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2008年5月11日 (日)

神の約束への確信    マルコ4:26-29

 きょうは「母の日」であります。また、教会暦では 「ペテンテコステ(聖霊降臨日)」であります。子供の代表として 、母の日ですから、「お母さんありがとうございます 」と申し上げます。お母さんなくして、この世に生まれることはでき ませんでした。また、私たちを育ててくださり感謝します。また 、ペンテコステですから、「聖霊様、私たちのところにお越しくださ り、ありがとうございます」。聖霊様なくして、新たに生まれること はできませんでした。聖霊様が私たちを慰め、導いてくださることを 感謝します。不思議なことに、肉体的な誕生とはお母さんが関係して います。そして、霊的な誕生には聖霊様が関係しています。 「誕生つながり」です。しかしながら、そういうのとは全く関係なく 、タッチングヘブン・チェンジングライフの第6回目を学びたいと思 います。

1.みことばによる癒し

 癒しは、お医者さんやお薬を通しても与えられます 。これを一般恩寵と言います。多くの場合は、お医者さんやお薬は 、元来、人間が持っている自然治癒を助けるためにあります 。もう1つの癒しは、神様による病の癒しであり、これを特別恩寵と 言います。これには大体、3種類あります。第一はとりなしの祈りで す。私たちは「○○さんの病気を癒してください」と心を合わせて祈 ります。第二は賜物による癒しです。聖霊はある人に賜物を与えて病 気を治します。来週は岡山県から中嶋先生が当教会に来られます 。最近はさらにパワーアップして色んな奇跡が起こっているようです 。どうぞ、ご期待ください。求める人には与えられます。第三は 、みことばによる癒しです。神様が下さるみことばを信仰によってと らえるときに、奇跡が起こります。韓国にチョーヨンギ牧師がおられ ますが、先生の場合はご自身も手を置いて祈りますが 、信徒が何十万人もいますので、間に合いません。先生は 、人々に神様からみことばをいただくようにメッセージして信仰を鼓 舞します。すると、人々が自分で聖書を読んで祈り 、それぞれ信仰によって癒されるのです。これが省エネで、一番 、良いかもしれません。

 マルコ福音書4章には、「種まきのたとえ」が書いてあります 。神のことばは種であり、土地とは私たちの心です 。醜くて乾いた種の内側には、偉大な可能性が隠されています 。根や、湯気、枝、葉、花が出てきます。「湯気? 」と思うかもしれませんが、豆などは室の中で発芽するとき熱が出て くるそうです。最後には、他の植物や樹木を生み出すために 、実ができます。神のことばも種であります。神様は 、御わざを行うために、私たちの心に、神のことばを蒔くことから始 められます。詩篇107:20「主はみことばを送って彼らをいやし 、その滅びの穴から彼らを助け出された」。テキストにはこのように書いてあります。「あなたはあらゆる種類 の病気から癒されたいですか?肉体、魂、霊的な病すらも癒されるこ とができるのです。あなたの心の中に神の種を植えなさい。 」とあります。では、どのような土地が良いのでしょうか ?4つの福音書には、実を結ぶための良い土地の条件がそれぞれ書い てあります。第一は、みことばを受け入れる心です。第二は 、みことばを理解する心です。第三は、みことばを喜んで行う心です 。第四は、すすんで証をする心です。道端や岩地のように頑なな心で はダメです。よく耕された柔らかい土地のような心が必要です。

 そして、神のみことばを与えてくださるのは神様です。神様は 、私たちが聖書を読んでいるとき、あるいは祈っているとき 、みことばを下さいます。しかも、突然です。「あっそうかー。 」そのみことばは、現在のあなたに必要な生けるみことばです 。これは神からの啓示であり、あなたが考え出したものではありませ ん。神様があなたにみことばを送ってくださったのです。あなたは 、そのみことばを、心の中に植えつけなければなりません。つまり 、みことばを受け入れ、理解し、喜んで行い、告白するのです 。でも、多くの場合、「非現実的だなー」と思って 、ほったらかしにします。すると、サタンがやってきて 、そのみことばを持ち去って行きます。たとえ話では 、鳥が食べてしまうと書いてあります。気がつくと 、先ほどの信仰も消えてしまっています。結構、私たちは 、神様がみことばを送っているにも関わらず、無にしていることが多 いのではないでしょうか。箴言4:20-22にすばらしい教訓が記 されています。「わが子よ。私のことばをよく聞け。私の言うことに耳を傾けよ 。それをあなたの目から離さず、あなたの心のうちに保て 。見いだす者には、それはいのちとなり、その全身を健やかにする 。」このところには、「耳を傾け、目から離さず、心のうちに保て 」と書いてあります。そうするとどうなるか?「それはいのちとなりその全身を健やかにする」のです。みことばは、全身を健やかにする。ここにも癒しのことが書 かれています。

