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2008年11月30日 (日)

栄光の望み     コロサイ1:24-27

 先週は「神との和解」について学びました。私たち人類は、神様から離れ、神様と敵対していました。しかし、神様の方からキリストにあって和解の手を伸べてくださいました。その知らせが、グッドニュース、福音であります。その福音を聞いた人が、「ああ、そうですか。キリストによる和解を受け入れます」と手を差し出すことによって和解が成立します。その人は救われ、永遠の御国に入ることができます。そして、きょうはその後のことについて述べたいと思います。つまり、クリスチャンとはイエス様を信じて救われた「それでおしまい」ということではありません。キリストのからだなる教会に属することによって、成長し、また神様の使命を果たすということです。ですから、教会ということを理解しないと信仰生活は始まらないということになります。きょうは教会とは何かということを共に学びたいと思います。

1.教会とは

今読んだ箇所には「キリストのからだ」という言葉が2回、「教会」という言葉が2回出てきました。両者とも同じことですが、そもそもパウロが言う「教会」とはどういうものなのでしょうか?日本語で「教会」は「教える会」と書きますので、「何かありがたい教えを乞うところなんだろう」と連想するかもしれません。こういう状態を「ああ、教会やっているんだ」と思うかもしれません。また、ある人は「教会」と言うと、教会堂という建物を考えるかもしれません。「立派な教会ですね」とか、「あそこの教会へ行きましょう」と言うと、大体が建物を指します。また、ある場合は「教会」と言うと、宗教的な組織や団体を指すでしょう。残念ですが、いずれも聖書的には正しくはありません。では、教会とは何でしょう?新約聖書はギリシャ語で書かれていますが、エクレーシアと言います。「神によって召し集められた民」という意味です。みなさんは、神様から「来なさい」と言われて集まった人たちです。

でも、これだけだとまだ分からないかもしれません。やはり、旧約聖書からイスラエルの民がどういう存在だったのかということを知る必要があります。彼らが神の民になるためには、いくつかの条件がありました。神様がイスラエルを神の民として選んだので、まずイスラエル人でなければなりませんでした。彼らは生まれたときから12部族の一員であり、また氏族の一員でありました。そして、男性ならば必ず割礼を受けます。そして、神との契約を交わし、十戒を始めとする律法を守ります。そして、幕屋もしくは神殿に出かけ、犠牲や捧げものをもって礼拝しました。年に何度か大きな祭りや聖会があり、それにも参加して、祈りや感謝を捧げました。バビロン捕囚後は、会堂で神のことばを学び、そこで礼拝しました。こういうことがあって、彼らは「自分たちは神の民なんだ」と自覚したのであります。彼らの指導者は祭司や預言者や王様でありました。でも、目には見えませんが、主なる神様こそ自分たちの父であり、すべての源であると信じていたのです。

 これが新約になるとどうなったのでしょうか?パウロは異邦人に遣わされた使徒でした。イエス・キリストはすべての人のために贖いを完成し、すべての人を神の国に招いておられます。ところが、イスラエル、後のユダヤ人は、自分たちは選ばれているけれど、異邦人はそうではないと反対しました。パウロは最初、ユダヤ人たちに福音を宣べ伝えましたが、ものすごい迫害を受けました。そして、パウロは神様の召命通り、異邦人に福音を宣べ伝えに行きました。小アジアやギリシャ、ローマにイエス・キリストを信じる群れができました。もちろん、パウロ一人で宣べ伝えたわけではありません。でも、パウロは「教会」とは何かという教えの基礎を築いた人であります。教会は、旧約のイスラエルの民と似ているところがありますが、そうでないところもあります。まず第一は血筋ではない、つまり生まれは関係ないということです。旧約の人たちはイスラエルの民だから自分たちは神様から選ばれているんだと考えていました。しかし、教会は、生まれではなく、イエスをキリストと信じる群れなのであります。そのしるしとして、私たちは信仰を告白し洗礼を受け、聖餐式を行います。肉体的な生まれではなく、聖霊によって新しく生まれた人たちの群れとも言えるでしょう。では、契約とか十戒にあたるものがあるのでしょうか?イエス様は十戒を神様を愛することと、隣り人を愛するという2つの戒めにまとめました。また、教会には、行って福音を宣べ伝え、あらゆる国民をキリストの弟子とする使命があります。

 使徒パウロは今日の制度化した教会、あるいはカトリックの聖職者中心の教会を教えていません。パウロが示した教会とは「キリストのからだ」であります。かしらがキリストで、一人ひとりがキリストのからだだということです。別の言葉で言うなら有機体ということです。会社とか団体は機械的な組織体です。有機体とは、血が流れ、互いに連なり、いのちを共有している生き物であります。教会は生き物なのであります。こういう生きた組織、生きた共同体は他にはないのであります。でも、多くの人たち、また、クリスチャンでさえもこのことを理解していません。ある人たちは、洗礼を受けても、何か嫌なことがあったらぷっつり来なくなります。何かに躓いた、気の合わない人がいる、教会のやり方に問題がある。そういうことで教会を去り、来なくなります。おそらくそういった人たちは、教会をサークルとか、クラブ、同窓会ぐらいにしか思っていなのではないでしょうか?ある人は、教会には行かなくても、自分でイエス様を信じているから良いとまで考えています。しかし、教会は単なる集まりではなく、キリストのからだであります。みなさん、足の小指は必要でしょうか?ある人が何かの角に足の小指をぶっつけて、しばらく痛かったそうです。そして、足の小指がダメだとふんばりが利かないことが分かったそうです。もし、手足の指が、「私はからだには属したくない、ひとりで生きる」と離れたらどうでしょうか?指が独立して生きることができるでしょうか?指としての役割ができないだけではなく、まもなくその指は死んでしまうでしょう。

 ですから、キリストのからだなる教会につながるということは、神様につながるということなのです。また、神様は、キリストのからだなる教会を通して、この世に働きかけたいと願っておられます。たった一人では、神様の働きをなすことはできません。手足の指だけでは、その役目を果たすことができません。また心臓でさえも独立して生きることはできません。心臓が体から離れたら、どこに血液を運ぶのでしょうか?体を離れたら、空気を押し出すただのポンプであります。そして、その心臓でさえも体を離れたら死ぬのであります。教会がキリストのからだであるとは、私たちは他者を必要とするということであります。一人では生きてゆけないということです。この世の人と同じように、肉体的には生きていけるかもしれませんが、霊的ないのちがなくなり、いつしか信仰もなくなるでしょう。教会は単なる組織やサークルではありません。神によって召し集められた神の民です。キリストといういのちを共有し、キリストのはたらきを担う生きた組織です。ですから、キリストのからだなる教会を離れないようにしましょう。

2.教会の奥義

 使徒パウロは教会自体が神の奥義だと言っています。旧約時代において神様は、幕屋もしくは、神殿の至聖所に臨在していました。イスラエルの民たちは、その周りで生活し、ときどき礼拝にやってきました。でも、神様が共におられるという感覚はありませんでした。特別な人には神が共にいたかもしれませんが、すべての人にそうだったというわけではありません。では、主イエス・キリストが来てからどうなったのでしょうか?イエス様は「私は死んで三日後に神殿を建てる」といわれました。弟子たちはその意味がわかりませんでした。ヨハネ2:21、22「しかし、イエスはご自分のからだの神殿のことを言われたのである。それで、イエスが死人の中からよみがえられたとき、弟子たちは、イエスがこのように言われたことを思い起こして、聖書とイエスが言われたことばとを信じた」。弟子たちは、あとから、教会こそが神の神殿だと分かったのです。しかも、その教会というのは建物ではなく、キリストを信じている一人ひとりです。イエス様を信じている人の中にもキリスト様が生きておられます。でも、それだけではありません。イエス様を信じている人たちの間にキリスト様がおられるということです。

 イエス様がおっしゃっておられます。マタイ18:20「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」そうです。教会の最小単位は、ふたりか三人であります。教会を組織や制度と考える人は、このことに反対するでしょう。でも、イエス様を信じる、ふたりもしくは三人が教会になりえるとしたらどうでしょうか?教会は家庭でも、学校でも、職場でも、マクドナルドでも存在できるということです。あなたが行くところどこでも、教会になりえるということです。どうぞ、教会を固定した場所として考えないでください。パウロはコリントの手紙でこのように語っています。Ⅰコリント3:16「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。」ここでは、「あなたがたは」と複数形になっていますので、個人だけではないということです。イエス様を信じる群れこそが、神の神殿であり、そこに神の御霊が宿っているということです。ある伝統的な教会に行きますと、この礼拝堂をサンクチャリーと呼びます。サンクチャリーとは、旧約聖書で「聖所」でという意味です。この礼拝堂を聖所と呼ぶなら、あなたは旧約時代に生きている人です。もちろん、この場所は公に神様を礼拝するところではありますが、聖所ではありません。聖所とはどこなんでしょうか?それは、私たち一人ひとりの体であり、また私たちが集まるところが聖所なのであります。ですから、新約の聖書は移動式であり、変幻自在なのであります。イエス様はヨハネ4章でどう言われたでしょうか?ヨハネ4:21「わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。」ハレルヤ!今がそういう時代です。どこにおいても、霊とまことをもって礼拝すれば、そこが教会になりえるのです。どうぞ、考え方を変えてください。ある人は、「教会に来なければ祈れない」とか言いますが、そんなことはありません。台所でも、あなたの部屋でも、電車の中でも祈ることはできます。新約の聖徒たちは、そのように色んなところへ出かけて、教会の群れを作っていったのであります。

 使徒パウロはこのコロサイ書でなんと言っているでしょうか?コロサイ1:27後半「この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。」「あなたがたの中」とは、ある英語の聖書にはamong youと書いています。amongとinとでは少し意味が違います。amongは、辞書に「通例三者以上の場合に用いる」と書いてあります。先ほどから言っていますように、複数のクリスチャンのただ中に、イエス様が臨在しておられるということです。でも、イエス様がそこにおられたら、どうなるでしょうか?ただ、おられるだけなのでしょうか?パウロは「栄光の望みのことです」と言っています。リビングバイブルは「栄光を実現する唯一の希望」と訳しています。つまり、私たちの間に、イエス様がおられるならば、何かすばらしいことが起こるということです。私はベニー・ヒンに全く賛成ではありませんが、ベニー・ヒンの集会に行くとすばらしいことが起こります。彼はただ賛美し、お祈りしているだけです。ある集会では、数万人も集まっているわけですから、ベニー・ヒンが一人ひとりに何かできるわけではありません。でも、人々が賛美し、祈っている間に、奇跡が起こるのです。なぜでしょう?その集まりの中に、イエス様がおられみわざをなしておられるからです。

