« 2008年3月 | トップページ | 2008年5月 »

2008年4月27日 (日)

聖霊の導き    ヨハネ14:16-20

 きょうは、「タッチングヘブン・チェンジングライフ 」の第4週目です。このテキストには「異言で祈りましょう 」と度々書いてあります。アバラブ教会は聖霊の賜物を強調するグル ープですから、そういう傾向があります。私は、異言はあった方が良 いと思いますが、「異言は必須である」とか、「絶対必要である 」と言ったことはありません。それよりも、聖霊という神様を賜物や 力ではなく、まず、人格的なお方として知る方が大切だと思います 。きょうは、「聖霊の導き」と題して、3つのポイントでお話したい と思います。

1.聖霊とはだれか?

 イエス様は弟子たちに「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは 、あなたがたのところに戻って来るのです」(ヨハネ14:18)とおっしゃいました。これは復活のことを語っているのではありませ ん。イエス様が聖霊というお姿で、再びやってこられるということで す。肉体を取って来られたイエス様には、物理的な限界がありました 。イエス様はエルサレムに行けば、ガリラヤにいることができません でした。また、ガリラヤに行けば、エルサレムにいることができませ んでした。やがて、イエス様は十字架の死を遂げ、3日目に復活しま した。40日間お姿を現したのち、天にお帰りになられました 。ヨハネ14章は、十字架にかかる前ですから、弟子たちに約束を与 えているわけです。どんな約束でしょうか?イエス様は、 「今度は聖霊によってあなたがたのところにやって来るよ 」とおっしゃったのです。弟子たちにとって「助け主」とは 、イエス・キリストです。そして、このところでは父が 「もうひとりの助け主」を与えるとおっしゃっています。 「もうひとりの助け主」はギリシヤ語では、「アロス ・パラクレートス」です。「アロス」とは、全く同じかたちで 、別のものという意味です。「イエス様と人格的にも能力的にも全く そっくりだけど、別の人格を持った助け主」という意味です。

聖書には三位一体という言葉はありません。でも、ヨハネ14:9 -11は、イエス様と父なる神さまが一体であると書いてあります 。また、ヨハネ14:16-20は、やがて来る聖霊はイエス様と同 じであると言われています。つまり、イエス様と父なる神様とは同じ であり、聖霊とイエス様は同じだということです。数学でもA=B 、C=Aであるならば、B=Cという式が成り立ちます 。つまり聖霊は神さまだということです。ここに3本のビデオ ・テープがあります(神は唯一、しかし人格は3つ 。全く同じ形のビデオ・テープで説明)。旧約聖書では 、おもに父なる神様と聖霊が出てきます。しかし、新約聖書になると イエス様がお出になり、教会時代には聖霊がおもに出てこられます 。聖霊は、イエスの御霊であり、同時に神の霊なのです。ですから 、聖霊を受けるならばヨハネ14:20の「その日には、わたしが父におり 、あなたがたがわたしにおり、わたしがあなたがたにおることが 、あなたがたにわかります」ということが実現するのです。つまり、イエス様の内に父なる神様が ともにおられたように、クリスチャンの中にイエス様がともにおられ るということです。イエス様は弟子たちに「私は世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます」 (マタイ28:20)と約束されました。そのことは私たちにとっても同じであります 。イエス様は「聖霊様」というお姿で、世の終わりまで、いつも 、私たちとともにおられるのです。ハレルヤ!聖霊によって来られた イエス様には、物理的な限界がありません。聖霊は 、私の中にもおられますけれど、みなさん一人ひとりにともにいるこ とができるのです。

Ⅰコリント3章と6章に、「クリスチャンは聖霊の宮 」であると書かれています。かつて神さまはエデンの園におられまし た。それから、神さまはモーセが作った幕屋に降りてこられました 。その後、ソロモンが建てた、神殿に臨在されました。しかし 、その神殿はバビロンによって破壊されてしまいました。そして 、2000年前イエス・キリスト様のうちに神さまが共におられまし た。しかし、イエス様は十字架であがないのわざを終えられてから天 にお帰りになられました。それからどうなったのでしょう ?神さまは地上にいなくなったのでしょうか?そうではありません 。ペンテコステの日、イエス様が昇天してから10日後 、聖霊が降りました。ペンテコステ以来、イエス様を信じる人々の心 の中に、聖霊なる神様が内住するようになったのです。みなさん 、イエス様を信じているなら、もれなく神さまが共に 、あなたの内におられるということです。すばらしいではありません か。イエス様は「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしない」とおっしゃいました。世の中で一番かわいそうなのは 、親のない子供です。現代は、たとえ親がいても、親のいないような 子供がたくさんいます。でも、大丈夫です。父なる神様が 、イエス様があなたと共におられるのです。日本語で「助け主 」と訳されていますが、「パラクレートス」は、他には「慰め主」 「助言者(カウンセラー)」「弁護者」とも訳すことができるのです 。あなたを慰め、助言を与え、弁護してくださる聖霊様がいらっしゃ るということです。何とすばらしい恵みでしょうか。韓国のチョー ・ヨンギ牧師はいつもおっしゃっていました。「父なる神さま 、そしてイエス様は、聖霊様によって、ここにいらっしゃっています 。あなたが神さまの住所なのです。聖霊様を認め、聖霊様を歓迎し 、聖霊様に従いましょう」。アーメン。

2.聖霊の役割

 聖霊の役割はたくさんありますので、とてもひと言では言えません 。しかし、テキストではいくつか重要なことを取り上げています 。ヨハネ14章では、聖霊はどのようなことを私たちのためにしてく ださると書いてあるでしょうか?ヨハネ14:26 「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしにな る聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また 、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださ います」。このみことばは、直接的には弟子たちに語られたものです 。弟子たちはイエス様から3年半、教えを受けました。しかし 、弟子たちは、イエス様が十字架にかかることや復活することに関し てはちんぷんかんぷんでした。また、神の国はこの地上にやってくる と考え、だれがイエス様の右に座るんだと争っていました。しかし 、ペンテコステの日、ペテロが聖霊を受けて、大説教をしました 。十字架と復活の意味、そしてやがて来る神の国のことをはっきりと 語りました。長老や学者たちは、「ペテロとヨハネが無学な、普通の人であるのを知って驚いた」(使徒4:13)と書いてあります。「普通の」とは、「専門に律法を学んだことがな い」という意味です。いくら聖書を学問的に学んでも 、聖霊様にはかなわないということです。なぜでしょう ?聖書は神の霊、聖霊が書いたのです。わからなければ 、原著者である聖霊に聞くのが一番ではないでしょうか?「聖霊様 、ここはどういう意味でしょうか?」「ああ、私はこういうつもりで 書いたのですよ?」わぁー、すげー。皮肉なことに 、人は学問をすればするほど、聖霊様から離れます。聖霊は「すべてのことを教え、すべてのことを思い起こさせてくださる」のです。アーメン。だから、聖霊様に聞きましょう。

 また、ヨハネ16章にも、聖霊の働きが書いてありますが 、このテキストを見るまでは誤解していました。ヨハネ16:8 -11の内容が、未信者のもののためであるとは知りませんでした。ヨハネ16:8-11「その方が来ると、罪について、義について 、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。罪についてという のは、彼らがわたしを信じないからです。また、義についてとは 、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなる からです。さばきについてとは、この世を支配する者がさばかれたか らです。」未信者のために聖霊は3つのことをなされます。第一は 、福音を拒絶し、イエス様を信じないことは罪であることを示します 。第二は、イエス・キリストご自身が義であり、真理であることを示 します。第三は、この世の君、サタンがさばかれたということです 。これまで、サタンが人々を告発し、さばいてきました 。神さまではなく、サタンがあなたの耳もとでさばいてきたのです 。でも、サタンは正しいキリストを処罰したことによって逆にさばか れました。聖霊はクリスチャンを懲らしめることはありますが 、罪を告発したりはしません。罪を告発するのはサタンです。でも 、キリストの十字架によって、サタンはさばかれ追放されました 。聖霊は、キリストによってすべての罪が赦されているゆえに 、私たちを訴えないのです。むしろ、私たちを弁護し 、私たちを正しい道へと導いてくださるのです。神さまはもう 、あなたを訴えません。キリストのあがないによってあなたを赦し 、聖霊様によって弁護してくださるのです。

