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2008年8月31日 (日)

隣人を愛せよ   ガラテヤ5:7-15

8月も今日で終わりです。なんか雨が多かったように思います。地球温暖化のせいでしょうか、スコールのような大雨が降りました。本来、山間に住んでいる方が土砂崩れなどに気をつけるべきなんですが、都市に住んでいる方は別の問題もあります。車で立体交差の下などを通る時はお気をつけください。ところで、日本は「ふすまとか障子」の文化です。相手と全く遮断しているわけではないけれど、なんとなく様子がわかる。適当な距離をおいて付き合うという文化です。西洋の住まいは壁ですから、全く他人であるか、それとも友人になるか、どちらかであります。大川牧師がヤマアラシの論理ということを言いました。ヤマアラシの若いカップルがある冬の寒い夜、暖をとることにしました。近づくとお互いの刺のゆえに、傷つけ合う。痛いからと離れると寒い。近づくと傷ついて痛い。離れると寒い。私たち人間にも、このようなジレンマがあるのではないでしょうか。きょうは、「隣人を愛せよ」と題して2つのポイントでメッセージさせていただきます。

1.かき乱す者たち

 ガラテヤの教会にパウロのあとから、あるユダヤ人たちがやってきました。彼らは「割礼を受け、モーセの律法を守らなければ救われない」と主張しました。それで、ガラテヤの多くの人たちの信仰がおかしくなり、福音から離れて行きました。パウロは割礼を主張する人たちに「いっそのこと切り取ってしまうが良い」と言っています。「何を、ですか?」と聞かれても、先週すでに話したので省略します。また、パウロは10節で「あなたがたをかき乱す者は、だれであろうと、裁きを受けるのです」と強く言っています。まことに残念ですが、この世の中には、私たちの信仰に敵対する人たちがおります。うちの有悟は小学校3年生ですが、先週こんなことがあったそうです。クラスのみんなが「人間は猿から生まれたんだ」と言いました。それに対して、有悟は「違うよ。神様が人間を造ったんだ。猿から生まれたんだったら何故、猿を拝まないんだ。」と言ったそうです。その後、先生が「人間は、猿から進化したんですよ」と言ったそうです。すると有悟は「それでも、僕は神様が人間を造ったと信じる」と心の中で思ったそうです。家族でそのことを聞いて、「有悟、偉い!」と拍手しました。その後、私が言いました。もし友人が「人間は猿か進化したんだ」と言ったら、こう言ってあげなさい。「ああ、どうりで、猿に似ているんだ」と。子どものときに、「神様があなたを造ったんだよ。あなたには神様が与えた特別な賜物があるんだよ」と教えられたら何と幸いでしょうか。

ある人たちは、神様を認めないばかりか、イエス様を信じる人たちを馬鹿にしたり、迫害したりします。ある場合は、違ったことを吹きまれて、信仰が覆される場合もあります。ご両親や親しい友人から「あなたは騙されているのよ。この雑誌を見なさい。教会のスキャンダルが書いてあるわよ」などと言われるかもしれません。そういうことが何べんも続くと、「ああ、やっぱりそうか。教会に行くの、やめよう」などと思ったりします。かき乱す者たちはどんな手を使うでしょうか?9節に「わずかのパン種が、こねた粉の全体を発酵させるのです」とあります。イエス様も、同じようなたとえを用いて話されました。少量のパン種、つまりイースト菌によって、パン全体が膨らみます。しかし、パン種の入ったパンは腐敗するのが早いそうです。ですから、聖書ではパン種は嘘とか偽善というような意味があります。実はこれはサタンが用いる常套手段であります。エデンの園で、サタンはエバに対して「どんな木からも食べてはらないと、神が本当に言われたのですか?それを食べると、神のように善悪を知るようになることを神は知っているのです」と言いました。だから、真理の中に少しだけ嘘を混ぜるのです。それがあとで膨らんできて、真理全体を覆すようになります。これまで、教会は長い歴史の中で、数え切れないほど、サタンの策略にはまってしまいました。中心的なことはお互い同意しています。しかし、枝葉のことで争う。そのことがクローズアップされ、仲たがいすることが良くあります。洗礼の水の量、聖餐式のパンの解釈、聖霊の体験、教会の組織のあり方・・・どうでも良いことに、目がいって、互いに敵対し合う。こういうことが良くありました。

 かき乱す者たちは教会の外からもやってきますし、教会の内側からも起こってきます。その原因は人間の罪とサタンの力です。「信仰に戦いがある」なんて、思いたくありませんが、実際はあるのです。世の終わりには、反キリストや偽預言者がはびこると聖書に書いてあります。また、高慢な者や世を愛する物質主義者とか快楽主義者も増えるでしょう。私たちは「敵対者たちがいるんだ」と初めから理解しておくのと、そうでないとでは全然違います。彼らは私たちの信仰を揺さぶり、結果的にはキリストから離すのが目的です。そのためにはどんな手段も講じるでしょう。日本の教会のいくつかが告訴されて、裁判ざたになっています。雑誌編集者の中には喜んでそういう記事を取り上げる者がいます。また、信徒たちをけしかけてわざわざ裁判ざたにする者もいます。自分の怒りを教会にぶつけて、破壊的なことをする人たちもいます。そのために、信徒たちが散らされ、閉鎖に追い込まれている教会もいくつかあるようです。

それでは、かき乱す者たちから守られるためにはどうすれば良いのでしょうか?私は神の教会は真理を守る家だと思います。もちろん、例外的に教会も牧師もおかしいときがあります。完全ではないかもしれませんが、多くの教会は聖書の真理を保とうと努力してきました。ですから、群れから離れて一人ぼっちにならないように。互いに励まし、互いに祈り、互いに愛し合う神の家に留まってもらいたいと思います。そこには大牧者なるイエス様が臨在し、ご自身の羊たちを守り導いてくださいます。大切なのは、人ではなく、イエス様を見上げていくということです。かき乱す者たちたちは、私たちがなんとかイエス様から目を離して、人間的な事柄に目を向けるようにしむけます。ヘブル12:1、2には、「こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」とあります。この間、北京オリンピックが終わりました。日本は400メートル・リレーで銅メダルを取りました。予選でアメリカとイギリスがバトンで失敗したお陰です。それでも、3位は3位です。競技場では何万、何十万にもの人たちが応援しています。そればかりではありません。テレビを見ている人たちがいろんな場所で、声援を送っています。この地上では孤独と思えても、そうではありません。先に行った信仰の先輩たち、そして御使いたちが雲のように取り巻いて、私たちを応援しています。ですから、信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないで、信仰のレースを最後まで走りぬきたいと思います。

2.隣人を愛せよ

 ガラテヤ5:14-15、律法の全体は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」という一語をもって全うされるのです。もし互いにかみ合ったり、食い合ったりしているなら、お互いの間で滅ぼされてしまいます。気をつけなさい。イエス様は、数多くある戒めを、神を愛することと、隣人を愛することの2つにまとめました。しかし、パウロはここで、隣人を愛すること1つでまとめたのは何故でしょう。おそらくこういうことだと思います。「もし、あなたが隣人を愛していたなら、あなたは神様を愛している人に違いない。なぜなら、隣人を愛することは神様を愛していることの現われだから」と答えることができるのではないでしょうか?だから、1つの戒めで十分なのです。ヨハネも第一の手紙で似たようなことを言っています。Ⅰヨハネ4:19-21「私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。神を愛する者は、兄弟をも愛すべきです。私たちはこの命令をキリストから受けています。」つまり、神様から愛を受けた人は、こんどは兄弟姉妹をも愛するようになるのです。「神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です」。このことば、きつい人もおられるでしょうか?その人は、神様の愛をまだ十分に受け取っていない人かもしれません。

 では、なぜ最も近くの兄弟姉妹、隣人を愛することに困難を覚えることがあるのでしょうか?お互いに信仰を持っているということは、未信者との関係よりも複雑な場合があります。「え?あれでもクリスチャン?イエス様を信じているのに、なんであんなことができるの?」未信者だったら赦せるのに、まなじっか神様を信じているから赦せない。そういうことがあるんですね。私たちクリスチャンは罪赦され、また義とされている存在です。神の前で、全く、正しいわけです。しかし、だからと言って、神のように人々をさばいて良いというわけではありません。私たちが兄弟姉妹とさばくとはこういうことです。「神様あなたは何も分かっていないか、それとも、寛容過ぎるんです。こう場合は、白黒はっきりつけて、悪いものは悪いと言うべきです。私があなたの代わりに裁きますので、私と席を替わってください」。わぁ、私たちが兄弟姉妹を裁くとき、なんと恐ろしいことをしているのでしょう?マーリン・キャロラーズがある本の中でこのように書いています。「私は、年間5万人の命を奪っている無謀運転は言うまでもなく、人々が、こぶし、ナイフ、銃で傷つけ合っていることを知っています。しかし、ここで話している武器は、それらと比べて最も分かりにくいものなのです。御霊は私たちが、日々、血を流すことなく互いに負わせ合っている苦痛を、私の心に強く示されました。しかも、これらの目に見えない傷は、「善」の名のもとに負わされているのです。これはとてもサタンの特徴を表わしています。一体どのように人々を傷つけているのでしょうか?恐らくそれは・・・批判によってでしょう。」批判、つまり悪いことばこそが、人との関係を破壊する最も大きな武器だということです。エペソ4:29に「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい」とあります。私は講壇に立っているときは、そういうことはありませんが、一緒に食事をしているときが問題です。気が緩むと、ポロっと、ブラック・ジョークが出ることがあります。以前は、批判できるのは頭が良いからだと思っていました。しかし、今は、人の徳を高めることのできる人は、その何十倍も頭の良い人だと思います。