神様は共同体の神様です。父、子、聖霊なる神が互いに愛し合って1つになっているからです。そして、神様は私たちをも共同体で生きるように創造されました。それが家庭であり、教会であります。もし、私たちが互いに赦し合い、互いに愛し合っているならばどうでしょうか?三位一体の神様は「私と同じだ。私はその中に住みたい」と思うでしょう?でも、反対に私たちが裁き会い、争い合うならどうでしょうか?サタンがそれを見て、「ああ、私が好む集団だ。私はその中に住みたい」と思うでしょう。そこには悪霊が住みついて、さらに悪くなるでしょう。でも、私たちは悔い改めて、そこから悪霊を追い出すのです。そして、互いに赦し、互いに愛し合う。すると、神様が戻って来られます。そこに神様がおられるならどうなるでしょうか?栄光が実現するということです。救いのみわざ、癒し、解放、様々な祝福が訪れるということです。ですから、教会をどう運営したら良いか、あまり難しく考えない方が良いです。キリスト様を歓迎し、認め、キリスト様に従えば良いのです。私たちの中におられるキリストこそが栄光の望みだからです。

3.教会の目的(使命)

 教会の目的あるいは使命とは何でしょうか?教会は何のために存在しているのでしょうか?韓国のサラン教会の元牧師、玉ハンフム牧師は4つ提示しました。第一は、教会は神のために存在しています。私たちは神様のため何ができるのでしょうか?神様を愛することです。その1つの表れが、礼拝をささげるということです。旧訳聖書ではきよい動物をいけにえとして、神様のもとにささげました。しかし、イエス・キリストご自身が1回で永遠のささげものになりました。ですから、もうそのようないけにえは不要です。では、何をささげるのでしょうか?ローマ12:1「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」罪から贖われた私たち自身を生きた供えものとしてささげる。これが本当の礼拝です。もちろん、礼拝の中には、賛美やいのり、みことばが含まれます。献金もあります。でも、一番大切なささげものは何でしょう?私たち自身を神様にささげるということです。ハレルヤ!そして、この礼拝は日曜日の公のときだけではありません。家庭や小グループ、そして個人のディボーションの礼拝がとても重要です。個人で神様と親しく交わり、神様を独り占めできる。これもすばらしい特権です。

 第二は、教会は教会自体のために存在しています。私たちは兄弟姉妹として、またキリストのからだの器官として、互いに交わります。それは互いに励まし、互いに祈り、互いに助け、互いに戒め、互いに罪を告白し、互いに教え、互いに愛し合うためです。そうすることによって、私たちは霊的に成長し、信仰を維持することができます。多くの人たちは人間関係で傷ついています。教会に来てみたらどうでしょう。その人たちは「教会こそが理想的な愛の人たちだと思ったのに、そうじゃなかった」とがっかりして去ってしまう人がいます。大変、申し訳ありませんが、私たちは天国に行くまではみな工事中です。愛を学んでいる最中です。でも、批判する人たち自身はどうなんでしょうか?完全なのでしょうか?イエス様はヨハネ13章で「あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです」とおっしゃいました。「あんたの足はくさい、汚れている」と言うのではなくて、互いに足を洗い合う。互いに罪を赦し合うべきなのではないでしょうか?

第三は、教会はこの世のために存在しています。それは福音宣教であり、この世における奉仕です。この世にはまだまだ、救われていない人たちがたくさんいます。そのために福音を宣べ伝え、キリストを証する必要があります。父なる神様は「すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます」(Ⅰテモテ2:4)。神様は私たちに福音をゆだねておられます。伝えるのは私たちで、救ってくださるのは聖霊様であります。でも、みなさん教会の務めは福音宣教だけではありません。神の国をもたらすということです。これまで私たちの福音は天国に行くためだけの福音でした。しかし、イエス様もパウロも「神の国の福音を宣べ伝えた」のであります。この間、エディ・レオがそのことを話してくれました。2日間の集会が終わって、一緒に焼肉を食べているときです。教会をエクレーシアというが、それは単なる神の民ではない。当時のことばでは、王様がその国を建てあげていくため、重要な人々を集めることである。王国は英語で、キング・ダムと言うが、それはking(王様)とdomain(領域)の二つの語が合わさった言葉である。つまり、イエス様が私たちを集めたのは、この世の様々な領域に私たちを遣わして、神の国をもたらすことなんだ、ということです。その領域とは、ビジネス、政治、教育、芸術、医療、さまざまなところであります。私はその話を聞いて、とても興奮しました。

最後の第四は何でしょうか?第四のこととは、第一の礼拝、第二の交わり、第三の福音宣教や奉仕ができるように、救われた人たちを訓練するということです。だまったままでは、礼拝も交わりも、福音宣教や奉仕もできないということです。だから、パウロはコロサイ1:28,29でこのように語っています。「私たちは、このキリストを宣べ伝え、知恵を尽くして、あらゆる人を戒め、あらゆる人を教えています。それは、すべての人を、キリストにある成人として立たせるためです。このために、私もまた、自分のうちに力強く働くキリストの力によって、労苦しながら奮闘しています。」これこそが、弟子訓練です。私を含め、弟子としての訓練を受けなければ、何もできません。弟子訓練のない教会は弱い教会です。みなさんは強い教会を建て上げたいでしょうか?それならば、一人ひとりがキリストの弟子となり、これら3つのことができるように自他共に訓練を受けるということです。「すべてのことが訓練なんだ」と思うならどうでしょうか?この世では、嫌なこと、辛いこと、さまざまな困難が起こります。でも、それらすべてがキリストにある成人として立たたせるための訓練なのです。ハレルヤ!自分を苦しめてくれる人にありがとうと言いましょう。自分に嫌なことを言ってくれる人にありがとうと感謝しましょう。神様は人々や環境を通しても訓練してくれるからです。でも、私たちの内には何がおられるのでしょうか?自分のうちに力強く働くキリストの力があります。秘訣は何でしょう?私たちの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。

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2008年11月23日 (日)

十字架の血による平和   コロサイ1:19-23

 クリスチャンの方はこのように思うのではないでしょうか?私はかつて神様と敵対していた存在だった。「神がいるなら見せてみろ!」とか言っていた。ところが、神様が一方的に和解の手をさしのべて下さった。今、思えばどうして信じられたのか不思議でたまらない。でも、はっきり言えることは、今、神様との平和があるということだ。…これが皆さんの感想ではないでしょうか?クリスマスが来月に近づいてましました。もう、あちこちのデパートや商店街は、クリスマス一色であります。でも、イエス様を信じている人とそうでない人とでは、クリスマスの祝い方がぜんぜん違います。救いを得ている人は、「ああ、イエス様は私のためにこの世に生まれてくださった。私のために十字架で血を流してくださったんだよな。感謝だなー」と、じんわり喜びが湧いてきます。ハレルヤ!きょうは、神様と私たちとの和解について、3つのポイントで学びたいと思います。ところで、きょうは高木慶太先生が書かれた『信じるだけで救われる』という本から多数引用して、メッセージさせていただきます。簡単に言うとパクリであります。

1.第一の和解

コロサイ1:20「その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、ご自分と和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。」ここに「和解」ということばが出てきます。和解はギリシャ語で「カタラソー」と言いますが、もとの意味は「変える」changeであります。チェンジというと、アメリカの大統領選でオバマ候補が言ったことばです。これから、どうチェンジするのか世界が注目しているところでしょう。でも、救いに関して大切な用語は「和解」というチェンジであります。では、何がチェンジしたのでしょうか?神様は決して変わることのないお方ですが、何が変わったのでしょうか?それは神の御前における人間の立場を変えてくださり、私たち人間をそれ以前とは違った見方で、神様が見てくださるということです。以前、私たちは罪の中にいたので、神の御怒りを受ける存在でした。しかし、キリストの十字架の血によって、神様はもう私たち人間を責めたり、罰したりしないということです。使徒パウロもⅡコリント5:19で言っています。「すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。」

 昔、「幸せの黄色いリボン」という歌がありました。リボンとは、細長い布切れのことです。これは実際にあったことを歌にしたものです。フロリダでバスに乗った学生が車中で一人の男性と知り合いました。その男性は刑期を終えた元囚人です。男性は学生に、「私は刑務所を出る前、故郷にいるはずの妻にこういう手紙を出したんだ」と告げはじめました。「もし僕ともう一度やり直せるのなら、街の入口の樫の木に黄色いリボンを一本巻いておいて欲しい。リボンが巻かれていれば、そこでバスを降り君のところへ帰るでも、君が結婚していたり、僕とやり直せないと思うならリボンは巻かないでいい。リボンが巻いてなければ、僕はそのままバスに乗り続けどこか遠くへ行き二度と戻らないよ 」。二人の会話は、車中のみんなにも知れ渡ることになりました。緊張しながら街の入り口にバスが近づいて行きます。バスが妻の家の前まで来ますが、男性は勇気がなくて、バスの運転手に樫の木を見てもらいます。リボンはあるのでしょうか、それとも無いのでしょうか?彼らが見たものは、樫の木いっぱいに結ばれた無数の黄色いリボンでした。男性も学生も乗客も、運転手も、おもわず大きな歓声をあげました。…これは夫と妻の和解の物語であります。その後で、山田洋次監督が映画化したものが、「幸せの黄色いハンカチ」です。高倉健と倍賞千恵子が主役で、さらに武田鉄矢、渥美清、桃井かおりが出演していました。そういうことはどうでも良いのですが、ポイントは和解のしるしです。歌や映画は黄色いリボンとかハンカチでした。しかし、神様と人間との和解のしるしは、十字架の血であります。