 では、クリスチャンに対する聖霊の働きとは何でしょうか ?ヨハネ16:13-15にあります。ヨハネ16:13-15「しかし、その方、すなわち真理の御霊が来 ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語 るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしているこ とをあなたがたに示すからです。御霊はわたしの栄光を現わします 。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです 。父が持っておられるものはみな、わたしのものです 。ですからわたしは、御霊がわたしのものを受けて 、あなたがたに知らせると言ったのです。」クリスチャンに対しては、第一に、聖霊はすべての真理に導き入れま す。第二に、聖霊は父もしくはイエス様が言われたことを話します 。第三に、聖霊はやがて起ころうとしていることを示してくださいま す。多くのクリスチャンは、聖霊様に聞かないで、預言者とかカウン セラーのところを訪問しています。有名なクリスチャンのある先生に カウンセリングを受けるのは、2ヶ月か3ヶ月待ちだそうです 。また、「預言カフェ」というのがあって、多くの人たちが預言を受 けるため並んでいるそうです。未信者だったら「それも良いでしょう 」と言えるかもしれません。そうじゃないんです。なんと 、クリスチャンがカウンセリングや預言を求めて、あちこちらこちら 訪れているのです。解決は遠くにあるのではありません 。あなたの内におられる聖霊にあるのです。聖霊はすべての真理に導 き入れ、神さまがおっしゃることを話し、やがて起ころうとすること を示してくださるのです。昔、ディスカバー・ジャパンというのがあ りました。私は、ディスカバー・ホーリースピリットと申し上げたい です。

 テキストにはすばらしいたとえ話が書いてありますので 、引用したいと思います。どのように私たちは聖霊の導きを知るので しょうか?ある日、神様は1つの絵を与えてくれました 。私があなたに私の家の住所を知らせたとします。その住所は正しい けれども、あなたは私の家を発見することが難しいのです。もし 、あなたが注意深くないならば、あなたは間違った情報によって 、誤った道に導かれるでしょう。それでは、あなたが私の家に到着で きる最も良い方法とは何でしょうか?それは簡単です 。もしあなたが、私を車に乗せてくださるなら、あなたは迷うことは ないでしょう。それゆえ、あなたは神様の声を聞いて、 「これは効果的である」と考えた方法で始めないでください 。そうではなく、あなたの「人生の地図」を、あなたの人生の車にお られるイエス様のところに持ってきなさい。もし、私たちがキリスト に焦点をあて、キリストと親しい交わりを持つなら 、私たちは私たちの定められたところに到着できるでしょう 。あなたはだれと人生を共に歩みますか?あなたの車の助手席にキリ ストの霊であられる、聖霊様をお乗せしましょう。あなたの 「人生の地図」を、あなたの人生の車におられる聖霊様にお見せしま しょう。必ずあなたを正しい道へと導いてくださいます 。牧師のところに来たら、聖霊の知恵をいただいて 、ある程度のアドバイスはできるでしょう(たまに相談に来ると嬉し い)。でも、牧師の役割はそうではありません。牧師の真の役割とは 、「今もあなたと共におられる、聖霊様に聞きなさい 」と勧めることであります。

3.聖霊による啓示

 聖霊は私たちをどのように導かれるのでしょうか?テキストには 「霊によって伝達する」と書いてあります。神さまは霊ですから 、私たちが新生したならば、私たちの霊は神さまと伝達しあうことが できるのです。新生とは、霊的に生まれ変わるということです 。生まれつきの人間は、霊的に死んでいますから、神さまのことがわ かりませんし、神さまと語り合うこともできません。しかし 、イエス様を信じると、私たちの心の奥底にある霊が 、目覚めるのです。すると、「神さまはいらっしゃる 。私は天国も行けるし、私は神のこどもである」という確信が与えら れます。さらに、聖書のことばが「本当だ、すごい 」と分かるようになります。賛美やメッセージもより恵まれます 。なぜなら、あなたの霊が生き返ったからです。そして 、あなたの霊に聖霊が、何かを伝達してくださるのです 。聖霊は神さまとのコミュニケーションの霊です。Ⅰコリント2:9「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのない もの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの 。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは 、みなそうである。」これは、肉眼では見たことのないもの、肉声では聞いたことのないも の、心の中に浮かんだことのないものを聖霊が新たに与えるというこ とです。エディ・レオは3つの感覚があるとテキストで述べておりま す。

①霊的な耳を通して。これは「耳が聞いたことのないもの」です 。一般的に、神様は肉体の耳ではなく、霊的な耳によって伝達してく ださいます。神様は普通、1つか2つのことば、多くても3つのこと ばを私たちの霊に与えるということです。あるときエディ ・レオ師の奥さんが、美容室に行きました。鏡を眺めながら 、自分の髪の毛を整えている女の子を見ていました。奥さんは 「主よ、私を通して彼女を祝福してください」と心の中で祈りました 。突然、神様から「拒絶」という、たった1つの言葉を与えられまし た。彼女を見ると、とてもニコニコして幸せそうでした。 「すみません、ちょっと話をしても良いですか。あなたは人生におい ていくつかの拒絶を味わったことがありませんか」。奥さんが 「拒絶」という言った瞬間に、「12歳」という言葉が出てきました 。「あなたは12歳のとき、あなたのお父さんは亡くなりました 。それから、あなたは非常に孤独を感じていましたね 。多くの男性たちから拒絶されました。あなたは人間関係においてい ろいろな失敗があります。あなたは何度も結婚したいと思いながらう まくいかなかったですね。彼女は泣きながら、「はい 」と言いました。そして、その日、彼女はイエス様を受け入れました 。このように、神様は霊的な耳に1つか、2つの言葉を与えて 、伝達してくださいます。

②霊的な目を通して。「目が見たことのないもの」 。神様は私たちの霊に、絵(ピクチャー)もしくは象徴的な言語を与 えます。私は木曜の集会で、葛葉姉に預言のミニストリーをしたこと があります。キラキラ光っている水面が見えました 。後から聞きましたが、葛葉姉はこのように答えました。 「私は川辺に座って祈ったりすることが多いんです。そこが 、気持ちがとってもやすらぐんです。水面がキラキラ光っている川を 見ることが多いんです」。ある女性の牧師のために 、祈ったことがあります。花壇にすずらんが咲いている絵でした 。その方は、まもなくロシア語を学ぶために北海道に行きますと答え ました。このように、パッと浮かぶことを口に出すと 、次のものが見えたりします。

③霊的な感覚(印象)。「人の心に思い浮かんだことのないもの 」です。神様は印象もしくは、霊的な感覚(フィーリング )を与えます。その人の近くに寄ると、けっこう分かります 。もちろん、表情を見て、元気そうだなーとか、悩んでいるなーとい うのは分かります。でも、もっと奥底にあるものを神さまは示してく れます。野澤兄弟(ザチン)は、けっこう鋭くて、隣に座っただけで 「ああ、怒っているのがわかる」なんて言います。私もよくスーパー で買い物をしますが、すれ違うときに、「ああ、この人にはこういう 傷があるなー」と分かるときがあります。レジを打っている人を見る と、「この人はセルフイメージがとても健康だ」とか分かります 。しかし、みなさんいつも霊的アンテナを伸ばしていると疲れます 。ある人は、霊的にとても敏感で、人ごみの中から 、色んな嫌なものを拾う人がいますので気をつけましょう 。必要でないときは、どうぞアンテナをひっこましてください 。最も大切な動機は、「その人を祝福したい、励ましを与えたい 」ということです。私たちがキリストの心をもって 、他者を祝福したいという動機を持っているなら、聖霊は私たちに隠 されているすばらしいことを示してくださいます。

先週は、香港からコーチングのために、ベン・ウォン先生が来られま した。帰り際にこんな話をしてくれました。人を助けるとき 、私たちアジア人はその人の弱さ、悪いところを直そうと考える 。しかし、その人の長所を伸ばすということがより大事である 。その人の弱さや悪いところでなく、良いところに目を向ける 。ポール・ポット(劣等感の塊のような男性がすばらしいオペラを歌 って優勝)のように、その人のうちにダイヤがある。人を育てる 、発展させるというのは1つの芸術である。コーチとしてどのように して人々を発展させていくか、その芸術をマスターしていく 。英語の本で『人々の内にある最善なものを引き出す 』という本がある。中国人はそういう考え方ができない 。子供をしつけるときも「なぜ、おまえはこれをしないんだ 」と子供の悪いところだけを見る。その本には、「その人の中にある 最善なものを引き出すにはどうしたら良いか」が書いてある 。私はこの本を読んで、人を育てるということについて革命的な変化 がもたらされた。多くの人の場合、問題や欠点はその人に一生ついて 回る。私たちは変わってほしいと願うが、おそらく全部は変わらない だろう。私たちは否定的なところを見て、良いところを伸ばそうとし ない。しかし、良い方を高めてあげれば、悪い方もそんなにひどくは ならない。私たちは人を助けようとする余り、悪いところを叱る 。すると、その人の良いところを消してしまう。アジア人は欠点をな おすことに長けている。そうしないように努めても 、ついついそうなる。だから、バランスをとるためには 、できるだけ良い方を見るようにすれば、ちょうど良い 。人を育てるとき、できるたけ良いところを認め、それを引き伸ばし てあげることが大切である。そんなふうに教えてくださいました。