 使徒パウロは、5:13で「兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい」と言いました。私たちは自由とされました。何をやっても、何を言っても自由なのです。律法から解放されているのです。でも、その自由を愛をもって互いに仕えることに用いなさいと命じられています。これこそが、隣人を愛する具体的な行動であります。律法は「あなたは隣人を愛さなければならない」と命じます。しかし、恵みはこう言うでしょう。「神様はあなたを愛しています。聖霊があなたに力を与えるので、あなたは隣人を愛することができます。」すると、あなた自身の中に愛する思いがやってきます。その次に、「その愛を具体的に表わすためには、何をしたら良いだろうか?そうだ、これをしよう」という熱意が湧いてきます。ときどき、うちの子供に、CSの先生たちからお便りが来ます。「有悟君お元気ですか?夏休みはどうでしたか?」私などは「この間、会ったばかりなのに、元気に決っているだろう」と思ったりします。でも、その後、「まあ、このはがきいっぱい、字を書くって大変なことだなー。5分じゃ書けないだろうなー」と関心します。この間、大津で開かれたコーチングセミナーで学んできました。「私はカウンセリングとかコーチングはできない性分だ。しゃべるのは得意だけど、人の話を聞くのが苦手なんだよなー」と思ってきました。でも、イエス様は説教ばかりしていたわけではありません。人々を受け入れ、人々を励まし、人々を育てました。いわゆる、イエス様は愛をもってコーチングをしていたわけです。私の願いはイエス様のようになることです。イエス様がそうしたんだったら、生まれつきだとか、苦手だとか言っておられません。隣人を愛するとは、具体的には、人々の話を聞くとか、励ますとか助ける・・・そういうことに現われるんだなーと思いました。

 あなたの隣人とはだれでしょうか?「良きサマリヤ人のたとえ」があります。旅の途中、道端に倒れていた人がいました。盗賊に襲われ、身ぐるみ剥がされ、傷ついていました。レビ人や祭司は、道端の向こう側を通って、見て見ぬふりです。「いやー、こんな人に関わったら、大変なことになる」と思ったのでしょう。でも、サマリヤ人は違いました。その人の隣人になったのです。彼を宿屋まで連れて行き、介抱してあげました。つまり、ここで教えられていることは、隣人とは物理的な問題ではありません。たまたま、近くで生活しているからということではありません。こちらが近づいてその人の隣人になるという、もっとダイナミックなものです。「神様がこの人を私の隣人として出会わせてくださったんだ」という信仰です。神様は世界中の人々を愛しなさいとは言われていません「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」とおっしゃっているのです。あなたが愛すべき、あなたの隣人とはだれでしょうか?あなたが仕えるべき、あなたの隣人とはだれでしょうか?私たちはその人を愛して仕えたら、損すると思ってしまいます。自分の時間とエネルギーを使ってしまうので、面倒だと思うわけです。律法的にイヤイヤで、そういうことをすると確かにそうなります。でも、神様から与えられた自由意思で、自ら決断して、実行するとどうでしょう?喜びが湧いてきます。これは不思議です。愛すると、自分の中に喜びが湧いてきます。相手がどう反応するかを待つ前に、既に、こちら側には喜びがあるのです。これこそ、神様が与えた恵みではないでしょうか?つまり、隣人を愛することができるというのは、神様の恵みだということです。

 本日は、分かち合い礼拝です。この後、10から15分くらい、小グループになって分かち合ってください。週報の中に、どういうことを分かち合うか書いてあります。ちょっと、開いて見て下さい。そして、今、ちょっと書いてみましょう。その後に、分かち合うと、時間が短縮できます。よろしいでしょうか?①これまであなたに隣人愛を示してくれた方とはどんな人ですか?一人だけ名前をあげてください。学生のとき、職場で、あるいは教会で。自分が苦しかったとき、助けられたなー。良い人だったよなーと、思い出すと気分が良くなる人ですね。②あなた自身の中に隣人を愛することのできない何か妨げがありますか?1つだけ上げてください。「あの人が嫌いだ、この人が嫌いだから愛せない」という前に、自分の中に原因があるかもしれません。さきほど言った批判的なことばもその1つです。人々から傷を受けたので、心を開くことができないということもあります。どうせ裏切られるに違いないという、人間不信があるかもしれません。③あなたの隣人に対して具体的にどのように仕えるべきだと思いますか?だれに対して、何をすべきか簡単にお答えください。神様が愛すべき隣人を、そして、何をもって仕えるべきかを既にあなたの心に教えておられると思います。小さなことからでも良いですね。さきほどの、はがき1枚送ることもすばらしいことです。お祈りしましょう。主よ、あなたがまず、私たちを愛してくださったことを感謝します。全く愛を知らない者でしたが、あなたが愛を注いでくださいました。その愛をもって、隣人を愛することができますよう助けてください。アーメン。

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2008年8月24日 (日)

愛によって働く信仰    ガラテヤ5:1-6

ガラテヤ人への手紙に、たびたび、「割礼」という言葉が出てきます。ちょっときわどい感じがしますが、少しだけ説明させていただきます。割礼とは、男性が生まれて八日目に、性器の包皮を切り取る儀式です。これは契約のしるしであり、イスラエルの民が絶対に守るべきことがらでありました。パウロの後からやって来たユダヤ人が、ガラテヤの人たちに「あなたがたも割礼を受け、モーセの律法を守らなければ救われない」と主張しました。パウロは「人は福音を信じるだけで救われるのであって、割礼など受ける必要はない」とはねつけました。5章の12節にはとても過激なことが言われています。「いっそのこと不具になってしまうほうが良い」は原文では、「いっそのこと全部、切り取ってしまえ」となっています。新共同訳は「いっそのこと自ら去勢してしまえばよい」となっています。今は訂正しましたが、当教会のホームページでは「デンジャラスな教会」となっていました。ちょっと危ない教会であります。

1.縛られる理由

 割礼を受けるとは、異邦人が一度、ユダヤ人になるということです。それから様々な律法を守らなければなりません。それは旧訳聖書と同じであり、行ないによって義とされる道であります。パウロは「儀式や律法を守ることによって、神の前に義とされることを求めるならば、このような束縛を受けますよ」と、2節、3節、4節に書いています。ちなみに、「義とされると」は、神様に受け入れられ、救われるということです。もし、儀式や戒めを守ることによって、神の前に義とされることを求めるならばどうなるでしょうか?

2節「キリストは、あなたがたにとって、何の益もないのです」。何の益もないとは、何の役にも立たないという意味です。英国の聖書では、no goodとなっています。キリストがNGになるということです。つまり、自分の行ないで救われようとする人にとっては、キリストは不要な存在です。確かにそうであります。たとえば、「イエス様によって救いが与えられますよ」と言うと、「いいえ、結構です」と断られます。そういう人は、「神様にお願いしなくても、自分は大丈夫です」という人です。この間、テレビで女子のレスリングを見ました。銀メダルを取った人が、「自分に感謝します」と言いました。私は、「なんで自分なんだよ、神様だろう!」とテレビに向かって言いました。家内はそばにいて、「あなたは、すぐ反応するんだから」と私をいさめてくれます。日本人の多くの選手は、「頼れるのは自分だ。神様のお世話になんかなっていない」と思っているのでしょう。その点、外国の選手は、試合前に十字を切ったりする人もいます。勝ったら、「プレイザ・ロード、神様をたたえます」と言う人もいるでしょう。神様の栄光のためではなく、自分の栄光のためにだけ頑張るのは限界があると思います。自分を神様としている人は、キリストは不要、何の役にも立たない存在です。

 3節「その人は律法の全体を行なう義務があります」。これは、「1つでも落ち度があったらダメ。全部、完璧に守りなさいよ」という意味です。行ないで救いを得るという道は、一見、やさしそうですがそうではありません。数ある律法を全部、守って、はじめて神様の前に義とされるのです。果たして、人間が神様のように完全無欠になることができるでしょうか?ところで、体操は減点法を取っています。ミスをすると引かれます。もちろん、EとかF難度のわざも入れなくてはなりません。ある床運動の選手は、優勝候補だったのに、最後の着地で尻餅をついてしまいました。それまでは完璧だったのです。あのまま行けば、優勝間違いなし。でも、人間です。機械ではありません。完璧主義で生きている人は、1つの失敗も許すことができません。「まだ、ダメなんじゃないか、これで大丈夫だろうか?」未達成感と重圧感でさいなまされています。そういう人は、遅かれ早かれ、神経がやられてしまうでしょう。

4節「あなたがたはキリストから離れ、恵みから落ちてしまった」と書いてあります。恵みから落ちるとは、どういう意味でしょうか?英国の聖書は、「神様の恵みの領域から落ちて、キリストと何の関係もなくなった」と訳しています。神の恵みがないとすれば、もう裁きと死しかありません。こう言う人がいます。「私の父と母はイエス様を信じていませんでした。もし、両親が地獄にいるとすれば、私も同じところに行きたいです。自分だけが救われて天国に行くのは悪いですから」と言う人がいます。でも、みなさん、親子の情があるのはこの地上だけです。地獄には神の恵みがありません。だから、親も子もないのです。親が子どもの肉を食べるというような、修羅の世界です。キリストから離れ、恵みから落ちるとは、救いがないのと同じです。

このように、律法によって義とされる道は、険しい道であり、行き着くところは死です。日本では律法という言葉は使いませんが、さまざまな決り事があります。やってはいけないこと、やるべきことに満ちています。私たちは生まれたら最後、決まりごとの世界、律法主義の世界に生きていかなければなりません。○○しなければ、受け入れてもらえない。○○したら、排斥されてしまう。家庭において、学校において、職場において、教会においても、様々なきまりごと(律法)に支配されています。きまりごと自体は悪いものではありません。律法は中立です。でも、私たちの中には肉の性質があります。私たちの肉が、律法と出会うと化学変化して、罪を生じさせます。校則や企業コンプライアンスは「あなたは違反してはならない」と言います。しかし、それは人間の本性を理解していません。人間は「○○してはならない、したら処罰されますよ」と言われたら内側にどのようなことが起こるでしょうか?まず、怒りが生じます。その後、「大変だなー」という重い気持ちになります。最後に、「ああ、いやだなー」やる気が萎えてしまいます。それでも、退学とか、職場ですとクビになりたくないので、しかたなく守るんです。律法は私たちを卑屈にさせ、まさしく、奴隷状態になります。

