« 2008年8月 | トップページ | 2008年10月 »

2008年9月28日 (日)

蒔き刈りの法則   ガラテヤ6:6-10

 秋は収穫の季節です。もう新米が出ています。稲の場合は、春に蒔いた種が、たくさんの米粒となって収穫できます。りんごや梨も、かつては小さな種でした。それが大きな木になって、たくさんの実を結びます。蒔いたら刈り取る、これは自然界だけにあてはまるのではなく、私たちの生活にもあてはまります。では、蒔くとはどういう意味でしょうか?蒔くとは、行動を蒔く、何かを投資するということでしょう。そして、ある一定の時間が経つと、その結果が現れるわけです。たとえば、真実な行ないをしているならば、信用を刈り取ることができます。また、甘いものや脂っこいものを食べ続けるならば、メタボを刈り取ることになるでしょう。悲しみや憂いを蒔き続けるならば、病気を刈り取るかもしれません。皆さんのように神様のために時間と富をささげるならば、幸いと祝福を刈り取るでしょう。アーメン。

1.どちらを蒔くか

ガラテヤ6:7,8 「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。」使徒パウロは二通りの蒔き方があると教えています。第一は自分の肉のために蒔くならば、滅びを刈り取るということです。第二は御霊のために蒔くならば、永遠のいのちを刈り取るということです。では、自分の肉のために蒔くとはどういう意味でしょうか?それはガラテヤ5章に書いてあった、肉の行ないをし続けるということす。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興などです。パウロは「こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません」と言いました。つまり、これは「肉から滅びを刈り取る」ということと一致しています。私は25歳のとき、クリスチャンになりましたが、それ以来、別の道を歩んできました。お酒やタバコもやめました。だれも「私にやめなさい」と言ったわけではありません。ちなみに私を信仰に導いてくれた職場の先輩はずっとタバコを吸っていました。私がタバコを吸っていたのは、話の間が持てなくて吸っていただけです。また、どういう訳かパチンコもマージャンもやめました。やめようと思った訳ではありませんが、やる暇がなくなったからです。たまに、子どもとイトーヨーカードの6階に遊びに行くことがあります。そこに行くとパチンコの台があります。ウルトラマンが出てくるものですが、あんまり面白くないですね。でも、そういうものをやめたので、健康が支えられているのかもしれません。

肉のために蒔くと言ってもいろんなものがありますが、すぐに害になるわけではありません。何年も何十年も続けているうちに、肉体、人格、あるいは霊的な分野に顕著な形で現れるのでしょうね。リンカーンは「40歳を過ぎたら自分の顔に責任を持て」と言いました。ある記事を見ましたが、「リンカーンは果たして麻生さんを閣僚に選んでいただろうか?」と書いてありました。麻生首相は若い頃、端正といってもいいくらいの好青年だったそうです。「長い間、政治家をしていたので今のような顔になったのではないか」と書いてありました。政治は、まさしく「党派心、分裂、分派」の世界であります。敵意や争い、嘘もあるかもしれません。そういうところに身をおいていますと厳しいですね。私たちは、生きる環境を肉の行いの少ない方を選ぶべきであります。そして、積極的には御霊に蒔く生き方をしたいと思います。

御霊に蒔くとは、ガラテヤ5:22,23のことでしょう。「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です」とあります。これらは御霊の実です。キリストにつながり、御霊によって生きるとき、だんだんとそういう実が結ばれていくのです。御霊の実と対比されるのが、御霊の賜物であります。御霊の賜物とは神様に仕えるためのいろんな能力です。御霊の賜物が与えられるのは時間がかかりません。そして、あまり苦労もしません。聖霊から一方的に与えられるからです。しかし、御霊の実は、いろんな環境や状況の中で、試され、練られ、あるときは砕かれ、忘れられ、無にされ、けちょんけちょんにされてできてくる。神様は、私たちをそういう所をあえて通らせるようです。そうするうちに、愛、喜び、平安、寛容…自制の実が膨らんでくるのです。最高に甘いトマトをどのように作るかご存知でしょうか。トマトを荒地に植えて、水をほとんどやらない。そして、日をじりじり照らす。すると甘いトマトがなるそうです。私もかつてトマトを植えたことがあります。枝と葉っぱだけが大きく育って、肝心のトマトはそんなになりませんでした。トマトを甘やかしたのかもしれません。

この間、ベン・ウォン師のコーチングセミナーがありました。最後の日このように言われました。「教会にしても個人にしても、自分でもどうにもならないような状況に身を置くことができるだろうか?大半の教会やクリスチャンはいつも自分にとって安全な状況を確保しようとする。私たちは安全地帯にいて、安全地帯の中でいつも動こうとしている。自分たちがちゃんとコントロールしている、把握している中で活動している。しかし、信仰をもって安全地帯を離れることが難しい。あえて、自分にはどうにもならないようなところに身を置く。『私にはできない』という困難に直面する。自分が死ななければならないような状況こそ、神様に叫び求める。そこで、私たちの信仰が成長する」とおっしゃっていました。愛や喜び、平安や寛容も、平坦で何も問題がないところでは育ちません。愛せない人たち、喜べない状況、平安が持てない環境、寛容になれない出来事…そういうところを幾度か通されて、キリストの品性という実が実るのではないでしょうか。柔和とか自制もまさしくそうであります。モーセが柔和になったのは、荒野の40年間があったからです。エジプトの王子から一介の羊飼いになり、人々から忘れ去られ、年ばかりくってしまった。そういうところを通らされたからです。ヨハネやパウロだって最初は愛の人とは思われません。結構、怒りっぽくて、頑固だったでしょう。でも、いろんな苦難を経て、キリストの愛があふれてきたのではないでしょうか。わぉー、私たちの人格、品性、これはぼんやりして生み出されるものではありません。イエス様に必死につながり、イエス様に必死に従うときに、生み出されるものではないでしょうか。アーメン。

2.蒔き刈りの法則 

「エリヤハウス」という「癒しと変革」を行なうミニストリーがあります。1つのカウンセリングでありますが、とても良いものです。ところで、神様はこの自然界を造ったときに、いくつかの法則を与えました。科学者があとからそれを発見したわけです。万有引力の法則とか作用反作用の法則…いろいろあります。自然界だけではなく、神様は道徳上の法則も与えました。このエリヤハウスの働きは、4つの神の法則に基づいています。

①あなたの父と母を敬え

 これは十戒の第五番目です。申命記5:16「あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が命じられたとおりに。それは、あなたの齢が長くなるため、また、あなたの神、主が与えようとしておられる地で、しあわせになるためである」。

②さばくとおりさばかれる

 マタイ7:1,2「さばいてはいけません。さばかれないためです。あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです」。

③種を蒔けば、その刈り取りもする

 このことが本日のテキストに書いてあります。ガラテヤ6:7,8「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。」

④すべてのことが増加する

マタイ13:8「別の種は良い地に落ちて、あるものは百倍、あるものは六十倍あるものは三十倍の実を結んだ」。農夫が1粒の種を蒔いて、1粒の実を期待する人はいません。何十倍かの実りになって返ってきます。本来、神様は祝福のために、増加の法則を与えました。しかし、人間が罪に陥ってから、1つの罪が何十倍にもなって自分に返ってくるという呪いにもなりました。

今の4つの法則をいくつかの例によって説明したいと思います。たとえば、自分が小さいときに、父もしくは母に対して、さばいたとします。それは、1つの種を蒔いたことになります。そして、自分が大きくなって、自分の蒔いた種が成長し、実を結びます。そして、それが自分に返ってくるのです。それはいつですか?自分が父もしくは母になってから、子どもから同じようなしうちを受けるということです。それだけではありません。自分の周りの父もしくは、母のような存在から、どういう訳か好意を受けない。なぜなら、自分の中に目上の人を敬うことのできない気質があるからです。また、自分の部下や後輩との関係も悪い。なぜなら、自分には彼らを受け入れ、面倒みるという父の心がないからです。これが、エリヤハウスの中心的な、考え方です。なんだか、因果応報的でありますが、結構、当たっています。

