、こき下ろすことば、否定的なことばをたくさん浴びせられてきました。クリスチャンになって30年もたちますが、人の徳を建てるようなことばを使うのはなかなか難しい。昨年の秋、常磐セルで李光雨先生が住んでおられる軽井沢に行きました。中軽井沢のおそばやさんで、一緒に食事をしていました。ある婦人牧師が、李先生に「私はカウンセリングに興味があって、ずっと勉強してきました。でも、私はカウンセリングするのが苦手なんです」と言いました。李先生はにこにこ聞いていましたが、私がひとこと言ってしまいました。「先生は、しゃべりすぎるからカウンセリングは向かないよ」と。実際、そうなんですね。でも、その婦人牧師は、カウンセリングを勉強しているんだから、どこかで、そうなりたいと思っているんですね。何か、別の言い方はなかったかなーと反省しています。「ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい」。アーメンです。

あかし伝道とは、生活伝道です。それは人間関係を基盤にした伝道です。昔、教会は特別伝道集会やコンサートに人を誘って来るのが伝道だと考えられてきました。もちろん、そういう機会を用いることも大切ですが、ふだんから、その人と良い人間関係を構築している。そして、その人が暮らしているステージで福音を証する。その方が、ずっと効果的であります。今年も1月が過ぎようとしています。この1年間、教会員全員が、少なくとも3人の人に福音を証したいですね。みんなが、そうすると、教会は5%成長するというデーターが出ています。その前に、救いを得ていただきたい10名の人たちの名前をノートに書いて、祈りましょう。そうすると、神様が福音をあかしするチャンスを与えてくださいます。この年、自分を通して、新しい魂が救われるように、神様に期待しましょう。

祈り:愛する主よ、あなたは私たちが語りかけるのを待っておられます。また、私たちの祈りが届いてないように思えるときがありますが、あなたはいつも聞いておられます。そして、時にかなった助けを与えてくださるすばらしいお方です。また、私たちのことばが親切で、塩味のきいたことばでありますように。どうか、あなたの福音を一人でも多くの人たちにあかしできるように私たちを用いてください。イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

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2009年1月18日 (日)

共同体の核―家族   コロサイ3:18-25

 パウロの書簡を読みますと、後半には家族のことがよく記されています。もちろん、監督とか執事という役職についても書かれていますが、「自分の家庭をよく治める人でなければならない」という条件があります。なぜでしょう?教会は共同体であり、その一番の基礎は家族、家庭であるからです。しかし、多くの場合、教会は家族よりも、組織体を目指し、会社や政治のやり方を取り入れてきました。どうでしょう?家庭と会社では、存在目的が全く違います。家庭では、交わり、愛の関係が何よりも重要視されます。話し合いも、インフォーマルで食事をしながら、雑談をしながら、コミュニケーションを取るでしょう。一方、会社の目的は売上げとか業績であります。関係よりも、仕事量をどのように増すかであります。仕事のための関係であり、多くの場合は上下関係です。話し合いもフォーマルで「会議形式」で行ない、記録も取るでしょう。もし、教会が家族ではなく、会社のやり方を真似るならどうでしょうか?伝道とか奉仕活動が第一目的であり、関係は二の次、三の次になるでしょう。教会の役員会ですらも、お互いが神の家族であることを忘れ、自動的に会社モードに切り替わるのではないでしょうか?

1.共同体の核―家族 

 香港のベン・ウォン師は、「聖書は創世記から始まる」と言いました。「え?どうして?」と質問したくなりますが、私たちは、「聖書はマタイによる福音書」から始まると思っています。そして、そこには教会という組織が出てきます。クリスチャンが大好きな教会であります。この世では、キリスト様は好きだけど、キリスト教会は嫌いだという人が大ぜいいます。教会とは組織や宗教団体であると思われているからです。でも、旧訳聖書の時代は、教会という組織がなくても、礼拝をささげていました。最初の共同体は神様ご自身にあります。創世記1:26「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう」創世記1:27「神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された」とあります。神様自身が父、子、聖霊が愛し合って1つになっていました。そのかたちに似せて、人を造ったのであります。そして、創世記2章において、神様はアダムとエバを創造し、エデンの園に住まわせました。そこには麗しい家庭があり、そこで神様を礼拝していました。でも、どうでしょう?サタンの誘惑に負けて、二人は罪を犯してしまいました。神様との関係が壊れ、お互いの関係も壊れてしまいました。「女は夫を恋い慕うが、夫は、女を支配する」と書いてあるように、お互いの間に軋轢が生じました。まことに残念ですが、人間の間に罪が入ってから、共同体が破壊されてしまいました。

創世記4章には、二人の子どものことが記されています。カインは弟アベルのささげものが神に受け入れられたので、ねたみを起こしました。そして、カインは弟アベルを殺して、土の中に埋めました。神様はカインに「あなたの弟アベルは、どこにいるのか」と問われました。カインは「知りません。私は弟の番人なのでしょうか?」と答えました。つまり、「私には弟のことなど関係ありません」ということです。カインが犯した罪のゆえに土地が呪われ、カインは地上をさまよい歩く者となりました。主はだれもカインを殺すことのないように、1つのしるしを与えました。でも、カインは主の前から去って、エデンの東、ノデの地に住みつきました。そして、カインは城壁のある町を建て、その町に自分の息子の名前をつけました。城壁は相手も入ってくることができませんが、こちら側も外に出ることができません。それは、人間関係の壁を象徴しています。また、町を建て、自分の子どもの名前をつけるとは、自分の名を残すということです。カインの子孫はどうだったでしょうか?ヤバルは家畜を飼う、牧畜の先祖となりました。ユバルは立琴と笛を巧みにそうする、芸術の子孫になりました。トバル・カインは青銅と鉄の鍛冶屋、工業の子孫になりました。カインの子孫は、身を立て名を上げる、業績志向の子孫たちです。レメクはふたりの妻をめとり、「カインに7倍の復讐があれば、レメクには77倍」と言いました。争いが家庭だけではなく、地域社会に拡大していきました。アダムとエバがさらに子どもを生み、その子をセツと名づけたとあります。創世記5章にはセツの子孫のことが記されています。「○○年生きて、○○を生んだ。○○を生んで後、○○年生き、○○で死んだ。」「生んで、生きて、死んだ。生んで、生きて、死んだ。生んで、生きて、死んだ」の繰り返しであります。何をしたかは全く書いてありません。でも、「彼らは主の御名によって祈ることを始めた」人たちであります。彼らは何をしたかよりも、何年間生きて、神様と関係を持ったことが記されています。カインの子孫は何をしたかは書いてありますが、何年生きたとは書いてありません。つまり、神様はご自分の前に何をしたかよりも、どのような関係を持ったかを重要視されるということではないでしょうか?