私はあるところで午前中、アルバイトをしています。この間、発見しましたが、階段の1つ1つに、注意書きが書いてありました。「あわてるな、一時停止、左右確認」「雨の日はすべりやすい、気をつけて」とか、標語が貼ってありました。私はそれを見て、腹が立って、階段を蹴りました。それで、足がしばらく痛かったです。2階では毎朝9時過ぎに、職員のミーティングがあります。私は近くで別の作業していますが、いくらか聞こえてきます。「配達事故のないように」「氏名だけではなく、フルネームで確認しなさい」「ドアホーンは3秒間待って、また鳴らすように」とか。特に、うるさい課長がいて、ガミガミ、ガミガミ、細かいことを注意しています。それ聞いていると、カッカ、カッカしてきます。いわゆる、反応してしまうんですね。私は発見しました。今は株式会社ですが公務員は、やって当たり前の世界です。よくやりましたという感謝や喜びがありません。ミスのないように、ミスのないようにと注意しまくられています。規則やコンプライアンス、ダメ出しの世界で仕事したらどうなるでしょうか?モチベーションが下がり、ロボットのように無表情になります。できるだけ責任を取らないために、余計な仕事はしません。儲かる、儲からないも関係ありません。しかし、民間の場合はどうでしょうか?「お客様へのサービスが大切ですよ」「1個配達すると、いくらですよ」と肯定的です。おそらく、このままだと宅急便の方がどんどんシェアーを喰っていくでしょう。みなさん、律法主義が招くのは、死であります。

 家庭、学校、企業、つまりこの世は決まりごとの上に、決まりごとを重ねています。では、教会はどうでしょうか?新約の世界に生きているとは言っても、相変わらず、律法主義でがんじがらめになっているのではないでしょうか?教会も、規則や戒律を前面に出すなら同じことになります。グレイス・ウォークのワークブックにこのように書いてありました。私は永年、宗教的律法が自分の罪深い情欲をコントロールすることができると考えていました。しかし、聖書は全く逆であると教えています。律法は、罪の情欲をかきたてるのです。ローマ7:8で「しかし、罪はこの戒めによって機会を捕らえ、私のうちにあらゆるむさぼりを引き起こしました。律法がなければ、罪は死んだものです」と語っています。もし、自分が宗教的規則の上に自分の人生を建て上げたなら、罪から解放してくれると思いますか。私たちがやっていることは、実は、罪に肥やしをやっているようなものです。そうです。規則とか決まりごとは、罪をかき立てるものであって、自動車エンジンのガソリンみたいなものです。ですから、私たちの生活は、決まりごとをできるだけ少なくすれば良いですね。小中学校の頃、夏休みの日課表を立てたことがあります。すばらしい日課表です。でも、3日もたつと日課表を見るのもイヤになります。そのとおり、生活するのがなんとしんどいでしょう。しまいには、日課表をどこかに捨ててしまいます。規則や決まりごと、つまり律法は私たちからいのちを奪い、結局はダメにするということです。

2.解放の鍵

 ある人たちは、「規則や決まりごとがないと、人間は怠けてしまい、悪が蔓延してしまうのではないか」と心配するでしょう。そして、世の中においては、さらに多くの規則を作り、罰を重くしていきます。しかし、これとは別の恵みの道があります。この道は、律法による支配ではなく、恵みによる支配と言うことができます。ガラテヤ書5章には、信仰と御霊と愛こそが、律法主義からの解放の鍵であると書いてあります。この3つが私たちを内側から動かして、正しい道を歩ませる力の源であります。

①信仰によって解放されます。5節には「信仰によって義をいただく望みを熱心にいだいている」と書いてあります。私たちが神様から義と認められるのは、信仰によってです。では、何を信じる事によって私たちは義とされるのでしょうか?イエス・キリストが私たちの代わりに律法を全うしてくださいました。そればかりか、私たちの代わりに罪の刑罰を受けて死んでくださいました。神様はイエス・キリストを信じる者を、義と認めてくださるのです。ですから、私たちは神様に受け入れてもらうために何もしなくても良いのです。キリストを受け入れている私たちを見て、神様は、満足していらっしゃるのです。私たちが何かをするのは、マイナスを埋めるためではありません。何かを償ったり、犠牲を払う必要は全くありません。すでにプラスの地点にあるのですから、小さなことをしても、プラス、プラスになります。私たちが住んでいるところは、恵みの世界なんです。ほんの小さな奉仕をしただけで、「わぁ、すごい」と、神様は喜んでくださいます。そうすると、私たちはもっと良いことをしたくなります。

 私はこれまで「人に負けたくない」「人から認められたい」という思いでがんばって来ました。しかし、今は神様から認められているので、心の中が平安です。イエス様がこの世において、何もしていないのに、父なる神様が何とおっしゃったでしょう。「これは、私の愛する子、私はこれを喜ぶ」とおっしゃいました。イエス様は父なる神様から好意を得るために頑張った訳ではありません。何もしていない、スタート地点から、神様から認められ、神様から喜ばれていたのです。こういう安心感が必要です。オリンピックの卓球の愛ちゃん、それからレスリングの浜口京子さん。彼女らのご両親はものすごく熱心です。おそらく、小さい頃から、「まだ、だめだ。もっと頑張れ、気合だ、気合だ」と厳しく、訓練されてきたと思います。しかし、彼女らはプレッシャーに弱く、大事なときに勝てない。なぜなら、親から認められるために頑張ってきたからです。異論があるかもしれませんが、スタート地点で認められていたら、もっとリラックスして実力が発揮できるのではないかと思います。私たちは、父なる神様からすでに受け入れられているという信仰が大事です。たとえ失敗しても捨てられたり、裁かれたりはしません。この安心感という土台こそが「もっとやるぞ!」という、チャレンジ精神を生むのです。

②御霊によって解放されます。5節に「御霊によって」と書かれています。16節以降に「御霊によって」と何度も書かれています。ローマ8章には「いのちの御霊の法則」と書かれています。御霊の法則は、罪の法則を打ち消す力があります。私たちが罪に目を向けるのではなく、イエス様に目を向けるならば、御霊のいのちが現われ、自然と義の道に導かれるのです。大切なことは「どうして罪を犯したのか」と罪を研究することではありません。この世では、徹底的に反省し、懺悔し、相当の罰を受け、始末書を書き、「もうお二度としませんから許してください」と言うでしょう。刑に服した人が一向に良くならないのはそのためです。罰だけでは人は良くならないのです。私もかつで、失敗したときは自分の頭を叩いたりしたものでした。不思議とクリスチャンになってから、しなくなりました。犯した罪や失敗を軽く見るということではありません。たしかに、反省は必要です。でも、それだけでは不十分です。今後は、イエス様に目を向け、イエス様の助けをいたたくことに集中すれば良いのです。そうすれば、聖霊が内側からあなたを正しい方向に動かしてくれます。

 また、聖霊は私たちの心の内から願いを起こしてくださいます。ピリピ2:13,14口語訳「あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起こさせ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。すべてのことを、つぶやかず疑わないでしなさい」。神の霊である、聖霊が、私たちの霊に働きかけて、神様への願いを起こさせてくださるのです。いわゆるシンクロナイズドであります。聖霊と私たちの霊が、同調するならば、なんとすばらしいことでしょう。私の願いなのか、神様の願いなのかわからないくらい1つになっている。私は個人的にWWJD、What Would Jesus Do?(イエス様だったらどうする?)は嫌いです。せっかく、神様の霊と私たちの霊が1つになっているのに、「イエス様だったらどうする?」と切り離して、聞くことはないと思います。それこそ、律法であり束縛になります。私たちの内におられ、願いを起こしてくださる聖霊様に信頼するのです。神様の願いが、私たちの願いになる。そうしたら、ものすごい熱い願いになり、簡単には失望することはありません。私は心に平安があれば、何でもトライすることにしています。「あれ、違ってたかなー」と、失敗するときもあります。でも、その失敗も益になります。どうぞ、聖霊のいのちと聖霊の働きかけを信頼しましょう。

③愛によって解放されます。6節「キリスト・イエスにあっては、割礼を受ける、受けないは大事なことではなく、愛によって働く信仰だけが大事なのです」。また、22節には、御霊の実は愛であると書かれています。つまり、私たちは、義務感やさばかれないために何かをするのではなく、愛が動機だということです。表面的には罪を犯さないで真面目です。でも、内側にはものすごい葛藤があるかもしれません。「罪を犯さないように、誘惑に負けないように」と、欲望や怒りを抑圧しています。これだったら、ものすごく疲れます。この世において「愛が大事だ」とは、ほとんど言われません。でも、愛で多くのことが解決します。校則や企業コンプライアンスは「あなたは違反してはならない」と言います。それよりも、「友達を愛しましょう」「先生も生徒を愛しましょう」とやったらどうでしょうか?会社でも、「お客さんを愛しましょう」「社員一人ひとりを愛しましょう」とやったら良いですね。地域社会においても愛を前面に出したら、盗みや人殺し、犯罪も少なくなります。教会において、規則や決まりごとよりも、愛を前面に出して行きたいですね。Ⅰペテロ4:8「愛はおおくの罪をおおう」と書いてあります。

規則や律法は罪をかき立てます。しかし、愛は神様に喜んで従いたくなるのです。聖書にはたくさんの命令があります。でも、神様を愛するなら、その戒めが苦にはなりません。Ⅰヨハネ5:3「神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません」と書いてあります。つまり、神様を愛するならば、従順が自然に生まれてくるのです。たとえば、言うことをきかない子どもがいます。言うことをきかないので、もっと厳しくするのも1つの方法です。でも、その子どもを理解し、愛していくならどうでしょう。おそらく子どもは、愛のお礼として、親の言うことを聞くんじゃないでしょうか?ですから、私たちはイエス様の愛、神の愛をもっと、学び、もっと体験する必要があります。そうすれば、神様を悲しませるような罪は犯さなくなります。むしろ、喜んで戒めを守り、恵みの中を歩もうとするでしょう。私はガミガミ言われるのが大嫌いです。親兄弟、学校の先生、上司のほとんどがそうでした。うるさく言われると、卑屈になります。でも、聖書が言っている恵みはそうではありません。イエス様は私を愛してくださり、受け入れてくださり、報いてくださいます。私はこの年になってさらに思うのですが、イエス様を信じて本当に良かったなーと思います。

最後にガラテヤ5:1をお読みいたします。「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと(二度と)奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい」。私たちは律法のくびきを負う必要はありません。イエス・キリストが律法を完成し、律法の終わりとなってくださったからです。私たちは信仰と御霊と愛によって解放された、信仰生活を歩みたいと思います。神様による恵みの支配を歓迎します。

