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2008年12月21日 (日)

星に導かれて    マタイ2:1-12

 マタイによる福音書はおもにユダヤ人のために書かれた書物だと言われています。なぜなら、旧訳聖書からの引用が多く、「○○が成就した」という、言い方が数多く出てくるからです。でも、皮肉なことにユダヤ人はイエス・キリストに躓いてしまいました。そのため、救いが異邦人に広がっていくようになりました。イエス様のもとに来て、信仰が称賛されているのは、ローマ兵とかツロ・フェニキアの女性でありました。そして、本日、登場します東方からの博士たちも、異邦人であります。聖書には「博士」と書いてありますが、原文はマゴイであり、占星術者であります。星占いをするような人たちが、救い主に会うために、遠路はるばるやって来たのです。きょうは「星に導かれて」と題して、彼らの信仰を学びたいと思います。

1.真の求道者たち

 求道者は英語で、seeker「道を捜し求める人」と言います。東方の博士たちは、真のseekers、求道者たちです。東方とは、おそらくバビロンとかペルシャの国であったろうと思われます。なぜ、そのような国から救い主を捜し求めてやってきたのでしょうか?バビロンとかペルシャと言いますと、ユダ王国の民が捕らえられた地であります。ダニエルと他3名の人たちは、若いときにバビロンに連れて行かれました。しかし、彼らは神からの霊に満たされた有能な人たちでありました。ダニエルなどはトップのリーダーとして、4代の王様に仕えた預言者であります。東方の博士たちは、ダニエルが残した預言書、あるいは何らかの言い伝えを得ていたのかもしれません。「世界を治めるような王様が、ユダヤ生まれる」、その年数はいつころだということも、計算していたでしょう。また、彼らは星の運行をいつも調べていました。彼らは星の運行を統計学的に調査しながら、洪水とか飢饉など、様々な吉凶を予測していたことでしょう。それは単なる占いではなく、何百年、いや、数千年間にわたるデーターに基づいていたのかもしれません。それで、あるときから、天体に大きく光る星が現れるようになりました。なぜ、星の現れが、ユダヤ人の王なのわかりません。でも、イスラエル国旗は「ダビデの星」をかたどっていますので、星が関係があるのかもしれません。また、星が現れるというのは、宇宙的なことですから、「全世界に影響を与えるような王様が誕生するのではないのか?」と彼らは思ったのかもしれません。

 それにしても、ユダヤに生まれる王様にお会いするために、危険を冒してまで、はるばる来るでしょうか?当時はローマが支配していても、東の方はまだまだ、その力が行き届いていませんでした。ですから、盗賊とか山賊が跋扈する危険地帯があちらこちらにあったと想像できます。で、博士たちは3人だと言われていますが、決してそんなことはありません。おそらく大ぜいの従者たちを連れて、旅をしてきたと思われます。そうでないと、危なくて、大変であります。また、ある人たちは、「その3人とは単なる博士ではなく、一国の王様ではなかっただろうか」とも言います。ですから、彼らの絵を見るときに、それぞれ冠をかぶっているからです。また、3人にはそれぞれ、名前がつけられていますが、それは伝説であって、あまり信憑性はありません。しかし、彼らの求道心はすごいもので、「きっと全世界に影響を与えるような王様がユダヤにお生まれになった。あの星をめざして行ってみよう!ぜひ、お会いして礼拝をしたいものだ」と、博士たちは決断したのであります。そして、当時の宝ものをもっともコンパクトな形におさめました。小さくても価値があるもの、それは黄金、乳香、没薬でありました。手ぶらで行くなどという、失礼なことなしなかったのであります。彼らよりも前に、シバの女王がソロモンに会いに行きました。そのとき、どうだったでしょうか?女王は「非常に大ぜいの有力者たちを率い、らくだにバルサム油と非常に多くの金(120タラント、1タラントが30㎏だとすると3,600㎏)および宝石を乗せて、エルサレムにやって来た(Ⅰ列王記10:2)」と書いてあります。そして、女王はソロモン王に謁見したのであります。ソロモンは女王が帰るとき、その豊かさに相応したものをシバの女王に与えました。では、幼子イエス様は彼らがそれらの宝ものを捧げたときに、博士たちを手ぶらで帰したでしょうか?そうじゃありません。ある聖画を見たことがあります。博士たちが深々と幼子を礼拝していました。マリヤにいだかれた幼子イエスは片手に黄金の杓を持っていました。そして、その杓を博士の頭上に傾けていました。つまり、彼らを祝福していたのです。なんとこまっしゃくれた赤ん坊でしょう!ま、イエス様は杓を持ってはいなかったと思いますが、神様は彼らを祝福したことは間違いありません。 もちろん、博士たちは見返りなど求めていません、ただ、世界的なユダヤ人の王に会いたい一身で、出発したのです。