家庭は関係を重んじるところです。でも、会社は関係よりも業績であります。私たちの中には、関係よりも業績を重んじる傾向があります。カインのように「城壁のある町を建て、名を上げ、名を残したい」そういう心があるのではないでしょうか?戦後の教会のことを考えてみたいと思います。戦後は、日本は経済大国になるために家庭を犠牲にしてきました。朝から晩まで働き、マイホームを持つことが夢でした。テレビ、冷蔵庫、洗濯機、クーラー、車など、豊かさを求めてきました。でも、家はあってもホーム、家庭がなかったのではないでしょうか?ある人が言いましたが、家庭も会社の分業制を取り入れたということです。お父さんは会社に行って働くことが仕事。お母さんは家を守り子どもを育てることが仕事。子どもは勉強し、良い学校に入ることは仕事。ですから、子どもに何か問題が起こった場合、お父さんは「家のことはお前にまかせているんだ。俺は会社で忙しい」と家庭における責任を果たしませんでした。父親不在の家庭が続き、子どもがおかしくなりました。青年犯罪の多くは、家庭が壊れていたことが原因だそうです。残念ながら、教会も会社と同じように、業績を求めました。一生懸命伝道をして、教勢アップして、大きな教会堂を建てる。牧師は教会を大きくするために、家庭もささげました。妻や子どもたちを教会成長という偶像にささげたのです。ある有名な牧師の家庭ですが、お父さんは伝道牧会に忙しく、子どもの運動会や学芸会に一度も顔を出したことがないそうです。あるとき、子どもが病気をしたけど、その時も家にいないで伝道にでかけたということです。お父さんはご飯を食べるとすぐ書斎にこもり本を書いていました。子どもたちが大きくなって、正月に一緒に集まったそうです。牧師であるお父さんは何と言ったでしょうか?「さあ、長男から順番に証をしなさい」と言ったそうです。長男は「お父さん、教会の集会じゃないんだから、順番なんかどうでも良いじゃないか」と言ったそうです。ある牧師は、家にいるときも白いワイシャツ姿だったそうです。いつ何時、教会員が訪ねてくるかわからないからです。しかも、牧師館が教会とくっついていました。長女がすっかりぐれて、教会の前に立ち、「おまえらは偽善者だ」と言って礼拝を妨害したそうです。しかし、後から娘たちが「父の日」に、プレゼントしたそうです。袋をあけると甚平でした。お父さんは「こんなの着れるか!」と最初、思いましたが、お風呂上りに着てみました。娘たちが涙ながらに言ったそうです。「家には牧師がいたけど、お父さんがいなかった。やっとお父さんが戻ってきた」と。

みなさん、これが昭和に活躍した、大教会の牧師たちの姿であります。大教会になれたら、少しは報われるかもしれませんが、日本の教会の平均は30名前後であります。常磐牧師セルという集まりあります。常磐線沿線だけではなく、千葉とか会津の先生もいらっしゃいますが、ほとんどは2世であります。2世という意味は、牧師の子どもという意味だけではなく、昭和に活躍した大教会の牧師の弟子という意味です。みんなすばらしい恩師を持っています。私も大和カルバリーの大川牧師がいます。私たちは一様に口をそろえて言います。「教会を大きくすることだけが牧会じゃない」と。ある牧師は、「日本のリバイバルは家庭から」と言います。また、岡野牧師は教会を一度潰した牧師ですが、「クリスチャンが幸せになればなるほど教会は成長する」と言いました。何を隠そう、この私は業績思考で生きてきた人間です。ついこの間まで、韓国のチョー先生のように大教会を目指してきました。心のどこかに、「あっちよりもこっちが大きいぞ」みたいなライバル心がありました。本当、この教会に22年前赴任しましたが、教会を大きくすることばかりしか考えませんでした。「大きい教会は良い教会である」と思っていたからです。ですから、子どもたちにも律法主義的で、関係をあまり大事にしませんでした。子どもたちに「礼拝に出ろ」と言ったのは、礼拝人数に響くからです。まだ、牧師の子どもが礼拝に出ないと面子にも関わります。でも、だんだんと教会は会社じゃないということが分かってきました。教会は神の家族、愛の共同体じゃないかと分かってきたのです。インドネシヤのエディ・レオ師から「父の心」が与えられ、徐々にですが、律法主義から恵みに生きるように変えられてきました。創世記の時代、教会はありませんでしたが、みな家庭で礼拝をささげていました。ノア、アブラハム、イサク、ヤコブもそうです。教会は家庭、家族をイメージして作り上げるものです。大切なのは業績や奉仕ではなく関係だということです。会社のような死んだ組織ではなく、生きた愛の関係だということです。

2.家族のありさま 

コロサイ3:18「妻たちよ。主にある者にふさわしく、夫に従いなさい」。英国の聖書には、「妻たちよ、夫に従いなさい。それがクリスチャンの義務だ」と訳されています。女性解放者たちからは、「差別だ!」と抗議されるでしょう。19節「夫たちよ。妻を愛しなさい。つらく当たってはいけません。」ここを読むと、女性たちから「アーメン」と聞こえてきます。でも、「妻は夫に従い、夫は妻を愛せよ」と書いてあるのはどうしてなんでしょうか?男性と女性は平等でありますが、機能が違います。コリント人への手紙11:3には「すべての男のかしらはキリストであり、女のかしらは男であり、キリストのかしらは神です」と書かれています。キリスト様も父なる神様も同等の神様です。でも、キリストのかしらは神様とはどういう意味でしょうか?ここでは、身分の違いではなく、機能の違いを言っています。「かしら」とは、もともと「源」という意味があるそうです。永遠の昔、父なる神様から御子が生まれました。また、最初は男から女が創造されました。そういう意味で、「夫は妻のかしらであり、妻は夫に従え」ということなのです。そして、かしらの機能とは何でしょうか?それは「リーダーシップをもって、責任を取りなさいよ」ということなのです。多くの場合、夫は家庭においてリーダーシップも、責任も取りません。その代わり、妻がリーダーシップを取っています。妻がリーダーシップを取らない場合は子どもが取ります。子どもが取らない場合は、犬がリーダーシップを取ります。男性は、かしら、つまり家庭の源です。源が良ければ、妻や子どもに恵みが行き届くということです。

でも、なぜ、「妻は夫を愛しなさい」ではなく、「夫は妻を愛しなさい」なのでしょうか?これもやっぱり、かしら、リーダーシップと関係があります。「かしらとして、夫の方から愛しなさいよ」ということなのです。夫は「妻の方から愛してもらいたいよ」と思うかもしれませんが、そこには順番があるようです。夫が妻を愛するならば、後から、妻が夫を愛するようになるということでしょうか?しかし、またもう1つ疑問があります。「夫は妻を愛しなさい」という命令形になっていることです。何故、命令なのでしょうか?もし、これが感情的な愛について言われているなら不可能です。感情は勝手に上がり下がりしますので、命令には決して従うことができません。でも、聖書が言う愛は、意志とか決断に関係しています。この間、本郷台でセルの集会がありました。あるセッションは、「隣人を愛する」というテーマで、私が司会でした。最後に私が祈りの中で、「神様、私たちには、愛することができない人がいますが、どうか愛せるように助けてください」と祈りました。次のセッションで、ベン・ウォンが先ほどの鈴木先生の祈りについてどう思うかということになりました。「私たちが愛することができないと決断しているのに、神様が私たちの決断を無視して、愛せるようにしてくださるのだろうか?日本人の中には、そういう神学があるのだろうか?」また、ややこしくなりました。結論的にはこういうことでした。「愛しなさい」は神の命令であり、もし、愛せないと言うならば、不服従になるということです。「愛します」と私たちが決断するとき、神様が愛せるように助けてくださる。私たちが「愛せません」と言っているうちは、神様はどうすることもできないということです。神様が「愛しなさい」と命令を与えるのは、もし従うならば、愛する力も与えるという保障が背後にあるからだということです。「妻を愛します!」と決断するならば、愛せるようになるということです。ハレルヤ!男性は待っていてはダメなのです。かしらとして、愛においてもリーダーシップを取るように造られているのです。アーメン。