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2008年8月17日 (日)

自由の女の子ども    ガラテヤ4:21-30

私たちが人々に「教会に来ませんか?」と誘いますと、大体は「いいえ、結構です」と答えるでしょう?かつての私たちも、クリスチャンになる前は、同じように答えたことがあるかもしれません。何故、断るのでしょう?おそらく、「宗教にいっぺん入ったら、抜け出せなくなるから」という理由ではないでしょうか?つまり、そういうものに縛られたくないと思うからです。それでは、みなさんにお伺いします。みなさんの中に、「本当は教会から抜け出したいんだけれど、しかたなく来ているんだ」という人はおられるでしょうか?「地獄へ落とされるのが怖いから?」とか、「休むとうるさく言われるので仕方なく来ている」とか。おそらくいないと思います。そこには2つの理由があります。1つは「教会は出入り自由だ」ということです。当教会はあまりにもさっぱりしています。悪く言うと愛がない、良く言えば自主性を重んじるので、強制は全くしません。もう1つの理由は、イエス様を信じる前は多くのものに縛られていました。「死の恐れ、この世の価値観、罪の習慣・・・いろんなもので縛られていたけど、イエス様のもとで自由が得られました。」おそらく、そういう方がほとんどではないでしょうか?そうです。多くの人たちは、神様のもとへ来ると不自由になると思っていますが、実は、そうではなく、神様のもとには本当の自由があるのです。アーメン。

1.自由の女の子ども

 ガラテヤの教会の人たちは、福音を信じて救われました。キリストにある喜びを体験したのです。ところが、あとからやって来た人たちが、「信じるだけじゃだめなんだ。儀式やモーセの律法を守らなければ救われない」と言いました。彼らは「ああ、そうだったのか」とまことの福音から離れてしまいました。そして、21節にあるように「律法の下にいたいと思う」ようになったのです。使徒パウロは「律法の下にいたいと思う人は、奴隷の女の子どもと同じだ」と言っています。創世記に書いてありますが、アブラハムには二人の子どもがいました。ひとりは女奴隷ハガルから生まれたイシュマエルです。アブラハムが待ちきれずに、人間的な方法で、そばめによって子どもを得ました。パウロは、それは「肉によって生まれた者だ」と言っています。肉とは人間的と言う意味です。その後、サラによってイサクが生まれました。イサクは自由の女の子どもであり、また約束の子どもです。どちらがアブラハムの後継者かというと、イサクであります。子どもたちが大きくなって、家の中に争いが起きたので、女奴隷ハガルとイシュマエルは追い出されました。しかし、神様はハガルとイシュマエルをあわれんで、「大いなる国民としよう」と約束されました。イシュマエルの子孫こそが、アラブ人であり、イスラム教徒であります。今もなお、イスラム教徒はキリスト教会に激しく、敵対しています。これもみんな、アブラハムのせいです。

 この箇所で、パウロは独特な比喩を用いて、律法と恵みを比べています。アブラハムには二人の子どもがいました。女奴隷から生まれた子どもは、やはり奴隷です。相続人になることはできません。つまり「律法の下にいたいと思う人たちは」奴隷の女の子ども同じだということです。彼らはいつまでも、律法を全うできず、律法の中で、縛られて暮らすしかありません。いくらがんばっても、私たちは律法を全うすることはできないのです。私たちはガラテヤの教会の人たちと同じ異邦人です。律法という言葉すらも聞いたこともありません。皆さんの中で、律法を知っていたという人はどのくらいいるでしょうか?「盗むな」とか「人を殺すな」「目には目を、歯には歯を」という言葉くらいは知っていたかもしれません。では、いつ、律法を学ぶようになったのでしょうか?そうです。クリスチャンになってからです。クリスチャンになってから、「聖書には十戒とかさまざまな律法が書いてある。私たちは神の戒めを守らなければならないんだ」ということが分かります。するとどうなるでしょうか?律法を守らなければ、神様に受け入れてもらえないんだ。律法を守らないと神様からさばかれてしまう。「ああ、安息日を守れと書いてあるので、日曜礼拝を守らなければ」「姦淫を犯すなと書いてあるので、もうHなことはできない」「隣人を愛せよと書いてあるので、人には親切にしなければならない」・・・だんだんと守るべきことが多くなります。そうすると、恵みによって救われて自由なはずだったのに、律法の奴隷になってしまうことになります。それでは、ガラテヤの教会の人たちと同じです。私たちは律法と縁もゆかりもなかったのに、クリスチャンになったがために、律法を知り、律法の奴隷になる可能性もありえるということです。

 それでは、アブラハムのもう一人の子はだれでしょうか?イサクです。イサクのお母さんは、サラです。サラは奴隷ではなく自由人でした。だから、イサクは自由人の女の子どもです。イサクは肉によって生まれたのではなく、約束の子どもであり相続者です。イサクはクリスチャンの型、タイプを表わしています。私たちクリスチャンは恵みによって救われました。救われたとき、御霊によって生まれ、神の子どもとなりました。そうすると、神様が父であり、私たちは神の息子であり、娘です。そしてそれは、父なる神様の相続人ということです。ああ、それなのに、なぜ、律法を守って女奴隷の子どものようになるのですか?私たちは自由の女の子どもですから、奴隷ではありません。神様の奴隷ではなく、神様の子どもです。それでは、約束によって生まれた、神の子どもは律法に対してどのように対処したら良いのでしょうか?第一は肉によって(私たちのがんばりによって)律法を守る義務はありません。ローマ8:8「肉にある者は神を喜ばせることができません」と書いてあります。では、律法は守らなくて良いのですか?もちろん、律法は神のみこころですから守るべきです。でも、イエスの御霊が私たちの中にいて律法を守ることができるようにしてくださるのです。第二は、神のさばきが怖いのからしかたなく守るのではなく、神様の愛に応えるために自分の意思で守るのです。時には、守れないときもあります。でも、イエス様が律法の罰と呪いをすべて負ってくれたので、私たちは常に赦しの中にあるのです。

 ある人たちは、「ああ、クリスチャンになると縛られるんじゃないか。神の戒めとか律法もたくさんあるからイヤだ。このまま自由な生活をしていたい」と言うかもしれません。でも、みなさん、この世では「律法」という言葉こそ使いませんが、私たちを縛るものがたくさん、たくさんあります。まず、この世の法律です。道路交通法をはじめ、たくさんの法律が私たちの身の回りにあります。税金も支払わなくてはなりません。私たちは生きるために仕事をしなければなりません。「働かなければならない」「子どもを育てなければならない」これも一種の律法です。世間体の律法になります。「人から馬鹿にされたくない、良く思われたい」これも律法です。自分の中にも律法があります。それは良心です。悪いことをすると良心の咎めを覚えます。過去の過ちや失敗で縛られている人がいます。ある人は、「私はこうならなければならない。これを得なければならない」という、将来によって縛られています。つまり、私たちがしなければならないこと、してはならないこと、みな律法であります。私たちは生まれてこの方、律法という言葉こそ使いませんが、律法のもとで奴隷だったのではないでしょうか?「まさか?私は奴隷じゃありませんよ」とおっしゃる方に質問します。あなたは「・・・しなければならない」「まだ、だめだ。まだ、達していない」「ああ、もっとがんばらないと」という言葉を良く使うでしょうか?こういう人は立派な律法の奴隷です。

 日本人のほとんどが、律法の奴隷ではないでしょうか?人の目に縛られ、自分の過去にしばられ、この世の価値観に縛られています。どうしたら良いのでしょう?イエス様を信じて、神の子どもとなれば良いのです。恵み深い神様のうちに、本当の自由があります。「御名があがめられ、御国が来ますように。みこころがなされますように」と祈りながら、イエス様に従っていくと、この世の様々な束縛から不思議に解放されます。これまでは飯を食うために、しかたなく働いてきたかもしれません。しかし、「どうしたら私の賜物を最大限に生かして神と人々に仕えることができるだろう」と積極的になります。これまでは、「まだダメだ、まだダメだ」と思ってがんばってきたかもしれません。しかし、「神様、あなたにあって満足します。もし、あなたがチャレンジを与えるなら一緒に達成しましょう!」となります。これまでは「子育てはしんどい。なんと時間と労力を子どもに取られるのだろう?」。しかし、聖書には「子どもは主の賜物、胎の実は報酬である。矢筒の矢である」と書いてあります。子どもが私の次に、神様の働きを拡大してくれると思えば、立派な投資になります。このようにクリスチャンとは、自由な女の子どもの子孫です。私たちは神の子どもであり、さまざまな律法や義務を超越して生きることができるのです。

2.奴隷の女とその子を追い出せ

 ガラテヤ4:30,31 しかし、聖書は何と言っていますか。「奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。」こういうわけで、兄弟たちよ。私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもです。パウロは「奴隷の女とその子どもを追い出せ」と言っています。これは一体どういう意味でしょうか?二人の女、ハガルとサラは2つの契約を象徴しています。古い契約(旧約)と新しい契約(新約)です。古い契約は肉によって生まれます。奴隷の女ハガルはイシュマエルを生みました。イシュマエルは律法の型です。新しい契約は霊によって産まれます。自由の女サラはイサクを生みました。イサクはイエス・キリストの型です。古い契約によって律法が与えられました。そして、新しい契約によってイエス・キリストが与えられました。言い換えると、古い契約は律法を生み出し、新しい契約はイエス・キリストを生み出しました。長い間、サラもハガルもアブラハムのもとで共にくらしていました。旧約と新約が同じ家の中にいたということです。また、その子どもたちであるイシュマエルとイサクが同じ家の中にいました。つまり、律法と恵みが同じ家にいました。彼らが暮らしている雰囲気はどのようなものだったでしょうか?ハガルはサラを見下すようになりました。また、イシュマエルはイサクを迫害しました。同じ家の中に律法と恵みが暮らしたので平和がなかったのです。そのために、「奴隷の女とその子どもを追い出せ」という命令が出てきます。

 さて、これを私たちの信仰生活に適用するとどのようになるでしょうか?イサクが乳離れするほどに成長しました。これから堅い食物を食べるようになります。その頃から、イシュマエルと争いが生じてきたので、「奴隷の女とその子どもを追い出せ」といわざるをえなくなります。つまり、私たちが恵みによって成長していくと、「律法を追い出せ」という時がやってくるということです。私たちが恵みによって成熟していくと、自分の中に律法を住まわせておく場所がなくなります。争いの原因は、恵みと律法が一緒になろうとしているからです。だから、平安がないのです。イサクとイシュマエル、つまり、恵みと律法が手をつないで歩むことがありえません。イサクが成長したときに、恵みが「律法を追い出せ」と叫びました。私たちの人生においても、これと同じことが起こらなければなりません。ガラテヤ4章の前半では、「私たちは、本当は相続人であったのに、後見人や管理者の下にあって、奴隷と少しも違わなかった」と書かれています。「ああしろ、こうしろ、こうしちゃだめだ。何やってんだ!」と叱られ、あるときは不当な扱いを受けて育ちました。でも、本当は相続人であり、神の子どもだったのです。神の子どもが成長したら、後見人や管理者は不要になります。後見人や管理者とはだれでしょう?それは律法です。ある程度、成長したら、私たちは律法ではなく、恵みによって生きるべきなのです。しかし、あるクリスチャンたちは、未だに恵みと律法と混ぜ合わせて生活しています。あるときは恵みで生きて、あるときは律法でがんばっています。だから、心に平安がないのです。あなたは、これからも恵みと律法を混ぜ合わせで生きていきますか?それとも、律法を追い出して、恵みだけで生きて行きたいでしょうか?

