« 2008年11月 | トップページ | 2009年1月 »

2008年12月28日 (日)

キリストによる自由   コロサイ2:11-19

 今年、最後の聖日礼拝になりました。忙中閑ありでしょうか?年末のあわただしい中、神様の前に共に集うことは良いことだと思います。皆さんの中には、この一年、一回も休まないで聖日礼拝に出席しましたという方もおられるでしょうか?まるで、イエス様の足元でみことばに聞き入ったベタニヤのマリヤのようであります。しかし、同時にマルタのようにいろんな奉仕にあたった兄姉もおりました。とくに、「教会クリスマス祭り」ではご苦労さまでした。新しい方がたくさん来られ、すばらしい伝道の機会であったと思います。きょうのメッセージは『キリストによる自由』と題して、私たちクリスチャンは、3つのものから解放されていることを自覚したいと思います。

1.律法からの解放

 コロサイ2:11-14までの内容は、一口に言って律法からの解放であります。このことと同じことが、ローマ6-8章、がラテヤ2-5章にも書いてあります。神様は私たちを律法から解放するためにどのような恵みをお与えになられたのでしょうか?私たちはキリストにあって、一度死んで葬られ、キリストとともによみがえらされた存在です。バプテスマとは洗礼ですが、これは水の量ではなくて、キリストに浸かるということです。キリストの内に潜り込むことによって、どのようなことが起こったのでしょうか?2000前、キリストが十字架につけられたとき、私たちも一緒に十字架につけられたのです。そして、私たちの古い人は死んだのです。また、イエス様とともに葬られました。葬られたとは、完全に死んだということです。それは、御葬式であります。みなさんは、一度、御葬式をしたのです。さらに、神様はイエス様を死人の中からよみがえらされました。私たちがキリストの内にあるならば、私たちも一緒に、復活したのであります。このことをパウロは11節で、「肉のからだを脱ぎ捨て、キリストの割礼を受けたのです」と解釈しています。イスラエル人が割礼を受けたように、私たちクリスチャンは、バプテスマを受けます。そのことによって、古い人に死んで、新しい人として復活し、神の民に加えられたことを確認するのです。ハレルヤ!私たちの中には、過去のいろんな記憶はあります。でも、古い人は既に、キリストと共に葬られました。今、生きているのは古い自分ではなく、新しい自分なのであります。

 では、キリストとともに一度死んで、よみがえらされたクリスチャンにはどのような解放があるのでしょうか?このことは、13節の後半から14節にあります。「それは、私たちのすべての罪を赦し、いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。」律法の役目、あるいは目的とは何でしょうか?それは、私たちの罪を責め立てるということです。聖書には、モーセの十戒をはじめとする、様々な律法が記されています。パウロは聖書のない異邦人には、心の中に良心という律法が記されているとも言っています。この律法にかなう人は、だれ一人としていません。この律法が当てられたら、みな罪人であります。でも、1つだけ除外される人があります。それは死んだ人であります。律法は生きている人にだけ適用され、死んだ人には無関係であります。クリスチャンはキリストと共に死んだので、律法の適用は受けないのであります。その代わり、クリスチャンは復活し、キリストと共に結ばれました。私たちの主人は律法ではなく、主イエス・キリストであります。このお方は恵みに溢れたお方であり、私たちを律法のように、責めたりはしないのであります。「私が助けるから、一緒にやりましょう」と手を取ってくださいます。「イエス様!」と呼べば、キリストの御霊、聖霊が内側に働いて、正しいことを行うことができるようになるのです。ハレルヤ!これは律法ではなく、恵みの力であります。

私たちはキリストにあって、既に赦しの中にあります。もう一度、お読み致します。「それは、私たちのすべての罪を赦し、いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。」私たちの罪を訴える証書は無効にされました。神様はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされたのです。ハレルヤ!この宣言を聞くと、私たちの心はどうなるでしょうか?罪責感が消えます。神様があなたの罪を赦し、その証書を釘付けされたのですから、あなたはあなた自身を赦すべきであります。神様が「赦す」とおっしゃっているのに、「いや、私は自分を赦さない」というのは、神様に逆らう罪です。キリストの血によって、私たちの良心の咎めが去り、良心がすすがれ、きよめられました。今度は、聖霊があなたの心に宿り、聖霊があなたを導いてくださいます。Ⅱコリント3章には「文字は殺し、御霊は生かすからです。…主は御霊です。主の御霊のあるところには自由があります」と書いてあります。私はこのことばが大好きです。子供のときは、親から、兄たちから、先生から、「そうではない。ああしろ、こうしろ」と言われてきました。私は、お説教は大嫌いなのであります。そういう言い方をされると悪い方に反応します。かえって、えこじになり、「ばかやろー、このやろー」と逆らいたくなります。でも、イエス様と出会ってから、「恵みの道」があることを知りました。私たちはすでに罪赦され、義の世界に生かされているのです。「○○しなければ受け入れられない」という世界ではありません。もう、イエス様がすべて全うされたので、何もしなくても良いのです。でも、恵みによって1つでも行うなら、ものすごい誉というか、ものすごく褒められるんですね。すると、次からは嬉しくて、もっとやりたくなる。義務ではなく、恵みなんです。嫌々じゃなく、喜びなんです。なぜなら、我が内におられるキリスト、聖霊様が、そうさせてくださるからです。これが律法から解放された人、御霊によって恵みの中を生きる人の生き方です。アーメン。

2.サタンからの解放

 コロサイ2:15「神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました。」支配とか権威いう言葉は、エペソ人への手紙にもあります。この場合は、悪霊の階級を指しているようであります。黙示録12章には、「悪魔とかサタンとか呼ばれている古い蛇、日夜、私たちを神の御前で訴える者が投げ落とされた」と書いてあります。親分であるサタンが神様に訴えます。そして、その子分ある悪霊たちは、私たちの良心に「お前の罪は決して赦されないぞ!」と訴えるのです。しかし、イエス・キリストが十字架で贖いを完成してからは変わりました。まず、サタンが天から落とされたので、もう神様の前で私たちを訴えることはできなくなりました。さらに、すべての支配と権威の武装を解除され、サタンの国はバラバラになりました。ある悪霊たちは捕虜にされ、また、ある悪霊たちは未だにのさばっています。彼らは自分たちの終わりが近いことを知りながら、神の最高の被造物である私たちを苦しめ、地獄に道連れにしようとやっきになっています。

日本人は神様も悪魔も信じないので、悪霊にとって隠れて活動しやすい、格好な国であります。今、日本には精神的に病んでいる方がものすごく多くいます。2007年度の統計ですが、学校の先生の約5000人が、精神的な疾患で休職をしているということです。子供たちだけが学校に行けないのではなく、学校の先生までも、学校へ行けないという状況です。また、大勢の人たちが抗鬱剤とか安定剤を服用しながら、なんとか職場に通っています。精神科とか心療内科では、お手上げ状態で、一人ひとりをケアーしている時間がありません。私は2年間、丸屋先生のカウンセリングを学んでいますが、昔はノイローゼとか精神分裂症ぐらいでした。しかし、現代は、摂食障害、パニック障害、パーソナリティ障害とか様々な病名があります。クラスで、一番印象的に残ったのは、「こういうものは時間がかかる」ということでした。すべてが悪霊によるものだとは申しません。しかし、アダムとエバが罪を犯してから、死と病が入り込んだことは確かです。つまり、肉体だけではなく、精神(心)も病になるということです。でも、その背後には、サタンの束縛があることは確かです。私たちが神様に立ち返り、罪の赦しと、悪霊からの解放を得る、これはとても重要なことであります。インドネシアのエディ・レオ師によると、カウンセリングではあまり効果がなく、罪の告白と悔い改めによって、多くの人が解放され、癒されているそうです。現代は物事を複雑に考え過ぎています。しかし、聖書は「人間の根本問題は罪であり、神様から離れてしまっていることだ」と言います。