最後に親と子どもの関係について学びたいと思います。コロサイ3:20、「子どもたちよ。すべてのことについて、両親に従いなさい。それは主に喜ばれることだからです。父たちよ。子どもをおこらせてはいけません。彼らを気落ちさせないためです。」子どもに対して、「すべてのことについて、両親に従いなさい」と言われているのは、両親が神様を敬い、神様に従っているという前提があってのことです。自分が神様に全然、従っていないのに、「子どもに従え」というのは無理な相談です。でも、頭ごなしに「親の言うこと聞け!」やることが多いのではないでしょうか?それはたぶん、親が子どもを生んだので、偉いんだという考えがあるからかもしれません。普通の親は、「子どもは神様から与えられたもので、全く別の人格が宿っている。両親は神様から任せられた子どもを正しく育てるのが義務である」などと全く、考えません。自分が生んだんだから、自分の所有物であるとか、自分が果たせないことをやる分身のように考えています。そうなると、人格と人格の正しい境目、バウンダリーがありません。「自分の子どもなんだから」とぐりぐりと、ねじ伏せても言うことを聞かせようとします。そうするとどうなるでしょうか?子どもたちの心の中に怒りが生まれてきます。20節に「子どもたちを怒らせてはいけません」と書いてありますが、口語訳には「子どもたちをいらだたててはいけない」と書いてあります。

 岡野先生が『どうしたらいいかが分かる子育ての本』の中でこう述べています。子どもは、どのようなときに、怒るのでしょうか?人格を否定、あるいは見下げるような態度、言動を取られたときです。たとえば、大人が一方的に接してくるときがそうです。子ども本人に関わることを、何の話もせず、親が一方的に決めることがあります。あれをしろ、これをしろと、ふだん親が子どもに対して使っていることばが、一方的になりがちです。子どもが学校から帰ってくるなり、勉強しなさいと言われたら、腹も立ちますし、親を嫌いにもなることもあるでしょう。塾も、子どもが自分で行きたいと言うならいいのですが、親が無理に一方的に行かせ続けるなら、いつか爆発するのも無理はありません。子どもは、勉強マシーンではありません。人格を持った一人の人間です。一人の人間として扱ってもらえないゆえに、子どもは、大人に反発するのです。・・・私たちは、子どもを親の思い通りにしようとするのではなく、一人の人間として接することが大事です。どんな小さな子どもでも、子どもは、神様によって、人格を持った尊い存在として造られたものであることを、忘れないようにしたいものです。

 どうでしょうか?私たちの父や母は、親として良い模範を示してくれたでしょうか?良い模範がないと、自分たちも、なかなか良い親にはなれません。 また、自分が子どもたちに対して、良い模範となったかどうかも、はなはだ疑問です。私などは一代目のクリスチャンですから、ひどいものがいっぱい詰まっています。両親から受けた傷とか怒りを、そのまま子どもにぶつけてきました。もちろん、聖書の教えに従って、軌道修正しましがが、後手後手という感じでした。やっぱり、二代目、三代目のクリスチャンホームにならないとダメなのでしょうか?きょうの箇所を学ぶと、反省すべきところがたくさんあります。でも、まとめをさせていただきますと、家庭が共同体の基盤だということです。教育も、人間関係も、価値観も、そして、信仰すらも家庭が基盤なのかもしれません。私たちは、教育は学校に任せ、信仰は教会に任せてきました。確かに知的な面は、学校や教会が優れているかもしれません。でも、子どもたちへの模範は両親です。両親の価値観、両親の人間関係、両親の信仰が子どもたちに対して一番影響を与えるのかもしれません。「かもしれません」と力のない表現なのは、「果たして自分はどうなのだろうか?」という疑問があるからです。子どもは親の言うことはなかなか聞きません。でも、親の行動は良く見て、真似をします。主の憐れみによって、私たちは言うことを行なうことを一致して行きたいと思います。また、主の恵みによって、教会にいるときの顔と家庭にいるときの顔も一致して行きたいと思います。神様はどこにでもおられます。私たちが心から神様を恐れ、敬うならば、そのことが子どもたちにも伝えられていくと信じます。互いに愛し合い、主の居心地が良い教会、主の居心地が良い家庭を形成していきたいと思います。主がそこにおられるならば、喜びや感謝、すばらしいことが必ず訪れます。アーメン。

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2009年1月11日 (日)

キリストのことば   コロサイ3:15-17

 先週は、香港のベン・ウォン師とほぼ1週間一緒でした。行き詰まりを感じたらどうしたら良いだろうか?多くの人たちは、「別の方法とか、別のプログラムを取り入れたら良いじゃないか」と言います。しかし、ベンは「問題は実にあるのではなく、根っこにあります。根を探りなさい。本質に立ち返りなさい」と言います。彼の話はこの2年間、何べんも聞きました。でも、2年間やって、「やっぱり根なのか」と初めて分かりました。根、つまり本質をちゃんと見極めていく。そして、そこを正しくしていく。きょう、明日、すぐ変化は起こるものではありません。時間はかかります。でも、1、2年たつと着実に変化が起こります。私は伝道と牧会に行き詰まりを感じていました。何が足りなかったのか、本当、この2年間、ベンのコーチングを受けて、やっと分かりました。私はこれまでメッセージとか教えにエネルギーを注いできました。みなさんの信仰生活にしても、セル集会にしても、「こうすれば良いんですよ」と講壇の上から語ってきました。しかし、足りなかったのはコーチングです。講壇から降りて、一緒にやって行く。模範を示しながら、やって行く。この部分が欠落していたことを発見しました。コロサイ人への手紙を見ると、キリスト、キリストと何べんも出てきます。でも、キリストこそが信仰の本質だということです。

1.キリストの平和

コロサイ3:15「キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのためにこそあなたがたも召されて一体となったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい。」キリストの平和とはどのような平和でしょうか?山上の説教を見ますと、キリストの平和とは何か、はっきりと記されています。マタイ5章の後半でイエス様はこのように言われました。「悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。あなたに一ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょに二ミリオン行きなさい。求める者には与え、借りようとする者は断わらないようにしなさい。…自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」イエス様は悪い者に手向かわず、右の頬だけではなく、左の頬さえ向けました。奪い取る者には与え、二ミリオン行き、迫害する者のために祈りました。しかし、私たちは普通、どのようにふるまうでしょうか?やられたら、こっちも負けじとやり返します。取られたら取り返します。悪に対しては悪をもって報います。そのようにするならば、争いは止むことはなく、戦争にまで発展するでしょう。

これまでの人類の歴史はどうでしょうか?争いに争い、略奪に略奪、戦争に戦争でありました。たった今の時間でも、世界中あちこちで戦争や紛争が起きています。第二次世界大戦が終わったら平和がやってきたと思いきやそうではありませんでした。同じ国の中において民族同士の争いが沸きあがりました。まさしく、聖書の預言の通りです。皆さん、アメリカという国は、新天新地、キリスト教国を作ろうとイギリスから移民して作った国であります。ところがどうでしょうか?アメリカは銃社会です。彼らは自分を守る権利を主張し、銃を手元から離しません。そのため、尊い多くの人々の命が取り去れています。また、アメリカは訴訟の国でもあります。イエス様は「あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい」と教えられたのに、互いに訴え合っています。一番もうかるのは弁護士です。また、アメリカは右の頬を打つような者には、何倍にも報復する国であります。湾岸戦争、アフガニスタン、イラクにおいて、どのくらいの爆弾を落としたのでしょうか?本当は爆弾の在庫整理をしたかったのではないでしょうか?彼らは正義をふりかざして、イエス様の教えを守っていません。そのために、世界中の人たちがこのように言うでしょう。「あの国がキリスト教国ならば、私たちはキリストを決して信じない」と。つまり、他の国々に対して、良い証になっていないということです。もちろん、アメリカ全部が悪いとさばいているのではありません。善良なクリスチャンもたくさんいらっしゃるでしょう。でも、国全体の考え方が1つの要塞となって、聖書の原則を見失っていることは確かであります。

