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2008年7月27日 (日)

亀有教会のビジョン    エペソ2:19-22

 エペソ人への手紙2章には、教会は聖なる宮、つまり建物にたとえられています。建物というのは、土台があり、柱があり、屋根があります。日本教会成長研修所、今はJCGIネットワークと言うようですが、教会のビジョンをかくときに、建物の絵を使うようであります。私はそこで学んだことはないのですが、練りに練って、凝りに凝って、こういうビジョン(週報の表紙)を掲げることができました。私にセルチャーチを紹介してくださった練馬教会(小笠原先生)のビジョンを少し前に見たことがあります。なんと、この建物が二階建てになっていました。ということは、もっと複雑になっているということです。しかし、これくらいが、シンプルで分かりやすいんではないかと私的には大変満足しているのですが・・・。今日は台湾チームが、先ほど帰りましたので、私が第二のメッセージいたします。ちょうど週報も新しくなったばかりなので、この表紙を説明できたらなーと思って準備しました。

1.標準

標準とは、建物の土台の部分です。ここには、「救い、癒しと解放、従順」と3つのことが、書かれています。つまり、クリスチャンになったならば、「救い、癒しと解放、従順」を持たなければならないということです。多くの場合は、イエス様を救い主として信じるだけで救われるので、洗礼を受ければクリスチャンになれます。クリスチャンになるのは非常に簡単です。でも、その後「なかなか成長しないのはなぜだろう?」という疑問が前からありました。もちろん、何も手をかけないで一人で聖書を読んで、どんどん成長する人もいます。しかし、心に傷があるために、それが信仰の妨げになる場合があります。最初は救われて嬉しいのですが、心の奥底に苦い根があって、それがまた生えてくる。そして、怒りや憎しみからどうしても解放されない人がいます。多くの場合、育った家庭環境から来るものです。私も牧師を20年以上、やっていて不思議に思ったことがあります。ある人は無意識のうちに、牧師に対して敵対心(反抗心)を持つようであります。私も「なんで俺につっかかるのか?腹立つなー」と怒ったことがあります。でも、後から分かったのですが、その人は父親との関係が悪かったので、目の前に、父親的存在がいるものですから、どうしても、それを投影してしまう。父親に対する感情や態度を牧師に向けてしまうということです。ですから、救われた人たちに対して、心の癒しが必要であります。私たちの霊的な部分は新しく生まれ変わりました。でも、魂、心の部分は、依然として古いまんまの部分があるということです。

また、解放というのは悪習慣とか悪霊による束縛からの解放であります。日本では、クリスチャンになる前に多くの人たちは偶像崇拝をしてきました。先祖の代から、お寺や神社との関係が深いという人もいます。占い、霊媒、オカルトなどから悪霊の支配をある程度受けている場合があります。深い心の傷、トラウマ、性的罪、薬物依存なども、悪霊の影響を受けます。とにかく、そういうものを悔い改めて、縁を断つ必要があります。その後、イエスの御名によって祈るならば、悪霊が「ぱーと」去ります。心の中にいつも、混乱や葛藤、恐れがある場合、悪霊が原因しているときがあります。でも、これも必ず解放されます。イエス様が地上に来られたとき、福音を伝えました。それと同時に、イエス様は病を癒し、悪霊を追い出しました。同じように、救いだけではなく、心の癒しと悪霊からの解放を行なう必要があるということです。でも、癒しと解放のところにとどまると、これもまた問題です。私も解放のキャンプとか、カウンセリング、エリヤハウス、さまざまなものを研究してきました。それらは確かに魅力的で、教えられるところもたくさんあります。でも、残念ですが、この地上では完全に心が癒され、解放されるということはありません。ですから、「自分はまだ完全に癒されていない」と自分のことばかり見ると、成長できなくなります。癒しや解放も必要ですが、次のステップがあります。それは、従順であります。

従順とは、キリストの弟子になるということです。この地上ではわからないことがたくさんあります。気分の悪いこと、思うようにならないこと、腹が立つこともいっぱいあるんですね。そのときに、イエス様が救い主だけではなく、私の主、王様であるという主従の逆転がなければなりません。クリスチャンになったら、自分が王様ではなく、イエス様が王様でなければなりません。イエス様を心に受け入れたらクリスチャンになります。でも、相変わらず、自分が王座について、イエス様を足元に置いている。そうすると、心の中にたくさんの問題や悩み事がいっぱい膨らんできます。「ああじゃない、こうじゃない!」と、いろいろなことがごちゃごちゃしています。それは、自我が中心、つまり自分が王様になっているからです。どうぞ、王座をイエス様に明け渡してください。そして、すべての問題を主にゆだねるのです。自我が死んで、イエス様が生きる。自分がイエス様にあって生きる。そうすると、「生きるのも死ぬのも、主の栄光が現われるように、アーメン」となります。ですから、救われてすぐ、できれば1年以内、「イエスは主である。私はイエス様の弟子なんだ」という信仰を持つべきです。「救われることは、キリストの弟子になることなんだ」と初めから理解しておくと、その後の成長が早いですね。癒しと解放の部分にとどまり、「イエスは主、私はキリストの弟子」ということを忘れると、厄介です。救い、癒しと解放、そして従順がセットになっている。これが標準的クリスチャンであります。

2.4つの活動と特徴

 ここには4つの柱があります。聖書信仰、聖霊信仰、聖徒訓練、聖家族、どれも頭文字に「聖」がついています。聖とは聖いという意味ですが、もう1つは「神様のために特別に選び別かたれた存在」という意味もあります。まず、一番最初に来るのが「聖書信仰」です。日本の教会は聖書に対する見方から2つに分けることができます。1つは聖書の権威をあんまり信じないグループです。「聖書は人間が書いたもので、ところどころに神のことばが含まれている」という考えです。これをリベラルとか新正統主義と言います。当教会が属している日本キリスト教団がそうです。もう1つのグループは、「聖書は聖霊によって霊感された特別な書物で、1つも誤りがない」という考えです。これを聖書信仰と言います。福音派は大体、こういう立場です。私は日本キリスト教団にありながら、後者の立場です。私はやっていることはリベラルというか過激なところがあります。でも、信仰は非常に保守的であります。どうぞご安心ください。私が説教で冗談を飛ばしたり、いろんな話をしますが、それは聖書というしっかりした土台があるからです。「聖書に聞く、神のことばが、そういっていたなら、アーメン」。こういう態度が大切です。もし、聖書に嘘や間違いがあったならば、一体どこに権威を置くのでしょうか?聖書の権威を信じないグループは、神学者に権威を置きます。やたら、ドイツやアメリカの神学者を持ち出してきます。権威は神学者の学説にあるのではありません。変わざる神のことば、聖書にあるのです。聖書こそが私たちの信仰の土台です。聖書を神のことばと信じるとディボーションができるのであります。聖書から直接教えられ、みことばどおり実践する。「だれが教えるのですか?」「勝手に解釈して間違いを犯すんじゃないですか?」いいえ、ヨハネ14-16章には「真理の御霊、聖霊が教えて下さる」と書いてあります。