 博士たちは「ああ、あそこだろうなー」と思ってきたところが、ヘロデ王の宮殿でした。「ユダヤ人の王様だったら宮殿におられるはずだ」と当然考えるでしょう。しかし、それは当たっていませんでした。2:3「それを聞いて、ヘロデ王は恐れ惑った。エルサレム中の人も王と同様であった」とあります。ヘロデ大王は、ものすごく猜疑心の強い人で、王様になりそうな者を一人残らず殺しました。だからユダヤの人たちは「ヘロデの息子になるよりは、豚になったほうがまだましだ」と言っていたくらいです。ヘロデ大王は口では「私も拝みに行くから」と言っていますが、「とんでもないことだ、居所をつかんで早く始末しなければ」と考えていたことでしょう。エルサレムの人たちも、「ああ、新しい王様もいいけど」ヘロデが怒って何かをやらかして、とばっちりを受けたら嫌だなーと思ったでしょう。それでは、聖書に詳しい祭司長や学者たちはどうだったでしょうか?彼らは「イスラエルを治める支配者がベツレヘムから出る」ということが分かりました。でも、博士たちと一緒に、会いに行ったとは書かれていません。彼らも、「これは困ったことになった。自分たちの立場がおかしくなるんじゃないか。リストラされたらどうしようか?」と恐れたのであります。わぁー、救い主の誕生を博士たち以外、だれも喜んでいなかったのです。なんと、ユダヤは霊的にひどい状況なのでしょうか!王様も宗教的指導者たちも、そしてエルサレムの住民たちも、救い主の誕生を歓迎していなかった。むしろ、「やっかいなことになった」と思っていたのです。

 みなさん、星はいつのとき、最も明るく輝くでしょう?それは、夜空が真っ暗なときです。救い主が誕生した時代も、霊的に真っ暗なときだったのです。そういう状況の中で、異邦人の、占星術者たちが遠路はるばる、救い主を訪ねてやってきたのです。彼らこそすばらしい、seekers求道者たちであります。日本はどうでしょうか?海外から来た講師たちは、口々に「まもなく、日本にもリバイバルが来る」と預言しました。でも、日本のクリスチャン人口は減るばかりです。1年に何十もの教会が閉鎖されています。リバイバルではなく、サバイバル状態です。でも、霊的に不毛な日本にも、真面目な求道者たちがおります。アーメン。私たちは東方の博士たちから学ぶべきであります。まず、彼らは少ない情報をもとに、危険を冒して、遠くからやってきました。日本では、どうでしょうか?クリスチャンになるとお嫁にいけなくなる。教師になったり、会社に勤めることが難しくなるでしょうか?あるいは、仏壇とかお墓の問題があるでしょうか?宗教はあぶないという噂があるのでしょうか?そういう困難を払いのけない限り、救い主に会うことはできないでしょう?また、博士たちが「ここだ!」と思ったように、ある人たちは「教会」とか「大学付属の神学校」を訪ねるかもしれません。話しを聞いてみたら、「聖書もキリストもまともに信じていない」ということもあります。「げー、なんということでしょう?」それでも、躓いてはいけません。マタイ7:7には「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます」と書かれています。英語で、「求めなさい」はaskであり、「捜しなさい」はseekであり、「たたきなさい」はknockであります。しかも、それらの動詞は継続的な命令であります。つまり、どんなことがあっても、一回であきらめず、「求め続けなさい」、「捜し続けなさい」、「たたき続けなさい」であります。マタイ7:8「だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます」。だれでも、ということは極東に住む日本人であってもということです。アーメン。世界の文化国で、宣教が最も難しい国はどこでしょうか?日本であります。日本は教養も高く、経済大国です。でも、クリスチャン人口が1%以下。宣教師の墓場と言われています。霊的に不毛な国においてどうなのでしょうか?私たちはあきらめてはいけません。東方の博士たちのように、救い主を求めている、求道者たちがたくさんいることを信じましょう。そして、私たちも暗い世の中にあって、キリストを指し示す、世の光としての使命を果たしましょう。