使徒パウロは「キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい」と言われました。あなたがたとはだれでしょうか?これは救いを受けた人たち、クリスチャンに対して言われたことです。まず私たちクリスチャンの間から実行しなさいということです。パウロは「そのためにこそ召されて一体となったのだ」と言っています。リビングバイブルでは「そうすることがキリスト様の体の一部とされたあなたがたの責任であり、特権でもあるのです」と訳しています。つまり、心に平和を持つことは、キリストの体なる教会の責任であり、また特権でもあるということです。「わー、そうなのか」と思います。兄弟姉妹で、牧師と役員で、教団教派で争っていたら全く話にならないということです。しかし、残念ではありますが、プロテスタント教会は争いが好きなんです。名前自体が「プロテスト」抗議する、異議申し立てるという意味があるからです。ま、この名前はカトリック教会が「自分たちに抗議した」ということでつけたものです。しかし、その名前のごとく、争い好きな性質が宿っていることも確かです。日本基督教団の東京教区は19年間、総会が開けなかったということで有名です。発端は大阪の万博にキリスト教館を作るかどうかということでした。私は今から22年前にこの教団に転入しましたが、その翌年あたり、怒号と取っ組み合いの中で、19年ぶりに総会が開かれました。私はどさくさにまぎれて、他教団から牧師として転入できたというのも恵みでありました。しかし、こういう争いや分裂は日本基督教団ばかりではありません。他の教団の中にもあります。

私たちは「平和ということを何よりも優先すべきなんだ」ということを、肝に銘ずる必要があります。イエス様はヨハネ17章で「彼らがみな一つとなる・・・ことによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです」と言われました。また、ヨハネ13章でも「 もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」と言われました。つまりは、私たちが仲良くしていることが一番の伝道であるということです。私たちはそういうことよりも、真理とか正義を強調しがちです。でも、私たちが知っているものは、真理の一部でしかありません。正義を一番主張できる神様が譲歩しているのなら、私たちも譲歩すべきでありましょう。イエス様はイザヤ書で「平和の君」と呼ばれるとあります。私たちは平和の君であるイエス様にお仕えする者たちです。また、私たちの内には、神の種がやどっています。だから、平和を作り出すことができるのです。私たちがまず、平和に満たされるならばどうでしょうか?その次に、私たちが遣わされた家庭において平和が作られるでしょう。これまでは信仰があるゆえに、争いを生み出すことが多々ありました。そうではなく、山上の説教のように生きるなら、多くの争いや衝突を避けることができるはずです。夫が妻を受け入れ、妻が夫を受け入れる。そして、子どもを受け入れる。そうするなら家庭が平和で満たされます。その次には職場や学校です。多くの人たちは心の中に敵対心を持って生きています。「こういえば、ああいう。こうされたらこうする」と過剰な反応をするでしょう。そこへ私たちがキリストの平和をもって、臨むならどうでしょうか?人々は肩透かしをくらったようで、「どうして権利を主張しないの?どうして私みたいなものを愛するの?」と困惑するでしょう。そういうことが重なってくると、あなたの周りの人たちにキリストの平和が訪れるでしょう。

皆さん、キリストの平和は健康のためにもとても良いものです。多くの人たちの心や体が病んでいる最も大きな原因は何でしょうか?それは、怒り、憎しみ、赦せない心です。それらは、あなたの心や肉体を蝕み、様々な病気を引き起こします。そういうものがあったら告白し、悔い改めましょう。その代わり、キリストの平和が心を支配するようにお願いしましょう。キリストの平和にまさる薬はありません。アーメン。

2.キリストのことば

コロサイ3:16「キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。」このみことばは、ディボーションのときに必ず引用されるみことばです。どのように、キリストのことばを、私たちのうちに豊かに住まわせることができるのでしょうか?それは、ディボーションを通してであります。ディボーションとは何か?それは、静かなところで、ゆっくりとみことばを読むことから始まります。神様は聖書をたくさん読みなさいとは命じておられません。「みことばを瞑想(黙想)しなさい」と命じています。瞑想するとは、みことばを反芻することと同じ意味です。旧約できよい動物と言われた、牛、羊、ヤギはみな反芻します。彼らには4つくらい胃があって、一度食べた草を何度か口に戻して、にれはみます。彼らがしょっちゅう口をもぐもぐしているのはそのためです。都会育ちの人はあまり見たことないかもしれませんが、実際、彼らはいつもそうしています。なぜなら、草は肉よりも消化が悪いので、たくさん噛む必要があるからです。みことばも同じです。よく噛まないと、全部外に出てしまいます。エディ・レオ師はこんなたとえを話していました。ピーナッツを噛まないで飲み込んだならどうなるでしょうか?胃袋の中で、ピーナッツがおどっています。寝ているとき、右に傾けば右に行き、左に傾けば左に行く。あくる朝どうなるでしょうか?ババババババ、と音を立てて出て来るとおっしゃっていました。ちょっときたないですね。

では、ディボーションはどのように行なうのでしょうか?まず、大切な3つのことがあります。まず第一は観察です。心を開いて、ゆっくり読みます。福音書なら1つの物語、書簡だったら4,5節で十分です。私は、今は、1か2章読むことにしています。すると、現在、抱えている問題の解決となるところが不思議に見つかります。どのくらいの長さでも良いですが、何べんも読んでいくと、繰り返し出て来ることばに出会います。あるいは、「ああ、このことが重要なことなのかな?」気づかされます。そういうところを、ノートに書き出します。これを観察と言います。ゆっくり読むと、すばらしいことがたくさん、見つかります。第二は教えです。その中からいくつか教えをいただくということです。教えの中には、励まし、約束、模範、実行すべき命令、避けるべき罪があるでしょう。英国の聖書には、「キリストのことば」というところを「キリストのメッセージ」と訳していました。つまり、教えとはキリスト様からメッセージをいただくということです。メッセージの数は、1つか2つ、多くても3つくらいで十分です。なぜなら、あまり多いと実行できないからです。第三は適用です。適用とは教えられたメッセージを実行するということです。これが一番、難しいです。適用はできるだけ具体的で、実行可能なものでなければなりません。「感謝しなさい」と言われら、感謝しますと言うだけでは適用になりません。5分間、感謝すべきことを祈りの中で表します。あるいは、「感謝のしるしに、きょうはすすんでこういうことをします」というのも良いでしょう。男性だったらふだんしない、洗濯とかお掃除も良いです。職場の人に対して、少なくとも1つだけ親切にするというのも良いでしょう。みことばを適用していくと、だんだんみことばが自分のものになります。ですから、適用はとても重要です。

しかし、コロサイの手紙ではなぜ「キリストのことばをあなたがたのうちに豊かに住まわせ」となっているのでしょうか?「みことばを」とはなっていません。「キリストのことば」となっています。私はホーリネス教団の神学校に最初行きました。そこでは、「みことば信仰」ということが非常に強調されました。「聖書は誤りなき神のことばである。だから、私たちはこのみことばを守り行なうべきである」と教えられました。私もそれは正しいと思います。でも、どういうわけかその教団は律法主義的なところがありました。「・・・しなければならない」「・・・を守らなければならない」「・・・してはならない」。つまり、みことばを守り行なう原動力が自分の力、自分の努力みたいなところがあります。みことばは鋭い両刃の剣です。ですから、このみことばによって他者をさばくことができます。また、最後にはそのさばきが自分にも返ってきます。何故、パウロは「みことば」と言わないで「キリストのことば」と言ったのでしょうか?それは、「キリストの恵み、キリストの贖いを通して、聖書を読みなさいよ」ということなのです。もし、キリスト抜きで聖書を読んだならば、これほど実行不可能なものはありません。また、これほど厳しいものはありません。旧訳聖書を読んだならば命がいくつあっても足りません。しかしキリストの恵み、キリストの贖いを通して聖書を読むならどうでしょう。「主よ。あなたの贖いによって赦されていることを感謝します。あなたの恵みによってこのみことばを守り行ないますので、どうか助けてください」と祈ることができます。ですから、みことばを実行する力の源は自分ではなく、自分の中におられるキリスト、聖霊様であります。私たちの中におられるキリスト、栄光の望みです。

