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2008年10月26日 (日)

実を結ぶ福音    コロサイ1:1-8

 きょうは教会が持っているものが何かということを単純に申し上げたいと思います。教会が持っているというよりも、「イエス様を信じている人たちが持っているもの」と言った方が身近に感じるかもしれせん。それは世の人たちが持っていないものであり、私たちだけしかないものです。この世の人たちは、お金とか健康、物質など、目に見えるものにしか価値を置きません。でも、もっと大事なものがあります。それらは目には見えませんが、あとから形になって現れてくる、価値の源みたいなものです。きょうは、教会あるいは、私たちが持っているものを、もう一度確認したいと思います。

1.福音の実

 コロサイにいる人たちは、福音を聞いてイエス様を信じました。でも、パウロが直接、伝道に行ったわけではありません。おそらく、パウロがエペソにいるとき、ある人たちが福音を聞いて、コロサイに持ち運び、そこでイエス様を信じる群ができたのだと思います。使徒19:10「これが二年の間続いたので、アジアに住む者はみな、ユダヤ人もギリシヤ人も主のことばを聞いた」とあるからです。小アジアのコロサイ、ラオデキア、サルデス、フィラデルフィア、ペルガモ、スミルナなど、パウロが開拓したわけではありせん。でも、福音があちこちに広がって、実を結んだのであります。さきほどの地名は、黙示録2章と3章に載っている、アジアの7つの教会と全く同じであります。今の、トルコのあたりです。現在は、イスラム教が支配していますが、かつては福音が小アジア全体に満ちていたわけです。

 ところで、コロサイの人たちが福音を受け入れたことにより、どのような変化がもたらされたのでしょうか?コロサイ1章4,5節を見ますとそこには3つのものを発見することができます。コロサイ1:4「それは、キリスト・イエスに対するあなたがたの信仰と、すべての聖徒に対してあなたがたが抱いている愛のことを聞いたからです。」まず、このところからわかることは、キリスト・イエスに対する信仰であります。「イエス・キリスト」と「キリスト・イエス」一体どこが違うのでしょうか?パウロは、キリストが神であることを強調するときは、あえて、「キリスト・イエス」と言ったようです。それはともかく、福音を信じるとその人の中に、「イエス様に対する信仰が生まれる」ということです。2つ目は何でしょう?「すべての聖徒に対する愛」であります。つまり、兄弟姉妹が互いに愛し合っているということです。3つ目は5節にあります。「それらは、あなたがたのために天にたくわえられてある望みに基づくものです。あなたがたは、すでにこの望みのことを、福音の真理のことばの中で聞きました。」これは、望みであります。分かりやすく言いますと、天国に対する希望であります。信仰と愛と希望ですね。どこか聞いたことがあります。Ⅰコリント13:13「こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。」

当教会の週報には、「信仰、希望、愛」と書いています。ハレルヤ!

 つまり、福音を信じると3つのものがその人の中に、生まれるということです。コロサイ1章によると、イエス様に対する信仰、兄弟姉妹に対する愛、天国に対する希望であります。とっても分かりやすいですね。みなさんの中に、これらの3つがあるならば、「あなたはクリスチャンです」と自他共に認めることができます。今はコンピューターの時代です。一家に1台というよりも、個人で何台も持っている時代かもしれません。パソコンを使った人ならだれでも知っていますが、何かをソフトを入れることを、インストールと言います。CDを入れると、グルグルグルと音がして、「インストールにようこそ」と出ます。「次へ」クリックします。その後、「内容に同意します」と「内容に同意しません」とを選択しなければなりません。「同意します」をクリックすると、また、グルグルグルと音がします。しかし、まだそれでは使えません。そうです。シリアルナンバーが必要ですね。その数字やアルファベットを入れると、ソフトが作動します。福音もこれと全く同じです。福音というCDソフトをあなたの中に入れます。グルグルグルと音がして、「インストールしますか」と出ます。教会に来て福音を聞くと、頭や心の中がグルグルグルと音がします。ある人は、気持ちが悪いからイヤだということでキャンセルします。しかし、ある人は、「同意します」をクリックします。するとその人の中に、何かが起こります。また、グルグルグルと音がして、どうなるでしょうか?3つのものが出てきます。何でしょう?イエス様に対する信仰、兄弟姉妹に対する愛、天国に対する希望であります。なんと分かりやすい説教でしょうか?もし、あなたに信仰と愛と希望があるなら、あなたはクリスチャンです。

 福音はこの3つをあなたに与えることができます。言い換えると、教会はクリスチャンは、この3つのものをもって、生きているということです。どうでしょうか?では、1つ1つ、チェックしていきたいと思います。あなたに「イエス様に対する信仰」はあるでしょうか?ある人は「神様に対する信仰はありますけど、イエス様に対する信仰があるかどうか分かりません。イエス様でなくても、神様を信じていたらそれで良いのでは?」という人がたまにいます。もちろん、私たちは、神様を信じなければなりません。しかし、なぜ、ここで「イエス様に対する信仰」と言われているのでしょうか?これは「イエス様が私たちに何をしてくださったのか」ということと深い関係があります。逆に言いますと、「私にイエス様が何もしてくれてないよ」と思っている人は、イエス様と何の関係もない人です。ペテロは最後の晩餐の席で、「決して、私の足を洗わないでください」と言いました。するとイエス様は「もし、洗わなければ、あなたは私と何の関係もありません」と言われました。これを私たちはどう理解するでしょうか?イエス様は私たちに何をしてくださったのでしょうか?そうです。イエス様は私たちのために十字架につき、私たちの罪を洗い流してくださったのです。私たちはイエス様から罪を洗っていただいた存在なのです。私たちは贖い主であるイエス様を通してでなければ、神様のところには行けないのです。だから、あえて神様ではなく、イエス様に対する信仰が大事なのです。

 では、2番目は「兄弟姉妹に対する愛」があるでしょうか?しかし、このことに対しても難癖をつける人がいます。「私は神様を愛していますよ。神様を愛することが何よりも大切なのではないでしょうか?」そういう人に限って、兄弟姉妹に対する愛を説かれると反発します。「私は神様を愛しているんだから、それで良いでしょう」と言うわけです。でも、コロサイ1章では、福音の実は「兄弟姉妹に対する愛である」と書かれています。Ⅰヨハネにその解答があります。Ⅰヨハネ4:20,21「神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。神を愛する者は、兄弟をも愛すべきです。私たちはこの命令をキリストから受けています。」きびしいーという感じがしますが、これが真実です。教会は愛の共同体です。私たちは、神様だけを愛しているだけではなく、兄弟姉妹をも愛する。これは福音を信じて救われた人の証しであります。しかし、これも訓練が必要であります。ソフトを入れたとしても、使いこなすまでは、結構時間がかかります。我流でもある程度できますが、本を読んだり、人から教えてもらうとなお良いですね。色々、失敗します。あるときは、データーを失うこともあります。愛も、実践しながら学ぶ必要があります。教会は、愛を学ぶ、共同体であります。

