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2008年12月14日 (日)

その名はイエス    マタイ1:18-25

 もし、このクリスマスシーズンにおいて、クリスマスに関するメッセージを真面目にするとしたら、おそらく5、6回ではきかないだろうと思います。毎年、こういうのをやるのですから、クリスマスは牧師泣かせであります。数的にはイースターよりも大変であります。そういうわけですから、内容的に聞いたことがある方は、前のことは忘れて、新しい気持ちで受け止めてもらいたいと思います。きっと、新しい発見、また新しいチャレンジが与えられると思います。きょうはイエス様がこの世に来られた目的ということをマタイによる福音書からお話したいと思います。

1.その名はイエス

 ユダヤでは、婚約は結婚と同じ重さがありました。婚約期間中に、他の男性によって身ごもったとなると、姦淫罪となり、石打ちの刑で殺されてしまいました。マタイ19-21をもう一度お読みいたします。「夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現われて言った。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」神様はマリヤだけではなく、ヨセフのことも心配しておられました。ちゃんと御使いを遣わして、フォローアップしてくださいました。先週、フォローアップということを学んだばかりであります。神様は御使いを通して命じました。聖霊によって宿った子どもであるから、マリヤを妻として迎えなさい。また、男の子が生まれるから、「その名をイエスとつけなさい」と命じたのであります。うぁー、「ヨセフはロボットかー」と言いたくなりますが、ヨセフも救い主誕生のために、選ばれた人なのであります。ヨセフよりも、母マリヤの方がずっと有名ですが、ヨセフは影の立役者です。なぜなら、誤解を真正面に受けて、幼子イエスと母マリヤを守ったからであります。

 ところでイエス・キリストという名前を、初めて聞いたときに、みなさんはどう思われたでしょうか?中には「イエス・キリストはアメリカ人である」と本気で思っている人たちがいるでしょう。英語読みにするならば、イエスは名前で、キリストは苗字ということになります。イエスは確かに名前ですが、キリストは職名であり「メシヤ(油注がれた者)」という意味です。また、イエスという名前も、ヘキサゴンだったら「Yes or No の Yesだろう」と言う人もあるかもしれませんが、そうではありません。イエスはギリシャ語では「イエスース」であり旧訳聖書「ヨーシュア」と同じ意味であります。その意味は、「主は救い」という意味です。旧約も新約も、人物の名前には必ずと言って良いほど、明確な意味がこめられています。まさしく、「名は体を現わす」なのであります。ですから、「イエス」という名前も、当時はそんな珍しい名前ではありませんでした。最近、たまひよ2008年名前ランキングが発表されました。女の子は葵が1位になりました。大河ドラマで主演中の「あおい」ちゃんが人気があったからでしょう。また、男の子の大翔(ひろと)が3年連続になりました。また「悠斗(ゆうと)」などのように、「悠」の字を使った名前が、相変わらず人気があるようです。ちなみに「悠」は「のんびりとして、どこまでも長ながと続くさま」を意味し、悠然という語があります。現代があまりにもあわただしいのでそういう名前が好まれるのでしょうか?

 でも、「イエス」という名前には、もっとはっきりとした目的があります。その意味は「主は救い」でありますが、一体何から人々を救うのでしょうか?21節には「この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださるのです」と書いてあります。多くの人たちは宗教に救いを求めてやってきます。「病気を治してください」「商売繁盛を願います」「安産でありますように」「志望校に入れますように」です。でも、聖書が言う救いは、「罪からの救い」であります。これは、すべての人の根本的な問題であり、しかも、この世の宗教では扱っていない課題です。逆に言うなら、罪の問題が解決されるならば、この地上の様々な問題も解決されるということです。では、「その罪」とは何でしょうか?聖書には「ご自分の民をその罪から救ってくださる方です」と書いてあります。「ご自分の民」というのは、一体だれなのでしょう?それは、それはイスラエルの民です。マタイ1:1には「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図」と書いてあります。また、ルカ1章で母マリヤはこのように賛美しています。ルカ1:54、55「主はそのあわれみをいつまでも忘れないで、そのしもべイスラエルをお助けになりました。私たちの先祖たち、アブラハムとその子孫に語られたとおりです。」その民とは、アブラハムの子孫、つまりイスラエルであるとはっきり書いてあります。「えー、私たち全人類のことじゃないの?」と言いたくなります。そうです。イエス様はまず、ご自分の民であるイスラエルの民を救うためにやって来られたのです。だから、弟子たちに、「異邦人ではなく、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい」(マタイ10:6)と命じました。イエス様ご自身も、ギリシャに来てください」と誘いを受けたことがあります。でも、「麦が地に落ちてしななければ」とおっしゃって、外国へは出向かず、パレスチナだけにとどまって宣教をしてました。