聖霊様はイエス様のような助け主です。イエス様の傍にいた弟子たち は本当にのびのびしていました。聖霊は私たちと共にいて 、私たちを励まし、弁護し、助言を与えてくださいます 。聖霊様が私たちのベスト・カウンセラーであり、ベスト ・コーチであることを覚えましょう。

| | トラックバック (0)

2008年4月20日 (日)

神様との会話    Ⅰテサロニケ5:15-22

 きょうは、「タッチングヘブン・チェンジングライフ」の第三週目を学びたいと思います。「神様との会話」と題して、3つのポイントで学びたいと思います。祈りとは神様との会話であります。私たちはイエス様を信じた瞬間から、神様との和解が成立しました。神様は天のお父様となり、私たちは子供となったのです。私たちは神様の子供として、何でも、気兼ねなく、お話できるという特権が与えられました。人との電話はbusy、話し中というのがありますが、神様との電話は「話し中」ということがありません。24時間、いつでもopenなのであります。今どきの人たちのほとんどは、携帯電話を持っています。残念ながら、父なる神様に電話する人は稀です。人間と会話はいくらやっても平面的な解決しか与えられません。でも、父なる神様との会話によって、垂直的な、つまり天からの解決が与えられるのです。

1.祈りの継続性

Ⅰテサロニケ5:17に「絶えず祈りなさい」とあります。「絶えず祈れ」とは、どういう意味でしょうか?英語の聖書には、「祈りをやめないで、絶え間なく祈れ」とか「継続的に祈れ」というふうに書いています。絶えず祈るためには、教会の早天祈祷会や水曜祈祷会、徹夜祈祷会もあります。朝のディボ-ションも大切です。私はそれらのことは全部やってきました。でも、日中、仕事場とか家庭では、ほとんど祈りませんでした。なぜなら、「神様は教会堂など、聖い場所にはいらっしゃるけれど、世俗的なところにはいらっしゃらない」と思っていたからです。ある姉妹が、「私は自転車をこぎながら祈っています」と言っていたのを聞いて、びっくりしました。また、ある男性は「私は車を運転しながら祈ります」と言いました。「えー?目をつぶったんじゃ、危ないんじゃないの」と思いました。私たちは「祈りとは、両手を組んで、目をつぶって、祈るものだ」と日曜学校かどこかでおそわっています。もちろん、そういう祈りもあるでしょう。でも、「絶えず祈れ」ということを実行するためには、場所を選んだり、正式な祈りの姿勢を取ることは不可能です。でも心の中で祈るなら、家事をしながら、仕事をしながら、買い物しながら、歩きながら、電車に乗りながら、あるいは人と会話をしながらも祈ることが出来ます。先週、男性は1日に240回、4分毎に誘惑を受けると申し上げました。しかし、それは主を礼拝し、主と交わることのできるすばらしいチャンスでもあります。

イエス様は父なる神様と共に歩みました。父に語りかけ、父を見ることができました。1日に24時間、そうすることができました。みなさんは、「いやいや、イエス様は神様だからね。でも、私のような者がどうしてそのようなことが出来るでしょう」と言うかもしれません。Ⅰヨハネ2:6に「神のうちにとどまっていると言う者は、自分でもキリストが歩まれたように歩まなければなりません」と書いてあります。イエス様は父なる神様と1つでありました。ヨハネ14:10でイエス様は「わたしが父におり、父がわたしにおられることを、あなたは信じないのですか。わたしがあなたがたに言うことばは、わたしが自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざをしておられるのです」とおっしゃいました。イエス様は父なる神様ととても親密な関係を持っていました。イエス様は父なる神様といつも交わり、父なる神様がおっしゃることを語りました。また、イエス様は、父なる神様がなさるわざを行いました。イエス様はすばらしい愛のお方でした。でも、イエス様はイエス様ご自身の愛を用いたのではありません。イエス様は父なる神様から、無条件の愛をいただいて人々を愛することができたのです。また、イエス様がなさった数々の奇跡もそうであります。イエス様は神様ですから、ご自分の力でやろうと思ったらできたのですが、いつも父なる神様の力でなさいました。イエス・キリストは私たちのために模範となられたのです。それだったら、イエス様がいつも父なる神様と交わっていたように、私たちも父なる神様と親しく交わるべきであります。そうするならば、私たちもイエス様と同じようなことができるんじゃないでしょうか?でも、私たちはイエス様の品性を真似ることはできません。イエス様のように愛の人になろうと努力します。ある人がやってきて「あなたが愛の人になるように、手伝ってあげましょう」と、あなたの片方のほほを「バシッ」と叩きました。あなたは1回はなんとが我慢できるかもしれません。でも、それが2度、3度になると、「いい加減にしろ」と怒って、相手のほほを3倍にして殴り返すんじゃないでしょうか?私たちはイエス様の品性をまねることはできません。でも、イエス様のライフスタイルは真似ることができます。イエス様はいつも父なる神様と親しく交わっていました。いつも、父から聞いて、行動していました。

今から400年前、この原則を適用したクリスチャンがいます。彼の名前はブラザー・ローレンスと言います。彼は、神学者や牧師、偉大な説教者でもありません。彼は王様の邸宅の厨房で働く、一介の料理長でした。しかし、彼は父なる神様と24時間の関係を持つということを実践しました。神様の臨在を実践することを「コランデォー」と言います。ブラザー・ローレンスは料理するときも、神様と会話をしました。「お父さん、感謝します」と、毎日、会話をしました。彼の人生に何が起きたでしょうか。彼は福音を宣べ伝える必要がありませんでした。彼が食事を持ってきて仕えるとき、人々が彼の顔を見て、「ああー」と涙を流して悔い改めました。なぜなら、彼の顔が神の栄光に満ちていたからです。そして、彼は「神の臨在を実践する」という本を書きました。リバイバリストで有名な、チャールズ・フィニーも、彼の本から影響を受けました。チャールズ・フィニーが、どれほど力があるかご存知でしょうか。彼はある工場の操業風景を見るために、工場の中に入っていきました。紡績部門を通っていくと、大勢の若い女工がいるのが見えました。彼女たちは、チャールズ・フィニーを見つめ、何やらそわそわしていました。フィニーが彼女たちに近づくと、ますます落ち着き失ったように見えました。そのうちの一人はとても取り乱してしまったので、糸が切れてしまいました。彼女はそれを直そうとしましたが、手がブルブル震えて直すことができません。フィニーがじっと彼女たちのことを見つめていると、一人またひとりと仕事の手を止め、ひざまずきました。数分のうちに機械はすべて止まり、涙と嘆きの声が工場内に満ちました。後で分かったことですが、その大きな工場で働いていたほとんどの人がキリストに希望を見出したということです。このように、チャールズ・フィニーは非常に力強い人でした。なぜでしょう。彼はこの神の臨在と言うことを実践したからです。だから、そんな場所でも主の御顔を仰ぎ、神様との会話を実践しましょう。力強いことが起こると思います。