また、コロサイ1:16後半には「知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。」とあります。これはどういうことでしょうか?どうしたら、賛美と感謝に溢れることができるのでしょうか?それは、ディボーションの4つ目にあります。さきほど、ディボーションは観察、教え、適用と3つの要素を学びました。しかし、4つ目があります。それはディボーションで受けた恵みを分かち合うということです。このところに「知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め」とあるのは、小グループでの分かち合いをさしています。セルで一番良い分かち合いはディボーションしたことを分かち合うという方法です。では、どういうふうにして分かち合うのでしょうか?それは、教えられたことを自分のこととして分かち合うということです。もし、人に教えたり、人を戒めたりしたならどうでしょうか?「あんたから教えられたくない、お説教はごめんだ」と反発を食らうでしょう。ですから、他者を教えたり、戒めたりしないで、自分のこととして分かち合うのです。自分を戒めたものだったら、だれも文句を言わないでしょう。むしろ、恵まれ、「詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌う」ようになるでしょう。初代教会ではみことばを分かち合う小さな集まりがいくつもあったのではないかと想像できます。「互いに」というのは、50名とか60名では無理です。やはり、3人から5、6人でしょう。10人になったら、発言しない人が出てくるかもしれません。ですから、キリストのことばを小グループで互いに分かち合いましょう。そうすれば、賛美と感謝があふれてきます。

3.キリストの信仰

パウロは17節「あなたがたのすることは、ことばによると行ないによるとを問わず、すべて主イエスの名によってなし、主によって父なる神に感謝しなさい。」と言いました。これはキリストのことばによって、信仰に満たされた状態です。ディボーションによって、神様のみこころがはっきり分かりました。みこころを知って、行なうのですから、それは信仰の歩みと言うことができます。パウロはローマ14:23で「信仰から出ていないことは、みな罪です」とまで言っています。私などは、神様のみこころを求めないまま、とにかくやってみるところがあります。「イギリス人は歩きながら考える。フランス人は考えた後で走り出す。スペイン人は走ってしまった後で考える」というジョークがあるそうですが、みなさんはどのタイプでしょうか?私は何でもチャレンジするところがありますが、十分祈って、神のみこころをつかまないでやることもあります。そうしますと、失敗したときのダメージが大きいですね。もし、「神のみこころはこれだ」と信仰をもってやったならば、たとえ失敗しても、その失敗さえも益になるでしょう。ですから、信仰がくるまで、みことばを読んで待ち望む必要があります。特に、就職とか結婚はそうだと思います。私は2年前、郵便局のアルバイトを始めました。あのことは本当に信仰から出たことなんだろうか?それとも結果オーライでやってきたことなのか?わからないところがあります。なぜなら、「労働のわりには、給料安いよ」とか、「ああ、疲れるなー、ちくしょう」みたいにつぶやくことが多々ありました。そんなにつぶやくならそれは、信仰から出ていないということになります。口では伝道のためとは言いながら、お金のためにしかたなくやっている。そういうところがあったのではないかと悔い改めています。いや、悔い改めます。郵便局の同僚で、元カトリック信者がいます。彼は今、教会に行っていません。「どうして牧師さんがアルバイトしなければいけないの?信仰がないんじゃないの?」と言われました。私は「あなたの言うとおり、信仰がないんです」と答えました。ぜんぜん怒る気持ちがなくて、その通りですと、脱帽しました。

 正月早々、自分の信仰がないことをさらけ出すのは申し訳ありません。牧師も人に信仰を説くことは得意ですが、いざ自分のこととなると分からないところもあります。でも、パウロが「あなたがたのすることは、ことばによると行ないによるとを問わず、すべて主イエスの名によってなし、主によって父なる神に感謝しなさい。信仰から出ていないことは、みな罪です」と言うことは本当だなーと思います。今年も、私たちはいろんなことをしなければなりません。その中にはしかたなく、強いられてやらなければならないこともあるでしょう。信仰がなくてしたことは、あとから必ず不平不満が出てきます。でも、それらのことをすべて神様の前に差し出し、キリストのみことばによって、キリストの信仰をいただくなら、最後に感謝が生まれるのではないでしょうか?さっきのジョークではありませんが、「歩きながら信じる。信じた後で走り出す。走ってしまった後で信じる」どのタイプでも良いです。とにかく、すべてのことを、信仰をもって行いたいと思います。そのためには、いつも主と交わって、キリストの平和とキリストのことばをいただく必要があります。アーメン。

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2009年1月 4日 (日)

新しい人を着る  コロサイ3:5-14

 この世において、私たちは互いに影響し合って生きています。仕事場で、学校で、家庭において、そして教会においても、そうであります。どうでしょうか?1回ではわかりませんが、その人と何度か会うとだんだん分かってきます?「ああ、この人は、こういうことが好きで、こういうことが嫌いなんだ」と分かってきます。また、「ああ、この人はこういう考え方をするんだ」という価値観が分かってきます。さらに、進んでいくとその人の性格が分かってきます。わがままだとか、怒りっぽい、あるいは「見た目によらず、優しくて誠実な人なんだ」と分かってきます。私たちは果たして、どことどこで交わっているのでしょうか?ある人は「心と心」と言いますが、私はもっと深いところだと思います。それは人格ではないかと思います。人格とは、心の最も深いところにあるその人自身のことであります。聖書では、人格のさらに内側には霊があると言います。心理学は心のことしか言いませんが、聖書はもっと深い霊の領域まで語っています。きょうは、どうしたら新しい人になれるのか、共に学びたいと思います。

1.新しい人を着る

 この世ではどうでしょうか?自分自身をよく見せるために、どのようなことをするでしょうか?まず、一番行なうことは、お化粧したり、身なりを整えることです。お正月、福袋をお買いになったでしょうか?福袋の中には、いろんな洋服がつまっているものあります。1万5千円分のものが、5000円だったりします。あの革ジャンとシャツ買えば良かったなー。テレビショッピングでは宝石やアクセサリーを美しいモデルさんが身につけています。「ああ、私もあれを身につけたら、きっとエレガントになるんじゃないか」と想像します。違うんです。モデルさん自身が美しいのでそう見えるのです。さらにはどうでしょうか?勉強をして教養を身につけたり、行儀作法や言葉使いを身につけたりします。ある人は、「こういう人になりたい」と、あこがれる人の性格や生き方を真似たりします。芸能人ですと、「こういうキャラで売るんだ」とばかり、本心を隠し、自分でない自分を演じて生きています。あなたもだれか別の人を演じていないでしょうか?しかし、それらはすべて外側の問題です。いくら演じても、それらはメッキのようなものであり、時間がたつとはがれてきます。聖書は「外側ではなく、もっと内側を変えていきなさい。なぜなら、内にあるものがやがて外に現れてくるからです」と言います。では、聖書の人間改造はどのように行なうのでしょうか?