 私たちを混乱させる悪霊に対して、2つの効果的な武器があります。1つは主の御名の権威を用いるということです。使徒2章に「しかし、主の御名を呼ぶ者は、みな救われる」と書いてあります。私たちクリスチャンは、改めて、神様から主の御名の権威をいただくべきであります。そして、イエス様や使徒たちが主の御名の権威を用いたように、病や悪霊に対して、主イエスの御名によって命ずるべきであります。イエス様は病に対して、お祈りしたことは一度もありません。イエス様は常に命じておられます。私たちの場合は、イエスの御名によって命ずることができます。もう1つは、御霊の祈りです。エペソ6:18「すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい」と書かれています。御霊の祈りにはいくつかの解釈があります。1つは御霊に導かれる祈り、もう1つは異言の祈りです。私たちが知性でどのように祈ったら良いか分からないとき、「御霊ご自身が言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます」(ローマ8:26)。心理学は病理を確定するために確かに助けにはなります。お話を聞いて状況を把握することはとても重要でしょう。しかし、実際に癒しを行うときは、私たちは御名の権威と御霊の祈りを用いるべきであります。エリヤハウスも1つのカウンセリングですが、世のカウンセリングと違うのは「祈り」を用いることです。途中で、神様に聞いてみる。ある場合は、その人にも祈ってもらう。神様があなたに何を示しているのか、聞いてみる。すばらしいことに、聖霊様がその場に臨在して、問題を解決してくださいます。私たちは「祈り」というすばらしい、道具(スキル)を持っていることを忘れてはなりません。サタンが一番嫌うのは「祈り」であります。「すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい」アーメン。

3.宗教や儀式からの解放

 コロサイ2:16「こういうわけですから、食べ物と飲み物について、あるいは、祭りや新月や安息日のことについて、だれにもあなたがたを批評させてはなりません。これらは、次に来るものの影であって、本体はキリストにあるのです。あなたがたは、ことさらに自己卑下をしようとしたり、御使い礼拝をしようとする者に、ほうびをだまし取られてはなりません。彼らは幻を見たことに安住して、肉の思いによっていたずらに誇り・・・」宗教には、必ずと言って良いほど、「きまりごと」があります。何の根拠もないのに、食べ物や飲み物、日の良し悪しを規定したりします。また、神様に受け入れられるために断食したり、難行苦行を行ったりします。イエス様の頃、パリサイ人や律法学者、サドカイ人たちは言い伝えや、儀式をみことばよりも重んじました。そのため彼らの信仰は形骸化し、偽善的になりました。残念ながら、私たちの肉は、宗教性に傾きやすいところがあります。私は、自分で宗教をやっているとは思いませんし、宗教的なことは大嫌いです。しかし、長いことやっていますと、「こうすべきだ、ああすべきだ」という型ができてきます。そうしますと、それ以外のことをしたら、「バチが当たる」とは言わなくても、なんらかの罪になると思ってしまいます。福音書を見てみると、イエス様はことごとく、当時の宗教家たちと対決しています。彼らは表面的には神様を敬い、きよい生活をしていました。しかし、その中身は、汚れたものでいっぱいで「白く塗られた墓」のようでありました。イエス様は宗教的な慣習や戒めを破って、いつも聖書の本質に立ち返っていました。イエス様と一緒にいた弟子たちは、そういうものに縛られることなく、いつも自由でした。ですから、私たちも「イエス様は何と言っているか」、そこに焦点を当てる必要があります。

 また、もう1つ私たちが宗教と儀式から解放されるために、日々、イエス様と共に歩むことが大切です。私は、キリスト教は宗教ではなく、今も生きておられるイエス様と共に生活することだと信じます。ヨーロッパはものすごく長いキリスト教の歴史があります。宗教はあっても、命がありませんでした。しかし、最近、本当の信仰を求める人たちが、イギリスをはじめ様々な国に起こっているようです。たとえば、北アイルランドは長い間、紛争が絶えませんでした。カトリックとプロテスタントが争い合っています。これまでも数多くの血なまぐさい争いがありました。しかし、ベン・ウォン師から、今その国にリバイバルが起こっていることを聞きました。私たちは『今はエリヤの日』という賛美をしますが、その曲は「ベルファーストのリバイバル」というアルバムの一曲です。アイルランドは多くの試練を通った国です。アイルランド人たちは「自分たちはとても惨めだ」と思っています。度重なる内乱のために、社会はすべてが悲惨な状態だからです。でも、神様はアイルランドで、新しいことをなさっています。今、この時代に入って、アイルランドは世界で一番、経済成長の著しい国になりました。そして、アイルランドの教会もまた、リバイバルを体験しています。このアルバムで、ロビン・マーティンが、このように言っています。人々が言う。「アイルランドから、何か良いものが出てくるだろうか?」しかし、今、アイルランドですばらしいものが起こされている。なぜなら、神の時が来たからです。「今はエリヤの日、みことばを叫べ。今は、しもべモーセのとき、主の義がかえる。闇と飢えとつるぎ、そこにあっても、砂漠の中で声が叫ぶ。主の備えをせよ。見よ 来られる。雲に乗り。陽のようにラッパの音で。声を上げよ、ヨベルの年にシオンから救いが来る。」アーメン。

 この間のイブ礼拝、全く宗教臭くありませんでした。でも、ある女性の長い髪の毛に、ローソクの火が引火して、焦げ臭い香りはありました。子供たちのお笑い芸人ばりの降誕劇。そして、衣装を脱いだら、ぱっとブレーク・ダンスに早変わり。すごかったですねー。その前のゴスペルコンサートも、明るくて、教会でやっているとは思えませんでした。また、リードする人(ディレクター)がよくしゃべる。「大川先生だったら、きっと怒るだろうなー、でも、一体、誰に似たんだろうなー?」と考えました。「ああ、俺か!俺のDNAだなー」と思いました。宗教はヘンになると、カルトになります。人々はカリスマ的な人物を崇拝し、すべてコントロールされてしまいます。洗脳され、ある決まったことしか考えられなくなります。しかし、うちの教会はそんなことが全くありません。もっと、私を崇拝して?いや尊敬してもらいたいのですが、牧師も体の一部分だなーという感じがして、とても良いです。

 最後に、私たちが律法やサタン、宗教から解放され、キリストにある自由を得るための大事なポイントについて述べたいと思います。コロサイ2:19「かしらに堅く結びつくことをしません。このかしらがもとになり、からだ全体は、関節と筋によって養われ、結び合わされて、神によって成長させられるのです。」このみことばを逆に言えば、私たちはかしらなるキリストに堅く結びつくことが大切だということです。さらに、からだ全体である私たちが、「関節と筋によって養われ、結び合わされて、神によって成長させられるのです」。アーメン。つまり、私たち一人ひとりは、だれにつながっているのか、ということです。だれにつながっているのでしょう?「牧師につながりなさい」と言いたいところですが、そうではありません。かしらなるキリストにつながっているのです。かしらなるキリストから命令を受けて、動くわけです。しかし、それだけだと個人プレーになる恐れがあります。私たちはキリストにつながっているとともに、「関節と筋によって養われ、結び合わされる」必要があります。つまり、一人ひとりが連結し、助け合うということです。不思議なことに、一人ひとり、賜物も違うし、性格も違います。同じような人はいますが、全く同じという人はいません。中には、合わないなーという人もいます。でも、キリストのからだ全体から考えると、そういう人も実は必要なのであります。「自分だけが一生懸命やって、あの人はやっていない」と思うときがあるかもしれません。でも、体のことを考えると手足も大事ですが、静かな臓器がより大事であります。たとえば、「すい臓」はどうでしょうか?すい臓が働かなくなると、糖尿病になって、体全体が機能しなくなります。とにかく、私たちはキリストにあって、どんな人でも必要な存在であると認識すべきです。

 きょうは、キリストによる自由ということを学びました。第一は律法からの解放であります。ある人は律法主義に陥って、隣人をさばいているかもしれません。どうか、自分が神様から赦されているように、隣人をも赦しましょう。第二はサタンからの解放です。悪霊はからすやねずみのように生ごみをあさります。私たちの中に告白していな罪や心の傷がある場合、悪霊の足場になります。どうぞ、熱心に悔い改め、キリストの御霊に満たされましょう。第三は宗教や儀式からの解放です。「人はうわべを見ますが、主は心を見ます」(Ⅰサムエル16:7)。人が見ようと、見ていまいと、神様の御目のもとで暮らせば良いのです。どんなときにもイエス様の恵みによって、歩めば良いのです。神様からいただいた、キリストにある自由を心から感謝します。

|

2008年12月21日 (日)

