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2008年6月29日 (日)

御霊による完成     ガラテヤ3:1-5

 パウロは「ああ愚かなガラテヤ人」と嘆いています。英語の聖書にはfoolishということばが1節と3節に、2回出てきます。パウロがガラテヤに行って、十字架につけられたイエス・キリストをありありと示しました。彼らはそのとき、イエス様を信じて救われました。そのとき、聖霊を受け、なんらかの奇跡な体験したと思われます。それなのに後からやって来た人たちが、「福音を信じるだけじゃだめなんだ。さらに律法を守る必要があるんだ」と言いました。そして、彼らはそれを真に受け、迷って、真理の道から外れて行きました。だから、パウロは「ああ愚かなガラテヤ人、一体だれが迷わせたんだ!」と怒っています。

1.御霊を受ける

ガラテヤ書のテーマは、「人は信じたら義とされる。律法の行ないは不要だ」ということです。しかし、ここでは「人は信じたら御霊を受ける。律法の行ないは不要だ」と言い換えています。ガラテヤの人たちはイエス様を信じたときに、明らかに聖霊を受けたようです。それに対してパウロは、「御霊を受けたのは、律法を行なったからか、それとも信仰をもって聞いたからか」と聞いています。5節にも「律法を行なったからか、それとも信仰をもって聞いたからか」と繰り返しています。しかし、私たちは「御霊を受ける」とはどういう意味かを最初に知らなければなりません。ペンテコステ系の教会は「御霊を受ける」というのは、イコール、「聖霊のバプテスマを受ける」と解釈します。クリスチャンになっても、御霊を受けなければ一人前じゃない。だから、「あなたは御霊を受けましたか?」とよく聞くようです。彼らはイエス様を信じるのと、受霊、つまり御霊を受けるのは別の体験だと言うわけです。そうしますと、ガラテヤ人への手紙3章の内容と矛盾してしまいます。ガラテヤの教会員はパウロの十字架の福音を聞いて、信じて、即、聖霊を受けたようです。使徒の働きの人たちように、異言や預言を語ったのかもしれません。でも、そういう現象がある、ないは別として、イエス様を信じるならば、聖霊をもれなく受けるのです。そうでないと、御霊を受けたのは「律法を行なったからか、それとも信仰をもって聞いたからか」とは聞けなくなります。ガラテヤの人たちはイエス様を信じたら聖霊を受けたのです。律法の行ないによらないで、信仰のみで受けたのです。

パウロは、ローマ8:9で「キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません」と語っています。つまり、イエス様を信じているクリスチャンであるならば、もれなくキリストの御霊、つまり聖霊を宿しているということです。ですから、「私はキリスト信じたとき、御霊を受けました」と答えるのが正しいのです。しかし、使徒の働き19章にエペソの教会のことが書いてあります。使徒19:2、3「信じたとき、聖霊を受けましたか。」と尋ねると、彼らは、「いいえ、聖霊の与えられることは、聞きもしませんでした。」と答えた。「では、どんなバプテスマを受けたのですか。」と言うと、「ヨハネのバプテスマです。」と答えた。とんで5、6節、これを聞いたその人々は、主イエスの御名によってバプテスマを受けた。パウロが彼らの上に手を置いたとき、聖霊が彼らに臨まれ、彼らは異言を語ったり、預言をしたりした。これは例外的なことです。なぜなら、エペソの人たちは本当の福音を聞いていなかったからです。彼らはヨハネの悔い改めのバプテスマしか受けていません。当時、ペンテコステから20年以上たっていたにもかかわらず、ちゃんとした福音が伝わっていなかったために、聖霊を受けていない人たちがいたのです。でも、今の時代はそういうことはありません。イエス・キリストの福音を聞いて、信じれば、そのとき人は聖霊を受けるのです。なぜなら、そのとき、人は「イエス様を受け入れます」と祈っているからです。イエス様を受け入れるとは、すなわち聖霊を受け入れることであります。これを「聖霊の内住」と言います。コリント3章と6章に、「私たちは神の神殿である」と書かれています。なぜなら、神の霊、聖霊が私たちの内に住んでおられるからです。どうぞ、みなさんご自分の中に、神の霊、聖霊が宿っておられることを信仰によって認めましょう。これはいわば、パックなのです。イエス様を信じると同時に御霊も受けるのです。イエス様を信じたけれど、御霊がいないという人はいないのです。イエス様を信じたら、あなたの内に御霊が宿るのです。どうぞ、ご安心ください。

でも、聖書には御霊を受ける、つまり内住の御霊だけではなく、もう1つ上の経験も書いてあります。ここで「えー?」と言わないで下さい。ヨハネ7章でイエス様はこのように言われました。ヨハネ7:38、39 「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。」ここには、「心の奥底から、聖霊が川のように流れ出る」と言われています。みなさん「流れ出る」とはどういう意味でしょうか?水をコップに注いだとします。水がコップの半分では、流れ出ることはありません。では、水がコップ一杯になったらどうでしょうか?水はコップに満たされたかもしれませんが、まだ流れ出てはいません。でも、もっと水が上から注がれるならば、縁からあふれて、水が流れ出ます。私はこれを「聖霊の満たし」と呼んでいます。表現は違いますが、使徒1:8には「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。」とも書いてあります。では、聖霊に満たされるとどうなるのでしょうか?そして何らかの力があたえられます。その力というのは、聖霊の賜物と関係しているのではないかと思います。これをペンテコステ系の教会は聖霊のバプテスマと呼んでいます。しかし、私はあえて聖霊のバプテスマという表現は避けるようにしています。なぜなら、聖霊のバプテスマとは、ペンテコステの日、この地上に注がれた聖霊であると理解しているからです。それは預言の成就であり、歴史的には1回限りの出来ごとだからです。でも、ペンテコステ以降、人々は聖霊を内側に宿すことが可能になり、また聖霊に満たされることも可能になったと信じています。では、使徒の働き10章で、コルネリオたちが預言や異言を語っているところはどう理解するのでしょうか?彼らは聖霊の内住と聖霊の満たしが同時に来たんじゃないかと思います。

しかし、私はイエス様を信じたときに聖霊が宿るという出来ごとと、聖霊に満たされ何らかの賜物や力が現われるのは、別ではないかと思います。カルバリー・チャペルのチャック・スミスがある本でこのように述べています。「聖霊があなたの内側から溢れ流れ出るという体験は、ミニストリーのために不可欠です。私たちは聖霊によって満たされるだけの器ではなく、周りの世界に触れるために外側に向かって流れ出る水路となるのです。これこそが聖霊の目的であると信じます。使徒1:8の「上に来られる」という体験は、具体的な結果を生み出す聖霊のダイナミックな力を私たちに与え、私たちを力強いキリストの証人とするのです。これこそが神のご計画なのです。聖霊が私の外側に向かって流れるとき、私は神の道具となり、神ご自身が私を通して私の周りの世界に触れることが出来るのです。私から、ダイナミックな聖霊の力が流れ出て行くのです。」アーメン。私はいろんな聖会に出て、たくさんの先生から按手して祈っていただいたので、そのときがいつなのか分かりません。日本や外国の先生方、数えても20人は下りません。その当時また、按手というのが流行りました。長い列を作って・・・。大体、大川先生が好きでしたねー。アルゼンチンとか、アメリカ、カナダによく行っておられました。でも、癒しの働きが顕著になったのは、岡山県の中嶋先生が来られてからです。とにかく、今は、祈るとき、「自分が管になり、聖霊が流れて、聖霊ご自身が何かをなさるんだなー」という感覚はあります。中嶋先生も同じようなことをおっしゃっていましたが、準備はいりません。ただ、スイッチを押せば、良いだけなんです。スイッチをオンにすれば、自動的に流れるので、気張る必要もないです。

ちょっと、話題がそれてしまいましたが、第一のポイントで学ぶことは、イエス様を信じたら、聖霊を受けます。行ないではありません。クリスチャンであるなら、もれなく、イエスの御霊、聖霊が内に宿っておられるのです。神様があなたの内側におられる。ということは、あなたは神の神殿です。旧約聖書では、神様がおられるところはいつでも、聖いと言われました。もし、あなたの内側に神様がおられ、あなたが神殿であるならば、あなたはどうなんでしょうか?そうです。あなたは聖いのです。だから、パウロはコリントの人たちを「聖徒として召され、キリスト・イエスにあって聖なるものとされた方々へ」(Ⅰコリント1:2)と呼んでいます。あなたは神様の目から見たら聖い存在なのです。ハレルヤ!ある人は、「内におられるイエス様は確かに聖いかもしれないけど、私は汚れているわ」と言うかもしれません。もしそうだったら、「私は生ゴミで、生ゴミの中にダイヤモンドがあるだけよ」と言っているのと同じことになります。そうじゃありません。私を神殿にして神の霊が住んでいらっしゃるのですから、私は聖い存在なのです。おー、内におられるキリストの御霊、聖霊を認め、歓迎し、そして従いましょう。

2.御霊による完成

 ガラテヤ1:3「あなたがたはどこまで道理がわからないのですか。御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか。」ここにも、foolishということばが使われています。「あなたがたは馬鹿じゃないのか?御霊で始まったあなたがたが、今、肉によって完成されるというのですか?」となります。関西弁なら「あんたら、アホとちやうか・・・」ということです。偽兄弟たちは、福音を信じただけではダメで、モーセの律法や儀式を守らなければならないと迷わせました。ガラテヤの人たちはイエス様を信じて、義とされ、御霊を受けました。その後で、律法を守らなければならないとなると、それは、肉で仕上げるということです。現代の教会も信じて、洗礼を受けた後は、「○○を守らなければならない」と言います。教会によっては「信徒必携」という、生徒手帳に似たものもあります。おそらく、こういうことが書かれていると思います。洗礼を受けたということは、当教会の教会員になることです。第一、聖書に安息日を守れと書いてあるので、聖日礼拝を守ってください。水曜日の祈祷会に出席できるように努力してください。第二、聖書には十分の一献金も書いてありますので、収入の十分の一を捧げてください。これは神様のものだとマラキ書に書いてあります。でも、必ず祝福されますよ。第三、聖書をお読んでお祈りしましょう。聖書に、「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る1つ1つのことばによる」と書いてあるからです。みことばは心のごはんですよ。第四、クリスチャンは伝道すべきです。聖書に「全世界に出ていって、福音を宣べ伝えよ」と書いてあるからです。第五、教会の指導者に従ってください。聖書に「指導者たちの言うこと聞き、また服従しなさい」(ヘブル13:14)と書いてあるからです。第六、不品行や性的罪は犯さないようにしましょう。今までの知らないで犯した罪は赦されましたが、これからはちゃんと罪を悔い改め、罪から離れましょう。