エリヤハウスにキャシーという先生がおられます。彼女が子どものとき、お母さんは怒ると、部屋にとじこもり鍵をかけて3日も4日も出てこなかったそうです。彼女は「お母さん」「お母さん」とドアをノックしました。そのとき、彼女の心の中に裁く気持ち、苦々しい気持ちが起こりました。そして、「絶対、私は家族に対してそういうことはしない!」と決意しました。やがて、キャッシーさんは結婚して家庭を持ちました。どうなったでしょう?何か家族で不和が起こると、キャッシーさんは部屋に閉じこもり鍵をかけました。お母さんと同じように、家族を傷つけてしまったのです。お母さんは心が不安定な人だったのですが、キャッシーさんも不安定でした。やがて、鬱病になりました。もちろん、あとから癒されましたが、お母さんと同じことを気づかずにしていたということです。みなさんの中にそういうことはないでしょうか?お父さんとの関係はどうでしょうか?小さいときに怒りとかさばきの種をまくと、あとから自分自身に帰ってくる。種ですから、一定の時間がかかって、実になるんですね。自分が結婚して、子どもを持つようになると、「ばっ」と現れるとか…。自分じゃ、「父や母と同じようなことをしないぞ!」と誓ったとしても、同じことをしている。それが、子どもから子どもへと連鎖していきます。

でも、ここに救いがあります。神様は人間が罪の種を蒔いて、その結果によって自分自身が破滅することをご存知でした。時が満ちて、神様は、この地上にイエス・キリストを送ってくださいました。Ⅱコリント5:21「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです」。罪のないイエス様が私たちと1つになってくださいました。私たちの憎しみ、恨み、欲望、不信仰、内側にあるあらゆる醜いものと1つになってくださったのです。そして、イエス様は十字架にかかり、本来ならば、私たちが受けるべき罪の報いをその身に受けてくださったのです。つまり「蒔けば刈り取る」という法則に対して、イエス様の十字架が歯止めとなってくださるということです。本来、私たちが受けるべきダメージが十字架で解消されるということです。「十字架のかげに」という賛美があります。おおー、私たちは罪と呪いが自分にふりかかろうとしているとき、十字架のかげに身を隠すべきです。「どかーん!」ものすごい音がします。でも、この身は大丈夫です。

では、具体的にはどのようにしたら良いのでしょうか?エリヤハウスは5本の指ということを言います。つまり、5つの段階で解決していくということです。認識、悔い改め、赦し、十字架につけて死なす、新しい命をいただく。でも、一番、重要なのは認識、気づくということです。私たちは結構、気づかないで同じことを繰り返しています。もう、それが習慣とか性格にまでなっています。では、どうしたら気がつくのでしょうか?それは、実を見るとわかります。イエス様は「良い木はみな良い実を結ぶ」とか「実によって彼らを見分けることができる」と言われました。私たちの言動というか、生活を見てどうでしょうか?いろんな実があります。良い実もあれば、悪い実もあります。怒り、中毒、忍耐不足、ねたみ、様々な欲望…という悪い実があるでしょうか?悪い実を取ろうとしても無駄なことです。つまり、行ないや考え方を変えようとしても、根本的な解決にはなりません。その実がどこから来ているのか?根っこをさぐらなければなりません。今、起こっていることも大事ですが、その元がどこから来ているのか?根をさぐることが大事です。多くの場合、たどっていくと、それは子ども時代にあります。そこに立ち返って、主の癒しを受けるということです。

3.新しい種をまく

 何故、自分は人と関わることが面倒なのだろうか?何か言われるととても傷つく。挨拶ぐらいなら良いけど、親しく交わることができない。皆さんは、そういうところがないでしょうか?大体、そういう場合は、子どものとき親から拒絶されて、悲しい思いをした人が多いです。お父さんと楽しく遊んだという経験がない。お父さんは気難しくて、いつも怒っていた。小さなことでも頭ごなしに叱られた。自分は価値があって、すばらしい人間だと思ったことが一度もなかった。子どものときに、「拒絶に対する恐れ」という種を蒔いてしまったのです。そういう人に「自信を持って、出て行けば大丈夫よ!」と言っても無理ですね。本当に、子どもの自分が、イエス様から抱きしめられ、はぐくまれ、いのちをいただく必要があります。私は子どもを育てて癒されたところがあります。彼らには「よく生まれてきたねー」「賢いよー」「かっこよいよー」とか、よく言いました。自分が言われなかったからです。でも、自分でそのように子どもに言っていると、自分自身が、癒されたところがあります。

でも、ベン・ウォン師のコーチングを受けて、エリヤハウスだけじゃ足りないなーと思うようになりました。現在、実っている悪い実は、エリヤハウスは子どもの頃に原因があると言います。だから過去をたどって、そこを悔い改め、十字架につけて、新しい命をいただく。確かにある面はすばらしいと思います。でも、新しい良い実はどう結ばれていくのでしょうか?それはこれから新しい種をまいていくしかありません。コーチングはカウンセリングと違って、これから先のことを考えます。「あなたは10年後、どのようになりたいですか?あなたの青写真を見せてください。そのために、あなたは今、何ができるでしょうか?」そのように未来のところから、今のところに戻ってきます。ベン・ウォン師はいろんなチャレンジを与えてくれます。たとえば、「教会の活動を外でやれ!そうすれば新しい人を加えることができる。メッセージを語るだけでなく、一人ひとりと関係を作れ!そうすればキリストの弟子をつくることができる」。こんなふうに言います。でも、長年やってきたスタイルを変えるということは大変です。「遅蒔きながら」という表現がありますが、今からじゃ、手遅れじゃないかという気持ちがいつもあります。このまま進むのは楽です。でも、10年後も今といくらも変わっていないでしょう。では、10年後のために、今から新しい種をまくならどうでしょうか?

ですから、みなさん、私たちの生活を変えるためには2種類必要ですね。カウンセリングのように過去に原因をさぐり、そこを癒していただく方法です。しかし、もう1つは将来を見つめ、どのようになりたいのか?そのために、新しい行動をまいていくということです。今、板橋の先生をコーチングしています。その先生は、「池袋で路傍伝道とか癒し一緒にしよう」と言います。私は「そうだなー」と言いながら、心の中では「恥ずかしいからイヤ」という思いがあります。正直、路傍伝道では、人は救われません。でも、それをやることによって性格が外向きになるということです。だんだんと、慣れてきて、新しい人に伝道できるようになるということです。当教会は内向き過ぎます。その原因は、牧師が内向きだからですね。セルチャーチは、人に指をうけると3本の指がこちらに向きます。「そういう、お前はどうなんだ!」と言い返されます。つまり、模範を示しながら教えていくということです。しかし、こういうやり方は従来の教会と随分違います。これまで私たちは教えて、教え、さらに教え、教えっぱなし。現場でやってみるということがほとんどありませんでした。現実を認めることは辛いことです。台湾の姉妹から7ポイントを指摘されました。自分の欠点を認めると、自分が崩壊してしまいそうな気がします。「今までやって来たことは無駄だったのか?」とイヤーな気持ちになります。でも、ここに秘密が隠されています。新しい種をまくためには、新しい耕地を耕さなければなりません。そのために、木の株をひっこ抜いたり、石ころをどけなければなりません。しばらくそこは畑じゃなかったのです。あきらめていた分野だったからです。でも、10年後、20年後に実がなるように、今から種を蒔くべきではないでしょうか?良いものを得るために新しい種を蒔きましょう。そしてそこに、伝道の種を蒔きましょう。神の国の拡大のために良い種を蒔きましょう。

ガラテヤ6:9、10「善を行なうのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。ですから、私たちは、機会のあるたびに、すべての人に対して、特に信仰の家族の人たちに善を行ないましょう。」

|

2008年9月21日 (日)

互いに重荷を  ガラテヤ6:1-5

 「互いに重荷を負い合う」と言われていますが、重荷とは何でしょうか?できれば、重荷なんか負いたくありません。しかし、この世においては、負わなければならない重荷もあります。なぜなら、私たちは家庭とか、地域社会、教会という共同体で生活しているからです。私たちが互いに負うべき重荷には3種類あると思います。第一は、自分がやるべきことです。仕事とか家事、学業など、生活一般のことです。それは、「責任を負い合う」ということです。第二は罪に関することです。クリスチャンは罪を赦された者ですが、この世に生きている限り、また罪を犯す可能性があります。そのため、罪を犯さないように、互いに助け合うということです。第三は教会における牧師と信徒の関係です。これは、霊的なものと経済的なものを負い合うということではないかと思います。