3番目は「天国に対する希望」であります。多くの場合、「天国とは死んだ先に行くところだろう」と言います。確かにそういう意味もあります。私たちはこの地上をいつかおさらばしなければなりません。でも、私たちには行くところがあります。それは天の都、天の故郷であります。「いつ死んでも大丈夫、私は天国に行ける!」確かに、福音を信じると、こういう希望が与えられます。でも、コロサイ1章は「あなたがたのために天にたくわえてある望み」と書いてあります。もし、天にたくわえてあるものが、この地上に送られて来たら、なんとすばらしいことでしょう。主の祈りで「御国を来たらせたまえ」と祈りますが、「天国の喜び、天国の豊かさ、天国のいのちが私たちにも与えられますように」ということではないでしょうか?「天国の前味」という言葉をご存知でしょうか。私たちがイエス様の名前で求めるとき、聖霊様が天国の喜び、天国の豊かさ、天国のいのちをもたらしてくださるのではないでしょうか?私たちの信仰は、天国に行くことだけではありません。「この地上でも、天国を味わうことができるんだ」ということを、イエス様は癒しや奇跡を行なって証明してくださいました。ヘブル13:8「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。」アーメン。

2.福音の増殖力

 コロサイ1:6「この福音は、あなたがたが神の恵みを聞き、それをほんとうに理解したとき以来、あなたがたの間でも見られるとおりの勢いをもって、世界中で、実を結び広がり続けています。福音はそのようにしてあなたがたに届いたのです。」冒頭でも申し上げましたが、コロサイの教会はパウロが開拓した教会ではありません。パウロがエペソで腰を据えて伝道していましたが、福音を信じたある人たちが、コロサイに帰って福音を宣べ伝えました。その結果、コロサイにイエス様を信じる群れができたのです。その群れの指導者がエパフラスではなかったかと思われます。ところで、1:6「福音は…世界中で、実を結び広がり続けています。福音はそのようにしてあなたがたに届いたのです。」とあります。しかし、パウロ「世界中で」と言っていることは事実でしょうか?その当時、福音は小アジアに届いていたるところで実を結んでいました。また、ギリシヤやローマにもかなりの群れがあったようです。でも、それだけで「世界中」と言うのは少々オーバーではないでしょうか?1世紀の頃だったら、中国やインドにも文明が開けていたのではないでしょうか?でも、パウロが言ったことは、嘘でもほらでもありません。パウロは、「福音は…世界中で、実を結び広がり続けています。福音はそのようにしてあなたがたに届いたのです」と断言しました。では、福音はどのようにして、コロサイに届いたのでしょうか?また、何を根拠に、世界中に実を結び広がり続けていると言えるのでしょうか?

 そのヒントはマタイ28:19「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい」にあります。イエス様は回心者を作れとは言いませんでした。弟子を作れと命じました。回心者と弟子とはどう違うのでしょうか?回心者とは福音を信じて救われた人です。では、弟子を作れとはどういう意味でしょうか?それは、まず福音を信じて救いに導きます。続いて、その人をキリストの弟子とします。それで終わりではありません。その弟子に、「あなたも新たに弟子を作り、弟子となった人に『新たに弟子を作りなさい』と言うのですよ」と命ずるのです。そうすると、弟子が弟子を生み、どんどん、どんどん増え広がっていきます。それでは、回心者を作るのと、弟子を作ることの違いを考えてみたいと思います。あるところに、人口10,000人の島がありました。もし、一人の牧師がそこへ行って、1年に一人の割合で回心者を得たら、島中の人が救われるために何年要するでしょうか?1年に一人ですから、10,000人だったら1万年かかります。でも、人はそんなに長生きできないので、おそらく50人くらいでストップするでしょう。では、再生産できる弟子を作るとしたらどうなるでしょう。最初の年は1人ですが、その人をキリストの弟子にして、「あなたも自分で弟子を作るのですよ」と命じます。最初の年は自分を入れて2名です。2年目には4人になります。3年目には8人になります。4年目には16人、5年目には32人、6年目には64人、7年目には128人、8年目には256人…何と13年半で1万人に達します。それをさらに繰り返していくとどうなるでしょうか?27年目には1億3千480万人に達します。27年間で日本の全人口が救われることになります。これを倍加の法則、あるいは鼠算とも言われます。

 みなさんは、「なあんだ」と眉をひそめるのではないでしょうか?なぜなら、「ねずみ講」とか「マルチ商法」を思い出すからです。でも、その法則を利用しているのが、エホバの証人とか創価学会であります。彼らは信徒の集団であり、信徒が信徒を次々に作っていきます。でも、一般的に、キリスト教会は伝道するのは牧師と数名の献身者ということになっています。あとは、年に2回くらい、特別伝道集会を開いて伝道します。多くのクリスチャンは椅子に座って、「がんばってね。祈っているから!」と声援を送っています。しかし、それは聖書が言う教会ではありません。パウロは「福音はそのようにしてあなたがたに届いたのです」と言いました。どのようにでしょうか?その証拠が、使徒の働きにあります。使徒6:7「こうして神のことばは、ますます広まって行き、エルサレムで、弟子の数が非常にふえて行った」とあります。英語の聖書は、Then the word of God spread, and the number of the disciples multiplied greatly in Jerusalem,となっています。また、使徒9:31「聖霊に励まされて前進し続けたので、信者の数がふえて行った」英語の聖書は、in the comfort of the Holy Spirit, they were multiplied. 両方に、multiplyという言葉が使われています。これは掛け算的に増えるということですが、「倍加する」ということと同じです。つまり、初代教会はただの回心者ではなく、弟子を作っていったので、倍々に増えていったということです。私たちは回心者に留まるのではなく、自ら新しい弟子を生産できる弟子とならなくてはなりません。そして、新たに救われた人をキリストの弟子とし、「あなたも次の人を弟子とするんですよ」と言わなければなりません。そうすれば、全世界に福音が達したことと同じであります。使徒パウロはおそらくこういう観点で見ていたので、福音が「世界中で、実を結び広がり続けている」と断言できたのではないかと思います。