神様から人間に対する第一の和解は、人間がお願いしたのでもありません。2000年前、神様の方から一方的になされたものです。ローマ5:8「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます」とあります。そうです。「まだ私たちが罪人であったとき」であります。榎本保郎先生が一日一章で語っています。先生はある人に「キリスト様があなたのために十字架で死んでくださったのですよ」と言いました。へその曲がったその人は、「えー?私が頼んでもいないのに、ですか?」と答えました。先生は「だから、すばらしいんじゃないですか!」と言いました。正しい人のために死ぬ人は、ほとんどいないでしょう。情け深い人のために、進んで死ぬ人は、あるいはいるかもしれません。でも、私たちが罪の中にいたときに、イエス・キリストが死んでくださったのです。それは、私たちを罪から贖い、神様との和解の道を設けるためでした。ですから、罪の問題は、キリストの十字架ですでに解決ずみなのであります。福音という本当の意味は、グッド・ニュース、「良い知らせ」であります。新約聖書を読むときに、こういうニュースが書いてあるのです。「神と敵対し、さばきのもとにある人たちに告げます。神の方から、一方的に和平の手が差し伸べられました。あなたはキリストにあって既に赦されています。神はもう怒ってはおられません。神の和解を受けてください」であります。

2.第二の和解

 第一の和解、つまり神様は人類に対する見方を変えました。神様は和解の手を私たちに差し伸べておれられるのです。第二の和解は、人間が神からの和解を受け入れるということです。つまり、人がキリストを信じるとき、その敵対関係が取り除かれ、完全な和解が成立するのであります。コロサイ1:21,21に何と書いてあるでしょう。「あなたがたも、かつては神を離れ、心において敵となって、悪い行ないの中にあったのですが、今は神は、御子の肉のからだにおいて、しかもその死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました。それはあなたがたを、聖く、傷なく、非難されるところのない者として御前に立たせてくださるためでした。」アーメン。彼らはかつてどうだったのでしょうか?「かつては神を離れ、心において敵となって、悪い行ないの中にあった」ということです。では、今はどうなったのでしょうか?「今は神は、御子の肉のからだにおいて、しかもその死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました。」和解を受け入れたことによって、どうなったのでしょうか?「聖く、傷なく、非難されるところのない者として御前に立つ」ことができるということです。ハレルヤ!これは、和解が成立した状態であります。なぜなら、コロサイの人たちは、キリストを受け入れたからであります。つまり、和解には2つあるんです。1つは神様がキリストにあって人類になされた和解です。「和解した」という動詞はアオリスト形で、過去において一度なされたことが、今も有効であるということです。もう1つは、人が神様の和解を受け入れることによってなされる和解です。この和解が、これから一人ひとりになされることを神様は願っておられるのです。

 使徒パウロはⅡコリント5章でこう述べています。Ⅱコリント5:20「こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。」さらに、Ⅱコリント6:1「私たちは神とともに働く者として、あなたがたに懇願します。神の恵みをむだに受けないようにしてください。」パウロはキリストの使節として、「キリストに代わってあなたがたにお願いします。神がなしてくださった和解を受け入れてください」と、人々に懇願しています。伝道とは何でしょうか?私たちが神からの大使として、人々のところへ行ってこのように懇願することです。「神様の方からすでに和解をなしてくださいました。どうか、神様の和解を受け入れてください」。わかりやすく言うなら、「救われてください」であります。なんと、さきほどのみことばには、神様も一緒に懇願しておられると書いてありました。あの神様が「私の和解を受け入れてほしい。さもないと、キリストの十字架が無駄になるから」と懇願しているのです。みなさん、懇願って分かるでしょうか?ひざをかがめて、「後生だから」とお願いすることです。

私がこの亀有教会に赴任して、間もない頃です。中野兄弟のお父さんが肺がんの末期だということを聞きました。早速ご自宅にお見舞いに行って、お祈りをしました。二回位行った後だったでしょうか?下町のとっても頑固な畳屋さんで、次からはもう来なくて良いというのです。「あんたがいくら拝んでも治らない。うちの賢二も教会にやらない」と言うんですね。何が気にさわったのか分かりませんでした。その後、お父さんは病院に入院しましたが、何も言わないでお花だけを持っていきました。あるとき、教会の長老さんと一緒にお見舞いに行ったら、面会謝絶の札がかけられていました。私たちはその札を払いのけるように、病室に入りました。お父さんは、酸素吸入をしておられました。「ああ、これは危ないなー」と感じました。私はベッドの脇にしゃがみ込みこう言いました。「中野さん、一生のお願いです。どうかイエス様を信じてください。そうすれば、天国に行くことができるんですよ」。お父さんは「うん」とうなずいてくれました。次の日、中野兄から電話がかかってきたので、私は「お父さんがイエス様を信じたんだよ」と言いました。中野兄は、その晩、仕事を終えて10時頃、お父さんの病室を訪れたそうです。お父さんが、何も言わずに、人差し指を天に向けたあと、手を組んだということです。「ああ、なるほど、そうだったんですか」と彼は喜びしました。中野さんは銀行員でうちの教会のメンバーの戸叶長老と山崎長老と取引がありました。それぞれ会社の社長さんです。ある年のクリスマス二人から、こんなお願いをされたそうです。「今年のクリスマス、だれも洗礼を受ける人がいないんじゃ。どうだろうか、中野さん、クリスマスに洗礼を受けてくれないだろうか?」。洗礼をたのまれたんですね。彼はそれで仕方なく洗礼を受けたのです。それまでは礼拝にはほとんど出ず、クリスマスの時だけ来て、ギターで歌うという信仰生活でした。ところが、お父さんが救われ、その次におばあちゃんが救われました。両方とも、亡くなる数日前です。二人ともすべりこみセーフです。それから中野兄弟の信仰は本物になり、毎週、礼拝に出るのはもちろんのこと、礼拝の賛美、日曜学校の奉仕、土曜日も来てあらゆる奉仕をしてくださいました。私は中野兄のお父さんのために、一生のお願いをすでに使ってしまったので、もう使えません。でも、使って甲斐があったなーと今でも思っています。

ですから、伝道というのは、私たちが新たに何かをするということではありません。罪の問題はキリストの十字架によって解決済みです。唯一残された問題は、「救い主をどうするか」ということです。このキリストをどうするかによって、永遠のいのちにあずかるか、それとも永遠の滅びに至るかが決まるのです。ヨハネ3:18「御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている」と書いてあるとおりです。私たちは救われるために何もすることはありません。今まで犯したすべての罪を告白し、きれいさっぱりとした生活をしなければ、受け入れてもらえないというのは福音ではありません。私たちはあわれみを乞う必要はありません。すでに神様はキリストにあってあわれみ深い神様なんです。私たちが受け入れられるのは、ただキリストの血潮のゆえなのです。どうぞ、キリストにあって完成した、神の和解を受け入れてください。

3.和解の内を歩む

 コロサイ1:23「ただし、あなたがたは、しっかりとした土台の上に堅く立って、すでに聞いた福音の望みからはずれることなく、信仰に踏みとどまらなければなりません。この福音は、天の下のすべての造られたものに宣べ伝えられているのであって、このパウロはそれに仕える者となったのです。」イエス様を信じるのは1回です。でも、信じ続けるということもまた大事なんです。つまり、信仰というのは点であり、また線でもあるということです。だから、パウロは「あなたがたは、しっかりとした土台の上に堅く立って、すでに聞いた福音の望みからはずれることなく、信仰に踏みとどまらなければなりません」と言っているのです。かなり前になりますが、ビリーグラハム国際大会という1万人以上も集まる伝道集会がありました。ビリーグラハムが最後に「今晩、イエス様を信じる人は前に出てきなさい」と言って人々を招きます。すると大ぜいの人たちが、前に出てきて、イエス様を信じる祈りをします。では、彼らが教会につながる率はどのくらいでしょうか? 5%いるか、いないかだということです。「信じます」と100人出てきても、5人くらいしか残らないということです。もちろん教会につながることイコール、救いだといっている訳ではありません。でも、信仰の決断をした人たちの信仰はその後、どうなったんでしょうか?パウロが一番心配しているのはこのことです。「一度は福音を信じたけれど、その後、彼らの信仰がゆさぶられ、教会を去ってしまうのではないだろうか?間違った教えを受けて、福音の望みからはずれてしまうのではないだろうか?しっかりとした土台に立ち、信仰に踏みとどまってほしい。」そのために、書いたのがこのコロサイ人への手紙です。赤ちゃんがこの世に誕生することは大きな喜びです。でも、これからその赤ちゃんがちゃんと成長することもまた重要です。いつまでも、誕生だけを祝っておられません。誕生した直後から、すくすくと健康に育つように、いろんなことが必要です。これは霊的な誕生にも言えることです。

 私たちクリスチャンは、キリストにあってなされた神の和解を受け入れました。その次に、神様は私たちに対してどのように思っておられるのでしょうか。皆さん、和解とは神様との関係が回復したということです。でも、和解の後は、神様との交わりを建て上げていく必要があるということです。つまり、自分が神様の子どもとして成長し、神様の息子、神様の娘になるということです。では、どういう人が神様の息子であり、神様の娘なのでしょうか?それは、父なる神様のみこころを知り、そのみこころを行なう人になるということです。そのため、父なる神様は私たちのためにたくさんのものを用意しておられることでしょう。地上の両親も同じように、子どが成長し、自分の賜物を発見し、神様から与えられた使命を全うできるように願っています。父なる神様も、私たち一人ひとりに対して、ご計画があり、幸いに満ちた信仰生活を送ってもらいたいと願っておられるのではないでしょうか?みなさん、神様との和解は一点ではありません。和解したのち、神様と共に生活する。これがなければ、本当の信仰生活ではありません。でも、どういうわけか、これから父なる神様との関係が始まるときなのに、断念してしまう人がいらっしゃるということです。父なる神様は、「この人と共に交わっていきたい。この人に私がもっているすべての良きものを与えたい。そして、一緒に神の国を建て上げて、喜びを分かち合いたい」とそのようにお考えになっている。これから信仰の実を結んでいくという矢先に、神様のもとを去っていくとしたら、なんともったいない話でしょう。