星に導かれて    マタイ2:1-12

 マタイによる福音書はおもにユダヤ人のために書かれた書物だと言われています。なぜなら、旧訳聖書からの引用が多く、「○○が成就した」という、言い方が数多く出てくるからです。でも、皮肉なことにユダヤ人はイエス・キリストに躓いてしまいました。そのため、救いが異邦人に広がっていくようになりました。イエス様のもとに来て、信仰が称賛されているのは、ローマ兵とかツロ・フェニキアの女性でありました。そして、本日、登場します東方からの博士たちも、異邦人であります。聖書には「博士」と書いてありますが、原文はマゴイであり、占星術者であります。星占いをするような人たちが、救い主に会うために、遠路はるばるやって来たのです。きょうは「星に導かれて」と題して、彼らの信仰を学びたいと思います。

1.真の求道者たち

 求道者は英語で、seeker「道を捜し求める人」と言います。東方の博士たちは、真のseekers、求道者たちです。東方とは、おそらくバビロンとかペルシャの国であったろうと思われます。なぜ、そのような国から救い主を捜し求めてやってきたのでしょうか?バビロンとかペルシャと言いますと、ユダ王国の民が捕らえられた地であります。ダニエルと他3名の人たちは、若いときにバビロンに連れて行かれました。しかし、彼らは神からの霊に満たされた有能な人たちでありました。ダニエルなどはトップのリーダーとして、4代の王様に仕えた預言者であります。東方の博士たちは、ダニエルが残した預言書、あるいは何らかの言い伝えを得ていたのかもしれません。「世界を治めるような王様が、ユダヤ生まれる」、その年数はいつころだということも、計算していたでしょう。また、彼らは星の運行をいつも調べていました。彼らは星の運行を統計学的に調査しながら、洪水とか飢饉など、様々な吉凶を予測していたことでしょう。それは単なる占いではなく、何百年、いや、数千年間にわたるデーターに基づいていたのかもしれません。それで、あるときから、天体に大きく光る星が現れるようになりました。なぜ、星の現れが、ユダヤ人の王なのわかりません。でも、イスラエル国旗は「ダビデの星」をかたどっていますので、星が関係があるのかもしれません。また、星が現れるというのは、宇宙的なことですから、「全世界に影響を与えるような王様が誕生するのではないのか?」と彼らは思ったのかもしれません。

 それにしても、ユダヤに生まれる王様にお会いするために、危険を冒してまで、はるばる来るでしょうか?当時はローマが支配していても、東の方はまだまだ、その力が行き届いていませんでした。ですから、盗賊とか山賊が跋扈する危険地帯があちらこちらにあったと想像できます。で、博士たちは3人だと言われていますが、決してそんなことはありません。おそらく大ぜいの従者たちを連れて、旅をしてきたと思われます。そうでないと、危なくて、大変であります。また、ある人たちは、「その3人とは単なる博士ではなく、一国の王様ではなかっただろうか」とも言います。ですから、彼らの絵を見るときに、それぞれ冠をかぶっているからです。また、3人にはそれぞれ、名前がつけられていますが、それは伝説であって、あまり信憑性はありません。しかし、彼らの求道心はすごいもので、「きっと全世界に影響を与えるような王様がユダヤにお生まれになった。あの星をめざして行ってみよう!ぜひ、お会いして礼拝をしたいものだ」と、博士たちは決断したのであります。そして、当時の宝ものをもっともコンパクトな形におさめました。小さくても価値があるもの、それは黄金、乳香、没薬でありました。手ぶらで行くなどという、失礼なことなしなかったのであります。彼らよりも前に、シバの女王がソロモンに会いに行きました。そのとき、どうだったでしょうか?女王は「非常に大ぜいの有力者たちを率い、らくだにバルサム油と非常に多くの金(120タラント、1タラントが30㎏だとすると3,600㎏)および宝石を乗せて、エルサレムにやって来た(Ⅰ列王記10:2)」と書いてあります。そして、女王はソロモン王に謁見したのであります。ソロモンは女王が帰るとき、その豊かさに相応したものをシバの女王に与えました。では、幼子イエス様は彼らがそれらの宝ものを捧げたときに、博士たちを手ぶらで帰したでしょうか?そうじゃありません。ある聖画を見たことがあります。博士たちが深々と幼子を礼拝していました。マリヤにいだかれた幼子イエスは片手に黄金の杓を持っていました。そして、その杓を博士の頭上に傾けていました。つまり、彼らを祝福していたのです。なんとこまっしゃくれた赤ん坊でしょう!ま、イエス様は杓を持ってはいなかったと思いますが、神様は彼らを祝福したことは間違いありません。 もちろん、博士たちは見返りなど求めていません、ただ、世界的なユダヤ人の王に会いたい一身で、出発したのです。

 博士たちは「ああ、あそこだろうなー」と思ってきたところが、ヘロデ王の宮殿でした。「ユダヤ人の王様だったら宮殿におられるはずだ」と当然考えるでしょう。しかし、それは当たっていませんでした。2:3「それを聞いて、ヘロデ王は恐れ惑った。エルサレム中の人も王と同様であった」とあります。ヘロデ大王は、ものすごく猜疑心の強い人で、王様になりそうな者を一人残らず殺しました。だからユダヤの人たちは「ヘロデの息子になるよりは、豚になったほうがまだましだ」と言っていたくらいです。ヘロデ大王は口では「私も拝みに行くから」と言っていますが、「とんでもないことだ、居所をつかんで早く始末しなければ」と考えていたことでしょう。エルサレムの人たちも、「ああ、新しい王様もいいけど」ヘロデが怒って何かをやらかして、とばっちりを受けたら嫌だなーと思ったでしょう。それでは、聖書に詳しい祭司長や学者たちはどうだったでしょうか?彼らは「イスラエルを治める支配者がベツレヘムから出る」ということが分かりました。でも、博士たちと一緒に、会いに行ったとは書かれていません。彼らも、「これは困ったことになった。自分たちの立場がおかしくなるんじゃないか。リストラされたらどうしようか?」と恐れたのであります。わぁー、救い主の誕生を博士たち以外、だれも喜んでいなかったのです。なんと、ユダヤは霊的にひどい状況なのでしょうか!王様も宗教的指導者たちも、そしてエルサレムの住民たちも、救い主の誕生を歓迎していなかった。むしろ、「やっかいなことになった」と思っていたのです。

 みなさん、星はいつのとき、最も明るく輝くでしょう?それは、夜空が真っ暗なときです。救い主が誕生した時代も、霊的に真っ暗なときだったのです。そういう状況の中で、異邦人の、占星術者たちが遠路はるばる、救い主を訪ねてやってきたのです。彼らこそすばらしい、seekers求道者たちであります。日本はどうでしょうか?海外から来た講師たちは、口々に「まもなく、日本にもリバイバルが来る」と預言しました。でも、日本のクリスチャン人口は減るばかりです。1年に何十もの教会が閉鎖されています。リバイバルではなく、サバイバル状態です。でも、霊的に不毛な日本にも、真面目な求道者たちがおります。アーメン。私たちは東方の博士たちから学ぶべきであります。まず、彼らは少ない情報をもとに、危険を冒して、遠くからやってきました。日本では、どうでしょうか?クリスチャンになるとお嫁にいけなくなる。教師になったり、会社に勤めることが難しくなるでしょうか?あるいは、仏壇とかお墓の問題があるでしょうか?宗教はあぶないという噂があるのでしょうか?そういう困難を払いのけない限り、救い主に会うことはできないでしょう?また、博士たちが「ここだ!」と思ったように、ある人たちは「教会」とか「大学付属の神学校」を訪ねるかもしれません。話しを聞いてみたら、「聖書もキリストもまともに信じていない」ということもあります。「げー、なんということでしょう?」それでも、躓いてはいけません。マタイ7:7には「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます」と書かれています。英語で、「求めなさい」はaskであり、「捜しなさい」はseekであり、「たたきなさい」はknockであります。しかも、それらの動詞は継続的な命令であります。つまり、どんなことがあっても、一回であきらめず、「求め続けなさい」、「捜し続けなさい」、「たたき続けなさい」であります。マタイ7:8「だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます」。だれでも、ということは極東に住む日本人であってもということです。アーメン。世界の文化国で、宣教が最も難しい国はどこでしょうか?日本であります。日本は教養も高く、経済大国です。でも、クリスチャン人口が1%以下。宣教師の墓場と言われています。霊的に不毛な国においてどうなのでしょうか?私たちはあきらめてはいけません。東方の博士たちのように、救い主を求めている、求道者たちがたくさんいることを信じましょう。そして、私たちも暗い世の中にあって、キリストを指し示す、世の光としての使命を果たしましょう。