 私はこの倍加の法則を31歳のとき、アメリカに行ったとき知りました。アラバマのある教会が日本人を5名招待し、大学生たちと一緒に訓練してくれたのです。2ヶ月滞在したのですから、旅費も含めて、おそらく一人50万円位かかったと思います。彼らは一人の宣教師を送るよりも、五名の日本人をキリストの弟子とした方が、ずっと価値があると言っていました。ですから、私はアラバマ教会に負債があります。それは、あのマタイ28章の弟子作り大命令を果たす義務があるということです。私は日本に帰ってきてから、小牧者弟子訓練会、そしてセルチャーチネットワークに加わりました。しかし、キリストの弟子を作ることができたかは疑問です。「弟子を作らなければ」とは思いましたが、人数を追い求めたところがあります。でも、セルに出会って、1つ発見したことがあります。それは、一人では無理だということです。一人で次の人を弟子として、倍々になるというのは理屈ではそうですが、実際はうまくいきません。では、自然界の細胞はどのように増えるでしょうか?そうです、細胞は細胞分裂で増えていきます。セルとは小グループ、細胞であります。3人から多くて10人くらいの人たちが、協力して伝道し、弟子を作り、新たに人々を導き弟子とする。そして細胞分裂して増えていくというものです。もし、教会がセルでやろうとするなら、あることに徹底しなければなりません。ただ、礼拝に集まってくるのを待っているのはセルチャーチのやり方ではありません。新約聖書は「来なさい」ではなく、「行きなさい」と命じています。私たちは既に、家庭や学校、職場や地域に行っています。だから、私たちが遣わされているところに、3人から10人くらいの小さな群を作るということです。救われた者同士が、教会という建物の中でセルを持っても効果がありません。セルは、教会の敷居が高くて来れない人たちのところに、自分たちが行って、そこで集会を開くためにあるのです。もし、それができなければ、従来の教会のように、日曜日、イベント的な礼拝を開いて、人々が集まってくるのを待ち構えるしかありません。

 イベントやプログラム教会での奉仕とはどういう奉仕でしょうか?チラシ配布をしたり、椅子を並べたり、人々に挨拶したり、集会のための様々な準備をすることです。多くの場合、教会堂という建物の中でやることが奉仕になります。先週の金曜日と土曜日行った、ハワイの教会はそういう教会です。私の母教会の大和キリスト教会も全く同じスタイルです。もちろん、そういう教会もあってよいのです。でも、セルチャーチとして奉仕というものを考えるならどうでしょうか?それは皆さんが遣わされているところで人々に仕え、福音を証しすることだと信じています。私は、教会という建物の中の奉仕よりも、世の中でする方が、ずっと大事だと思います。なぜなら、教会とは建物ではなく、私たち自身だからです。私たちがこの世の中に出て行って、福音の種を蒔くのです。話は戻りますが、コロサイなどの小アジアの教会はそのようにしてできたのです。当時は、教会堂ではなく信者の家々で集会を開いていました。教会堂なんかなかったのです。私たちには教会堂という建物があります。設備があることは良いことです。反面、マイナスもあります。それは出て行かないで、教会堂というところに人々集めて、なんでもかんでも、建物の中でやってしまうということです。そうなるならば、教会に来たくても来れない人のところには、福音を届けることは不可能になります。

 日本人は忠臣蔵という物語が大好きです。40数名の人たちは主君のあだ討ちのため、正体を隠して生活していました。彼らはこの世で生活をしていましたが、1つの目的のためだけに生きていました。私たちは主君のあだ討ちではなく、主君の弟子を作ることであります。私たちはこの世ではいろんな職業について良いのです。でも、その職業をしながらも、キリストの弟子として生きていく、これがクリスチャンの生き方であります。どうぞこの世の生活だけのために生きないようにしてください。私たちには主君であるイエス様からの使命があります。それは「行ってあらゆる国の人々を弟子とする」ことです。日本の国民をキリストの弟子とするために、私たちがこの世で生かされているということです。パウロがコロサイの教会に語ったように、日本の教会に対しても同じことを語っていると信じます。「この福音は、あなたがたが神の恵みを聞き、それをほんとうに理解したとき以来、あなたがたの間でも見られるとおりの勢いをもって、世界中で、実を結び広がり続けています。福音はそのようにしてあなたがたに届いたのです。」

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2008年10月19日 (日)

偶然か御心か -試練に打ち勝つ方法- ヤコブ1:1~4

本日は練馬グレースチャペルの菅谷勝浩牧師を迎えての特別礼拝になりますので、アウトラインのみの掲載になります。

世界観をどのようにとらえるか?試練に遭った時にそれをどのようにとらえるかは、その人の持っている世界観によって違ってきます。

1.試練を喜ぶ ヤコブ1:1-4

2.クリスチャンにとって試練は普通のこと へブル12:1-11

・信仰の先輩たちのことを思い出す。

・イエスキリストの栄光を見る

・天の父の訓練

3.聖書的世界観 ローマ8:18-30

・なぜ試練があるのか

・聖霊のとりなし

4.私たちの使命は ローマ8:31-39

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2008年10月12日 (日)

どちらで行くか   コロサイ1:28-29

 本日からコロサイ人への手紙を学びたいと思います。本来はコロサイ1章1節から始めるべきですが、私がコロサイ書をどうして選んだのかという、もくろみというか、理由を本日は語りたいと思います。いわば、コロサイ書のイントロダクションであります。来週は清瀬グレースチャペルから菅谷勝浩先生をお招きしての特別礼拝です。菅谷先生とはセルチャーチで長い付き合いです。おそらく、私が本日話す内容を、菅谷先生はもっと具体的に、戦略的に話してくださるのではないかと思います。ですから、本日の内容と、次週の内容は連続ものだということです。なぜなら、「亀有教会をこれからどうしていくか?どういう方向で行くか?」ということがテーマになるからです。みなさん、私たちはこれまでのスタイル、生き方をそのまま続ける方が楽です。でも、神様からチャレンジを受けたときは、「はい」と従うべきです。私は55歳になりますので、新しいやり方をするというのがシンドイ年になりました。このまま慣れた道を行って、10年後にはどうなるでしょう?おそらく、今とあまり変わらないでしょう。でも、今から変えていくなら、10年後はかなり変わっていると思います。聖書を見ると、アブラハムは75歳のとき、「新しい地へ行け!」という召しを受けて出発しました。アブラハムと比べるとはるかに若いですね。ということはまだ可能性があるということです。アーメン。