 言っていることは、間違いないと思います。なぜなら、聖書が言っていることだからです。では、新約聖書の時代の人たちが、ユダヤ人と同じ律法主義にならないかと聞かれたら、立派になるんです。彼らは、「確かに救われたのはイエス様の十字架の恵みである、アーメン」と100%信じています。でも、いざ、信仰生活となると、聖書の教えや戒めを持ってきます。聖書の教えや戒めは間違っていません。でも、それを恵みではなく、律法にしてしまうのです。ひょっとしたら、無意識かもしれませんし、あるいは「弟子訓練」という名目かもしれません。こういう教会、いっぱいあります。福音派、ペンテコステ派は真面目ですからねー、結構、律法主義的です。日本基督教団はそうでもないかもしれません。あんまり戒律的ではないし、酒やタバコもOKです。なぜ、新約聖書が律法になるのでしょうか?Ⅱコリント3章にそのことが解説されています。Ⅱコリント3:6「神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格をくださいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者です。文字は殺し、御霊は生かすからです。」おそらく、こういうことになると思います。聖書から戒めや教えを語るとき、それは石の板に書かれた文字と同じになります。それを聞く人は、イスラエルの人たちのように心におおいがかけられ、鈍くなります。つまり、内側にある肉の性質が反応し、「ああ、しなければならないことが多くて大変だなー、これは」と苦しくなります。そして、文字が人を殺すように、熱心さや自由を奪います。私はあるところにアルバイトに行っています。毎日、職員たちのミィーティングがあります。近くで仕事をしていると、課長のような人が、ダメ直し的なことを口うるさく言っているのが聞こえます。「間違ってはいけない。事故を起こしてはいけない」。言っていることは正しいのです。でも、おそらく、聞いて人たちは右から左に聞き受け流しているんじゃないかと思います。一緒に仕事をしている人が、「鈴木さんも同じように説教しているんでしょう」と言います。私は「いや、いや、違うよ。私の場合は励ましだよ」と答えています。私は「人間は、お説教を食らうと、耳と閉ざし、ついでに心も閉ざし、最後にやる気をなくしてしまう」のではないかと思います。

 パウロは「私たちは文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者です。文字は殺し、御霊は生かすからです」と言いました。そして、3:16、17「しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります」と書いてあります。つまりこういうことなんです。私たちはイエス様を信じたときに新しく生まれ、聖霊が宿りました。新しい契約とは、外側ではなく、内側から働くものです。私たちが霊的に生まれてから、聖霊が私たちの内に神の律法を語ってくださるのです。それだけではありません。主の御霊である聖霊が、その人を生かし、律法を守れるようにしてくださる。それは律法ではなく、恵みであり特権となります。自分の意思や力や頑張りでやるのではなく、聖霊が私の内から溢れてきて、聖霊ご自身がなさってくださる。聖霊こそが私たちの源であり、同時に、私たちの手となり、足となり、口となってくださる。これは私がやっているのか、聖霊様がやっているのかわからなくなる。もちろん、私たちは土の器ですから、疲れるときもあります。そのときは休んだら良いでしょう。でも、義務感でやっているのではなく、自主的ですから、喜びがあります。さっきあげた6つの課題。聖書を読み、祈り、礼拝することは苦痛でしょうか?そうじゃないですね。愛する神様との交わりは楽しいことであり、特権です。神様と交わると結果的に、霊肉共に強められ、すばらしい導きも得られます。伝道や証しも義務感でやると辛くなりますが、私の救い主をぜひ、知っていただきたい。「この方は私の命、私の喜びです」と自慢すれば、それが証しになります。初代教会の弟子たちは「やめろ!」と言われても、やめなかった。それは、外からの命令ではなく、内側から主の命が溢れてきたからです。

どうぞ、奉仕や献金も律法にしないでください。それらは、主の恵みであり、特権なのです。神様があなたを祝福し、神様があなたを用いてくださる。奉仕の主役は神様で、私たちは管(チャンネル)なんです。神様が私たちを通して働きたいと願っている。神様が私たちを通して語りたいと願っている。神様が私たちをとおして隣人を愛したいと願っている。神様が私たちを通して人々を癒したいと願っている。だから、もし何か1つでも良いことができたならば、それは私の力ではなく、神様がなさったことです。栄光は私ではなく、神様にあります。もし、私が頑張ったのなら、私が感謝されないと気分が悪いですね。でも、私におられる神様がなさったのなら、人から別に感謝されなくても良いです。だけど、私自身は「ああ、いつも忠実に働いておられる聖霊様、感謝します」と祈れば良いですね。みなさん、これが御霊で始めたことを、御霊で完成するということなんです。昔の口語訳では「仕上げる」と言いました。私たちは御霊で始めたことを、肉で仕上げてはいけません。御霊で仕上げるのです。第一のポイントで、聖霊に満たされる経験があると申し上げました。確かにイエス様を信じたら、聖霊が内側に与えられます。これは恵みです。でも、聖霊に満たされ、力あるミニストリーができるようになるためにはどうしたら良いのでしょうか?「ああ、そういうような体験が欲しい」と、東西南北と私のように巡り歩く人もいるでしょう。ある人は、「過去の罪を全部、悔い改めなければならない」と言います。またある人は、「断食して祈り、待ち望まなければならない」と言います。でも、それらはやはり肉で仕上げることと同じです。あるクリスチャンたちは、聖霊に満たされるために、一生懸命祈り、一生懸命、何かをしなければならないと努力しています。しかし、それは肉で仕上げていることと同じです。では、どうしたら良いのでしょうか?ただ求めれば良いのです。その後は、満たされたと信じれば良いのです。もちろん、聖霊の賜物が開かれるためにはきっかけも必要です。だれかから、ちょんと突っつかれることも必要かもしれません。でも、最終的に、それは信仰であり恵みです。満たすのは自分ではなく、あちら様(神様)だからです。

ルカ11:13にすばらしい約束があります。「してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」事実はこうです私たちが満たされたいと願っている以上に、神様の方が満たしたいと願っているのです。なぜなら、私たちの信仰生活は、聖霊なしはできないからです。人を愛することも、祈ることも、聖書を読むことも、みんな聖霊が必要です。伝道やミニストリーもみんな聖霊の力です。どうぞ、聖霊を求めましょう。聖霊に満たされるなら、肉の働きは消え、聖なる歩みが少しずつ、実として現われてきます。その実も、自分ではなく、神様が結ばせてくださいます。私たちのなすべき分は、ただイエス様を信頼して、従って行くということです。アーメン。

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2008年6月22日 (日)

信仰による義     ガラテヤ2:15-21

 信仰生活は恵みです。多くの人たちは、イエス・キリストを信じるだけで救われるということを信じていません。数々の戒めを守ったり、良い行ないも必要だろうと思っています。それでも、さんざん福音を聞かされて、「ああ、そうか。信じるだけで良いのですね。アーメン」と洗礼を受けます。でも、多くのクリスチャンたちは、「信じたあとは自分の力でがんばらなくちゃいけないのですね」と古い生き方に逆戻りしています。力の源を神様に求めるべきなのに、昔の方法である、自分の力と知恵により頼みます。すると、信仰生活がなかなか前に進みません。それは、まるでサイドブレーキをかけながら、走るようなものです。イエス様を信じたら新しく生まれ変わります。だったら、古い生き方をやめて、キリスト・モードに生きたらいかがでしょうか?

1.信仰による義

ガラテヤ2:16はガラテヤ人への手紙の心臓部であり、また福音の中心でもあります。ガラテヤ2:16「しかし、人は律法の行ないによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。これは、律法の行ないによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。なぜなら、律法の行ないによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。」

パウロが言う救いとは、神様から義と認められることです。でも、日本人には「義」ということばがよく分かりません。これは単なる正しさではありません。神の律法にかなっている正しさであります。人間の社会では、正しい人もいますし、あまり正しくない人もいます。あの人と比べたら、私は正しい方だとか相対的な世界です。しかし、そこに神様の律法をもってきたら、どのくらい足りないかよく分かります。神の義は100%の正しさ、完全無欠という意味です。この世に完全無欠な人が果たしているでしょうか?裁判官でも罪を犯します。どこかの判事が部下の女性職員によくないメールを送り続けて免職されるかもしれません。彼は法律の専門家ではありますから、良くないことは百も承知だったでしょう。でも、男の性(さが)には勝てなかったのであります。ローマ3:23「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず」と書いてありますが、もとの意味は「神の栄光に達しない、短い」という意味です。そうです。生まれながらの人は、神様の義、100%の正しさに達することができないのです。ですから、律法の役目というのは、人を救うのではなく、「あなたはここが足りませんよ。こういうところに罪がありますよ」と教えてくれる基準みたいなものであります。おおー、神の律法を人に当ててみて、それに達する人は一人もいないのです。ま、人に当てる前に、どうぞ自分に当ててください。

 パウロは「人は律法の行ないによっては義と認められない」と言っています。では、どうしたら良いのでしょうか?「ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる」と言っています。これはどういう意味でしょうか?ローマ3章には、キリストを信じる者に、神の義が与えられると書いてあります。学校では赤点が30点でしょうか?70点とれたらグッドかもしれません。でも、99点でもダメなんです。常に100点を取らなければ神の義には達しません。でも、神様がイエス様を信じるものに、神の義をプレゼントしてくれたらどうでしょうか?あなたの義がたったの20点でも、いや3点でも構わないのです。のびたのように0点だって良いのです。エペソ2:8、9「あなたがたは恵みによって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです」とあります。私たちが義とされる、つまり救われるためには信仰だけであり、行ないではありません。でも、ガラテヤのクリスチャンたちは混乱していました。ガラテヤ3:17をリビングバイブルで紹介いたします。「しかし、もし、キリスト様の救いを信じた私たちに、あとになって、それは間違いだった。やっぱり割礼を受け、ユダヤ教のおきてをみな守らなければ救われない、とわかったとしたら、どうなるでしょうか。キリスト様を信じたおかげで、さんざんな目に会ったことになるわけです。しかし、私たちの主に関する限り、そんなことは、絶対にありえないのです」。非常に、リビングバイブルは、分かりやすいので、そこからもう少し解説させていただきます。もし、キリストを信じるだけではダメで、ユダヤ教の掟、律法を守らなければならいとしたら3つのことが起こります。第一はキリスト様を信じたおかげで、さんざんな目に会うという。第二は、前に打ち壊した方法をもう一度打ち建てようとする罪を犯す。第三は、キリストの死は犬死だったことになる。せっかく恵みによってクリスチャンになったのに、たくさんの戒めや義務があるのでしょうか?律法主義のクリスチャンは、がんばり屋で禁欲的です。だから、「ああ、この世の人の方がよっぽど気楽だ」と思うかもしれません。よく、布教活動をしておられる、エホバの証人の方々は、果たしてどのように思っていらっしゃるのでしょうか?おそらく、そうしなければ終わりの日に救われないと、追いまくられるような気持ちで頑張っているんじゃないでしょうか?