2.祈りの鍵

 祈るためには、平和な心を持たなければなりません。私は中川の橋を毎日のように渡ります。数日前は雨風が強かったので、川の水はとても波立っていました。でも、天気が良くて風のない日は、鏡のように真平らです。そういう日は、水面に小魚が群れをなして泳いでいるのが見えます。湖とか海へ行くと、天候によって、水面の変化がもっと激しいです。私たちの心も、この世で暮らしていますと、しぶきが立つくらい荒れるときがあります。そういう時は、祈るなんていうことはとてもできません。先週の金曜日は大雨が降っていました。家内が北千住に用事に出かけました。後から「北千住からだけど、亀有駅に迎えに来て」という電話が来ました。私は車で駅まで迎えに行きました。しかし、いくら待っても来ないんです。あそこのロータリーは車を駐車できないので、少しは停車して、車を動かし、4周くらい回りました。ようやく、家内が顔を見せ、車に乗りました。私は「電車に乗るときに電話したのか、何でこんなに時間がかかるんだ」とカンカンに怒りました。「ああ、今度は亀有駅から着いてから迎えに行こう」と思いました。最近、怒ったことはなかったんですが、久しぶりに怒りました。不当な扱いを受けたので、カチンと来たんですね。私は不当な扱いに弱いんですね。このように、怒りによって、心が波立つときもあります。また、心配事や思い煩いで心が波立つときがあるでしょう。そういうときこそ、祈らなければならないのですが、祈れないのが人間です。

 テキストのP.18にありますが、「私たちが平和な心をもって祈ることができるために、2つの鍵があります」と書いてあります。第一は、私たちのすべての心配を主に手渡すことです。どのようにしてでしょうか?ピリピ4:6,7「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」ここには、「感謝とともに祈りと願いをささげよ」と書いてあります。感謝ってできないですよね。特にうまくいっていない時には…。テキストには「私たちが感謝をささげるとき、私たちは神様の臨在を感じることができる。感謝は私たちの心を変える」と書いてありました。うまくいっていない状況や環境を見て、不平不満を言うのは簡単です。私などは、問題が起こったときは、自然に不平不満を言うのがに慣れっこになっています。「何でだよー」と叫ばずにはおられません。でも、聖書は「すべてのことを感謝しなさい」「感謝をもって祈りと願いをささげよ」と命じています。なぜでしょう?何の根拠があってでしょうか?それは、神様がそういう状況の中にもおられるからです。そして、全能なる神様が「すべてのことを働かせて、益にしよう」と待ち構えておられるのです。それなのに、私たちが不平不満を言ったり、つぶやくならば、神様は手を引くしかなくなります。そうすると悪いことは悪いまま、問題は相変わらず問題として残るでしょう。でも、私たちが信仰を働かせて、「今、こういう状況でも神様は働いておられます。だから、感謝します。ハレルヤ!」と、告白するならどうでしょうか?心が平安になり、祈りがさらに出てきます。「神様、こういう状況で私は悩んでいます。これがこうして、ああなったのです。でも、神様はどんなことでもおできになります。あなたにゆだねます。」こういうふうにして、神様との会話が進みます。どういう訳か、後から思うと、試練の中にいるときが、真近に神様を体験できるのです。こちらが真剣に神様に求めると、やはり、神様も真剣に答えてくださるということです。感謝には力があることを覚えましょう。どんな力でしょうか?主の臨在をもたらす力です。

第二番目の平和な心を持つ鍵は、積極的なことを考え続けることです。ピリピ4:8「最後に、兄弟たち。すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと、そのほか徳と言われること、称賛に値することがあるならば、そのようなことに心を留めなさい」とあります。使徒パウロは、合計8つの良いことに心を留めよと勧めています。すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいことです。その次には、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判の良いことです。これで6つです。そして、他に心を留めることとは、徳といわれること、称賛に値することです。合計8個になりました。「心に留める」とは、「頭の中でそういうことを考えよ」ということです。これらの8つは、聖書にありますが、聖書だけではありません。この世の中にも、あります。神様はこの世界を創造されたときに、「良かった、良かった、非常に良かった」と言われました。しかし、アダムとエバが堕落してから、この世界も罪によって汚染されました。しかし、完全ではありませんが、この世界の中に、8つの良きものが宝石のように散りばめられているということです。問題は、私たちの目です。グレーのサングラスで見るなら、何でもグレーに見えてしまいます。つまり、物事を批判的に否定的に見るならば、何を見ても良くありません。もし、私たちが宝石を捜すように、この世界を見るならば、神様の「創造のかけら」を発見することができるのではないでしょうか?未信者の中にも、映画や一般の書物にも、8つの良きものがあります。どうぞ、そういう良きものに心を留めましょう。人が刺されたとか、だれかが不正を働いたというニュースはさらっと聞き流し、もっと良きものに心を留めましょう。そうすれば、心の平安が保たれ、いつでも主と会話をすることができます。

3.祈りの目的

祈りの目的は、私たちの生活を主にご支配していだたくために、神の王国を招くことであります。マタイ6:10「御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように」とあります。「御国」とはどういう意味でしょうか?ギリシャ語では、バシレイアーと言いますが、「王国」とか「支配」という意味です。もし、私たちの生活に、神の王国、神の支配がやってきたならどうなるでしょうか?エデンの園のように潤い、すべてのものが輝き、命にあふれるでしょう。では、どのようにして神の王国が私たちの人生、私たちがいるところにもたらされるのでしょうか?その答えは、イエス様を招くのであります。イエス様は神の王国の王です。イエス様が来られるならば、神の王国も一緒に来るのであります。私たちはイエス・キリストにあって、どのようなことを経験できるのでしょうか?ピリピ2:1に「こういうわけですから、もしキリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら」と書いてあります。私はこれまで、この御言葉をほとんど気にとめたことがありません。でも、このことがキリストにあって経験する御国、神の王国であるとしたらどうでしょうか?ここには5つの事柄が示されています。励まし、愛の慰め、御霊の交わり、愛情、あわれみです。わあー、私の人生、キリストに出会う前は、こういうものが全くありませんでした。いや、今もこの世にはありません。私も郵便局で少しだけアルバイトをしていますが、「励まし、愛の慰め、御霊の交わり、愛情、あわれみ」ほとんどありません。本当に殺風景です。大体、この世はそういうものです。そういう中で仕事をしていらっしゃる方は本当にご苦労さまです。

でも、みなさん、もし私たちがそういうところに神の国をもたらすことができたら何と幸いでしょうか?考えてみますと、2000年前、イエス・キリストと神の王国が一緒に来ました。イエス様が行くところ、どこにでも人々は、神の王国を体験することができたのです。福音書を見ますと、まさしく人々は「励まし、愛の慰め、御霊の交わり、愛情、あわれみ」を受けました。イエス様は人々を支配というかコントロールしていません。もちろん、時々、命令はしていますが、コントロールではありません。イエス様の「励まし、愛の慰め、御霊の交わり、愛情、あわれみ」を受けた人々はどうなったでしょうか?弟子として、イエス様に従ったのであります。そして、自分もイエス様のように神の王国をもたらす人になりたいと志願したのではないでしょうか?でも、みなさん、それを「教会制度、教会組織」という箱に入れてしまいました。すると、本来あるべき、何がなくなったのでしょうか?それは、ピリピ2:2の内容です。ピリピ2:2「私の喜びが満たされるように、あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。」まことに、残念ですが、人々が神の王国を「教会制度、教会組織」に置き換えてからどうなったでしょう。一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせる、志を1つにするということが不可能になったのです。教団や教派でライバル心を持ちました。「うちはこういうことを強調し、こういうことに優れている」と分派心を持ちました。相手を自分よりも低いものと見るようになったのです。神の王国は、いわゆる教会に来るのではありません。人々の心の中に来るものなのです。なぜなら人々が教会そのものだからです。

 ですから、私たちは神の王国の民として、教会をとらえるべきです。どうぞ、制度とか組織にしないでください。私たちの内にキリストの支配を歓迎するときに、結果的に、パウロが持っていたような喜びに満たされ、一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つになるのです。ですから、神の国は私たちの心に来なければなりません。イエス・キリストを私たちの心に王様として招き入れるのです。そうするならば、私たちの心に神の王国がやってきます。では、心とは何でしょうか?テキストには、「私たちの意思と思いと感情である」と書いています。そうです。私たちの意思と思いと感情をイエス様に明け渡しましょう。そうすれば、イエス様は私たちを豊かな神の王国へと導いてくださるのです。私たちは可能な限り頻繁に「神様、私の意志と、私の思いと、私の感情を導いてください」と言って、これを習慣化させる必要があります。私は25歳でイエス様を信じはしましたが、それまでの古い習慣がまだ、身について残っています。自分の意思、自分の思い、自分の感情を優先させるときがあります。これはやっぱり、意識的に、神様に願う必要があります。箴言3:3-6は、このことを具体的に示しているすばらしいみことばです。箴言3:3-6「恵みとまことを捨ててはならない。それをあなたの首に結び、あなたの心の板に書きしるせ。神と人との前に好意と聡明を得よ。心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」アーメン。ヨハネ:14に、イエス様は「恵みとまことに満ちておられた」とありますから、まさしく、イエス様を捨ててはなりません。イエス様を首に結び、心の板に書き記すほど、親しく交わるのです。そして、心を尽くして主イエス様に拠り頼むのです。自分の悟りにたらないで、行く所どこにおいても、主イエス様を認めるのです。そうするなら、神の王国、つまり「キリストにある励まし、愛の慰め、御霊の交わり、愛情とあわれみ」をもっと体験することができるのです。

| | トラックバック (0)