1.イエス様の命令

みなさん、イエス・キリストが教会に与えた命令とは何でしょうか?いろいろありますけど、教会が第一になすべきことであります。マタイ28:19,20「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。」このみことばは、マルコ16章と並ぶ大宣教命令として知られています。でも、マタイ28章の方は、「福音を宣べ伝えるだけではなく、弟子を作りなさい!」と、はっきりとしたゴールを定めています。キリストの弟子をつくること、これが教会に与えられている最も大切な命令であります。ですから、クリスチャンであるならば、自分の生活(仕事、家事、子育て、食べる、飲む、寝る)の様々な分野の中に「自らキリストの弟子となり、また新たな弟子を作る」ということが、なくてはなりません。テレビを見ているときも「これはキリストの弟子となることと何の関係があるんだろう?」と思っていなればなりません。「グー」とか「さーん」とか、お笑い番組を見て、ただ笑っていれば良いというものではありません。では、どうやったらイエス様を信じて救われた人が弟子になるのでしょうか?そのまま放っておいても、キリストの弟子になるのではありません。マタイ28章には「わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい」と書かれています。教会は確かに聖書を教えてきました。でも、大事なことを忘れています。それは、人々がすべてのことを守るようになるまで、ちゃんと教えていないということです。教えて、教えて、教えっぱなし。守っているかどうかは分からないということです。

さきほどの読んだ、コロサイ1章は使徒パウロが、「人々をキリストの弟子とするためには、このくらい苦労しなければならない」と教えている箇所です。もう一度お読みします。コロサイ1:28「私たちは、このキリストを宣べ伝え、知恵を尽くして、あらゆる人を戒め、あらゆる人を教えています。それは、すべての人を、キリストにある成人として立たせるためです。「キリストにある成人」とは、まさしく成熟したキリストの弟子になるということです。本来的には、イエス様を信じたときから、クリスチャンはキリストの弟子なんです。でも、実際は「この世を愛し、同時に神様も愛します」という、二心で生きています。でもあるときに、「私の従うべきお方は、イエス様しかいない、イエス様は私の主です。主よ、あなたに従います」という決断が必要です。使徒パウロは、「すべての人をキリストにある成人して立たせるのはそんなに楽じゃないよ」と言っています。1:29「このために、私もまた、自分のうちに力強く働くキリストの力によって、労苦しながら奮闘しています。」まず、必要なのは、「自分のうちに力強く働くキリストの力」です。これは聖霊の力ということです。なぜなら、1:27「あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことである」と書いてあるからです。肉やがんばりでやるのではなく、キリストの力、聖霊の力によってなすということです。でも、その後に何と書いてあるでしょうか?「労苦しながら奮闘しています」。これは直訳すると、「骨折りしながら、格闘している」ということです。つまり、キリストにある成人として立たせるためには、聖霊の力だけではなく、骨折りと格闘が必要だということです。

 このコロサイ1:28,29は、韓国のサラン教会の玉ハンフム牧師(今は引退)がよく引用した言葉です。1990年に日本から70名くらいの牧師が韓国のサラン教会を訪れました。そして、3泊4日の弟子訓練プログラムを受けました。ものすごく力強いメッセージで、日本から来た牧師たちは圧倒されて、「これしかない!」と思ったそうです。でも、講師の玉先生は、そのため、体を壊し、元通りになるまで3年かかったそうです。私はその年には行けませんでしたが、小牧者訓練会なるものに入って、一生懸命、弟子訓練の学びを受けました。そして、1991年頃から、ディボーションとか弟子養成の学びを当教会でするようになりました。日本の多くの教会がこの弟子訓練プログラムを受け、「小牧者(信徒リーダー)を作るんだ!」とやっきになりました。今、お付き合いしている常磐セルの先生方のほとんどは、その実行委員であり、講師だったんですね。当亀有教会で、10年間くらい小牧者コンベンションの打ち合わせ会を開きました。でも、5,6年やってわかったのですが、小牧者というのはピラミッド型だということです。それは、韓国の文化、儒教の影響が流れているということです。「何かコントロールされているなー」という感じがしました。一人の小牧者からタコの足のように、5人から10人の弟子を養成していく。その後に、また一人の小牧者から、5人から10人の弟子が育つ。理論的にはものすごい数になるのですが、現実にはそうなりませんでした。それで、1995年から、もっとフラットなスタイルであるセルチャーチ方式を導入しました。セルとは共同体ということを意識した、教会形成です。セルによってイエス様の命令を果たしていくとうことです。

2.亀有教会の現状

 ぐっと話題は変わって、「亀有教会はどうか」ということをお話したいと思います。これからは、ちょっとなまなましい話になるかもしれませんので、シートベルトをちゃんと締めてください。きょう初めての方は半分、聞き流しても結構です。私は1995年に、セルを導入しましたが、それは、セルにすれば教会は自然と成長すると思ったからです。しかし、セルは教会の1つのシステムです。腕時計でも針で動くのもあれば、デジタルの時計もあります。手巻き式のもあれば、電池もあります。最近はソーラーで充電されるのが主流かもしれません。100万円もする文字盤に宝石がはいっている時計もあれば、1500円くらいの時計もあります。でも、時計の目的は何でしょうか?正確な時を教えてくれれば良いのですね?だから、針でもデジタルでも、電池でもソーラーでも手巻きでも構いません。問題はシステム(構造)ではなく、時間を教えてくれれば良いのです。ですから、教会には色々あって良いのです。私の母教会はプログラムとイベント教会です。すばらしい礼拝や特別集会を開いて、人々を集めています。格調の高いメッセージ、音楽、そして設備があり、まるでそれは劇場のような教会です。日本基督教団は典礼的(リタージカル)な礼拝を重んじます。長老会などの組織によって、なんでも会議で決めます。教会を動かすのは長老会とか伝統です。ペンテコステ系は、一人のカリスマ牧師が何でも決めます。上からのビジョンで進み、人々はそれに従います。教会を動かすのは一人の油注がれた牧師です。一歩間違うととんでもない方向に行きます。でも、セルチャーチは何でしょうか?キリストのからだであるすべての器官が動きます。だれの指示で?かしらなるキリストによってです。組織はフラットで、関係を重視し、神の家族のような共同体を目指します。