 みなさん、救いは私たちの行ないによるのではありません。救いは私たちがイエス様を信じることによって与えられる恵みであり、賜物です。私たちすべきことは、まずキリストのうちに安ぐことなのです。マタイ11:28「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」クリスチャンになったために、やるべきことが多くなり、よけいに疲れたというのは問題です。それは律法主義が頭の中にあるからです。私たちの生まれた世界は「律法」ということばこそ使いませんが、律法主義です。小さいときから「これしちゃいけない」「あれしちゃいけない」で育ちました。学校へ入ると、「宿題やりなさい」「廊下を走ってはいけません」「髪の毛をのばしちゃいけません」「タバコを吸ってはいけません」。しつけとか、校則自体がそんなに悪いとは思いません。身を守るための規則や集団生活の規則というものが当然あるでしょう。でも、そこで人々は、大きな間違いを犯すことになります。私はこれを守っているから親から受け入れられている。私が勉強すると親や先生から好かれるんだ。私はこれができると友達から「すごい」と言われる。一生懸命、良い子になったり、一生懸命、学力や良い行ないを身に着けます。そうすることによって、自分は価値が在り、人々から受け入れられるんだ。逆に、何もしない、何もできないならば自分には価値がないし、だれからも受け入れられないんだと考えるようになります。必ずしも規則が悪いのではなく、規則からこういう間違った考え、間違った価値観が生まれるのです。私たちのアイディンテティ、自己存在は、そういうものでは決まりません。人は行ないによって決まるのではないのです。でも、残念ながら、大人になるとこういう質問をします。「あなたのお名前は?」と聞かれたら、「はい○○です」と答えるでしょう。その次にどういう質問をするでしょうか?「あなたは何をしていますか」と職業を聞くでしょう。何をしているかが、その人のアイディンテティが決まるのではないでしょうか?「私はアルバイトをしています」。これだけだと寂しい。でも、「私は牧師です」と言うと、「ま、アルバイトでも良いか?」となります。でも、これは間違った答えからです。私たちのアイディンテティは、私は神の子どもです。キリストに属する者、クリスチャンです。これにまさる不動のアイディンテティはありません。

でも、私たちはあまりにも律法的なこの世の中で生きてきたので、クリスチャンになっても、「ああ、神様に受け入れられるためには、もっと聖書を読まなければならない、もっと礼拝に来なければならない、もっと献金しなければならない、もっと奉仕をしなければならない、もっときよめられなければならない。」と考えたら、立派な律法主義者です。どこがいけないんでしょうか?2つあります。1つは動機が間違っています。私たちの肉で神様を喜ばせることはできません。もし、私が神様のためにアップルパイを一生懸命作ったとします。りんごを煮て、生地を練って、焼いて・・・「神様、あなたのためにアップルパイを作りました。どうぞ」と捧げます。でも、もし、神様がアップルパイが嫌いだったらどうでしょうか?私たちは神様を喜ばせる必要はないのです。なぜなら、キリストにあってすでに満足しているからです。2つ目の間違いは、あなた自身がかんばることです。日本人は「がんばれ、がんばれ」と励ましの気持ちで言います。でも、がんばるというのは自分の力や能力でやることです。でも、クリスチャン生活はそうではありません。キリストの命をいただいて、キリストがあなたを通して、現れるようにすれば良いのです。その具体的な方法は、第二のポイントでお話したいと思います。でも、この第一のポイントで、しっかり心にとめてもらいたいことは「人は律法の行ないによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる」ということです。救いは行ないによらない、神の恵みだということです。また、キリストにあって神様は満足しています。これ以上、私たちが何かをしなければならないということはないのです。キリストにあって神様は私たちのありのままを受け入れて下さっておられるのです。どうぞ、キリストに安らいでください。キリストに安らいでください。

2.キリストにあって生きる

私たちは律法、つまり戒めが来ると、逆らいたくなります。「そうしなさい」と言われると「そうしたくないよ」と反応します。「そうしちゃだめだよ」と言われたら、「ふん、やっちゃうよ」となるのです。これは私たちの内にある肉なんです。この肉をどうにかしない限り、あなたはすばらしいクリスチャンになることはできません。パウロはローマ7章で「私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。・・・私は、本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか」と悩んでいます。この世の中は、決まり、決まりであふれています。コンプライアンスなんて、聞こえは良いのですが、けっきょくは決まりです。クリスチャンになって、さらに決まりが増えたらどうなるでしょうか?この世でもいっぱい、いっぱいなのに、「教会に来たら、天国の律法がある!」いやですねー。そうじゃないんです。イエス様を信頼してゆけば、自然と、この世のきまりや律法を守って生きてゆけるのです。「では、クリスチャンになって聖書を読まなくても良いのですか?伝道をしなくて良いのですか?でも、聖書には伝道しろと書いてありますよ。また、奉仕も献金も良い行ないもしなさいと書いてあるじゃないですか?不品行とか悪口など、罪を犯さないようにとも書いてありますよ。隣人と愛しなさいと書いてありますよ。」でも、それらの良い命令や戒めも、律法になる恐れがあります。いや、本来、聖書を読むこと、伝道、献金、奉仕、隣人を愛することは、恵みであり特権なんです。なぜなら、私たちの内におられるイエス様が、私たちを通して、そうさせてくださるからです。はっきり言わせてもらいます。クリスチャン生活は倫理や道徳の生活ではありません。キリストが私たちの内から現れてやってくださること、いわば奇跡なのです。そうですクリスチャン生活というのは奇跡なのです。ハレルヤ!アーメン。

 では、どうしたらその境地に達することができるのか?それが2:19,20「しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」パウロは「律法によって律法に死にました。私はキリストとともに十字架につけられました」と言いました。これはどういう意味でしょうか?これは、ローマ7章の「夫と妻のたとえ」でよく分かります。夫は律法です。決して間違いを犯さない正しい人です。いつも、私を「あれが足りない、これは間違っている」とあら探しをします。妻はああ、うちの人が死んでくれたら、「やさしい他の男性と結婚できるのになー」と思っています。でも、夫は健康そのもので、病気1つしません。このまま私が他の男性のところへ行けば、姦淫になるので許されません。たった1つだけ律法である夫から解放されることができます。それは、一度、死んで、生まれ変われば良いのです。もし、キリストと結ばれるならば、一度、死んで、よみがえることができるのです。つまり、律法が死んだのではなくて、律法に対する自分が死ねば、律法から解放されます。その後は、キリストと結婚して、キリストにあって生きれば良いのです。それが、この聖句の意味なのです。「しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」

クリスチャンは新しく生まれた存在です。「イエス様のようになりなさい」と言われなくても、イエス様の命が内にあるのです。ですから、自分にではなく、イエス様に信頼して生きるならば、イエス様の命があふれ出てくるのです。でも、そうさせないものが自分の中に、まだあります。それは何でしょうか?それは肉です。罪ではありません。正確的には肉です。私たちは、たとえ生まれ変わってクリスチャンになっても、肉があります。では、肉とは何でしょう?肉とは神様に頼らないで、自分の考えや力でやるという独立心です。アダム以来、人間は長い間、神様から離れて生きてきたので、「神なしでやっていこう」という性質が私たちの中に染み込んでいるのです。律法の問題は解決しました。今度は、肉の問題です。どうしたら良いのでしょう?それは、自分の意思で、私たちが持っていると思っている1つ1つの権利をイエス様に明け渡すことです。スティーブ・マクベイという牧師が『恵みの歩み』という本を書いています。また、先生は2回ほど日本に来て講演をしてくださいました。1990年10月6日土曜日、先生は死ぬ経験を通らされした。「神様、私は16歳からあなたのために説教してきました。21年間も一生懸命にやってきたのに、私から何を望んでいるのですか?」と言いました。神様が霊に語りかけました。「スティーブ、あなたそのものを欲しい」と。「神様は、私がいろんなことができるから、そのために私を欲しかったと思っていた。私に教会を建てて欲しいと思っていた。私に説教してほしいと思っていた。カウンセリングをして欲しかった。病気の人のために祈り、婚約式や結婚式の司式をすること。亡くなった人の葬儀をすること。ミニストリーをするために、牧会をするために神様は私を欲しいと思っていた。しかし、そうではないということを突然、分かった。それらのことをするために私を欲しかったわけではない。神様は私自身を欲しいということが分かった。神様はお手伝いさんを求めているのではなくて、花嫁を求めておられるのだ。」

 先生は、横たわりならが、数日前に、ある人からもらった「紙」のことを思い出しました。その「紙」の一番上には、「完全に神様にゆだねる」と書いてありました。左側には神様にゆだねる様々な領域が書いてありました。自分の人生、自分の将来、自分の幸せ、家族、気持ちよい環境。右側には自分が持っていると思っている権利が書いてありました。私がしてほしいようにしてもらう権利、自分の住みたいところに住む権利。その紙を持ちながら、祈り始めました。祈りながら、少しずつ、自分が今まで持っていたすべてのものを神様にゆだねていきました。自分に対する確信や自分の能力もすべて神様にゆだねました。自分の背景、自分の教育も、説教の能力、牧会者としての様々なスキル、すべてを神様にゆだねていきました。最後に、自分の名前をサインしました。最後にこのように書いてありました。神様は私に対して、やりたいようにやって良いという権利を持っておられることを認めます。神様は私に対して、好きなようにして良い。私の内側に対しても、やりたいようにやって良い。私を通して、やりたいようにやって良い。今まで、それらは自分のものだと思っていたが、それらを全部、神様にゆだねる。「全部、神様のご支配のもとにゆだねます」。その下に自分の名前を書きました。スティーブ・マクベイ、1990年、10月6日、契約書。イエス様はあなたのうちにあって働きたいのです。でも、あなたがそれらを握っていたのでは、イエス様が働けないのです。私たちはイエス・キリストに私の全部をゆだねたら、とんでもないことになると恐れているのではないでしょうか?第一は好きなことができない。私の趣味や楽しみはどうなるんだ。第二に、世の中はそんなに甘くない。たくさんしなければならないことがある。私には多くの責任があるんだ。第三、目に見えないイエス様にそれほど、頼って大丈夫のか?自分がいなくなるんじゃないのか?多くの人は「恵みによって歩む」ことは、砂糖漬けの甘いクリスチャン、怠け者のクリスチャンなんだと誤解しています。でも、「自分に死んで、キリストに生きる」となると、「結構、ハードル高いなー」と思いませんか?私は奥が深いと思います。信じるだけで救われるという恵みです。しかし、クリスチャン生活も恵みでなんです。