 しかし、イエス様にはご計画がありました。それは、ご自身が贖いを完成された後に、あの12弟子たちを世界宣教に遣わすという計画です。何故、12弟子たちかと言うと、それはイスラエルの部族が12部族だったからです。本来、神様がイスラエルを祭司として選んだのは、イスラエルを通して全世界に救いをもたらすためでした。しかし、イスラエルは不信仰の罪を犯しました。さきほどの「その罪」とは、原文は「彼らの罪」であります。彼らが神様に背いたために、祭司の役目を果たすことができなくなりました。そのために、神様はまずイスラエルを回復しようとしました。しかし、彼らはメシアであるイエス様でさえも拒絶し、十字架に付けてしまったのです。ヨハネ1:11「この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった」とあるとおりです。そのために、イエス様は12弟子を選び、新しいイスラエルとして世界に送ったのであります。使徒パウロも始めはユダヤ人に福音を宣べ伝えました。ところが、彼らはパウロを迫害し、福音を受け入れませんでした。そこで、パウロは「彼らに対して足のちりを払い落として」、異邦人に福音を宣べ伝えに行ったのです。大変、話が長くなりました。なぜ、こんな話をしたのでしょうか?私たちは救いとは縁もゆかりもない、異邦人でした。異邦人とは元来「国々」という意味ですが、非イスラエル民族を指していました。パウロは私たちのことを「約束の契約においては他国人であり、この世にあっては、神もなく、望みもない人たち」と言っています。日本人はキリスト教を外国の宗教と言いますが、それは全く反対で、私たちの方が他国人、外国人なのです。

 すばらしいことに、「救い」が私たちのところにやってきました。いつからでしょうか?来年はプロテスタントが来て150年目だと言われています。しかし、ある研究者たちは、仏教が日本に伝来する数百年も前にシルクロードを渡って来ていたと言います。「神の指紋」というDVDがありますが、いくつかの神社の礼拝、日本人の風習やことば、歌にもそのことが残っていると言います。同じようなことが、「みのもんた」の番組で数回取り上げられ、久保有政師もテレビに出ていました。でも、明確な救いはこの「福音」を信じなければ得られません。福音とは何か?まず、私たちは神様から離れて滅びに向かっている罪人だということを認めなければなりません。そして、そういう私たちを救うために、イエス・キリストが人となり、十字架で贖いのわざを成し遂げてくださいました。その贖いの代価は、イスラエルのためだけではなく、全人類のためのものでした。イエス様は1回で永遠の贖いを成し遂げて下さったので、私たちはキリストの贖いを受け入れるだけで救われるのです。クリスマスは遠い昔の作り話ではありません。ロマンチックな物語でもありません。2000年前、神のひとり子が全人類を贖うために、人として地上に来られた日なのであります。イエス様は、私を、あなたを罪から救うことのできる、キリスト、救い主なのです。アーメン。人が何と言おうと、この方以外に、人類を罪から救うことのできるお方はいらっしゃらないのであります。