1.責任を負い合う

 私たちはこの世に生を受けた瞬間から、生きていかなければなりません。人の世話にならなければならない時もありますが、自分自身でなんとかしなければならないこともあります。子どもは学校に行くと、宿題とかいろんなことがあります。主婦ですとお洗濯や食事、家族の世話があります。会社に行けば、いろいろやるべき仕事があります。ガラテヤ6:2「互いの重荷を負い合い、そのようにキリストの律法を全うしなさい」とあります。また、5節には「人にはおのおの、負うべき自分自身の重荷があるのです」と書いてあります。この2つの聖句を、合わせると、とても大切な真理が見えてきます。どんな真理でしょうか?一方では「互いに重荷を負い合い」と言っていますし、また他方では「人にはおのおの、負うべき自分自身の重荷があるのです」と言っています。つまり、こういうことではないでしょうか?人には自分で負うべき重荷もあるし、互いに負い合うべき重荷もあるということではないでしょうか?表現を換えますと、人の重荷の中で、負って良いものと、負ってはいけないものもあるということです。それを負ってしまったら、自分もダメになるし、その人自身もダメになるということです。これを心理学では、バウンダリー(境界線)を犯すとか、共依存と呼んでいます。

 日本人は甘えの構造を持ち、自分の責任と他者の責任の境界線があいまいです。特に家族や身内の場合は、よけいなことまで干渉する、いわゆるお節介が多いようです。テレビ番組に「渡る世間は鬼ばかり」というのがあります。腹が立ってくるので、ほとんど見ないのですが…。あるとき、お母さんが、お孫さんに対して「おばあちゃんの面倒をみなさい」と言っていました。また、夫の妻の問題に対して、姑としゅうとめ同士が争っている。ある兄弟の家庭のことに、他の兄弟が口をだしている。境界線がないというか、入り乱れています。家庭の中心は夫婦です。たとえ、自分の子どもであろうと、相談されない限りは口を出すべきではありません。今は、核家族が多いので、そういうことはないかもしれません。でも、親子の共依存は多いかもしれません。

朝、お母さんが、大声で子どもを起こす。子どもが朝ご飯食べている間に、お母さんはランドセルに勉強道具を入れてあげる。子どもが学校から帰ると、宿題を手伝ってあげます。子どもは夕食を食べたら、後片付けもしない。さらには、子どもが入る学校、就職先、結婚相手まで決めてあげる。結婚してからも、問題がある度ごとに実家に電話がかかってくる。嫌になって離婚したと、実家に戻ってくる。これが負ってはいけない重荷を親が負った場合です。子どもに自主性がなくなり、自分で決めることができない。だから、自分がしたことに対しても責任がとれないのです。アメリカの話ですが、子どもが麻薬で6回も留置場に入れられました。お母さんは息子が麻薬で捕まるたびに、保釈金を積んで釈放していました。一人の麻薬から解放された男性が言いました。「私もかつて麻薬中毒だったけど、刑務所に入って本当に良かった。そこで、回復のためのトレーニングを受けられたし、イエス様も信じられたよ。お母さん、息子さんを本当に愛しているなら、7回目はそのままにしておいたら良いよ」と言ったそうです。

 特に何かの依存症の場合は、負って良いものと、負ってはいけないものをはっきりしないとダメだそうです。アルコール、薬物、ゲーム、性、ギャンブル…いろいろあるようですが、その人が困っているとき、身近な人が助けてあげます。本当は当人が苦しみのどん底で、「ああ、もうやめよう」と決断するしかないのです。だが、その前に、身近な人が「可愛そうだから、見てられない」と、救ってあげる。だまっていると、暴力を受けるので、お金を渡したり、何かしてあげる。そうすると、当人はずっと中毒の中に居座るわけです。このように依存者を脇で助ける人を、共依存と言うそうです。共依存の人たちには、やさしい人が多いのですが、いつも怒りと不安の中で生活しています。どうしてそういう風になってしまうのか不思議です。おそらく、子どものときに、酒乱のお父さんもしくは、ヒステリーのお母さんを助けたんじゃないかと思います。「自分がだれかの言いなりになっている、コントロールされている。」良い気分じゃないですよね。でも、可愛そうなので、つい、また手を差し伸べてしまう。そういう人はベルトをはずして、父なる神様と結びついたら良いですね。自分にできないことは、神様にゆだねる。私たちは他人を変えることはできません。変えられるのは自分だけです。

私は丸屋先生からカウンセリングについて学んでいますが、共依存は良くないが、相互依存は良いということです。夫婦も半人前と半人前が結婚するのではありません。経済的にも精神的にも、一人前と一人前が結婚して、家庭ができるわけです。自分のすべきことは自分でする。でも、疲れていたり、仕事がいっぱいで、できないときもあります。そういう時はお願いする。私は人にあまりものを頼むのが苦手です。自分で全部やってしまうところがあります。お互いに協力したら、もっと大きなことができます。教会はチームワークを学びながら、神様に仕える場ではないかと思います。互いに重荷を負い合いましょう。

2.あやまちを負い合う

 ガラテヤ1-3「兄弟たちよ。もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい。だれでも、りっぱでもない自分を何かりっぱでもあるかのように思うなら、自分を欺いているのです。」私たちクリスチャンは、イエス様を信じたとき、新しく生まれ変わりました。それから、神の種が内側に入り、故意に罪を犯すことができなくなったのです。でも、私たちには肉の性質や弱さがありますので、誘惑に負けて罪を犯すときがあります。それをガラテヤ書は「あやまちに陥ったら、正してあげなさい。そのことが互いの重荷を負い合うことだ」と言っています。そのとき、相手の悲しみや苦しみを思いやり、回復できるように励ます。また、自分は優越感にひたるのではなく、自分の行ないをよく調べる必要が常にあるということです。つまり、自分もだれからあやまちを正してもらわなければならない時があるということです。これを「責任を負い合う関係」と言います。英語では、アカウンタビリティと言うようですが、「説明責任」と訳すと、とても堅い感じがします。「どうして汚染米を転売したんだ。さあ、納得のいくように説明をしてもらおうか」ではありません。兄弟姉妹同士で、罪を犯さないようにあるいは、犯した罪から立ち直れるように助け合うということです。

しかし、日本人は面と向かって、注意するということがとても苦手です。裏では「こうなんじゃないの」と言えますが、当人に話すことができない。マタイ18章でこう書いてあります。マタイ18:15、16「また、もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです。もし聞き入れないなら、ほかにひとりかふたりをいっしょに連れて行きなさい。ふたりか三人の証人の口によって、すべての事実が確認されるためです」私たちは、当人を飛ばして、第三者に「どうしよう」と、持ち込んでしまいます。いろんな人を回りまわって、当人の耳に入ってくる。そうすると、問題が複雑になり、傷も深くなります。私たちはそういう面で、訓練が必要です。最近はブログがあり、何でもかんでも書く人がいます。そして、事情を良く知らない人が、「それはひどい!あなたはこうすべきよ!」などと書き込む。すると、よけい問題がややこしくなります。いくら、テクノロジーが発達した今日でも、問題を感じた当人同士が話し合う。これより勝るものはありません。牧師も罪を犯す存在です。ベン・ウォン師がおっしゃっていました。香港で勇名な牧師がある罪を犯しました。そのとき、何人かの牧師たちは「やっぱりそうだったのか、薄々、感じてたんだよなー」と話していたそうです。そばで聞いていた、ベン・ウォン師は、「分かっていたらどうして、その先生のところへ行ってあげなかったのか!」と怒りを覚えたそうです。