 私は男性の更年期障害なのか、1999年頃から皮膚病になりました 。乾癬といって、アトピーと同じくらい治るのが難しい病気なようで す。しかし、2003年ぐらいに、ほとんど治りました。しかし 、昨年からまた、ぶり返してきました。前ほどではないのですが 、背中や足にけっこうできています。皮膚がむけて、赤くなり 、このままでは好きな温泉も行けません。しかし、あるとき 、いくつかのことが思い浮かびました。「皮膚とは何か?それは 、外部と内部を隔てている壁ではないか。その壁が破れているという ことは、霊的防御が破れていることだ。きっと、祈りが足りないから ではないだろうか?」アーメンだなーと思いました。その次 、イエス様の変貌山のことが思い浮かびました。イエス様が「祈っておられると、御顔の様子が変わり、御衣は白く輝いた」 (ルカ9:29)とあります。「おそらく、顔の肌まで白く輝いたのではないだろうか 。私も主の栄光が、一番外側の皮膚まで来るように満たされよう 」と思いました。それから、このテキストで学んだように、 「問題が起こったときこそ、主を礼拝できるチャンスにしょう。 」1箇所、1箇所にお薬を塗るとき、「主よ、感謝します。主よ 、ほめたたえます」と礼拝しています。「それからどうしよう 。皮膚にはビタミンAだ、野菜ジュースを飲もう。玄米食をまた始め よう。それから、ストレスをためないでリラックスしよう。 」そんな風に、ちょうどやっていたところです。

 でも、きょうの箇所には、「主から癒しのことばをいただけ! 」と書いてあります。マタイ8章には、イエス様がなされた多くの癒 しの御わざが記されています。ローマの百人隊長のしもべが病気でし た。イエス様が「行って、直してあげよう」とおっしゃったのに 、百人隊長はどう答えたでしょうか?「主よ。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は 、私にはありません。ただ、おことばをいただかせてください 。そうすれば、私のしもべは直りますから」(マタイ8:8)。彼はイエス様のことばには力があるということを知っていました 。だから、「ただおことばを下さい。そうすれば私のしもべは直りま す」と言ったのです。イエス様は「イスラエルのうちに 、こんな信仰は見たこともない」と感動され、「さあ行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。」と言われました。そのとき、百人隊長のしもべは癒されたのです 。百人隊長は、イエス様がわざわざ手をおかなくても 、おことばだけで癒されると信じていたのです。すばらしいですね 、ハレルヤ!その後、イエス様はどうしたでしょうか?マタイ8:16「夕方になると、人々は悪霊につかれた者を大ぜい 、みもとに連れて来た。そこで、イエスはみことばをもって霊どもを 追い出し、また病気の人々をみなお直しになった。」とあります。イエス様は、みことばで、悪霊を追い出し 、病気の人をお直しになりました。ハレルヤ。マタイ8:17に何と書いてあるでしょうか。「これは、預言者イザヤを通して言われたことが成就するためであっ た。『彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った 。』」アーメン。イエス様が癒しをなされたのには、理由がありました 。それは、イザヤ書53章の成就であります。イエス様は 、まさしく、十字架において、私たちの罪だけではなく 、病も負ってくださったのです。私たちはこういうみことばを読むと き、トゥーンときます。「病の問題はすでに解決されているんだ。 」ある人は、「神のみこころならば、私は癒されるでしょう 」と言います。それは、種を植えるのではなく、種を殺すことになり ます。「聖書が、『彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った』と、おっしゃっている。アーメン。信じます。私のものとします」 。後は、自動的に、種から芽が出て育つように、癒しは起こるのです 。どうぞ、神様がみことばを自分に送ってくださることを期待しまし ょう。その次には、いただいたみことばをしっかりと握りましょう。