2.真の礼拝者たち

 マタイ2:9,10「彼らは王の言ったことを聞いて出かけた。すると、見よ、東方で見た星が彼らを先導し、ついに幼子のおられる所まで進んで行き、その上にとどまった。その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。」博士たちはエルサレムにいました。天上の星が南に移動したので、南ベツレヘムに進んで行きました。しかし、「イエス様がおられる真上にとどまったというのもどうかなー」と思います。星というのはものすごく高いところにあるのでしょう。10数キロ先の家の上にとどまるというのは解せません。もっと、星が低くなければ、ナビゲーターの役目は果たしません。私はこの星は天使ではないかと思います。ダニエル8書には「星の軍勢」とあり、黙示録12章には「天の星の3分の一を引き寄せる」とあります。星は御使いのことを言っています。黙示録1章にも「7つの星は、7つの教会の御使いたち」と書いてあります。天使が巨大な灯りをもって、博士たちをイエス様がおられる家まで導いたのではないかと思います。大の大人が、何を言うんだと思われるかもしれません。私としては新しい発見なのですが・・・。「その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ」とあります。この中に礼拝の要素が2つあります。1つは星が導くと同じように、神様が私たちを導いてくれなれば、神様の御もとには来られないということです。イエス様は、ヨハネ6:44で「わたしを遣わした父が引き寄せられないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできません」と言われました。私たちは自分の意志で神様のところへ来たと、おもっているかもしれません。あるは、「自分で求めたから」「自分で捜したから」と言うかもしれません。もちろん、自分の意志とか求道心もあります。でも、神様が私たちは引き寄せ、神様が導いてくれなければ信仰を持つことはできません。礼拝もそうであります。父なる神様が、私たちを招いてくれたので、私たちは御もとに来ることができたのです。ですから、神様を礼拝できるというのは特権であります。もう1つは博士たちがとても喜んでいるということです。「その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ」とあります。礼拝は喜んでささげるべきです。もちろん、聖日礼拝だけが礼拝ではありませんが、喜びと期待をもって臨むべきであろうと思います。そうすると遅刻することもなくなると思います。これは律法ではありません。恵みです。

 さらに私たちはどのようなことを彼らから学ぶことができるでしょうか?マタイ2:11「そしてその家にはいって、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。」博士たちはなぜ、赤ん坊のイエス様を礼拝したのでしょうか?赤ん坊のイエス様がこれまで博士たちに、何かをしてくれたのでしょうか?また、赤ん坊のイエス様が今後、彼らに何か良いものを与えてくれるのでしょうか?博士たちはなぜ、赤ん坊のイエス様を礼拝したのでしょう?それは、イエス様が神様だからです。「ひれ伏して拝んだ」というギリシャ語は、プロスキュネオーですが、これは神様以外にはしてはいけないことであります。エホバの証人たちは、「敬意を表した」と訳していますが、そうではありません。ひざまずいて、深々と頭を下げたのであります。イスラム教徒たちが行なうような、礼拝であります。ご利益的な信仰は、「あの神様はこんな御利益を与えてくれるから礼拝するんだ」という下心があります。自分に何もしてくれない神様なら、こちらから払い下げであります。「えー神様、あなたにこれだけささげたんですから、わかっていますね。私の願い事、聞いてくださいよ。そうでないと他の神様のとろこへ行きますよ」みたいなところがあります。それは本当の礼拝ではありません。神様は全宇宙、全世界の創造者であり、今もすべてを保っておられます。私たちにいのちを与え、必要なものをお与えになる方です。神様はすべてのことを益に働かせるように、摂理の御手をもってあなたに臨んでくださいます。そのことを思うならば、礼拝せずにはおられません。私たちはまことの神様に頭を下げないならば、他のものに頭を下げることになります。他のものとは、お金、地位、物質、快楽、偶像の神様です。今年は、大麻を所持している人がたくさん捕まりました。大麻をこっそり栽培している人もいました。彼らにとって頭をさげる神様は、大麻だったのです。多くの人は何らかの中毒、依存症になっています。パチンコ、薬物、食べ物、仕事、ポルノ、ゲーム、最近は携帯電話もあるようです。まことの神様を礼拝しているならば、この世のものに中毒になる必要はありません。神様がちゃんと私たちをコントロールしてくださるからです。

 また、彼らは、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげました。彼らは神様にふさわしいものをささげました。彼らにとってイエス様はそれだけの価値があると思ったからです。つまり、礼拝者がささげるものによって、その人が神様にどのような信仰をもっているか計ることができます。どうでも良いものをささげるならば、神様はどうでも良いお方です。彼らは自分にとって本当に大切で、価値のあるものをささげたのです。また、彼らのささげたものはとても暗示的でした。イエス様のご人格ととても深い関係がありました。まず、黄金です。黄金は王様にふさわしい宝ものです。つまり、イエス様は王であるということを表しています。乳香は祭司が礼拝のときに用いるものです。つまり、イエス様は大祭司であるということを表しています。それでは没薬は何でしょうか?これも当時、とても貴重なものでした。でも、多くの場合、葬りのときに用いられました。赤ん坊のイエス様に没薬をささげるとはどういうことでしょうか?みなさんが、赤ちゃんの誕生祝いに、お線香とローソクを包んでいったらどうなるでしょうか?塩をまかれるのがおちです。でも、博士たちが自覚していたかどうかは分かりませんが、イエス様は死ぬためにこの世にやって来られました。それはご自分のいのちで人類を贖うためであります。ですから、没薬は贖い主イエス様のためにはふさわしい贈り物です。彼らは神であるイエス様にふさわしい贈り物をささげました。王なるイエス、大祭司なるイエス、そして贖い主なるイエスとして礼拝したのです。なんと、奥深い、霊的な礼拝でしょうか。私たちもイエス様が私にとってどういう存在なのか、もっともっと深く知る必要があります。

 最後に博士たちから学ぶ点はこのことであります。マタイ2:12「それから、夢でヘロデのところへ戻るなという戒めを受けたので、別の道から自分の国へ帰って行った」。博士たちは、神様からみ声を聞いて、別の道から自分の国へ帰って行きました。ヘロデは幼子イエスを殺そうと尾思っていたからです。だから、別の道から自分の国へ帰って行ったのです。私たちも神様を礼拝するとき、神様のみ声を聞きます。プロテスタントでは礼拝の中に聖書からのメッセージがあります。その中で、ある人にはこのこと、またある人にはこのことと、神様が語ってくださいます。それを聞いたら、私たちは古い道ではなく、新しい道を歩む必要があります。それを私たちは悔い改めと言います。悔い改めとは、方向転換のことです。私たちは神様を礼拝するとき、神様からの戒め、励まし、教えや教訓、約束をいただきます。すると、「ああ、このところが神様のみむねとズレているなー」と気づくわけです。1回で全部を変えるのは大変です。私たちはずるいので、また元の道に戻ってしまいます。でも、礼拝を通して、毎週、教えられ、悔い改め、新しい道を歩むのです。もちろん、個人のディボーションでも神様は導いてくださいます。でも、こういう礼拝は、私たち、つまり教会という共同体に語られる内容であります。コーチングでベン・ウォン師は「日曜日の礼拝ほど、大切でない集会はない」と言います。それはコーチングとか弟子訓練を強調した言い方かもしれません。でも、私は古い人間でしょうか?聖日礼拝を中心に一週間が動いています。52回の日曜日が、節目、節目になっています。ある先生が、カーテンレールにたとえていました。カーテンに52個ピンがあるとしたら、それがある程度バランスよく、なっていないと、カーテンがだらしない形でさがってしまうということです。全部、出られたら申し分ありませんが、日曜日の礼拝よりも優先しなければならないこともあります。日曜日礼拝がすべてだとは決して申しません。でも、カーテンレールのように、定期的にバランスよくなっていないといけないということです。私は個人的な礼拝や、小グループの礼拝を強調する方です。でも、聖日の礼拝は公の礼拝であり、これはこれで神様を体験する幸いなときであります。もちろん、月曜日から土曜日までの、平日の生活が大切なことは言うまでもありません。でも、公の礼拝を喜んでささげる、これは信仰生活にとって「霊的ないのち」ではないかと思います。東方の博士たちは私たちにこのことを教えています。インドネシアや中国、イスラム圏など迫害下にある教会は、一緒に集まって礼拝をするということが貴重なことであり、またそれが、いのちがけなんであります。