私たちは責任を負い合う関係がとても必要です。こういう大勢の会衆では、そういう関係を持つのは不可能です。身近な兄弟姉妹、2人、多くて、5,6人のメンバーが必要なのではないでしょうか?私は10年以上も前からセルとかLTGということを申し上げています。本当に日本では無理なのか、悩んでいますね。問題が深刻になってから、牧師とかカウンセラーのところへ持って行きます。でも、その前に、お互いに分かち合って、祈り合ったら解決するんじゃないでしょうか?アメリカのある刑務所で、セルを導入したそうです。多くの場合、出所してもまた戻ってくる。彼らのために莫大な税金を費やしても良くならない。それで、セルを導入したら、戻ってくる人が数%になったそうです。教会はセルを持つことによって、いろんな悩みを解決することができます。自分の頭はかくことができますが、背中をかくことはできません。肩や首が凝っているとき、自分ではもむことができません。だれかにもんでもらうと、すっきりしますね。神様は私たちが共同体で生きるように、造られたんじゃないでしょうか。そのために、お互いが責任を負い合う。あやまちを犯したら重荷を負い合う。どうしたら良いでしょう。やはり、前もって、「お互いに責任を負い合いましょう。私に時々、チェックしてね。私もあなたのことをチェックしてあげるから」とお願いしておくのが良いですね。「この1週間ディボーションしましたか?失望落胆にはまっていませんか?性的罪やアルコールから守られていますか?」しかし、私にそういう人がいないのに、「教会員にしなさい」というのも無理な話かもしれません。私も常磐牧師セルやセルチャーチネットワークに属していますが、そこいら辺をもっと強くしなければならないと思います。10月に菅谷先生をお招きしますが、そういうこともぜひ、お伺いしたいと思います。

ヤコブ書にすばらしいみことばがあります。ヤコブ5:16,19,20「ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表わし、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。・・・私の兄弟たち。あなたがたのうちに、真理から迷い出た者がいて、だれかがその人を連れ戻すようなことがあれば、罪人を迷いの道から引き戻す者は、罪人のたましいを死から救い出し、また、多くの罪をおおうのだということを、あなたがたは知っていなさい」。初代教会の頃は、「お互いに罪を言い表し、互いのために祈る」ということが普通になされていました。しかし、中世から、教会に行って、箱の中にいる司祭の前で懺悔する習慣ができました。箱の中ですから、顔を見ないで、罪を言い表して帰ってこれる。しかし、それは聖書的ではありません。もし、兄弟姉妹のだれかに罪を言い表し、「私のために祈ってね」とお願いする。すると、その人は「ああ、私はあの人から祈ってもらっているんだ」と楔の役割を果たすでしょう。随分、前の話しですが、私はある姉妹から「私はとても怒りっぽいの。子どもたちに対して一度怒ったら、止まらないの。だから祈ってください」と頼まれたことがあります。実はその頃の私もそうでした。親からよく叩かれたので、子どものお尻をスパンクしたとき、1回で良いのに、3回、4回叩いてしまう。その姉妹の気持ちが分かりました。それで、お祈りしたことがあります。そういう身についてしまった習慣は、自分で祈ってもなかなか直りません。やはり、だれかから、「実はこうなんです」と告白して、祈ってもらう。すると、癒されるのですね。ヤコブも言っています。「互いのために祈りなさい。いやされるためです」と。これは、肉体の病気ではなく、心の傷のことを意味しているそうです。

3.経済(物質)負い合う

ガラテヤ6:6「みことばを教えられる人は、教える人とすべての良いものを分け合いなさい。」

飛んで、7節と8節には「人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです」と書いてあります。みことばを教えられる人は、教会の信徒(クリスチャン)のことを指していると思います。教える人は、教師とか牧師、伝道者を指すのではないかと思います。マルチン・ルターは万人祭司説を唱えました。だれでもが、イエス・キリストによって神の御前に立つ事ができる、身分の上下はないということです。しかし、新約聖書を見ますと、フルタイムで仕えている、人たちもいたことがわかります。Ⅰテモテ5:17,18「よく指導の任に当たっている長老は、二重に尊敬を受けるにふさわしいとしなさい。みことばと教えのためにほねおっている長老は特にそうです。聖書に「穀物をこなしている牛に、くつこを掛けてはいけない。」また、「働き手が報酬を受けることは当然である。」と言われているからです。初代教会は、教会の運営にあたる長老と、みことばを教える長老がいたようです。後者の長老は、現代の牧師と同じであると思います。人数の少ない開拓教会は、そうでもないようですが、一般的には牧師がみことばの教えに専念する方が良い仕事ができます。私はプロという表現は反対ですが、学びと訓練を受けた者が説教を語る方が、効率が良いと思います。たまに説教するのと、毎週説教する方がとどっちが大変か?どっちも大変です。でも、毎週、語る方がある意味では楽です。神様は不思議に、1週間1ヶのメッセージを与えてくださいます。

 しかし、ある人は、「1週間1ヶのメッセージにそんな高い賃金を払う必要があるのか?」と疑問に思う方がおられるかもしれません。実際に千葉県に、毎週、いろんな牧師に説教に来てもらっている教会があります。ひょっとしたら半分くらいの予算でできるかもしれません。でも、みなさん、もしそういうことになると神学的に統一性がなくなり、バランスのある信仰を持てなくなります。また、教会員が羊ではなく、みなヤギになって、整えられるということがどういうことなのか分からなくなるでしょう。分裂分派ができ、教会が騒がしくなってしょうがない。高砂教会の手束牧師は「牧師は教会の象徴である」と言われました。現在、先生とは交流がないのですが、ちょっとだけ引用させていただきます。よく、人々は「○○先生の教会」と言います。たとえば、「練馬教会」と言うと、「ああ、小笠原先生の教会ですか?」聞いたりします。本来は、「練馬にあるイエス・キリストの教会」です。小笠原先生が教会を所有しているわけではありません。よそに行って「亀有教会から来ました」と言うと、「ああ、あの面白い、鈴木先生の教会ですか?」と言われるでしょう。私がこの教会の持ち主ではないのに、牧師の名前を付けて呼びます。このことは良い意味でも、悪い意味でも、その教会の牧師の影響力があるということです。当亀有教会は、おそらく、明るくて、おめでたい教会のイメージがあるかもしれません。それは、この私から来ているのかもしれません。神様は私をこの亀有教会に遣わしたと信じます。皆さんが、私を牧師として雇っているのではなく、神様がこの教会に派遣したということです。アーメンでしょうか。

 使徒パウロは、Ⅰコリント9:11で「もし私たちが、あなたがたに御霊のものを蒔いたのであれば、あなたがたから物質的なものを刈り取ることは行き過ぎでしょうか」と言っています。御霊のものとは、霊的なもの、つまりみことばを教えたり、語ったりすることです。また、お祈りをしたり、祝福を取り次ぐこともあります。物質的なものとは、霊に対して肉という意味です。つまり、教会員の皆さんは経済的、物質的なものを与えることによって、支えていかれるということです。なんだか、牧師がこういう箇所を語るのはおこがましいというか、ずうずうしい感じがします。でも、ガラテヤ書には、こう書いてあります。「みことばを教えられる人は、教える人とすべての良いものを分け合いなさい。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです」。そうです。人が信仰をもって、そのように蒔くならば、豊かな刈り取りをすることになるということです。背後に神様がおられ、みなさんの経済的、物質的な必要を満たしてくださると言うことです。これは、旧訳聖書のマラキ書3章で言われていることと、共通しています。みなさんがささげているのは、牧師にささげているのではなく、牧師を遣わした神様にささげているのです。だから、神様が祝福してくださいます。ハレルヤ!

ところで、きょうの主題は「互いに重荷を負い合う」ということでした。ガラテヤ書で学んだ重荷とは何でしょう?イエス様が十字架で、罪と死とのろいを負ってくださいました。罪と死とのろいは私たちが負ったらダメになる重荷です。ところが、イエス様が身代わりにその重荷を負ってくださり、私たちには軽いくびきを与えてくださいました。そのくびきとは、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」であります。ですから、私たちが互いに重荷を負い合う、その動機は、隣人愛であります。神様からいただいた愛をもって、互いに重荷を負い合うのです。この重荷は悪い重荷ではなく、良い重荷です。私たちがへりくだりを学び、イエス様に似たものとなるために、必要な重荷です。

| | トラックバック (1)

2008年9月14日 (日)

御霊の実  ガラテヤ5:19-24

 秋は果物の季節です。私はあるところでアルバイトをしていますが、季節観が本当によく分かります。少し前までは桃でしたが、今は梨が主流です。ぶどうもそろそろ出てきました。この間は、栗が小さな袋に入っていました。もう少したつと、林檎や柿が出てくるでしょう。一番困るのはお米であります。一袋30キロもあるんですからイヤになります。失礼しました、お米は果物ではありませんでした。きょうのテーマは「御霊の実」ですから、果物と関係があります。果物は食べるところがあって、中には種があります。果物にとっては、この種をどこかに蒔いてもらって、子孫を増やしたいのであります。クリスチャンの人格は、いわば、果物の実であります。そして、種とは福音であります。私たちは無代価に人々を愛し、親切にします。人々は私たちの果実を食べるわけです。でも、私たちの願いとしては、福音の種を受け入れて欲しいのです。きょうは、御霊の実と題して、ガラテヤ書5章からメッセージさせていただきます。