責任という英語は、responsibilityと言います。しかし、これは2つのことばでできています。response応答と、ability能力です。つまりこういうことなんです。私たちがなすべき責任とは何でしょうか?それは、神様の能力に応答することであります。律法主義は、私たちの努力で、何かを成し遂げることです。「自分で何かを成し遂げないと自分には価値がないんだ」と一生懸命がんばります。律法主義は私たちの側に責任があります。でも、恵みは神様が事を行います。私たちの責任は、単純に神様の能力に応答することであり、神様がなさりたいことに対してゆだねることです。律法主義は自分の努力で神の祝福を勝ち取ろうとします。しかし、恵みはキリスト様に安らぎ、神様から与えられる祝福を待ち望みます。私たちがキリストにとどまるときに、私たちの内からキリストが現われて来て、自然と実が結ばれていくのです。自分が小さくなるときに、イエス様が大きくなってくださいます。自分が弱くなるときに、イエス様が強くなっていきます。これが恵みの世界です。私は、まだ50%しか体験していませんが、すべてのものを主にゆだねる祈りはしました。でも、肉がまだありますので、「私がやらないでだれがやる」と、気づかないうちに握っています。「ああ、いけない、いけない」と、そのたびことに、主にゆだねています。みなさん、どうせ恵みで救われたのでしたら、信仰生活も恵みで歩もうではありませんか。クリスチャン生活は道徳や倫理以上のものです。いえ、奇跡的な生き方です。

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2008年6月15日 (日)

妥協を許すな     ガラテヤ2:1-9

 キリスト教は確かにユダヤ教を土台としていますが、だからと言って同じではありません。当時のユダヤ人はモーセの律法と割礼などの様々な儀式を重要視していました。しかし、パウロが宣べ伝えた福音は、キリストを信じるだけで救われる。つまり、モーセの律法を守ったり、割礼などの儀式は一切不要だということです。なぜなら、イエス・キリストが律法を完成し、またイエス・キリストが律法を守り行なえない私たちの罰や呪いを十字架で負って下さったからです。しかし、紀元50年頃は、福音が福音としてまだ確立されていませんでした。なぜなら、ユダヤ教の背景を持ったクリスチャンがたくさんいたからです。エルサレム教会のペテロやヨハネも、そういうところがありました。しかし、使徒パウロは復活のキリストから直接、福音の啓示を受けました。それは、ユダヤ教とは全く違うものでした。ユダヤ教が古い皮袋だとしたら、福音は新しいぶどう酒です。パウロは全世界に純粋な福音を宣べ伝えるために、一切の妥協を許しませんでした。そしてパウロは、福音の真理を保つために、反対者たちと厳しく対決しました。これがガラテヤ人への手紙です。

1.福音の真理が保たれるため

 ガラテヤ書2章からの内容は、使徒の働き15章をパウロの立場から書いたものです。パウロは第一次伝道旅行を終えて帰って来ました。すると、ある人たちが「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と教えていました。パウロは、彼らを「忍び込んだにせ兄弟たち」と言っています。おそらく、ガラテヤの教会は、彼らの影響を受けたのだと思います。パウロやバルナバと彼らとの間に激しい対立や論争が生じました。両者は今度、エルサレムに上って、使徒たちや長老たちの前で話し合おうということになりました。エルサレムでも激しい論争になりましたが、結局、「異邦人は割礼を受けたり、モーセの律法を守る必要はない。彼らも恵みによって救われる」という結論に達しました。パウロは「おもだった者と見られていた人たちは、私に何も加えることをしませんでした。ペテロが割礼を受けた者への福音をゆだねられているように、私が割礼を受けていない者への福音をゆだねられていることを理解してくれました」と言いました。このように、エルサレム会議では丸くおさまったのですが、パウロにはまだ、心配がありました。それは、2章の4,5節です。「実は、忍び込んだにせ兄弟たちがいたので、強いられる恐れがあったのです。彼らは私たちを奴隷に引き落とそうとして、キリスト・イエスにあって私たちの持つ自由をうかがうために忍び込んでいたのです。私たちは彼らに一時も譲歩しませんでした。それは福音の真理があなたがたの間で常に保たれるためです。」

 パウロが危惧していることは、「律法主義が入ってしまったなら、クリスチャンであっても、自由を失い、奴隷になってしまう」と言うことです。その当時は、福音に反するものが、割礼とかモーセの律法というユダヤ的なものでした。しかし、教会の長い歴史の中で、形を変えながら律法主義が入り込んできました。教会では割礼は行ないませんが、洗礼は行ないます。信仰はともかく、洗礼を受ければ救われると考える人たちがいないわけではありません。幼児洗礼もその1つであろうと思います。また、洗礼でもどっぷり浸かる浸礼は聖書的で、滴礼は聖書的じゃないというグループもあります。しかし、パウロが言うバプテスマは、水の量ではなく、キリストの死と一体になることです。他にモーセの律法から来るものもたくさんあります。一番大きなのは聖日礼拝です。「クリスチャンになったら、聖日礼拝を守らなければならない」とよく言われます。これは十戒の「安息日を守れ」から来たものです。私も前の教会では「聖日礼拝厳守、祈祷会出席、十分の一献金」を言われました。先生は「これは恵みの律法であって、私たちを助けるためにある」と言われました。私も何の疑いもなく、ずっと30年間、守ってきました。しかし、新約聖書にはっきりと「日曜日の礼拝を守れ」とか、「十分の一献金をしなさい」とは書いていません。松戸の岡野牧師は、「日曜礼拝に来なさい」とはひとことも言わないそうです。ご主人が未信者で、来れない場合は、月曜日でも、火曜日でも、水曜日でも良いと言います。もし、日曜日来たら「礼拝、終わったらすぐ帰りなさい」と言います。なぜなら、未信者の家族がお腹をすかして待っているからです。求道者に対してはこういうそうです。「日曜礼拝に来られなかったらそれでも良いいんですよ。しかし、信仰をもってクリスチャンになると、霊的に生まれるので、礼拝に出たくなるんだよね。」また、「うちは献金袋も回さないし、献金袋もない。ただ、後ろの方に、箱が1つあるだけです」と言います。つまり、礼拝出席も献金も義務や律法ではなく、恵みでするんだということです。教会の開拓時代は、伝道のためにいろんな集会をやって、信徒も奉仕に疲れていたそうです。教会は一度つぶれて、先生は悔い改めました。その後は、「妻や夫、子どもたちを愛しなさい。生活を通して伝道しなさい。そのためには福音の愛で無条件に愛しなさい」と勧めました。伝道しなさいとか、奉仕しなさいと言わなくても、教会員が勝手にやっているそうです。

 「律法を守らなければ救われない」、あるいは「救われた後は、一生懸命、律法を守らなければならないんだ!」となるとどうなるでしょうか?パウロは「それは奴隷に引き落とされることであり、自由を失うことです。私は彼らに一時も譲歩しませんでした」と言いました。律法主義とは何でしょう。それは自分の行いや努力によって神に受け入れられることです。そういう人にとって、神様は厳しい神様であり、何かをしていない場合、叱られるような気がします。だから、その人はいつも「これで良いのだろうか?何か足りないんじゃないだろうか」とドキドキしています。一生懸命、奉仕をするかもしれませんが、脅迫観念からであり、喜んでやっているわけではありません。聖書を読むのも、お祈りをするのも義務感からです。日曜日礼拝に来るのは、天国に入れてもらうための顔つなぎです。「忘れられては困るので、月1回くらいは挨拶に来なくては」。みなさん、これは奴隷であって、自由な生き方ではありません。日本では、せっかくクリスチャンになったのに、こういう生活を強いられている人が結構いるようです?そうじゃないのです。私たちは行いではなく、恵みによって救われたのです。神様はキリストの贖いを信じたあなたに満足しておられるのです。だから、もう神様を喜ばせる必要はないのです。とにかく、私たちは父なる神様の無条件の愛を十分受け入れ、満喫する必要があります。自分はどういう状態でも神様から愛され、赦され、受け入れられているという土台があって、はじめて、信仰の成長とか弟子訓練があるのです。この土台なくして、「あれしなさい」「これしなさい」とやられると、信仰生活、1ヶ月持ちません。

日本で、洗礼を受けた後に、あまり残らないというのも、この律法主義が原因しているのではないでしょうか。こちらは何にも要求していないのに、「あれしてない」「これしてない」と自責の念に駆られ、教会の交わりも疎遠になる。真面目な人に案外多いかもしれません。私の母教会では、先生が「牧師は信徒を裁かない。信徒は牧師を裁かない。信徒同士も裁かない」というスローガンを掲げました。私が洗礼を受ける直前、1979年2月頃だと思います。先生は「風はおのが好むところを吹く」というみことばをいただいて、「聖霊が好まれる教会を作ろう。それは裁き合わない教会である」とやったわけです。それから、教会はどんどん成長していきました。律法主義の教会は、互いに裁くところがあります。「あれしていない、これしていない」と裏で裁くわけです。すると、教会の雰囲気が悪くなります。香港のベン・ウォン師は雰囲気がとても重用であると言われました。ある時、ベン先生は「自分の教会で育みたい、7つの雰囲気」を書き出したそうです。①積極的肯定的な信仰。アジア人は他人の欠点を見つけることが非常に得意です。自分に対してもそれは同じです。自分が好きでないのは、自分自身を批判するからです。だから、積極的、前向きになる。たとえ小さなことでも、良いことはほめる。②礼拝も雰囲気が大事。お互いがキリストのからだの一部であり、共に礼拝を捧げるべき。受身ではなく、証も取り入れたら良い。③笑い(冗談)があること。クリスチャンは真剣になるためには静かにしていなければならないというが、そうではない。ベン先生はかつて楽しい人じゃなかったそうですが、冗談を紙に書いて、暗記して、使ってみたそうです。冗談を訓練したら身についたそうです。中国語では幸せなことを「開心」と言うそうです。「ははは」と、笑ったところに神のことばを蒔くわけです。④髪型や服装も雰囲気を作る。第一礼拝はとてもクリエィティブです。前でリードするヤング・ガールズは、緑色で統一したり、先週は黒のフォーマルウェアーでした。人が素敵な格好をすると、こちらも幸せな気持ちになるものです。

 Ⅰコリント9:27「私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。それは、私がほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなことのないためです。」多くの人たちは、この箇所を自己鍛錬というふうに理解します。28年前、私が聖書学院に行っていた頃、学生のための祈祷会がありました。そのとき、舎監の先生が、このところから、「他の人に宣べ伝えておきながら、自分が失格者にならないように聖い生活をすべきです」とメッセージしておられました。そのとき、神様に仕えるって大変なことなんだなーと思いました。でも、10数年前、松岡欣也先生が、この箇所からすばらしいことを教えてくださいました。パウロはパリサイ人で、もともと真面目な人だった。だから、意識していないとついつい、律法主義になり、自分の力で頑張ってしまう。そうならないように、パウロは「律法じゃない。恵みで生きるんだ」「律法じゃない。恵みで生きるんだ」と自分をうちたたいていたというのです。「なるほどなー」と思いました。日本人は「○○しなければならない」で育ってきました。しかし、福音の真理はそうではありません。私たちの行いや状態によらず、キリストによって、神様はすでに満足しておられるのです。自分はありのままで、神様から愛され、赦され、受け入れられている、これが福音の真理です。こういう土台があると、喜んで礼拝をささげ、喜んで聖書を読み、喜んで奉仕したくなるのです。アーメン。