 イエス様もヨハネの福音書でおっしゃっています。ヨハネ15章で「わたしにとどまりなさい」と何度も言われました。さらに15:16でこのようにおっしゃっておられます。「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。」イエス様は、あなたに結んでもらいたい実があるのです。そして、その実が残るように願っておられます。アバラブ教会のテキストに、「キリストの弟子が生きていく中で結ぶ3種類の実」が書いてありました。どのような実でしょうか?第一は聖化の実です。私たちはガラテヤ書5章で、愛、喜び、平安と9つの御霊の実が結ぶことを学びました。それは、私たちがイエス様の似姿に変えられて行くという、人格的な成長のことです。第二は救霊の実です。私たちが福音を伝え、失われた魂を勝ち取るということです。言い換えれば、私たちが「神の和解を受け入れてください」と懇願する神の使節となるということです。使節とは、神の国の大使という意味です。クリスチャンとは神の国の全権大使なのです。ハレルヤ!あなたのバックには、神の国の権威があるんです。第三は奉仕の実です。生涯私たちは神様と人々に仕え、実を残すということです。奉仕とは、教会の建物の中で活動する奉仕だけではありません。私たちが遣わされている家庭、職場、学校、地域社会において、主の御名によってなすことは、みな奉仕であります。奉仕というと「ただ働き」という意味合いがありますがそうではありません。本当はミニストリーという意味であり、イエス様がこの地上でなさっていたことであります。ルカ4章にあるように、主の御霊に満たされ、癒しと解放と回復のために人々に仕えるということです。そのようなことが仕事をしながら可能なのでしょうか?家事をしながら可能なのでしょうか?可能です!生きがいとは何でしょうか?多くの人は生きがいを求めています。私は神様と人々に仕えることによって、本当の生きがいが与えられるのではないでしょうか。私たちは神様からの和解を受けて救われました。どうぞ、これから神との和解の内を歩んでいきましょう。父なる神様はそのために、たくさんの良きものを備えていらっしゃいます。

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2008年11月16日 (日)

第一のもの   コロサイ1:15-18

 私たちは福音書などから、地上におられたイエス様をある程度知っています。しかし、この地上に来られる前、「イエス様はどういうお方だったのか」ということを知らなければなりません。なぜなら、信仰とはイエス様をどのように信じているかと非常に関係が深いからです。ある人は、「私は信仰が薄いんです」とか「信仰が弱いんです」とか言うかもしれません。どうしてでしょう?それは、イエス様がどういうお方なのか、よく分かっていないからです。もし、イエス様が人間と同じくらいの方であるならば、その人の信仰はどうしても小さくなります。でも、イエス様が偉大な神であることを知るならば、私たちの信仰も大きくなります。きょうは、イエス・キリストがどういうお方なのか、コロサイから4つのポイントで学びたいと思います。

1.御子は神のかたち

 コロサイ1:15前半「御子は、見えない神のかたちであり」と書いてあります。かたちとは、英語の聖書にはイメージと書いてあります。イメージはもう日本語になっています。ファミリー・レストランに行くとメニューがあります。きっとあれは日本だけかもしれませんが、料理の写真が載っています。写真を指差して「これお願い」と頼めば良いですね。あの写真はイメージです。また、かたちはギリシャ語で「エイコーン」と言います。これは、イコンあるいはアイコンのもとになった言葉です。これは、絵画や像、肖像という意味です。東方教会は神様や天国を想像できるようにイコンを用いました。イコンを見ると、目に見えない神様や天国が分かるわけであります。でも、反面、そのイコン自体を礼拝するようになり、弊害も出ました。また、アイコンというと、パソコンでファイルやコマンドなどを分かりやすい絵に置き換えて示したものです。その絵をクリックすると、ファイルがぱっと開かれるようになっています。もし、アイコンがなければ、複雑なコマンドを打ち込まなければなりません。便利なことに、小さな絵、アイコンを押せば、ぱっとファイルが開かれるようになっています。文字や数字よりも、目である程度、見えるというのはとても便利であります。イエス様は、目に見えない神様のイメージであり、アイコンなのです。

 旧約時代は、神様がどういうお方か、あまりよく分かりませんでした。また、旧約時代は、罪ある者が神を直接見たら、打たれて死んでしまいました。そのため、人々は「神様は近づきがたくて恐ろしい方だ」思っていたでしょう。でも、私たちの身近なお方として神様を啓示されたのが御子イエス様であります。ヨハネ14章を見ますと、ピリポという弟子がイエス様に「主よ。私たちに父を見せてください。そうすれば満足します」と言いました。イエス様は何と答えたでしょうか?「ピリポ。こんなに長い間、あなたがたと一緒にいるのに、あなたがたは私を知らなかったのですか。私を見た者は、父を見たのです」と言われました。また、ヨハネ1:18にはこうも書いてあります。「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」ということは、神様は見えませんが、御子イエス様を通すと、神様のことが分かるということです。私が小学生の頃、何十年に一回かの日食がありました。そのときどうしたでしょう?ガラス板の下から、ローソクを炊きます。すると、黒いススがつきます。その黒ずんだガラス板を透かして、太陽を見るとどうでしょうか?太陽が欠けている様子がくっきり見えます。イエス様を黒ずんだガラス板に例えるのは、大変申し訳ありませんが、私たち罪人は、聖なる神様を直接、見ることはできません。しかし、私たちの罪を担って下さった、あがない主イエス様を通すと、私たちは神様を見、また神様を拝することができるのです。この世の宗教は、イエス様を無視して、あるいは除外して、神様に近づこうとします。そのために彼らはゆがんだ神様のイメージを持ち、不自由な宗教生活を強いられることになります。あがない主イエス様を通すならば、神様は父なる神様、恵み深い神様なのです。パソコンのように、イエス様というアイコンを押すと、ぱっと神様が開かれてくるのです。これが新約の恵みであります。どうぞ、私たちは神のかたちであられる、イエス様を通して、父なる神様に近づき、親しく交わり、何でもイエス様の名前で求めましょう。

2.御子は先に生まれた方

 コロサイ1:15後半「御子は、造られたすべてのものより先に生まれた方です」。御子は、永遠の昔、父から生まれたのであります。起源4世紀頃、アリウスは「御子は父によって創造され、父よりも劣る」と主張しました。しかし、後のニカヤ会議でその説は退けられ、「御子は、父よりただ一人生まれたる者、神よりつくられず、父と同質なるお方である」という信条が作られました。このアリウス派の流れを汲むのが、エホバの証人であります。彼らは「御子は父によって造られ、父より下位の存在である」と主張します。彼らにはこう答えればよいのです。人間から生まれた子どもは人間です。猿から生まれた子どもは猿でしょう。では、神から生まれた子どもはだれでしょう?神様でしょう。イエス様は神の独り子であり、神様から造られたわけではありません。このことはとても重要です。ヨハネ1:1,2「初めにことばがあった。ことばは神のともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた」と書いてあります。ですから、御子イエスは、永遠の昔から父なる神とともにおられた、子なる神なのです。

 もうすぐクリスマスです。多くの人たちは、クリスマスはイエス・キリストの誕生日だということを知っているでしょう。でも、イエス様がこの地上に生まれる前にどこにおられたのかは知らないでしょう。クリスマスの前、イエス様には肉体はなかったのです。霊として父なる神様と共に、天におられたのであります。その天からお降りになって、人間の肉体をとって生まれたんです。だから、降誕、「天から降りて誕生した」と書きます。では、「イエス様はクリスマスの前には、全くこの地上に来られたことはなかったのか?」というと、そうではなさそうです。イエス様は霊によって、あるいは御使いの姿をとって、アブラハム、モーセ、ダビデに現れているようです。あるとき、3人の御使いがアブラハムを訪れました。しかし、その中のお一人はThe angel、受肉前のキリストではないかと言われています。ヨハネ8:56「あなたがたの父アブラハムは、わたしの日を見ることを思って大いに喜びました。彼はそれを見て、喜んだのです」と書かれています。それに対して、ユダヤ人たちは「あなたはまだ五十歳になっていないのにアブラハムを見たのですか」と反論しました。しかし、肉体をとってこの地上に現れたのは、アブラハムの時から1800年後のクリスマスであります。イエス様は父なる神様と同じ、永遠のお方なのであります。イエス様御自身は、ヨハネ黙示録で「今いまし、昔いまし、後に来られる方…わたしはアルファーであり、オメガである」と書かれているのはそのためです。

 御子が永遠の方だということを知るならばどうでしょうか?イエス様は私の過去にもおられたということであります。自分のいまいましい過去、「なぜ、あんなことが起きたんだ」と記憶から消したいような過去。でも、あの場面にも、あの場面にも、イエス様はおられたのです。「じゃあ、なぜ、あんなことを許されたのですか?」と文句を言うかもしれません。イエス様は神様ですが、罪の世の中に介入することには限度があるのではないかと思います。でも、あなたが滅びないで、今日まで生きて、また救いをいただいたということは、特別なあわれみがあったということではないでしょうか?過去の事実は変えられません。しかし、イエス様は私たちの過去の心の傷やトラウマを癒してくださるお方です。あの苦しい、まっくらな状況を思いうかべるとどうでしょうか?私たちはしばしば、「ああ、あそこにイエス様の御目があった」ということを発見できるでしょう。私が悲しんで泣いていたとき、イエス様も涙しておられた。イエス様も私のことを気の毒に思っておられたんだ。そのことがなんと大きな慰めになるでしょう。また、イエス様は「アルファーであり、オメガ」ですから、あなたの将来をもご存知です。明日を知っておられるイエス様が共におられるのですから、思い煩うことはありません。「明日はどんな日か私は知らない。どんな道筋が先にあるかも。だけど私は心配しない。イエスがおられる私のそばに。明日は私にはわからないけど明日を守られるイエスがおられる」アーメン。

3.御子は創造者

コロサイ1:16,17 「なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。」簡単に言いますと、御子は天地万物の創造者であり、また万物を保持しておられる方だということです。しかし、このところを読むと、「えー、本当にそうなの?」という新鮮な発見がいくつも出てくるのではないでしょうか?まず、16節の冒頭には、「万物は御子にあって造られた」と書いてあります。その次は「万物は、御子によって造られ」となっています。さらにその次は「御子のために造られた」とまで書かれています。つまり、この万物が創造されたとき、御子も参与されていたということです。あなたは、「万物は父なる神様が創造したのではないでしょうか?」と言うかもしれません。では、創世記1章は何となっているでしょうか?1日目に、神様が「光よ。あれ」と仰せられました。すると光がありました。2日目に、神様が「大空よ、あれ」か言葉を発せられると、大空ができました。この神様が発せられたことばこそが、御子ご自身ではないかと思います。その証拠に、ヨハネ1章には「ことばは神であった。…すべてのものは、この方によって造られた」と書いてあるからです。私たちはどうしても、地上におられたイエス様のことしか考えません。でも、イエス様が父なる神様とご一緒にすべてのものを創造されたのならどうでしょうか?あるとき、ガリラヤ湖が荒れて舟が沈みそうになりました。そのとき、イエス様は風をしかりつけ、湖に「黙れ、静まれ」と言われました。すると風はやみ、大なぎになりました。弟子たちは、あまりの驚きで、あごがはずれたままになりました(私訳)。自然界に対してそのような権威があるのは、イエス様が創造者だからではないでしょうか?