 聖書は言います。私たちは一度死ぬ必要があると。そうです。キリスト教は生まれ変わりの宗教です。それは死んでから生まれ変わるのではなく、生きているうちに生まれ変わるのです。では、そのように生まれ変わるのでしょうか?私たちはキリストにあるならば、キリストの共に死んで、キリストと共によみがえります。イエス様を信じて、洗礼を受けたらならばそのようになります。コロサイ3章の前半を見ますと、私たちの肉体や魂(心)には、様々な罪の性質が宿っていることが分かります。地上の体の諸部分には、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、むさぼりがあります。また、生まれつきの心の中には怒り、憤り、悪意、そしり、恥ずべき言葉、偽りがあります。エレミヤ17:9「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう」と書いてあります。つまり人のこころはボロきれと同じで、修復不可能だということです。みなさん、雑巾を洗って、アイロンをかけてもそれは雑巾であります。つまり、修養とか修行では、私たちの心は変わらないのです。では、どうすれば良いのでしょう?聖書は、「一度、死になさい」と言います。「えー?キリスト教は自殺を勧めるのですか?」そうではありません。イエス・キリストを信じると、神様の方が私たちを死なせてくださるのです。Ⅱコリント5:17「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」アーメン。自分で死ぬのではありません。だれでも、キリストにあるなら、古い自分に死んで、新しい自分になっているのです。私たちがなすべきことは、キリストにあること、キリストの内に潜り込むことです。そうすると、神様が私たちの古い人を葬り去り、新しい人にしてくださるということです。コロサイ3:9節後半には「あなたがたは、古い人をその行ないと一緒に脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです」とあります。11節では、「ギリシャ人もユダヤ人も、どんな人種であっても別はない」と言っています。

 つまり、こういうことです。私たちはイエス・キリストを信じると、聖霊によって新しく生まれ変わります。どこが?霊であります。死んでいた霊が新たに目覚めるのです。そして、キリストと共に、肉体と魂が一度死んで、古い人がその行ないと一緒に脱ぎ捨てられます。でも、そのままでは裸の状態です。裸では生きてゆけません。みなさんもお風呂に入るときはどうでしょうか?古い衣服を一度脱ぎ捨てます。そして、お湯に入って洗います。はい、綺麗になりました。でも、そのままでは風邪をひくし、また、恥ずかしいですよね。それで、綺麗な下着を着て、何枚か服を着ます。そのことと同じです。私たちは霊的に新しくなったので、古い洋服を脱ぎ去り、新しい服を着るのです。つまり、それは私たちの人格に、新しい人、神様からの新しい性質を着るということであります。私たちはクリスチャンになっても、人格的に裸のままでは生きていくのは不可能です。やはり、キリストに似た新しい人、新しい性質を着なければなりません。キリスト教会でも、良く、言われることですが、「教会ではありのままで良い。裸と裸の関係が大切だ」と言います。しかし、どうでしょうか?私たちクリスチャンはキリストを信じて、霊的に生まれ変わりはしたものの、この肉体を持っている限りは、罪の性質、肉が残っています。もちろん、天国に行くまでだんだんきよめられますが、まったくゼロになるわけではありません。ですから、クリスチャンといえども、全く裸で、ありのままで付き合うことはできません。私たちの間には、キリストに似た新しい人、新しい衣を着る必要があるのです。新たにされた私たちの人格に、新しい人、新しい衣を着るということです。

 ヤマアラシの論理ということを哲学者のショーペン・ハウエルが申しました。ヤマアラシの若いカップルが寒い冬の夜、暖を取ろうとしました。寒いのでお互いに寄り添います。でも、刺があるので、お互いを傷つけあってします。痛いので離れる。すると寒い。寒いのでまた近づく、するとお互いが持っている刺で傷つけあってしまう。だから、ショーペン・ハウエルは、私たち人間はお互いにある程度の距離をもちながら付き合っていくしかないんだと言います。刺とは、私たちが持っている罪であります。私たちの罪が人を傷つけるのであります。でも、私たちのためにイエス・キリストが来られ、私たちの罪を贖ってくださいました。私たちは無媒介では、人々を愛することはできません。傷つけてしまいます。しかし、お互いの間に、キリストを置く。つまり、キリストを媒介して、互いに愛し合うことができるのです。このことと同じように、クリスチャンは自分の人格の上に、キリストに似た新しい人、新しい衣を着る必要があるのです。人と人と交わるとき、確かに人格と人格が交わります。でも、そこには麗しい、キリストの品性、新しい人を着ているのです。これは夫婦の間にも必要です。創世記2:25「そのとき、人とその妻は、ふたりとも裸であったが、互いに恥ずかしいと思わなかった」とあります。でも、3章で罪を犯してからはどうでしょうか?いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作ったと書いてあります。でも、いちじくの葉では、長持ちしません。夫婦はありのまま、裸の付き合いと言いますが、うまくいけば天国、うまくいかなければ地獄であります。それで神様は、動物を殺して、皮の衣を作り、彼らに着せてあげました。皮の衣とは、イエス・キリストの贖いを象徴しています。そうです。たとえ、夫婦のような親しい関係であっても、キリストの贖い、新しい人を着る必要があるんだということです。私たちの交わりは、イエス・キリストを通した交わりです。神様は私たちのために、新しい人、新しい衣を用意しておられます。

2.新しい衣を着る

 それでは、どのような新しい人、新しい衣を着るべきなのでしょうか?コロサイ3:12-14をお読みいたします。「それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全なものです。」まず、パウロは、クリスチャンとはどういう存在なのかということを確かめています。クリスチャンとは、「神に選ばれた者、聖なる、愛されている者」です。何かできるとか、何かできないに関係はありません。私たちの存在そのものが、キリストにあって「神に選ばれた者、聖なる、愛されている者」なんです。ですから、自分が何か足りないから、自分が汚れているから、自分が人よりも劣っているからではありません。そのために、人格的に良く見せようとするのは、聖書の考えではありません。あなたは既に、キリストにあって、「神に選ばれた者、聖なる、愛されている者」なのです。あなたのID、自己証明は、「神に選ばれた者、聖なる、愛されている者」なのです。神様はキリストにあって、あなたを受け入れ、あなたを愛しておられます。あなたの存在そのものがすばらしいのです。そこから出発しないと、うまくいきません。他の人を見て、劣等感に陥ってしまいます。そうではありません。キリストにあって、あなたは受け入れられている。あなたは愛されているんです。アーメン。

 それでは新しくされた霊、あるいは人格の上に何を着るのでしょうか?着物の場合は、肌襦袢というのでしょうか?一番、体に触れる衣類、下着であります。それは「深い同情心」であります。私たちの最も深いところにある性質は、「深い同情心」でなければなりません。別の言葉で言うなら、「憐れみの心」であります。マタイ9:36でイエス様は、「群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた」とあります。「かわいそうに思われた」は、他の訳では「深く憐れまれた」であります。ギリシャ語の意味は「内臓」という意味があります。内臓がえぐられるほど、痛いものはないと言われます。イエス様の性質に最も近い性質は、「深い同情心」「あわれみの心」であります。イエス様は「神様があなたがたをあわれんでやったように、あなたも仲間をあわれんでやるべきではないか」(マタイ18:23)とおっしゃっています。

 では、その次に身につけるべきものは何でしょうか?「慈愛」です。慈愛は英語の聖書では、kindnessとなっています。親切心であります。よく、女性に「どんな人と結婚したいですか?」と聞くと、「思いやりのある人が良いです」とか、「優しい人が良いです」と答えます。私は、たぶん、たぶんですが、「慈愛」があてはまるのではないかと思います。「冷たいなー」と思う人がたまにいますが、それは「慈愛」がない、不親切な人ではないかと思います。親切とは、「相手の立場になって考え、こうなったら困るだろうから、ちょっと手助けしてあげよう」と思う心です。イエス様はルカ福音書で「自分にしてもらいたいと望むとおり、人にもそのようにしなさい」と言われました。ゴールデン・ルールであります。イギリスでしょうか?ドアを開けたら、次の人のために開けたままにしておくというのがありました。また、女性が荷物を持っていたら、男性は持ってあげる。たとえご老人でも、女性にはそうしてあげるそうです。それは、聖書からくる親切心ではないかと思います。親切は、せちがらいこの世を明るくする、清涼飲料水のようなものであります。