 第二番目の柱は「聖霊信仰」です。聖霊を信じない教会などありません。正統な教会であるなら「父、子、聖霊の三位一体の神様」を信じています。でも、残念ですが聖書を誤りなき神のことばと信じていながらも、聖書の記述をそのまま適用していない教会も多いのです。「え?どういう意味ですか?」と聞くかもしれません。今から20年くらい前に、いのちのことば社から「チェーン式バイブル」が出ました。欄外に簡単な解説が載っており、自分で聖書を勉強できるようになっています。Ⅰコリント13章のところに、「新約聖書が完成した今は、そのような賜物の必要性は消えた。御霊のすべての賜物が廃れても、信仰と希望と愛は残る」と書いてあります。つまり、「異言や預言はもう終わったんだ」という解釈です。しかし、それは再臨、キリストが再び来られるときのことであり、聖書うんぬんとは関係ありません。むしろ、聖書には御霊の賜物は福音宣教と同じように必要だと書いてあります。ですから、1つの神学を持ってくると、もう他が見えなくなってしまうんです。西洋の服を着たキリスト教は特に、霊的なものを排除してしまう傾向があります。私はパウロが言うように、福音宣教には、「御霊と御力の現われ」が必要であると信じます。もし、癒しや預言をしたら、カリスマだと言うのなら、イエス様や使徒パウロはもっとカリスマではないでしょうか。イエス様もそうですが、弟子たちや初代教会の人たちが用いられたのは、聖霊の賜物があったからであります。聖書は、キリストの体の1つ1つの器官である、御霊の賜物を用いなさいと教えています。いろんな奉仕がありますが、私たちクリスチャンにしかできない奉仕は、御霊の賜物を用いる奉仕、ミニストリーであります。

 第三番目の柱は「聖徒訓練」であります。「先生、どうして『弟子訓練』と言わないのですか?」と質問されるかもしれません。私はあるところで、10年間「弟子訓練」を学びました。学び自体はとてもすばらしいのですが、間違った前提に立っていることが分かりました。彼らは、クリスチャンを「群集と弟子」に分けるのです。「群衆的なクリスチャンにしてはいけない、キリストの弟子にするんだ」と言います。しかし、福音書では一部の人たち弟子で、他はみんな群集でした。しかし、聖霊が注がれ、人々が新生してからはすべての人がクリスチャンであり、キリストの弟子なのです。初代教会でクリスチャンを「群集と弟子」に分けている箇所なんかありません。使徒パウロは、クリスチャンはすべて「聖徒」、セイントだと言いました。ですから、人はイエス様を信じたら、即、キリストの弟子であり、聖徒なのです。クリスチャンがだんだん、訓練を受けてキリストの弟子になるのではありません。信仰のスタート地点で、キリストの弟子として歩まなければならないのです。ただ、1つだけ条件があります。同じキリストの弟子であっても、整えられる必要があるということです。エペソ4:11-12「こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり・・・」。整えるとは、網の破れ繕うという意味から来たことばです。しかし、もう1つの意味は、戦うことのできる聖徒、セイントにするという意味があります。神のことばと神の武具に身を固め、悪魔のわざを打ち破るキリストの兵士です。そのためには、訓練を受ける必要があります。その訓練を、メンタリングとかコーチングというように呼んでいます。神学校は教室の中で教えるだけですが、本当はイエス様のように現場で実践して体得する、そういう学びが必要であります。

 第四番目の柱は、「聖家族」であります。聖家族と聞くと、サクラダファミリア教会を思い出すかもしれません。中世は教会という建物が教会でした。しかし、それはどんなにすばらしくても、建物にすぎません。イエス様が言われた教会とは、一人ひとりのクリスチャンの集まりであります。私たちが神の教会なのです。また、私たちこそが神の家族なのであります。これを英語で言うと、コミュニティと言うことができます。コミュニティは直訳すると、共同体です。共同体というと、なにかしっくりきません。コミュニティは、セルのことを言います。セルはコミュニティであり、神の家族なのであります。でも、みなさん、「教会は神の家族」といいながら、教会成長の名のもとに、長い間、会社みたいなことをしてきたのであります。牧師が社長で、役員が重役、社員が教会員。人々を救いに導き、予算を増やし、立派な会堂を建てる。教会を成長させるために、一生懸命奉仕をします。ですから、牧師たちが挨拶するときは「あなたの教会は何名集まっていますか?」であります。大ぜい集まっている教会の牧師はなんとなく威張っています。10名くらいしか集まっていない教会の牧師は小さくなっています。また、教会でも、たくさん献金をささげ、用いられている兄弟姉妹は発言力があります。でも、あまりやっていない人は小さくなっています。戦後、日本社会は高度成長を目指してきました。同じように、教会もそうしてきたのです。しかし、教会は会社じゃありません。売上や出来高を上げることを目的にしますと、関係が粗末にされます。神の教会は能力があるなしではなく、関係を大事にしなければなりません。なぜなら、私たちは神の家族だからです。この世の中は、コミュニティが壊れています。人間関係をもてない人がたくさんいらっしゃいます。だから、いろんな犯罪が起こるのではないでしょうか?教会こそが、「互いに愛し合い、互いに赦し合い、互いに助け合う」真の共同体のモデルとして用いられるべきであります。それは、父なる神様のもとで、聖霊によって新しく生まれ兄弟姉妹しかできないことであります。