2008年4月13日 (日)

礼拝と想像の刷新   ローマ1:22-28

1.想像の力

想像には大きな力があります。1つ実験をしたいと思います。みなさん、目をつぶってください。ここに新鮮なレモンが1つあります。私は、レモンをまな板にのせました。そして、包丁でまっぷたつに切りました。「ぷーん」となんだか香ってきました。さあ、口を開けてください。私が、半分に切ったレモンをあなたの口まで持っていきます。そして、レモンをぎゅっと絞りました。うぁあー、すっぱい果汁があなたの口に一杯広がりました。どうぞ目を開けてください。単に想像しただけですが、体がすっぱいと反応したでしょう。なぜ、反応したのでしょうか?それは、あなたの想像が、あなたの体の一部だからです。イエス様はマタイ6:22、23でこのようにおっしゃいました。「からだのあかりは目です。それで、もしあなたの目が健全なら、あなたの全身が明るいが、もし、目が悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう。」この目とは何でしょう。エディ・レオ師は「目は想像力のことである」と言いました。もしあなたの目、つまり想像力が健全なら、あなたの全身が明るいでしょう。しかし、あなたの目、つまり想像力が悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう。あなたは神を礼拝したいでしょうか。それならば、想像力を守らなければなりません。なぜなら、あなたは想像力を働かせて偶像を作り出すことができるからです。あなたの想像力が、あなたの人生を決定していくのです。この想像力は、非常に力強いものです。あなたの想像力が間違っているなら、あなたの体全体が暗くなってしまいます。しかし、あなたの想像力が正しければ、良いものであるなら、あなたの生活は光り輝くものとなるでしょう。

ローマ1章後半には、人間のさまざまな罪が記述されています。情欲と不品行、あらゆる不義と悪とむさぼり、ねたみと殺意と争い…。それらの罪の発端となったものは何でしょう?それらは自分たちが礼拝している想像から始まったのです。ローマ1:22-23「というのは、彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたち(イメージ)に似た物と代えてしまいました」。本来、人間は想像力を働かせるなら、神を見ることができます。しかし、神を礼拝したくないのです。そして、神のイメージを人間か、あるいは動物のイメージに代えてしまいます。彼ら自身が考えたイメージを礼拝する、これが偶像礼拝です。もし、彼らのイメージが汚れているなら、彼らの体も汚れたもととなります。なぜなら、私たちが想像することが、体のあかりだからです。偶像礼拝の成れの果てが、ローマ1:24です。「それゆえ、神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され、そのために彼らは、互いにそのからだをはずかしめるようになりました。」神様が「それなら、どうぞお好きなように」と、汚れに引き渡されるのです。神様が懲らしめをあたえるうちは、まだ希望があります。でも、神様から「好きなようにしなさい」と言われるほど、悲惨なことはありません。27節に行くと、同性愛のことが書かれています。神様は人間が同性愛を行なうことを許されます。この性的な罪はどこから来ているのでしょうか。私たちの想像、イメージから来ています。これら罪に打ち勝ちたいならば、まず、間違ったイメージに打ち勝つ必要があります。

では、使徒パウロはこの教えをどこから得たのでしょうか?おそらく、パウロは、エゼキエル書を参照にしながら書いたと思われます。預言者エゼキエルは、神様からエルサレムの神殿を見せられました。彼は霊によって、壁の穴を通り抜け、中に入ってみました。エゼキエル8:10「私がはいって行って見ると、なんと、はうものや忌むべき獣のあらゆる像や、イスラエルの家のすべての偶像が、回りの壁一面に彫られていた」。外側から見ると、神殿はすばらしいものでした。しかし、中に入ってみると、彼はびっくりしました。神殿の中の壁に、様々な偶像が満ちていました。イスラエルの長老たちが、忌みきらうべきことをしていました。彼らは、香をたいて偶像を礼拝していたのです。新約聖書で、使徒パウロは、「私たちの体は神の宮、神殿である」と言いました。テキストにはこのように書かれています。「私たちはみな、神の宮の中に、『想像』と呼ばれる1つの部屋があります。想像の世界は、力強い個人的な世界です。多くの男性は、個人的な想像の部屋を女性の裸やポルノや性的な幻想に満たして、それらを礼拝し続けています。それゆえに、多くの男性は性的な束縛から自由になることができません。多くの男性は自分たちの欲望にしたがって、女性に対するイメージを作っています。女性を映画スターのような顔にして、肌の色や体の線なども作り上げます。そのため、多くの男性は、性的な幻想の束縛やマスターベーションから解放されないまま、長い年月、そのような想像の奴隷となっています。」

わぁー。日曜日の朝、講壇からすごいことが語られています。外側から男性を見ると、「そんなことはないですよ」という顔をしています。しかし、穴を開けて、想像というプライベートな部屋を覗いたらでどうでしょうか?わぁー、壁一面に女性という偶像に満ちています。では、解決法はあるのでしょうか?人間は礼拝する存在です。もし、私たちが心の中に何も入れ替えないで、つまり、主を礼拝することなしに、汚れた想像と戦うならば勝利することは不可能です。汚れた想像が浮かんできたら、ただちに、主を礼拝することにそれを置き換えるのです。

2.想像の転換

 2年前の6月に、インドネシアからエディ・レオが当教会に来られました。そして、このようなメッセージをされました。すべての人間は、自分だけの部屋を持っています。このプライベートな部屋とは私たちの想像です。だれも、他の人は見ることが出来ません。あなたも、私のプライベートな部屋を見ることができません。私もあなたのプライベートな部屋を見ることができません。だれもが、プライベートな部屋な部屋を持っています。そこで神様を礼拝しています。しかし、それと同時に、たくさんの偶像もそこに入っています。そのプライベートな部屋の中に、多くの石像があります。彼らの想像のスクリーンに様々なものが映されています。そして、その絵を楽しんでいます。「おおー」「ああー」「ああー」。様々な絵があります。どんな絵でしょうか。「おー、女性だ」。裸の女性。「ああー」。インターネットで調べていく。「ああー」。そして、自分のイメージの中に入れる。すごく良いコンピューターを持っている。何ギガバイトもある。ペンティアムⅥ。カラフル。サラウンドサウンド。「おおー」「ああー」「おおー」。そして、それを保存する。すべての画像を保存する。それが大好き。だれもがそのようなプライベートな部屋を持っている。そして、それを楽しんでいる。そして、こう言います。「神様はそれを見ていない。神様はここはおられない。どこか外にいる。神様はそれを見ていない。」それが、プライベートな部屋です。そのプライベートな部屋で、私たち男性は、色んなイメージを作ります。私たちは自分の好きな女性たちをそこに作ります。「ああ、私は黒人の女性が好きだ。でも、髪の毛はちょっとアジア系の女性が良い。」「ああ、私はこのモデルが好きだ」。そして、毎日これを拝む。「おお、あなたは何と美しい方だろう。あなたと会えることを嬉しい」。そのように、私たちは様々な想像を作っています。そして、それを拝んでしまう。これが姦淫です。これによって、性的な罪が起こされるのです。不品行は偶像礼拝の1つです。この問題を解決するにはどうしたら良いでしょうか。