2.福音の真理に歩むため

 前半は律法主義でしたが、後半は慣習とか儀式についてお話したいと思います。旧訳時代は律法の他に様々な儀式がありました。ユダヤ教から来た人たちは、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と主張しました。彼らは他に、食べ物について、日について、こだわりがありました。あるものは清いけれど、あるものは汚れている。この日は良いけれど、この日は良くない日だ、みたいな考えがありました。こういう旧訳聖書の背景を持った人たちをヘブライストと言います。彼らもクリスチャンなのですが、神殿でも礼拝をし、また家々でも礼拝をしていました。一方、ユダヤ教とか旧訳聖書を全く、知らない人たちもいました。それは、ギリシャとかローマの人たち、つまり異邦人がみなそうでした。そういう人たちを、ヘレニストと言いました。これはギリシャのヘレニズムから来たネーミングでしょう。アンテオケ教会は異邦人の基地であり、そこからパウロ、バルナバ、シラスなどが宣教に出かけました。使徒パウロはユダヤ人でありながら、ローマ市民権を持っていました。しかし、神様から異邦人に福音を宣べ伝えるように召されました。パウロから福音を知らされた人たちは、死からよみがえらされたイエス・キリストを信じて救われました。彼らにとって、旧約の律法や儀式はどうでもよかったのです。また、何を食べようが、何を飲もうが、どの日に何をしようが、全く関係がありませんでした。

 ところが、2章の11節から14節まで、1つの出来事が記されています。ケパ、別名ペテロがアンテオケに来たとき、偽善的な行動をしました。ペテロは、以前は、異邦人と一緒に食事をしていました。ある時、エルサレムから割礼派のクリスチャンがやってきました。ペテロはその人たちを恐れて、異邦人から身を引き、離れて行ったのです。他のユダヤ人、そしてバルナバまでもその偽りの行動に引き込まれてしまいました。そのときパウロは、ペテロに対して、面と向かって講義しました。14節、しかし、彼らが福音の真理についてまっすぐに歩んでいないのを見て、私はみなの面前でケパにこう言いました。「あなたは、自分がユダヤ人でありながらユダヤ人のようには生活せず、異邦人のように生活していたのに、どうして異邦人に対して、ユダヤ人の生活を強いるのですか。ケパ、ペテロは人間的な弱さが再び現れたようです。かつては、イエス様を3度も知らないと言いました。しかし、ペンテコステの日、聖霊が注がれ、大胆に説教しました。でも、ここに来て、ユダヤ人たちを恐れて、偽善的な態度をとってしまいました。これに対して、パウロはガツンとひとこと言いました。いやー、パウロは強いというか、妥協しない人ですね。パウロはさきほどの福音の教理ではなく、福音の生活面を言っています。当時のユダヤ人は異邦人と一緒に食事をしませんでした。なぜなら、異邦人は汚れていると考えていたからです。彼らはモーセの慣習も守らなかったでしょう。しかし、大切なのは福音の真理に対してまっすぐ歩むことです。ユダヤ人的なものを異邦人に押し付ける必要はないということです。当時の世界はそういうことが議論の対象となっていましたが、現代はどうでしょう?教会の中には、モーセの慣習ではありませんが、「なぜ、そんなことをするの」というのがいっぱいあります。たとえば、この講壇がなぜ必要なのでしょう?ある教会では、ガウンを着る牧師もいます。最後は、頌栄とか祝祷で終わるのはなぜでしょうか?当亀有教会はとてもシンプルですが、他の教会に行くと、もっと礼典的、儀式的です。初代教会の頃はそうでもなかったと思いますが、ローマの国教になってから、だんだん宗教ぽくなり、権威主義的になりました。そして、ローマ・カトリック、ギリシャ正教会、聖公会はまさしく儀式です。聖職者がミサをあげます。香をたいたり、聖水をかけたり、十字をきったり・・・。聖像や聖遺物まで拝むようです。しかし、宗教改革以降、プロテスタントは多くのものを教会堂から捨て去りました。改革派はステンドグラスやオルガンも排除しました。しかし、今のプロテスタント教会は、まだまだカトリック教会の影響を受けています。初代教会の頃は、かなりシンプルだったと思います。

 また、当時はヘブライストというユダヤ人クリスチャン、そしてヘレニストというギリシャ人の異邦人のクリスチャンがいました。私たちクリスチャンも10年、20年たつと立派なヘブライストになります。宗教的な言い回しをしたり、祈り方もぎょうぎょうしくなる可能性があります。しかし、セルチャーチは新約聖書の教会に帰ることを理想としています。教職者と信徒の差別もありません。ノーコントロールで、フラットな関係です。別に「先生」なんてよばれなくて結構なんであります。ガウンや背広もやめ、ノーネクタイです。言葉使いもふだんと同じです。蒲郡の石原先生が導く、正餐式を受けたことがあります。一斤のパンからそれぞれがちぎって食べます。ぶどうジュースもコップでした。ぜんぜん儀式ぽくなくて感動しました。残念ですが、罪ある人間は宗教を好みます。日曜日、ふだんと全く違った世界に行って、礼拝を守る。特別な顔をして、特別な歌を歌い、特別なことばを語り、特別なお祈りをする。教会から帰ると、この世の顔に戻り、この世の言葉使い、この世の歌を歌う。これは宗教です。日本人はクリスチャンでも宗教ぽいのが好きなんです。牧師は牧師らしく権威を持ち、冗談なんか言ってはいけません。信徒はありがたいお話を聞いて、いくらか献金をして、最後に祝福をいただいて帰ってきます。教会の中では「ハレルヤ!感謝します」とか頑張って笑顔を作ります。しかし、自分の家に帰ったら、「何が感謝だよ。うざいんだよー」とか。これは宗教です。

 パウロは、「彼らが福音の真理についてまっすぐに歩んでいないのを見て、面前で叱りました」。私は、日曜日のこの礼拝の時間も家に帰っている時間も、言葉使いや服装、祈り方・・・できるだけ同じにしたいと思っています。あるとき「講壇や椅子もいらない」と言ったら、ある方が「親の遺産から献金したんですよ」と言われ、断念しました。「先生、かたちから入るのではなく、中身から」と言われ、「はい」と従いました。ある人は、「神様の前に出ると言うのに、果たして普段着で良いでしょうか?」と言われました。そういう人に限って、裏表がある生活をしているんです。神様の前にいるのは、日曜日の礼拝のときだけでしょうか?月曜日から土曜日、家にいるときも会社や学校にいる時だって、神様は目の前にいるんじゃないでしょうか?むしろ、礼拝をこの限られた時間にではなく、日々の生活で神様を礼拝することが重要です。ある人たちは、この日曜日の礼拝プログラムをどれが最初でどれが後、交読文、信仰告白、賛美の礼拝、みことばの礼拝等、いろいろ研究しています。神様は日曜日の2時間、ご自分をどういう順番で礼拝するかには興味がありません。神様は、その人が月曜日から土曜日、この世でどんな生活をしているかの方に興味があるのです。信仰とは何でしょう?それはイエス様と日々、生活することです。

この間、郵便局で健康診断がありました。隣で順番を待っていた人が、心臓とか血液に問題があるようでした。私は「青汁を飲むと健康になれるらしいよ」と言いました。すると「その人は、それよりも酒を止めたら良いんだよ」と言いました。同じコースを回るわけですから1時間くらいどうしても一緒です。あるところで、お腹周りを測られました。メタボリックの検査らしいんですね。「やっぱりお酒が原因ですか?」「帰ってから家で、毎晩、飲むんだ」「奥さんと一緒に飲むんですか?」「いや、俺は独身だ。…俺から酒を取ったら、何の喜びもない」と言っていました。45,6の人でした。私は人に伝道するときは、「イエス様信じて、救われたら喜びが来るよ」と言います。でも、クリスチャンになって、「毎日、喜びがありますか」と聞かれたら、「ン・・・」と黙りこむかもしれません。なぜなら、「あー腹減った」「あー疲れた」「あー眠い」「あー早く借金返したい」「あー年だなー」と、ため息が多いからです。でも、最近感謝なことに、夢の中が癒されてきました。この間は、父親をバイクに乗せている夢を見ました。また、子どもの頃ではなく、比較的、最近の夢を見るようになりました。何と、家内が夢の中に登場するようになりました。この間は、ある人の腰を癒している夢を見ました。だんだん、私も信仰が潜在意識まで入ってきたのだなーと思って感謝しています。どうぞ、キリスト教という宗教をしないようにしましょう。主イエス様と一緒に暮らしましょう。買い物にも、学校にも、仕事場にも、イエス様と一緒に行きましょう。これこそが、福音の真理にまっすぐに歩むことであります。

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2008年6月 8日 (日)

神からの啓示      ガラテヤ1:11-24

 「いわしの頭も信心から」というのは、日本人の宗教観を表しています。日本人は信じる対象はともかく、信じるその心そのものが大切なんだと言います。しかし、私たちは信じるためには、その対象が本当に確かなものなのなのだろうか知る必要があります。言葉を換えると、信じる根拠、あるいは信じる土台というものがなければなりません。私は宗教という表現はあまり好きでありませんが、「キリスト教は聖書に土台した啓示の宗教」です。聖書が啓示しているイエス・キリストは信じるに値するお方です。ですから、もし聖書が作り話だったり、神話であるならば、当然、そこに表されているイエス・キリストもおかしくなります。それでは、キリストに救いがあるのかどうかも分からなくなります。きょうは、私たちが信じて救われる根拠がどこにあるのか、共に学びたいと思います。きょうはちょっと普段よりも難しい、弁証論的な説教になるかもしれません。神様があえて、へそ曲がりで、理屈っぽい私を召されたのは、こういうことのためではないかと思いました。

1.啓示の意味

 ガラテヤ1章12節と16節に2回「啓示」という言葉が出てきます。使徒パウロは「私は福音を人からではなく、神様からの啓示よって直接、受けたんだ」と主張しています。まず、私たちは「啓示」とはどういうものなのかということを知らなければなりません。啓示は、ギリシャ語で「覆いを取り除く」という意味があります。英語では、revelation、ベールを剥がすというふうな意味があります。これは、元来、隠されていた真理が神様によって明らかにされるということです。罪ある人間は霊的に盲目なために、神様の真理も神様ご自身も知ることができません。人間の知恵や理性で神を見出し、救いの道を発見するなどというのは不可能です。でも、たった1つだけ方法があります。それは、神様の方から、一方的に、私たちに開示してくださるなら可能です。また、受け取る側の私たちも問題です。神様はそのために、聖霊を送って、私たちの目を開き、理解できるようにしてくださるのです。あるとき、私たちは聖書を読んだり、聖書に関するメッセージを聞いたりするとき、トゥーン、「ああ、わかった」という時があります。そのとき、聖霊があなたに働いたのであります。詩篇の記者はこのように祈っています。詩篇119:18「私の目を開いてください。私が、あなたのみおしえのうちにある奇しいことに目を留めるようにしてください」。アーメン。