2.その名はインマヌエル

 マタイ1:22,23 このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)このみことばは旧約のイザヤ書7:14からの引用であります。イエス様がお生まれになる730年も前に預言されたことが成就したということです。「インマヌーエル」とはヘブル語で「神が共にいます」という意味です。まず最初、イエス・キリストによって、神が共におられるということが実現しました。つまり、まことの神とまことの人が全く一つになられたお方がイエス・キリストだということです。歴史上こういうお方はいなかったのであります。イエス様はGod-Man「神であり、また人であった」ということです。これは人類でイエス様お一人でありますから、みなさんが「私は神であり、同時に人である」などと言ってはいけません。でも、ここにすばらしいことが書いてあります。「その名はインマヌエルと呼ばれる」ということです。イエス様ご自身はインマヌエルと呼ばれたことは一度もありません。神学的に言いますと、これは文字の上での成就ではなく、信じる人々のうちに成就するということです。つまり、イエス様を信じる人たちと神が共におられるということが実現するということです。ハレルヤ!

ところで、マタイ福音書はあえて、個人ではなく「神は私たちとともにおられる」ということを強調しています。マタイ福音書には3箇所、はっきりと神がともにおられる、つまりインマヌエルということが記されています。最初は、このマタイ1章にインマヌエルの預言が記されていました。その次は、だいたい真中のマタイ18章です。マタイ18:20「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」このみことばをちょっと言いかえるとこうなります。「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にインマヌエル!」。そして、最後の章、マタイ28章にもあります。「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにインマヌエル!」。アーメン。個人ではなく、「私たち」「ふたり三人」とか「あなたがた」であります。なぜでしょう?マタイによる福音書はふたり三人以上集まる「教会」ということをとても重要視しているからです。たとえば、ガダラ人(ゲラサ人)の地においては、悪霊につかれた人は一人なのですが、マタイ福音書では「二人いた」と記されています。また、盲人がイエス様に「ダビデの子よ、あわれんでください」と癒しを求める物語があります。マルコ福音書にはバルテマイと書いていますが、マタイ福音書では「ふたりの盲人」と記されています。わざわざ二人なのであります。マタイという人物は、「信仰とは個人ではなく、共同体、主の御名によってともに集うことだ」と強調したかったのではないかと思います。インマヌエル、神は私たちとともにおられる。私たちはこのことを大事にしたいと思います。

 また、旧訳聖書にもどりますが、もう1箇所「インマヌエルとは何か」ということが、イザヤ書に書いてあります。イザヤ57:15「いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名を聖ととなえられる方が、こう仰せられる。「わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである。」この箇所は、インマヌエルを語るときに、必ず引用される聖句です。神様は本来、聖なるお方です。元来「聖(カドーシュ)」という語は、道徳的な意味ではなく、物理的な距離関係を表すことばだそうです。神様は私たちとは遠くかけ離れた存在です。つまり、「神様は聖なるお方であって、私たちが近づくことのできない、超越者である」ということです。でも、どうでしょうか?後半にものすごく矛盾したことが記されています。わたしは、高く聖なる所に住むけれども、「心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである」。神様は遠く離れた超越者であられるけれども、同時に、へりくだった人と共に住むお方だということです。なぜなら、へりくだった人の霊、砕かれた人の心を生かすためです。私たち人間は、どういうときに一番、神様を求めるでしょうか?逆に言うと、どういうときに神様は一番近くにおられるのでしょうか?マタイはイエス様の教えを山上の説教でまとめています。マタイ5章には8つの幸いが記されています。どういう人が神様の祝福を得るのか?心の貧しい者、悲しむ者、柔和な者、義に飢え渇いている者、あわれみ深い者、心のきよい者、平和を作る者、そして、義のために迫害されている者です。つまり、「こういう人たちこそが、へりくだった人であり、神様が共にいて彼らの霊と彼らの心を生かすんだ」ということです。