2.みことばの告白

 後半は告白の重要さについて学びたいと思います。テキストにはこの ように書いてあります。多くの人たちは告白の意味を理解していない ために、癒しを受け取ることに失敗しています。告白はギリシャ語で 「ホモ・ロゲオー」と言いますが、「同じことを言う 」という意味です。私たちの人生に神様の力が現れるために 、神様が癒しについて言われた同じことを、私たちは言い続ける必要 があります。もし神様が「キリストの打ち傷によって 、あなたは癒されたのです」と言われたならば、同じことを告白しな ければなりません。では、みことばを告白することがどうして 、重要なのでしょうか?ヘブル3:1「そういうわけですから、天の召しにあずかっている聖 なる兄弟たち。私たちの告白する信仰の使徒であり 、大祭司であるイエスのことを考えなさい。」このみことばの意味は、私たちが聖書に基づいた告白をすると 、キリストが直ちに、私たちの大祭司、あるいは使徒になってくださ るということです。大祭司とは神様と私たちとの仲介者と言う意味で す。イエス様は「父よ。あの人が、あなたの約束のみことばを告白し ていますよ。これは叶えてやるしかありませんよ」と執り成してくだ さるのです。では、「使徒になる」とはどういう意味でしょう ?使徒は「神様から遣わされた者」と言う意味です 。イエス様が使徒と呼ばれているのは、おそらくこの箇所だけでしょ う。私はクリスチャン29年やって、ようやく分かったことがありま す。子供が、『救世主メシヤ』という漫画を見たせいか、 「メシヤってなあに?」と聞きました。「メシヤって救世主だよ 」といえば、それまでですが、なぜ、私たちにメシヤが必要なのか 、改めて考えさせられました。聖なる神様と罪びとである私たちとで は、あまりにも高低差があります。神様は私たちのところに義を曲げ てまで降りて来られません。かといって、私たちも自分の正しさで上 ることもできません。そこで、神様は自分の分身とも言える 、御子イエスを私たちのもとに遣わして下さったのです。本来なら 、私たちは神様に「○○してくれ」などと要求できない者でした 。しかし、イエス様がメシヤとなって、私たちのところに降りてくだ さったのです。私たちはイエス様というキリストを通して 、神様に近づける存在となりました。なぜなら、イエス様が十字架で 私たちのすべての罪を贖ってくださったからです。逆に言うと 、罪をあがなうイエス・キリストなしでは、まことの神様には近づけ ないということです。

 でも、すばらしいことにイエス様は使徒であり大祭司となってくださ いました。その結果、どうなったのでしょう。ヘブル4:16「ですから、私たちは、あわれみを受け 、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために 、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」アーメン。だから、私たちは恵みによって癒しを受けることができる のです。ですから、私たちは聖書のみことばをもっと告白すべきです 。「あなたは十字架で、私の病を解決してくださいました。主よ 、あなたの打ち傷によって、私は癒されました」と告白するとき 、主は喜んでくださいます。私たちには、偉大な大祭司がいるのです 。だから、ヘブル4:14では「私たちの信仰を堅く保とうではありませんか」と私たちチャレンジしています。大祭司なるイエス様は父なる神様の ところに、私たちの信仰による求めを届けてくださいます 。私たちにとって大事なのは、その信仰の告白を堅く保つことです 。決して離さないで、捨てないことです。あなたは、一、二度 、求めはしたけれど、「どうせ無理だよ」と自分で却下したものはあ りませんか?この点、日本人はとっても、遠慮深いですね。「神様 、お手すきでしたらお願いします。ご無理であれば、結構なんです 」と遠慮します。この点、韓国のクリスチャンは、すごいです。 「アボジハナニム、叶えてくださらなければ、私は死んでしまいます 。チューよ、あなたしかいないのです。チューよ、信じます 。感謝します。ありがとうございます」。まだ、もらっていないのに 、もらったつもりでいます。日本人クリスチャンは 、それくらいのずうずうしさがなければなりません 。テキストにありますが、あなたが信仰を堅く守っていないもの 、諦めて棚から降ろしたものは何でしょうか?私は教会にリバイバル が起こることです。これを、諦めて、引き降ろしていました 。みなさんにとって、信仰を堅く保つべきものは何でしょうか ?体の癒しでしょうか?夫婦の関係でしょうか?あるいは偉大な使命 でしょうか?金銭面が満たされることでしょうか?結婚でしょうか ?うちの下の子供は、レゴブロックのテレビを見て 「マサチューセッツ工科大学に行きたい」と言いました 。今から準備をしたら、間に合うかもしれません。柏美樹ちゃんは 、来週から、アラバマに留学します。口で告白して 、願い求めればそうなるのです。詩篇81:10にすばらしいみことばがあります。「わたしが、あなたの神、主である。わたしはあなたをエジプトの地 から連れ上った。あなたの口を大きくあけよ。わたしが 、それを満たそう。」主は、「あなたの口を大きくあけよ、私はそれを満たそう 」と言われます。それは、私たちが主に、はっきりと告白して 、求めるべきだということです。