1.肉の行ない
 御霊の実の前に、肉の行ないについてお話しいたします。これは、御霊の実とは全く反対のものであって、実ではありません。肉の行ないは、人間が持つ罪の性質とも言えます。使徒パウロは、ガラテヤ書で肉の行ないをリストアップしています。ライトフットという聖書学者は、15の罪の目録を4つに分類しています。最初の3つ、不品行、汚れ、好色は「性的な罪」です。不品行はギリシャ語では、ポルネイアで、正式な結婚によらない性行為全般を指します。ちなみに、ポルネイアはポルノの語源になっていることばです。イエス様はマルコ7章では「姦淫」をその中に加えています。性的な罪は、女性が被害者である場合が多いと思いますが、肉体だけではなく、心と、そして霊にまでダメージを与えてしまいます。多くの場合、隠されていますので、罪を明るみに出して、聖霊によって清められるしかありません。数年前、インドネシアの解放のキャンプを見させていただきました。その中で、最も、悪霊現象が伴ったものが、性的罪とそれから来る傷によるものでした。20歳前後の姉妹たちが、叫びながら体をもだえていました。告白した後、癒しと解放を得ていました。ジョン・サンフォードの『内なる人の変革』の本に書いてありました。アメリカで5人に1人の女性は、自分の家族の中の誰かによって性的ないたずらを受けている。しかし、今では4人に1人であり、さらに増加している。わが国は、まさに「恥ずべき情欲」(ローマ1:26)へと引き渡されつつあると書いてありました。

 第二のリスト、偶像礼拝と魔術は、「異教的な罪」です。十戒の第一番目と二番目は、「まことの神様以外を礼拝してはならない、偶像を造ってはならない」であります。神様の御顔とあなたの顔の間に、存在するものが偶像です。神様はあなただけを見ていたいのです。エディ・レオ師は「偶像の始まりは、私たちが思い浮かべる想像の世界」であると言われました。あなたは頭の中で何をイメージしているでしょうか? 4分間に1度、「トゥーン」と、頭に男性が浮かぶものがあるそうです。マルチン・ルターが言いました。「空のすずめが頭の上を飛ぶのを妨げることはできない。だが、すずめが頭の上で巣を作ることはやめさせることができる」と言いました。この世では、いろんな誘惑が脳裏をかすめます。でも、それはあなた自身のものではありません。頭の上を通過しただけなんです。でも、それを心の中にとどめて、思い続けるのはあなたの責任です。誘惑があなたの頭に居座ると、あなたは罪の一歩を歩み始めたことになります。

 第三のリストは、敵意、争い、しっと、憤り(怒り)、党派心(利己心)、分裂(不和)、分派(仲間争い)、ねたみ。※( )は新共同訳。全部で8ありましたが、これは「兄弟愛を破る罪」であります。人間関係を破壊する利己的な罪です。こういうものは、私たちの心の中に、子どものときから蓄積されています。何かそれと似たようなことが自分にふりかかると、ダーンと反応します。敵意、争い、怒りがそうです。しっとやねたみは、爆発はしませんが、「ねとーっと」ボンドのように、くっついて離れません。人の幸福や成功を素直に喜ぶことができません。「ある教会が大きくなりました」と聞くと、どこか喜べない心があります。逆に自分の教会が大きくなって、教会成長のセミナーを開いたとしても、しっとやねたみをかうかもしれないですね。党派心、分裂、分派は政治の世界だけと思いきや、人々がいるところではどこででも発生します。派閥とか仲間割れは学校のクラスにもあるのではないでしょうか?教会がそうならないことを希望します。

 第四のリストは、酩酊(泥酔)、遊興(酒宴)です。これは、「不節制の罪」です。これは、異教の祭礼に見られるどんちゃん騒ぎのことでもあります。祭りでは乱行が一種のレクリエーションになっているということです。私は18才で建設会社に就職しました。そして、その冬、初めて「キャバレー(上野のボーナス)」というところに行きました。現場の所長さんが、みんなを招待してくれたんですね。「世の中に、こんなにすばらしいところがあるのか」と感激しました。私は宴会が本当に大好きでした。馬鹿をやって人を笑わせる。お酒も良く飲みました。もし、私がクリスチャンにならないで、ずっと遊び続け、飲み続けていたら、結構だらしない顔になっていたでしょうねー。相変わらず、きたない言葉を吐き、破廉恥なことをたくさんしていたでしょう。クワバラ、クワバラであります。

肉の行ないとは、私たちが努力しなくても、ついそうなってしまう罪の傾向性です。落ちるのは簡単ですが、昇るのは難しいです。私たちはだれから教えられなくても、人を憎んだり、いかったり、ねたんだりします。これはアダム以来、私たちが持っている罪の性質です。ですから、この世においては、不品行や争い、分裂分派は日常茶飯事です。でも、私たちは聖霊によって新しく生まれ変わった存在です。ですから私たちは、もはや肉に属する者ではなく、御霊に属する者となりました。私たちが罪を犯すのは自然なことではなく、もはや気持ち悪いこと、不自然なことになってしまったのです。これがキリストによって、救われていない人と救われている人の違いです。救われていない人は、こういう罪を犯してもなんとも思わないというか、むしろ気持ち良いのです。『恵みの歩み』を書かれた、スティブ・マクベィ先生がイギリスで、腎臓結石になったことがあるそうです。明日は招かれた教会で説教しなければならないのに、痛くて転げまわるような状態です。先生は、腎臓結石の痛みは、子どもを産むよりももっと大変だとおっしゃっていました。病院に行って、麻酔を打ってもらい、日曜日、教会で説教できました。アメリカに戻ってから、石を取り除きました。先生の体の中に何週間か石が存在していました。そのため、いろんな問題が起こりました。では、スティーブ先生は、体に石ころを持っていたので、「ミスター石ころ」となっていたでしょうか?先生の中に石は存在していましたが、それは先生自身ではありませんでした。同じように、私たちの中にも罪の力が存在しています。でも、それは私たち自身ではありません。私たちはキリストにあって義なる存在。罪人ではなく、聖徒であります。

 私たちは赦された罪人以上の存在です。なぜなら、私たちは神の目から義とされている存在だからです。「自分は神の子であり聖徒なんだ。もう古い人間じゃないんだ。全く、新しい存在なんだ!アーメン。」こう思って良いのです。なぜなら、それが事実だからです。私たちの中には肉の性質があります。この世に生きている限り、性的な罪、異教的な罪、兄弟愛を破る罪、不節制の罪がいつも隣り合わせでいます。万有引力の法則のように、だまっていれば、罪に落ちてしまいます。しかし、私たちクリスチャンには、キリストの命があります。これは御霊の法則とも言われ、罪の法則に打ち勝つことができます。落ちそうで落ちない。なぜでしょう。いのちである御霊の法則が私たちを持ち上げておられるからです。私たちは「罪を犯さないように」「罪を犯さないように」と罪に集中すると逆に罪に落ちてしまいます。そうではなく、自分が聖徒とされていることを自覚し、イエス・キリストを見上げて歩むのです。そうすると、私たち御霊の法則の中に落ちるのです。御霊は私たちを支え、引き上げ、義の道へと導いてくださいます。この世で生きている限り、罪は存在しています。だけれど、私たちは罪に支配されないのです。なぜなら、神の御霊が働いているからです。アーメン。

2.御霊の実
 イエス様を信じて従って行くと、つまり御霊によって歩んでいくと、私たちの内側にイエス様の品性が生まれます。これを御霊の実と言います。御霊の実は、私たちの性格と関連しています。御霊の実は、聖霊の力によってもたらされる、イエス様の品性であります。私たちがイエス様のようになるなんて、なんとすばらしいことでしょうか!エペソ4章には「完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達する」とか「あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができる」と書いてあります。キリストに似るということが、私たちの目標であります。これは私たちが努力してそうなるというのではなく、「実」であります。もちろん、努力も必要だとは思いますが、自分で力んで生み出すものではありません。私たちの功績ではなく、神様の恵みであります。世の中では「人徳ですね」「人徳ですよ」なんて言いますが、そうではありません。神様ご自身が、聖霊を通して、私たちのうちに実現されるのです。アーメン。