 啓示に関しては、もう1つお話をしなければなりません。それは聖書であります。「神様を知るのに何故、聖書が必要なんだ」と思うかもしれません。神様は歴史に介入され、私たち人間に御自身を示し、また語ってくださいました。そのことを文書化したものが聖書であります。もし、文書に残しておけば、あらゆる時代の人たちがこれを読んだときに、神様のことが分かるでしょう。そこで、神様は預言者や祭司、王様、使徒たちを選んで、啓示を与えました。預言者たちは人々に「神様がこうお語りになった」と告げました。同時に、その語った言葉を、羊皮紙や紙に書きとめました。私たちは聖務表でエレミヤ書を学んでいます。エレミヤ書を読んでいくと分かりますが、主はエレミヤを選び、エレミヤを通して民に語りました。エレミヤは「主は私にこう仰せられた」とか「主の御告げ」というふうに、民に神のことばを語りました。また、それと同時にバルクという助手がいて、エレミヤが語ったことや、民たちの反応を巻物に書き留めています。つまり、神のことばはエレミヤが発したときから、すでに権威ある神のことばだったのです。あとから権威が与えられたのではありません。民たちが信じる、信じないに関わらず、エレミヤは主のことばを告げました。そのことを書き留めたのが聖書であります。ですから、聖書は神のことばであり、権威があるのです。ところが18世紀、啓蒙思想が起こり、合理主義者たちは聖書にもメスを入れるようになりました。聖書も他の書物も同じで、誤りがあるんじゃないかと調べ始めました。これを歴史的批評的研究と言います。聖書が実験室のカエルのように解剖されたのであります。ドイツの神学者たちは、文書資料説を唱え、ヘーゲルの「正反合」を当てはめました。そして、聖書はいろんな資料が組み合わされ、編集されて、今日に至ったんだと主張しました。また、ある人たちは、その当時の生活様式から、いろんな伝説や神話が生まれそれが伝承されて行ったんだと主張しました。この2つを組み合わせたのが、近代の批評学であります。彼らは、「聖書のことばは、人々から自然発生し、正反合と組み合わされて行った」と言うのです。それは、まさしく聖書の進化論であり、聖書の霊感説を全く否定した考えです。

 まことに残念ですが、現代、聖書に対する立場は大きく分けて2つあります。1つは「聖書は人間の所産によるもので、誤りが当然含まれる。だが、全部とは言えないが、神のことばが含まれている」という立場です。もう1つは、「聖書は神の霊感によるもので、全く誤りがない。だから、書かれた記述をそのまま信じて良い」という立場です。私は後者の立場です。これを聖書信仰と言います。でも、日本の教会の半分は、聖書が全部、神からの啓示であるとは考えていません。みなさん、もしこの世の相対的な考えを聖書に取り入れたらどうなるでしょうか?私たちの信じる基盤も、おかしくなります。私は聖書の啓示が絶対的なものであると信じます。聖霊が預言者たちに語らせ、聖霊が1冊の本(聖書)になるように働かれたのです。そして、今、聖霊がこの聖書を読むとき、光を与え、「ああ、なるほど」と理解できるように助けてくださるのです。聖書を相対化した人たちは、説教は語られた神のことばである主張します。説教と聖書を同等に扱います。もし、説教が神のことばであるなら、冗談も言えないし、自分の証をすることもできないでしょう。私は説教者とは、神のことばである聖書から語ることだと思います。説教では、みことばを宣言したり、解説したり、時には冗談も加えたりします。でも、私には聖書という絶対的な真理があるので自由なんです。説教の目的は、これをみなさんが理解して信じてくださればよいのです。そのためには歌ったり、踊ったり、笑わせたり、何でもします。

 啓示は2種類に分けることができます。1つは聖書が書かれたときに働いた、聖霊の特別な働きです。預言者たちが神のことばを聞いて、それを書きとめました。これを聖書の霊感と言います。聖書はすでに完結したので、もう同じ聖霊の働きはありません。「神がこう言われた」と聖書に付け加えるならば、異端になります。もう1つの啓示は、照明と言いますいが、私たちが聖書を読むときに、理解させてくださる聖霊の働きです。イエス様は弟子たちに真理の御霊が来ることを約束されました。ヨハネ14:26「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」アーメン。でも、矛盾するようですが、神様は聖書以外からも語られます。夢や幻、預言でも語られます。でも、この預言は聖書の時代の預言者のようなものではなく、部分的なものであり、時には誤りがあります。だから、吟味が必要なのです。まとめますと、キリスト教は啓示の宗教、聖書の宗教と言うことができます。私たちの救いは、神の啓示、絶対的な真理である聖書の上に立っているのです。だから安心なのです。この世のものは、すべてが相対的で、すべてが変化します。でも、神のことばは天地が滅びても永遠に立つのです。だから、私たちの信仰をこの世のものではなく、神のことばである聖書に土台すべきであります。何か問題が生じたら、「聖書が何と言っているか」、人のことばではなく、「聖書が何と言っているか」そこにポイントを当てるべきであります。ベンがよくおっしゃっていました。「ベン・ウォンを信じないでください。自分で聖書を調べて信じてください。」鈴木牧師を信じないでください。聖書のみことばを信じてください。アーメン。

2.パウロが受けた啓示

 ガラテヤ1章12節で、使徒パウロは「この福音は、人間から受けたのでも、教えられたのでもなく、イエス・キリストの啓示によって受けたのです」と言っています。16節では、神様が私を「異邦人の間に御子を宣べ伝えるために、御子を啓示することをよしとされた」と言っています。1章の後半では、私は「ケパ(ペテロ)以外にはだれとも会っていない」と言っています。Ⅰコリント15:2、3にも同じようなことが書かれています。Ⅰコリント15:2、3「私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと・・・」ここに、「私も受けたことであって」と書かれています。この意味は、人から聞いたということではありません。キリストから特別な啓示を受けたということです。なぜ、パウロは自分が宣べ伝えている福音は直接、神から啓示されたものであると主張しなければならなかったのでしょうか?おそらく、こういうことだろうと思います。パウロの後に、ガラテヤの教会に入り込んだ人たちはこう言ったでしょう。「あのパウロはキリストの直接の弟子ではないので、使徒でも何でもないんだ。エルサレムにいるキリスト者たちは、割礼を受けているし、律法も守っている。だから、信じるだけじゃだめなんだ」。このようにパウロの福音を否定したのだと思います。もし、異邦人がユダヤ人のように割礼を受け、律法を守らなければならないとしたら、異邦人の救いはとても困難になります。だから、パウロは、「この福音はキリストから直接受けたんだ」と主張しなければなりませんでした。また、パウロは1章1節で「私が使徒となったのは、人間から出たことではなく、キリストを死者の中からよみがえらせた父なる神によったのです」と自分の使徒性を強調しています。

 しかし、不思議だなーと思います。イエス様は3年半かけて12人の弟子たちを訓練しました。そして、天に引き上げられる直前、「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい」(マタイ28:19)、「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい」(マルコ16:15)とお命じになられました。しかし、肝心の弟子たちはどうだったでしょうか?しばらくエルサレムにとどまっていました。いよいよ、ステパノのことで迫害が起こりました。しかし、使徒8:1に何と書いてあるでしょう。「使徒たち以外の者はみな、ユダヤとサマリヤの地方に散らされた」とあります。使徒たちは依然として、エルサレムに留まっていました。サマリヤに伝道に行ったのは信徒リーダーのピリポです。そして、アンテオケにも群れができましたが、それは名もない人たちがキリストを宣べ伝えたからです。ペテロはコルネリオのところに行くまで、まぼろしを3度見なければなりませんでした。また、ガラテヤ書2章に書いてありますが、ペテロは割礼を受けている者たちに気兼ねして、異邦人から身を引き、離れて行きました。そのことをパウロからしこたま責められています。ということは、神様は異邦人伝道のために特別にパウロは召したのではないかと思います。「パウロこそが、ユダヤ人と異邦人の橋渡しをする使徒である。パウロが宣べ伝える福音によってキリストの教会が1つになるように」と神様は願ったのではないかと思います。では、パウロの福音と他の弟子たちが宣べ伝えた福音とは、違うんでしょうか?そうではありません。ヨハネもはキリストを信じるだけで永遠のいのちが与えられると言っています。でも、パウロは「人は神から義と認められなければ救われない。だが、キリストを信じることによって神の義が与えられ、人は恵みによって救われるんだ」と言いました。切り口は違いますが、言っていることは同じです。

 今まで言ったことをまとめるとこの3点になります。何故、パウロが他の使徒たちからではなく、直接、神から受けたのであると主張したのでしょうか?その答えは3つあると思います。

①異邦人がユダヤ教徒にならなくても、福音だけを信じて救いを得られることを知らせるため。

②異邦人に福音を宣べ伝えるために、神が自分を使徒として召したから。

③信仰による義認(救いの教理)を確立し、ユダ人と異邦人の教会を1つにするため。

3.啓示に対する応答

 第一と第二のポイントで頭が随分と痛くなったので、もっとやわらかい話をしたいと思います。それは、パウロが宣べ伝えた福音に対する応答であります。パウロはガラテヤの教会員を激しく叱っています。1:6「私は、キリストの恵みをもってあなたがたを召してくださったその方を、あなたがたがそんなにも急に見捨てて、ほかの福音に移って行くのに驚いています。」また、3:1「ああ愚かなガラテヤ人。十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に、あんなにはっきり示されたのに、だれがあなたがたを迷わせたのですか。」パウロは、福音から離れてしまった人たちのことを嘆いています。日本において、洗礼を受けた人がどのくらいに教会に残るのでしょうか?はっきりとしたデーターを持っているわけではありませんが、ある人が言いました。もしも10人洗礼を受けたら、3年後に残るのは5人程度で、10年後には2,3人であると聞いたことがあります。3年後に半分になるというのは、現実的にありえるかもしれません。リーダー役員会でも、「最近あの人が見えないけどどうなったんだろう」ということが話題にされます。私はその原因に2つあるのではないかと思います。第一は共同体の責任、その人をセルに加えていなかったということです。クリスチャンは孤立してはけません。そして、第二は個人の責任、その人が福音を聞いて、キリストに根ざすということが弱かったということです。このことは第一と矛盾するかもしれませんが、人との関係はともかく、みことばの上に立って信仰を持つということです。