これもエディ先生がおっしゃっていたことです。先生はある時、説教をしていました。聞いている人たちにこう尋ねました。「女性たちは、どのくらいの頻度で、性について考えるでしょうか」。ある女性が立ち上がりました。彼女は、「1ヶ月に1回ぐらいです」と答えました。男たちはみんな笑いました。男性にとっては、1ヶ月に1回ではないからです。それは1週間に1回でもない。1日に1回でもない。1時間に1回でもない。男たちが、セックスのことを考えるのはどのくらいの頻度でしょうか。エディ先生は様々な心理学者と話しましたが、これは調査に基づいた結果です。もし、男性が仕事をしないでくつろいでいる時、セックスについてどれだけ考えるでしょうか。1日に240回です。男性は一日に約240回性的な誘惑を受けます。睡眠の8時間を引くと、4分に1回の割合で誘惑を受けることになります。これは必ずしも罪ということではなく、誘惑です。男性はたくさん、こういう誘惑を受けます。女性方は軽蔑するかもしれませんが、男性はこういう存在なんです。朝、目が覚めて、カレンダーを見る。「ああ、奇麗な女性がいる」。トゥウーンー、まず、第一のイメージ。そして、ジョギングをする。ああ、奇麗な娘が通りかかった。トゥウーンー、第二のイメージが生み出される。また、全く女性と関係のないものを見る時も感じる。木を見る。「ああ、何とこの木はセクシーなんだろう」。これが男なのです。何でも見たものから、セックスについて考える。どのようにしてこれを克服できるだろうか。エディ先生は本当にイライラしました。「イエスの御名によって出て行け!」ニューェー(引き出す)。だが、4分たつとピューと入って来る。「イエスの御名によって出て行け!」ニューェー(引き出す)。4分たつとピューと入って来る。だから、イライラしてしまう。そして、敵は私を罪悪感で満ち溢れさせる。「あなたは良い牧師ではない。牧師はそういうことを考えたりはしない。」そのようにして、私を告発する。

しかし、解決はあります。イエス様はマタイによる福音書でこのように言われました。マタイ12:43-45 「汚れた霊が人から出て行って、水のない地をさまよいながら休み場を捜しますが、見つかりません。そこで、『出て来た自分の家に帰ろう。』と言って、帰って見ると、家はあいていて、掃除してきちんとかたづいていました。そこで、出かけて行って、自分よりも悪いほかの霊を七つ連れて来て、みなはいり込んでそこに住みつくのです。そうなると、その人の後の状態は、初めよりもさらに悪くなります。」つまり、こういうことです。「イエスの御名によって出て行け」とやって、汚れた思いが出て行ってもその家が空っぽでした。その家がだれも支配していなかったのです。人間は神様を礼拝する存在として作られました。もし、私たちが本当の神を礼拝しないならば、何か他のものを礼拝してしまいます。だから、24時間、神を礼拝していないならば、そこに真空状態が生まれてしまいます。つまり、家が空っぽの状態と同じです。私たちは神の家です。それを空っぽにしないように。「イエスの御名によって、出て行け!」ニューェー(引き出す)。しかし、空洞が残ってしまう。それではまた入られてしまいます。引き出したと同時に、神様を礼拝するのです。「ハレルヤ!イエス様、あなたを礼拝します」。しかし、4分後に、また誘惑がやってくる。「ハレルヤ!イエス様、あなたを礼拝します」。また4分たつと誘惑がやってくる。「ハレルヤ!イエス様、あなたを礼拝します」。どういうことが起こるでしょうか?するとあなたは、1日に240回、4分毎に、神様を礼拝できる。男性は、女性よりももっと神様を礼拝することができるのです。女性は想像において男性ほど誘惑を受けないので、主をそんなに数多く礼拝することができないのです。ハレルヤ!

3.想像の刷新

最初に「もしあなたの目、つまり想像力が健全なら、あなたの全身が明るい。あなたの想像力が、あなたの人生を決定していく」と申し上げました。まず、申し上げたいことは、私たちは旧約時代の人たちとは違うということです。イスラエルの民は神様と契約を結び、そのとき律法を与えられました。しかし、神様に従うことができませんでした。なぜでしょう。心と思いが新しくなっていない状態では、外からの圧力によって従うことはできません。では、新約時代の恵みとは何でしょう。ヘブル8:10に「私は私の律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書き付ける」と書いてあります。私たちはイエス様を信じると、聖霊によって新しく生まれます。すると、聖霊が内側から神の律法、神のみこころを語ってくださるのです。私たちの霊の部分に、聖霊が臨在して、そこから私たちの魂に何やら発信してくださる。結構、その声は静か過ぎて、最初は分かりません。でも、クリスチャン生活を続けていくうちに、「ああ、これは神様が私に語っておられるんだなー。これは神様の声だなー」ということが分かります。ヘブル8:10に「思いの中に入れる」とありますが、この「思い」こそが、テレビのブラウン管であり、またスピーカーなんです。「思い」というところに、神様の御声とか、神様のビジョンが、「ピッ、ピッ、ピッー」と浮かんでくる。しかし、「思い」というところに、神様の御声だけではなく、自分の声、悪魔の声、そして人の声までもが、聞こえてくるのです。なぜなら、悪魔も人間も、そして神様も霊だからです。だから、私たちは周波数を聖霊のチャンネルに、合わせ、雑音や雑念を排除していく必要があります。あなたの霊的チューナーは大丈夫ですか?あなたはだれの声に周波数を合わせていますか?人の声ですか?悪魔の声ですか?それとも自分の声ですか? どうぞ、神様の御声にチャンネルを合わせましょう。

14日目のテキストには「あなたは心の内部でだれと語り合いますか」と書いてあります。「ある人たちは、いつも自分自身と会話をしています。これを自分との対話(セルフトーク)と言います。自分との対話はしばしば、過去に源を発しています。それは、過去の罪や失敗、苦々しさ、そして怒りに満ちたものです。もし、私たちが自分との対話を続けるなら、信仰がなくなるでしょう。ある人たちは、最後に自分を誤った道に導くサタンと会話しています。旧約聖書のアサフは、誇り高ぶる者をねたみ、悪者が栄えるのを見ました。アサフは「彼らの死には、苦痛がなく、彼らのからだは、あぶらぎっている。悪者はいつまでも安らかで、富を増しているではないか」と自分自身に言いました。そのためアサフは失望し、もう少しで神様から離れるところでした。しかし、感謝なことに、アサフは神の臨在に入って真実がわかりました。神様ご自身が悪者を滅びに突き落とされるということを悟りました。アサフはこのように悔い改めています。「私は、愚かで、わきまえもなく、あなたの前で獣のようでした。しかし私は絶えずあなたとともにいました。あなたは私の右の手をしっかりつかまえられました。あなたは、私をさとして導き、後には栄光のうちに受け入れてくださいましょう。」(詩篇73:22-24)。神様は真実な方ですから、必ず答えをお与えになります。だから、答えを人ではなく、神様に求めてください。イエス様はヨハネ10:3「羊はその声を聞き分けます」とおっしゃいました。アーメン。

想像の刷新のために何をすべきでしょうか?まず、第一にできることは神のみことばを思い巡らすことです。テレビや新聞を見ますと、この世の不正、不条理、悪い出来事にあふれています。やがて、アサフのように「この世には正義がなされていない。神はいないんじゃないか」と疑うようになるでしょう。あなたは何を自分の思いに入れるべきでしょうか?私たちが何よりも優先すべきことは、神のみことばに聞くということです。私たちが聖書を瞑想しながら読むとき、私たちの思いに、つまり想像に神の御声が植えられるのです。箴言4:23「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく」。アーメン。あなたの心に何を入れますか?コンピューターもそうですが、悪いデーターを入れたら、悪いものが出てきます。汚れたものを入れたら、汚れたものが出てきます。神様のみことばを入れましょう。そうすれば、聖霊様が信仰と希望と愛を内側からあふれさせてくださいます。第二に、想像の刷新のためにできることは、あらゆる問題を通して主を見ることです。民数記13章に書いてありますが、12人の偵察隊がカナンの地から帰ってきて報告しました。「そこは、まことに乳と蜜が流れている。だが、その町々は城壁を持ち、非常に大きく、そのうえ、そこで巨人のようなアナクの子孫を見た」と言いました。12人は同じものを見てきました。しかし、10人はさらにこう付け加えました。「地は、その住民を食い尽くす地だ。私たちがそこで見た民はみな、背の高い者たちだ。そこで、私たちはネフィリム人、ネフィリム人のアナク人を見た。私たちには自分がいなごのように見えたし、彼らにもそう見えたことだろう。」10人は、問題ばかりを見て、不信仰に陥りました。そして、「私たちはあの民のところに攻め上れない。あの民は私たちより強いから」と結論を下しました。10人の偵察隊が失敗したのはなぜでしょう。城壁や巨人、目に見えるものを見続けたからです。しかし、あとの2人、ヨシュアとカレブは違いました。この二人は目を上げて、霊的な領域を見たのです。民数記14:9 「ただ、主にそむいてはならない。その地の人々を恐れてはならない。彼らは私たちのえじきとなるからだ。彼らの守りは、彼らから取り去られている。しかし主が私たちとともにおられるのだ。彼らを恐れてはならない。」アーメン。