 私たちはクリスチャンになったとき、霊的に生まれ変わりました。神様を信じています。聖書のみことばにも従おうと思っています。でも、自分の考え方が全部変わったわけではありません。新しくなったところもありますが、昔の考え方で生きているところもあります。昔の考え方とはどんなものでしょうか?それは、私たちが未信者だったころ、後見人や管理者の下にありました。両親や学校の先生、先輩たちから、「ああしてはいけない、こうしてはいけない、ああしろ、こうしろ」と育てられてきました。そのたびごとに自分は「こうしなければ、ああしなければ」と頑張って生きてきました。そのため、私たちは霊的に生まれはしたものの、考えの中に、恵みという価値観が十分入っていないのです。そのために、子育てや仕事、夫婦の関係、様々な活動をするとき、これまでの律法によってがんばってしまうのです。いつの間にか、子どもをさばき、妻や夫をさばき、同僚をさばき、兄弟姉妹をさばいています。まだ、恵みがうわべだけで、腹の奥底まで達していないのです。相変わらず、恵みではなく、自分の力、自分の知恵、自分の意思でやろうとするのです。ローマ12:2「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」「心」とは、思いとか考え方という意味です。つまり、「自分の考え方を神のみこころに沿ったものに変えなさい。律法主義ではなく、イエス様の恵みによってするように考えよ」ということです。私たちは考えの中にある律法主義を追い出さなくてはなりません。律法と恵みが同居しているから、平和がないのです。私たちの考えの中から、律法を追い出しましょう。すべてのことを、神の恵みによって行なうように決意しましょう。どんなことでも、イエス様に頼りましょう。どんなことでも、御霊に導かれて進みましょう。

 先週は、家内と子どもたちがいなかったので、ちょっと時間がありました。それで、久しぶりにベン・ウォン師のコーチングをCDから、文章化しました。私はベン・ウォンのメッセージを聞くたびに辛くなります。「セルチャーチは関係が鍵である。関係を作るためには時間を共に過ごす必要がある。大きな事をしなくても良いから、人々を深く愛しなさい。あなたがコーチとなりたいなら、まず自分の生活を変えなさい。言っていることをやっていることを一致させなさい。教会員を変える前に、まず自分が変わらなければならない。牧師室に閉じこもっていないで、外に出なさい。一週間の時間をどのように過ごしているか吟味しなさい。」これまで、合計、6回のセミナーがありました。大体、言っていることは毎回、同じです。でも、それを実行するのがとても難しいのです。「いっそのこと、セルチャーチとか、コーチングなんかやめてしまおうか?日本人にも合わないし、大体、私自身にも合わないんじゃないだろうか?」ベン・ウォン師のメッセージを聞くと、全部否定するか、全部肯定するか2つに1つになります。いままでのやり方で行くか、それとも全く変えるか。捨てるか、選ぶか。どっちかです。私が一番、不得意な分野はコーチングだということが分かりました。神学校のように、教えることはできますが、コーチするのは別の分野です。コーチとは、その人が到達したい目標が達成できるように手助けすることです。そのためには、相手のニーズに応えならが、一緒に歩み、模範を示す必要があります。今回、オリンピックを見て、コーチがいかに重要か知りました。日本は、水泳、柔道、体操、フェンシングと、いくつかのメダルを取りました。しかし、その背後にすばらしいコーチがそれぞれいました。本当に、今、迷っています。

みなさんの中にも、このままこれまでやってきたように進むべきか?それとも、神様のチャレンジを受け止めて,変わるべきでしょうか?みなさんは、神様のみこころは何かわかっているんじゃないでしょうか?私の場合は、「本当にセルチャーチの牧師になりたいなら、人々と時間を過ごしなさい」とチャレンジを受けています。さらっと、表面的に付き合うのは楽です。でも、深く交わると「ああ、鈴木先生はこんな弱さがある。ああ、躓いちゃった」ということが出てきます。そのためには、メッセージや教えだけではなく、心と生活全体が聖くならなければなりません。富士山は遠くから見ると綺麗ですが、いざ登ってみると、美しいとはとても言えないようです。イエス様は遠くからもすばらしかったですが、近づいて交わってみると、もっとすばらしいお方だったでしょう。では、どうすれば良いのでしょうか?私はきょうのメッセージを準備しながら、1つのヒントが与えられました。自分の生活が変わることも、自分の考え方が変わることも、律法でやってはいけないということです。やっぱり、恵みで捉えて、恵みで行なうべきです。そうすると突破口が見えてきます。自分のがんばりでやろうとすると、NoかYes、百かゼロ、どちらかになります。そうではなく、神様から与えられている、チャレンジも、主の恵みによってやってみる。主の恵みとは、イエス様の力、聖霊様の助けという意味です。「聖霊様、この点はどうしたら良いでしょうか?」と絶えず聞きながら、行なえば、あとから結果がでてくるのではないかと思います。

 宿題が1つあります。律法ではなく、恵みで生きるということはどういうことなのか1つ1つの課題に対して取り組んでみましょう。神様のチャレンジを受けるということは、これまでの生き方を全部否定して、全部変えるということではないと思います。神様がくださった良いものもたくさんあると思います。前回も言いましたが、変えられて行くプロセスの中に意義があります。どうぞ、自分の意思の力とかがんばりではなく、聖霊様の助け、つまり恵みによって歩んでいきたいと思います。

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2008年8月10日 (日)

生みの苦しみ     ガラテヤ4:12-19

 人が福音を信じて救われたのに、後から間違った教えが入って、元の木阿弥になってしまったということがあるのでしょうか?楽観的に考えるならば、「人が一旦、信じて救われたらば、滅びることはない、ちゃんと天国に行ける」と考えます。でも、天国だけがゴールではありません。その人が、ゆがんだ信仰を持ったために、荒野の生活を送るということはありえることです。イスラエルの民は荒野を40年さまよい、その時代のたちは約束の地に入ることができませんでした。ガラテヤ教会の人たちは、最初、パウロが宣べ伝えた福音によってイエス様を信じて救われました。しかし、あとから偽兄弟が入り込み、パウロの福音をゆがめてしまいました。そして、前の教えから離れ、律法主義の奴隷となっていました。パウロはそのことを知って、大変憤り、彼らが正しい福音を悟るように書いたのがこのガラテヤ人への手紙であります。きょうは、3つのポイントで語りたいと思います。

1.最初の信仰

 最初、ガラテヤの人たちが、使徒パウロを迎えたときどのような状態だったでしょうか?彼らはパウロを神の御使いのように、またキリスト・イエスご自身であるかのように迎えました。そして、福音を信じて喜びに満たされたことでしょう?最初は、パウロに対して、非常に純粋な思いがありましたが、今では、「パウロは本当に使徒だったのだろうか?」「パウロの福音では足りなかったんじゃないだろうか?」と疑いに満ちています。もし、これを現代風に置き換えたら、このようになると思います。亀有教会へ行って、鈴木牧師から福音を聞いて、イエス様を信じたけれど、本当にあれで救われたのだろうか?鈴木先生はどこからどこまで冗談か分からない。私生活は牧師らしくないし、どうもうさんくさい。他の兄弟姉妹も、偽善者じゃないだろうか?あの教会はやっぱりおかしいんじゃないだろうか?もう、行くのはやめよう。それよりも、家々を訪問している、○○の証人の方が正しいんじゃないだろうか?彼らはとても熱心だし、誠実そうだ。わざわざ、私のお家まで訪ねてくれた。「一緒に聖書を勉強しよう!」などと言ってくれた。亀有教会では聖書を勉強せず、伝道もしないで、交わりばかりしている。熱心で誠実な○○証人の方がやっぱり正しいんだ。そうに違いない。だれ、とは言いませんが、そういう方がいるようです。母教会ではその方を非常に失敗して祈っているようですが、何せ、遠いところにあるので、直接的には援助できないようです。

 ガラテヤの教会は最初、パウロに対してどういう態度で接していたのでしょうか?私たちはパウロと言うと、スーパーマンのように格好が良い人だろうと想像します。しかし、ある人が描いた、パウロの絵を見ましたが、ハンサムでもなく、スタイルもあまりよくありませんでした。しかも、パウロは何らかの病気を持っており、それが彼の弱さとなっていました。パウロの病気、また弱さとは何でしょう?聖書学者たちは色んな事を言います。パウロは目の病気があったのではないだろうか?使徒9章にありますがダマスコの途上で、まばゆい光を見ました。そのため、3日間盲目になり、アナニヤに祈ってもらったとき再び見えるようになりました。そのとき、目からうろこが落ちたと描かれています。水晶体が落ちたとは思いませんが、それ以来、目がよく見えなくなったのかもしれません。そのため、パウロの手紙は多くの場合、口述筆記でなされており、最後の部分だけパウロが自ら大きな字で書いています。他の説は、パウロはマラリヤではなかったのではないだろうか?肉体的に弱ると、マラリヤが出てきて大変苦しんだという説です。他にはパウロはてんかんだったのでは?人前で泡をふいて倒れてしまう。そのため、「パウロって本当に正常だろうか」と思われ、恥ずかしい思いをしたという説です。Ⅱコリント12章にありますが、パウロは病気を「肉体のとげ」と言っています。イエス様に「これを私から去らせてください」と3度も祈った。けれども、高慢にならないようにと主が許したものであり、弱さの中に、キリストの力が現われることを悟りました。しかし、このガラテヤ書を見ると、その弱さは、目と関係しているのではという示唆を与えてくれます。15節には「あなたがたは、もし出来れば自分の目をえぐり出して私に与えたいとさえ思ったではありませんか」と書いてあるからです。名前は忘れましたが、目の神経とか網膜がやられる、とても痛い病気があります。具体的にはわかりませんが、パウロの奉仕活動にもものすごくマイナスであったようです。