 また、テキストには「敬虔になるとは、神様の約束を真剣に見つめる ことである。敬虔さを通して、私たちは神様からたくさんの約束を見 出し、それを手に入れることができる」と書いてありました 。前回も申し上げましたが、「敬虔とは、罪を犯さず聖い生活を送る ことだ」と考えられてきたようですが、そうではありませんでした 。これには、目が開かれました。信仰生活を長年やっていますと、 「神様に求めることは幼稚なクリスチャン」みたいに 、思ってしまいます。「大きなことを言わないで、身の丈を知る 。失敗しないクリスチャンが良い」みたいに、思っていました 。しかし、「本当の敬虔さとは、信仰と関係があり 、約様の約束を見出し、それを手に入れることだ」とわかりました 。私もやっぱり、リバイバル(霊的復興)を信じたいと思います 。いや、日本にリバイバル、当教会にリバイバルが起こることを信じ ます。2000年からのゴスペルで小さなリバイバルが当教会に起こ りました。これは、とっても評価できることです。日本キリスト教団 では、うちは、けっこう若い人が多い方です。でも、もっと 、もっと、求めて行きたいと思います。7月に台湾から宣教のために 、10名来られます。「ああ、なんで引き受けちゃったんだろうなー 。めんどうだなー」というところも実はありました。でも、日本の 、当教会のリバイバルのために、わざわざ遠くから助っ人に来られる のです。大変、ありがたいことではないでしょうか!

私たちは、信仰に反することをこの口がしゃべってしまい、結局 、信仰をキャンセルしてしまうことがあります。ヤコブ書3章にあり ますが、この舌にはとても力があります。たとえて言うなら 、それは馬の「くつわ」であり、船の楫です。しかし、「舌は体の小さな器官ではあるが、体全体を引き回すことができる」と書いてあります。この舌で体全体を汚し、人生の車輪を焼くことも できます。しかし、またこの舌を正しく制御するならば 、私たちの体全体が良くなり、また信仰のみわざが前進していくので す。舌は奇跡を生み出す力にもなれば、破壊的な力にもなります 。ですから、「年をとったから」とか言うのをやめましょう。 「お金がないから」と言うのをやめましょう。「協力者がいないから できない」と言うのは、やめましょう。すみません、これは 、みんな私自身に対しての戒めです。そういう否定的なことばは 、信仰の火を消してしまいます。私たちをますます、老化させ 、神様が備えた可能性をキャンセルすることになります。おおー 。私たちの身近な訓練は、この口、この舌を守ることであります 。どうぞ、私たちの感情とか、感覚を信じないようにしましょう 。神のみことば、神の約束という事実を信じていくときに 、あとから感情や感覚が後から追いかけてくるのです。

 一般の本屋さんに言っても、「ことばの力」とか「暗示力」 「積極思考の力」みたいな本が売られています。確かに 、それらの本でもある程度のことは起こるでしょう。でも 、私たちの場合は、神様の約束である、神のことばに土台する告白で す。詩篇107:20「主はみことばを送って彼らをいやし 、その滅びの穴から彼らを助け出された」。本当に、神様がみことばを送ったのだったら、必ずそれはなるので す。神様がくださる、みことばの種をいただきましょう 。そのためには、地味ですけど、聖書を読む必要があります 。占いみたいに、あちこちぱっと開けるのではなく 、しおりを挟んで毎日、順番に読んでいきます。すると、突然 、神様が「あなたの約束はこれです」と語ってくださいます 。どうぞ、それを右から左に受け流さないで、心の中にしっかりとど めましょう。信じて告白しましょう。そうするなら 、種から芽が出て、成長し、おのずと実が結ばれるのです 。信仰は肉の力で、がんばるものではありません。一度、信じたら 、神様にゆだねならが忍耐深く待つのです。そうすれば、時が来て 、癒しが起こるのです。私はお風呂であることを発見しました 。私はお湯がいっぱいなお風呂に入るのが大好きです。ですから 、シャワーのお湯を湯船にいれます。5人もいますので 、表面には髪の毛とかアカが浮かんでいるときがあります 。お湯がたまっていますが、何も起こりません。でも 、あるところに来ると、湯船の縁からお湯があふれ出します 。そうすると、表面に浮かんでいる髪の毛とかアカが、突然 、流れ出します。そして、お湯がきれいになります。私は 「これだなー」と思いました。時が満ちたとき、癒しが起こるのです 。お湯がたまっているときは、何も起こっていないように感じます 。でも、縁に達してあふれるときがきます。すると 、事が起こるのです。癒しも、リバイバルも、奇跡も同じ理屈であり ます。ですから、御わざが起こるまで、あきらめないでください 。期待して、祈り続けましょう。