 私は「セルを導入すれば教会は自然に成長する」と思っていました。しかし、それは間違いでした。なぜなら、時計と同じようにセルも1つのシステムだからです。教会が教会として機能しなければ、たとえセルを導入しても、全く変わらないということです。1995年から、早天祈祷会、水曜祈祷会、家庭集会をすべてやめました。壮年会、婦人会、青年会も解体し、みんなセルでやるようにと提案しました。地域で分けたり、私が各家庭でやったり、任せたり、いろいろやりました。ゴスペルクワイヤーで救われた人たちも、新しいセルを作りました。でも、セルはいのちであります。セルとは細胞のことです。実は人間の細胞というのは、たえず生まれては死んで、生まれては死んでいっています。その期間はそんなに長くないと思います。セルグループには一生があります。最初集まったときは、ハネムーン期間です。小グループで集まり、「主にある兄弟姉妹って楽しいなー」という感じがします。その次は、葛藤の期間です。「えー、この人、こんなこと考えてんのー、最低!」「なんか、むかつくんだよねー」。仮面を剥がして、素で交わるからです。結婚生活も1年後くらいにはこういう時期を迎えます。その次は円熟期です。お互いの違いを受け入れ、愛し合うことを本当に学びます。どんな祈りの課題を出しても真剣に祈ってくれます。「私たちはずっとこのままでいたい!」と思います。でも、その後どうなるでしょう?セルは老化し、死を迎えます。もうその中に躍動する命がないのです。教会も1つの生き物です。でも、いのちがなくても、かたちや伝統でも教会は存続できます。でも、それはもはや宗教です。そういう人たちは、教会にいるときの顔と世の中でいるときの顔を使い分けています。当教会も、セルが死んでいる状態です。あるリーダーは「すべてのセルを解体してゼロからやったら!」と提案しました。何故、セルが死んだのでしょう?それは新しい人を加えなかったからです。セルは増殖することによって生き続けることができます。もし、細胞分裂をしないならば、その細胞は確実に死にます。新しい人が加わらないで、ずっと、同じ仲間、同じ人でやっているならば、やがてそのセルも、その教会も死んでしまいます。なぜなら、セルも教会もいのちだからです。

3.亀有教会の今後

ヨハネ15:1,2「わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。」最近、礼拝人数がかなり減っています。他の教会に移った兄姉もおられます。牧師としては非常に辛いことでありますが、この現状をしっかり受け止める必要があると思います。しかし、この教会は主の教会であり、羊も主のものです。ヨハネ15章には、「わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます」と書いてあります。私は「あー、神様が刈り込みをなさっているんだなー」と思っています。でも、その目的は滅ぼすためではなく、もっと多くの実を結ぶためであります。「正念場」という言葉がありますが、このままで行くか、それとも悔い改めて改善していくか決断をしなければなりません。もし、この事態を正しく受け止めるならば、この教会は再び成長していくのではないかと確信しています。そのためには、まず牧師である私自身が、「どちらで行くか」決断しなければなりません。伝統的な教会は「牧師は説教が上手であれば良い」というところがあります。あとは、役員会と協議しながら教会をそつなく運営していくということです。でも、セルチャーチを本気で目指すならば、それだけではダメです。何が必要かというと、関係を大事にしていくということです。牧師と会衆という関係よりも、もっと絆を強くしながら、コーチングやメンタリングをしていくということです。また、牧師自身が言行一致、つまり模範を示しながら様々なスキルを伝授していくということです。私はセルチャーチを作るといいながら、放任主義で、丸投げ的でした。フィードバックなし、コミュニケーションなしでした。伝道と弟子訓練を率先して行なうべきなのに、セルが死んでいくのをただ見ているような始末でした。

 セルチャーチの形成において一番、ブレーキになるのが日本の文化です。「果たして、日本にセルが合うのだろうか?難しいんじゃないだろうか?これだったら、伝統的な教会のやり方が良いのではないだろうか?」と悩んできました。なぜかと言いますと、日本人は本音と建前を使い分けて生きています。セルは本音の付き合いです。自分の弱さや罪をさらけ出して、互いに祈り、互いに助け、互いに愛し合う小グループです。でも、普通の人はそこまで心を開くのが難しいのです。もう、たくさん傷ついてきたからです。そのため、伝統的な教会は壮年会、婦人会、青年会など出入り自由のグループを持ちます。でも、どうしても表面的な話で終わってしまいます。ある先生は、「セルなんかやったら、かえって問題を引き起こすだけだ。分裂・分派を起こしてしまう」と言って、絶対やろうとしません。しかし、日本の文化に合わないからと言って、真の共同体作りを諦めて良いのでしょうか?問題は日本に合うとか、合わないかではなく、聖書が言っている教会を作るのが本筋です。私たちの交わりはこの世の人たちの交わりとは全く違います。主イエス・キリストによって罪から贖われ、神の国の民に加えられました。父なる神様のもとで、みな兄弟姉妹です。この世で死んだ後も、兄弟姉妹なんです。イエス様は「あなたがたが互いに愛し合い、一つになるなら、世の人たちは私の弟子だと認めるであろう」と言われました。そして、最初に誕生したのが、エルサレムの初代教会です。使徒2:44-47「信者となった者たちはみないっしょにいて、いっさいの物を共有にしていた。そして、資産や持ち物を売っては、それぞれの必要に応じて、みなに分配していた。そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。」彼らはあまりにも愛が溢れていたので、いっさいの物を共有していました。神の国の雛形がそこにあったのです。すばらしい共同体があったので、すべての民に好意を持たれ、主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださったのです。ある情報によりますと、○○学会という組織は、○○会長がお亡くなりになったら、大きく3つに分かれるそうです。その中の一派は、真面目な人たちで、キリスト教に大変興味を持っているそうです。そういう人たちが教会にどっと来るのです。でも、その教会が本物でなければ、がっかりして去って行くでしょう。私たちは聖書が言う、本物の教会を作らなければなりません。