3.目指すもの

 私たちが目指したいものが2つあります。1つは増殖、もう1つはキリストに似るということです。これらは別々のものではなく、本当は1つなのであります。創世記1章を見ますと、「神様は人を御自身のかたちに創造された」と書いてあります。その、すぐあとには、「生めよ。ふえよ。地を満たせ」とも書いてあります。つまり、それは「神のかたちを増殖させよ」という命令であります。このことを新約聖書で言うならば、クリスチャンはキリストに似た存在であります。そして、ますます「栄光から栄光へと。主と同じかたちに変えられて行く」(Ⅱコリント3:18)のであります。また、福音書の最後には、宣教大命令が形を変えて書かれています。マタイの28章は、「行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい」であります。これは「大弟子作り命令」です。そして、マルコ16章は「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい」。これは有名な「大宣教命令」です。また、ルカ24章は使徒1章とくっついています。「聖霊の力を受けて、エルサレム、ユダヤ、サマリヤの全土、および地の果まで、わたしの証人となる」。これは「大キリストの証人命令」かもしれません。ヨハネ21章は「私の羊を飼いなさい」、「大牧会命令」です。いいのです、何と呼んでも。とにかく、外に向かって宣教して、増殖していくということです。なぜ、宣教ではなく、増殖ということばを使うかと申しますと、それは「共同体を増殖させること、セルを増殖させること」であると結びつけたいからです。これまでは福音を宣べ伝えて、教会を成長させることに目が向けられてきました。しかし、教会が成長することを喜ぶのは、牧師と一部の教会の役員さんだけであります。教会が大きくなると、「交わりも粗雑になり、良い事ないよ」と教会員は思うわけです。しかし、「この共同体が広がっていくことは、神の国が拡大することなんだ」とわかれば、「ああ、私にも関係あるなー。私の家族に、私の知人や友人に、この地域に広がってほしい」という動機が生まれます。アーメン。

このたび、台湾から宣教チームをお招きしました。一番苦労したのが、オイコス伝道です。教会の家族や知人のところへ彼らを招き、そこで交わり、福音を証しするという方法です。「私の家に来てください」というリクエストがほとんどありませんでした。そのため、コーディネーターの家々に招くことになりました。アポなしで台湾の先生が来たので、突然、訪問。家に入れて、自身ご両親に会ってもらう。そのうち、「家のために祝福して良いですか?」「良いですよ」。すると、オーム返しにイエス様を信じますと言わせる。本人も、信じますと言うのです。この方式をやってみたのが、伊沢姉妹、福田姉妹、高柳姉妹です。「アポなし突発的家庭伝道?」が功を奏するのを分かると、他の人もやってみようとなりました。自分の家族を伝道するのは一番難しいと思っています。そこに、「台湾からクリスチャンが来たので」と家に連れて行く。それから、近藤姉妹、鹿野姉妹、柏姉妹・・・サムエル牧師夫妻と張さんをひっぱりまくりました。こっちから、先方に出向いて伝道する。相手の本拠地に出向いて伝道する。「出前伝道?」これを、サムエル牧師は台湾でやっているそうです。とても、勉強になりました。どうなるのだろう?拒否される?門前払いになるのでは?ドキドキして、必死に祈って行くと。不思議に道が開かれることを体験しました。

 私は私でチャレンジを受けました。台湾チームで英語のできる方がおり、張さんが来るまで、彼女が間に立ってくれました。彼女はコミュニケーションがうまくいかずフラストレーションもたまっていたのでしょう。JCMNの津倉さんが来たとき、この人はスーパーバイザーだなーと思ったのか、いろいろしゃべりまくりました。「教会はこうしなければ、牧師はこうしなければ」とメモ張を見ながら、7ポイントくらい上げました。私は「何でそういうことを言うのだろう?」と自分の耳を疑いました。あとから、怒りと悲しみと憎しみと恥が湧き上がってきました。「後半なんとか台湾チームが良い働きができるように」と思っていましたが、全く、興ざめ状態。「お前ら、勝手にやれよ。早く帰れ!」みたいになりました。ちょうど、五藤姉妹の葬儀があったので、気持ちを他に向けることができました。「でも、こんなに心に傷を与えてくれたのも人生にめずらしい!」「絶対赦せない!」久々にそういう気持ちになりました。でも、半分当たっているので悔しいのですね。彼女は救われて2年あまりで、燃えている教会から来たんですね。だから、自分の教会と比較し、「こうあるべきでしょう!」と上から目線になったのでしょう。言われたのは悔しいけど、もし、それを肯定的に受け止めるならば、そのとおりだなーと思います。こういう立派なビジョンをあげましたが、当教会は訓練も伝道も弱いかもしれません。台湾宣教チームを受け入れたのが、神様のみこころだったのか疑いましたが、やっぱり良いチャレンジを受けました。特に宣教ということをもっと、勇気を出して取り組みたいと思います。一歩足を伸ばすならば、備えられた魂がたくさんいるのではないかと思います。

 イエス様は「収穫は多いが働き人が少ない」と言われました。私は「日本の場合は、収穫も少ないし、働き人も少ないんだ」と文句を言ってきました。でも、イエス様のことばを信じたいと思います。リバイバルは待っているだけではダメです。こっちから手を伸ばし、足を伸ばしたときに、イエス様が大きな収穫を与えてくださると信じます。どうぞ、教会のビジョンは自分のビジョンであると思って、霊に燃え、主に仕えていきたいと思います。

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2008年7月20日 (日)

「台湾宣教チーム」   特別礼拝

本日は台湾宣教チームによる特別礼拝により、原稿用意できませんでした。

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2008年7月13日 (日)

律法の役割    ガラテヤ3:15-26

 来週は台湾チームにお任せしています。証しとかメッセージは台湾チームがします。チームと一緒に主任牧師ではありませんが、牧師夫妻も一緒に来られます。ひょっとしたら特別賛美もするかもしれません。来週まで、そのことを打ち合わせしたいと思います。しかし、その次の週27日は、午後の飛行機なので、奉仕は無理のようです。ところで、聖書には「律法」と言うことばがよく出てきますが、この世の法律とどう違うのでしょうか?英語ではどちらも、Law と言いますので、耳で聞く分には同じです。聖書に出てくる律法は、「モーセの律法」とか「神の戒め」に言い換えることも出来ます。その中には、道徳的なものや祭儀的(宗教的)なものもあります。この世の法律には、「神を愛せよ」とか「あなたの隣人を愛せよ」などというものはありません。ですから、神の律法はこの世の法律よりも、より根本的であり、また宗教的です。きょうは「律法の役割とは何か、また、クリスチャンとは何を目指して生きるのか」ということを学びたいと思います。