使徒パウロは、患難を神の栄光をもたらす機会となるためにどうしたでしょうか?Ⅱコリント4:18「私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」私たちはしばしば、ため息をつきながら、「現実はきびしいからな」とつぶやきます。そうではありません。現実よりもまさるものは、目に見えないものです。なぜなら、この世界は神のことばという目に見えないものによって造られたからです。どうぞ、問題や患難に出会ったら、目を上げて、霊的領域を見させていただきましょう。ある朝、エリシャのしもべは、町を囲んでいる敵を見て恐れました。エリシャは「どうぞ、彼の目が開かれるように」と祈りました。目が開かれたしもべは、自分たちと共にいる天使たちが、敵よりもはるかに多いことが分かったのです。神のみことばを心の中にたくわえましょう。そして、どんな問題が起きても、目を上げて、霊的な領域を見る機会にいたしましょう。

| | トラックバック (0)

2008年4月 6日 (日)

神様との親密な交わり    詩25:10-14 

 きょうから7週間、「タッチングヘブン・チェンジングライフ」というテキストから、特別なメッセージをお届けしたいと思います。ヘブンは神様とも訳せますので、「神様に触れることによって、変えられる人生」という意味になります。このテキストは7週間、つまり49日間で終えるようになっています。作者のエディレオ師から「依存症から解放されるためには、別の新しいことを49日間、やり続けると解放される」と聞きました。つまり、新しいライフスタイルを身に着けるためには49日間続ける必要があるということです。「49日」とは、仏教でも特別な数字であり、何か関係があるのかと思います。あるいはぜんぜん、ないかもしれません。きょうは、「神様との親密な交わり」と題して、3つのポイントで学びたいと思います。

1.神を恐れる

神様との親密な交わりを学ぼうとしているのに、まず「神を恐れよ」とは、一体どういうことでしょうか?旧約聖書を読みますと、神様は全宇宙と私たちを造られたお方であることが、まずわかります。つまり、神様は創造者であり、私たちは被造物です。神様と私たちとは、まったく違うのです。神様は聖なるお方であり、私たちよりもはるかに高いところに住んでおられます。私たち人間には罪があり、本来、神様には近づけない存在です。新興宗教の方々は、神様がまるで友達であるかのように錯覚しています。「親神様」とか、「エホバ様」などと、親しくは言えないのです。では、どのようにして神様との交わりが確立されるのでしょうか?それは、救い主イエス・キリストのあがないのゆえであります。イエス様が私たちの罪を十字架であがなって下さったので、私たちはイエス様を通して、神様に近づくことができるのです。イエス様は、ヨハネ14:6「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません」と言われました。そうです、神様への道は、イエス・キリストだけなのです。この世には、いろんな教祖やいろんな儀式や、いろんな教えがあるかもしれませんが、どれもこれも真の神様に到達することができません。イエス様だけが唯一の道なのです。この一点において、人間が作った宗教か、それとも神様が定めて下さったものなのかが分かります。クリスチャンは、キリストに属するという意味ですから、私たちはキリスト様のゆえに、神様に近づくことができるのです。

しかし、その前に、私たちは神様を恐れなければなりません。箴言1:7「主を恐れることは知識の初めである」と書いてあります。また、伝道者の書12:13「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである」と書いてあります。本来、私たちは何を始めに学ばなければならないのでしょうか?それは「神を恐れる」ということです。私たちが、第一に必要なのは、算数とか国語の知識ではありません。「神は創造者であり、私たちは被造物である。だから、私たちは神を恐れなければならない」ということです。ユダヤ人は家庭で親がそのことを教えます。もし、日本の学校でこのことを教えるならば、細かい校則は不要であります。女子学院の最初の校長、矢島楫子先生は、すべての校則を撤廃しました。明治時代の女学校では、外出は月に1度、外出は舎監の許可を得ること。門限は7時を厳守、髪飾りはつけぬこと、着物は地味な紺か縞物、その他 履物、ショール、小遣いの額まで定められていました。男女の交際はもちろん厳禁です。矢島楫子先生はそうした校則らしい校則を、すべて取り払いました。そして、生徒たちにこう言いました。「あなたがたは聖書を持っています。だから自分で自分を治めなさい」と。この校則撤廃はみごと功を奏し、生徒たちの自立の精神を大いに伸ばしたということです。当教会にも、特にきまりはありません。普通の教会では「信徒必携」みたいな手帳を渡していますが、うちにはありません。世の中にたくさんの法律やきまりがあるのに、教会に来まで、きまりがあったらどうなるでしょうか。「神を恐れよ」という律法1つで、この世も教会もおさまりがつくのではないでしょうか?世の人たちは、神を恐れていないので、人が見ていないところで悪いことします。だから、法律をたくさん作っても、犯罪は減らないのであります。

では、主を恐れるとどのような祝福を得るのでしょうか?詩篇12:12-14「主を恐れる人は、だれか。主はその人に選ぶべき道を教えられる。その人のたましいは、しあわせの中に住み、その子孫は地を受け継ごう。主はご自身を恐れる者と親しくされ、ご自身の契約を彼らにお知らせになる。」とあります。主を恐れる人に主ご自身が、選ぶべき道を教えてくださいます。その結果どうなるでしょうか?第一に、幸せの中に住むことができます。第二はその子孫は地を受け継ぎます。第三は主がその人と親しくされ、ご自身の契約を知らせてくださいます。人間ならだれしも幸福になりたいものです。でも、幸福を人生の目的にしてはいけません。主を恐れて暮らすと、その結果、幸せになるのです。では、主を恐れるとは具体的にどういう意味でしょうか?テキストに書いてあります。「主を恐れるとは、たとえだれが見ていなくても、罪を犯しません。主を恐れる人は、神様はどこにもおられ、私たちの思いと態度と行いを知り、それを瞬時にさばくことを悟っています」と書いてあります。残念ながら、日本人にはこの考えがありません。日本人は神ではなく、人の目を気にして生きています。箴言29:25「人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる」とあります。人の顔色をうかがって生きる人は、とても不自由な人生です。私もかつては、人の目を恐れて生きていました。でも、人の目というものはいい加減なものです。いい加減な人の目に、自分を合わせて生きていくなら混乱してしまいます。子供は親からあまりにも「ああじゃない、こうじゃない」とうるさく干渉されると、子供は子供らしくなくなります。親の顔色を伺って育った子供は、思春期のとき自分を確立できなくなり、精神的な病気になるのではないでしょうか。「神様が見ているんだよ。そして、神様が報いてくださるんだよ。人ではなく、神様を恐れて生きるんだよ」。子供にこのように教えるならば、心に平和と統一性が与えられるでしょう。アーメン。

2.神と交わる

 神様は私たちと親密な関係を持つことを望んでおられます。キリストは十字架で私たちのすべての罪をあがなってくださいました。ですから、私たちは大胆に神様の御座に近づくことができるのです。ヘブル4:16「ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか」とあります。クリスチャンになると、神様が天のお父様になり、私たちは神の子供になります。子供はお父さんに気兼ねなく、何でも話すことができます。ところが、「天のお父様」と言うと、「もう一人いたなー」と地上の父親を思い出します。地上の父親と親しい関係がなかった人は、癒しが必要です。この私も、まだ癒しの途上です。先週、子供を連れて日光江戸村に行ってきました。1つものすごく感動したことがありました。手裏剣の的当てコーナーがあって、小さな女の子が投げていました。1回500円で、5枚手裏剣を投げることができます。的にいくつ当たったかによって景品がもらえるようになっています。忍者の格好をしたお兄さんが指導してくれますが、女の子が投げても、手裏剣が的に刺さらず、ポロっと落ちます。本当は5枚でおしまいなのですが、はい、「あと2枚あるよ」となかなか減らない。7枚くらい投げてやっと1つ刺さりました。女の子が最後の1枚を投げました。すると、そのとき、お兄さんも同時に手裏剣を投げました。一度に2つ刺さり、合計3つになりました。女の子はそれで景品をもらえるようになりました。私はそばで見ていて、嗚咽するくらい感動しました。家内には涙をかくしていましたが、「神様は律法主義の神様ではなく、あわれみ深い天のお父様なんだ」ということを思い浮かべることができました。