さらに、この箇所を見て行きますと、イエス様が造った万物の中に目に見えないものも含まれていることがわかります。「見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです」とあります。これはどういう意味でしょうか?コロサイの地域には、いくつかの異端がありました。彼らは天使や諸霊を礼拝し、ある者たちは「イエス・キリストは天使の長である」と信じていたようです。ここに書かれている「王座、主権、支配、権威」は、天使の階級を指していることばです。イエス・キリストがそういう目に見えない、霊的な存在を創造したということは、天使の一人ではなく、神様だということです。あるクリスマスソングの中に“Jesus is king of angels”という歌詞があります。イエス様は天使長ではなく、天使らを従える王様だということです。天使の中には、堕落した天使、サタンも含まれています。ですから、イエス様はサタンと対等なのではなく、神としての権威と力を持っているということです。なぜなら、御子は万物の創造者だからです。

Ⅰヨハネ5:12「御子を持つものはいのちをもっており、神の御子を持たないものはいのちを持っていません」と書いてあります。クリスチャンは御子を持っており、その結果、永遠のいのちをも持っているということです。讃美歌で「イエス様は私のポーション、分け前です」という歌詞があります。永遠のいのちを持っていることもすばらしいですが、御子を持っているということを瞑想したらどうなるでしょうか。私は子どもたちの学費のために、お金が本当に必要だなーと思った時期がありました。今は、おかげさまで山は越えましたが、お金の問題は、切実な問題です。確かに、お金も欲しいですが、私が御子イエスを持っているということはどうなるでしょうか?御子イエス様は万物を創造し、万物を所有し、万物を保っておられるお方です。ということは、イエス様を持っているということは、お金を含む、万物をも持っているということです。「ああ、なんと私の信仰は薄いんだろなー」と思いました。イエス様は「天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの」も造られたのです。イエス様の中には何でもあるんです。イエス様が答えなんです。どうぞ、イエス様に見えるものも、見えないものも求めましょう。

4.御子は教会のかしら

 コロサイ1:18「また、御子はそのからだである教会のかしらです。御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、ご自身がすべてのことにおいて、第一のものとなられたのです。」神のかたちであり、永遠なる方で、万物の創造者なる御子イエスであっても、教会のかしらにすぐなれたわけではありません。人間になって死者の中から最初に生まれる必要がありました。天におられたイエス様は霊であり、肉体は持っていませでした。でも、2000年前、天からくだり肉体を取りました。そして私たちのすべての罪を負い十字架にかかって死なれました。それから三日目に復活しました。つまり死者の中から最初に生まれたのです。それからイエス様はどうなったでしょうか?天に昇られ、神の右に座られました。では、イエス様のからだはどうなったのでしょうか?からだはなくなったのでしょうか?そうじゃありません。教会こそが、キリストのからだなのであります。私たち一人ひとりが組み合わされ、キリストのからだなる教会を形成しているのです。そしてイエス様は御自身のからだなる教会をとおして、2000前、地上でなされた救いのみわざをなさろうとされているのです。ある人はイエス様の目、ある人はイエス様のような口、ある人はイエス様の手のような役割して人々に仕えること。これが神様のみこころです。

では、イエス様のからだはありますが、かしらはだれなのでしょうか?これが問題です。教会のかしらはだれなのでしょうか?起源4世紀、キリスト教がローマの国教になってから、だんだんおかしくなりました。教会のかしらはペテロであり、またペテロの後継者であると言い出しました。やがて教会のかしらは教皇であるとし、これがローマカトリックの間で、今も続いているのです。しかし、聖書に教会のかしらは、イエス・キリストであるとはっきり書いてあります。かしらとは、イエス様に最高の権威があるということです。それは人間のものでも、教会という組織のものでもありません。イエス・キリストが教会のかしらなのです。私たち一人ひとりがキリストのからだです。そして、かしらはイエス・キリストです。では、どうなるでしょうか?何か問題があったらどうしたら良いでしょうか?あなたが何か奉仕をしたいと思ったらだれに聞けばよいでしょうか?あなたがだれかと結婚したいと思ったらだれに聞くのでしょうか?牧師に聞くのでしょうか?ま、牧師もある程度、答えてくれるでしょう。でも、あなたがからだの一部であったら、かしらなるイエス・キリストに聞くべきです。そうです「イエス様に聞いてください」。隣の人に言いましょう。「イエス様に聞いてください」。

私たちのイエス様は「私が神様だから、教会のかしらになるんだ」と言われたのではありません。天の御座から降りて来られ、ナザレのイエスとなられました。30年間、家族に仕え、仕事もしました。30歳からは公生涯を始められ、御国の福音を伝えて歩きました。病人を癒し、貧しい人を助け、悪霊に縛られている人を解放しました。ご自分が神の子であり、キリストであることが公になると人々はどうしたでしょうか?イエス様を捕らえ、裸にし、鞭を浴びせました。人々はつばきをかけ、さんざん馬鹿にし、平手やげんこつで叩きました。なんと、万物を創造された御子イエス様が人間どもに最低の扱いをされ辱めを受けました。何も悪いことをしていないのに、です。ただ、ご自分が「神の御子である」と認めたためであります。人々はさんざん嘲弄したあげく、十字架にかけて殺したのであります。しかし、聖書を見ると十字架にイエス様をかけたのはユダヤ人でもローマ人でもなく、私たちの罪であると書いてあります。私たちが犯した罪のゆえに、イエス様は身代わりに神に打たれ、死なれたのであります。つまり、イエス様の死はあがないの死であります。罪を解決されたイエス様を父なる神様が3日目に、よみがえられました。御子イエス様は、今度は「主イエス」になったのです。前からも神様でしたが、死んで復活されてからは、教会のかしら、主イエス・キリストになったのです。

私たちはこういうイエス様を礼拝しているのです。私のために死んで、よみがえられ、今も生きておられるイエス様を礼拝しているのです。では、イエス様は「私を礼拝しろ」とふんぞり返っているかというとそうではありません。今も、イエス様は聖霊によって、キリストのからだに臨在し、救いのわざを継続しておられるのです。イエス様は私たちを必要とされています。なぜなら、私たちがイエス様のからだだからです。イエス様が2000年前、人々に仕え、福音を宣べ伝えたように、私たちもこの世にあってそうすべきなのです。その力はどこから来るでしょうか?かしらなるイエス様からすべての力とすべての必要が与えられるのです。どうぞ、かしらなるキリストにつながって、イエス様の心を心としましょう。

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2008年11月 9日 (日)

贖いの意味  コロサイ1:13-14

 キリスト教会では、「イエス様を信じると救われる」と言います。また、クリスチャンはよく、「私は救われました」と証しします。でも、私たちは一体、何から救われたのでしょう?これが分からないと、私たちはサタンにまんまと騙され、「本当は救いなんてないんだ!」とまで、思うようになります。きょうは、贖いの意味と題して、4つのポイントで学びたいと思います。4つのポイントと言うよりは、1つの主題を4つに分けるという方が妥当だと思います。コロサイ1:13-14「神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。」このみことばと同じことを言っている箇所が使徒の働きにもあります。使徒の働き26:18 「それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。」使徒の働き26章は、使徒パウロが救われたときの証であります。きょうは、これら2つの箇所を照らし合わせながら、贖いの意味を共に学びたいと思います。

①暗闇の圧制

 はじめに重要なことは、「かつて私たちはどこにいたか?」であります。かつて、私たちはどういう状態だったのでしょうか?コロサイ1:13「神は、私たちを暗闇の圧制から救い出し」とあります。圧制という言葉は、支配という意味です。これと同じ表現をしているのが、使徒26:28「暗闇から光に、サタンの支配から神に」とあります。暗闇の圧制とは、サタンの支配であります。かつて、私たちはサタンの支配のもとで苦しんでいたということです。「えー?私はサタンの支配のもとにあるなんて信じられません!」と言う人は、まだ救われていない人です。ほとんどのクリスチャンは、「ああ、救われる前は、本当に私はサタンのもとで縛られていたなー」と分かります。でも、生まれたときから、サタンのもとで生きていると、自分がどんなに束縛されているか分からないんです。綱を解かれてみて、「ああ、私は不自由だったんだ!」と分かるのです。皆さん、私たちはかつて、サタンの持ち物だったのです!サタンの国の中で、盲目にされ、やがて来る死を恐れ、かろうじて生きていたのです。