 きょうは、星に導かれて、はるばる東方から幼子イエス様を礼拝に来た博士たちから学びました。彼らの真の求道心、また真の礼拝者の心はすばらしいと思います。また、神様はそのことを覚えて、後代の人たちの模範となるように聖書の記録として残しておいてくださいました。博士たちは異邦人で、しかも占星術者でありましたが、このような人たちをもみそばに、導いてくださるのです。私たちも極東の霊的に真っ暗な日本に生まれた者たちですが、不思議にも、まことの神様のもとに導かれたことを感謝します。

|

2008年12月14日 (日)

その名はイエス    マタイ1:18-25

 もし、このクリスマスシーズンにおいて、クリスマスに関するメッセージを真面目にするとしたら、おそらく5、6回ではきかないだろうと思います。毎年、こういうのをやるのですから、クリスマスは牧師泣かせであります。数的にはイースターよりも大変であります。そういうわけですから、内容的に聞いたことがある方は、前のことは忘れて、新しい気持ちで受け止めてもらいたいと思います。きっと、新しい発見、また新しいチャレンジが与えられると思います。きょうはイエス様がこの世に来られた目的ということをマタイによる福音書からお話したいと思います。

1.その名はイエス

 ユダヤでは、婚約は結婚と同じ重さがありました。婚約期間中に、他の男性によって身ごもったとなると、姦淫罪となり、石打ちの刑で殺されてしまいました。マタイ19-21をもう一度お読みいたします。「夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現われて言った。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」神様はマリヤだけではなく、ヨセフのことも心配しておられました。ちゃんと御使いを遣わして、フォローアップしてくださいました。先週、フォローアップということを学んだばかりであります。神様は御使いを通して命じました。聖霊によって宿った子どもであるから、マリヤを妻として迎えなさい。また、男の子が生まれるから、「その名をイエスとつけなさい」と命じたのであります。うぁー、「ヨセフはロボットかー」と言いたくなりますが、ヨセフも救い主誕生のために、選ばれた人なのであります。ヨセフよりも、母マリヤの方がずっと有名ですが、ヨセフは影の立役者です。なぜなら、誤解を真正面に受けて、幼子イエスと母マリヤを守ったからであります。

 ところでイエス・キリストという名前を、初めて聞いたときに、みなさんはどう思われたでしょうか?中には「イエス・キリストはアメリカ人である」と本気で思っている人たちがいるでしょう。英語読みにするならば、イエスは名前で、キリストは苗字ということになります。イエスは確かに名前ですが、キリストは職名であり「メシヤ(油注がれた者)」という意味です。また、イエスという名前も、ヘキサゴンだったら「Yes or No の Yesだろう」と言う人もあるかもしれませんが、そうではありません。イエスはギリシャ語では「イエスース」であり旧訳聖書「ヨーシュア」と同じ意味であります。その意味は、「主は救い」という意味です。旧約も新約も、人物の名前には必ずと言って良いほど、明確な意味がこめられています。まさしく、「名は体を現わす」なのであります。ですから、「イエス」という名前も、当時はそんな珍しい名前ではありませんでした。最近、たまひよ2008年名前ランキングが発表されました。女の子は葵が1位になりました。大河ドラマで主演中の「あおい」ちゃんが人気があったからでしょう。また、男の子の大翔(ひろと)が3年連続になりました。また「悠斗(ゆうと)」などのように、「悠」の字を使った名前が、相変わらず人気があるようです。ちなみに「悠」は「のんびりとして、どこまでも長ながと続くさま」を意味し、悠然という語があります。現代があまりにもあわただしいのでそういう名前が好まれるのでしょうか?

 でも、「イエス」という名前には、もっとはっきりとした目的があります。その意味は「主は救い」でありますが、一体何から人々を救うのでしょうか?21節には「この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださるのです」と書いてあります。多くの人たちは宗教に救いを求めてやってきます。「病気を治してください」「商売繁盛を願います」「安産でありますように」「志望校に入れますように」です。でも、聖書が言う救いは、「罪からの救い」であります。これは、すべての人の根本的な問題であり、しかも、この世の宗教では扱っていない課題です。逆に言うなら、罪の問題が解決されるならば、この地上の様々な問題も解決されるということです。では、「その罪」とは何でしょうか?聖書には「ご自分の民をその罪から救ってくださる方です」と書いてあります。「ご自分の民」というのは、一体だれなのでしょう?それは、それはイスラエルの民です。マタイ1:1には「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図」と書いてあります。また、ルカ1章で母マリヤはこのように賛美しています。ルカ1:54、55「主はそのあわれみをいつまでも忘れないで、そのしもべイスラエルをお助けになりました。私たちの先祖たち、アブラハムとその子孫に語られたとおりです。」その民とは、アブラハムの子孫、つまりイスラエルであるとはっきり書いてあります。「えー、私たち全人類のことじゃないの?」と言いたくなります。そうです。イエス様はまず、ご自分の民であるイスラエルの民を救うためにやって来られたのです。だから、弟子たちに、「異邦人ではなく、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい」(マタイ10:6)と命じました。イエス様ご自身も、ギリシャに来てください」と誘いを受けたことがあります。でも、「麦が地に落ちてしななければ」とおっしゃって、外国へは出向かず、パレスチナだけにとどまって宣教をしてました。

 しかし、イエス様にはご計画がありました。それは、ご自身が贖いを完成された後に、あの12弟子たちを世界宣教に遣わすという計画です。何故、12弟子たちかと言うと、それはイスラエルの部族が12部族だったからです。本来、神様がイスラエルを祭司として選んだのは、イスラエルを通して全世界に救いをもたらすためでした。しかし、イスラエルは不信仰の罪を犯しました。さきほどの「その罪」とは、原文は「彼らの罪」であります。彼らが神様に背いたために、祭司の役目を果たすことができなくなりました。そのために、神様はまずイスラエルを回復しようとしました。しかし、彼らはメシアであるイエス様でさえも拒絶し、十字架に付けてしまったのです。ヨハネ1:11「この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった」とあるとおりです。そのために、イエス様は12弟子を選び、新しいイスラエルとして世界に送ったのであります。使徒パウロも始めはユダヤ人に福音を宣べ伝えました。ところが、彼らはパウロを迫害し、福音を受け入れませんでした。そこで、パウロは「彼らに対して足のちりを払い落として」、異邦人に福音を宣べ伝えに行ったのです。大変、話が長くなりました。なぜ、こんな話をしたのでしょうか?私たちは救いとは縁もゆかりもない、異邦人でした。異邦人とは元来「国々」という意味ですが、非イスラエル民族を指していました。パウロは私たちのことを「約束の契約においては他国人であり、この世にあっては、神もなく、望みもない人たち」と言っています。日本人はキリスト教を外国の宗教と言いますが、それは全く反対で、私たちの方が他国人、外国人なのです。

 すばらしいことに、「救い」が私たちのところにやってきました。いつからでしょうか?来年はプロテスタントが来て150年目だと言われています。しかし、ある研究者たちは、仏教が日本に伝来する数百年も前にシルクロードを渡って来ていたと言います。「神の指紋」というDVDがありますが、いくつかの神社の礼拝、日本人の風習やことば、歌にもそのことが残っていると言います。同じようなことが、「みのもんた」の番組で数回取り上げられ、久保有政師もテレビに出ていました。でも、明確な救いはこの「福音」を信じなければ得られません。福音とは何か?まず、私たちは神様から離れて滅びに向かっている罪人だということを認めなければなりません。そして、そういう私たちを救うために、イエス・キリストが人となり、十字架で贖いのわざを成し遂げてくださいました。その贖いの代価は、イスラエルのためだけではなく、全人類のためのものでした。イエス様は1回で永遠の贖いを成し遂げて下さったので、私たちはキリストの贖いを受け入れるだけで救われるのです。クリスマスは遠い昔の作り話ではありません。ロマンチックな物語でもありません。2000年前、神のひとり子が全人類を贖うために、人として地上に来られた日なのであります。イエス様は、私を、あなたを罪から救うことのできる、キリスト、救い主なのです。アーメン。人が何と言おうと、この方以外に、人類を罪から救うことのできるお方はいらっしゃらないのであります。

2.その名はインマヌエル

 マタイ1:22,23 このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)このみことばは旧約のイザヤ書7:14からの引用であります。イエス様がお生まれになる730年も前に預言されたことが成就したということです。「インマヌーエル」とはヘブル語で「神が共にいます」という意味です。まず最初、イエス・キリストによって、神が共におられるということが実現しました。つまり、まことの神とまことの人が全く一つになられたお方がイエス・キリストだということです。歴史上こういうお方はいなかったのであります。イエス様はGod-Man「神であり、また人であった」ということです。これは人類でイエス様お一人でありますから、みなさんが「私は神であり、同時に人である」などと言ってはいけません。でも、ここにすばらしいことが書いてあります。「その名はインマヌエルと呼ばれる」ということです。イエス様ご自身はインマヌエルと呼ばれたことは一度もありません。神学的に言いますと、これは文字の上での成就ではなく、信じる人々のうちに成就するということです。つまり、イエス様を信じる人たちと神が共におられるということが実現するということです。ハレルヤ!