 その次は、謙遜であります。謙遜はこの世でもよく使いますが、それは1つの処世術になっています。いわゆる謙遜ぶっているわけです。それではうまくいきません。本当の謙遜とは、どこから来るのでしょうか?自分は神の被造物であり、すべては神様からいただいたものであるという信仰から来るものです。自分がたとえ何かできたとしても、それは、神様からいただいたものです。だから誇ることはできません。すべての栄光は神様のものです。また、ピリピ2章を見ますと、パウロは「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。」と言いました。これは人間関係における謙遜であります。何故、人が自分よりもすぐれているのでしょうか?客観的にみたらそうでないことがいっぱいあります。私は郵便事業会社でアルバイトをしていますが、年末は忙しいので、会社はアルバイトの数を増やします。色んな人が来るんです。中には、「どうしてあの人を入れたの?」という人も来ます。とても単純な仕事なのですが、立ち止まってずっと考えている。「うぁー、なんだよ。遅いなー。何、考えてんだよ」いらいらしてきます。もう、見ているだけでイライラしてきます。きっと、「その人は、この分野では鈍いけれど、他の分野では優れているんだろうなー」と思います。でも、見ているとイライラしてきます。では、なぜ謙遜になれないのでしょうか?自分の能力は、神様が下さったもの。私の頭の神経のどこか切れたならば、何もできません。それに、その人だって、神様に造られ、キリストの血によって贖われた尊い存在です。神様がその人を生かしておられるのに文句を言ってはならない。そのことで自分は謙遜になるしかないわけです。謙遜の衣、この衣は頭の良い人、賜物や能力のある人ほど、忘れてはらない衣、神様からの性質であります。なぜなら、聖書に「高慢は滅びに先立つ」と書いてあるからです。どんなときも「へりくだり」が大切です。

 さらには、柔和という衣があります。柔和とは「制御された力」という意味があります。イエス様は「わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。」(マタイ11:28)と言われました。「心優しく」は他の訳では「柔和」となっています。イエス様は全能なる神様であられましたが、その力を一人の人間の中に秘めておられました。ですから、どんな人でもイエス様に近づくことができました。収税人や遊女、罪人、小さな子どもまでも、です。当時の宗教家、パリサイ人や律法学者は、「お前と私とは違う。寄らば切るぞ」と一般の人たちを排除していました。しかし、イエス様はそうではありません。弟子たちは、イエス様は近寄り易くて、いつまでも一緒にいたいと思いました。きよくても、近づきがたい人がいます。インドネシヤのエディ・レオ先生は「本当に柔和な人だなー」と思います。私もエディ先生のようになりたいです。

 さらには、寛容の衣があります。寛容とはどういう意味でしょうか?国語辞典では、寛容は「心が寛大で、よく人を受け入れること。過失をとがめたてせず、人を許すこと」とあります。私は、寛容は、この3章13節のことではないかと思います。「互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。」文脈では、新しい人、新しい衣のことを話しているわけですから、おそらく、13節は寛容とは、どういうことか説明しているのではないかと思います。実際に、寛容には「忍ぶ」とか「耐える」という意味があります。そして、主が私たちを赦してくださったように、互いに赦すということであります。忍耐を持ちながら赦していく、これが寛容であります。子どもを育てたり、人々を教え育てるためには、この寛容さが最も必要であります。寛容さとは、父の心であります。父の心を持つならば、寛容になれるということです。

 最後の衣は何でしょうか?それは衣というよりも、帯であります。和服を何枚も重ねてきますと、最後にはそれらを結びつける帯が必要です。帯がないと、全部はだけてしまうからです。コロサイ3:14「そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全なものです。」アーメン。元旦、礼拝で和服を着てきた姉妹がいました。何枚か着ています。和服にたとえるとどうなるでしょうか?一番、外側は寛容の衣です。その内側は柔和です。さらにその内側は謙遜、さらに慈愛を着ています。もっとも内側、肌襦袢と言うのでしょうか?それは深い同情心です。そして、それら5枚の衣を上から結んでいる帯とは何でしょう?それは愛であります。愛という帯が、ぎゅっとそれらを締め付けています。後ろを見ると、蝶のような格好をしています。蝶は青虫から完全変態をしますが、ギリシャ語ではメタモルフォーであります。そうです。蝶は、神様が新しく生まれ変わらせてくださったという象徴であります。私たちの愛は、自分のものではありません。神様が新しく私たちを生まれ変わらせ、私たちに新たに与えてくださった、神様の性質であります。なぜなら、神は愛だからです。神様から生まれた者は、神様の種が宿っています。

 元旦礼拝では「天にあるものを思う」と題してメッセージしました。それは私たちがキリストと共に死んで、よみがえり、さらには天におられるイエス様のところにいるということです。天からこの地上のことを考えるということです。そして、本日は第一回目の聖日礼拝ですが、「新しい人を着る」というメッセージでした。私たちはキリストと共に死んで、よみがえったのですから、古い人を捨てて、新しい人を着るのです。この年も、キリストに似た、新しい人を着て、歩んでまいりたいと思います。

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2009年1月 3日 (土)

天にあるものを思う   コロサイ2:10-3:4 ※元旦礼拝のメッセージです。

 新年明けましておめでとうございます。主イエス・キリストが来られて、恵みの年がはじまりましたが、今年はその2009年目であります。と言うことは、イエス様が再び来られる御国の完成が、また一年、早まったということです。「主よ、来てください」とヨハネ黙示録のように、主の来臨を待ち望みつつ、この年も歩みたいと思います。元旦のメッセージは、「天にあるものを思う」と題して、コロサイ人への手紙からお届けいたします。

 私たちはキリストにあって一度、死んでともによみがえらされた存在です。「キリストにあって」とは、キリストの中に潜り込む(バプティゾー、洗礼)ということです。私たちは2009年に生きていますが、もし、キリストの中に潜り込むなら、どういうことになるでしょうか?この聖書がキリストだとします。そして、この名刺があなた自身だとします。はい、あなたはイエス・キリストの中に入りました。すると、キリストが死んだとき、あなたも一緒に死んだのです。そして、共に葬られました。それからどうしたでしょう。神様はキリストを死者の中からよみがえらされました。そうです。あなたもキリストのともによみがえらされたのです。それで終わりではありません。イエス様は復活後、どうなされたでしょうか?そうです。天に昇り、父なる神の右に着座されました。ではあなたは、今、どこにいるのでしょう?そうです。天において、イエス様の隣にいるのです。エペソ人への手紙2:6「キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました」とあります。ハレルヤ!あなたは霊において、今、現在、天にいるのです。つまり、父なる神様、イエス様、その次に、あなたがいるのです。だから、このようなメッセージがこの次に来るのです。コロサイ3:1-2「こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。」私たちの肉体はこの地上に生きています。でも、霊的には私たちはすでに、神様のところ天上にあるということです。

 では、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさいとはどういうことでしょうか?地上のものとは肉体と魂(心)に関することです。私たちの肉体はこの地上の物質と関わって生きています。肉体には食べたり飲んだり、触ったり、嗅いだり、見たり、聞いたりする感覚があります。また、魂(心)はどうでしょうか?魂は、人と関係するところなので、好きになったり、嫌いになったり、あるときは怒ったり、拒絶したくなります。私たちの肉体や魂は、この世にあって様々な誘惑を受け、あるときは罪を犯してしまいます。パウロは何と言っているでしょうか?コロサイ3:5以降「ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。このようなことのために、神の怒りが下るのです。あなたがたも、以前、そのようなものの中に生きていたときは、そのような歩み方をしていました。」これらの罪は、おもに肉体に関することです。私たちの肉体は、不品行、悪い欲、むさぼりなどを求めます。昨年のクリスマス、KGCのゴスペルコンサートがありました。私たちはそのため衣装を着ますが、アリオでは上が赤で、教会のコンサートでは上が黒でした。最初は紳士服「青木」で赤いシャツを見つけ、それを購入しました。その次は、黒が必要です。また、「青木」に寄ったら、ちょうど色違いの黒いシャツがありました。それも買ってしまいました。家にはまだ着れそうなのがあったのですが、光沢があったほうが、映えるだろうなーと思いました。これは何でしょう?むさぼり、貪欲であります。もっと欲しくなる性質です。テレビにはいくつかのチャンネルが、テレビショッピングになっています。24時間、放映されています。パソコンにも、「今はこれが安いですよ」とたくさんの広告が勝手に入ってきます。たまには、「どれどれ」とクリックしてしまいます。男性は、これだけではありません。不品行、汚れ、情欲・・・こういうものと一生戦っていかなければなりません。牧師であっても例外ではありません。現在も、何人かの牧師は訴えられています。私はその人たちの気持ちがよーく分かります。私が罪を犯していないのは、神様のただただ、あわれみであります。男性諸君、気をつけましょう。昨年の11月、メンズミニストリーがありました。男たちは互いに告白し合い、互いに責任を負い合う必要があります。ワン・ツー・スリー。