御霊の実はここに、9種類あげられています。でも「御霊の実」は単数形です。ある人は「御霊の実とは愛であり、愛が喜びとか平安、寛容として、具体的に現れるんだ」と言います。確かにⅠコリント13章では、愛が最も大切だと書かれています。そして「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたまない」と書いてあります。愛こそが肉の行ないに打ち勝つ御霊の実であるということです。もう1つは、御霊という1つの実の中に9つの、房があるんだという「有機的な一体」という考え方です。もうすぐ、みかんの季節ですが、みかんの皮をむくと、たくさんの房がつまっています。横から輪切りにすると、よくわかります。愛、喜び、平和…自制と9つの房が詰まっているのを想像したら良いと思います。ビリー・グラハムは、9つの御霊の実を3つの部門に分けました。最初のグループは、愛、喜び、平安です。これは、特に私たちが神へ向かっての関係を物語っています。第二のグループは、寛容、親切、善意です。これは特に人間関係、つまり対人間に見られます。第三のグループは、誠実、柔和、自制です。これは内面の関係、つまり内面の自己の態度と活動にみられるということです。これらは、全部が相互に関連して、全部が私たちの生活の特徴となるべきです。「私には喜びはあるけど、愛がない」とか、「誠実はあるけど、自制がないのよ」などとは言っていられません。もちろん、これらの中には時間がかかるものあるかもしれません。でも、神様は、1つ1つの房がまんべんなく詰まった1つの実として育つことを願っておられます。
週報にもお書きしましたが、1つ1つの特徴を簡単に学びたいと思います。これはビリー・グラハムが書いた『聖霊』という本を参考にしたものです。あの本は、とっても、バランスのとれた本だと思います。まず、第一は、愛です。愛は感情だけではなく、意思や行動が含まれるということです。みなさん、愛が感情だけだとしたら、どうなるでしょうか?感情は絶え間なく変化します。「愛したい!」と感情が湧きあがるときもあれば、「何が愛だよ!」と愛のひとかけらもないときがあります。もし、感情に支配されていたら、ジェットコースターのような信仰生活になるでしょう。それも、スリルがあって良いかもしれませんが、周りの人は大変です。この愛は、アガペーの愛であり、無条件の愛です。ですから、まず、私たちはこの愛を神様からいただく必要があります。そして、この愛を意思と行動をもって隣人に現わしていくのです。ある人が天国でイエス様とお会いしたような夢を見ました。そのとき、祈ってないのでごめんなさい、ささげてないのでごめんなさい、妻を愛さないのでごめんなさい、とさんざん謝った。だけど、イエス様はこうおっしゃいました。Did you learn to receive My love? 「私から愛を受け取ることを学びましたか?」と言われた。愛がないなーと思う人、イエス様から愛を受けてください。

2番目は「喜び」です。この喜びは、幸福や楽しみとは異なり、環境に左右されません。聖書には「幸福を求めるべきだ」とはどこにも書いていません。幸福とか祝福は神様に従っていくときに、与えられるボーナスであります。幸福はおまけであります。楽しみは一時的です。デズニーランドのアトラクションのようです。でも、喜びは人生の最悪の状況にあっても、奥深くに存在し、留まるものです。これはビリー・グラハムの表現なので少しキザです。私はキリストにおける救いを思ったなら、どんな環境の中でも、喜びが湧きあがってきます。たとい、この世ですべてのものを失ったとしても、永遠のいのちにまさるものはないからです。

3番目は「平安(平和)」です。これは英語のピースよりも、ヘブライ語のシャロームがふさわしいと思います。つまり、単なる抗争がない状態ではなく、満ち足りた安定した心の状態です。ある先生は、高回転しているコマに例えています。コマはまるで眠っているようですが、そうではありません。高回転しているので、そう見えるのです。その中には、エネルギーが充満し、そして安定性が保たれています。聖歌に、「すべてやすし、御神ともにませばー」という歌があります。たとえ世の終わりが来ても、神が共にいれば平安だということです。

4番目は「寛容」です。これは苦しみや試練を乗り越えるときに与えられるものです。ある英語の聖書に、寛容はlongsuffering、「長く苦しむこと」と書いてあります。何故、長く苦しむことが寛容なんだろうと思ってしまいます。全世界でもっとも寛容な方とはだれでしょうか?私は神様だと思います。全人類の罪を長い間、ご覧になって我慢しています。本来なら、人類をノアの洪水のように滅ぼしても良いのですが、立ち返るように、いと長く忍耐しておられます。父なる神様は本当に寛容です。だから、父なる神様の心を持った人は、寛容になるのではないかと思います。ほうとう息子が帰ってくるのを待っていた父親の心です。

5番目は「親切」です。これは、困っている人に対する優しい態度ではないかと思います。親切は「優しさ」とも置き換えられるものです。多くの人は優しさを求めています。でも、自分がたくさんの心の傷を受けてきたため、意地悪や憎しみが出てしまいます。子育てしたことのあるかたはご存知かもしれませんが、「どうして子どもに優しくできないんだろう?」と悲しくなるときがあります。それは、自分が子どものときに、虐待を受けたからではないでしょうか?イエス様は本当に親切です。自分を裏切ったペテロを愛して、受け入れて、赦してあげました。

6番目は「善意」です。善意は英語で、goodnessと言いますが、「神様のような」という意味があります。マタイ5:45「天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです」と書いてあります。ですから、神様のように、分け隔てなく、良いものを与えたいという心です。物ごとを善意で取る人もおれば、何でも悪意に取る人がいます。心にレンズがあるとすれば、とてもゆがんだ人です。もし、善意の心のレンズで見るならば、お互いに、敵対して争うこともなくなるのではないでしょうか。

7番目は「誠実」です。英語では faithfulnessです。これは、忠実とか忠誠とも訳せる言葉です。日本語の誠実は正直という意味合いがありますが、人ではなく、神様の前における誠実さです。「真実なる神様が確かにおられる。神様は必ず報いてくださる。」そのことを本当に信じている人は、誠実な歩みができます。クリスチャンは「たとい人から認められなくても、神様がご存知である」と信じています。ですから、自分自身に対する葛藤が少ないです。自分自身を神のことばで慰めることができます。

8番目は「柔和」です。私たちは「柔和」と聞くと、弱くて頼りなさそうな感じがしますがそうではありません。これは制御された活力、力強さ、気力、活気のことであります。聖書には「モーセは地上のだれよりもまさって柔和であった」(民数記12:3KJV、口語訳)と記されています。しかし、40歳の頃のエジプトの王子であったモーセは、自分の知恵と力に頼る人でした。モーセは馴らされていない野生の馬のような、気の短い男でした。彼が完全に神の支配化に置かれるまでは、荒野での40年が必要でした。

9番目は「自制」です。自制は英語で、self-controlと言いますので、自分の意思で抑圧するような感じがしますがそうではありません。抑圧するといつか、あるところで爆発します。これは、恵みによって、自分の感情や欲望を制することです。自制は他の聖書では、「節制」とも訳されています。ビリー・グラハムがおっしゃっています。「食物の摂取における節制は適量を守ることである。アルコールに関しての節制は習慣的飲酒に陥らぬことである。」

では、どうしたら、御霊の実を結ぶことができるのでしょうか?ヨハネ15章でイエス様は言われました。「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」キリストにとどまるときに、私たちは御霊の実を結ぶことができるのです。キリストにとどまるとはどういう意味でしょう。①イエス様と親密な関係を持つこと、②イエス様に従うということ、③イエス様により頼むことです。そうすれば、イエス様のいのちが私たちの内から溢れてくるのです。自力で御霊の実を生み出そうと頑張ると逆に無理です。力む必要はありません。りんごの枝が「んんんー、実を結ばなければ」とプルプル震えているところを見たことがありません。そうではなく、主と親しく、従順に、頼り切っていれば良いのです。

|

2008年9月 7日 (日)