皆さん、サタンには国があることをご存知ですか?ルカ4:5-7「また、悪魔はイエスを連れて行き、またたくまに世界の国々を全部見せて、『この、国々のいっさいの権力と栄光とをあなたに差し上げましょう。それは私に任されているので、私がこれと思う人に差し上げるのです。ですから、もしあなたが私を拝むなら、すべてをあなたのものとしましょう』」。サタンは、国々の権力と栄光を持っていました。持っていたというよりも、かつては人間のものであったのを横取りしていたという方が正しいでしょう。でも、サタンは持っていたのです。その証拠に、イエス様は何と答えたでしょう?イエス様は、「サタンよ、嘘を言うな!すべては神様のものだ」とは答えませんでした。そうではなく、ただ、「あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えなさい」と聖書のみことばを引用して答えました。ということは、イエス様もサタンがこの世のものを所持していることを認めておられたということではないでしょうか?サタンは1つの国を持っています。国とは支配のことですが、この世に対して、サタンはかなりの部分を所持し、また支配しているということです。そして、サタンの国の中には、救われていない魂も含まれています。サタンはいずれ滅ぼされることを知っていますが、一人だけではなく、神様から造られた人間どもを巻き添えにしたいのです。人間どもを虜にしておけば、神様は自分に対する処罰を変えるのではないかと思っているからです。

サタンは私たちがこの世で食べて、飲んで、好きなことをすることを許しています。いろんな宗教、いろんな哲学、いろんな教育も許すでしょう。でも、たった1つ禁じていることは、イエス・キリストを信じて、自分の国から出て行くことであります。それ以外だったら、何をしても良いのです。音楽を聴こうと、旅行を楽しもうと、楽しい趣味を持つこと、何でもOKです。でも、その人たちをよく見たらどうでしょうか?霊的に盲目にされ、霊的な耳もふさがれています。つまり、聖書を読んでも分からない、神の御声も聞き分けられないようにされているのです。そして、人々はいつ来るかもしれない死に怯え、罪の呵責にさいなまされ、永遠のさばきを恐れています。へびが時々やって来て、「この世に真理とか救いなんかないんだ!キリストも偽者だ!そんなもの信じたら大変なことになるぞ!」と嘘偽りを並べています。私たちは、かつてそういうところにいたのです。暗闇の圧制の中にいたのです。私たちはこのことを知らないと、救いということが分からないのです。救われる前は、サタンの支配のもとにいたということです。ここで「ハレルヤ!」と言ってはいけません。「ああ、そうだった!」と胸を打つべきです。

②解放

コロサイ1:12をもう一度見ますと、こう書いてあります。「暗闇の圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました」とあります。英語の聖書をみるとよく分かるのですが、「救い出し」は、delivered となっています。Deliverとは、「配達する」というという意味です。これが古語になると「人を…から救い出す、救出する」という意味になります。主の祈りで、「我らを悪から救い出したまえ」の「救い出したまえ」が、deliverであります。つまり、何かに捕らえられていた者を、解放するという意味です。ランボーという映画がありましたが、敵陣にたった一人で乗り込んで捕虜を奪回するという痛快な映画がありました。まさしく、私たちはサタンの虜でしたが、私たちを解放するために、イエス様がこの世に乗り込んで来てくださったのです。また、コロサイ1:12の後半には「御子のご支配の中に移してくださいました」と書いてあります。私たちはサタンの圧制から解放されただけではありません。御子のご支配の中に移されたのです。「ご支配」という言葉は、ギリシャ語でバシレイアでありまして、国とか王国という意味です。言い換えるならば、サタンの国から解放され、御子の国に移されたということになります。つまり、救いというのは、サタンの国から解放され、御子の国に移されるということなのであります。そこで何が変わるのでしょうか?まず、王様が変わります。サタンではなく、イエス様が王様であります。また、暗闇の圧制ではなく、光の支配であります。愛の支配と言っても良いかもしれません。また、死と滅びの世界からいのちの世界に移されたのであります。あなたはかつて、沈没する豪華客船の中にいたのです。そこには高級レストランがあり、酒場あり、食べ放題、飲み放題でした。ダンスも音楽も、ギャンブルも楽しめます。でも、その船は浸水して、まもなく沈むことが分かっています。多くの人たちはそんなことを知らないで、楽しんでいます。でも、あなたは福音を聞いて、船を乗り換えたのです。そうです、救われるとは、まもなく沈む船から、沈まない安全な船へと乗り換えるということです。あなたが、船を乗り換え、イエス様の船に乗っている限りは、寝ていても大丈夫です。

 今、自分がどこにいるかということを理解することはとても重要です。私たちはサタンを恐れすぎてはいけません。サタンは確かに恐ろしい存在ですが、今、私は御子の支配、御子の国の中に住んでいるということを忘れてはいけません。国には法律があり、自国を守るための武力があり、保護があります。神の国も同じであります。ですから、勝手にサタンが乗り込んで、神の国の中にいる人たちを、傷つけたり奪ったりすることはできないのです。しかし、たった1つだけ例外があります。それは、その人が神の国の法律を守らなかった場合です。そのために、神様の守りから外れて、体の一部をサタンの攻撃にさらすときがあります。そのときは、結構、痛い目に合います。そのとき「ああ、これではいけない」と気づいて、神様のご支配のもとに、隠れます。そうすれば、もうサタンは追いかけてきません。詩篇のみことばにあるように、主は私たちの盾、巌、とりで、隠れ場なのであります。どうぞ、私たちが寝ているときも、主の守りがあることを覚えましょう。確かに、この世では戦いがあります。しかし、出ると入るとを守られる、主が共にいてくださることを信じましょう。

③血による贖い

 コロサイ1:14「この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。」しかし、NKJVを見ますと、 in whom we have redemption through His blood,となっています。「キリストの血による贖い」となっています。これはギリシャ語の原文にはないのですが、内容を補っているものと思われます。また、ここに書いてある贖いのギリシャ語は、アポリュトロシスであります。これは、「身代金を払って、奴隷(捕虜)を自由にしてやる」という意味です。神様がサタンのもとに売られていた私たちを解放するために、キリストの血がその代価になったということです。イエス様が十字架で「完了した(テテレスタイ)!」と叫ばれました。それは、当時の商業用語で、「すべてを支払った、完済した」という意味です。確かに、イエス様は十字架で血を流し、私たちのすべての罪を支払ってくださったのです。じゃあ、「その代価をサタンに支払ったのか?」というと、そうではありません。神様ご自身の義を満足するために、イエス様が身代わりに死ぬ必要があったのです。神様はイエス様の血をごらんになって、私たちのさばきを見過ごしにされたのです。でも、キリストの血が塗られていない人は、さばかれ、永遠の死に行くしかありません。「そんな馬鹿な?じゃあ、キリストを信じなかった私の父や母は地獄へ行くのか?」と文句を言う人が出てくるかもしれません。そのことに対して、ヨハネ3:18には「御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている」と書いてあります。だからこそ、私たちは生きているうちに、福音を伝える必要があるのです。

私たちが贖われるためは、キリストの血が必要でした。イスラエルの民がエジプトから解放されたときはどうだったでしょうか?エジプトのパロはなかなか、イスラエルの民を解放しませんでした。主はモーセによって9つの災いをエジプトに下しました。それでも、パロは心をかたくなにして、解放しません。ちなみに、パロはサタンの象徴であります。10番目の災いは何だったでしょうか?それは、「過ぎ越し」であります。1歳の羊の血を柱とかもいに塗った家は、主の怒りが通り過ぎるという奇跡であります。エジプト人は血を塗らなかったので、その家の中に住んでいる長子という長子がすべて打たれて死にました。奴隷から王様の息子まで、家畜までもです。その夜、大きな叫びがエジプトの家々に起こりました。パロはこれはたまらんとばかり、イスラエルの民が出て行くことを許しました。そのとき、決め手になったのが、羊の血でありました。イエス・キリストが十字架にかかって死なれたのは、ちょうど過ぎ越の祭りの最中でした。イエス様はご自分が、神の小羊であることをご存知だったのです。どうぞ、覚えてください。私たちはキリストの血によって贖われたのです。サタンは私たちを訴えますが、キリストの血を示すときに、彼は去るしかないのです。

そのことを歌っている聖歌があります。聖歌425番です。「罪重荷を除くは、血のちから、主の血は、悪魔のわざをこぼつ奇しき力なり、力ある主イエスの血、受けよ、受けよ、力ある主イエスの血受けよ、今受けよ。雪より白くするは、血の力、主の血は、罪のしみを抜き去る、奇しき力なり、力ある主イエスの血受けよ、受けよ、力ある主イエスの血、受けよ、今受けよ。」現代のある教会は、キリストの血のことを言いません。気持ち悪いとか、現代的じゃないと言って、退けます。その結果どうなったでしょうか?人々はサタンにやられ、いろんな病気で苦しんでいます。すべての自殺がそうだとは言いませんが、サタンは神のかたちに似せて造られた人間を攻撃していることは確かです。悪魔、サタンの一番の武器は何でしょうか?それは罪ある者を訴えることです。多くの人たちは、罪の呵責でさいなまれ苦しんでします。しかし、解放者イエスがやって来られ、ご自身の血によって、私たちを買い取ってくださったのです。もう、牢屋には鍵がかかっていません。「完了した」という御声を聞いて、そこを出れば良いのです。

④罪の赦し

 コロサイ1:14「この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています」。「贖い、すなわち罪の赦しを得ています」と書いてありますので、贖いと罪の赦しは同じだということです。前のポイントでも申し上げましたが、キリストの血は神の義を満足させました。同時に、サタンはもう贖われた者たちを訴えることはできません。罪の赦しは、キリストを信じて救われた者がいただく恵みであります。でも、14節に「この御子のうちにあって」と条件付きでそうなのであります。逆に言いますと、御子のうちにない場合は、さばかれ、サタンの攻撃を受けるということです。「さばかれる」といっても、それは地獄へ行くというさばきではありません。傷とか被害を受ける、ひどい場合は肉体の死もありえるということです。でも、その人は既に救われていますので、天国には行けます。私たちは時々、キリストのうちから外れ、自分勝手にふるまうことがあるのではないでしょうか?それは、私たちが神の法を犯すときであります。神様は愛でありますが、この世に対して法則をも与えました。神が定めた法則を破るならば、クリスチャンであろうとなかろうと、その法則の結果を刈り取るしかありません。私はクリスチャンですが、ビルの上から落ちても大丈夫でしょうか?詩篇91篇には、「御使いたちが、その手で支え、あなたの足が石に打ちあたる当たることのないようにする」と書いてあります。でも、神様を試したらダメです。大怪我をするか、死ぬかどちかです。