1.律法は罪を知らしめる

 ガラテヤ3:21-22「とすると、律法は神の約束に反するのでしょうか。絶対にそんなことはありません。もしも、与えられた律法がいのちを与えることのできるものであったなら、義は確かに律法によるものだったでしょう。しかし聖書は、逆に、すべての人を罪の下に閉じ込めました。それは約束が、イエス・キリストに対する信仰によって、信じる人々に与えられるためです。」ここに、律法と神の約束とが対比されています。律法と神の約束、果たしてどちらが早く来たのでしょうか?少し前の節を見て分かりますが、神の約束あるいは契約は、アブラハムに与えられました。神様はアブラハムとアブラハムの子孫を祝福すると約束されました。「アブラハムの最たる子孫とは、イエス・キリストである」とパウロは解釈しています。そして、アブラハムとの約束の430年後、神はモーセを通して律法を与えました。十戒をはじめとする様々な律法です。しかし、イスラエルの人たちはその律法を守ることができませんでした。では、そのアブラハムとの約束は無効になったのでしょうか?パウロは、「いや、約束が430年後にできた律法によって、取り消されたり、無効とされたりすることはない。律法は、子孫であるキリストが来るまで、すべての人を罪の下に閉じ込めた。だが、今度は、キリストに対する信仰によって、その約束が与えられるんだ」と言っています。ということは、律法は、人々をキリストが来るまで罪に閉じ込めていたということになります。

 すると、私たちは、「ああ、律法というのは旧約時代のイスラエル人のためだったのか?私とは関係ないなー」と思うかもしれません。確かにそうなんです。でも、神の律法が来なければ、「あなたには罪がありますよ」ということは分かりません。神様を知らない人たちは、「失礼な!私には罪なんかありませんよ。法律に触れる罪などは犯していないし、結構、良い人間ですよ」と答えるでしょう。また、ある人たちは、「自分の良い行ないと悪い行ないと足し引きして、良い行ないの方が多ければ、天国にいけるでしょう」と考えています。そこに、律法という尺度を持ってきますと、どんなことが起こるでしょうか?この世でどんなに正しくて立派な人であっても、「あなたには罪があります。あなたは不完全です。そのままでは天国に行けません!」と診断されるでしょう。あるところに洗濯の上手な主婦がいました。彼女は、「私が洗ったシーツは一番白い」と近所で自慢をしていました。初冬にかかった頃、いつものようにシーツを洗濯して物干し竿に干しました。お昼ごはんを食べたあと、ついウトウトと寝てしまいました。「うっ、寒い」と思って、目を覚ましましたら、あたり一面に初雪が降っていました。「ありゃ、雪が降ったの?」と驚いてあたりを見渡しました。すると、くすんだ色の洗濯物が目に留まりました。「なんだ、この灰色のシーツは?」と思いました。なんと、まわりの雪と比べたら、どこよりも白いと思っていたシーツが灰色に見えたわけです。同じように、神の律法は「あなたには罪があります。不完全ですよ」と人々に示す機能があります。

 でも、当時のユダヤ人は律法を守れば、神様に受け入れられる、救われると考えていました。でも、それは大きな間違いでした。律法は人には罪を示す役割がありますが、人を救ったり、命を与えることはできないのです。律法は、さらに罪を増し加え、死に至らせる力があります。ローマ5:20に「律法がはいって来たのは、違反が増し加わるためです。しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。」とあります。パウロはローマ書で、「律法が来ると、違反が、罪が増し加わる」と言っています。「え?馬鹿な?」と思うでしょう。人々は、「もしも、自分の周りに規則という壁を作らなければ、何か間違った行ないをしてしまうのではないでしょうか」と心配します。でも、その規則そのものが、誤った道に導くということがあるのです。先日、こういう発見をしました。環七通りを大谷田陸橋から下ってきます。駅のガードをくぐり、アリオを越えたところで右に曲がると亀有教会に来ることができます。その間にグリーンの中央分離帯があります。けっこうそこに、空き缶とかゴミが捨てられています。しかし、看板もたくさん立っています。『ここにゴミを捨てると罰せられます』、そのように書いた看板が、何十メートルおきかに立っています。それを見ていると次第に腹が立ってきました。「ゴミを捨てると、罰せられる!捨ててやろうか!」という思いが起こります。おそらく、だれかが、そういう思いをもって、夜だれもいないとき、ポイと捨てるんじゃないかと思います。「法に触れる」とか「罰せされる」という表示を見て、心の中に化学反応が起こります。言うことを聞かないと罰せられるので従うというのは、人を卑屈にさせます。さらに、それを破りたいという反抗心を起こさせるのではないでしょうか?この世では、いたちごっこをしています。悪いことをする人がいるので、さらに厳しいたくさんの規則を作ります。その規則にムカツクついて、さらに悪いことをする。これが人間の姿ではないでしょうか?

 『恵みの歩み』の著者、スティーブ・マクベイがこのようにおっしゃっていました。先生と奥さんが、あるとき、アムステルダムの美術館を訪れました。一緒に歩きながら、いろんなものを見ていました。そこに、一段高い台がありました。その台の上に美しい家具が飾られていました。その台の前に、立て札があり、「この台の上に上がるな!」と書いてありました。その台の上には、大きな家具があったので、自分が乗ってもどうってことはありません。先生は、口笛を吹きながら、台の上に乗ってみました。先生は、その注意書きを見るまでは、その台に乗ろうなんて思いもしませんでした。しかし、「それをするな!」と言われたとたん、したくなったのです。先生は、牧師としてたくさんの規則を説教してきました。「あなたは毎日、聖書を読むべきですよ。伝道しなければなりません。教会に来なければなりません。祈るべきですよ。」先生は気づきました。「私が規則を押し付けたので、教会員たちは、本当に聖い神様の信仰生活を送ることができなかったんだ。逆に、不従順や反抗心を一生懸命詰め込んでいたんだ」。律法は命を与えるのではなく、罪を犯すことを奮起させ、死に至らせます。でも、恵みはどうでしょうか?聖霊ご自身が、すばらしい信仰生活を送ることができるように導いてくださいます。規則は私たちのまわりに依然として存在します。でも、内側におられる聖霊が、私たちを教え、私たちを励まし、私たちに力を与えてくださいます。規則や律法に対しては、反抗心を持ちながら、卑屈な態度で、嫌々ならが従いました。でも、主の恵みはそうではありません。自由な心で喜んでするのです。

律法は「あなたには罪がありますよ、不完全ですよ」と教えます。旧約時代の人たちは、みなそのようにして生きてきました。でも、完全に律法を守ることはできませんでした。それよりも、律法が来た時、さらに罪が増し加わったのです。では、新約時代は何が違うのでしょうか?それは恵みです。恵みとは、「あなたはキリストによって義とされていますよ。あなたはキリストによって神様から受け入れられていますよ」です。私たちは十字架の死によって、罪が赦されただけの罪人でありません。キリストの復活によって神様から、義と認められているのです。「ああ、私は義とされているんだ。義とされている人の生活とはこうなんじゃないだろうか!」と自然と罪から離れるのです。律法に目をとめると、罪を犯す方に誘い込まれます。しかし、イエス様の恵みに目をとめると、自然と正しい歩みができていくのです。アーメン。