御霊によって歩め   ガラテヤ5:16-18,24-26

 ガラテヤ人への手紙もいよいよ佳境に入りました。5章の後半こそが、ガラテヤ人への手紙の山場と言っても過言ではありません。しかし、自分で言うのもなんですが、これまでも、良いところがたくさんありました。この手紙は、信仰を持った初期の段階で必要な教えかと思いましたが、さにあらず、私たちクリスチャンが陥りやすい律法主義からの解放がテーマでありました。そして、本日と来週、語ります5章の後半こそが、その積極的な解決策であります。前の方を忘れても、ここだけ学んだだけでも、良いわけですが、そういう訳にはいきません。「よくぞ、ここまで来たなー」と自分をほめるのではなく、神様の恵みに感謝したいと思います。

1.内なる戦い

 ガラテヤ5:17「なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。」この箇所と同じことを書いているのが、ローマ人への手紙8章です。ここも読むと、もっとはっきり分かります。ローマ8:5-7「肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。」クリスチャンになりますと、新たな戦いが内側に起こります。それは、肉対御霊です。クリスチャンになる前は、御霊の働きはなかったので、こういう戦いはありませんでした。あったとしても、自分の良心あるいは理性というものがかろうじて、肉と戦いました。「盗んじゃいけないよー」「飲んじゃいけないよー」「怒っちゃいけないよー」という声はだれでもあります。だけど、非常に弱々しくて、肉にはほとんど勝てません。「うるせぇー、良いんだよ、俺の勝手だ!」。そのうち、良心の声もほとんど聞こえなくなります。エペソ2章にあるように「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、・・・自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行なっていた」のです。つまり、霊的に死んでいたので、肉と心の望むままを行なっていました。

 しかし、イエス様を信じてクリスチャンなりますと、どうでしょうか?その人は霊的に生まれ変わります。その人のうちに神の霊が入り、その人の霊が新たに目覚めます。これをキリスト教では「新生」と言います。あなたの最も深いところに、神の霊が宿ります。ですから、クリスチャンの体が、神の神殿(宮)と呼ばれるのはそのためです。ガラテヤ書に「御霊によって」と度々書いてありますが、これは神の霊なのか、それとも人間の霊なのか分かりません。原文のギリシャ語では「プニューマ(霊)」としか書かれていません。日本語の聖書は尊敬の気持ちをこめた「御」という言葉がついています。でも、原文をみるとただの「霊」ですから、本当は区別がつかないのです。厳密に言うならば、神の霊が宿っている私たちの霊ということでありましょう。とにかく、イエス様を信じて新生しますと、御霊ががぜん強くなり、神の思いをあなたに語るようになります。御霊の思いとは、つまり神からの思いなんです。ヘブル8:10「わたしは、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつける」とありますが、これは旧訳聖書の預言の成就です。たとえば、あなたの思いというテレビがあるとします。テレビには絵が見えるブラウン管と音が聞こえるスピーカーがついています。そして、テレビにはアンテナがあります。人間は霊的存在なので、霊的なものが入ってきます。そして、それがあなたの思いというブラウン管に表れてきます。どんな思いが現れてくるでしょうか?まず、自分の肉の思いです。その次は御霊の思いです。そして、ときどき悪魔の思いも入ってきます。また、他の人の思いも入ってくるでしょう。あなたの思いというテレビは、少なくとも4チャンネルあります。1チャンネルは肉の思い、2チャンネルは御霊の思い、3チャンネルは悪魔の思い、4チャンネルは人の思いです。2チャンネルはこの世では、あまり良くないかもしれませんが、あなたは「御霊の思い」にチャンネルをいつも合わせるべきです。

 とにかく、クリスチャンになりますと内側に戦いが起こります。この戦いは、良いものであり、必ず起こるんです。ちょっと精神的に病んでいる人がクリスチャンになったとします。そうしますと、分裂気味になる場合もあります。その人が混乱して、精神科医あるいは心療内科に行ったとします。医者のほとんどは未信者なので、恐らくこう言うでしょう。「しばらく、教会に行くのはやめなさい。聖書を読んだり、祈ったりするのも良くないですねー」なぜでしょう?御霊の思いという、別の思いが入って新たな混乱が起こるからです。でも、恐れる必要はありません。御霊の思いに、いつもチャンネルを合わせていくなら、大丈夫です。しかし、初めの頃は、どれが肉の思いで、どれが御霊で、どれが悪魔なのか検討がつきません。まず、一番、良く分かるのが悪魔の思いです。悪魔からの思いは、破壊的であり、その場限りの欲望を満たすものです。「今、怒りを爆発しなさい」「今、これをして楽しみなさい」「今、これを手にしなさい」しかし、それらは、破壊的であり、刹那的(その場限りのもの)です。神を信じないこの世の人たちは、みんなこれでやられています。では、御霊の思いとはどういうものでしょうか?そこには、平安と喜びがあります。あなたが聖書を読み、神様と交わっていると、あなたの霊が強くなり、御霊の声も大きくなります。でも、あなたが聖書を全く読まないで、ポルノ、推理小説、テレビやビデオ、漫画ばかり見ているどうでしょう。それは肉に栄養を与えているようなものです。肉が横綱みたいに肥え太り、霊はヒョロヒョロです。そこへ誘惑がやって来たら、まったく立ち向かうことができせん。どうぞ、肉に栄養を与えないように。ふだんから霊に栄養を与えましょう。

 Ⅰヨハネ3章には、子どもたち、若い者たち、そして父たちと3種類の人が出てきます。これはクリスチャンの成長の度合いです。子どもたちとは、御父、つまり神様を知った人たちです。若い者たちとはどんな人でしょうか?Ⅰヨハネ2:14「あなたがたが強い者であり、神のみことばが、あなたのうちにとどまり、そして、あなたがたが悪い者に打ち勝ったからです」とあります。やはり、神のみことばを心に取り入れ、神のみことばに従って生きると成長します。悪い者とは、心の中にやってくる悪魔の誘惑です。でも、悪魔は私たちの肉の思いを用いて、私たちを誘惑します。あなたの中に怒りや憎しみがあるなら、あるときドカンと爆破します。あなたの中に情欲や好色があれば、あるとき不品行を犯すでしょう。あなたの中にむさぼりや悪い考えがあるなら、あるとき不正を犯してしまうでしょう。悪魔にやられないためには、まず、内なる戦いに勝利していなければなりません。つまり、肉の思いを捨てて、いつも御霊の思いが支配している状態が安定したクリスチャンであります。もちろん、肉の思いが勝って、誘惑に負け、罪を犯すこともあるでしょう。でも、神の子は、倒れたままではなく、再び立ち上がるのです。なぜなら、御霊のいのち、キリストのいのちがあるからです。Ⅰヨハネ3:9「だれでも神から生まれた者は、罪を犯しません。なぜなら、神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪を犯すことができないのです」(新改訳第三版)。罪を犯さないとは、継続的に同じ罪を犯さないということです。なぜなら、神の種がその人のうちにとどまっているからです。神の種とは、神の霊とか神のいのちでありましょう。最初のころは、躓いたり、ひっくり返ったりします。でも、だんだんと強くなります。たとえ、怒っても罪を犯さない。汚れたことを思い続けない。あるもので満足するようになる。若者とは、信仰が安定している人です。倒れることは恥ずかしいことではありません。再び立ち上がれば良いのです。「倒れても立ち上がる」「倒れても立ち上がる」。これが良いのです。するとあなたはだんだん成長し、若者になり、そして霊的父になることができるのです。

2.御霊によって歩む

 後半は、肉に対してどう勝利していくのかをもう少し詳しく学びたいと思います。ガラテヤ5:24、25「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。」ローマ8章にも同じようなことが書かれています。ローマ8:13 「もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行ないを殺すなら、あなたがたは生きるのです。」前のポイントでも学びましたが、肉に対して効力があるのは御霊です。この世は、肉に対して何の力も持っていません。いろんな規則を設け、罰則を厳しくしたとしても、犯罪はなくなりません。前にも学びましたが、律法は肉に対して肥やしをやるようなもので、さらにもっと罪を犯すようになるでしょう。律法ではなく、御霊を歓迎し、御霊に従うようにする。すると、御霊ご自身が肉を押さえ込み、神様に従うことができるようになるということです。オリンピックの柔道の試合をご覧になったでしょうか?押さえ込みという寝技があります。たて四方とか、けさがためとか…。相手は上から押えられると何もできなくなります。あれと同じで、肉は存在しているのですが、御霊に押さえ込まれて何もできない。これが良い状態です。神様を知らない人たちは、意思の力だとか認知行動療法が良いと言います。それらが悪いとは言いませんが、御霊にゆだねるのが一番です。自分の意思ではなく、御霊にやってもらうのが一番です。