では、何が親しい神様との、交わりを妨げるでしょうか?イザヤ59:1,2「見よ。主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ」とあります。「咎」はヘブル語では「ペシャ」と言い、「決められた制限、限界線を越えて、逸脱する行為」という意味です。神様は私たちに制限とか限界線を与えておられます。しかし、私たちはそれを飛び越えてしまうときがあります。たとえば、私には妻が一人おり、大変親しくさせていただいております。しかし、私が他の女性に妻と同じことをするならば、それは咎であり、決められた制限を越える罪になります。また、「罪」はヘブル語では「ハタート」と言い、「的からはずれること、または、的に達しない」という意味です。本来、私たちは隣人を愛すべきなのに、愛が足りなかったり、愛でないものを渡したりします。親切さを忘れ、怒りや意地悪で返したりすることが、たまにあるのではないでしょうか。もし、私たちの心に咎とか、罪があるならどうなるでしょうか?それは対人間のことだけではありません。そういう罪が、神様との仕切りとなり、神様の御顔が隠されてしまうのです。最初はレースカーテンかもしれませんが、やがて分厚いカーテンになり、最後にはコンクリートの壁になったらどうなるでしょうか。

私たちの心が頑なにならない前に、すぐ神様の前に出る必要があります。Ⅰヨハネ1:7-9「しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」アーメン。Ⅰヨハネはクリスチャンのために書かれたものです。私たちはイエス様を信じるときには、自分が犯した個々の罪は悔い改めませんでした。「今まで、神様に背を向けていましたが、向きを変えて、あなたに従います」。これが、信じるための悔い改めです。この種の悔い改めは一生に一度あれば良いでしょう。でも、クリスチャンなってからの罪の悔い改めは、天国に行くまで続きます。私たちは罪あるこの世で毎日、生きています。ですから、いろんな汚れを受けたり、自らも罪を犯します。身の魂も次第に、汚れてくるわけです。私たちは毎日、衣服を洗濯をし、お風呂に入って体を洗います。歯もみがくし、顔を洗うでしょう。また、うがいもするでしょう。罪の悔い改めはそれらと全く同じです。体をきれいにするのは、石鹸とか水でが、私たちの心をきれいにするのは何でしょう。それは、御子イエスの血です。イエス様が十字架ですべての罪をすでに支払ってくださいました。一生分の罪の代価が前払いされているのです。私たちがこの地上で、罪を悔い改めるとき、天国の口座から代金が振り込まれるのです。そして、犯した罪が赦され、すべての悪からきよめられるのです。ハレルヤ!

神様は「私たちが自分の罪を悔い改めないと決して赦さない」というお方ではありません。よく、親が子供に「しぶとい子ね、早くごめんなさいと言いなさい」と強要します。親は子供が「ごめんなさい」を言うまで気持ちがおさまらないので意地になります。しかし、天の父はそうではありません。天の父は私たちが「ごめんなさい」を言う前からすでに赦しておられるのです。「キリストにあって、私はあなたをすでに赦しているよ。私との交わりを回復するために、その罪を言い表しなさい」とおっしゃっているのです。悔い改めよりも、罪の赦しが先行しているのです。私たちはキリストにあって、すでに赦しの中にいるのです。だから、「私はこれこれ、しかじかをしてしまいました。どうかお赦しください」と告白できるのです。問題は、神様にあるのではありません。私たちの側にあるのです。「雲上快晴」という言葉を聞いたことがあります。雨の日は、太陽が見えず、薄暗いですね。でも、ジェット機で飛ぶとどうなるでしょうか。「雲上快晴」であります。神様は私たちをいつも無条件の愛で愛しておられます。神様の愛は、私たちの状態によって、変わることがありません。私たちがちょっと、顔を上げて神様に向けるなら、光が差し込んできます。私たちは「罪を悔い改めろ」といわれなくても、罪を持っているのがいやになるのです。どうぞ、神様の無条件の愛を腹一杯、心一杯、魂一杯いただきましょう。

3.神を愛する

神様は私たちの父です。私たちは神の子供として、父なる神の愛を受けるべきです。その次に、私たちは何をすべきでしょうか?それは、神様を愛し、そして隣人を愛するということです。神様を愛し、隣人を愛することは、神様の愛への応答であります。月が太陽の光を受けて、反映しているように、私たちも神様の愛を受けて、反映することができます。しかし、月を見ると光の量が毎日のように違います。半分しか光っていないときもあれば、三日月のときもあります。新月になるとほとんど光っていません。これは、私たちが神様にどのくらい向いているかということと同じことです。主の御顔を半分しか見ないで、半分しか従わないならば、半月の明るさです。主の御顔をあまり見ない、ほとんど見ない人は、三日月か新月の明るさでしょう。でも、主の御顔をまっすぐ見て、全き心で従おうとするなら、満月の明るさであります。満月の明るさで、神様の愛を反映したいですね。

では、神を愛するという具体的な行為は何でしょうか?それは、神様と交わることです。神との交わりの中には、神様を礼拝すること、聖書を読むこと、神様に祈ることが含まれます。こういう日曜日の公の礼拝も大切ですが、日々、自分の生活の中で主と交わることも大切です。また、神様から与えられた賜物によって、奉仕することも大切です。奉仕はキリストのからだなる教会の奉仕もあるでしょうし、この世に出て人々に仕えることも奉仕です。会社の仕事や、家事を神様の御前でするようにしたらなんと幸いでしょう。そして、神様の戒めに喜んで従うこと、これも神様を愛する現われであります。ヨハネ14:21「わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現わします。」アーメン。私たちが神様の戒めを守るならば、イエス様が私たちに現れてくださるのです。テキストにはこのように書いてあります。「神様が命じられたみことばを、私たちが守り、行うならばどうなるでしょうか?もし、私たちが神様を愛するなら、神様は確かに、ご自分を私たちに現してくださるでしょう。その意味は、神様が私たちに現実となってくださるということです。主を愛している人は、主を経験することができるようになります。」「神様が私たちに現実となる」。なんと、すばらしいことでしょう。遠く、インドネシアだけではなく、この日本においても、私たちは神様を体験することができます。

 もう1つ、神を愛するという具体的な行為は何でしょうか?それは兄弟姉妹をも愛するということです。Ⅰヨハネ4:11,12「愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。いまだかつて、だれも神を見た者はありません。もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです」。ヨハネは口をすっぱくして、「互いに愛し合いなさい」と勧めています。なぜでしょう?私たちがよく使う「教会」は、建物とか組織を連想させます。でも、元来、「教会」をさす聖書の「エクレーシア」は、「神の民、神の共同体」という意味です。イエス様のもとに、3人、4人、5人集まり、互いに愛し合うなら、そこが教会になるのです。私はセルチャーチということを10年以上も、提唱しています。互いに愛し合える人数は何人くらいでしょうか。80人では無理です。おそらく、20人も無理でしょう。10人が限度ではないでしょうか?私たちが育った家庭や、学校では、「互いに愛し合う」ということを学びませんでした。みんなライバルであり、弱さを隠して生きています。私はある人たちが提唱しているように、裸になることは不可能だと思います。ありのままになり、思ったことを何でも言うというのは、主にある兄弟姉妹の交わりではありません。エペソ人への手紙4章には「新しい人を身につけるべきである」と書いてあります。新しい人とは、キリストを着るということです。裸の部分にキリストを着る時、相手を尊敬して、徳を高めるようなことばを出すことができます。また、裸の部分にキリストを着る時、自分の弱さが気にならなくなります。また、キリストを着る時、相手から何か言われてもあまり傷つかないです。裸だと、けっこう痛いんじゃないでしょうか。背中なんか、ペシッとたたかれたら痛いですね。「裸になったら、傷ついてしまった。もう、二度と、心を開かない」という人もおられるかもしれません。やはり、人格の一番深いところに、キリストを着ましょう。そうすれば、互いに愛し合うことができます。

 きょうは、「神を恐れる」「神と交わる」「神を愛する」と3つのポイントで学びました。どうぞ、上なる神様と交わりましょう。上から力をいただきましょう。そうすれば、兄弟姉妹を愛することができます。また、この世に対して、キリスト様を証することができます。「タッチングヘブン・チェンジングライフ」。手を伸ばして、神様に触れることによって、あなたの人生が変えられます。

| | トラックバック (0)

« 2008年3月 | トップページ | 2008年5月 »