2.律法はキリストに導く

 ガラテヤ3:24-26節「こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです。しかし、信仰が現われた以上、私たちはもはや養育係の下にはいません。あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。」この間、常磐牧師セルがありまして、尾山先生が新しい本を持ってこられました。『グレイス・ウォーク・ワークブック』です。8週間かけて1冊を学ぶようになっています。タッチングヘブンは7週間でしたが、これは8週間です。とっても分かりやすいテキストです。来週、届きますので、どうぞ購入して学んでください。この本の中に「養育係」について書いてありました。ガラテヤ3:24は、律法は、人々をキリストに導く、養育係である教えています。聖書の時代、裕福なギリシャ人やローマの家庭では、家庭の養育係(おもに奴隷)がいて、6歳から16歳までの子どもを毎日、教師のところに連れて行く責任がありました。律法はそのような働きをするのです。キリストを信じていない人々に罪の宣告をします。それによって、キリストに導くのです。養育係は、その子どもを教師のもとに連れていけば、それでその仕事は終わりである。ガラテヤ3:25は、私たちがクリスチャンになったとき、「私たちはもはや養育係の下にはいません」と語っています。クリスチャンになれば、もはや律法は必要なくなるのです。私たちには今、イエス・キリストがおられるのです。この時点で、私たちは、もはや、律法の下にいないことが理解できます。私たちの人生において、導きを与える規則は、必要ないのです。私たちには聖霊が内在しています。聖霊が導いてくださいます。私たちがクリスチャンになったとき、律法は私たちの中でその目的を成就しました。今は、ミスター恵み、すなわち、イエス・キリストと結婚しました。

少し前にもメッセージしましたが、私たちは律法という夫がありましたが、一度死んで、キリストと結ばれました。ミスター律法は元気です。でも、私たちは彼と結婚していません。私たちはイエス・キリストと結婚しているのです。そして、私たちがクリスチャンになったとき、新しい霊をいただきました。でも、私たちは同じ脳を持っています。クリスチャンになったとき、脳の移植手術を受けたわけではありません。ミスター律法との結婚生活がどのようだったか覚えています。だから、私たちは律法主義のライフスタイルに戻ってしまうのです。注意しないと、ミスター律法と同じような付き合いをイエス様ともしてしまいます。クリスチャンは「イエス様、あなたと結婚できてとても嬉しいです。あなたのために私は何をして欲しいですか?」と聞きます。イエス様は「私の愛を受け入れて欲しいのだ」と答えます。「主よ。あなたの愛を感謝します。今、あなたのために私に何をしてほしいですか?」「ただ、私の愛を受け入れてほしいのだ」「主よ。あなたが私を愛しておられることはわかります。でも、何をして欲しいのですか?あなたのために何をすることができるのですか?」「ただ私の中で安らいで、私の愛を受け入れて欲しいのだ」。クリスチャンになったばかりの人は、特に真面目な人は、クリスチャンになったら「何か良いことをして神様にお仕えしなければならない」と思います。そして、フラストレーションがたまっていきます。そのとき、ミスター律法と目が合ってしまうのです。すると、彼は「何かお手伝いしましょうか?」とやってきます。「私は何をすれば良いのでしょうか?」ミスター律法は、「お答えしましょう」と言って、ありとあらゆる宗教的規則を差し出します。そして、自分がイエス様と結婚しているのを忘れ、再びミスター律法と関係を持ってしまうのです。これを霊的姦淫と言います。イエス様の導きではなく、規則によって人生を立てようとするときに、そういうことが起こります。

日本には、イエス様と結婚したはずなのに、ミスター律法と浮気しているクリスチャンが非常に多いと思います。教会には奉仕がたくさんあるので、働き人がほしいのです。ですから、「あれして」、「これして」とお願いされます。イエス様のもとに安らぐことを忘れ、奉仕に明け暮れ、その後、疲れてしまいます。自発的にやっているなら良いのですが、半強制的にやらされているなら、ミスター律法と浮気しているクリスチャンです。また、献身者とか神学生も、ミスター律法のところに、戻っていく傾向が多々あります。祈り、聖書の学び、奉仕、伝道、寝る間もなくやらされます。「しょうがないのです。それが訓練ですから」と言うでしょう。今、佐保姉妹も神学校に学びに出かけています。ものすごくやることが多いようです。月曜日はわざわざ学校に掃除に行き、水曜日の祈祷会は厳守です。私が最初に行った神学校もそうでした。社会経験のある人は、仕事の延長でなんとかできます。限られた年数だったら、我慢できます。しかし、私は「弟子訓練と律法主義との境目って何だろうなー」と未だ分からないところがあります。神学校でも、教会でも「大変」「しんどい」「息がつまる」「不自由」そういう雰囲気があるならば、律法主義と結ばれているような気がします。私の家内はいわゆる献身者だった頃は、早天祈祷会に毎日のように出ていました。結婚してから気づいたのですが、家内は朝が弱いということです。そんなのに、「よく、何年間もあちらで早天に出ていなー」と感心します。私はその人が一生懸命やっていること、たとえば、奉仕、伝道、集会出席、献金とかあります。でも、問題なのは、何がその人を動かしているのか?その動機がチェックされるべきだと思います。組織の中で「しなければならない」と駆り立てられてやっているのでしょうか?それとも「主の霊によって、喜んで自由にやっているのか」であります。

昔は奴隷に2種類いました。1つは強制的にやらされている奴隷です。自分は奴隷なので、主人に仕えるのがあたりまえ。賃金はないけど、寝るところが与えられ、ごはんをたべさせてもらっています。主人の顔色を伺い、いつもびくびくしています。もう1つは、自分の意思で奴隷になった人です。イスラエルでは7年間奴隷だったら、その後は、自由になることができます。しかし、奴隷がその主人に仕えたいと思うなら、柱のところに行き、この耳にキリで穴を開けられます。それは、一生、喜んで主人に仕えますという証しです。使徒パウロは自分のことをキリストのしもべと言いました。そのしもべは、英語ではボンド・サーバントです。つまり、後者の方の奴隷で、自らの意思でキリストの奴隷になった人です。日本の国は共依存の国です。教会もともすれば、共依存の教会になります。牧師や一部の人がコントロールし、献身者やクリスチャンが一生懸命奉仕をします。コントロールしているという意識はないかもしれませんが、自分がこれまで律法主義のもとで生きてきたので、そういう雰囲気をずーっとかもし出しているのです。ずーっとその中にいるので、分からないのです。組織やまわりから矯正されてではなく、自発的なものであれば結構です。様々な宗教規則に縛られないで、御霊によって個性的に生きているならば結構です。何年か前、アメリカからメルボンド師がこられたとき、このように言われました。先生は、天に昇り、イエス様とお会いしたことがあります。そのとき、イエス様が「教会を一番、おびやかしているのは律法主義です」と言われたそうです。スティーブ・マクベイ師が本の中でこう述べています。「ある人は、神様のことを上司とし、自分自身を従業員とするのです。自分たちの神との関係は、神が主人でクリスチャンは奴隷なのです。神様が主であり、主人であることは真実です。しかし、神様はそれ以上のお方です」。