 でも、皆さん「肉」とは私たちのどこにあるのでしょうか?パウロはクリスチャンを3つに分けています。内側から言うと、霊、魂、肉体です。肉というのは、肉体と同じではありません。聖書では肉体は悪だとは言っていません。肉とはアダム以来の堕落した性質です。ある人たちはそれを原罪と言います。これは天国に行くまでつきまとう、というのが一般的な考えです。でも、肉がどこにあるのか分かりません。私はおそらく、魂と肉体の境目にあるんじゃないかと思います。だからこの肉は、魂つまり心に対して働きかけますし、また肉体にも働きかけます。ガラテヤ5:19-21には、肉の行ないにはどんなものがあるか、15ぐらい上げられています。おそらくそれらの半分は魂に関することであり、また半分は肉体に関することです。私たちが死ぬときは、この肉体を脱ぎます。そして、霊と魂になります。おそらくそのとき、肉体と魂の境目にあった、いわゆる肉が剥ぎ取り去られ、天国にスパーッと入るんじゃないかと思います。今の話は「おそらく」という「注」がはいっていますので、はっきりとは分かりません。でも、わかるのは、肉、つまり肉の性質がクリスチャンになった後も残っているということです。これを「…してはいけない」と律法で押さえつけようとすると、逆に肉が暴れ出します。心理学者たちは肉は自然のものだと肯定するでしょう。しかし、聖書は御霊によってそれを殺しなさい。そして、御霊によって歩みなさい。そうすれば肉の欲望を満足させることはないと言っています。

 では、御霊によって歩むとはどういうことなのでしょうか?歩むとは「生活する」ということです。また、歩むとは「一歩、一歩継続的に」という意味もあります。この世に生きている限り、肉があるわけですから、「いつも、御霊に聞いて、御霊に従いなさいよ」ということです。ベン・ウォン先生が今年の春、百合丘教会に来られてこのようなお話をされていました。大半のクリスチャンは外側から内側へという方向で生きている。その状況に影響される。私たちは肉的な存在である。だれかがあなたを殴る。「あー、うー。私は怒っているんだ」。「なぜ、あなたは怒っているんですか?」「あなたが叩いたからですよ」それは本当だろうか?いいえ。それは相手に叩かれたから怒っているのではない。あなたは怒りたいと思っているから怒っている。怒らないということを決めることができるだろうか?イエス様は「右の頬を打たれたら、何をしなさい」と言われただろうか?「こっちもどうぞ!」それはできるだろうか?では、いま、隣の人にやってみてください。これはできる。怒ったり、復讐しなくて良いのである。イエス様がそのとおりにされた。十字架でイエス様は「父よ、彼らをお赦し下さい」と祈られた。赦すこともできる。だから、外側の状況に左右されないように。周りの状況にいつも反応してしまのは、肉的な存在だから。しかし、今のあなたは肉的な存在ではない。あなたは霊的な存在である。だから、外側の状況に左右されないように。周りの状況にいつも反応してしまうのは、肉的な存在だから。しかし、今のあなたは肉的な存在ではない。あなたは霊的な存在である。肉ではなく、霊に従って歩む。だから、反応するのはやめましょう!自分の霊に耳を傾ける。あなたの霊は新しく生まれたのである。その霊に従っていく。そのようなクリスチャンはすばらしいクリスチャンである。外側に反応するのではなく、自分の霊に耳を傾けて、その霊に従って歩む。そうすると自然に、霊の実を結んでいくことができる。

 あるときベン先生が家に向かって歩いていました。その当時、先生の家は丘の上にありました。家に入るまで、かなりの傾斜の丘を登り、100以上の階段を登らなければなりませんでした。そして、その家(マンション)の3階に住んでいました。ある夏のとても暑い日、家に帰ってきました。急な丘を登り、長い階段を登り、家に帰ってきました。「ピンポーン」、奥さんが玄関のドアを開けました。彼女は何と言ったでしょうか?「ああ、ダーリン、お帰り。もう、疲れたでしょう。」そうではありません。「タオルで汗を拭いてください」そうではありません。「冷たい水でも飲みなさいよ」ではありません。では、彼女は何と言ったでしょうか?「お米がないのよ。坂の下に行って、お米、買ってきてちょうだい」。「お米1パック?」、スーパー・マーケットは坂の一番下にあります。突然、怒りがこみ上げてきました。「うーうう」発作が起きてきました。先生はこう言おうかと思いました。「これを知らないの?これは携帯電話と言うんだよ。携帯電話は、携帯するものだから携帯電話と言うんだよ。電話をしてくれたら、買って来れたのに…。私は家に向かって丘を上がる前に、スーパー・マーケットの横を通ったんだ。」そのとき、突然、「御霊に聞きなさい」という言葉を思い出しました。「ちょっと、2分くらい休憩させてくれないか。ちょっと部屋に戻っていいかな?」先生は自分の部屋に戻り、自分の霊に耳を傾けました。「…はい、そうです」。その後、奥さんに言った。「こういうふうに私を扱ってくれたけど、まだ、君の事を愛しているよ」。そして、お米を買いに行くために、坂を下りて行きました。先生は、ご自分で「自分の霊に耳を傾けるという、愚かな実例を話しました」と言われました。でも、これはとても大事なことです。このようなことは私たちの日常生活にたくさんあるからです。

 ABシンプソンという人が「御霊によって歩むとはどういうことか」をある本で教えています。5つのポイントが書いてありました。①御霊によって歩むとは、私たちの中に臨在され、宿られるお方として御霊を認識することである。御霊は山や火の柱からではなく、幕屋から、私たちの心の奥の至聖所から語られるであろう。②御霊によって歩むとは、まさかの時にも常に御霊を信頼し、これにより頼むことである。肺を開けば空気が入ることを期待し、明朝になれば日の出を見ることを期待するように、聖霊が私たちの必要に答えられることを期待しなければならない。③私たちが御霊によって歩もうとするならば、聖霊に相談しなければならない。④私たちが御霊によって歩みたいと願うなら、御霊の語られる時に従わなければならない。⑤御霊によって歩むとは、聖霊と語調を合わせて歩むことである。そして私たちの従順は、極めて敏速でなければならず、御霊より一歩遅れたり、追いつけないほどの距離をおいてついて行くようなものであってはならない。まとめて言いますと、①は認識、②は信頼、③は相談、④は従順、⑤はペースということでした。私たちは「マイペース」「マイペース」と言って、あせらないように自分に言い聞かせます。それよりも聖霊のペースがもっと良いわけです。外部からプレッシャーをかけられるようなときがあっても、「聖霊のペース」で歩むならなんと幸いでしょうか。自分の人生を振り返るときに、「ああ、なんて無駄なことをしていたんだろー。時間ばかり食って」と後悔するときがあります。なかなか、教会も自分が思い描いていたように、右肩上がりでは伸びません。逆に、尻つぼみと申しましょうか、減少気味です。これは、私だけではなく、日本の教会の多くの牧師たちが感じているんじゃないかと思います。でも、神様には神様のペースがあるのかもしれません。いつも収穫が多いと良いのですが、そうでないときもあります。きょう学んだように、外側の出来事に反応しないようにしたいです。むしろ、内側におられる御霊に耳を傾ける。神様の時間割りはちょっと、違うかもしれません。私の内におられる御霊がこのように語っておられます。ハバクク2:3「もしおそくなっても、それを待て。それは必ず来る。遅れることはない」そして、3:17,18「そのとき、いちじくの木は花を咲かせず、ぶどうの木は実をみのらせず、オリーブの木も実りがなく、畑は食物を出さない。羊は囲いから絶え、牛は牛舎にいなくなる。しかし、私は主にあって喜び勇み、私の救いの神にあって喜ぼう。」神様のみこころは、はっきりしています。外側の状況がどのようであれ、「私は主にあって喜び勇み、私の救いの神にあって喜ぶ」ということです。どんなときでも、御霊によって歩みたいと思います。使徒パウロはコロサイ1章でこのように言っています。「この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。」(コロサイ1:27)あなた自身の中に、希望があるということです。それはキリストの御霊、聖霊であります。

|

« 2008年8月 | トップページ | 2008年10月 »