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2008年5月 4日 (日)

信仰の訓練    Ⅰテモテ4:6-11

 ゴールデンウィークの半ばですが、どこも混んでいるようです 。空いているのは教会だけ、ということはないでしょう。上海では 、礼拝堂に入りきれないくらい人が集まっており、ある教会では洗礼 は8ヶ月待ちだそうです。洗礼を受けるためには勉強会に出席し 、試験を合格しなければならないからです。その点 、当教会は楽ですね。1週間前でも大丈夫です。でも 、準備会はちゃんとしたいと思っています。洗礼は受けたけれど 、準備会が、まだ終えられていない方々が何名かおられるようです 。ま、なんとかしたいと思っております。きょうは「信仰の訓練 」と題してメッセージしますが、私たちの信仰はそのままにしておく と、弱って使い物にならなくなります。この筋肉と同じであります 。信仰を鍛えると、偉大なことが信じられるようになり 、すばらしい御わざがたくさん起こります。なぜなら 、神様は私たちの信仰を通して働かれるからです。

1.敬虔のための訓練

 Ⅱテモテ4:8「肉体の鍛練もいくらかは有益ですが 、今のいのちと未来のいのちが約束されている敬虔は 、すべてに有益です」。世の人たちはもっぱら、肉体の健康、肉体の鍛錬のことばかり考え ています。健康器具とか健康サプリは数え切れないほどたくさんあり ます。もちろん、肉体の訓練も大切ですが、それ以上に大切なものが あります。パウロは、「むしろ、敬虔のために自分を訓練しなさい 。なぜなら、今のいのちと未来のいのちに関係するからだ 」と言っています。つまり、外なる人である肉体はこの世限りのもの ですが、内なる人である霊と魂は永遠のものだからです。Ⅱコリント4:16「外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにさ れています」。私も50代半ばになりました。先日、家内の免許証を見る機会があり ましたが、思わず「お互い年をとったねー」と言ってしまいました 。私も、若い頃はいくら暑くても平気でしたが、先週は 、まだ夏にもなっていないのに、暑くてたまりませんでした 。俳優のハリソン・フォードは65才ですが、インディ ・ジョーンズⅣに、また出演しています。たいした若さであります 。私もあと10年は大丈夫ですね。でも、6人目が生まれたらどうし ようかと心配です。でも、大切なのは肉体よりも、内なる人でありま す。パウロは、エペソ3:16「どうか父が・・・あなたがたの内なる人を強くして くださいますように」と祈っています。敬虔のための訓練は、内なる人の訓練とイコールだ ということです。

 では、敬虔になるとはどういうことでしょうか。ある人は、 「敬虔とは、神を恐れて、罪を犯さず、きよい生活をすることだ 」と言うでしょう。しかし、テキストには「神の約束を握り 、信仰をもって生きることだ」と書かれています。昔から敬虔なクリ スチャンとは、「酒を飲まず、タバコもすわない。女性遊びや 、ギャンブルなんかとんでもない」と言われてきました。しかし、ヘブル11:6に「信仰がなければ、神によろこばれることはできま せん」と書いてあります。神の戒めを守り、罪を犯さないことはすばらしい ことです。でも、神様が喜ばれる人とは、信仰をもって神様に求める 人だということです。旧訳聖書にヤコブという人物が出てきます 。彼は兄をだまして長男の権利を奪い取ったひどい人物でした 。創世記32章で、ヤコブは御使いと戦い、「私を祝福してくださらなければ、あなたを去らせません」と言いました。それだけ、執拗に神様に求めました 。ヤコブは人間的には問題がありましたが、主はヤコブを愛されまし た。新約聖書ではペテロを典型的な例としてあげることができます 。ペテロは自分はイエス様の一番弟子だと思っていましたが 、イエス様を3度も知らないと言いました。しかし 、ペンテコステの日、ペテロの説教で3000人が救われました 。ペテロは欠点がありましたが、信仰の人でした。イエス様は信仰の あるペテロをとても愛しました。ヘブル11章をみますと 、信仰の列伝と言いましょうか、敬虔な人たちの名前が列挙されてい ます。しかし、ほとんどの人は失敗したことがあります 。ノアはぶどう酒を飲んで裸で寝ているところを息子たちに見られま した。アブラハムは自分の妻を妹だと2度も偽りました。他には 、女性に弱かったサムソンも入っているし、姦淫と殺人を犯したダビ デも入っています。彼らを見たら、とても敬虔な人とは思えないとこ ろがあります。でも、聖書は「信仰によって」「信仰によって 」と度々書いてあります。神様は信仰をもって御自身に求めてくる人 が好きなのであります。昔、羽鳥明という先生の説教を聞いたことが あります。ある人に二人の息子がいました。長男は頭が良くて有名な 大学に入りました。次男は高校中退で、遊んでばかりいました 。長男は大変優秀でまじめでしたけれど、「お父さん 」とひとことも言ったことがない。しかし、次男の方は「親父 、お金くれ」とか「親父、疲れたろう、肩もんでやるよ 」と親しく交わる。果たして、父親は、どちらの方を愛しやすいだろ うかというお話でした。