 それでは、クリスチャンとはどういう存在なのでしょうか?ガラテヤ3:26「あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。」29節「もしあなたがたがキリストのものであれば、それによってアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。」アーメン。聖書は、「私たちは奴隷ではなく、神のこどもであり、相続人である」と言っています。多くのクリスチャンは、神様の雇用人であると信じています。雇用主なる主の言いつけを守っていれば、それで大丈夫だというのです。しかし、次のガラテヤ4章にも書いてありますが、私たちは奴隷ではなく、神のこどもであり、相続人です。神様を「アバ・父よ!」と呼ぶ存在なのです。子どもと従業員の違いは何でしょうか?従業員の態度は、雇用主の顔色をうかがっています。奴隷の態度です。しかし、子どもは違います。雇用主に対して「やるべきことは何とか、やらないことは何」などをいちいち聞く必要がないのです。なぜなら、父親と同じビジョンを持っているからです。同じ夢を持っているからです。父親の心を持っているからです。コントロールのかかっている教会は、「牧師先生、あれして良いでしょうか?これして良いでしょうか?次に何をしましょうか?」と伺いを立てるでしょう。そして、ある課題があげられたら、一生懸命それを成し遂げ、評価してもらいます。何かおかしいですね。そうじゃありません。本当のクリスチャンはイエス様につながり、イエス様に聞いて行動します。牧師も大切ですが、それ以上に、神様につながり、神様からのビジョンで動いているのです。どうぞ、人ではなく、イエス様、神様に目を向けましょう。イエス様は私たちを「しもべではなく、友と呼ぶ」と言われました。イエス様の愛に応答するがゆえに、イエス様に従うのです。罰を受けるのが怖くて従うのではありません。どうぞ、律法主義とその奴隷根性を捨てましょう。私たちは神のこども、神の相続人です。父なる神様と同じビジョンを持ちましょう。父なる神様と同じ夢を持ちましょう。聖霊によって、父なる神の心を持っていることを感謝します。

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2008年7月 6日 (日)

アブラハムの祝福   ガラテヤ3:6-14

 これまでの復習を少しさせいただきます。ガラテヤ第二章は信仰によって義とされる、つまり救いが与えられるということでした。そして、第三章のはじめは、信仰によって御霊を受けるということでした。本日は、第三章の中ほどから信仰によってアブラハムの祝福を受けるということを学びたいと思います。アブラハムは、ノアの洪水以後に生まれた人です。神様はアブラハムの子孫を通して世界を祝福することをお考えになりました。アブラハム、イサク、ヤコブ、このヤコブからイスラエルの12部族が誕生しました。しかし、不信仰と不従順のゆえに、イスラエルは神様から捨てられました。神様はもう一度、アブラハムの子孫を起こすことをお考えになりました。それは信仰により、またイエス・キリストによってであります。今度、その対象となる人たちは、イスラエルではなく異邦人であります。異邦人とは「神の選びから漏れている人たち」という意味です。神の国と縁もゆかりもなかった人たちです。しかし、世の終わり、異邦人の私たちから、アブラハムの子孫を見出してくださるとは、なんとすばらしい特権でしょうか。

1.信仰と律法

6節以降には、2つの道が示されています。1つは信仰の道、もう1つは律法の道であります。まず、信仰の道とはどういうものでしょうか?信仰の道のお手本が、アブラハムであります。創世記15章で、アブラハムは神様から「あなたの子孫は、星の数ほどになる」と言われました。そのとき、アブラハムは主を信じました。主はそれを彼の義と認められました(創世記15:6)。アブラハムは75歳で神様から召され、「子孫が与えられる」と言われながらも、紆余曲折し、やがて99歳になりました。妻のサラも年で、もう人間的には全く無理でした。が、奇跡的に100歳のときイサクが誕生しました。アブラハムが「主を信じた」と言っても、その信仰が本当に完全だったのか、正直、疑わしいです。同じように、私たちの信仰が不完全であったとしても、神様がOKと認めてくだされば良いのです。なぜなら、私たちを信じる神様の信仰、神様の真実が完全であるからです。アブラハムのように不完全な信仰であっても、神様が義と認めてくださる。どうぞ、信じるということを考えるとき、あまり力まないでください。本当の信仰とは、「私は大丈夫でないけれど、神様は大丈夫」ということです。イエス様は「もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、『ここからあそこに移れ。』と言えば移るのです」(マタイ17:20)と言われました。信仰は大きさではありません。たとえ、からし種のように小さくても、命があれば良いのです。

でも、皆さん、信仰の道というものは狭くて、見出しにくいものです。私たちが「神様がおっしゃられた」と言っても「え?本当にですか?」と疑われるのがオチです。この建物の中にいるときは、「主の導きです」とか、「主が私にそのように示されたのです」と言っても、ほとんどの人は「アーメン」と同意してくださるでしょう。でも、この建物から一歩、外へ出て、信仰の話をしたなら、「あなた頭おかしいんじゃないの」と馬鹿にされます。イエス様はマタイ7:13,14でこのように言われました。「狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」「まれです」とは、レア、なかなかいないということです。日本において、クリスチャンはレアものです。価値があるんです。日本で売っている世界地図は、ほとんど日本が中心に描かれています。でも、太平洋が中央にあって、どう見ても偏っています。しかし、日本以外で売っている世界地図は、大陸が中心に描かれ、日本は地図の右の縁(へり)です。日本は極東の地で、昔はジパングと言われました。でも、シルクロードの果が日本の京都と言われています。ちなみに、平安京というのは、エルサレム(神の平和)からネーミングされたようです。ですから、異邦の極東の日本まで、福音が伝えられ、今、こうやって一握りのクリスチャンがいるということはすばらしいことであります。だいたい、多くの人がゆっくり休んでいる、日曜日、礼拝に来るというのも、狭い道であります。先週、ある方からお電話がありました。「日曜日以外に礼拝はないのですか?」と聞かれ、「小グループの集会はありますが、今のところ礼拝は日曜日だけです」と答えました。日曜日はご主人がお家にいるらしくて、来るのは無理のようでした。「いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」私たちはレアものなんです。