ところで、マタイ福音書はあえて、個人ではなく「神は私たちとともにおられる」ということを強調しています。マタイ福音書には3箇所、はっきりと神がともにおられる、つまりインマヌエルということが記されています。最初は、このマタイ1章にインマヌエルの預言が記されていました。その次は、だいたい真中のマタイ18章です。マタイ18:20「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」このみことばをちょっと言いかえるとこうなります。「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にインマヌエル!」。そして、最後の章、マタイ28章にもあります。「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにインマヌエル!」。アーメン。個人ではなく、「私たち」「ふたり三人」とか「あなたがた」であります。なぜでしょう?マタイによる福音書はふたり三人以上集まる「教会」ということをとても重要視しているからです。たとえば、ガダラ人(ゲラサ人)の地においては、悪霊につかれた人は一人なのですが、マタイ福音書では「二人いた」と記されています。また、盲人がイエス様に「ダビデの子よ、あわれんでください」と癒しを求める物語があります。マルコ福音書にはバルテマイと書いていますが、マタイ福音書では「ふたりの盲人」と記されています。わざわざ二人なのであります。マタイという人物は、「信仰とは個人ではなく、共同体、主の御名によってともに集うことだ」と強調したかったのではないかと思います。インマヌエル、神は私たちとともにおられる。私たちはこのことを大事にしたいと思います。

 また、旧訳聖書にもどりますが、もう1箇所「インマヌエルとは何か」ということが、イザヤ書に書いてあります。イザヤ57:15「いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名を聖ととなえられる方が、こう仰せられる。「わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである。」この箇所は、インマヌエルを語るときに、必ず引用される聖句です。神様は本来、聖なるお方です。元来「聖(カドーシュ)」という語は、道徳的な意味ではなく、物理的な距離関係を表すことばだそうです。神様は私たちとは遠くかけ離れた存在です。つまり、「神様は聖なるお方であって、私たちが近づくことのできない、超越者である」ということです。でも、どうでしょうか?後半にものすごく矛盾したことが記されています。わたしは、高く聖なる所に住むけれども、「心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである」。神様は遠く離れた超越者であられるけれども、同時に、へりくだった人と共に住むお方だということです。なぜなら、へりくだった人の霊、砕かれた人の心を生かすためです。私たち人間は、どういうときに一番、神様を求めるでしょうか?逆に言うと、どういうときに神様は一番近くにおられるのでしょうか?マタイはイエス様の教えを山上の説教でまとめています。マタイ5章には8つの幸いが記されています。どういう人が神様の祝福を得るのか?心の貧しい者、悲しむ者、柔和な者、義に飢え渇いている者、あわれみ深い者、心のきよい者、平和を作る者、そして、義のために迫害されている者です。つまり、「こういう人たちこそが、へりくだった人であり、神様が共にいて彼らの霊と彼らの心を生かすんだ」ということです。

 今年はみなさん、どのような年だったでしょうか?ものすごーく高められた年だったでしょうか?それとも、どん底とは言わないまでも、「けっこう低くされたなー」という年だったでしょうか?私などは7月の後半あたりから、つまり台湾宣教チームが来てから、ぐーっと下げられたなーという感じがします。何人かの人たちが教会を移られたということもあり、礼拝人数も8月からぐっと減っています。「教会は人数ではない」と口では言っていますが、内心はきついです。さらに、9月のコーチング・セミナーにおいてベン・ウォンから「けちょん、けちょん」に言われました。ベンが「良い牧師とは何か」「良い教会とは何か」と教えるとき、私のことが題材になりました。私の心の中には、「へりくだってコーチングを学ぼう」という思いと「こんなに馬鹿にされて我慢できるか」という思いが、混ざっているのであります。さらに、10月に車をぶっつけてしまい、女性ドライバーから「けちょん、けちょん」に言われました。車もひこみましたけど、「心がひこむとはこういうことなんだなー」と初めて経験しました。私は「ついているとか、ついていない」などとは決して言いません。でも、「こういう状態が長引くと、うつ病になるんだろうなー」と、そういう経験をしました。でも、首の皮一枚で助けられました。その中で一番大きな要素は何でしょうか?このようにしてメッセージを毎週、語ることのできる特権が与えられているということです。一週間ぐっと下降し、へりくだらせられる。金曜日にはほぼ死んでいる。でも、日曜日の朝、復活するのであります。ハレルヤ!だから、へりくだらせられることは良いことです。なぜなら、神様がともにいて、慰め、力を与え、引き上げてくださるからです。教会員の兄弟姉妹の中には、ご病気が重くなり礼拝に来れない兄弟もおられます(中嶋兄弟)。また、会社をたたまなければならない兄弟もいます。「不景気のため営業がさっぱりだ」という方は何人もおられるでしょう。私たち信仰者は社会に文句を言うのではなく、「これは、神様からへりくだらされている」と考えるべきです。

 マリヤはへりくだりがどんなにすばらしいか賛美しています。ルカ1:51-53「主は、御腕をもって力強いわざをなし、心の思いの高ぶっている者を追い散らし、権力ある者を王位から引き降ろされます。低い者を高く引き上げ、飢えた者を良いもので満ち足らせ、富む者を何も持たせないで追い返されました。」この歌は、マリヤがイエス様を宿したときに、歌ったものです。しかし、よく見ると、権力者や富む者たち対して厳しいなーと思います。当時は、今の時代以上に、そういう傾向があったのかもしれません。私たちは「格差時代だ」「不平等だ」とか、言っていますが、当時は、もっともっとひどかったと思います。権力者たちが権力をふるい、人権も何もなかったのでは、と思います。貧しい人たちは明日の食べ物もなく、地べたを這い回っていました。「日本は、今、不景気できびしい、リストラで失業率が高まった」と言うけれど、当時とは比べ物にならないでしょう。つまりは、多くの日本人はまだ、「救い主・イエス・キリストには頼る必要はないと」と考えているということです。まだ、まだ私たちは豊かで、心の思いが高ぶり、満ち足りているということです。でも、神様は日本を愛しておられます。だから、終わりの時代、小さな日本を揺さぶるのではないかと思います。経済的に、精神的に揺さぶる。この先、天変地異や地震によってもっと揺さぶるかもしれません。私たちクリスチャンも迫害されるかもしれません。おー、信仰とは心が安らかになるためだけではないですね。信仰とはどういう状態でも、神が私たちと共におられるということを知り、一心不乱に神様に頼ることであります。私たちはこの世がどのようになろうとも、決して揺さぶられないものを持っています。それは、イエス・キリストの十字架の贖いであります。私たちは新しいイスラエル、王国の祭司として立てられています。ですから、「一人でも多くの人が、御国に入るように」と、とりなしなすことを怠ってはなりません。なぜなら、主イエス・キリストこそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方だからです。また、主イエス・キリストこそ、神が私たちと共におられることを実現させてくださるからです。

|

2008年12月 7日 (日)