 ですから、日本に合うか合わないかではなく、教会から新しい文化を作れば良いのです。日本は多くのものを外国から吸収し、和洋折衷でやるところがあります。でも、今の世の中をみますと、日本の文化に融合しない方がかえって良いものもあります。それは、ディズニーランドです。ディズニーランドにはディズニーランドの文化があります。みんな、そこへ行くのが楽しいんですね。また、ブラックゴスペルも日本に今なお広がっています。あれは、日本にはない音楽です。ある程度の年になるとリズムもなかなか身につきません。それでも、かなりの人たちがゴスペルをやりたいと毎週のように見学に訪れます。どうしてでしょう?日本文化にないものを人々が求めているからです。キリスト教は確かに西洋の衣を着ているところもあります。でも、聖書の世界観、聖書の価値観をもって、私たちが生きていくならば、やがてそれが文化になるのではないでしょうか?日本は他人の目を恐れて、生きています。日本はまさしく共依存の国であります。鬱病、不安神経症、パニック、摂食障害、統合失調症、人格障害、依存症…すべてとは申しませんが、人間関係の問題から来ているものです。病院やクリニックではなかなかなおりません。人間関係を癒すのは、やはり人間関係しかありません。もし、そういう人たちが愛の共同体の中で過ごすことができるなら、かなりの確立で良くなるだろうといわれています。セルは病気を癒すためだけではありませんが、そういう人たちをケアーする力があります。

ウェイン・コディーロが「教会の文化」についてこのように話していました。「すべての教会には、文化があります。もし誰かがあなたの教会に3日間集い、人々と出会い、話すなら、その人はその教会の個性を把握するでしょう。すべての教会は文化があります。それはあなたの願う文化ではないかもしれませんが、そこには必ず文化があるのです。もしあなたが一区画の土地を買い、肥料と水を撒いていくなら、数カ月後に何が生えてくるでしょうか?雑草だけです。もし教会に特定の文化を築きたいのなら、ただ肥料と水を撒くだけでは築けません。まず最初に、どんな果樹園を作りたいかを考えなければいけません。オレンジかリンゴか、それとも葡萄か、決断しなければいけないのです。そして『リンゴの果樹園』と決断したなら、リンゴ以外はすべて土地から取り除かなければいけません。そして蒔く種もリンゴの種以外は蒔かないのです。その後で肥料と水を撒くなら、リンゴの果樹園の実が結ばれます。教会の中にどんな文化を築きたいのか、考えないといけません。世界の教会の90%は、このことを考えていないように思います。そしていつも他の教会と比較するため、文化は常に変わり続け、混沌とした農園になっています。『どのような文化を築きたいか』を考えなければいけません。」私はずーと願っているのですが、新約聖書の教会を目指しています。それはイエス様を中心とした愛の共同体です。ですから、その文化にそぐわないもの、階級制度、儀式、議会制、律法主義などを取り除きます。その代わり、互いに励まし、互いに愛し、互いに罪を告白し、互いに祈り、互いに赦し合う、セルの文化を作って行きたいと思います。

しかし、これからの一番の課題は、教会は内向きではなく、外向き、つまり未信者がいるところに出かけて行くという宣教が課題です。イエス様がこのように言われました。マタイ9:37,38「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。」イエス様は「収穫は多い。収穫のことは心配するな!それよりも、働き手が少ない。働き手を準備しなさい」と言われました。ですから、ここにいるみなさんが、主の働き手となって、世の終わりに訪れる大いなる収穫をゲットしようではありませんか。

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2008年10月 5日 (日)

ああ、十字架  ガラテヤ6:11-18

 本日で、ガラテヤ人への手紙は終わりです。次回からはコロサイ人への手紙から続けて学びたいと思います。ところで、十字架には大きく分けて、2つの意味があります。第一は、十字架は救いのためにあります。主イエス・キリストは私たちの罪のために十字架に死んで、3日目によみがえられました。私たちは、このお方を救い主として信じるときに救われます。第二は、きよめられたクリスチャンになるためにも十字架があります。救われても、自己中心で、肉的に生きる場合があります。そのため、勝利がなく、この世の人たちとあまり変わりません。しかし、古い自分がキリストと共に十字架につけられ、死んだことを認めます。そして、キリストを信じる信仰によって新たに生きるということが大事です。

1.ああ、十字架

ガラテヤ6:15「割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。」「創造」ということばは、他の写本では、被造物と訳されています。この言葉と同じ意味のことばは、Ⅱコリント5:17です。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」「新しく造られた者」は、「新しい被造物」という意味です。クリスチャンは新しい被造物です。

ガラテヤの人たちは、「救われるためには福音を信じるだけではなく、割礼を受けて、モーセの律法を守らなければならない」と考えました。しかし、パウロは「そうじゃない。私たちは、福音を信じるだけで救われるんだ。割礼を受けるとは、行いによって救われようとする間違った道である」と主張しました。では、皆さん、福音を信じるとはどういうことなのでしょうか?私たちは何を信じて救われるのでしょうか?「イエス様を信じれば、救われるのでしょう?」と答えるでしょう。それでも間違いではありませんが、福音の内容が必要であります。それは、イエス様が私たちのために何をなしてくださったかであります。イエス様は私たちの罪の身代わりのために十字架で死んでくださいました。これを「あがない」とか「贖罪」と言います。本来は私たちが自分の犯した罪のために神からさばかれて当然だったのに、イエス様が身代わりにさばかれ、死んでくださったのです。ですから、「イエス様の十字架は、私たち、いや、私のためだったんだ!」と受け入れる必要があるのです。しかし、福音はそれだけじゃありません。イエス様は3日後に、よみがえられました。それは、私たちが新しく造られ、永遠のいのちを持つためです。ですから、イエス様の十字架と復活を信じる人は、だれでも新しい被造物になれるのです。

しかし、この世の人たちは、こうおっしゃるでしょう?「え、私がどんな悪いことをしたと言うんだ。警察のやっかいになるような悪いことはしていないぞ!人を罪人呼ばわりするとは、なんてひどい奴だ!」と言うでしょう。私もかつてはそうでした。「神なんかいるもんか。キリスト教は外国の宗教だろう!そんなの関係ない」と思っていました。そして、罪と欲のままに生きていました。でも、心の中は空しく、混沌としていました。心の中に、世の喜びや楽しみを入れても、入れても、一向に満たされないのです。罪とはギリシャ語で「的はずれ」という意味です。それは、神様から離れているために、霊的に死んだ状態です。楽しみや夢を持ったとしても、それは、ただ自分の腹を満たすためのものでした。あるとき、私は聖霊に示され「ダメもと」で信じたのです。「これまでの人生がこんなもんだった。これから先もこんな具合だろう。でも、この道を行ったら、聖書は永遠の滅びだと言っている。でも、イエスの道はどうもそうじゃないらしい。ダメもとでも良いから、イエス・キリストを信じてみようか?じゃあ、信じるよ。」こんな感じだったんですね。でも、それが新しい始まりでした。聖霊はイエス様を受け入れた私を新しく生まれ変わらせてくださいました。新しい命、永遠の命を私に与えてくださったんですね。救いの喜びは、今でも忘れません。あの時から、つまり受け入れた時から、ずっとイエス様は私と共におられます。ここにおられるクリスチャンは、私と同じ経験を持っているのではないでしょうか?