 ガラテヤ3:10-12までは、律法の道が書いてあります。神様の律法を守って、神の前に義と認められようとすることです。言い換えると、自分の行ないによって救いを得ようという道です。旧訳聖書には十戒を始めとする、神の律法がたくさん書いてあります。半分は神様に対する戒めです。あとの半分は人間社会に関する戒めで、多くは道徳的なものです。日本には律法という概念はあまりありませんが、その代わり、倫理道徳という考えがあります。仏教や神道も「信仰」ということばを使いますが、やっぱり人間の行ないも必要だと言っています。もし、私たちが道徳や行ないで救いを得ようとするなら、どういうことになるでしょうか?簡単に言うと、「これで良い」という基準がありません。むしろ、「まだ足りない」「まだ不十分だ」という声が聞こえてきます。パウロは申命記27章を引用して「すべてのことを堅く守って実行しなければ、のろわれる」答えています。申命記には主の御声に従い、主の命令を守るなら、何でも祝福されると書いてあります。「あなたのかごも、この鉢も祝福される。あなたは、入るときも祝福され、出て行くときも祝福される」(申命記28:5,6)とあります。しかし、主の御声に聞き従わないとどうなるのでしょうか?「あなたは町にあってものろわれ、野にあってものろわれる。あなたのかごも、こね鉢ものろわれる」(申命記28:16,17)。良く見ると、祝福よりも、のろいの方が倍くらいあります。つまり、行ないによって救いを得ようとする道は、一般には良さそうに見えても、最後は悲惨です。世の人は、信仰の道ではなく、行ないの道を行きたがります。最初は平坦で広い道であります。でも、最後は、険しいシナイ山にぶちあたります。富士山の九合目みたいに、岩山がせり立ってきます。

 日本人に多いのが、完璧主義です。仕事場には間違いをなくそう、事故をなくそうというスローガンがよくあります。私はあるところでアルバイトをしていますが、今、お中元が多いんです。数が多いと出てくるのが、誤送、誤配です。日付指定というのがあって、「指定されたその日に配達してくれ」というのが一番厄介です。早すぎてもダメ、遅れてもダメ、その日に着くようにというものです。私なんか「早くたって良いじゃないか」と思いますけど。クレームがつくと、お客さんが利用しなくなるので「間違いがないよう」「間違いのないように」にと上から注意されます。本来なら、品物が多いのは儲かって、喜ばしいはずですが、仕事場は全くそうじゃありません。職員の漏らす言葉は「なかなか減らない。なんで、こんなに多いんだ」であります。商売繁盛じゃないのです。みなさん、事故ゼロ、100%を目指す。それは悪いことではありません。でも、100%完全で当たり前ということになると、98%もダメ、80%じゃぜんぜんダメということになります。なぜなら、100に対する、減点法だからです。完璧主義は、仕事だけではありません。スポーツの世界、学校、私生活まで及んでいます。だから、日本は大陸と比べ、精神的に病む人が非常に多いのではないでしょうか?日本人は失敗を恐れるので、発明や発見が少ないのです。日本は本当に縮み文化です。皆さん、神様は完璧ですが、人間は完璧に作られていません。もし、常に完璧になろうとするならば、必ず、どこかに狂いが生じてきます。

聖書に「義人は信仰によって生きる」と書いてあります。別の訳は「信仰による義人は生きる」であります。義人とは、自分の行ないにではなく、信仰によって神様から義である、完全であると認められた人です。これはどういうことかと申しますと、私には罪があり不完全だけど、神様が恵みによって義と認めてくださっておられる。だから、神様を信頼して行けば、実質的に義となれるんだ。私の努力や行ないではなく、神様がそのように導いてくださる。これが信仰であります。そうすると、私たちの身も魂も生きるのであります。私の心臓はどうなっているのか?私の頭は正常だろうか?私の行ないは完全だろうか?そのように、自分をチェックし始めると、私たちは壊れていきます。心臓を動かしているのは神様です。頭もそうです。多少、物忘れするかもしれないけど、神様が思い出させてくださいます。行ないもそうです。聖霊様が私の総司令官であり、聖霊様に委ねながら行動すれば良いのです。「義人は信仰によって生きる」「信仰による義人は生きる」のです。アーメン。律法の行ないによる道ではなく、信仰の道を選びましょう。

2.のろいから祝福へ

 律法ののろいとはどういうものでしょうか?10節「律法の書に書いてある、すべてのことを堅く守って実行しなければ、誰でもみな、のろわれる」ということです。これは申命記27章の引用です。そして、申命記28章には祝福とのろいについての様々なリストが上げられています。そこには祝福も書かれていますが、すべての律法を守らなければ祝福は自分のものにはなりません。それだけではありません。律法を守らなければ、さまざまな災いが降りかかります。「すべてのことを堅く守って実行しなければ、誰でもみな、のろわれる」とはどういう意味でしょう。たとえば私は安息日を守っているし、主の御名もみだりに唱えない。殺人も盗みも犯していない。むさぼりの罪もない。ただし、両親は敬っていない。なぜなら、敬えるほどの両親じゃないからだとします。10のうち、9つは守っている。だが、たった1つだけは実行していない。テストだと90点です。それでOKでしょうか?No!すべての律法を守っていません。律法は「あなたには罪があります。だから、あなたは祝福ではなく、のろいを受けるべきです」と言うでしょう。これが律法ののろいです。アダムの子孫で、誰ひとり、律法を完全に守れる人はいません。ところが、イエス様の時代、「私たちは律法を堅く守っています」というグループがいました。ユダヤ教のパリサイ派の人たちです。でも、イエス様は山上の説教で、たとえ、人を殺さなくても、「能なし」とか「ばか者」と言っただけで、同じ刑罰を受けると言われました。また、「情欲をいだいて女を見る者はすでに、心の中で姦淫を犯したのです」と言われました。おおー。そうなると、生身の人間で、誰ひとり律法にかなう人などいなくなります。もう1つの律法ののろいとは何でしょうか?それは「○○するな」とか「○○しなければならない」という戒めに対する私たちの反応です。パウロが言うように、私たちの生まれながらの性質は、律法が来ると、逆らいたくなるのです。「聖書を毎日読まなければならない」といわれたとたん、読む気がしなくなります。「毎週、日曜日礼拝に出なければならない」といわれたとたん、来るのがいやになります。