 同じように、私たちは「御子のうちにある」ならば、安全なのであります。これはとても重要なことです。だから、私たちは主の祈りで、「私たちを試みに会わせず、悪より救い出したまえ」と祈るのです。では、どのような時、私たちは御子のうちから外へ出て、失敗するのでしょうか?多くの場合は、祈らないで「まあ、いいか」と行動した場合です。私は車を運転する場合、出発する前に祈るのですが、最近は「アーメン」とひとこと、ある場合は「ン」ぐらいで出ていました。案の定、数週間前、ぶつけてしまいました。いやー、ひどい目に合いました。人と会うときも、やっぱり数分、祈ったら良いと思います。すると、ある場合は、みことばが示され、「こういう話になるんじゃないかなー」と前もって分かるときがあります。仕事をする前に、手を組んでひとこと祈る。それは、「自分には手に負えないこともありますので、あなたが助けてください」という祈りです。すると、私たちはこの世にあっても、御子のうちにあるので、神の守りを確実にいただくことができるのです。この世は相変わらず、サタンが支配しています。私たちは救われたといっても、この世の中で暮らしています。ですから、絶えず、神の守りと導きが必要です。

 でも、ここで一番、知っていただきたいことは、私たちのすべての罪は赦されたという事実です。私たちはこれを額面通り受け取る必要があります。ある人は、「この罪だけは赦されない。一生、償っていくしかない。私は幸せになってはいけない存在なんだ」と思っています。もし、そんなことを思っていたら、サタンの罠にまんまとはまっていることになります。神様にとっては、小さい罪も大きな罪もありません。ある人たちは、罪責感のため、肉体的にも精神的にも病んでいます。その状態も、御子の外にあるということです。「あの罪は赦されたかもしれないけど、この罪は赦されない」と区別をつけるなら、その分だけサタンの攻撃を受けてしまうでしょう。チョー・ヨンギ先生のもとにひとりのご婦人がやってきました。長い間、過去の罪にさいなまれ、精神的にボロボロの状態でした。「イエス様が十字架の上で、あなたの罪の負債を全部支払いましたよ」と言っても納得がいかない様子でした。それで、チョー先生は彼女にこう言いました。では、目をつぶって想像してみてください。私たちは今、湖のそばに立っています。そこにはボートが一そうあります。あなたは岸辺から、大きな石と小さな石を一個ずつ拾ってください。さあ、その石をもって、ボートに乗ってください。私がこぎます。私たちは湖の真中にやってきました。この湖はとっても深い湖です。さあ、さきほど持ってきた小さい石を湖に投げ捨ててください。どうですか?「はい、ちゃぽんと音がしました。そして波紋が広がりました」。その後どうですか?「はい、水面はもとのように穏やかになりました」。では、こんどは大きな石をボートの外に投げ捨ててください。どうですか?「はい、ざばんと大きな音がして、水しぶきもあがりました。大きな波紋が広がりました」。その後、どうですか?「はい、水面はもとのように穏やかになりました」。では、小さな石と大きな石は、どこへ行ったのですか?「はい、湖の底、深くに沈みました」。見えますか?「もう、見えません」。そうです。小さな石は小さな罪です。そして、大きな石は大きな罪です。大きな罪は人々を巻き込み、ひどい状態になります。でも、神様の前には大きな罪も小さな罪も関係ありません。同じように赦してくださいます。あなたはすでに赦されているのです。

詩篇103:12,13「東が西から遠く離れているように、私たちのそむきの罪を私たちから遠く離される。父がその子をあわれむように、主は、ご自分を恐れる者をあわれまれる。」父なる神様は、ほうとう息子の父のように、ひとことも咎めず、私たちを無条件に赦してくださいます。本当は条件があったのです。ただでは、罪は赦されないのです。でも、御子イエスが、私たちの罪の身代わりに死んでくださいました。私たちの代わりに裁かれたので、私たちはすでに赦されているのです。キリスト様が血を流して贖ってくださったのです。もう、私たちは悪魔から訴えられる必要はありません。自分で自分を責めることもありません。私たちは御子のうちにあって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。また、私たちはこの世にあって、この世で生きていません。神様が、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。私たちは神の国という御子のご支配の中にいるのです。主は私たちの盾、巌、とりで、隠れ場なのです。アーメン。

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2008年11月 2日 (日)

真の知識   コロサイ1:9-12

 パウロはコロサイの人たちのためお祈りしています。普通、私たちは「健康で、すべてのことが祝されますように」などと祈ります。そういう祈りも悪いわけではありませんが、パウロは神様の側に立って祈っています。それは、信仰生活において根本的なものです。この4つをちゃんと守っていれば、結果的に健康ですべてのことに祝福が与えられるということです。9節から12節まで、4つのものがあると思います。9節は真の知識、つまり教理的なことです。10節は主にかなった歩み、つまり実践的なことです。11節は強くされるように、つまり内面的な強さです。12節は喜びと感謝、つまり礼拝の生活です。いつもは、2つのポイントですが、きょうは4つのポイントで学びたいと思います。

1.真の知識

 パウロは9節で「あなたがたがあらゆる霊的な知恵と理解力によって、神のみこころに関する真の知識に満たされますように」と祈っています。真の知識とは、教理的なことです。ときどき、「神様がどんなお方か全く分からない」という人がいますが、それは聖書を読まないからです。聖書は神様からのラブレターです。そこには、神様のみこころが記されています。その当時、コロサイには、ギリシャ哲学とか、神秘主義の影響がありました。ですから、ある人は信仰を観念的にとらえ、またある人は幻など霊的体験を信仰の土台にしていました。真の知識とは、神のみことばと聖霊の理解力とがマッチして与えられるものです。また、そこには必ずバランスが伴わなければなりません。キリスト教の歴史をみますと、様々な異端が出現しました。それは、どちらかの真理に極端に走って、他方の真理を捨て去ることから起こります。

近年のキリスト教界にあった極端とはどういうものでしょうか?昭和の初めは再臨信仰でした。やがて、この世は終わりを告げ、キリスト様が天から来られる。それは正しいことです。でも、同時に私たちは天国だけではなく、この世にも片方の足を据えなければなりません。地に足を据え、この世の中が少しでも良くなるように、働きかける必要があります。その次に起きたのが、癒しとか祝福であります。ある人たちは「それは御利益信仰だ」と全部否定しましたが、ある人たちはそれを第一に求めました。確かにアメリカの功利主義は問題があります。でも、私たちは神様に従うと、結果的に祝福がやってくるんだということを知る必要があります。また、最近は預言者とか使徒の回復の時代だと言われています。預言者は確かにいます。でも、突然、どこからやって来た預言者が「あなたの教会のここが悪い」とか、「牧師のここが問題だ」と言ったとしても信じないことです。なぜなら、牧師は教会を守るため、神様から権威が与えられているからです。ですから、聖書はバランスをもって理解する必要があります。

 私が信仰をもってから、大変、役に立ったのが良い信仰書であります。教会とか信仰の先輩が推薦する本をよく読みました。聖書を直接、読むのが一番なのですが、何らかのガイドブックも必要です。みなさんはお小遣いをどんなものに使っているでしょうか?キリスト教良書を買うために毎月、2000円くらいはかけても良いのではないでしょうか?キリスト教の本は発行部数が少ないので高いのが難点です。2000円でも2冊は買えないでしょう。とにかく、最初は正しい聖書理解を持つことが必要です。東京には、いろんなセミナーや大会がありますので、極端に走る場合があります。癒しや霊的体験も必要です。でも、聖書をよく学んで、正しい信仰を持つことがもっと重要です。ゴスペルクワイヤーの人たちが数年前、韓国のオンヌリ教会を訪れたとき、「聖書をもっと学びなさい」と言われたそうです。わぉー、すばらしいことですねー。ある人は、健全な信仰は健全な聖書理解から来ると言いました。そういう意味でも、この世の本や雑誌よりも、聖書をよく学び、バランスのとれた信仰を持ちましょう。

2.主にかなった歩み

 10節「また、主にかなった歩みをして、あらゆる点で主に喜ばれ、あらゆる善行のうちに実を結び、神を知る知識を増し加えられますように。」第二番目は、主にかなった歩みです。それは、みことばの実践と言うことができるでしょう。ヤコブは「みことばを実行する人になりなさい」「信仰も行ないがなかったなら、死んだものです」(ヤコブ2:17)と言いました。キリスト教会の一番の欠点は、知識があっても行ないが乏しいということです。いっぱい学んで、学び過ぎて、頭が大きくなり、手足が小さいならばどうなるでしょうか?それは哲学的な信仰です。知識を得ることは大事です。でも、知識が増すとどうなるでしょうか?1つは恐れがやってきます。「まだ学びが足りない」と逆に自信がなくなります。神学ばかりやり過ぎた先生は、「こういう説もあり、またこういう説もあります。こう言った人もいます、ああ言った人もいます」と、結局のところ分かりません。恐れのゆえに、1つに定めることができないのです。もう1つ、知識は人を高慢にさせます。Ⅰコリント8:1「知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てる」とあります。

 では、どうしたら良いのでしょうか?みことばを実践するということです。私たちはたった1つのみことばを実践するだけでも、ものすごく苦労するでしょう。『塩狩峠』の長野さんは、サマリヤ人のたとえから「隣人を愛する」ということを実践しました。会社の同僚を愛そうと様々な努力をするのですが、逆に自分には愛がないことに気づきました。みことばを実践してみて、「ああ、自分にはこれが足りないんだなー」と気づくわけです。ディボーションとは、日々、聖書を読み、祈ることですが、その中で大切なのが適用です。「今、聖書から教えられたことを、どう自分の生活の中で適用するか?」これがないと、自分の生活は変わりません。松戸の岡野先生が最近『ただ愛すれば良い』という分厚い本を出しました。その中にこう書いてありました。「クリスチャンは教会でみことばを学び、自分でも読んでいると思います。しかし、聞くだけ、読むだけではなく、みことばを守る人となることが大事です。キリストの弟子とは、主のみことばを守る人であり、弟子訓練とは、主のみことばを守るように教えることです」とありました。まことに、アーメンです。