ホーム・ページに敬虔とは、どういうことかをあるクリスチャンが書 いていました。私が肩身が狭いと思うのも、自分が一般的なイメージ としての敬虔にほど遠いキリスト者だからです。要するにクリスチャ ンであるからといって、何も特別な人物ではなく、特別な生き方をし ているわけではないのです。ごく普通の人間が、日曜日ごとに集まっ て、一週間のための生きる力を求めて礼拝し、礼拝が終われば 、それぞれの生活に戻っていきます。ただ一つ言えるとすれば、 「こんなわたしのためにイエス・キリストがこの世においでになり 、十字架の上で死んでくださった。」ということを信じようとしてい るのが、キリスト者なのだと思います。・・・言いたいことはわかり ます。クリスチャンは確かに恵みによって救われましたが 、世の人と同じではありません。恵みによってキリストに贖われたら 、今度は恵みによってキリストに似た者と変えられていかなければな りません。エディ・レオ師が4年前に来られたとき、 「敬虔とはイエス様のようになることである」と以下のようにメッセ ージして下さいました。今日の教会の目標は何でしょうか 。大きくなること、あるいは栄えることです。「イエス様を信じなさ い。あなたはイエス様を信じるなら、お金持ちになりますよ」。 「イエス様を信じなさい。あなたの問題は自動的に解消されますよ 」。「あなたは人生を楽しめますよ」。「すばらしい人生が待ってい ますよ」。このような福音を語ります。しかし、イエス様のようにな るというところにフォーカスが向けられていません 。イエス様のようになるという目標を持っているでしょうか 。みなさんのセルグループはどうでしょうか。あなたのセルグループ は「イエス様のようになる」ということに焦点を当てているでしょう か。もし、私たちがイエス様になるということに焦点を合わせるなら ば、リバイバルが起こるでしょう。そして、そのリバイバルは消えて なくなることはありません。だから、イエス様のようになりましょう 。アーメンです。

では、イエス様のようになるとはどういう意味でしょうか 。イエス様のようになるとは、水の上を歩くことでしょうか ?イエス様のようになるとは、髪の毛を長くすることでしょうか ?ある人は、「イエス様のようになるとは、イエス様を真似すること だ」と言います。しかし、ノンクリスチャンでも、イエス様を真似す ることはできます。インドのガンジーでさえも、イエス様を真似しま した。彼は聖書を読み、イエス様を真似はしましたが 、それではキリスト教ではありません。もし、私がイエス様を真似す るだけならば、まだ私が自分の人生を生きているということになりま す。もし、私のこのエゴが生きているならば、自分で自分の人生を生 きている人のしるしは何でしょうか。自己というものは 、たえず他からの利益を得ようとします。自己はたえず 、何かを獲得しようとします。時に、私たちは、霊的なことをするか もしれないが、実際のところ、「私は何かを獲得したい 、利益を得たいという」ことはないでしょうか。私たちは祈るのは 、何故でしょうか?祝福されたいからです。聖書を読むのは 、成功者になりたいからです。他の人たちに良いことをします 。それは何故でしょうか?その人たちから良いことをしてもらいたい からです。私たちは人々に仕えます。何故でしょう ?その人たちは私のビジネスパートナーとなってくれるためです 。祈ること、聖書を読むこと、他の人を愛することは悪いことではあ りません。しかし、私たちの動機は何かということです。もし 、それが自己から生じているならば、他からいつも何かを利益を得よ うとします。だから、それを自己中心と言うことになります。