 でも、ガラテヤの人たちはパウロの容貌とか、肉体的な弱さを見るのではなく、パウロが宣べ伝えた福音を聞いて、主イエス・キリストと出会ったのであります。これはとても大事なことです。中国人はどういう人物であっても、語っている内容が真理であれば、信じるそうです。しかし、日本人の場合は、伝える人がどういう人物であるかまず目が行きます。「ああ、この人は信じるに値する人だなー」と一旦信用したなら、その人が何を言っても信じるようです。だから、日本人は詐欺に遭い易いのかもしれません。そればかりか人を見ると、躓くのも早いです。ですから、できるだけ早く、主イエス・キリストと出会い、聖書の真理に立つならば、信仰生活が安定するのであります。日本において、理想的なのは、伝えている内容も真実であることもさることながら、伝えている本人が信頼に値するということであります。ですから、生まれたばかりのクリスチャンは、できるだけ早く、生けるキリストに出会い、みことばに土台するように導いていく必要があります。人には躓くかもしれませんが、キリストに躓くような人はいないのであります。また、私たちはガラテヤ教会の人たちのように、外見ではなく、宣べ伝えられた福音に目を留める必要があります。現代は映像(AV)の時代で、ほとんどのものが、目と耳から入ります。テレビにおいても、美しい女子アナがもてはやされています。どうせ同じ、報道を聞くなら、「綺麗なネーチャンの方が良い」と思うからかもしれません。箴言31:30「麗しさはいつわり。美しさはむなしい。しかし、主を恐れる女はほめたたえられる。」と書いてあります。

 とにかく、外見ではなく、霊的なもの、真実なものに目を向けていく、ことが大切であります。いつまでも変わらないものは、主イエス・キリストご自身と、神のみことばであります。

2.ゆがめられた信仰

 パウロが去ったあと、偽兄弟らがやって来て、他の福音を伝えました。パウロは「他の福音と言っても、もう1つ別に福音があるのではない」と怒っています。偽兄弟らは、「信じるだけではだめで、割礼を受け、モーセの律法を守らなければならない」と教えました。つまり、恵みではなく、行ないによる救いを主張したのです。ガラテヤの人たちは、「ああ、そうなのか」とコロっとやられて、真理の道からそれてしまったのです。どうして、彼らはパウロの福音から他の福音の方へ行ってしまったのでしょう?その第一の原因は、律法主義、つまり行ないによる救いは、人間の考えに合っているからです。私たちはもともと、宗教的であり、良い行ないをして救われると言われた方が納得するのです。それは、まことの神様から離れたために、ゆがんだ考えがそなわってしまったのです。「信じるだけではだめか?やっぱり私たちの努力とか行ないが必要なんだ?では、何をすれば良いのですか?」その人たちは、なすべき儀式とか守るべき戒めを教えます。それらを行なうと、「ああ、救われている感じがするなー」と思うようになります。世の中にあるほとんどの宗教は、信じるだけではダメで、お布施をあげたり、功徳を積んだり、一生懸命拝んだり、布教したり、修行する・・・そういうことが含まれています。何か守るべき戒律やお勤めがある方が、安心するのであります。しかし、聖書は信仰によって、恵みによって救われると言います。もし、行ないも必要というのであれば、イエス・キリストの十字架が無駄になるからです。イエス様のあがないは完全であって、私たちはただそれを受け取るだけで良いのです。行ないを主張する人たちは、十字架の敵であります。

 もう1つの原因は、そういう人たちほど熱心だということです。異端ほど熱心なものです。たとえば、熱心なセールスマンとそうでないセールスマンがいたとします。どっちの品物を買うでしょうか?おそらく、熱心なセールスマンが勧める品物を買うでしょう?何故でしょう?「その人がそれほど熱心ならば、勧めている品物はよっぽど良いものに違いない」と思うからです。だけど、熱心が売るための手だったらどうするでしょう?私たちは熱心さのゆえに、ひっかかったというイヤな経験はないでしょうか?高い羽毛布団を買わされたとか、高価なサプリメントを買わされたという経験はないでしょうか?品物ぐらいだったらまだ良いです。でも、間違った教えを受け、間違った宗教に入ったならばえらいことになります。いろんなことに縛られ、社会生活ができなくなくなります。一番残念なのが、まことの神様から離れていくことです。そうです。異端ほど熱心なものです。さきほど読んだガラテヤ書4章に熱心ということばが4回ほど出てきます。4:17「あなたがたに対するあの人々の熱心は正しいものではありません。彼らはあなたがたを自分たちに熱心にならせようとして、あなたがたを福音の恵みから締め出そうとしているのです。」異端の特徴は、キリストの恵みではなく、自分たちに熱心にならせることです。自分の教え、自分のやり方に目を向けさせ、結果的にキリストから離れるのです。使徒パウロは、ローマ10章で「その熱心は知識に基づくものではありません」と語っています。

 ここに来られているみなさんは、大丈夫だと思いますが、洗礼を受けた後、来なくなった人はどうでしょうか?おそらく、まちがった教えによって、信仰がゆがめられたのではないでしょうか?あるいは、何かのことに躓いたという場合もあるかもしれません。生まれたての赤ちゃんは本当に弱い存在です。病気になったり、怪我をしたり、いろいろなことがあります。霊的にも同じことであり、信じたばかりの人は、簡単に躓きます。また、1つの教えを受けると、「これしかない!」みたいになり、他のものを寄せ付けないところがあります。それが聖書的で正しければ良いのですが、そうでないものもたくさんあります。キリスト教界において数百年、猛威をふるった教えはヒューマニズムです。彼らは神の権威とか絶対性を言われると猛反対します。30,40年前は、カリスマと反カリスマではないかと思います。異言や預言が絶対なければならないという人たちがいました。それに傷ついた人たちは、すべての霊的賜物を否定しました。そして、教会ができてから今に至るまであるのが律法主義であります。これは、真面目で正しいように見えるので、恐らく7-8割くらいはこれにやられているのではないかと思います。異端ではありませんが、非常に苦しい信仰生活を強いられます。自分をさばき、人をさばき、神様をさばいて生きています。「まだ、だめだ、まだ、だめだ」と自分を打ち叩いて、従わせ、険しい坂道を登っています。かとって信仰を捨てるわけではありません。ただ、ひたすら神様を恐れ、神様の戒めに従う、旧約聖書的な人たちです。何年か前、アメリカからメル・ボンド師が来られ、こう言いました。先生は天に引き上げられ、イエス様を会ったそうです。そのとき、イエス様は「現代、教会の成長を妨げている一番の原因は、律法主義です」と言われたそうです。

3.軌道修正した信仰

 ロケットが月に向かっているとき、軌道がそれたらどうするでしょうか?そのままでは、月に着陸できません。ロケットは絶えず、軌道修正を繰り返しながら、目的地に到達するのであります。信仰も同じだと思います。天国まで、自動操縦で行きたいところですが、そういうわけにはいきません。いろんなことが起こって、まことの信仰からずれたり、離れたりすることがあります。軌道修正を、私たちで言うなら、悔い改めと言えるでしょう。ヨハネ黙示録3:19「わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい」と書いてあります。父なる神様は優しいだけではなく、愛するがゆえに、叱ったり、懲らしめたりします。そのとき、「ああ、道を修正しよう!」と悔い改めるのです。ガラテヤの教会は、信じた後、誤った教えに引き込まれてしまいました。パウロはそれを非常に危惧しています。ガラテヤ5:4,7でこのように言っています。「律法によって義と認められようとしているあなたがたは、キリストから離れ、恵みから落ちてしまったのです。・・・あなたがたはよく走っていたのに、だれがあなたがたを妨げて、真理に従わなくさせたのですか」。恵みから落ちてしまうことがあるのでしょうか?「一度、信じたんだから絶対大丈夫」というのは聖書的でないかもしれません。パウロは「私のようになってください」と言っています。それは、「あなたがたも私のようにキリストから離れないで、恵みの中を歩んでください」ということでありましょう。

 そして、パウロは心のうちを書いています。ガラテヤ4:19「私の子どもたちよ。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています。」「形造る」は、ギリシャ語では、赤ちゃんが胎の中で形が造られる様を言うようです。パウロは、そのために、もう一度、産みの苦しみをしています。つまり、彼らが福音を信じたときに、産まれたのに、まもなく形が変形してしまった。だから、もういちど、胎の中で形を造り、産み出さなければならないということです。信仰がおかしくなった人を元通りにするということは、それほど大変だということです。捻じ曲がった年数が長ければ、長いほど、元に戻るのが困難になります。カール・マルクスといえば、共産主義を打ちたてた人で有名です。彼は「宗教は民衆の阿片である」と言いました。阿片とは中毒ではなく、痛み止めという意味で言ったようです。マルクスの父はユダヤ教からプロテスタントに改宗しました。そして、マルクス自身も6歳で洗礼を受けました。でも、どこから、無心論者になったのでしょうか?彼はルソーとかへーゲル、唯物論などの哲学を学びました。そして、資本論を書き、多くの人に影響を与えました。労働者の解放ばかりではなく、反キリスト的な影響も与えました。もう、そこまで行くと産みなおすことは不可能です。ですから、信じたばかりの人がちゃんと霊的に成長するように面倒を見る人が必要です。パウロは産みっぱなしではなく、育てる心を持っていました。