2.真の礼拝者たち

 マタイ2:9,10「彼らは王の言ったことを聞いて出かけた。すると、見よ、東方で見た星が彼らを先導し、ついに幼子のおられる所まで進んで行き、その上にとどまった。その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。」博士たちはエルサレムにいました。天上の星が南に移動したので、南ベツレヘムに進んで行きました。しかし、「イエス様がおられる真上にとどまったというのもどうかなー」と思います。星というのはものすごく高いところにあるのでしょう。10数キロ先の家の上にとどまるというのは解せません。もっと、星が低くなければ、ナビゲーターの役目は果たしません。私はこの星は天使ではないかと思います。ダニエル8書には「星の軍勢」とあり、黙示録12章には「天の星の3分の一を引き寄せる」とあります。星は御使いのことを言っています。黙示録1章にも「7つの星は、7つの教会の御使いたち」と書いてあります。天使が巨大な灯りをもって、博士たちをイエス様がおられる家まで導いたのではないかと思います。大の大人が、何を言うんだと思われるかもしれません。私としては新しい発見なのですが・・・。「その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ」とあります。この中に礼拝の要素が2つあります。1つは星が導くと同じように、神様が私たちを導いてくれなれば、神様の御もとには来られないということです。イエス様は、ヨハネ6:44で「わたしを遣わした父が引き寄せられないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできません」と言われました。私たちは自分の意志で神様のところへ来たと、おもっているかもしれません。あるは、「自分で求めたから」「自分で捜したから」と言うかもしれません。もちろん、自分の意志とか求道心もあります。でも、神様が私たちは引き寄せ、神様が導いてくれなければ信仰を持つことはできません。礼拝もそうであります。父なる神様が、私たちを招いてくれたので、私たちは御もとに来ることができたのです。ですから、神様を礼拝できるというのは特権であります。もう1つは博士たちがとても喜んでいるということです。「その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ」とあります。礼拝は喜んでささげるべきです。もちろん、聖日礼拝だけが礼拝ではありませんが、喜びと期待をもって臨むべきであろうと思います。そうすると遅刻することもなくなると思います。これは律法ではありません。恵みです。

 さらに私たちはどのようなことを彼らから学ぶことができるでしょうか?マタイ2:11「そしてその家にはいって、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。」博士たちはなぜ、赤ん坊のイエス様を礼拝したのでしょうか?赤ん坊のイエス様がこれまで博士たちに、何かをしてくれたのでしょうか?また、赤ん坊のイエス様が今後、彼らに何か良いものを与えてくれるのでしょうか?博士たちはなぜ、赤ん坊のイエス様を礼拝したのでしょう?それは、イエス様が神様だからです。「ひれ伏して拝んだ」というギリシャ語は、プロスキュネオーですが、これは神様以外にはしてはいけないことであります。エホバの証人たちは、「敬意を表した」と訳していますが、そうではありません。ひざまずいて、深々と頭を下げたのであります。イスラム教徒たちが行なうような、礼拝であります。ご利益的な信仰は、「あの神様はこんな御利益を与えてくれるから礼拝するんだ」という下心があります。自分に何もしてくれない神様なら、こちらから払い下げであります。「えー神様、あなたにこれだけささげたんですから、わかっていますね。私の願い事、聞いてくださいよ。そうでないと他の神様のとろこへ行きますよ」みたいなところがあります。それは本当の礼拝ではありません。神様は全宇宙、全世界の創造者であり、今もすべてを保っておられます。私たちにいのちを与え、必要なものをお与えになる方です。神様はすべてのことを益に働かせるように、摂理の御手をもってあなたに臨んでくださいます。そのことを思うならば、礼拝せずにはおられません。私たちはまことの神様に頭を下げないならば、他のものに頭を下げることになります。他のものとは、お金、地位、物質、快楽、偶像の神様です。今年は、大麻を所持している人がたくさん捕まりました。大麻をこっそり栽培している人もいました。彼らにとって頭をさげる神様は、大麻だったのです。多くの人は何らかの中毒、依存症になっています。パチンコ、薬物、食べ物、仕事、ポルノ、ゲーム、最近は携帯電話もあるようです。まことの神様を礼拝しているならば、この世のものに中毒になる必要はありません。神様がちゃんと私たちをコントロールしてくださるからです。