 次には魂(心)に関する罪があります。これはコロサイ3:8以降です。「しかし今は、あなたがたも、すべてこれらのこと、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、あなたがたの口から出る恥ずべきことばを、捨ててしまいなさい。互いに偽りを言ってはいけません。」怒り、憤り、悪いことばは、心から出てくるものです。その原因は何でしょう?物質ではありません。人間関係であります。私たちの魂(心)は人と触れ合い、様々な感情を抱きます。だれとも会わないで生活することはできません。必ず、会うんです。たとえ、嫌いな人であっても、避けることはできません。会社にも、教会にも、家族にも、あなたと気が合わない人がいるんです。そういう人と会うとどうなるでしょうか?怒り、憤り、悪意、そしり、悪い言葉が出てきます。「あの人は、なんでああなのだろう?あの人は、いつもあんなことをしている。あの人は、やっぱり普通じゃない。こういうことを感じているのは、私だけではない、きっと多くの人もそう感じているだろう。」そういう思いが湧き上がり、口にも出てきます。

李光雨先生は怒りの問題を「怨念晴らし」という言葉で説明しています。私たちは過去において、嫌な経験をして、そのことが怒りとして残っています。不条理にさらされた。不当な扱いを受けた。拒絶された。あのときの不公平が我慢できなかった。そういうものが怒りとなって、まるでマグマのように心の底にたまっています。たまたま、同じ状況に出くわします。あるいは同じようなタイプな人と出くわします。何かのきっかけでマグマが「どっかーん」噴出します。怨念を晴らすわけです。怨念を持っているのは自分だけではありません。相手も持っています。しかも、怨念を晴らしたい者どうしが、磁石のように引き合います。「もう、我慢できない」とお互いに、怨念を晴らす。それはまさしく、修羅場、サタンの草刈場であります。教会も、怨念を晴ら場所になってしまいます。そして、多くの牧師がその対象になります。なぜなら、牧師は親とか、権威あるものの象徴だからです。また、牧師に怨念を晴らしても、多くの場合、仕返しすることがないからです。安全なところで、人は怨念を晴らします。李光雨先生はこのように言います。「うちでは怨念晴らしは許していません。怨念晴らしをしない、させない、十字架に持って行く」。

 私たちはこの地上に生きていますので、肉体的な罪、そして魂(心)の罪にさらされる可能性がいつでもあるということです。多くの場合、それらが離れない。不品行、情欲の思いが離れない。取っても取っても、またべったりくっつてくる。怒りや憤りの問題も同じです。赦そう、赦そうと思っても、また戻って来て、イヤーな思いになる。そして、また裁いてしまう。その繰り返しであります。パウロは何と言っているでしょうか?「殺しなさい」「捨てなさい」「脱ぎ捨てなさい」と強烈なことを書いています。でも、簡単にそれができない。「・・・するな」というのは1つの律法だからです。私たちは律法に逆らいたくなるのです。でも、その前にすることがあります。それはコロサイ3:1-3、ものごとには順番があります。もう一度、お読みいたします。「こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。」私たちはすでに死んでいます。肉体も魂も一度、死んだ存在です。死んだ者は、何も求めないし、何も感じません。まず、このことを認めるべきであります。その次に、積極的な面があります。「キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。」とあります。私たちはどこから求めるのでしょうか、どこから思うのでしょうか?この地上から、「ああー、おおー、主よー」と求めるのでしょうか?そうではありません。私たちは霊において、すでに、父なる神そしてイエス様の隣にいるのです。

 もし、私たちがイエス様と同じ天上にいたなら、どうなるでしょうか?そうです、神様、イエス様と同じ見方で、自分の地上の生活を見ることができるということです。グーグルというサイトのエンジンがあります。そこの地図をクリックすると、世界地図がばーっと出てきます。航空写真のモードに切り替えると、まるでスペース・シャトルで地上を見下ろしている感じになります。グーグルではイスラエルの聖地、ガリラヤ湖畔も行ったつもりで見ることができます。また、日本を見て、東京、葛飾、亀有、そして最後には亀有教会が見えます。人の歩いているところも見えます。さらには、ストリート・ビューとかいって、教会の目の前の通りの様子が見えます。「いつ撮ったんだろー」と思います。みなさん、もし、神様が天上から私たちの地上の生活を見ているならどう思うでしょうか?実際、ご覧になっていると思います。その次に、私が霊において、私自身の行動、肉体、魂に関することを高いところから見たらどう思うでしょうか?ちっと「ちいせーな」と思うでしょう。「小さいことで悩んでいる」「小さいことでくよくよしている」「小さいことを怒っている」。そのとたん、ああー馬鹿馬鹿しいことやっているなーと笑いが出てくる。そうすると、さっきまで肉体や魂にこびりついていたものが、ふっと消え去ります。ああ、私は今、天上にいるんだ。天上からものごとを考えているんだ。そして、横を見るならだれがいらっしゃるでしょうか?イエス様がほほでんでいらっしゃいます。イエス様が「わが子よ、よく悟ったねー」とおっしゃってくださる。みなさん、これが罪からの解放の秘訣です。悟った瞬間、罪の縄目が切れて、あなたは自由になるのです。その次にどうなるでしょうか?あなたは神様がもっていらっしゃる愛、喜び、平安、そして豊かさに満たされるのです。これこそ、天国の喜びであります。私たちは地上がどんなに荒れまくり、一寸先も見えない、どろどろした状態であっても、天に昇るなら、全く問題ありません。あなたはどこで生きていますか?もちろん、私たちの肉体や魂はこの世で生きています。でも、同時に霊的には天、神様のところにいるんです。この場所からは、悪魔さえも踏みつけることができます。

 皆さん、今度から祈るとき、どうしたら良いでしょうか?祈りは目を開いても、つぶってもできます。でも、目の前が混乱しているとき、地上のもので支配されているときは、ぜひ、目をついぶりましょう。あなたは霊において、すでに天上にいるのです。あなたは地上よりもはるか上にいます。父なる神様とイエス様が隣におられます。そして、父なる神様とイエス様に目によって、自分の地上を見るのです。「ああ、小さいなー」と思うでしょう。そして、本質的なもの、永続するものが何かわかってきます。その次に、あなたはまるで、すぐ隣に、イエス様がおられるように、現在の思いを告げれば良いのです。「イエス様、こうですよね。いや、こうでした。これからこうします。」ハレルヤ!あなたがイエス様に目を向けた瞬間、あなたを縛っていた欲望、怒り、様々な束縛が断ち切られるのです。そして、そこには天国のかおり、天国のひかり、天国の喜びがあるではありませんか。あなたは古い人を脱ぎ捨て、新しい人であるキリストを着るのです。そして、目を開けるとどうでしょう?「なんか、大丈夫な気がする」と信仰が湧いてくるのです。私たちはこの秘訣を聖書から学びました。何かあったら、すぐ、自分が天のところにいることを思い出してください。「こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。」

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