知恵と知識との宝    コロサイ2:1-7

 救われたばかりの人というのは、赤ん坊と同じで、とても不安定です。こちらは、「早く、信仰によって歩むことができるように」と願います。が、しかし、この世の中で、これまで生きてきたので、切り替えがそう簡単にできるものではありません。信仰が大切だと思いながらも、自分の考えや経験に従ってついつい行動してしまいます。使徒パウロは、キリストを信じて救われた人たちに2つのことを願っています。第一はキリストを知るように、第二はキリストに根ざすように願っています。そのようにしてくなら、やがて信仰が確立され、感謝にあふれた生活ができるということであります。

1.キリストを知る

コロサイ2:2-3「それは、この人たちが心に励ましを受け、愛によって結び合わされ、理解をもって豊かな全き確信に達し、神の奥義であるキリストを真に知るようになるためです。このキリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されているのです。」パウロは、「神の奥義であるキリストを真に知るように」と願っています。奥義とは、ギリシャ語でミュステーリオンと言いまして、私たちがよく聞く「ミステリー」であります。この意味は奥義ですが、他に「秘密の儀式」という意味もあります。その当時は、密儀教という異端があって、恍惚状態になり、神秘的な体験を通して、深い知識を得るという宗教がありました。彼らも、同じ「奥義」という言葉を使ったのであります。しかし、パウロは神の奥義とはキリストそのものであると教えています。また、もう1つの異端は哲学的なものです。8節では「あのむなしい、だましごとの哲学によってだれもとりこにならぬよう、注意しなさい」と教えています。哲学者たちは知恵(ソフィア)を求めます。その知恵はギリシャ哲学から来たもので、観念的であります。多くの場合、魂は善であるが、肉体は悪であると考えました。そのため、ある者は禁欲主義に走ったり、またある者は快楽に走ったりしたようです。パウロは「それらは幼稚な教えであって、キリストに基づくものではない」と注意しています。現代のキリスト教にも両極端ありまして、右端は、神秘的な体験を求めるものです。霊的な体験はもちろん大切ですが、体験ばかりを求めると罠にはまります。また、左端は、聖書を人間の理性で捉えるリベラルの人たちです。彼らの神学はもはや哲学であります。私たちは両端の溝にはまらないで、バランスを取る必要があります。

パウロはキリストこそが神の奥義であり、「このキリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されているのです」と言いました。すごいですね。みなさんは、キリストのうちに、知恵と知識の宝のすべてが隠されていると信じるでしょうか?「ちょっとオーバーじゃないの」と本当は思っているのではないでしょうか?しかし、みなさん、福音書のイエス様をご覧になったらどう思うでしょうか?パリサイ人や律法学者たちは、次から次へと難問をふっかけました。あるとき、「カイザルに税金を納めても良いでしょうか?」と聞いてきました。「収めよ」といえば、イスラエルがローマに屈服していることを認めることになるので、人気がガタ落ちになります。「収めるな」と言うなら、ローマに反逆する者としてイエス様を訴えるでしょう。どっちにも答えることができません。そこで、イエス様は「税に納めるためのデナリ銀貨を見せなさい」と言いました。そして、「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」と言われたのです。彼らはぐうの音も出ないまま、立ち去って行きました。他にもそういうことがたくさんありました。周到な準備をして、ことばの罠にかけられるわけですから大変です。でも、イエス様は、それに対して即座に答えたのであります。イエス様は神の知恵の衣をまとっていたというか、知恵そのものだったのです。箴言1章には、「知恵は、ちまたで大声で叫んでいる」と書かれています。知恵自体が、まるで人格のあるように、「私を求めなさい」と叫んでいるのです。でも、多くの人たちは神の知恵を憎み、侮っています。すばらしいことにイエス様という生きた知恵が私たちと共にいらっしゃるのです。「キリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されている」のだったら、求めたら良いのではないでしょうか?

私は学校の成績はあまりよくありませんでした。秋田では「どぶろくを飲むと、頭の悪い子どもが生まれますよ。だからどぶろくを飲まないように」と言われていました。でも、家ではどぶろくを作って飲んでいました。畳を開けて、床板を何枚かはがすと、かめがありました。父親がそれを飲んでいたので、私は頭があまりよくなかったのでしょうか?最終学歴は大学ですが、通信教育で10年もかかり、やっと卒業できました。ある人は計算がよくできたり、ある人は記憶力がとても良いです。ある人はうらやましいくらい、とてもシャープ(スマート)です。でも、みなさん、私はクリスチャンになってから、知恵の賜物が与えられているのではないかと思います。Ⅰコリントの12章に御霊の賜物が9種類のっかっています。その中の知恵の賜物です。その知恵は、努力とか生まれつきの知恵ではなく、聖霊が超自然的に与えるものです。みなさんは「なんて傲慢な奴だ!」と思うかもしれませんが、もちろん神様に栄光を帰しますが、聖霊様は知恵をくださいます。また、御霊の賜物の「知識」は、この世の知識とは違います。勉強したり、調べたりしなくても、一瞬にしてわかるというか、あるものが見えるのです。直感と似ていますが、それは神からのものです。イエス様もサマリヤの女がどういう素性の人なのか、パッと分かりました。また、沖に漕ぎ出して、舟の右に網を落とすなら、たくさんの魚が捕れることも知っていたのです。そういう知識も、神様は私たちにくださいます。

でも、その知恵と知識はイエス様御自身の中にあるのです。Ⅰコリント1:30「キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました」と書いてあります。ビジネスをするにも知恵が必要です。子育てや家事にも知恵が必要です。日本の学校教育は知識をつめこむような教育ですが、この知恵を育てることがほとんどありません。この知恵は、神様から来るもの、イエス様によって与えられるものです。日本の政治家が神を恐れ、イエス様から知恵を求めるならば、ソロモンのように国を豊かにすることができるでしょう。ソロモンはただ1つ、民を治めることができる知恵を求めました。そうすると神様は知恵だけではなく、求めなかった富と誉れまでも与えてくださったのです。ハレルヤ!日本のクリスチャンは確かに少数です。でも、私たちが主の民として、神様からの知恵を提供し、これを用いるならば、この日本にも将来があるのではないでしょうか?ロシアのキエフにサンディ・アデラジャという伝道者がいます。彼はアフリカのナイジェリアの出身です。彼はたった12年間で、霊的に死んでいたヨーロッパにおいて200万人を救いに導き、600の教会を建てました。それだけではありません。彼は政治やビジネスの世界にも神の国をもたらすように人々を訓練し、送り出しています。彼らは町を勝ち取り、国にも影響を与えています。サンディには「こういう分野にこういう人を派遣しなさい」と神からの啓示が与えられるそうです。もちろん、神の知恵も与えられます。おお、どうぞ、私たちも神からの啓示、神からの知恵を求めましょう。私たちは、お金がないのではないのです。力がないのではないのです。資源がないのではないのです。神からの知恵がないのです。私たちの一番そばにおられる方はどなたでしょうか?この宇宙万物を父なる神といっしょに創造された、イエス・キリストではないでしょうか?「神の奥義であるキリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されているのです。」どうぞ、キリスト様から、知恵と知識を求めましょう。

2.キリストに根ざす

コロサイ2:6,7「あなたがたは、このように主キリスト・イエスを受け入れたのですから、彼にあって歩みなさい。キリストの中に根ざし、また建てられ、また、教えられたとおり信仰を堅くし、あふれるばかり感謝しなさい。」使徒パウロは、主イエス・キリストを受け入れた後、どのような生活をすべきかを教えています。大きくわけて2つのことが言われています。第一番目はキリストの中に根ざす、第二番目はキリストにあって建てられるということです。前者は生物的なたとえ、もう1つは建築物のたとえであります。まず、「キリストに根ざす」とはどういうことか学びたいと思います。リビングバイブルには「キリスト様に根を深く下ろし、養分を吸収しなさい」と訳されています。信仰に入りたての頃は、非常に不安定です。人を見て躓いたり、教会の方針とか、牧師のことばでも躓くことがあります。でも、パウロは人や教会ではなく「キリストの中に深く根を下ろして、霊的ないのちを吸収しなさい」と教えています。4つの種のたとえには、岩地にまかれた種がありました。「すぐに芽を出したが、日が上ると枯れてしまった」とあります。その解説があとにあります。マルコ4:16,17「岩地にまかれるとは、こういう人たちのことです。みことばを聞くと、すぐ喜んで受け入れるが、根を張らないで、ただしばらく続くだけです。それで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます」。おお、洗礼を受けたときはハネムーン期間のように喜びでいっぱいです。しかし、1年もたたないうちに困難や迫害がやってきます。そのときに、キリストに根ざすか、それとも「やーめた」と離れ去るか分かれ目であります。