 私はこういう箇所を読むと、苦しくなります。メッセージにかなりのウェートを置いていますが、一人ひとりを面倒見るという牧会は、弱いなーと常々思っています。この間、ベン・ウォンのコーチングを久しぶりに聞いてみました。「その人が口で大事だと言ってはいても、本当にその人が大事にしているかは別のことがある。それはどうしたら分かるか?1週間の時間、どのようなことに一番時間を費やしているか。その人が一番時間を費やしているものが、その人の大事に思っていることである。」そのように語っていました。「うぁー、私はセル(共同体)が大事だとか、コーチングが必要だと口で言っています。でも、共同体で過ごす時間、コーチングのためにどれくらい時間をとっているだろうか?」と思いました。資料を作るために勉強をするのは好きですが、実際、生きている人にそれを適用するということが弱い。カウンセリングの勉強は好きですが、人と時間をとってカウンセリングするのはちょっとおっくうです。どうぞ、私のためにも祈ってください。あと10年間、このままで過ごすか?それよりも、だれかとコーチングを始め、それを広げて行くか?パウロは「あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています」と言いました。「再び」ですから、一度産みの苦しみを体験し、もう一度、産みの苦しみをしているということです。

女の人はかなりの%で産みの苦しみを体験しています。どうでしょう?苦しんだあと、誕生の喜びが来ると思いますが、苦しみは忘れられるでしょうか?おそらく、忘れないと思います。でも、それなのに二人目を生む人がいるのでしょうか?では、男性は産みの苦しみをしないのでしょうか?パウロは再び産みの苦しみをしていると言いました。ですから、男性も生むことができるし、その苦しみも味わうことができるということです。何を生むんでしょうか?それは霊的な子どもです。新しいクリスチャンを生み出すということです。思えば、私を導いてくれた職場の先輩も、私を随分と面倒みてくれました。私の友人となり、どんな話も聞いてくれました。あの先輩と出会っていなければ、絶対、クリスチャンにはなっていなかったと思います。それだけ私はキリスト教とは縁もゆかりもないほど、へん曲がっていたということです。今でも、まだへん曲がっているのに・・・。大川牧師は教えてくれましたけど、産んでくれたのは、職場の先輩だったのです。そして、独り立ちできるまで結構、面倒見てもらいました。最初のころは、金魚のふんみたいにくっついていました。今は偉そうにしていますけど、最初のころは疑問だらけで、質問しまくりました。私も4人の子どもを育てましたけど、まだ育て中ですが、結構、放任主義的なところがあります。なぜなら、私が家庭で放っておかれたからです。「親の世話なんかなるもんか?」みたいに育ちました。今は、その逆の立場です。どうしても自分が育てられたように、育てていく傾向があります。いくら聖書の真理を教えられても、生活は少しずつしか変えられていけないようです。少しずつ変えていきましょう。これを1年続けていけば、10年後はかなり変わっているんじゃないでしょうか?仮面ライダーみたいに、いっぺんに「変身」できたら良いけど、それは無理です。ダイエットのようにリバンド現象が起こります。少しずつ愛の人になり、少しずつ寛容な人になれば良いんじゃないでしょうか。

この世は結果を問います。信仰生活はどうでしょうか?私は信仰は、結果よりもプロセスが大事じゃないかと思います。「こうしなければ」「ああしなければ」と目標を立てるとどうしても律法主義的になります。そして、うまくいかなければ、全部、投げ捨ててしまいます。そうではなく、そこまで達するプロセスが大事です。天国に行くまで、栄光から栄光へと変えられるプロセスです。最初の信仰、ゆがんだ信仰、そして軌道修正する信仰。また、ゆがみが来て、軌道修正する。これを繰り返していく過程において、成長していくのではないかと思います。

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2008年8月 3日 (日)

子としての身分     ガラテヤ4:1-11

 子どものときは、家庭や学校で、いろんなことをしつけられます。「あれをしてはいけない」「これをしてはいけない」とダメ出しを受けながら育ちます。その結果、「ああ、自分はいけない子で、バカなんだ」と思うようになります。また、学校や社会で幅を利かすのが業績志向です。「成績はどうか」とか「何ができるか」ということで人を評価します。勉強のできる人、仕事のできる人が、イコール、すばらしい人間ということになります。そのため、多くの人たちは人と比べながら、「自分はまだ、まだだ」と劣等感を抱いて生きています。本当は行ないよりも、もっと大切なことがあります。それは「自分は何者であるか」というアイディンテティです。もし、自分は何者であるかということを正しく知るならば、良い行ないも、すばらしい能力も生まれてくるのであります。聖書は私たちを何と言っているでしょうか?聖書は、私たちは「神の子ども」であると言っています。「クリスチャンは神様の息子、神様の娘である」ということです。

1.子たる身分

 ガラテヤ4:4-7 しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。これは律法の下にある者を贖い出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父。」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。ですから、あなたがたはもはや奴隷ではなく、子です。子ならば、神による相続人です。

 私たちが神の子どもとなるために、神様はどのようなことをしてくださったのでしょうか?週報にも書いてありますが、順番に調べて行きたいと思います。

①神はご自分の御子を遣わしました

 神様はアダムとエバを創造しました。神様はイスラエルの民を選びましたが、契約を全うすることはできませんでした。人類は依然として罪と死の下にありました。しかし、定めの時、つまり時が満ちた時、神様は御子イエスをこの地上に遣わしました。それがクリスマスであります。

②女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました

 イエス様は女から生まれました。「当たり前でしょう。人は男から生まれる訳はないでしょう。」と言うかもしれません。しかし、これは預言の成就であります。創世記3章には、「女の子孫がサタンの頭を打ち砕く」と預言されています。またイザヤ書7章には「乙女がみごもり、男の子を生む」と預言されています。イエス様は律法の下で生まれ、律法に完全に従ったのであります。

③律法の下にある者を贖い出した

 贖うとは、「代価を払う」「負債を支払う」という意味です。律法は「あなたには罪があります」と断罪します。しかし、イエス・キリストは私たちの罪を負い、身代わりに裁かれました。そして、律法の下にある人たちを贖い出してくださったのです。だれでも、イエス様の贖いを受けた者は、もう裁かれる必要はないのです。キリストにあって罪赦され、義とされています。

④「アバ、父」と呼ぶ、御子の御霊を私たちの心に遣われた

 これは新生と関係があります。だれでも、イエス様を信じると、心に聖霊が入ってきます。そして、その人は霊的に新しく生まれます。これは神の子という立場の変化だけではなく、内側の性質も変わるということです。「神様が私のお父さんなんだ。そして、私は神様の子どもなんだ」という自覚が与えられます。「アバ」とは、イスラエルで、子どもがお父さんを親しく呼ぶ、呼び方です。日本では「パパ」「お父ちゃん」あるいは「ちゃーん」みたいな呼び方です。大変、親しい関係です。

 もし、自分が神の子であることを心から理解したならどうなるでしょうか?神の子とは、「神様の息子、神様の娘」という意味です。神様は王様です。王様の息子を何と言うでしょうか?王子、プリンスであります。では、王様の娘を何と言うでしょうか?王女、プリンセスであります。かつては、私たちは後見人や管理者のもとにありました。本当は王子であり、王女だったのに、この世の幼稚な教えの下に奴隷となっていました。家庭や学校で、ひどい扱いを受けて育ったかもしれません。この世の価値観のもとで、バカにされたり、不当な扱いを受けたかもしれません。でも、本当の自分はだれだったのでしょうか?王子であり、王女だったのです。これって、すごいことじゃないでしょうか?私は郵便局でアルバイトをしていますが、そこに鈴木宗孝という人が働いています。その人は団地に郵便物を届ける仕事をしています。その人は、自分の名前を見せながら、「俺は吉宗の子孫なんだ。世が世だったら大変なことなんだ。無礼者め、手打ちにいたすぞ」と言いました。私は「なるほど、だから宗孝と言うのか!」と本気に信じました。何度か、話しているうちに、彼はこう言いました。「徳川の子孫が、こんなところでアルバイトなんかしているかよ」と。つまり、からかわれたんですね。しかし、私は、一度はそれを信じたので、彼に対するイメージがなかなか消えないんですね。

 私たちが神様の息子、娘であるとは、狂言とか嘘ではありません。これは本来、神様が私たちに与えたかった身分であり、立場であります。神様は全世界、全宇宙の創造者であり、すべてを所有しておられます。もし、私たちが神様の子どもとなるならば、どうなるのでしょうか?ガラテヤ4:7「ですから、あなたがたはもはや奴隷ではなく、子です。子ならば、神による相続人です」と書いてあります。ローマ8:17「私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。」奴隷であるなら財産を受け継ぐ権利はありません。でも、息子や娘だったら、財産を受け継ぐ特権があります。父なる神様は一体、どれくらい持っているのでしょうか?神様は全世界、全宇宙の所有者であります。昔、NHKの教育テレビでやっていました。「ある天体は核融合を起こした結果、星雲全体が金でできている可能性がある」と言いました。私はまんざら嘘ではないと思います。黙示録21章には天の都のことが記されています。城壁の土台が高価な宝石でできています。また、大通りは純金でできています。私は5年くらい、土木の現場監督をしたことがあります。建物の土台はだいたい、砂利とか強度の弱いコンクリートです。道は路床が砂利で、表層はアスファルトです。つまり、建物の土台とか道路は一番安い材料を使います。ところが、天の都は、土台や道路に、宝石や純金を使っています。ということは、父なる神様はどれほど金持ちかということです。みなさんは、一度や二度、こんなことを思ったことがありせんか?遠い親戚に億万長者がいて、ある時、自分に何億もの遺産が転がり込む。後から、自分のおじさんが億万長者だったということが分かった。そんな話は、夢物語かもしれません。でも、聖書は私たちが神の子どもであるなら、莫大な神様の持ち物を私たちが相続できると言います。ですから、これは夢じゃなくて、本当のことであります。