ここで問題とされるのは、洗礼の問題です。ユダヤ人は救われるためには、割礼を受けなければならないと考えていました。同じように、クリスチャンになるためには洗礼を受けなければならないのでしょうか?確かに割礼と洗礼と似ているところがあります。イエス様はマタイ28章で、「父と子と聖霊の御名によってバプテスマを授けなさい」と命じられました。でも、みなさん、洗礼と救われることは、イコールではありません。正確に言いますと、イエス様を信じて救われた人が洗礼を受けるのです。洗礼とは信じているということの外的証拠であります。人は洗礼を受けることによって、公にキリストの教会に属する者となるのです。別な言い方をしますと、信じていないのに洗礼を受けても神の国には入れません。洗礼は受けているけど、イエス様を信じていない人は、アメリカやヨーロッパにたくさんいます。そういう人たちは新生していません。つまり、キリストを信じていないので、新しい被造物になっていないということです。彼らは霊的に死んでおり、考え方もまったくこの世の人たちと全く同じです。当時のユダヤ人たちも、割礼を受け、モーセの律法を守ってはいたかもしれないけど、新しく造られた者にはなっていなかったのです。

ですから、このガラテヤ書を現代風に言うとこうなります。「洗礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です」となります。洗礼は救われるための、儀式ではありません。救われた人が、「私はキリストのからだなる教会に属しながら、神の国の完成を待ちますよ」ということなのです。アメリカは個人主義の国です。日本にも悪い意味の個人主義が入ってきました。みなさん、キリスト教は個人主義ではありません。確かに、イエス様を信じるのは自分個人であります。個人的にイエス様を心に迎えなければなりません。でも、信仰生活はひとりでするものではありません。教会という神の家族の中で、霊的に成長するために、どうしても洗礼を受けなければなりません。皆さん、この世では、結婚式をしなくても、結婚はできます。婚姻届を役所に出せば良いでしょう。でも、結婚式は神と人々の前で、約束することであります。そして、「みなさん、どうか今後ともよろしくお願いします」ということでしょう。同じように、クリスチャンは一人で生きるのではなく、神の家族という共同体に属しながら、互いに祈り、互いに励まし、互いに愛し合って生きるのです。これは神様のご命令です。まだ、イエス様を信じていない人は、イエス様を救い主として信じましょう。そして、洗礼を受けて、神の家族である教会に属しましょう。聖歌399番に「カルバリ山の十字架」という賛美があります。「カルバーリ山の十字架につきて、イエスは尊き、血しおを流し、救いの道を開きたまえり、カルバリーの十字架、わがためなり、ああ十字架、ああ十字架、カルバリーの十字架わがためなり」アーメン。キリストの十字架を感謝します。

2.きよめの十字架

ガラテヤ6:14「しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。このところに「世界」と書いてありますが、昔の口語訳聖書は「この世」です。私は「この世」という表現の方がぴったりすると思います。「この世」とは、神から離れている人間社会を指すことばです。使徒パウロは「私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません」と言っています。なぜでしょう?私たちは自分自身、自分がしたことを誇りたいという欲求が常にあるからです。だれしも、人から認められたい、ほめられたい、有名になりたいと思っているのではないでしょうか?牧師はそういうものから、きよめられたはずなのですが、やっぱりキリスト教会で有名になり、偉大な人だと言われたいという思いが心の奥底にあります。その証拠に、何かの大会会長になって壇の上に上ったり、名誉博士号をいただいたり、自分の記念誌を出したくなります。「先生」「先生」と人々から呼ばれて、喜ぶところがあります。でも、パウロは2つの方面から十字架以外に誇りとするものがあってはならないと教えています。

まず、パウロは「この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられた」と教えています。これはどういう意味でしょうか?世界、つまりこの世がまるで人格のあるように言われています。それは、この世の人たちが、「あなたはすばらしい。私たちの代表になってください」あるいは「名誉博士号を与えたいです」「教団の議長、大会会長になってください」と言うときです。気持ちはわかります。私も人から持ち上げられたら、悪い気はしません。この間、ゴスペルのレセプションに招かれたとき、一番最初に挨拶をさせていただいた時には悪い気はしませんでした。いやー、「ご招待」に弱いところがあります。しかし、この世がどんなに誘惑してきても、十字架につけて死なせるということです。同時にパウロは「私も世界に対して十字架につけられたのです」と言いました。これは、私自身が十字架につくということです。私たちはクリスチャンになっても肉(この世の欲)があります。人々から認められたい、この世で有名になりたい、人々から高められたい、権威と権力を持ちたいという肉があります。カルト的な教会の牧師は自分がさも偉い者のように言います。役員会をプッシュして、自分のために記念誌を発行させます。銅像は作らなくても、「できれば説教集とか著作集を出したい」とだれしもが思っているのではないでしょうか?

しかし、福音書を見ますと、イエス様は有名になりたいとは思っておられないことが分かります。あるとき、イエス様は耳が聞こえず、口のきけない人を癒しました。その時、イエス様は「このことをだれにも言ってはならない」と命じられました。しかし、人々は「口止めされればされるほど、かえって言いふらした」とあります(マルコ7:32-37)。イエス様はらい病人を癒したときも、少女を生き返らせたときも、「このことをだれにも言ってはならない」と命じました。私だったらクリスチャンの新聞に電話して、「ぜひ、取材に来てください」というかもしれません。ということは、私たちはイエス様と逆のことをしようとしているということです。旧訳聖書で、バビロンの王、ネブカデレザルは高さ約30メートルの金の像を造りました。そして、人々に「この金の像を拝め」と命じました。そのあとに、神からの預言がありました。「あなたは人間の中から追い出され、野の獣とともに住み、牛のように草を食べ、天の露にぬれます」と。ネブカデレザルの髪の毛は鷲の羽のようになり、爪は鳥の爪のようになりました。そして、7年後、理性が戻ってきました。その時、彼はどうしたでしょうか?「私はいと高き方をほめたたえ、永遠に生きる方を賛美し、ほめたたえた。その主権は永遠の主権、その国は世々限りなく続く。地に住むものはみな、無きものとみなされる」(ダニエル4:34-35)。神様は私たちにすべてのものを分かち合うお方です。しかし、栄光だけは別です。栄光は神様のものだからです。アーメン。