先週、ある方と話したら、「洗礼を受けたあと、ほとんどの友達が去って行ってしまった」と言っていました。なぜなら、「自分がキリストを信じてこんな体験をした」と証ししたためです。友達は「ちょっと、気がおかしくなったんじゃないか」と、思ったようであります。日曜学校のお楽しみ会とかクリスマス会に、子どもたちが結構やってきます。子どもたちは、「教会でこんなことを聞いたんだよ」と喜んで話す。でも、それを聞いたご両親は「子どものときから宗教に染まると、心が狭くなる」と思って、日曜学校に行かせなくします。そうすると、子どもの信仰はもう育ちません。根を張りたくても、張れないわけです。ですから、キリストに根ざすということは、簡単なようで難しい。特に日本は、クリスチャン人口が少ないので、なかなか理解してもらえないようなところがあります。ですから、この時期に大切なのは、フォローアップです。バスケットで、ボールをシュートしたとき、かごに入らないでポロっと落ちそうなときがあります。チームの他のメンバーが落ちかけたボールをもう一度、かごの中に入れてあげることをフォローアップと言うようです。ですから、まわりのクリスチャンが、信仰に入りたての兄弟姉妹を助けるということがとても重要になります。作物の苗とか、樹木の苗木は、囲いとか添え木が必要であります。成長してしっかり、根が張ると一本立ちすることができます。信仰も同じで、本人がキリストにしっかり根付くまで、周りのフォローアップが必要です。私たちもかつては、だれかの世話になったわけです。ですから、今度は霊的な父もしくは母として、お世話する側に回りたいと思います。

第二番目のキリストにあって建てられるとはどういうことでしょうか?信仰を建築物にたとえるならばどうでしょうか?建物は、まず、土台があります。その上に柱、梁、屋根があります。それから外壁や間仕切りの壁があります。窓とかドア、階段も必要です。では、柱とか梁、壁とは、信仰生活においてどんなものなのでしょうか?私はライフスタイル、生活様式だと思います。私たちは「自分はこのように生きる」という価値観もっています。定まった考え方、習慣、性格、行動パターン、好み、癖、こだわり…そういうものがあるでしょう。多くの場合は、クリスチャンになる前に、すでに私たちの体や頭にインプットされています。ですから、クリスチャンになったからといって、すべての生活様式や価値観が変わるわけではありません。ですから、クリスチャンなったならば、ある部分を解体して新しく作り直す箇所も出てくるでしょう。つまり、改修工事をしなければならないということです。もしも、5,60歳代でクリスチャンなったならば、果たしてどれくらい変えられるでしょうか?もう、その人の生き方や考え方が大体、決まっていますので容易ではないかもしれません。ですから、伝道者の書で、「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ」(伝道者の書12:1)と言っているのであります。でも、みなさん私たちの霊が生まれ変わりますと、今まで繋がっていなかったところが繋がれ、今まで活動していなかったところが活動しますので、「もう、年だ!」と諦める必要はありません。

では、私たちはどういうところが最も、建て直される必要があるのでしょうか?ここが変わったなら、後の部分はぼちぼちと、というものは何でしょうか?気質とか性格的なものはなかなか無理でありますが、何が最も大切なのでしょうか?私は週報の表に「亀有教会のビジョン」という絵を描きました。これはクリスチャンのあり方やビジョンを神殿にたとえています。土台ではどういうところを直さなければならないでしょうか?それは主導権をキリストに明け渡すことだと思います。言い換えるならば、王様の座を、自我からキリストに明け渡すこと、つまりキリストの弟子になるということです。イエス様がみことばを通して、「そうじゃないよ、こっちだよ」と言えば、「はい、わかりました。あなたの仰せのとおりにします」。こういう姿勢がとっても重要であります。その上には4本の柱があります。第一は聖書を読むということです。ただ読むだけではなく、ゆっくり瞑想しながら読む。みことばは、するめのように、噛めば噛むほど、味が出てきます。コロサイ3:16「キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ」とあります。多くの場合、私たちは律法主義で生きています。でも、キリストのことばは、恵みのみことばです。これを、私たちのうちに住まわせる必要があります。第二は聖霊信仰です。私たちが信仰をもって生きるためには、聖霊の導きと助けが絶対に必要であります。聖霊はキリストの御霊ですから、両者は同じ方です。聖霊は私たちに霊的な賜物を与えて神と人々に仕えることができるようにしてくださいます。また、あなたの生来の賜物が、聖霊の賜物によって支えられるならば、考えられないような働きができるでしょう。私は子どものときから、声が大きい方でした。「自分がここにいるぞ」と主張しなければ生きてゆけませんでした。今その声が、用いられていることを感謝します。

 第三は聖徒訓練です。なぜ、聖徒と言うかというと、私たちはイエス様を信じた瞬間から聖徒なのであります。しかし、残念ですが中身はまだ、まだ聖徒でないところがたくさんあるでしょう。だから、中身も聖徒になるように整えられる必要があります。すべてのことが訓練であると思うならば、どんなことが起こっても平気です。ローマ5章には「患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出す」と書いてあります。前もって、「苦しみは良いことだ!」と思っているなら、たいていのことは乗り越えられます。第四は聖家族です。スペインにガウディで有名なサクラダ・ファミリヤ教会というのがあります。200年たっても未だ完成していません。まだ、工事中です。サクラダ・ファミリヤを日本語に訳すと「聖家族」であります。これは、神の共同体、コミュニティを意味します。私たちはこれまで血縁関係、もしくは利害関係で生きてきました。それが今度は全く違って神の家族が与えられたということです。あまりにも急なもんですから、神の家族に馴染めない人もいます。私自身、牧師であっても関係よりも、業績の方を重んじて生きてきました。それがこの2年間、ベン・ウォンによって「関係が大事だ、関係が大事だ」と言われ続け、今頃やっと軌道修正しているところです。ですから、一度建てられたものを、作り変えるというのは大変なことなのです。

天国に行ったらいっぺんで完成されるのですが、あえて神様はこの地上において変えるべき箇所を残しておられます。一体何故でしょうか?私は最近、それが分かってきました。それは、私たちが変えられるとき、主の栄光が現れ、人々がキリストを見るからです。だから、あえて地上で私たちがもがきながら、紆余曲折しながら、変えられて行く。その過程(プロセス)を神様は用いてくださいます。だから、変えられたという結果も大切ですが、それまでの過程(プロセス)も大事だということです。キリストに根ざすとか、キリストに建てられるとは、すべて根本的なことであります。きょう明日やったからといって、すぐ結果がでるというわけではありません。私たちはあまりにもインスタントリーな世界で生きています。コインを入れたら飲み物が出てくる。カードでものが買える。電話やインタネットで物を頼むと翌日に届くものさえあります。しかし、信仰に関するものは、一夕一朝ではできません。私たちは目に見えるものではなく、もっと根本的なもの、価値観とか動機、考え方に目を留める必要があります。先日、船堀チャペル主催のクリスマス・コンサートに招かれました。4つか5つのクワイヤーが参加し、結構豪華でした。船堀にもクワイヤーがありまして、宮坂姉が指導しています。若木先生とちょっと話しました。昨年の一時期、メンバーがぐっと減って、消滅寸前まで行ったそうです。若木先生はクワイヤーの発起人にひとこと尋ねたそうです。「このクワイヤーは何のためにやっているのか、動機は何なのかもう一度祈ってみるように」と言いました。すると、何かが解けたようであり、クワイヤーがいのちを吹き返したそうです。そのうち、タクシーの運転手さんたちがクワイヤーに入りました。彼らは夜、勤務して、そのまま寝ないで午前の練習に参加するそうです。ステージを見たら、30名近くの人たちが元気に賛美していました。ですから、目先の方法論でなく、目に見えない部分、動機とか、価値観、考え方に目を留める。そこを変えていくなら、近い将来、確実に実が実っていくということです。

あなたがたは、このように主キリスト・イエスを受け入れたのですから、彼にあって歩みなさい。キリストの中に根ざし、また建てられ、また、教えられたとおり信仰を堅くし、あふれるばかり感謝しなさい。

|

« 2008年11月 | トップページ | 2009年1月 »