 ガラテヤ書3章で、私たちは義とされていることを学びました。そして、この4章には、私たちは神の子どもであると書いています。もし、私たちが義とされていて、神の子どもであることを心から自覚していたなら、生活もおのずと変わってくるのではないでしょうか?「そうしちゃいけない」「ああしちゃいけない」と口うるさく言われなくても、王子らしく、王女らしく振舞うのではないでしょうか?私はついこの間まで古い自転車に乗っていました。ギアとかペダルがギコギコして、「いつ分解するかなー」とハラハラ乗っていました。区役所セルの帰り、ドンキホーテの自転車売り場を覗いた事もあります。内装3段で15,000円でした。「うぁー高いなー」と思いました。そのうち、教会の前に自転車が乗り捨ててあることに気がつきました。前のタイヤがパンクして外れており、他は新品同様です。1ヶ月も放置されており、警察にも届けました。その後も、放置されていました。私の中に1つの考えが浮かびました。「この自転車に、今乗っている自転車の前の車輪をくっつければ、完全になるじゃないか。防犯登録は削り取って、スプレーをかけて色を塗り替えたらどうか?夜こっそり、持って来て、細工をしようか?」「待てよ、私は神様から義と認められている存在だ。そんな自転車乗って、おまわりさんからいつ呼び止められるかビクビク運転するのも嫌じゃないか?」「んんー、だけど持ち主はきっと捨てたんだよ。廃物を利用するのも悪くはないじゃないか」。そんな感じでさらに1ヶ月間過ぎました。気がついたら、その自転車はなくなっていました。突然、教会員の有志が私に誕生日プレゼントだと新しい自転車を下さいました。しかも、1台ではなく、家内の分もです。自転車はブリジストンで内装3段、ドンキの倍はする代物です。その時、私は思いました。「もし、私が放置された自転車を改造して乗っていたら、こういうことにはならなかった。ああ、神の子どもとして、ふるまっていたから、神の子どもらしい自転車が与えられたんだ。アーメン」。

 みなさんは、神の子どもとされています。キリストにあって、あなたは王子、王女です。王子、王女らしく胸を張って生きましょう。王なる神様は、天国へ行く前から、この地上であっても必要を満たしてくださいます。

2.逆戻りしているクリスチャン

 ガラテヤ教会の人たちは、神を知っていたのに、幼稚な教えに逆戻りして、再び奴隷となりました。幼稚な教えとは、律法、「・・・してはならない」「・・・しなければならない」という戒めです。私たちも子どものときは、律法的な教えの下にいました。だが、クリスチャンになって恵みによって生きる喜びを知りました。ああ、それなのに、また律法の奴隷になるなんてありえるのでしょうか?私はあると思います。1つはクリスチャン生活とは何かという教えを受けた後、もう1つはいわゆる献身者となったら、律法の奴隷になる恐れがあります。教会によっては、洗礼準備会なるものを10回コースでやるところもあります。10回コースを終わったら、洗礼を受けられるのですが、その頃には、救いの喜びは消え、「クリスチャン生活って大変なんだなー」と重荷が両肩にのしかかっています。救いはただであり、恵みなのですが、クリスチャン生活は一生懸命がんばらなければならない。毎週、聖日礼拝を守る。毎日、聖書を読み、祈ること。十戒から姦淫とかむさぼりは悪いと教えられます。献金をし、神様から与えられたものをよく管理する。自分の賜物を生かして奉仕する。自分を愛するように隣人を愛する。機会をとらえて伝道する。どれも、悪いものではありません。でも、当人はどう思うでしょうか?この世の中で、たくさん守らなければならないことや、行なわなければならない義務があるのに、教会に来たら、さらに多くなった。しかも、もっと高度になった。「これじゃ、やって行けないよー。天国は行きたいから、死ぬ前にまた教会に戻って来たら良いんじゃないかなー。さようなら、またいつか。」となるのではないでしょうか?でも、真面目な人は、それに従って、歯を食いしばってクリスチャン生活を送るかもしれません。でも、その人は立派な律法主義者になります。そして、律法主義の弟子を新たに作っていくでしょう。

 一体何が間違っているのでしょうか?いわゆる勉強会や弟子訓練に何が足りないのでしょうか?それは、いのちです。いのちとは、神のいのち、聖霊の力であります。しかし、外から律法を教えると、神のいのちが逆に窒息してしまうのです。新生したクリスチャンに最も大切なのは、何を行なうかではなく、「あなたは何者であり、新たにどういう性質が与えられているか」であります。鳥は何故、重力に逆らって飛ぶことができるのでしょうか?それは鳥の中にいのちがあるから、落ちないで飛べるのです。同じように、クリスチャンが罪を犯さなくなるためにはどうしたら良いでしょうか?それは「しなければならないこと、してはならないこと」を学ぶことではありません。そんなことは子どものときからずっと教わってきました。でも、それらを守る力がなかったのです。「でも、今は違います。あなたの中に神のいのちがあります。あなたはイエス様を見上げ、イエス様と一緒に生活すれば良いのです。そうすれば、おのずと罪は犯さなくなり、するべきことをすることができるようになるのです。」クリスチャン生活をあんまり複雑にしてはいけません。クリスチャン生活とは、新たに与えられた神のいのちによって、イエス様と一緒に生活することです。もちろん、神の律法も知る必要があります。それは、「ここを越えたら危ないんだ」と確認するためであります。刑罰が怖くて守るのではありません。神様の愛を裏切りたくない、神様の愛に応えたいから守るのです。たとえ、間違って罪を犯しても、大丈夫なのであります。キリストによって、すでに赦されているので、悔い改めることができます。神様はキリストにあってすべてを赦すことに決めておられるんです。もう裁かれないのです。だから、私たちは安心して、いられるんです。これが、律法ではなく、恵みのもとで生きる違いです。

 もう1つは献身した場合です。聖書的にはすべての人が神様に献身するのが標準であります。でも、教会によっては「献身とは、イコール牧師や伝道者になることだ。献身したら、自分の願いも、世の楽しみもみんな捨ててキリストに従うことだ」と理解されています。私も洗礼を受けて、半年後に献身を表明しました。大川牧師は私に「もう、あなたには気を使いませんよ」と言いました。つまり、一信徒ではなく、献身者として扱うということです。神学校では、自我に死んで、キリストのために生きることが強調されました。そこでは、神学生とは呼ばないで、修養生と呼びました。教会でも「修養会」いうのが毎年ありました。修養とは、「徳性を磨き、人格を高めること」であります。修養生時代、「これでもか、これでもか」と叩かれました。教会で奉仕をするようになってから、人々を救いに導くという使命が与えられました。数ではないのですが、やっぱり数だみたいなところがありました。当教会に来ても、1年に何名受洗者が起こされ、礼拝人数が何名になるか気にかかりました。「もっとできるはずじゃないか?少ないなー」という気持ちがいつもありました。あるとき、神様は私にこう言っているように思いました。「パウロはあれだけがんばったのに、お前は何をやっているんだ。歯がゆいぞ!」。私は「今、天に召されたら、恥ずかしくて神様の前には立てないなー」と思いました。しかし、あるとき「天の父の心」というのはどういうものかと教えられました。エディ・レオ師から「トライアスロン」のビデオを見せられて、嗚咽しました。身障者の息子をお父さんがボートや自転車に乗せて、トライアスロンをした実話です。「ああ、私は何もできない霊的な身障者だ。だけど、父なる神様が私をゴールまで運んで行ってくれる。私がやるのではなく、神様が私を通して働きたいんだ」。それを悟ってから楽になりました。いわゆる、業績志向の律法主義から解放されたわけです。だから、献身しているしないは関係ありません。私たちには神様のいのちがあるのです。神様が私たちを通して働きたいと願っているのです。私たちが神様に差し出したら、神様が用いてくださるのです。

 今、推薦している『グレース・ウォーク・ワークブック』に、きょうの箇所の解説が載っていましたので、抜粋させていただきます。「新生体験をしているクリスチャンが律法の下で生活しています。救われた後、徐々に空しい宗教に入ってしまうケースが数多くあります。多くのクリスチャンは、神は雇用主だと信じています。雇用主なる主の言いつけを守っていれば、それで大丈夫と言うのです。それでは、聖書の教えからあまりにもかけ離れています。ガラテヤ書4:4-7には、私たちは奴隷ではなく、子どもであると書かれています。主は、御子のいのちを私たちに与えてくださいました。子であるがゆえに、奴隷ではありません。従業員の態度は、雇用主の顔色をうかがうものです。だが、子どもは違います。雇用主に対してやるべきことは、やらないことをいちいち聞く必要はありません。父親と同じビジョン、同じ夢をもっています。父親の心を知っているからです。ルカ15章には、父親と二人の息子の物語があります。弟息子は父のもとを離れ、財産を使い果たし、豚飼いをしていました。そのとき、弟息子は父の子どもじゃなかったのでしょうか?いいえ、彼はそれでも父の子どもでしたが、失われた存在でした。彼は本心に立ち返り、父のもとに帰りました。父は彼に一番良い着物を与え、指輪をはめさせ、靴を履かせました。弟息子は、父の子どもという身分を回復したのです。兄息子はどうだったでしょうか?彼は父親のもとにずっといたのですが、従業員のような思いで生活していました。せっかく弟が帰ってきたのに、父に対してこう言いました。「ご覧なさい。長年の間、私はおとうさんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しめと言って、子山羊一匹下さったことがありません。それなのに、遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰って来たこのあなたの息子のためには、肥えた子牛をほふらせなさったのですか。」兄は、父のもとにいたのに、まことにせちがらい生活をしていました。これは当時の律法学者、パリサイ人の生活です。「父なる神に仕え、戒めを破ったことは一度もありません。でも、友だちと楽しめと言って、子山羊一匹下さったことがありません。」「子山羊ぐらい食えよ!」と言いたくなりますが、父の心を全く理解できない冷たい人でした。これが律法主義の信仰生活です。豊かなる神様がそばにいるのに、自由と豊かさを味わうことをしない人です。

 私たちは神様の奴隷ではありません。神様の息子であり、娘です。「何ができるか、できないか」「良い子であるか、良い子でないか」関係ありません。父なる神様は、キリストにあって私たちの存在そのものを愛して、受け入れてくださっています。息子であり、娘ならば、父なる神様が必要なものは与えてくださいます。あの放蕩息子にすら、一番良い着物を与え、指輪をはめさせ、靴を履かせたのです。父なる神様のもとに安らぎましょう。そして、父なる神様から助けと力をいただき、この世において勝利ある生活をしましょう。悪魔にまさる、神の子の権威を用いましょう。使徒パウロは8章で言いました。ローマ8:32「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。」アーメン。

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