 私は古い人間かもしれませんが、神様との個人的な関係をとても重んじるタイプです。使徒パウロにとって、神から使徒として選ばれたという確信はどこから来ていたのでしょうか?1章1節、で「私が使徒となったのは、人間から出たことでなく、また人間の手を通したことでもなく」と言っています。ではどこからでしょう?「イエス・キリストと、キリストを死者の中からよみがえらせた父なる神によったのです」。つまり、イエス様と神様からの召命です。では、パウロはどのように福音を受けたのでしょうか?1章11,12節、「私が宣べ伝えた福音は、人間によるものではありません。私はそれを人間からは受けなかったし、また教えられもしません。ただ、イエス・キリストの啓示によって受けたのです」。では、パウロが異邦人に福音を宣べ伝えなさいと言われたとき、どうしたんでしょう?1章16,17節「私はすぐに、人には相談せず、先輩の使徒たちに会うためにエルサレムにも上らず、アラビヤに出て行き、またダマスコに戻りました。それから3年後に、私はケパを訪ねて…」。パウロは少なくとも3年はアラビヤの荒野と故郷のダマスコに逃れ、信仰の吟味をしています。パウロがアンテオケ教会で活躍したのは、回心してから11年後ぐらいたってからです。私はセルチャーチを強調していますので、「人との関係を大事にしましょう。共同体の中で信仰生活をしましょう」と言います。でも、人に依存してはいけません。現代の多くの人たちは一人になることを非常に怖がっています。たえず、携帯とかメール、ブログ等でお話しています。それが悪いとは言いませんが、私たちクリスチャンは神様との縦の関係を重んずるべきです。なぜなら、啓示は神様から受けるものだからです。一人になって、神様と一対一で向き合う。そうすると、様々な確信が与えられます。また、自分は何のために召されているのか、自分は何をすべきなのか分かってきます。神様の前に問題を1つ1つさらけ出すと、秩序と解決がやってきます。神様にちっとも聞かないで、人々の間を回って歩くのは愚かなことです。使徒パウロもそうですが、預言者たちは一人になることを恐れませんでした。イエス様も「寂しい所に行って、父なる神様に祈っていた」と福音書に書いてあります。どうぞ、一人になることを恐れないように。一人で神様と向き合う時間を持ちましょう。

 そして、神様との縦の関係がしっかりすると、今度は隣人に、兄弟姉妹へと向くことができます。神様の愛をしっかりと受けていますと、人がそっけない態度をとってもあまりショックを受けません。「ああ、他のことに集中しているんだなー」と善意に解釈できます。たとえ、いやなことを言われても、「ああ、疲れているんだろうなー」と思い、すぐ怒ることはありません。パウロはどういう生き方をしていたのでしょうか?1:10「いま私は人に取り入ろうとしているのでしょうか。いや。神に、でしょう。あるいはまた、人の歓心を買おうと努めているのでしょうか。もし私がいまなお人の歓心を買おうとするようなら、私はキリストのしもべとは言えません。」パウロは人に取り入ろうというのではなく、神に取り入ろうとしていました。また、人の関心を買おうと努めたのではなく、イエス様の関心でした。なぜなら、パウロはキリストのしもべだったからです。日本は人の目を気にしすぎです。人の評価などどうも良いとは言いませんが、神様の評価、神様の承認を重要視すべきです。私が自信をもって言えることが1つあります。それはこの説教です。聖書を何度もよみ、調べものもします。「あれやこれや、いろいろあるなー」と頭の中がごちゃごちゃになります。そのままの状態でパソコンに向かって、原稿を作り始めると絶対失敗します。そうではなく、全部投げ出して、椅子から降り、床に小さくなり、目をつぶります。ずっと目をつぶったまま、じっと瞑想します。しばらくすると、この島とこの島がくっつき大きな塊になります。また、こっちとこっちがくっつき、また別な塊ができます。これとこれとこれ、あれとあれとあれ…アウトラインができます。「できた!」すると目を開けて、デスクに向かい、忘れないうちに、さきほどのアウトラインをバーッと紙に書き上げます。その後、パソコンでポチポチを打っていきます。神様は聞けば、必ず語ってくださいます。これは私がディボーションを始めてから、得た確信です。かれこれ、17年くらいになります。私はせっかちで、落ち着きがなく、すぐ動き出す、元来、そういう性格です。「もし、他のことでも、静まって、神様に聞くなら、もっともっとすばらしい解決策や知恵与えられるのに」と思います。

 みなさんも、パウロのように啓示を受けてください。もちろん、パウロとレベルは違いますけど、神様は聖書を通して、あるいはあなたの思いの中に、ことばや絵を通して語ってくださいます。

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2008年6月 1日 (日)

ほかの福音      ガラテヤ1:1-10

 本日から、9月いっぱいまでは、ガラテヤ人への手紙から学びたいと思います。昔、細川ガラシャという人がいました。明智光秀の娘でキリシタンです。ガラシャ夫人の名前は、おそらく、このGalatiansガラテヤ人への手紙から取ったものと思われます。また、宗教改革者マルチン・ルターが「私はこの手紙と結婚した」というほどほれ込んだ書物です。なぜなら、信仰義認ということが主要なテーマになっているからです。なぜ、私がこのガラテヤ人を選んだかと申しますと、日本の教会を律法主義が覆っているからです。律法主義こそは、パウロが最も憎んでいるものです。私たちは恵みが大切とは頭で知りながらも、体は律法主義で動くところがあります。ガラテヤ人への手紙をしばらく学びますが、お互い律法主義から解放されて、恵みによって生きるクリスチャンになりたいと思います。

1.ほかの福音

ガラテヤ1:6,7「私は、キリストの恵みをもってあなたがたを召してくださったその方を、あなたがたがそんなにも急に見捨てて、ほかの福音に移って行くのに驚いています。ほかの福音といっても、もう一つ別に福音があるのではありません。あなたがたをかき乱す者たちがいて、キリストの福音を変えてしまおうとしているだけです。」パウロは、ガラテヤの教会が「ほかの福音に移った」と嘆いていますが、「しかし、ほかの福音なんかないんだ。それはニセモノなんだ」と言っているかのようです。では、「ほかの福音」というものを現代的に分かりやすく言うとどうなるでしょうか?私は「ほかの福音」には大体3つのものがあると思います。第一は福音だけでは救われない、行いや努力が必要という異端的な福音です。つまり、キリストを信じるだけでは不十分であり、私たちの行いがプラスされなければならない。儀式、正しい行い、奉仕活動、聖書的知識、聖霊体験、弟子としての献身、今まで犯した罪を全部告白しなければならない等。大体、キリスト教の異端と言われるものはみな、人間の行いをプラスします。布教のために、一生懸命、家々を回っている人たちもいます。教団のために一生懸命働いて、すべてを捧げてもまだ足りないと言われるカルト教団もあります。聖霊のバプテスマを受け、異言を話せなければ一人前のクリスチャンじゃないという教会もあります。第二は水増しした安っぽい福音です。「あなたはキリストを信じるだけで天国に行けますよ」。そのこと自体は正しいのですが、キリストの弟子として従うことはオプション、選択の自由になっています。人々は天国行きの切符をゲットしたので、それで安心しきっています。天国行きの信仰はあるでしょうが、世の人と全く変わらない生活をしています。これは安価な福音です。第三は「救いは恵みだけど、信じてからは頑張らなくっちゃ」という詐欺的福音です。「救いはただです。でも、クリスチャンになってからは、礼拝厳守、祈祷会、什一献金、教会の奉仕、ディボーション、この世からの聖別が必要です」。言っていることはごもっともなのですが、肉の力で頑張るしかありません。天国に行くまで、体を打ち叩き、歯を食いしばるという、苦しい信仰生活です。これは律法主義の教会です。

 では、パウロの時代の「ほかの福音」とはどういうものなのでしょうか?使徒パウロは熱心なユダヤ教徒でした。どれほど熱心かと言うと、イエス・キリストを信じている人たちを迫害するくらい熱心でした。あるとき、迫害の手をダマスコまで伸ばそうとしました。が、その途上、復活の主と出会いました。まばゆい光で打ち倒され、主の声を聞きました。そのとき、パウロは異邦人に福音を宣べ伝えるように召されました。なんと、クリスチャンになるのと同時に、異邦人伝道という使命が与えられました。私は信じます。神様はあなたに救いを与えるだけではなく、同時に、あなたしかできない使命(ミッション)を与えるのではないかと思います。もし、クリスチャンになっても、使命を持っていないならば、時間と賜物を無駄に使ってしまうでしょう。神様はおそらく、その使命を果たすために賜物も同時に与えてくださると信じます。パウロは異邦人に福音を宣べ伝え、キリスト教会を設立するという使徒に選ばれました。パウロが一番最初に伝道に行ったところが、ガラテヤ地方です。使徒の働き13章、14章にそのことが記されています。パウロとバルナバが福音を伝えると、ある者たちは信じました。しかし、後からユダヤ人がやって来て、パウロたちを迫害しました。パウロは逃げるようにして、次の町、さらには次の町と伝道しました。短期間でしたが、大ぜいのユダヤ人と異邦人が救われました。使徒15章にはエルサレム会議の様子が記されています。パリサイ派から信者になった人々は「異邦人にも割礼を受けさせ、また、モーセの律法を守ることを命じるべきである」と主張しました。しかし、ペテロは「私たちの父祖が負いきれなかったくびきを何故、彼らに負わせるのか。私たちも恵みによって救われたけれど、あの人たちもそうなんだ」と反論しました。議長であるヤコブが決議を言い渡しました。「聖霊と私たちは、次のぜひ必要なことのほかは、どんな重荷を負わせないことを決めました。すなわち偶像に供えた物と血と、不品行とを避けることです」

 つまり、人はキリストを信じるだけで救われる、割礼とかモーセの律法を守ることは不要であるということです。割礼とは、男性の性器の先っぽの皮を切り取る儀式です。これは、アブラハムから行なわれた、イスラエルの民に加えられたことの証明です。ある人は、「新約時代は割礼から洗礼に取って変わったんだ」と言います。確かに、洗礼は神の民に加えられる証かもしれません。でも、全く同じだとは思いません。なぜなら、洗礼は信じたことの証ではありますが、救われるために必要なものでないからです。とにかく、ユダヤ教徒たちは異邦人が簡単に救われることが気に入りませんでした。だから、パウロが第二次、第三次伝道旅行に出かけた時も、パウロたちを妨害しました。ガラテヤの人たちは、パウロの福音を聞いて救われました。だが、後からユダヤ教徒、あるいは偽クリスチャンがやってきました。パウロはその人たちをあるところで「犬」と呼んでいます。彼らは「パウロが宣べ伝えた福音では不十分なんだ、あなたがたも割礼を受け、モーセの律法を守らなければならない」と言いました。ガラテヤの人たちは、恵みによって救われて喜んでいたのに、「なあんだ、儀式や律法も必要だったのか!」と考えを変えました。人間というのは愚かな存在で、自分で何かやることがあった方が、「救われたなー」と感じるようです。人間の宗教には必ず、自らが犠牲を払ったり、難行苦行することが含まれます。「神様、私は一生懸命やっていますよ。だから、私を受け入れてくださいね。どうか救ってください」というところがあります。彼らがキリスト教を「安っぽい」と馬鹿にする1つの原因は、キリスト教会が「ただで救われる」と説くからです。「信仰のみ」は、安っぽいのでしょうか?