 また、彼らは、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげました。彼らは神様にふさわしいものをささげました。彼らにとってイエス様はそれだけの価値があると思ったからです。つまり、礼拝者がささげるものによって、その人が神様にどのような信仰をもっているか計ることができます。どうでも良いものをささげるならば、神様はどうでも良いお方です。彼らは自分にとって本当に大切で、価値のあるものをささげたのです。また、彼らのささげたものはとても暗示的でした。イエス様のご人格ととても深い関係がありました。まず、黄金です。黄金は王様にふさわしい宝ものです。つまり、イエス様は王であるということを表しています。乳香は祭司が礼拝のときに用いるものです。つまり、イエス様は大祭司であるということを表しています。それでは没薬は何でしょうか?これも当時、とても貴重なものでした。でも、多くの場合、葬りのときに用いられました。赤ん坊のイエス様に没薬をささげるとはどういうことでしょうか?みなさんが、赤ちゃんの誕生祝いに、お線香とローソクを包んでいったらどうなるでしょうか?塩をまかれるのがおちです。でも、博士たちが自覚していたかどうかは分かりませんが、イエス様は死ぬためにこの世にやって来られました。それはご自分のいのちで人類を贖うためであります。ですから、没薬は贖い主イエス様のためにはふさわしい贈り物です。彼らは神であるイエス様にふさわしい贈り物をささげました。王なるイエス、大祭司なるイエス、そして贖い主なるイエスとして礼拝したのです。なんと、奥深い、霊的な礼拝でしょうか。私たちもイエス様が私にとってどういう存在なのか、もっともっと深く知る必要があります。

 最後に博士たちから学ぶ点はこのことであります。マタイ2:12「それから、夢でヘロデのところへ戻るなという戒めを受けたので、別の道から自分の国へ帰って行った」。博士たちは、神様からみ声を聞いて、別の道から自分の国へ帰って行きました。ヘロデは幼子イエスを殺そうと尾思っていたからです。だから、別の道から自分の国へ帰って行ったのです。私たちも神様を礼拝するとき、神様のみ声を聞きます。プロテスタントでは礼拝の中に聖書からのメッセージがあります。その中で、ある人にはこのこと、またある人にはこのことと、神様が語ってくださいます。それを聞いたら、私たちは古い道ではなく、新しい道を歩む必要があります。それを私たちは悔い改めと言います。悔い改めとは、方向転換のことです。私たちは神様を礼拝するとき、神様からの戒め、励まし、教えや教訓、約束をいただきます。すると、「ああ、このところが神様のみむねとズレているなー」と気づくわけです。1回で全部を変えるのは大変です。私たちはずるいので、また元の道に戻ってしまいます。でも、礼拝を通して、毎週、教えられ、悔い改め、新しい道を歩むのです。もちろん、個人のディボーションでも神様は導いてくださいます。でも、こういう礼拝は、私たち、つまり教会という共同体に語られる内容であります。コーチングでベン・ウォン師は「日曜日の礼拝ほど、大切でない集会はない」と言います。それはコーチングとか弟子訓練を強調した言い方かもしれません。でも、私は古い人間でしょうか?聖日礼拝を中心に一週間が動いています。52回の日曜日が、節目、節目になっています。ある先生が、カーテンレールにたとえていました。カーテンに52個ピンがあるとしたら、それがある程度バランスよく、なっていないと、カーテンがだらしない形でさがってしまうということです。全部、出られたら申し分ありませんが、日曜日の礼拝よりも優先しなければならないこともあります。日曜日礼拝がすべてだとは決して申しません。でも、カーテンレールのように、定期的にバランスよくなっていないといけないということです。私は個人的な礼拝や、小グループの礼拝を強調する方です。でも、聖日の礼拝は公の礼拝であり、これはこれで神様を体験する幸いなときであります。もちろん、月曜日から土曜日までの、平日の生活が大切なことは言うまでもありません。でも、公の礼拝を喜んでささげる、これは信仰生活にとって「霊的ないのち」ではないかと思います。東方の博士たちは私たちにこのことを教えています。インドネシアや中国、イスラム圏など迫害下にある教会は、一緒に集まって礼拝をするということが貴重なことであり、またそれが、いのちがけなんであります。

 きょうは、星に導かれて、はるばる東方から幼子イエス様を礼拝に来た博士たちから学びました。彼らの真の求道心、また真の礼拝者の心はすばらしいと思います。また、神様はそのことを覚えて、後代の人たちの模範となるように聖書の記録として残しておいてくださいました。博士たちは異邦人で、しかも占星術者でありましたが、このような人たちをもみそばに、導いてくださるのです。私たちも極東の霊的に真っ暗な日本に生まれた者たちですが、不思議にも、まことの神様のもとに導かれたことを感謝します。

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