私たちは聖書のみことばを頭で信じていますが、自分の価値観になっていないところがたくさんあるのではないでしょうか?私は子どもの時、父から立身出世を説かれました。「人を利用してでも良いから偉くなれ!」と言われました。昔は、卒業する時に「仰げばとうとし」という歌を歌いました。「仰げばとうとし、わが師の恩…身をたて、名をあげ」という歌詞です。「身をたて、名をあげ」は、まさしく立身出世です。そういう価値観を持ったままクリスチャンになるとどうなるのでしょうか?教会が大きくなることが、自己目的になります。「リバイバル、リバイバル」と祈りながら、「俺を馬鹿にしたやつら、今に見ておれ!」と思っていたら、おかしいですね。教会が大きくなって、自分が有名になる。そして、セミナーや講演会に招かれる。本でも出版して、老後は悠々自適に暮らす。これは、私が思っていたことですが、やっぱりどこかおかしいですね。使徒パウロやイエス様は全く反対の生き方をしていました。私は「リバイバルは何か」ということをずっと考えてきました。「リバイバルとは大ぜいの人々が救われて、教会が大きくなることだ。クリスチャンが10%以上、増えれば、世に対して影響力を持つことができる」と考えていました。みなさん、これだったらどこかの学会と同じであります。ケニヤでは90%がクリスチャン、大統領もクリスチャン。でも、政府の汚職は、はなはだしいということです。アフリカのある国では、午前中は教会に集まって、神様を礼拝する。でも、午後になると敵対する部族を殺しに行くそうです。たとえリバイバルが起きても、こういう教会だったら、何にもならないですね。私たちはただ、数に頼るのではなく、旧約の預言者たちのように、神様の前に真実であることを求めたいと思います。

2004年にインドネシアからエディ・レオ師が当教会に来られました。そのとき、先生はこのように言われました。「私はたくさんのいろんな国々を訪れたが、いろんなすばらしいリバイバルが起きている。そして、リバイバルについてのいろんな話を研究してきた。そして私はことのことを発見した。ほとんどのリバイバルが30年間、40年間続いてからしぼんでいく。一番大きなリバイバルの1つは韓国で起きているリバイバルである。しかし、私は何度も韓国を訪れているが、韓国のクリスチャンたちは『エディ先生、韓国のために祈ってください。私たちの教会は今、減少しています。若者たちは教会から去って行ってしまった。もう彼らは日曜日教会に来ようとしない。彼らはディスコに行ってしまう。この世的なことをやっている』。韓国は離婚率ということでは世界でアメリカに次ぐ第二位の国になった。そしてまた、中絶に関しては、世界で一番多い国になってしまった。私たちの技術は今、最先端のところに行っている。私たちに知識が足りないからではない。それは、人々の道徳の低下のゆえである。そして、聖書はそのことを預言している。Ⅱテモテ3:5「見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者になるからです。こういう人々を避けなさい」。このことこそが、リバイバルを失っていかないために支払わなければならない代価である。大抵の場合、教会はリバイバルを経験する。「ああ、もう燃えている。ああ、すごく霊的になってきた。」しかし、その後、人々は敬虔の力を失ってしまう。敬虔さから生じる力を失ってしまう。見かけは、敬虔かもしれない。しかし、その人たちの生活をよくよく調べてみると、その敬虔さの力というものがない。」

 敬虔さとは、どういう意味でしょうか?英語では、godlinessと言います。その意味は「神様のようである」ということです。神様のようになって行くということです。それは簡単です。それは、イエス様のようになって行くことです。私たちの目標(ゴール)はイエス様のようになって行くことです。しかし、今日の教会の目標はイエス様のようになるということではありません。私たちの目標は他のことに向かっています。多くの教会にとっての目標は何でしょうか?教会が大きくなることです。力のあるダイナミックな教会になることです。でも、敬虔さの力には欠けています。今日の教会の目標は何でしょうか。栄えることです。「イエス様を信じなさい。あなたはイエス様を信じるなら、お金持ちになりますよ」。「イエス様を信じなさい。あなたの問題は自動的に解消されますよ」。「あなたは人生を楽しめますよ」。「すばらしい人生が待っていますよ」。このような福音を語ります。しかし、イエス様のようになるというところにフォーカスが向けられていません。私たちの教会は、「イエス様のようになる」という目標を持っているでしょうか?みなさんのセルグループはどうでしょう?「イエス様のようになる」ということに焦点を当てているでしょうか?もし、私たちがイエス様のようになるということに焦点を合わせるならば、リバイバルが起こるでしょう。そして、そのリバイバルは消えてなくなることはありません。ですから、みなさん、イエス様のようになりましょう。アーメンです。

私たちはイエス様を信じていると言いながらも、この世の価値を十字架につけようとしません。「イエス様も信じますけれど、この世でも楽しく暮らして、できたら有名になりたいです」。聖書はこういう人たちを「二心の者たち」と言います。私たちの心の中になぜ安定がないのでしょうか?それは神様を愛し、同時にこの世も愛しているからです。神様からも認められたいが、同時に人々からも認められたいのです。しかし、それは不可能です。イエス様はこのようにおっしゃいました。マタイ6:24「だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」アーメン。私たちはどちらかに死ぬしかありません。神に対して本当に生きるためには、この世に対して死ぬかしかありません。実は、この世に対して死ぬならば、信仰生活はとても楽になります。既に、死んでいるんですから、あなどられても、馬鹿にされても、痛くもかゆくもありせん。おだてられても、ほめられても、高慢になりません。でも、実際は、馬鹿にされたら腹が立ちます。ほめられたら、嬉しくなります。みなさん、これが肉なんですね。この肉は天国に行くまで治りません。常に私たちに付きまとうのです。ですから私たちは「日々、自分の十字架を負って」イエス様に従っていくしかないのです(ルカ9:23)。この十字架とは他の人のためではなく、自分がつけられる十字架です。まさしく私たちは、「この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです」ということを告白していくしかないのです。十字架は私たちを罪から救う力があります。また、同時に十字架は私たちを罪から解放する力があります。どうぞ、十字架をいつも身におびて、行きましょう。私たちの生活に、十字架を適用するならば、同時に新しい創造、新しいいのちが生まれるからです。アーメン。

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