ガラテヤ2:20「私はキリストとともに十字架につけられました 。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きてお られるのです。いま私が、この世に生きているのは 、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰 によっているのです。」本当の敬虔とは、肉の働きを殺すということです。イエス様のようで ない品性を十字架につけて殺すということです。それによってイエス 様の命、イエス様の品性が私たちを通して現われてくるのです 。これが敬虔、これが霊的な生活です。イエス様のようでない品性を すべて殺すと、イエス様の品性だけが現されるようになります 。私がどんどん、どんどん減っていく。そして、私の内におられるイ エス様がどんどん、どんどん溢れていく。これが、完全になることの プロセスです。完全になるというのは、私たちのこの肉が大きくなる ことではなく、イエス様が私のうちに現れてくることです 。第一の結論ですが、敬虔のための訓練とは、キリストに似た者とな るということです。そのためには、肉に死んで、キリストご自身に満 たされていくということです。

2.みことばで祈る

 みことばで祈るとはどういうことでしょうか。テキストを見ますと 、16C、フランスのマダム・ガイオンという女性が初めて実践しま した。彼女はカトリックの人でしたが、みことばで祈ることをライフ スタイルにしました。すると、文字通り、神の栄光に満たされました 。しかし、当時の教会から、異端扱いされ、彼女が書いた『イエス ・キリストの深さを体験する』という本も焼かれました。彼女は 、迫害と投獄の間も、神の栄光と喜びに満たされて 、ついにこの世を去りました。彼女の本はどうなったのでしょうか ?彼女の本が町の人たちに配られ、ついには、町中の人々がリバイバ ルを体験しました。その本は、後になって、クエーカー教徒やジョン ・ウェスレー、ウォッチマンニーなどに影響を与えました。では 、みことばで祈るとはどういうことでしょうか?まず 、テキストには詩篇23が例にあげられています。これをもし 、みことばで祈るとしたらこのようになるのではないでしょうか。 「主よ、あなたは私の羊飼いです。だから、私には 、乏しいことがありません。これまでもそうでしたが 、これからもきっと必要を満たしてくださると信じます。あなたは 、私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。主よ 、あなたのもとで、もっとリラックスさせてください 。あなたは私のたましいを生き返らせてくださいます。これまで 、私を何度も生かしてくださりありがとうございます 。御名のために、私を義の道に導かれます。私が守られてきたは 、私の力ではなく、あなたの御名のゆえです。感謝します。たとい 、私が死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません 。あなたが私とともにおられるからです。あなたのむちとあなたの杖 は、私の慰めです。主よ、あなたの訓練を喜びますから 、あなたの弟子にしてください。あなたは、私の敵の前で 、私のために食事を整え、私の頭に油をそそいでくださいます 。私の杯は、あふれています。おお、私の貧乏人根性を癒してくださ い。まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが 、私を追って来るでしょう。ハレルヤ!私は、いつまでも、主よ 、あなたの家に住まいましょう。御国に、私のためにすばらしいマン ションが用意されていることを感謝します。」

 1節1節ずつ、イメージしながらやればもっと良いでしょう 。テキストには詩篇42,43篇、そして121篇がのっています 。みことばを自分のことばに変えて、祈りのように 、祈っていくとどうでしょう。するとまるで、父なる神様が 、私に語っているような感じがします。私たちは神様の臨在を感じな ら、みことばを宣言することができます。神様が私にいろんな約束や 励ましをもって語ってくださいます。そして、私自身が神様に信仰を もって応答していくのです。すると、みことばを通して 、神様のご人格、神様のご性質と出会うことができます。そのとき 、私たちは「タッチング・ヘブン・チェンジング」、つまり、 「天国に触れて、私たちの心が変えられる」のです。ハレルヤ !私はみことばを瞑想することは、強調してきましたが、 「みことばで祈る」というのは、はじめてです。そのためには 、もっとイメージを働かせ、自分の環境に神様を歓迎する必要があり ます。また、そのことは詩篇42,43篇のように 、自分の魂に語りかけることにもなります。うまくいかないと 、私たちも詩篇の記者のように、鬱的になります。「わが魂よ。なぜ、お前は絶望しているのか。なぜ、御前で思い乱れて いるのか。神を待ち望めよ。私はなおも神をほめたたえるぞ!」みたいになります。以前、自分自身との会話というものは 、どうしても過去の否定的な事柄に集中しがちだということを申し上 げました。しかし、みことばで祈ると、すぐ神様の臨在の中に入るこ とができます。すると、神様の真実が見えるようになります 。それを続けていると、「ああ、この現実も神様の御手の中にあるに 違いない。主がきっと、なんとかしてくださる。ハレルヤ! 」と希望がわいてきます。どうも、自分自身の中には 、希望を見つけるような要素がないようです。やはり 、みことばを見ていくと、触発されて、あとから希望が出てきます 。一種の化学変化であります。みことばと祈りを混ぜると 、希望が発生します。最近は、硫化水素で自殺を計る何十人もいます 。何と何を混ぜるかわかりませんが、「混ぜるな、危険」です 。でも、みことばと祈りを混ぜると、希望が発生します 。私たちはみことばと祈りを混ぜることにしましょう。