 イエス様はこういう律法ののろいに対して、どのような解決を与えてくださったのでしょうか?ガラテヤ3:13,14「キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである。」と書いてあるからです。このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。」アーメン。キリストは人間の代表になって、この世に来られ、律法を全部守られました。聖書には、「キリストには罪がなかった」と書いてあります。その次に、イエス・キリストは私たちが律法を守れないために来る刑罰を、身代わりに受けてくださったのです。だから、私たちはもう、律法を恐れなくて良いのです。旧約聖書には、安息日に焚き木を拾いに行っただけで、神から打たれて死んだと書いてあります。また、「水がない」とつぶやいただけで、地面が裂け、生きたままで、のみこまれた人たちもいました。「おお、旧約時代に生きていたら、命がいくつあっても足りないなー」と思います。でも、イエス・キリストが、律法を守れないことから来る刑罰をみんなかぶってくださったのです。だから、だれでもキリストにあるなら、さばかれないのです。なぜなら、イエス様が刑罰を受けて、身代わりに死んでくださったからです。また、14節最後に「信仰によって約束の御霊を受ける」と書いてあります。イエス様を信じると、人はもれなく御霊を受けます。御霊がその人を生まれ変わらせ、心の板に律法を書き付けてくださいます。外からの強制ではなく、聖霊が内側からやさしく語ってくださる。御霊が肉の働きに打ち勝ち、神様に従えるように力と導きをくださるのです。イエス様はこのようにして、私たちの律法ののろいから贖い出してくださったのです。

では、最後にアブラハムの祝福とはどういう意味でしょうか?創世記12章で主はアブラハムに対してこのように言われました。「私はあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福する」。みなさんこれだけだったら、異教の宗教です。「おお、神様、自分たちを祝福してください」。こういうご利益宗教はたくさんあります。さらに、主はアブラハムにこう言われました。「地上のすべての民族は、あなたによって祝福される」。アーメン。アブラハムだけが祝福されるだけではなく、アブラハムを通して、すべての民族が祝福されるということです。アブラハムが祝福の基になる、管になるということです。教会では人々が両手を上げて、Bless me, bless me「私を祝福してください」と祈ります。神様はそういう祈りしかしていないクリスチャンを見て、どう思われるでしょうか?困ったなーという顔をするんじゃないでしょうか?でも、「私を通して周りの人々を祝福してください。私たちを通して日本を祝福してください」と祈るとどうでしょうか?「おお、私がかなえたい祈りだなー」と思うでしょう。イエス様はマタイ5章で、「あなたがたは地の塩です」「あなたがたは世の光です」と言われました。ご存知のように塩は、食材が持っている味を引き立たせてくれます。また、塩は腐敗をとどめる働きもします。光はどうでしょうか?自分がピカピカ光っていれば良いのでしょうか?光自体は本来見えないものなんです。しかし、何かに当たると反射して、そこが明るくなります。人々があなたの光に照らされて、はじめて光の役目を果たすのです。クリスチャンで、「世の中が悪いとか、どうしようもない」と批判ばかりする人がいます。あなたがそこへ遣わされ、塩気を与え、人々を照らせば良いのです。

 Ⅰコリント12章には、聖霊の賜物が列挙されています。これは力の賜物とか、現れの賜物とも言われています。知恵のことば、知識のことば、信仰、いやし、奇跡、預言、霊を見分ける力、異言、異言を解き明かす力。9つあります。9つのうち8つが、他者のためのものです。たった1つだけ自分のためものものがあります。それは異言です。異言は自分で神様と交わるための聖霊の賜物です。でも、他の8つは、他の人のためのものです。ということは、神様が与えてくださった賜物というのは、自分が楽しむためではなく、他の人の益のためにあるということです。Ⅰコリント12:7「しかし、みなの益となるために、おのおのに御霊の現われが与えられているのです」とあります。私が座間キリスト教会にいたとき、新井宏二先生が癒しの奉仕によく来られました。先生が祈ると、その人は眠ってしまいます。眠っている間に体が自然と動いて、聖霊ご自身がその人を癒されるようです。先生に、癒しの賜物があると聞いて、人々が遠くから訪ねて来ます。夜中に電話もかかってきます。先生は病院に呼ばれたら、祈りに行きます。私はそれを聞いて思いました。「癒しの賜物が与えられたらすばらしいけど、なんだか人にふりまわされて、プライベートな時間もないというのも困るなー」と思いました。それから、20年間、私が祈っても人々が癒されたということはありませんでした。でも、5年か6年前、中嶋先生が来られたから、癒しの賜物が現われ出しました。そのとき、どう思ったでしょうか?「ああ、足や腰の痛い人はいないか?どっか具合の悪い人はいないか?」と思いました。つまり、神様は癒しの賜物と同時に、憐れみの心も与えてくれました。かつてのように、「めんどうだなー」と思わなくなったということです。この賜物をぜひ、用いたいと思うようになりました。

 よく、キリスト教会では「用いられる」ということばを使います。「神様に用いられる」ということはすばらしいことです。これは、アブラハムの祝福のことです。あなたを通して、すべての民族が祝福される。あなたが祝福の基になる、管になるということです。自分が祝福されるのも喜びがあります。でも、それだけだと自己充足的で、わがままです。天の父の心が与えられると、与えたくなります。「私を通して周りの人が祝福されたらどんなにすばらしいだろう!主よ、私を用いてください」と願うようになります。これこそが主の恵みです。でも、恵みと反対のものがあります。それは律法です。「○○しなければならない」「○○しなければならない」という義務感でやります。もっと悪いのが「○○してやっているのに」「○○してあげているのに」であります。これは神様が主体ではなく、自分がやっているのです。神様に用いられるということではありません。神様に用いられるというのは、私たちが器になることです。そして、実際に奉仕をなさるのは神様なんです。私を通して、主が語る。私たちを通して、主が癒す。私たちを通して、主がなさる。だから、すべての栄光は主のものなのです。では、私たちは何にもうれしくないか?そうじゃありません。神様に用いられているという喜びがあります。あなたは律法の道を行きたいでしょうか?律法の道は行ないの道であり、たえず完璧を要求されます。ダメ出しばかりです。間違ってはならないというプレッシャーがあります。一方、信仰の道は神様に頼る道です。私は不完全であっても、主が完全。「私を通して主が働いてくださる」という平安があります。律法は人々の首を絞めて、自由と喜びを奪い取ります。やがては死に至ります。一方、信仰による義人は生きるのです。なぜなら、主の恵みがその人を生かすからです。どうぞ、信仰の道、恵みの道を歩みましょう。

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