 もし、私たちがみことばを守る生活をしていたならどうでしょうか?あなたの一番、近い人がそれに気づくはずです。あなたの夫、あるいは妻、あるいは子どもが「なんか違うなー」とあなたの内にキリストの姿を見るんじゃないでしょうか?「主にかなった歩みをして、あらゆる点で主に喜ばれ、あらゆる善行のうちに実を結び」とあるように、かならず実が現れてきます。私たちの周りのノンクリスチャンたちは、私たちの言うことは聞きません。私たちがする行ないによって、何かをキャッチするようです。イエス様の家族や兄弟も、はじめはイエス様を信じませんでした。しかし、イエス様の行ないを見て信じたのです。だから、イエス様の兄弟のヤコブは信仰よりも、行ないを強調しているのではないかと思います。キリストの弟子とは、みことばを守る人です。なんと、単純でわかりやすい定義でしょうか?長い間、信仰生活をしても、まわりに影響を与えていないとしたら、それはみことばを実行していないからかもしれません。私などはみことばを教える機会が最も多い人です。だから、私が一番、言行一致が求められています。どうぞ、お互いに、みことばを守る人になりましょう。

3.強くされるように

11節「また、神の栄光ある権能に従い、あらゆる力をもって強くされて、忍耐と寛容を尽くし」とあります。「強くされるように」とは、肉体的な強さではなく、内面的な強さです。パウロは、エペソ3:16「どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように」と書いてあります。内なる人とはどこでしょうか?それは霊と魂です。厳密に言うなら、神の御霊の支配を受けている、魂と言った方が良いかもしれません。クリスチャンになりたての頃は、霊的に生まれても、まだ肉の人であります。だから、何でも反抗したり、小さなことで躓いたりします。体は立派な大人なのですが、霊的にはまだ子どもです。先輩のクリスチャンは、そこのところを知って、ケアーしていく必要があります。私はクリスチャンになる前後の1年間は、ずっと金魚の糞みたいに、私を導いてくれた人の隣に座っていました。最初は教会の人たちの証を聞いて唖然としました。「なんと一人よがりなんだろう。それは神様じゃなくて、自然に起こったんじゃないの」と思いました。その次には献金、役員さんのお祈り、握手、副牧師の対応…躓く材料はいっぱいありました。でも、1つ1つを先輩がフォローしてくれたのです。それでやっと独り立ちできるようになったのです。

私たちの内なる人で、一番やっかいなのが、魂であります。アダムとエバが食べてはならない木から取って食べた時、霊が死に、その代わり魂が以上に発達してしまいました。それ以前は、霊によって神様の御声を聞ききつつ従っていました。だが堕落後、人は「自分は神様なしで生きてゆける」と魂が独立宣言したのです。この傾向は、クリスチャンになってからも続きます。いわゆる「我が強い」とか「我まま」「不従順」「反逆の霊」…こういう性質があるんですね。だから気にいらないことが起こると「プイ」となる。信仰がないわけではないのですが、相変わらず肉が支配している状態です。このままの状態の人を神様は用いることはできません。では、神様はどうするのでしょうか?ヘブル12章にありますように、主は愛する者を懲らしめ、訓練します。ヘブル12:11「すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。」主は、出来事を通して、環境を通して、あるときは人々を通して、その人を訓練します。人によっては、そのまま教会を離れる人もいます。長い間、試練の中を歩んで戻って来る人もいますが、そうでない人もいます。でも、主の訓練を耐え忍んだらどうなるでしょうか?その人には、平安な義の実が結ばれます。義の実とは、忍耐と寛容という品性であります。忍耐と寛容は、すぐに与えられる実ではありません。何年もかかって、ある場合は何十年もかかって、身についてくるものです。もし、その期間を短くしたいなら、従順ということを学ぶことです。従順こそが、このレッスンの最短コースであります。

父なる神様は、「ああ、この人にはこういう方法で魂を砕いたら良いなー」「この人には、こういう方法で訓練したら良いなー」と一番よくご存知です。石を割るときには、割り方があるそうです。ちゃんと、線があるそうです。その線のところに、ノミを入れると綺麗に割れるそうです。あるときは、神様は、不条理というノミであなたを懲らしめるかもしれません。また、あるときは、ノンクリスチャンの配偶者を用いるかもしれません。「それでもクリスチャンか?」とあなたに厳しい言葉を浴びせるかもしれません。また、あるときは、人々から忘れられ、何の脚光も浴びないという期間を過ごすかもしれません。やっても、やっても、結果が出ない。「あー、なんでなんだー」。まるで、金を精錬するように神様は私たちを火の中を通します。火の中を通すと、表面に灰汁が浮かんできます。それをすくって、また火の中を通します。そのように試されて、やがて純金になるのです。主の訓練を軽んじてはなりません。神様は私たちを子として扱っておられるのです。私たちの内なる人は強くなり、忍耐と寛容さが身につき、神様の御用に間に合うことができるのです。もはや、小さな子どもではなく、神様の息子であり、娘であります。

4.喜びと感謝

12節「また、光の中にある、聖徒の相続分にあずかる資格を私たちに与えてくださった父なる神に、喜びをもって感謝をささげることができますように。」神への喜びと感謝とは、礼拝の生活であります。日曜日、教会に来るときだけが礼拝ではありません。「日々、神様に礼拝をささげる。そんなことが一体、可能なのでしょうか?」多くの人たちは、礼拝とは、どこかに集まって、順番どおりにささげる儀式だと思っています。礼拝には説教とか讃美歌が必要なのでしょうか?もちろん、そういう礼拝もあります。しかし、公の礼拝だけが礼拝とするならば、もったいない話です。そうではなく、私たちは日々、自分の生活の真中で、主と交わり、礼拝することが可能なのです。もし、私たちがそういう生活をするならば、どんな時でも主が共にいて助け、導いて下さるでしょう。では、どのように日々、礼拝をささげることができるのでしょう?多くの場合、「それはディボーションをすることです」と答えるでしょう。もちろん、朝とか夕べに、聖書を開いて、瞑想し、祈る。こういう個人的な礼拝は大切です。また、夫婦や家族で心を合わせる家庭礼拝もあるでしょう。セル集会においても、礼拝の要素があります。しかし、礼拝は、道を歩いているとき、電車に乗っているとき、あるいは仕事をしているときも可能です。エディ・レオ師は誘惑にあったとき、「ハレルヤ!主よ」と礼拝できると言いました。特に男性は一日、何度も性的な誘惑を受けるので、その度ごとに主を礼拝できるということです。私は日中、ひょんなとき、過去のイヤーな出来事を思い出すときがあります。過去の失敗、悲しい出来事、惨めだった時の思いが「ふっ」と前触れもなく出てきます。そのとき、私は手を合わせて「おお、主よ。あなたは私の盾、砦、隠れ場です」と礼拝します。すると、嫌な思いが一瞬に消えてなくなります。それはサタンが私を落ち込ませるために、持ってくるものかもしれません。でも、私はその機会を、主を礼拝する時に変えています。

 ですから、みなさんも礼拝を日曜日の午前中に限定するのではなく、日々、どんな時にも礼拝ができるんだと考えを変えましょう。そのためには、もっと神様との関係を楽しむというか、喜ぶ必要があります。日本人は神様というと、高いところに祀り上げるみたいなところがあります。でも、私たちの神様は、「アバ、父よ!」と呼べるほど親しい方です。ある人は「イエス様」とか「聖霊様」と呼ぶ人もいます。「主よ」でも良いです。とにかく、礼拝とは神様との親しい交わりだと考えるべきです。四六時中、お話しても神様は文句を言いません。今、携帯ではいろんなサービスがあります。家族同志はタダとか、話し放題というのもあります。神様との電話は無料です。しかも、話し中ということがありません。請求書も来ません。神様と話せば話すほど、私たちは信仰に満たされ、聖い者とさせられます。そこで、一番大切なことは、喜びと感謝であります。私たちはただ祈るよりも、そこに「感謝」を加える必要があります。ピリピ4:4「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい」。ピリピ4:6「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。」とあります。感謝をもって祈るとどうなるか?神様の平安が私たちを支配してくれます。

 コロサイの地域は、エペソと同じように、偶像礼拝はあるし、人々は快楽や物質を求めていました。哲学的な考えや神秘的な宗教があり、イエス様が神であることが、低くされていました。時代は変わっても、日本と同じであります。だから、パウロはコロサイに群ができたことを、聞いてから、絶えず彼らのために祈り求めました。その祈りの内容が、きょう学んだ4つのことであります。真の知識が与えられ、主にかなった歩みをし、内なる人が強くされ、喜びと感謝をささげるようにということです。このことは、私たちにもあてはまることではないでしょうか?とうじイエス様と一緒にいた弟子たちはどうだったでしょうか?イエス様によって、真の知識が与えられ、主にかなった歩みをし、内なる人が強くされ、喜びと感謝をささげたのではないでしょうか?私たちは目でイエス様を見ることはできません。でも、今、イエス様と同じ、聖霊様がいらっしゃっているのですから、同じことが可能です。今は、アメリカも日本も経済的にどうなるか分かりません。一世帯3万円数千円もらえるのはありがたいですが、それで解決できるのでしょうか?3年後に消費税上げられたら、そちらの方が辛いかもしれません。テレビを見てもお笑い番組だらけであります。私たちはこういう場合、2000年前の弟子たちのように、イエス様を囲んで、共に生活をすべきなのではないでしょうか?政府やお金に解決を求めてもダメです。みことばと今も生きておられるイエス様に解決を求めるべきであります。あらゆる情報が目から入ってきますが、時には目を閉じて、父なる神様と交わるべきです。そうすれば、神様からの解決が平安とともにやってきます。私たちは父なる神様という偉大な資源を持っていることを忘れてはいけません。使徒パウロが生きていたら同じように祈るでしょう。「神のみこころに関する真の知識が与えられ、主にかなった歩みをし、内なる人が強くされ、喜びと感謝をささげることができるように」と。アーメン。

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