 先週は新年度の教会総会がありました。しかし、私自身の中に 「燃えるようなビジョンがないなー」と感じました 。当初は3年後に礼拝100名とがんばってきました。でも 、セルチャーチの学びをはじめてから、「教会は人数の多さではない 」と分かりました。今、ベン・ウォン師のもとでコーチングを学んで います。私もある若い先生をコーチしています。彼は教会成長の学び を終えたばかりで、教会のビジョンを私に見せてくれました 。グラフが書いてあり、あと3年後には78名の礼拝 、5年後には100名を超えています。今、まだ12名しか集まって いないのに、「えー?」と思いました。彼はチョー ・ヨンギ先生に傾倒しており、「夢をもって告白すればそうなる 」と言います。私は心の中で「懐かしいなー、私もかつてそうだった んだよな。でも、そうならなかったんだよな」と思いました 。情熱的な若い先生をうらやましいと思います。私は数を追いかける のをやめてから、何を具体的に求めたら良いかわからなくなりました 。自分の野望ではなく、神様のビジョンにフォーカスしていくという ことはそう易しいことではありません。ベン・ウォン先生から、 「大切なのは実ではなく、根っこだ」となんべんも聞かされています 。実というのは人数とか大きさであります。でも、それよりも大切な のは根っこ、つまり価値感だということです。これまでの牧師は会社 を経営するように、教会を牧会してきました。大きな会堂を建て 、大勢の人が集う教会を目指してきました。それが成功であり 、自己目的の達成でした。でも、会社の経営と神の教会が同じわけが ありません。業績を求めた結果、教会分裂、家庭の崩壊 、ストレスから来るバーンアウトや不祥事が起こり 、たくさんの人が傷を受けました。やっていることは良い事かもしれ ないけれど、動機がどうなのか?それは神の価値感と一致しているの だろうか?と問われるようになりました。私自身も内側において 、古い価値感が崩壊し、新しい価値感に入れ替わっているところです 。パソコンで言うと、まだ、インストールが終わっていない。95 %くらいできているけど、あと5%くらいです。あともう少しです。

 ですから、数の目標やビジョンを掲げる前に、絶対的なものがあるは ずです。それは、まず、各自がキリストに似た者となるということで す。新約聖書において、キリストの似姿に変えられるというのは 、最も大切な目標の1つです。自我に死んでキリストに生きるという 、敬虔のための訓練です。さらにそのことができるようになるため 、「みことばの祈り」があるということを学びました。もし 、私たちがもっと父なる神様とみことばを通して交わるならば 、信仰と希望が神様から与えられるのではないかと思います 。先ほどあげた、チョー・ヨンギ師の場合は、まず自分の夢やビジョ ンを掲げ、その後、「神様、これを告白しますので 、かなえてください」というところがありした。順番が逆のような気 がします。夢やビジョンは自分の中から出てくるものではなくて 、神様から与えられるものではないかと思います。それをしないで 、自分の夢やビジョンを神様に押し付けるというのは違うんじゃない かと思います。この世の成功と神の国の成功は、違います 。私たちはどうしても、祝福の量を金銭や持ち物、あるいは大きさや 人数で計ってしまうところがあります。イエス様は 「受けるより与える方が幸いである」とおっしゃいました 。ですから、より多く与える教会、より多く与えるクリスチャンがす ばらしいのであります。ベン・ウォン師もよくおっしゃっています 。自分の教会だけを見るのではなく、日本や世界の教会を見なさい 。建物の中に集まっている人だけを見るのではなく 、建物の外にいる人を見なさい。今のことだけを見るのではなく 、10年先、30年先のことを見なさい。自分たちの能力や資源を見 るのではなく、人々の必要を満たそうとする神様を見なさい 。私たちは視点を変える必要があります。みなさんも、何に対して 、フォーカスしていくべきかお考えください。イエス様が教会に与え た最大の使命は何でしょうか。それはマルコ16章であり 、マタイ28章です。全世界に出て行き、福音を宣べ伝えること 。行って、すべての国民をキリストの弟子にすることです。どうぞ 、この使命を果たすために、自分は何をすべきか、このこともお考え ください。私たちはあまりにも、「私を祝福してください 。私を祝福してください」と祈り過ぎてきました。こんどからは、 「この町の人たちを、日本の人たちを祝福してください 」と祈っていきたいと思います。

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