 今年はみなさん、どのような年だったでしょうか?ものすごーく高められた年だったでしょうか?それとも、どん底とは言わないまでも、「けっこう低くされたなー」という年だったでしょうか?私などは7月の後半あたりから、つまり台湾宣教チームが来てから、ぐーっと下げられたなーという感じがします。何人かの人たちが教会を移られたということもあり、礼拝人数も8月からぐっと減っています。「教会は人数ではない」と口では言っていますが、内心はきついです。さらに、9月のコーチング・セミナーにおいてベン・ウォンから「けちょん、けちょん」に言われました。ベンが「良い牧師とは何か」「良い教会とは何か」と教えるとき、私のことが題材になりました。私の心の中には、「へりくだってコーチングを学ぼう」という思いと「こんなに馬鹿にされて我慢できるか」という思いが、混ざっているのであります。さらに、10月に車をぶっつけてしまい、女性ドライバーから「けちょん、けちょん」に言われました。車もひこみましたけど、「心がひこむとはこういうことなんだなー」と初めて経験しました。私は「ついているとか、ついていない」などとは決して言いません。でも、「こういう状態が長引くと、うつ病になるんだろうなー」と、そういう経験をしました。でも、首の皮一枚で助けられました。その中で一番大きな要素は何でしょうか?このようにしてメッセージを毎週、語ることのできる特権が与えられているということです。一週間ぐっと下降し、へりくだらせられる。金曜日にはほぼ死んでいる。でも、日曜日の朝、復活するのであります。ハレルヤ!だから、へりくだらせられることは良いことです。なぜなら、神様がともにいて、慰め、力を与え、引き上げてくださるからです。教会員の兄弟姉妹の中には、ご病気が重くなり礼拝に来れない兄弟もおられます(中嶋兄弟)。また、会社をたたまなければならない兄弟もいます。「不景気のため営業がさっぱりだ」という方は何人もおられるでしょう。私たち信仰者は社会に文句を言うのではなく、「これは、神様からへりくだらされている」と考えるべきです。

 マリヤはへりくだりがどんなにすばらしいか賛美しています。ルカ1:51-53「主は、御腕をもって力強いわざをなし、心の思いの高ぶっている者を追い散らし、権力ある者を王位から引き降ろされます。低い者を高く引き上げ、飢えた者を良いもので満ち足らせ、富む者を何も持たせないで追い返されました。」この歌は、マリヤがイエス様を宿したときに、歌ったものです。しかし、よく見ると、権力者や富む者たち対して厳しいなーと思います。当時は、今の時代以上に、そういう傾向があったのかもしれません。私たちは「格差時代だ」「不平等だ」とか、言っていますが、当時は、もっともっとひどかったと思います。権力者たちが権力をふるい、人権も何もなかったのでは、と思います。貧しい人たちは明日の食べ物もなく、地べたを這い回っていました。「日本は、今、不景気できびしい、リストラで失業率が高まった」と言うけれど、当時とは比べ物にならないでしょう。つまりは、多くの日本人はまだ、「救い主・イエス・キリストには頼る必要はないと」と考えているということです。まだ、まだ私たちは豊かで、心の思いが高ぶり、満ち足りているということです。でも、神様は日本を愛しておられます。だから、終わりの時代、小さな日本を揺さぶるのではないかと思います。経済的に、精神的に揺さぶる。この先、天変地異や地震によってもっと揺さぶるかもしれません。私たちクリスチャンも迫害されるかもしれません。おー、信仰とは心が安らかになるためだけではないですね。信仰とはどういう状態でも、神が私たちと共におられるということを知り、一心不乱に神様に頼ることであります。私たちはこの世がどのようになろうとも、決して揺さぶられないものを持っています。それは、イエス・キリストの十字架の贖いであります。私たちは新しいイスラエル、王国の祭司として立てられています。ですから、「一人でも多くの人が、御国に入るように」と、とりなしなすことを怠ってはなりません。なぜなら、主イエス・キリストこそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方だからです。また、主イエス・キリストこそ、神が私たちと共におられることを実現させてくださるからです。

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