 マルチン・ルターは、1483年農家で生まれました。両親はとても厳しく、お母さんは迷信深かったようです。ルターは大学で哲学、文学、神学を学びました。彼は父が勧める法律家を目指そうと思っていましたが、エルフルト近くの路上で激しい落雷に逢い、恐怖のあまり、「もし命が助かれば修道士になります」と聖アンナに誓いました。ルターはアウグスニヌス修道会に入り、まもなく聖職を授けられミサを導きました。厳格な修道生活の努力にも関わらず、ルターは心の安らぎを見出すまでには至りませんでした。彼はひざで塔の階段を血まみれになって登ったと言われています。1511年(28歳)、聖書の教授になり、神学博士の学位を授与されました。1513年(30歳)ごろ、詩篇の講義をしている中で、「救いは人間の側のいかなる功績によるものでもなく、ただ神の約束を絶対的に信じることによって与えられる神への新しい関係である」と確信するようになりました。それでも、ルターはまだパウロ的であったわけではありません。ルターにとって、クリスチャンは「赦された罪びと」でした。1516年(33歳)、ローマ人への手紙の講解に取り組んでいたとき、神が与える信仰の本質は、個人の義認の保障だと確信しました。ルターはそのとき、たましいに平安を見出したのです。ルターは、28歳から33歳まで、少なくとも5年間は信仰義認を知らないで、人に教えていたということになります。だけど、彼は聖書をすみからすみまで学んで、「信仰のみ」で救われると悟ったのであります。私たちも聖書と聖霊によって、福音を自ら悟る者でありたいと思います。人から押し付けられたものなら、粗末に扱いますが、福音の真理を自分で発見するならば、一生手放さないと思います。どうぞ、ほかの福音ではなく、パウロが言う本物の福音を信じてください。

2.恵みの福音

 パウロは愛の人でも有名です。Ⅰコリント13章を書いた人です。でも、どうでしょうか?ガラテヤ1:8,9「しかし、私たちであろうと、天の御使いであろうと、もし私たちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その者はのろわれるべきです。私たちが前に言ったように、今もう一度私は言います。もしだれかが、あなたがたの受けた福音に反することを、あなたがたに宣べ伝えているなら、その者はのろわれるべきです。」ガビーン。パウロは人をのろっています。「使徒は天の御使いよりも、偉いんだ」と言わんばかりです。確かに、福音宣教は天の御使いには与えられていません。キリストによって贖われた人にだけ与えられている使命です。では、パウロは何でそんなに怒っているんでしょうか?ガラテヤ2:21でパウロはこう述べています。「私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそキリストの死は無意味です。」ここで、どうしても理解になければならないのが、パウロが言っている救いということです。ヨハネ福音書は、「キリストを信じることによって永遠の命が与えられる」と言っています。でも、パウロが言う救いとは、神の前に義とされるということです。義というのは、完全な正しさ、100%の正しさです。これは神様しかないものです。ここに正しい人間がいるとします。でも、神様の義と比べたらどうなるでしょう。太陽の光が義だとしたら、人間の正しさは最大に評価しても、月くらいの明るさです。あるときは、昼間でも月は見えます。でも、昼間の月は、雲のかけらぐらいにしか見えません。人間の正しさとか行いでは神様にはとうてい受け入れられないのです。では、どうしたら人間は神に受け入れられる、つまり救われるのでしょうか?神から来られたイエス・キリストは律法を全うし、私たちの身代わりに死なれました。神様はこのキリストを信じる人に神の義を与えてくださるのです。その人の正しさとか行いによりません。イエス様を信じると神の義が与えられる、つまり救われるということです。これを恵みと言います。だから、パウロは、2:21「私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそキリストの死は無意味です。」つまり、救いが私たちの正しさや行いで得られるとしたなら、キリストの死は無意味、キリストは死ななくても良かったということになります。だから、キリスト教の異端は十字架の敵なのです。なぜなら、彼らは救われるためには、私たちの行いも必要だからと説くからです。パウロが怒っているのは、彼らが神の恵みをだいなしにするからです。

 私はキリスト教で最もすばらしいものは「恵み」だと思います。「恵み」を定義するとこのようになります。「恵みとは、本来それに値し得ない存在である私たちが、神の一方的ないさおしによって、神から様々なものをいただくことができることです。」恵みと反対のものは何でしょう?それは報酬です。報酬というのは、自分が一生懸命働いて、その見返りにもらうものです。多くの場合はお金です。そして、大人になると「ただより怖いものはない。やっぱり、自分で汗を流し、努力するから尊いんだ」とまで思うようになります。日本は国土が狭くて、地下資源が乏しいので、神の恵みを覚えることがありません。一生懸命、何かを加工して外国に輸出して暮らしています。でも、ヨーロッパやアメリカ大陸は、国土が広く、地下資源が豊かなんです。いわゆる自然に恵まれているんですね。日本は石油も出ないし、小麦も作る土地もありません。6月から物価がむちゃくちゃ上がります。日本は勤勉なのは良いのですが、「この世界を作られたのは神様だ」ということを認めていません。だから、神の恵みも分からないのです。人間の努力と神の恵み、果たしてどっちが勝るのでしょうか?いくらがんばっても、神の恵みにはかないません。生まれつき頭の良い人がいます。生まれつき金持ちの家に生まれる人がいます。生まれつき健康の人もいれば、生まれつき良い家庭環境で育つ人もいます。これを総合して、「神の一般的な恵み」(一般恩寵)と言います。ある人は恵まれて、ある人は恵まれていません。

 「ああ、不公平なんだ」と思うでしょうか?この地上における恵みは不公平です。でも、神様には、もう1つ特別な恵み(特別恩寵)というものがあります。キリストを信じることによって与えられる救いという「神の特別な恵み」は不公平ではありません。どんな人にも与えられるものです。パウロはローマ1:16「私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です」と言っています。また、パウロはⅠコリント1:27-29でさらに、こう延べています。「しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。」アーメン。神の特別な恵みというのは、どちらかと言うと、この世の愚かな人、この世の弱い者、この世の取るに足りない者や見下されている者、無に等しい者に与えられるのです。なぜ、この世の強い人やこの世の知者、富を持っている人には神の恵みが届かないのでしょうか?いや、だれにも平等に届いてはいるのですが、「そんなものは不要だ。私は神になんか頼らないで、自分の力で生きる」と受け取らないのです。わあー、なまじっか持っている人は可愛そうですね。私のようにほとんど何も持っていない人は、神の恵みに触れたとき、「なんと、ありがたいんだろう」と感激します。「いやー、貧しくって良かった。不幸な人生でよかった。身分も、権力もなくて良かった」と嬉しくなります。

 先週の日曜日の午後、ワトトのコンサートにでかけました。ワトトというのはスワヒリ語で「子どもたち」という意味です。アフリカのウガンダは内戦状態が続き国土が荒れました。また、エイズで父親が死に、子どもを生んでからまもなく母親が死ぬ、いわゆるエイズ孤児があふれました。子どもたちは親戚に預けられますが、その家も食べ物がなく育てることができません。ある子どもたちはストリートチルドレンになるしかありません。つまり、ウガンダは一般的な神の恵みが届いていない環境であります。でも、そこに孤児を支援する教会の働きが生まれました。施設ではなく、家族として子どもたちを育て、食べ物、医療、教育を与えました。さらには、クワイヤーを形成し、大使として世界各地をまわっています。とっても明るくて、歌もダンスも上手です。その子どもたちが暗い家でひとりぼっちで、食べるものもなく不安な夜を過ごしていたなどととても想像できませんでした。そして、子どもたちが全員、「将来、何になりたいか」証しをしました。ある女の子は「私は副大統領になりたい」と言いました。学校の先生、タクシーの運転手、エンジニア、大統領、首相、そして牧師と多彩でした。みんな明日のウガンダのリーダーになりたいと言っていました。これが、神の特別な恵みです。一般の恵みがほとんどなくても、神の特別な恵みが来たら、大逆転が起こるのです。

3.恵みで生きる

 神の恵みほどすばらしいものはありません。しかし、この恵みはキリストを信じて救われるときだけのものではありません。キリストを信じた後も、この恵みによって生きるべきであります。でも、残念ですがクリスチャンになっても、私たちの体の中には「自力本願」というか、自分を頼るところがあります。「天は自ら助くる者を助く」という「自助論」があります。これは「天は他人の助けを借りないで自身で努力する者を助けて成功させる」という意味でしょう。つまり自分でできることは一生懸命自分でやって、最後にできないときに神様に頼るんだということです。そういう人にとって祈りとは最後の手段です。「ああ、やることは全部やった。あとは祈るしかない」。「甘ったれちゃいけない。人間にできることは人間がやり、人間にできないことは神様に頼るんだ」という二元論です。昔の話ですが、おばあちゃんが重そうな風呂敷包みを背負って道端を歩いていました。後ろから馬車がやってきました。御者は「おばあちゃん、大変だろう。ちょうどわしもそちらに行くこところじゃ、こちらに乗らんかい」と言いました。おばあちゃんは荷台に乗りました。しばらくすると、後ろから「うぅーん」という唸り声が聞こえてきました。御者が後ろを振り向くと、おばあちゃんはまだ重い風呂敷包みを背負ったままでした。御者は「なんだよー、荷物を荷台におろしなよー」と言いました。するとおばあちゃんは、「わしだけでもありがたいのに、荷物まで運んでもらうのは申し訳ない」と答えたそうです。これは笑い話ですが、恵みを知らないクリスチャンも同じことをしているんじゃないでしょうか。つまり、神の恵みは救いだけの一点とどまらず、救われてからもずっと与えられるということです。もちろん、私たちが勉強したり、努力したり、自ら労働することは重要です。でも、それらすべてのことも神の恵みによって、行なうということです。お祈りも、困った時だけではなく、困る前から、困っていないときもしたら良いんじゃないでしょうか。

ある若者が一生懸命働いて、豪華客船のクルージングのチケットを手に入れました。彼は船に乗ったのは良いのですが、ほんの少しのお金しかありませんした。食事時になると、部屋に帰りビスケットを食べていました。そのビスケットもなくなり、空腹でたまりませんでした。レストランから本当においしいかおりが漂ってきます。青年は勇気を出して、コック長に頼みました。「皿洗いでも何でもしますから、そのビーフステーキを食べさせてください」と。すると、コック長はけげんな顔をして、言いました。「あなたはチケットを持っているんでしょう。そのチケットには食事代も含まれているんですよ」。神の恵みは天国に行くだけのチケットではありません。この地上で神の子として豊かに生活するための恵みも含まれているのです。信仰生活を自分の頑張りではなく、神の恵みで生きましょう。

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